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2009年2月25日 (水)

高岡修句集『透死図法』評  星永文夫

高岡修句集『透死図法』三十句

    星永文夫・抄出

しののめの鳥類図鑑にある羽音
きらきらと助詞を殺しているひとり
水の炎(ほ)となる白鳥の発火点
花舗のくらがり亡命の白鳥を犯し
春暁を横抱きにして殺意くる
死界までその尾を垂らす山ざくら
春水に顔ぬすまれて失踪す
蝶を噛みいのちのにがさ満たす午後
永劫の綳帯で巻く蜃気楼
昏睡のたまご一個を揺り起こす
野遊びの夕べの空の挽肉機
暮れ果てて痴情あらわな野のすみれ
春夕べ水立ちくらむ瓶のなか
アネモネが血を売りにくるこの夕べ
行く春の頭蓋の窪の水たまり
煉獄がさくらすみれに逢いにゆく
この遊星のにおいすみれをどうしよう
死せば空に泥の虹吐くかたつむり
生たまご飲み野牡丹になりすます
〈死は思想〉蟻灼熱の地を噛めり
永遠のおとろえが見え罌栗揺れる
蝉の木を地の記憶より抜いている
海に来て死は昼顔を欲情し
かげろうは骨となるまで立ちあそぶ
こうこうと夢接木せる爆死の木
火口湖が飼う秋雲の溺死体
自死情死秋の湖心へ透きとおる
死者たちの指紋荒らぶる秋のノブ
死者たちの饒舌に輝(て)る夜の葡萄
姦淫は月光に舌入れてより

  高岡修句集『透死図法』

〈奢る死〉への刺戟に充ちて

      星永 文夫

高岡修は俳壇の中でももっとも異彩を放つ作家であり、詩壇の中でも確固たる位置をもつ詩人である。その両者の詩域に墻はなく、詩想の細胞が分裂し、拡大したり連続したりするとき、〈詩〉が生まれ、分裂せず、核自体が異光を放つとき〈俳句〉となる。この句集と、昨年九月刊行の『高岡修詩集』(現代詩文庫)とを合わせて読むと、そのことが明確になる。
それでも彼が〈俳句〉にかかわるのは、自らいう。少し長いが引用する。

俳句を俳句作品として異化させている機能としてゆいいつ解答可能なのが、切字を含む〈切れ〉の構造なのである。それを私は俳句のみならず詩の根源的な構造であるとしたいのである。もっとも、現代の詩作品において〈切れ〉の構造は複雑である。(中略)作品がまぎれもなく詩であるとき、その作品はどこかで(あるいは作品全体で)散文脈からの切れ方が、つまりは作品の詩的個性なのである。
そうであってみれば俳句の〈切れ〉の構造を検証することこそが、根源的な詩学を検証することにおいても、もっとも重要な事項となる。

 (「死の詩論」ー『高岡修詩集』所収)

そうだからである。『透死図法』を読み取る角度が、ここに一つ示唆されている。

       ■

『透死図法』はさまざまな〈死〉の透視図を展開する。
といっても、その〈死〉は〈生〉と隔絶された〈死〉ではない。
〈生〉の中に胚胎し、孵化し、果ては〈生〉を呑みこんでしまう、その予感にふるえる〈象かたち〉である〈死〉の諸相である。

海に来て死は昼顔を欲情し
かげろうは骨となるまで立ちあそぶ

これらが醸す〈死〉のエロス。〈死〉を荘厳で処理する日常を断ち切って、なまめく肢体(死体)を塑像する。ここに彼のいう切れが効果的に生かされている。

死界までその尾を垂らす山ざくら
永劫の綳帯で巻く蜃気楼

俳句的情緒たっぷりに浸る「山ざくら」や「蜃気楼」を、ずるずると死界へ引き込んで、そのまま美意識を剥奪した〈死〉の冷えた爛熟。

火口湖が飼う秋雲の溺死体
自死情死秋の湖心へ透きとおる

さまざまな〈死〉の形態を鏡のごとき湖に写し、検死官のように屍を撫でる。
〈美〉に昇華させるまで。かくてま一枚の透死図ができる。
などなど、奢る死、熟れる死、透ける死、はたまた狂う死、沈む死、迷う死、黙る死など、透死図法は多様多彩。
内なる未生の〈死〉を言語で紡ぐ、その手法は儀式めく納棺師のそれに似て美しく、静謐である。切れの妙致。
その点で、今年度もっとも異光を放つ、刺激的な句集であった。

『九州俳句』153号より引用

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コメント

今日、「おくりびと」をみてきたばかり。映画の中の「死」は美しかったけど、高岡修の「死」は目をそらしたくなる言葉に飾られている。
同じ「死」なのに。どちらも受け止めなければいけないのでしょうね。

高岡さんの俳句 本当はあまり好きじやない だが この解説は良く書けているなと思うし批評家の人選が的確だった
山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む
この和歌の継いだ後鳥羽院の山鳥の歌
そこへだーっと収斂してゆく うたの伝統を 確かにこの詩人も受け継いでいるのがみえる

アネモネが血を売りにくるこの夕べ

アネモネは「キリストの赤い血の滴」。その由来は、十字軍の戦死者の埋葬地に聖地の土を撒いた翌春、その墓地が赤いアネモネで覆われたことから。アネモネは聖地パレスチナの自生花で、巡礼者が広げたらしい。
血を売りにくる、とは何ぞや。ユダヤ教/キリスト教の価値観の押し付けで流血を招いている昨今の中東情勢がイメージとして重なる。

乙四郎
深い読みをしてくれて有難う
アネモネとくれば 我々はすぐ せっつ幸彦の 姉にアネモネ を思う癖がついてる
攝津幸彦もすごく魅力的な俳句書いた人でしたが 高岡修はまたそれとは異なる
俳句の書き方は好きじやなくても 懸けてるものの大きさは判るから なんとか解りたいなあといつも思ってた
白鳥のとか自死情死はとてもきれいな句だった

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