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2009年5月 6日 (水)

六角堂

仕事で六角堂広場のもよおしの雑踏警備を請け負った去年。
そのときには六角堂っていうのは久留米市民のための広場のなまえ、くらいの認識しかなかった。広場についた名前にしては六角堂だなんてね。くらいのかんじ。

それが西日本新聞の五木寛之の連載小説『親鸞』を読んでいて、六角堂が出て来たことにおやと思う。
38歳の親鸞が(未だしゃっくう、という名前のころ。綽空)、京の吉水の六角堂に百日のあいだ籠る。そのおわり近くになって、聖徳太子の夢のお告げがある。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%B8%9E#.E5.85.AD.E8.A7.92.E5.A4.A2.E5.91.8A
わたしは親鸞のみ教えの真宗を信ずる家で育ったけれども、そういう親鸞の出自については知らないできた。

上記の資料から、気になるいくつかをこぴぺする。カラー部分は引用文です。

1 改名について。

「綽空」から「善信」に改めたのではなく、「善信房綽空」から「善信房親鸞」に改めたとする。法名は、自ら名告るものではないため、「親鸞」の法名も法然より与えられたとする。
親鸞は、晩年の著作にも「善信」と「親鸞」の両方の名を用いている。また越後において、師・法然より与えられた「善信」の法名を捨て、「親鸞」と自ら名告るのは不自然である。

2 妻帯

    妻帯の時期などについては、確証となる書籍・消息などが無く、諸説存在し推論である。

    当時は、高貴な罪人が配流される際は、身の回りの世話のために妻帯させるのが一    般的であり、近年では配流前に京都で妻帯したとする説が有力視されている。

3 法難

  このくだりで「行空」が出てきます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E5%85%83%E3%81%AE%E6%B3%95%E9%9B%A3

 目下かささぎは親鸞より「行空」が気になるので、その部分のみコピペ。

しかし『六時礼讃』に節をつけて勤める法会で人気を博していた安楽房遵西法本房行空が、非難の的にされた。法然は、行空を破門処分するもののの事態は収まらなかった。

この文章の要点、当時の最高権力者であった後鳥羽上皇が寵愛していた松虫・鈴虫というふたりの女性が、世を憂いて出家してしまう。それを知った上皇は激怒していかりの矛先を僧門籍へ持っていった、という流れの一部。てことは、おもいきり単純なかささぎ語にしてしまうと、ただの男、オスとしての後鳥羽上皇の嫉妬がふたりのきれいなお坊さんのちんこのじゆうを断ってしまった。ということになるんだろうかなあ。おおっと、放送禁止用語でした。下品でごめんなさい。何しろかささぎですから。

5 行空(ぎょうくう)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E7%A9%BAより丸ごとコピペをごめんなさい。

ところが翌年(1205年)、興福寺の僧徒らが『興福寺奏状』をもって再び専修念仏停止の訴えが起こると、行空は「一念往生義」を立てているので流罪にせよと訴えられた。そして建永元年(1206年)、遵西とともに流罪に処せられ、法然より破門された。なお、この2名の流罪では収まらず、翌年承元の法難へと発展した。

※かささぎの独り言:

このあいだ、星野村の黒木谷、こうやんどう「高野堂」からみで行空を検索したとき、上記の項目はヒットしませんでした。その後どなたかが書き足されたものと存じます。ありがとうございました。だけどだけど、どなたか、ふたたびかささぎの次の疑問に答えてはくださいませんか。

一つ。女犯の罪で行空はもうひとりの僧とらせつの刑に遭う。とあります。↓

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%88%91「宮刑」

実際の執行例としても、土御門天皇の代、1207年(承元元年)に法然の弟子である法本坊行空と安楽坊遵西が、女犯の罪で羅切の刑に処せられたとの、「皇帝紀抄(巻7)」の記録がある。

