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2009年4月14日 (火)

ちっご弁ってな古語だったとやね談義

おはようございます。今日もいいお天気で^^
最近、自分や相手が方言を使うと「おっ!八女弁heart」って、、なんか意識が出始めました。
先日も下着ベロ~ンの孫に「づ(ず?)んだれとるよ~」と。

sun↑「づんだれとるよ」やなくて「すただれとるよ」やったですsweat01
方言ち上妻、福島、忠見とか同じ八女弁でもちょっとちがう時があっでしょうが~japanesetea

今日のお昼NHK「ふるさと一番」は福岡県立花町からでした。
筍の取れる山で、おばさんが筍の料理を作ってレポーターに食べさせる番組。
ちっご弁出まくりでものすごくおかしかったです。

○てろん、○てろん、○てろん
○の中の言葉は聴き忘れたけどたしか、みそてろん、砂糖てろん、お酒てろん、いるっとですたい・・みたいな感じやった。

炊きよる間は、よーらしとくとですもんね。

山んなかでガスコンロば使いよるけん、風ん吹いて
おうじょしよるとですたい。

煮あがった筍に山椒の芽をたたいて、ふりちらかすとよかです。

最後は筍と一緒に煮た馬肉の塊を「ガブっと食べんね」げな。

料理を大雑把に盛り付けた大皿が派手な有田焼で
すごく様になっていて、どんな料亭やろかと言うぐらいすばらしかった。

tv私も見ました~。
あの方は地元番組に時々でんしゃるとよ。
いつもあげなふうで手も口もパッパと!よういごきんさっとよ~♪

今日はいっちょんすかん奴の事を急に思い出してね。。
で、この八女弁が出た「ふるふるすかん」^^scissors

 今日JR中央線に乗っていたら、車内の暇つぶし用液晶画面に「あとぜき」という熊本弁のことがでてました。最初はなんじゃらほいとボヤッと見てたら、戸を開けた後「せく」=閉めることだとか。そういや私の祖父母か父母が閉めることを「せく」と言ってたような気がして、でもヨメは聞いたような気もするが使ったことはないというし、はてさて、八女の皆さん方はいかがでしょうか?

 おっと、「ふるふるすかん」、うちの親戚で、八女の人じゃないと思うけど、たまに言ってました。「ずんだれとる」、これは久留米の私らの世代も使いよった、今の若いもんはどげんじゃろか?

さくらさんえめさん。
わたしもみました~おかしくて腹かかえてわらってみました。あの人の名前を父母が知ってた。セイコさんていうんだって。いろんなこちらの番組で「ようら」勢いのある料理展開ばせらっしゃる人、ド迫力。ついひきこまれて見てましたが、周りの人たちがみーんなかすんでしまうのね。笑。ほんなこて、すごかおばしゃん。尊敬畏敬なんでんささげちゃる。
ちなみに、たけのこの皮のはぎ方、うちの母もああする(包丁で深い切れ目を入れて、一気にバリバリと)。味噌でたけのこを炊いてたのは、一度もやったことがないので、こんどやってみようと思いました。

ろいりさん。引越しは落ち着きましたか。なんどやっても、本は重たいですね。
ところで。
あとぜきってなん。あとから閉めるってことかいな。
それはしらんばってん、せくはせくじゃろ。
共通語でっしょうもん。
堰とも通じる、せく。
開閉とかいて、あけたて。とよみますが、それとちょっと似てない。

 またまた3連発、久留米でも、「ケチだ」、現代風に言うと「セコい」ことを、「こすか」ち言いよりました。「ずるい」というニュアンスもあったかな?「にやがりもん」「にやがる」もよく使ったけど(そして私はまさに「にやがりもん」やった)、語源が「二上る者」=音楽用語とは初めて聞いた、なるへそ!と納得。「ずんだれとる」はモノがベロ~ンとしてる時にも使うし、気分がだれてる時にも使う、丸山消挙(円山応挙みたいな名前)氏の言うように、だらしない意味でも使う…「こすか」「にやがる」「ずんだれとる」、いずれも共通語にすると数種類の意味を一語であらわす便利な言葉、「せからしか(しぇからしか)」もそうですね。
 とパソコン打ってる途中でかささぎさんのコメントが出てきた、「せく」は方言ですばい。あと、九州人がよく共通語と勘違いするのが「せからしい」、西日本人が勘違いするのが「なおす」。東京に来たばかりの頃「片づける」「しまう」と言うつもりで「それ、なおして」と言ったら、「え、どこが壊れてるの?」と聞かれてしまった。

