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2009年5月24日 (日)

風媒花3  中山宙虫

随想

風媒花 (3)

  時代の家族

     中山 宙虫

 夫婦ふたりの暮らしが始まって何年になるのだろう。子供たちはそれぞれ僕らの元を離れて暮らしている。その暮らしぶりは親の目で見る限り頼りないもので、いらいらとさせられるものだ。もちろん、この不況の時代。どんなかたちででも仕事があるのだから、それはそれでよしとしなければならないのだろう。
 確かに時代は生きてゆくには辛い時代になってきた。社会に大きなひずみが出てきて、何を信じていいのか見えにくいのだ。貯金ゼロの所帯がかなり増えているらしい。僕の息子たちもそれに当てはまる。小さい部屋を借りて、食べてゆくだけのぎりぎりの生活なのだ。
 この国に生きて、未来を見ていくことができるのか?息子たちの未来を考えると社会での生き方は僕らの時代とは様変わりしている。今の時代のめまぐるしい変わりように僕らは振り落とされそうだ。くるくると情勢は変わる。いろんなものが生まれて消えていくサイクルが短くなっている。息子たちはこの高速回転木馬のような時代を生きてゆくのだ。
  そして、僕らは振り落とされそうな時代に疲れてゆく。何にしても情報が溢れているが、その情報の判別ができない。缶詰に表記されている原材料や賞味期限などをじっくり読むだろうか?分厚くなる一方の電化製品の取扱い説明書を隅から隅まで目を通すだろうか?どんどん表示されている文字も小さくなってゆく。そして、そこには僕らが聞いたこともないようなカタカナや英語で表記された言葉が、ますます小さな文字になってゆくのだ。
  社会は、いろいろなものの判断を個人に転嫁させてきた。そのひとつひとつを僕らは理解できているのだろうか。とてもそのようには思えない。溢れ続ける情報整理も自分で整理しなくてはならないのだ。今のままで何も問題はないものはたくさんある。携帯電話の普及で消えていく公衆電話や固定電話。地上デジタル放送も多くの国民はその存在さえ知らなかっただろう。
  そして、僕らはその新しいものを手にして、次の時代を生きていくのだ。社会は少しも止まってくれない。僕らは子供たちの未来を思い、自分自身の未来のそのもろさを感じながら生きる。
  正月に家族写真を撮る機会があった。僕の長男がひさびさに帰ってくる。しかも、結婚して。僕ら親子を中心に僕の母・叔父夫婦・叔母・弟家族・従兄弟など、皆で写真館のカメラの前に並んだのだ。それぞれ自分たちの生き方をしながら、カメラの前で自分たちの今の表情を見せる。フラッシュが光った。
  出来上がった写真を見てみる。
それまで気づずにいたが、皆同じ顔の輪郭なのに驚く。そして、肩から足の先まで似ている。同じ血でつながった家族の姿の瞬間がそこにあった。
 この家族の今の姿がどこまで維持できるのだろうか?めまぐるしく変動する社会情勢に僕ら家族はその姿をどう変えていくのだろうか?同時に、こうやっていつでも受け入れてくれる家族が支える社会もあると感じたのだ。

 超結社俳句季刊誌『九州俳句』154号より引用
  平成21年5月15日発行
  北九州市 福本弘明 事務局長
  編集委員 堀川かずこ
         夢野はる香  

▼ エッセイ 『風媒花』
バックナンバー


河野輝暉: http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-e76e.html

足立攝: http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-3f5a.html

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コメント

これ読んで一言。
何で俳句のはの字も連句のれの字もないのだ。
俳句の冊子に俳句のこと連句のことを書かないでどうする。

ほーい!
わたしも読んですぐ、「あれ?どっかで俳句に触れんでもよかったと?」と思ったよ、そらんさん(笑)。 俳句誌に俳句とまったく関連性のない文章を載せる。そこがそらんさんらしかといえば、そうではある、が。

時代の中の家族像。
変動する時代。変動というより激変する時代背景の中で、家族像も変わらねばならぬときがある。でも、同時に変えてはならぬこともある。
ただひとつ確実に言えること。
家族像はひとつではないってこと。
人間の数んしこ人格があるごと、家族の数んしこ家族像があるということ。

