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2009年2月28日 (土)

波郷の門、秀野の門、かささぎの門、希望の門。

きぼうさん
ひとつお尋ねしてもよろしいですか
石田波郷の
綿蟲やここは屍の出でゆく門
この最後の門は、やはりモンとよむのでありましょうか
ずっとトとよんできたため、モンのルビにとまどっています
お考えをいつか日記にでも書いていただけませんか
   
      そこつもののひめの
ひめの さま

こんにちは。
メールありがとうございます。


波郷の句のなかでも、有名なもののひとつだと思いますが、

 綿虫やそこは屍の出でゆく門

をわたしは、「モン」と読んでおりました。字余りのモンを句尻におくのがこの場合、落ちつきがよいように長年(そう
意識せずに)思っておりました。
ひめのさんに問われて、あらためて自省してみますと、わたしは病床の波郷が落葉して寒々とした雑木林をすかして、療養所の門を見ている、という具体的なイメージを強固につくっておりまして、その中で「屍の出でゆく門」が詠まれていると思っております。
おそらくその背景には、わたしが少年時代から自転車で石神井・田無・清瀬あたりの雑木林や麦畑の間を走り回って、具体的によく知っているという個人的な事情があると思います(今はすっかり都市近郊宅地に変貌しましたが)。
わたしの解する波郷に即して言えば、「屍の出でゆく門」の響きの奥には、“地獄門”とか“肉体の門”(田村泰次郎は近すぎるかな)などの、人間苦や世界苦の象徴としての「門」があるように感じられます。

この後は蛇足の憶測です。
ひめのさんの、


 綿蟲やここは屍の出でゆく門

は、もし、単純なタイプミスではなかったとして、「ここは」とご記憶されておられたのだとすれば、わたしのイメージする「門」とは、作者にとって距離感がまるで違っているように思います。より強い切迫感をおぼえます。「ト」はそういうことと関連があるかな、と考えたりしている次第です。

大江希望
大江希望さま
拝復。
丁寧な返信をいただきまして、ありがとうございました。
そこは!そこはでしたね。はあ~・・・脱力してしまいました。
なんとまあせっかちに生きていることでしょう。
確認してみました。たしかにそうです。
みごとなフォローまでしていただいて、赤面のほかありません。
もん。肉体の門、は読んでいません。こんど気に掛けてみてみます。
石橋秀野の秀句ではない句に、
菖蒲湯へ罹りし留守のかどの錠  昭和十六年
というのがあります。この句の「かど」は、門だとおもうのですが、
カドといういいかたをきっちりとひらかなでしてみせる秀野に、
なにか強いこだわりをもっていたのだろうかと思ってしまう。
希望さん、このかど、どう思われますか。
また暇なときにお返事くださいませんか。
ありがとうございました。
冬日宙少女鼓隊に母となる日
ふゆひそら・ふゆひちゅう。ふゆひそら。とおもっていた。みづえさんは、ちゅうでしたね。
それと、
寒椿つひに一日の懐手
これはヒトヒとおもっていた。イチニチでしたね、みづえさんは。
あと、
日盛のシャワー痩躯を荘厳す
ソウゴンとよみたかった。ショウゴンでしたね、みづえさんは。笑
捕蟲網踏みぬ夜更けの子の部屋に
ホチュウアミと読みたいがホチュウモウと読んだみづえさん。
ただ、これは意見が一致しました。
創痛や春の山鳩応えつつ
こたえじゃなく、いらへつつ。いらえる。大和言葉ではございませんでしょうか。
でも、やわらかい。秀野もいらえるということばをつかっていた。
       姫野恭子
ひめの さま

わたしは、石橋秀野の名は知っているのですが、稀に歳時記などで目にしたことがあるという程度で、まとめて読んだことはありません。山本健吉の奥さんだった人、ということは知ってましたが。
彼女は奈良生まれなんですね。出雲にいたことがあることは知っていましたので、「かど」について、山陰方言と関係ないかな、とまず思ったのですが、それはわたしのハヤトチリでした(ひめのさんが昭和16年と付けておいて下さった)。


  菖蒲湯へ罷りし留守のかどの錠
の「かど」についての感想を ひめのさんから尋ねられて、わたしは子供のころ鳥取県日野郡で育ちましたので、その山村でいう「かど」をすぐ思いました。農家の作業場にもなる「庭」のことです。その山村では「門」のある家といえば白壁の門長屋のある村長さんの家などで、わたしの育った家もそうでしたが「門」というべきものはありませんでした。村長さんところでも、「門を閉じる」というべき「門」はなかったです。
でも、村の道とそれぞれの家の「かど」との境界は明瞭で、わたしの家の場合は、3,4段の石段でした。村を流れる小川を跨ぐ小さな土の橋が境界となる家もありました。もっと漠然と、石がいくつか地面にはめ込んであるだけという家もありました。
「かどの錠」ですから、この「かど」は門を閉ざすなんらかの装置(簡単な木片を落とし込むようなものであっても)がついている門であって、戦前の都会の小さな板塀の家などをわたしは想像します。「かどの錠」というひらがな表記については、「門の錠」では、いかにも厳重な外世界と内世界を遮断する“近代的なキー”になってしまうことを秀野は避けたのではないでしょうか。おそらく、その彼女の語感の背後には、わたしが「かど」という語に「庭」と「門」の両方を思い浮かべるのと同じ、大和言葉の世界があるように思います。
わたしの感想は、こんなものです。石橋秀野を検索していてAmazonに姫野恭子さんのご著書があるので驚きました。なお、「罹りし」では意味がとれないので「罷りし」としております。
大江希望