ふるっとすかんとも言おが?
よっぽどすかんごたるね。
ふるっとすかん人が私にも約1名いる。

「さむかけん、戸ばせーとかんね」て言われたね。

呂伊利さん、今中央線で通勤しよんなさると?
私も良く乗るのは中央線、総武線ですよ。
櫛原のあたりの昔の風景と言われてましたが、櫛原は暗い夜道と小さな駅舎ぐらいしか記憶になく、
3号線とバイパスの交差点に外食やさんがたくさんある今の風景はじぇんじぇんわかりません。
櫛原の西鉄寄り東町の、西鉄線路脇に通い詰めたダンスホールがありまして、そのあたりはほんとに暗くて細い路地だらけでした。

塞き止める、というとき「堰く、塞く」はまだきちんと動詞として作用してます。
くしけずる「かみげをもちっとけずっていかんね」と母がわたしによくいいます。削り節じゃないんだから。とおもいます。

ところで、なぜ序文の「」がきになるのでしょうか。
それは文章の主語があいまいだからです。
英語らしくない。とおもいました。(原文はしりませんが)
自分に不都合な場合、だんだんと曖昧になってゆくのかもしれない。

序 文 なにかがひどく間違ってしまった 富田虎男訳

sunおはようございます
3号線の櫛原付近はほんとに変貌しましたね。
両脇にびっしり家や商店が並んでいたのは遠い昔になりました。
さくらさんが通われたダンスホールはダイアナでしょうか?
久留米には骨董通りもありましたね。今でも数軒あるのかな?
子供の頃西鉄前付近は人がうじゃうじゃしてました。
一番街も人をよけながら歩いたものです。
今は夢タウン付近に集客してますね。
昔から言われる「都市や町は東へ発展していく」というのはほんとうですね☆お日様の出てくる方向にむかってsun^^
☆彡番外・・・東へ・・・やっぱ昔、、こっちにあった古代の都もあっちに行ってしもうたんやろか~。。

 私が乗るのはオレンジ色の快速線、さくらさんがよく乗るというのは「黄色い電車」のほうですか?今日も電車内の液晶画面を見ていたら、「せく」は奈良時代の古語「ふせぐ」が語源と出てきましたが。とにかく方言の語源は古語が多いというのにはあらためて納得。「せく」にはもう1つ、「腹が(胃が)せく」とかいう「痛い」という意味、これは八女でも使いござっでしょうか?
 も1つの方言勘違い、京都にいる時「髪をつむ」と言って、「それどういう意味やねん?」と笑われた。あ、もう1つ、「(運動した翌日に肩や足などが)こわる」も~これはいまだに共通語で何と言っていいかわからん。肩こりなどの「こる」とはちょっと違うし、「こわばる」でもなさそうだし。
 ダンスホールはもう1件あって、それは70年代風に言えばディスコみたいなところ、1回だけ行ったことがあるけど、名前ば思いだしきらん。

 昨日の訂正、電車の液晶画面に出てきた答は、「せく」は奈良時代の古語で、「ふせぐ」という意味だった、というような表現でした。

かなしみに胸ふたぎ
色かへて涙ぐむ
過ぎし日のおもひでや。
げにわれはここかしこ
・・・ヴェルレエヌ落ち葉。
かさぶた。も、そうですね。八女弁で「つ」。
「渦とつみ」という題で一文を書いたことがあった。

 「つ」は久留米でも昔から使いよりました。「こわる」の共通語、強いて言えば「筋肉痛になる」か、膏薬類の効能にはよく、「肩こり…筋肉痛に…」と書いてあるから、やはり「肩こり」と「肩の筋肉痛」は違うのだろう、私は肩こりしたことがないのでわからんけど。
 それにしても「あとぜき」というたった4つのひらがなで、「開けたら必ず閉めましょう」という標語を表すとは、熊本弁もあなどれない。

nightこんばんわ
せく>>これ以外使こぅ~たことはなかです。
からう>>これもこの言葉しか浮かばんですね。
春からの新1年生の登校姿はかわいか~^^heart
大きなランドセルばからっとらっしゃるですね~heartかわいか~^^
みんなケガや病気のなかごつ元気で登校せやんよ~cherryblossomchickchickchick

4月、人事異動のシーズンでもあります。
NHK福岡ローカルで、この人うまいなぁ、とひそかに気になっていた守本奈実アナウンサーが、なんと、NHK「おはよう日本」のキャスターに抜擢されていました。突如、全国の朝の顔です。
おめでとう、と素直に喜べない気分。秘蔵物が予告もなしに大衆に晒されたような思い。
予告はあったようです。
   ↓