エッセイの最後に、そんなメッセージ性のある句が欲しかったなあ、わたし。ま、これは要らん世話ばってん。読み捨ててくだせえ。

なんとまあ、画一的な頭の持ち主なんでしょ。みんな。
基本的にフリーエッセイを依頼されただけのこと。
なんで俳句誌に俳句のこと書かねばならんのか。
かささぎのれぎおんのエッセイ、みんな連句連句と書いてるかいな?
そりゃ、外から見たら俳句の雑誌だろうけどね。
読者は九州俳句作家協会会員。
別に俳句の話に飢えてるわけではないだろうもん。
あとひとこと。
たいした文章でないのはわかる。
けれど作者は、一生懸命に段落つけて文章を書いた。
こんな掲載のされかたは哀しい。
目をとめてくれたことにはとても感謝します。

それでは、ちゃんと段落つけました。

ひめのさん、ここは先にそらんさんに謝るべきだろう。

そして、そらんさんが言うように一生懸命書いた文章が段落も無く無断引用されたら、作者は心外だと思う。

こういう世界には、暗黙のルールがある。それでもあえて>目をとめてくれたことにはとても感謝します。と、そらんさんが書いた気持ちをくみとるならば、>それでは、ちゃんと段落つけました。なんて、言葉は吐けないだろう。

少しは考えた方がいいよ。身内だけで遊んでいるならまだしも、不特定多数の読者が居る。あなただけの一方通行では、人を不愉快にさせるだけだ。

やはり、最低限のマナーだけは守ろうよ。

私も人のことをとやかく言えないろくでなしだ。れぎおん、贈ってくれてありがとう。

苦言を呈したのは、あなたが嫌いだからじゃないよ。どうでもよかったら、こんなことは書かない。少しだけ気に留めてくれ、かささぎよ。

>身内だけで遊んでいるならまだしも、不特定多数の読者が居る。

ばどさん。
ありがとう。
わたし自身が、大切なことを忘れかけていた気がします。肝に銘じて、初心に返って、心して、ウェブ上にころばを発信したいと思います。


それからそらんさん。
文章にケチをつけたわけではありませんよ。
ただ単純に俳句のことに触れなくてよかったのかな?と思っただけです。
「九州俳句」という冊子に目を通したこともないわたしが、「エッセイの最後に、そんなメッセージ性のある句が欲しかったなあ」などと、これはわたしの本当に要らぬおせっかいであったと反省しています。ごめんなさい。

当初、一直(ここで初めて知った語彙です。ひとつ直し、みたいな語感で解釈しました)に戸惑いました。
ものを書く人間にとって、自分の文章が一字でも改変されると原辰徳。
これは、いまだに連句にココロがしっくり馴染めない理由のひとつでもありますが、「座の文芸」ということで、頭では了解しています。座に出した瞬間、それは自分の所有物ではなく座の所有物に変化するのですよね。
でも、それは連句文芸でのルール。
連句の外の世界では、外のルールを守ったほうが円満でしょう。

ばどさん、せいこさん、おつしろうさん。
どうもありがとうございました。
そして、中山そらんさん。
たいへん失礼いたしました。
だけども、だけども、しかし!!
わたしはとってもがっかりしたのです。
ほんとに楽しみにしていたのですよ。こどものように。
ああ、なんでわかってくれないのかなあ・・・。


1 鶏頭の種子くろぐろと掌にこぼる
2   たった一人で守る灯台

これでいきます。これがいいです。断固。
・・・と、かささぎはやっぱり思う。
さっきの作業、しなきゃよかった。

   ↑
投稿の場所が違うよ。

みなさん。
ご心配をおかけしました。
こんどの件は、かささぎさんの連句に対する思い込みからの一件だと理解しました。
が、かささぎさんの文章には僕はますますがっかりしました。
僕の言いたいことと彼女の謝っていることは全く平行線です。
ブログ体の件は、自分なりに遠まわしの表現です。
僕のがっかりは・・・。

※ブログ体に転写した文章。
そして、その文章を掲載したにもかかわらず、その内容に触れることなく、「俳句誌に俳句・・・連句・・・」のひとこと。
それならこの文章をここに掲載する必要があったのか。
「俳句誌に俳句のことに触れていない文章を書いた宙虫」とブログに書けばすむことではないですか。
最初は、本当に感謝しました。※

あげくにがっかりと書かれた僕はなんなんでしょう。

「だけども、だけども、しかし!!
わたしはとってもがっかりしたのです。
ほんとに楽しみにしていたのですよ。こどものように。
ああ、なんでわかってくれないのかなあ・・・。」

連句の話で書かれるなら僕はなんともない。
なんの関係もないものをとりあげ、連句のことを書かないのががっかりとはなんだ!
憤りました。

せっかくみんながフォローしてくれたのですが。
いましばらくここからは姿を消したいと思います。

わかっていない。
見えていないのはあなたですよ。
かささぎさん。

僕のブログへのコメント。
なんでこんなコメントが出てくるのかわからない。
僕の気持ちとは全然違う。

あくまでも僕のいやな気分は※の部分。
あなたの連句への思いは僕にはどうでもいい。
わかっているから、付き合ってきた。
つもりです。
ここまで書かなければならないのですか?

