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2009年5月29日 (金)

行空の碑 下部

行空の碑 下部

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コメント

後鳥羽院とも関係があった待宵小侍従は黒木助能に 別の愛人との間にできたお腹の赤ん坊ごと 下賜され 筑後の黒木は猫尾城へ連れて行かれる
すけよしは笛の妙手で 後鳥羽院に請われて京で数年仕え その褒美に 刀と小侍従をいただいたのです

黒木では春日の局 奥方 が 殿の帰りを待っていました
誰も愛人の話は春日にはしませんでした
それで春日の局は心痛の余り 川に身を投げて死んでしまいました 侍女たちも次々に後を追ってなくなりました
というのが 剣が淵伝説なんですが
この話に登場する笛の妙手の黒木助能 と恋多き待宵小侍従が 行空 を高野山の講坊に懇願した と 伝えられています

しらべ様。
この石碑にある黒木大蔵太夫っていうのが、黒木助能であるってことが最初、まったくわかりませんでした。「待宵小侍従」も、なんでこんな田舎にいきなりまつよいのこじじゅうなんてスタアが出てくるんだろう。って完全にびっくらこいてしまいました。まさか!うそでしょう。ってなかんじといいますか。それに加えて天文年号ですから、いくらなんでもひどい誤表記じゃないか。と教育委員会の石碑なのに疑いの目でみたものです。
ただ信じられたのは、あの一連の印鑑証明を差し出す行為で、高野堂にかかわる村人さんたちが礼儀正しく何度も遠い八女市内のわたしの家まで足をお運びくださったこと、その一人の原田さんが、何年か前に高野山の本覚院からお坊さまがみえて、高野堂で法要をした、とおっしゃったことでした。こんな山のなかまで高野山から偉いお坊様が行空上人の命日にみえる。それならば信じねばなるまい。と思ったのです。
詳しいことをご存知のかたがどこかにいらっしゃって、この件について、話を教えてくださるといいなあとおもいます。
それにしても、後鳥羽院と小侍従とのあいだの子が星野氏=調氏=妙見城(北斗を祀る)だったとは。

突然で申し訳ございませんが、ひとつお聞かせ下さい。
私は法本房行空について、その末期を調べている者で
ございますが、この「行空上人」と「法本房行空」は同一
人物なのでしょうか?よろしくお願いいたします。

知りたがりやさん。
それ、私が聞きたいです。笑

どうか、いろいろとお教えください。
お察しのとおり、知らないのです。
もしよろしければ、ひとつでも二つでも、おしえてくださると非常に助かります。
行空は、五木寛之の親鸞にも出てきました。わるい人でした。しかし、こちらの話ではよい人で村の人にもてもてです。どっちが本当でしょう。それとも、改心したのでしょうか。まるで雲をつかむような話しか、まだ見えてはいません。
おちんこをきられちゃった話とか。女犯の罪で。そんなエピソードしか知らないです。そんな人が、なぜ小侍従の請願により高野山に坊を結び、くろきすけよし&こじじゅうのために祈ったのか。お墓は「その行空の時代」とは時代があわない。
(そういえば、星野から高野山へ尋ねていかれた方々は、どうなったのでしょうか。その話が聞きたかったのに・・・・連絡がありませぬ。おそらくはわからないのではないかとおもいます。でも、実際に見えているのだそうですから、この行空のお墓へ高野山の支店である篠栗の南山院からお坊様が、命日には)
すみません、これから母たちを院へつれていかねばならず、失礼します。またゆっくり書きます。

かささぎは、五木寛之氏に尋ねてみたいです。親鸞をかかれるとき、ご存知でしたか?と。星野の黒木谷にこうやんどうがあり行空の墓だと村人の信仰をあつめ、今なお祭られているということを。
あの時代の人たちの懊悩が描けたら、親鸞は成功すると思うけど、それが伝わってこない。そしてその懊悩は、かささぎが思うに、いま現在とまったく同じです。

いろいろすいません。実は私の祖父は佐渡の出身で、晩年親鸞の研究というか、調べものを長くやっていたのですが、
島流しにあった他の6名の最後は何とか分かったようなのですが、この行空の最後だけはいろいろ(佐渡にいって、古いお寺などの住職に話を聞いたみたいです)調べても、とうとう分からずじまいになり、その後を私の父が続きを調べたのですが、やはり分からず、最後に息子の私が何とかしようと、仏教には何にも関心や興味もなかったのですが、ネットなら何とか分かるのでは?と思い、あちらこちらを検索するうちに、あなた様のページにたどりついたしだいです。
お忙しい所、時間を割いていただき、誠にありがとうございました。こんどは図書館や私も新潟市在中なので、佐渡に行き調べてみようと思います。何か新しい発見等ありましたら、お知らせいたしますね。では。

そうでしたか。あなた様も先祖からの因縁をきっちりと責任をもって負われたのですね。
私もそうかもしれません。いきなりでした。しかも、その因縁のはしっこには、タイミング的に従弟の死が絡んでます。もし従弟が亡くならねば、私は行空の墓などとかかわる事はありませんでした。なぜなら母の生家の直系は従弟だったからです。
しかも、従弟のなくなった日は私の弟の命日とおなじ日という念入りさ。とおい過去から呼びかけられたと感じても仕方ないはなしでした。
よく存じ上げもしない方にすべき話ではないのかもしれませんが、聞いてほしいと思いました。
いくつも偶然が重なっていまして、どっちが先だったかわからないほどです。その行空の伝説のなかに出てくる、黒木助能と小侍従の子(ほんとは後鳥羽院と小侍従との子といわれる)から続く調氏と黒木での連句でお会いしました。とても深いものを感じさせる方でした。その席に偶然みえていたのが、星野調氏系図に記載のある、調一統を輔弼する七家のうちの三人でした。姓ですぐわかりました。それを知ったときも、気味がわるいとおもいました。
なんの話をしている、とお思いでしょう。ことばで説明するのがめんどうであります。つまり、そういうことです。つながっているのです。いやになるほど。
いやおうなく、つれてこられた。という感じで、かかわってしまいました。
その延長線上に、高良山十景歌もあるし、芭蕉の幻住庵記もある。
行空は佐渡島では死んでいません。黒木谷で亡くなったのだと思います。今ある墓よりもっと黒木よりだったそうです。それを移動させたのだそうです。しかし、いずれにしろさほど遠くない地です。
どういう生涯を送ったのでしょうか。
どういう信仰生活を送り、どういう布教活動をして社会貢献をしたのか、私も知りたいです。このところ、すっかり忘れていたのですが、知りたがりやさんのおかげで、また引き戻されてしまいました。
ありがとうというべきか、なんというべきか。
因縁のちから、なにより重いですね。

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