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コメント

エメさん、え!ダイアナしっとる?
確かダイアナだった。
山田先生と言う小柄で無口な人が経営しよんなさった。講師は全て久留米高専のアルバイト学生でした。ここは私の青春そのものです。

今むつかしか本ば読みよるとです。
神武天皇の本、宮崎で誕生したアマテラスの子孫、
その一族の人たちが「東国に美しい国があり稲作に適した土地で大和周辺地域を含めた交易の中心らしい・・・」との情報を元に船で宮崎を旅立ち大和へ行く話しです。
かささぎさんの話にもたびたび登場する宇佐や北九州などはその要所地点だったのね。
都市は東へ発展していく・・・
ちょうどそこんとこ読んでいたのです。
人の名前が難しくて難しくて、オシホミミ・ニニギ・ホノスソリ・ヒコホホデミ・ホノアカリ・ヒコナギサタケウガヤフキアエス・ニギハヤヒ・・・・
布団の中なら1ページでバタンキュー。
明るい喫茶店でも3ページしか進みません。

ごはんの用意、してきた。
早いやろ。とまとがずいぶん今おいしくなりましたね。湯むきして皮をとったとまとをスライスしてたくさんピラミッドのようにつみ、その上に新たまねぎみじんぎりの生、さらしたものをふりかけて、レタスでかこみ、ドレッシングでいただきます。おいしい。なみだでるよ。たまねぎがからくて。じゃない、ちがうちがう、とまとがおいしくて。大きなよくうれたあたらしいとまと。シンプル伊豆おいしい。もっともこんなのは料理とはいわない。つけあわせのサラダ。
さくらさん、その本、かささぎの旗でもゲットしております。まだ読む時間がありません。
ろいりさんご紹介のかたい本も読みたい、一冊は豆腐屋の四季で有名な大分の小説家のドキュメンタリー、もう一冊はアメリカの歴史教育についての自省本。とくに後者はよみたいという気にさせられるのですが、高いので、久留米図書館あたりで探してみる。


さくらさん。
実はわたしも「ダイアナ」は知ってますし、踊りに行ったこともありますよ。いまの連れ合いと・・・・ではなく、職場の同僚達と踊り行きましたねえ。笑
あれって場所はどこでしたっけ?
たしか階段を上っていった記憶があります。
花のように美しかった(とは誰も言ってないが)30半ばのころ、ずいぶん文化街の飲み屋さんにも行きましたので、それと記憶がごっちゃになってるかも知れませんが。

こんばんわnight
さくらさん、せいこさん、ダイアナはきっと同じ場所かと思います。
私の頃はGOGO全盛期(ディスコ時代はその2,3年後からです)でしたので、お昼の日曜日とかに友人達と踊りに行ってました(高校生のころ)
その時代は今でいうライブハウスのような場所で、生バンドのお店でした。
当時はコピー全盛時代でしたので、CCRの「スージーQ」や、ツェッペリンの「胸いっぱいの愛を」などをほんとにそのままそっくりにコピーしてたうまいプロ(たぶん)のバンドがいらっしゃいました。たしか「バッカス」じゃなかったでしょうか☆彡
ツェッペリンやフーやドアーズとかに熱心でした^^思い出すとつい熱く語っちゃいます(^_^;)

 「ダイアナ」かどうかわからんばってん、小中高と一緒だった私の腐れ縁的友人が、1971年頃に久留米のダンスホールでリード・ギター弾いてました。ドラムスも同じ高校の同窓生で、そのバンドは久留米在住のS学院大学生がメンバーだったようです。GoGoとディスコの端境期です。エメさんが行ってたのはいつ頃でしょう?でも曲名聞いたらたぶん同じ頃だと思うけど。

私が通ったのは、西鉄電車の線路脇で久留米駅と櫛原駅の中間ぐらいのとこ。
タンゴ・ルンバ・スロー・チャチャいわゆる社交ダンスで、レコードかけて踊っていました。
入り口は小さく細い階段を上っていって中は真っ暗で板張りのホールでした。
昭和40年ごろの話、名前ダイアナやったかどうか怪しくなってきた。
そのころはバンドが入ってるなんてぜんぜん。
その後ゴーゴーダンスになったとやろか?