あなたの気持ちをここで書かれても困ります。
わかっていないのはあなたですよ。


なぜだ。
中山宙虫のこんな文章はだいきらいだが、去られたら困るとおもうじぶんがいる。それは、句がときどき大好きだからだ。
なぜだ。
うじうじしておんなみたいにめめしいやつだな。とおもってきたが、きっちりと真正面から怒りのつぶてを投げていった。
なぜだ。
それでもあやまりたくないのは。

「もっとおとなになりなさい」

そんな説教はしないよ。

誰かに牙をむけたら、
同じ強さで自分も傷つくこと。
キミは誰よりも、
そのことを知っていると思うから。

ばどさんはおとなだ。
わたしもおとなであらねばならぬとばどさんが教えてくれた。
わたしはおとなでありたいと思う。
だれかを傷つけたら、
こころから詫びを言いたい。

節目節目を逃さない。
そんなおとなでありたいと思う。

soregadekireba,kurouhasinai.

Yes,i see.
Never blame you for youreself no more.

あら。スペルがちごとった。
youreself→yourself

ひめさん、最近息が速くなってるでしょう☆
そんな時は遠くの山をしばらく見つめてゆっくり深呼吸をしましょう。。
そして温ったかいお茶を飲んでみて♪
それから目をつむって青い海のゆるやかな波を想像してみて・・しばらくはそのままで(^_-)-☆

えめさん。なんでわかるんですか。動悸がときどきどきどきします。

ほしのにいってきます。行空の墓。

壊れやすい心を防衛したいから攻撃する。
攻撃型の人ほど心はナイーブです。
これ、一般論。
誰かさんに当てはまるかどうかは心が覗けないのでわかりませんが、その可能性はある。
堅くて曲がりそうにもないのに、唐突にぐにゃっと曲がってしまうスプーンみたいなものです。(例えが悪い?)

壊れやすいので取扱いには注意いたしましょう。

>わたしはおとなでありたいと思う。

こどもでもいいとは思う。

思ったことを言う。
反論が来る。
まわりも、そうだそうだと言う。
しかし引っかかるものがある。
納得できるまでは、思いに蓋をしない。

自分の場合、とことん意地をはることはせず、どこかで妥協しています。
おとなになったのかもしれません。

今回の問題は、おとな、こどもの次元の問題ではなく、かささぎさんの文芸人としての修養の問題だと思います。
不特定多数の人に自分の文章(あるいは人とのやりとり)を公開する時に、読み手はどういう気分になるかを常に意識して表現技法を工夫するのが、文芸に生きる者が身に付けるべき素養だと思います。不本意に思いに蓋をするような賢い世渡りをすることはありません。それは、かささぎさんらしくもないし、魅力も損ないます。しかし、思いを、読み手を不愉快にさせずにいかにうまく伝えるか、これが文芸人としての実力が問われるところだと思います。
かささぎさんはすぐれた表現者ですが、完璧ではありません。欠けたところは補うべく、修養を重ねてほしく思います。

わたしのきもちは、風媒花3の下のほうにつけたバックナンバーをよめばわかります。あれが精一杯のかささぎのそらんさんへの主張。ブログアップした日付も参考になるかと思います。かささぎは毎日忙しくしておりますが、その中で目にとまった、琴線にふれてくるものはできるだけ紹介したいと限られた時間を削り睡眠時間を削りして打ち込んできた。だれに頼まれたわけでもない、ただそうしたいからです。
そらんさんとはブログ仲間、連句につきあってもいただいたので、できるだけの応援をしたいといつも、今も常におもっています。それは、乙四郎やばどさんへの思いといっしょです。去年宮崎のそらんさんの俳句授賞式にも行きましたよね。
ですから、二回目の風媒花で「次回はそらんさん」と案内が出たのをみて、そらんさんが書くのであればブログ紹介しなきゃ!と思った。では第一回目から。と全ナンバーをさかのぼっていれました。
そこまでして、(これが「こどものように待っていたのに」の意味)届いたのをみれば、彼が書いていたのは世間話の域を一つもでないものだった。
かささぎが怒りをおさえることができなかったのが、わかっていただけるでしょうか。
なにも、こむずかしいことを書いたらよかったなんて、そんなことは思いません。連句の紹介をしなかったから腹がたったのだと、かささぎは、咄嗟にそらんさんのブログにいいわけじみた理由を添えてきましたが、それも、ほんとはどうでもいいことです。
本当に耐え難かったのは、彼が世間一般にむけて文章を書いているような顔をして、その実、自分の肉親にしか視線が向いていない文章を書いて、しかもそれに全く気づかないということのさびしさでありました。かささぎは文章がみている視線の先を問うているのです。

