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2009年4月23日 (木)

星野村高野堂(こうやんどう) 3

高野堂の小さな祠の下に祀ってあるものです。
手をあわせ、戒名をよんで、あれっとおもいました。
次のようによめます。

  天文十六年
高野山講坊先師行空上人
  七月六日 

以下、コメントより引用いたします。

この2年後に荒木田守武没。
接点はなかったろうか。

ちょっとまってくれ。
この、天文十六年という年号は、一体なに。
今日思いついてここを尋ねていったけど、そしてすぐここだとわかったけど、まだ舗装がおわっていなくて、お堂まで本来なら車でも行ける(すぐ横には車どめの空きスペースあり)のにふもとで車をとめてから歩いていきました。日本一の玉露にはこもおおいがかぶさっていて、幌付き玉露畑の真ん中の参道には板が敷いてあった。まだ行ってはいけません。というサインだったようです。先日尋ねてみえた原口さんも、六月が落慶式だって。

最後の案内板の説明をクリックで大きくして読んでください。
謎がいっぱいでてきたね。
天文年間はじっさいの行空上人の死亡年より300年近くあと。そんな過去のぼうさんを、なんでまた墓石に名を刻んで祀ろうとしたのだろうか。
それがまず第一の謎。
つぎに、行空上人自身のなぞ。
なにが悪くて高野山追放の身となったのだろう。
また、なにがよくてそんなに筑後ではもてたのだろう。
ともかく、文献。なにかないかな。

1206年、念仏を唱え他宗を誹謗したと、法本坊行空と安楽坊遵西が流刑されています。さらに、1207年、行空と遵西は、女犯の罪で羅切の刑に処せられています(皇帝紀抄(巻7))。
、です。酔っ払って素っ裸で騒いで公然わいせつ罪で現行犯逮捕され、尿から覚醒剤反応がないのになぜか家宅捜索されてしまうより恐ろしい刑。
行空上人が星野村へ来られた時には、はるな愛さんと同じ改造がほどこされていたというわけです。なるほどモテたかもしれない。
ところで、天文16年の謎。
山鹿に光専寺という寺があり、天文2年(1533)3月に行空が創立したとあります。
もう一人、天文年間に、行空を名乗る高僧がここら辺にいた可能性があります。

広川町にも「高野寺」という名前の寺があるようです。関連あるでしょうか。
また、らせつのけいとはなんだ。としらべたら、ありました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%88%91

 

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コメント

この2年後に荒木田守武没。
接点はなかったろうか。

ちょっとまってくれ。
この、天文十六年という年号は、一体なに。
今日思いついてここを尋ねていったけど、そしてすぐここだとわかったけど、まだ舗装がおわっていなくて、お堂まで本来なら車でも行ける(すぐ横には車どめの空きスペースあり)のにふもとで車をとめてから歩いていきました。日本一の玉露にはこもおおいがかぶさっていて、幌付き玉露畑の真ん中の参道には板が敷いてあった。まだ行ってはいけません。というサインだったようです。先日尋ねてみえた原口さんも、六月が落慶式だって。

案内板の説明をクリックで大きくして読んでください。
謎がいっぱいでてきたね。
天文年間はじっさいの行空上人の死亡年より300年近くあと。そんな過去のぼうさんを、なんでまた墓石に名を刻んで祀ろうとしたのだろうか。
それがまず第一の謎。
つぎに、行空上人自身のなぞ。
なにが悪くて高野山追放の身となったのだろう。
また、なにがよくてそんなに筑後ではもてたのだろう。
ともかく、文献。なにかないかな。