上のコメントさくらです。

さくらさん。だんすなさってたのですか。
前田師。さくらさん。わたしたち。
それぞれ10くらいの差があります。
そのじだいの差をじっくりかんさつしてみたい。
あんがい、かわっていない。なーんも。

大学1~2年生の頃だから1970年代前半ですね、あの頃、ダンパ(ダンスパーティー)が大流行りでした。軽音楽部の部費を稼ぐのに、ダンパ演奏に駆り出されていました。自分では踊らない。

皆さん踊ってたんですね。

乙様は海外での生活も経験済みのようですが、ダンス踊れなくても良かったんですか?よくダンスパーティが行われているような気がしますけど。

海外では上流階級の社交場みたいなところとは縁がなかったので・・・
ウィーンの大舞踏会の会場へは、招待されて「行きました」。
途上国では、もっぱらゴーゴーダンスが流行ってて、おつきあいで何度か。これは楽。ツィストやってれば形になります。

cloverおはようございます。
昨夜は眠くてしゃべりばに参加できませんでしたら、みなさんかなり賑やかに盛り上がってましたね^^☆
呂伊利さん、お友達はギター少年でしたか!
あの頃のロック曲のリードやベースは、また独特の個性がありましたねshinenoteshineなんかツヤがありました♪ (・・そういえばかっこつけてた子には「あん人、ツヤ~」・・とか^^)
69年70年GOGOは全盛時代でしたので放課後は教室の後ろで数人と振りの練習とかしてました。
ダイアナ>>たまにですけど女の子数人で日曜日に出かけてました(70年、71年)
西鉄駅前の歩道橋を渡って少し前進して左へ折れました。場所は忘れましたが路地のビルの2階です。1階の階段横に窓口があって入場料を払ってチケットを買い2階の入り口で再び渡しました。
場の天井にはミラーボールが下がっていてラスト近くとチークタイムにはキラキラまわりました。
チーク>>おくてな私達は壁によけて眺めていました(^_^;)
そんなのより「GOGOを踊りたい」一心でしたnotes
もちろんチークの曲は名曲「メリージェーン」でしたよ☆
バンドはほんとにすごくうまいのでプロかと思っていましたが、言われてみるとS学院って当時誰かが言ってたことを思い出しました☆彡
呂伊利さんとは同学年かもですねschool

ダンスホール。高校生のころ久留米にあったんだ。うわ~なしてなーんもしらんとじゃろうか。
深夜放送はきいたけど、そういうとこに出入りしたことはなかった。だからまったく知らない。視野狭窄のぼおっとした高校生で、じぶんの世界にどっぷりはいりこんでいたのだとおもいます。
ともだちの恋の告白の現場にくっついていったこととかが懐かしい思い出です。なかでも、先生をすきになった友達をけしかけてある日の午後、相談室にその若い先生を呼び出して、なかよし三人組でどうしたらいいですかとばかりにせまったこと。先生はこまってしまわれて、もじもじして例え話で逃げられた。小さな牛は大きな牛にあこがれるものだ。みたいなはなしをしどろもどろでなさいました。なんのことかさっぱりわからんかった。でもあとで考えると、あれはじぶんへのお説教でもあったんだろうね。
またある友達が体操部の先輩を好きになって、なんとかしたいというので、そのときはまだ新聞部に入っていたので、では今年の抱負を聞きにゆこよっとおしかけた。ことしのホープはなんですか。と言ったら、それをいうなら今年のほうふだろ。と訂正されたっけなあ。(とおい目)ミータン、なんであんたは早くしんじゃったんだよ。
去年、らんちゃんと広告とりにあちこち廻った、そのとき、商店街のさる若旦那が必殺遊び人で有名らしいってんで、これまた高校生ののりで二人してわざわざどんな男かみにいった。(たしかにそんなかんじにみえた。)野次馬根性は、たのしいし元気がでますねえ。
なつかしき高校時代。幼稚な娘だったんだなあ。

 「Mary Jane On My Mind …」これも私のカラオケ・レパートリーの1曲(笑)。多くの40代後半~50代の人にとってはチーク・タイムの曲として印象深いらしいが、映画マニアの私にとっては、1971年に作られた「あらかじめ失われた恋人たちよ」(監督は何と田原総一郎と清水邦夫、そして写真家の加納典明やカルメン・マキや石橋蓮司・緑魔子カップルや無名時代の桃井かおりが出演しているというATG映画)の主題歌という印象が残ってます。そしてつのだひろは知る人ぞ知るジャックスの2代目メンバー、その頃に若松孝二の左翼過激派路線ピンク映画にも出演しているのを、池袋文芸坐のオールナイトで10数年前に見た。ちなみに漫画家つのだじろうの弟というからまたビックリ。