もし、この一文が関係者のこころをさかなでするのであれば、それは私の意図することとは全く外れます、その段は、衷心よりおわびいたしたいとおもいます。

おつしろうもせいこも、ほんとにありがとうね。
しかし、ここがじぶんのうまれてきた価値なのかもしれない。人にきらわれる権利。

こんな複雑な心理をわずか数行の口語体で伝えようとするところに無理があるよね。
伝わるように丁寧に書けばわかってもらえるのに。

誰も嫌おうとは思ってないと思うよ。
わざと嫌われようとしているのなら、すごい文章力。

キーワードのひとつに「不愉快」があります。
budさんのコメントに登場し、乙コメントでもその用語を踏襲しました。

>なぜだ。
>それでもあやまりたくないのは。

こういうふうに心裡を隠すことなしに吐露すること自体は不愉快な行為ではありません。
実にかささぎさんらしい。
しかし、このコメントは不愉快です。
なぜ不愉快かというと、信じている者に裏切られたような気分を惹起するから。

かささぎさんは、人一倍、言葉を紡ぐことを大事にしている方だと、かささぎの巣に集まってきている人は信じています。
ところが、このコメントで、ひょっとして問題の本質がわかってないのかな、という不安な気持ちが生まれます。
そして、すぐ後に、

>本当に耐え難かったのは、・・・にしか視線が向いていない文章を書いて、しかもそれに全く気づかないということのさびしさでありました。かささぎは文章がみている視線の先を問うているのです。

という文章論が展開されるところに不愉快さが生まれるのです。
やっぱり裏切られた、という思い。

>わかっていない。
>見えていないのはあなたですよ。
>かささぎさん。

との宙虫さんのコメントは重いです。

>本当に耐え難かったのは、・・・にしか視線が向いていない文章を書いて、しかもそれに全く気づかないということのさびしさでありました。

そっくりそのまま、同じ思いで、宙虫さんは本当に耐え難かったのではないでしょうか。

れぎおんに竹橋乙四郎の留書「無常」が掲載された時、2行ほどの文章の欠落編集があり、むかっと来たことがありました。物を書くことに多少なりともプライドがある人間にとっては耐え難いことです。
しかし、この時は、かささぎさんは、メールで、心の底からの謝罪をされました。
あの時、あの謝罪がなかったら、この人は物を書くということがわかっていない人だ、と見切りをつけて、竹橋乙四郎も去っていたかもしれません。

>かささぎは毎日忙しくしておりますが、その中で目にとまった、琴線にふれてくるものはできるだけ紹介したいと限られた時間を削り睡眠時間を削りして打ち込んできた。だれに頼まれたわけでもない、ただそうしたいからです。

本当に、よくわかっています。自分の文章を時間を割いて打ち込んでくれた時は、たとえそれが無断であったとしても、頭が下がる思いで感謝しています。

>最初は、本当に感謝しました。

宙虫さんのこのコメントには何の偽りもないはずです。
だからこそ、わかってほしいのですよ。

宙虫さんだって、budさんだって、せーこさんだって、乙四郎だって、これらのコメントを書くのに、「限られた時間を削り睡眠時間を削りして打ち込んできた。だれに頼まれたわけでもない、ただそうしたいからです。」
宙虫さんには、ここへ戻ってきてほしいと心から思っています。
そのためには、かささぎさんの具体的なアクションが必要だと思います。

乙さん。
あなたはとても誠実な、
そして平等な視線でものごとを見ることのできるおとなですね。

ありがたいなあ。

乙さんといい、ばどさんといい、そらんさんといい、わたし自身が教えてもらうことがいっぱいあって。
だから、なにごとがあろうと、このかささぎさんのお宅には来るかいがある。

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