このはなしと行空の流罪と恋多き小侍従との関係はどうなるのでしょうね?
なにか小説みたいなものでもあればいいのですけど。
高野山別格本山講坊という名のお堂を行空が持ったのは○○(かささぎの旗にはアップしてない写真にあります星野の高野堂=行空上人のお墓にあった碑に書かれている、よめない、もう一度行って要確認、でもまだ日本一の玉露の茶摘が終わっていない、大事なときであるため、行くにいけない。というのはど真ん中にあるわけです、玉露園の)と小侍従の請願により。とありました。

あー。なにがいいたいのかさっぱり要をえない文になった。
ごめんなさい。親鸞で読まれていた方、ごめんさない。
途中で行空になってしまってごめんなさい。
ともかく、謎だらけで、こんぐらがっています。

親鸞が法然に許されてというか、夢のお告げに聖徳太子が現れて、妻帯をすすめられた。
ってことだけどもさ。
じゃなんで行空は女犯の罪でおちんこをちょんぎられちゃうの。
ってはなしになるんだよね。
ほぼ同時代のことでしょう。
わけがわからない。

このへんのところを、どなたか、資料もそろえてきちんと説明してくださいませんか。

かささぎは、この文章を、おととい帰省された歴史の先生という神津呂伊利さんから「久留米の六角堂広場には昔ほんとうにお堂があったんだ」って聞いてから、ほんとうの「六角堂」、聖徳太子に立ち戻り、書いた次第です。

本来の六角堂:http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%85%AD%E8%A7%92%E5%A0%82/

リンク記事:「星野村高野堂」http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-12.html(写真、この頁の上部にクリックするところがあります。このほかに五枚ほどありますのでどうぞごらんください。)

ご詠歌  頂法寺=六角堂http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%82%E6%B3%95%E5%AF%BA#.E5.BE.A1.E8.A9.A0.E6.AD.8Cより

  わが思う 
    心のうちは 
    六の角 
  ただ円かれと 
  祈るなりけり

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コメント

 六角堂については、オフ会でもお話したように六角形になったお堂があって、その周囲に放射状(やったかな?)の細い路地と、文房具屋などの店舗が並んでいたこと、あけぼの通りと同じで屋根があった~一種のアーケードのようになっていたこと、1960年頃まで街頭テレビがあったことなど覚えてるけど、何を祀ってあるお堂だったのかは、今まで関心を持っていませんでした。久留米市役所の学芸員にでも聞けばわかるやろか?地元に住んでた人に聞いたほうがわかるとやろか?私も近所といえば近所だったが。

京都の六角堂のかんじと似ている。街中にあること、せせこましいかんじであること、。ろいりさんの上記談話、(コンベンションの紹介文より詳しいかんじっすね)そんなふうに読める。
てことはだ。礼によってかささぎ語でまとめる。
六角堂ってのは、むつのかどをもつお堂。六つのかど。かどとは、すなわち、(ずっとこのところくどいほどやっている)門であり、と同時に、つみです。(はりつけ辞書、和英の4参照。廉とかくのか。英語でcharge).てこた、。どーでもいいっすね。笑

 あの後ヨメと話していて、また六角堂のイメージが蘇ってきた。お堂というより六角形の東屋みたいになっていて、でもその中央に小さなお堂が鎮座ましましていたかどうかは、実はよう覚えとらん。

まだこの時点では、○○の部分に黒木助能が入るということすら、わかっていなかったじぶんがいます。

時系列順にいちどまとめてみると、はっきりしそうですが、複雑につながっていて、むしろこわい。

このころに検索で知ったサイトを再訪すると、フィードバックされているのか、以前と違ったことがかきたされていたりします。☟「しらべさんからの手紙」

今朝よんだ資料で、おもしろかったのが、これ☟です。(下のコメント記名のライン入りかささぎをクリックするとそのサイトにつながります)
まちだそうほうさんのなまえにきおくがあった。
狂いと信仰という本の著者でしたね。
さて、水月さん。
たしかにだれが流刑でだれが首切りでだれが羅切されたのかされなかったのか、統一見解がありません。各自いっていることがバラバラ。ウィキペディアもあちこちまちがっているようです。

京都安楽寺の由緒。☟

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