1206年、念仏を唱え他宗を誹謗したと、法本坊行空と安楽坊遵西が流刑されています。さらに、1207年、行空と遵西は、女犯の罪で羅切の刑に処せられています(皇帝紀抄(巻7))。
羅切の刑、です。酔っ払って素っ裸で騒いで公然わいせつ罪で現行犯逮捕され、尿から覚醒剤反応がないのになぜか家宅捜索されてしまうより恐ろしい刑。
行空上人が星野村へ来られた時には、はるな愛さんと同じ改造がほどこされていたというわけです。なるほどモテたかもしれない。
ところで、天文16年の謎。
山鹿に光専寺という寺があり、天文2年(1533)3月に行空が創立したとあります。
もう一人、天文年間に、行空を名乗る高僧がここら辺にいた可能性があります。

ネット上に、天正十三年(1585)の行空詠筆「詠十首和歌」というものもありました。

えー!それはえらいこっちゃ。
三百歳ということになるではないか。

これですね。
 
「高野山本覚院之由来記」に記載のある行空がこの地で命をおとしたというのは本当なのかなあと微妙な揺れをおぼえる。まだ由来記を読んでないのでなにも言えませんが。墓石自体は韻を踏んだほうの行空のもの。1200年代にこの地を踏んだ流れ者の行空がいて、有難いおしえ(源空と対立した、とありますが、どういう点での対立だったのかもまだわかりません)を広めて果てた。
三百年後、戦国の世に、再び同じ名前を冠した僧がこの地へやってきて、天文16年七月六日に没した。
その地では、日本一の玉露が採れるようになる。


の27番。

広川にあるこうや寺は、それほど長い歴史のあるものではないはず。しょうわ40年代に開寺だった記憶がある。


ところで。茶種を持ち帰り、この奥八女に根付かせたのも、どこかのお坊さんでした。黒木町のレイガン寺には八女茶発祥の地の像が祭られていた。むかしは僧侶が地域にあたえる影響が大きかったのでありましょうね。

うわびっくりした。
いまそれを整理したところです。栄西としゅうずいぜんしとをずうっと混同してました。

かささぎさま

高野堂「行空上人の墓」について、御教示いただきたく、お願い申し上げます。

(1)前に申したことがあるかと思いますが、高野堂「行空上人の墓」の正面に「天文十六年七月六日」とあるのを江頭亨氏『郷土史物語』は改修の年といわれていますが、現存の高野堂にはどこにも肝心の命日が残っていません。命日こそ大事であるのに、改修の年を正面に刻むということがありえるでしょうか。私にはどうしても不自然に思えてなりません。どのように思われるでしょうか。

(2)国武久義先生に御教示を得たのですが、江頭亨『郷土史物語』のタネ本は今村和方氏『純忠星野氏』(星野氏史実顕彰会、一九三四年)であるということです。そのその102頁に次の文章があります。これが江頭氏の説が頭にあって読解できません。お教えいただけませんでしょうか。
「天文十六年七月六日
現在の石塔の前に天文十六年七月六日と彫刻あるも現在のものと立直せし以前のものにありし年号ならん」
この文章が天文十六年七月六日を改修の年と読めるのでしょうか。
これは改修以前にあった天文十六年七月六日をそのまま刻んだというこでないしょうか。つまり高野堂の行空は天文十六年七月六日に没したと思うのですが、どう思われますか。

(3)このブログ内に天文二年(1533)に行空が山鹿の光専寺を創建したとありますが、その山鹿とはどこですか。

(4)同じく天正十三年(1585)の行空の詠歌「詠十首和歌」というのは何ですか。どこにあるのでしょうか。

以上、4点よろしく御教示願います。

水月さん
私はここのコメント、記憶にないです

あわてて、いまごろ調べてみました。
まことにガサツ、すみませんでした。

山鹿の光専寺

「天正6年(1578)に建立されて以来、数々の山鹿の歴史を見守ってきた寺。江戸中期から伝わる7000冊のお経本が収められた蔵のほかに、近松門左衛門作の『夕霧阿波鳴門』に登場する夕霧伊佐のモデルとなった宗方屋利平と夕霧の墓がある。」

ぎょぎょぎょ!
なぜ、こんな宝に満ちたお寺が、なんのホームページも立ち上げず、埋れているのだろう。知りたい。行空のぎょの字もありませんが。。。

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