night中高生にとって深夜放送はなくてはならないものでしたね☆彡
毎晩毎晩聞きました。 オールナイトニッポンを明け方まで。
しばらくは大学ノートに実況書きまでしてました。
DJが話した内容とかかった曲とか。。
数年前まで持ってたんですよそのノート・・・なかなか捨てられなくて(^_^;)青春のいっぱいつまったノート♪
そういえば「大学ノートの裏表紙にさなえちゃんを書いたの~♪」の古井戸のファンでLP持ってました^^そのあとは仲井戸さんから清志郎さんへ繋がって、、大好きなRCサクセションへ☆・・・語りだしたら止まらなくなりそうなのでこれくらいで(^^ゞ

 オールナイトニッポンの実況書き、もうなかとでしょうか?私はオープンリール・テープに録音したのがどこかにまだ残っているはずだけど、整理整頓しとらんので、どこにあるやら。そういえば曲名をメモしたノートの切れ端もどっかに残っとらんやろか。私は今仁の哲ちゃんが一番好きで、でもGogogo,gos onの、今は亡き糸居五郎、「奥様お嬢様、泣いて喜ぶ」高崎一郎、あまいくにお?カメ&アンコー、全部聴いてました。リクエスト出して名前呼ばれると嬉しかったし。亀渕昭信の懐メロ・コーナーが好きになって古い歌をたくさん覚えたり、懐マンコーナーは親に頼んでまで録音し、おかげで大学時代には、懐マン・懐TVソングでわからないことがあったらあいつに訊けと、他の大学生にまで言われてました。
 RCサクセションと言えば「僕の好きな先生」、このモデルになった人、知ってます。あの歌のイメージとちょっと違ったけど、まだお元気で絵を描いていらっしゃるようです。三浦友和の先生でもあったらしいですね。

こんばんわnight
実況書きは4年前まではあったのです。 台所の引き出しに、、。
リフォームしたときどこかへ・・? 汚かったから誰かに捨てられたかもです、、。
どの曜日も聞いていましたが、私も哲ちゃんが1番好きでした。
清志郎氏>>10年ほど前に福岡でのライブに行きました。
早く元気に回復して欲しいです。 映画の演技もいい味ですね。
RC>>名曲がたくさんあります。
そうですか~☆ 歌に出てくる先生はお元気なのですね。
はい。清志郎氏と友和氏は同級生なんですよね^^♪

>場所は忘れましたが路地のビルの2階です。1階
>の階段横に窓口があって入場料を払ってチケットを>買い2階の入り口で再び渡しました。

エメさん、これまさに私のイメージそのままなんですが。
小さな窓口には切符売りのおじいさんがいました。
私が行かなくなったのが昭和42年ごろなんでその後無くなったのかと思ってました。
同じ頃社交ダンス講師たちはごっそり居なくなったはずなので趣向を変えられたのかも知れません。
チークダンスはなかったもん。
東町のほうへ歩いていったあたりです。

きゃー、あの場所の話の出来る人かろうじて見つかったぞ!

さくらさん。よかったですね。
エメさんの記憶がしっかりしているのは、記録が近年まで残っていたからなのですね。
わたしもまだあれば読み返したいノートが数冊あります。でも、ないから楽なのかもしれませんが。
一つは中学生のとき友達とやっていた交換のーと。
異性とではもちろんなく、おぎんちゃんとよんでいた同級生とばかばなしを交換しあっていた。すっかり忘れていた所、三、四年前中学校の同窓会でおぎんちゃんにあってその話がでて、ああと思い出しました。ほんとにたのしかった。しょうもないことをかいてた・・・。
つぎはその延長で高1の二学期くらいまで続いた同級生との交換のーと。これ、くにこちゃん。書く内容もだんだん異性のことへと変化してくる。そしてやっとひとりだちして(笑)日記をつけるようになり、大学のーとに書いていた。短大時代も、就職してからも。結婚してこどもが生れてからは離れていた。でも家計簿をくわしくつけていたので、それが代理をしてくれた。
ふたたび書くことに執着しだしたのは、二人目の子が手を離れだしてから。はがきエッセイみたいなものを大量に書いて出していた。投書のかたち。
せいこさんもそうしていたらしいので、似てるのですが、これは今にして分析しますと、こもっていることを打破したかった。書くことが息をすることでした。
いまもずっとそれが続いていて、ときにおもう、これは病気ではないだろうか?と。
どっちが先だろう、と。

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