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コメント

高木門
昭和43年12月6日、日本信託銀行国分寺支店長宅へ送られた脅迫状の差出人の名。雑誌「電波科学」などから切り取った文字の貼りつけによる爆破予告。
4日後の12月10日、日本信託銀行国分寺支店から東芝府中工場へボーナスを輸送中の現金輸送車が、発炎筒をダイナマイトに見せかけた小細工でまんまと窃盗される。いわゆる、2億9430万7500円事件。この手製発炎筒の巻紙に「電波科学」の同じ号が使われていた。
この年の春から夏にかけて、府中市の多磨農業共同組合に現金を要求する脅迫状5通が届いた。筆跡鑑定により、日本信託銀行脅迫多犯と同一人物。
最初の脅迫状(昭和43年4月25日)
「していした くるまに うんてんしゃ一人のり じそく二〇キロで やじるし のとおりにはしること 女でも こどもでも 白い はたお ふったものに かねおわたせ けいさつにしらせると ためにならない」
2回目の脅迫状(5月25日)
「おぬし が さつに しらせた ことは 我々 にも すぐわかったよ われら どくじ 方法 に より 車のなかにわ私服の ポリが のり 金わ 持って いない と 判断したので 中止した」
3回目(20日後)
「この前は さつ の ごえいつきで走った そうだな 我々も 人質で どじを ふみ いざというとき きりふだ がないと きけんなので中止した これは 苦心した 計画だ 人を殺しても うちに火をつけても ぜったい じっこうする ことわっておくが いやがらせ など のたぐいでわない (中略) 全て この前と 同じにせよ さつに しらせると さつわ いやでも しつどうしなければ ならない そうなれば 死人でる」
4回目
「いいかげんに しろ しかたない やくそくどうり 一人 ころした へんな まねを して あったら ある方法で 百人でも 二百人でも ころしてやる」
5回目
「ころしかたは つつんで あるもの を つかう 何か わかるかい これを たいりょうに つかえば また せけんわ おおさわぎ するぜ 人わ 死ぬ」

以上が、2億9430万7500円事件に関する、あまり知られていない話。

10年後の昭和53年、グリコに「3億円」を要求するテープが送られる。江崎社長の誘拐、青酸入り菓子のばら撒きなどの犯行予告。
6年後の昭和59年3月18日、江崎グリコ社長誘拐事件。何回かの現金受け渡し方法を指示した脅迫状。
5月10日、青酸菓子ばら撒き事件。いわゆる、グリコ丸大森永ハウス不二家駿河屋事件の勃発。
「どくいり きけん たべたら しぬで かい人21面相」
「けいさつの 車 5だいか 6だい はしっとったで タクシーに のった あほも おった あの道 よるは タクシー とおらんのに 会社の 車に のって 一人で くるよう ゆったのに ちがう車で 2人も すわって まっとった きいとるだけで あほらしいやろ」
「わしら けいさつ わな しかけとる ときでも いつも かげから みとる けいさつの くんれん したってるんや 丸大の ときの ことも けいさつ うそ ついとる  わしらの ゆうとおり したら にせさつ とられるの  わかっとるから せこいこと しおった バッグ おとせるよおに まど あけておけ かいとったのに  まど あけずに ほかの まどから デカが みとった  わしらが はた ふったの みとるんや  1メートルも ある 白い はたやで  わしら あほばかりや  けいさつが もっと あほなだけや」
昭和60年8月12日、犯人側から終息宣言。
「くいもんの 会社 いびるの もお やめや」
同日、日本航空123便墜落。犠牲者に脅迫されていたハウス食品の浦上郁夫社長が。

昭和の迷宮入り大事件の数々が連句的(?)につながる。

かい人わ 三億犯と よおにとる (乙)

高木門という人は昭和43年に「浪人ブルース」というのをリリースした歌手。
“浪人ブルース”高木 門
星の王子に願かけて受けてすべって涙も出ない 試験試験でまた暮らす 何度受けても同じ事 およしなさいと言われるけれど俺にゃ俺の意地がある 俺たちゃなぁ学校の裏街道を歩く渡世なんだぞう え~言わば一家の厄介もんだぁ 幼稚園から狭き門 始め本命で大穴狙い だんだん望みもダウンする 教育ママにおだてられ かわいこちゃんにつれないそぶり 浪人暮らしはままならぬ 社会学部が5747名で16.4倍 文学部が7106名で12.1倍 法学部が4533名で22.4倍 嫌な渡世だなぁ 何が何でももう一度やらにゃなるまい大和魂 人を寝かせて俺はやる 一年遅れなんのその負けてなるかとハッスルすればいつか出る日もあるだろさ… はぁ~あ入りてえなぁ 山勘作戦練りながら角材もって頭の体操 心は明日へジャンプする 良いせんいくだろ ぎむのぺじゃ 眠っている間にテレパシー入れて 夢は満点ストレート うぅ~ 入ったぁぁ~!!!

う~ん、どこにヒットの要素があるのか皆目わからん。
この曲以降は役者人生を歩まれておられたようで、当時のいろんなドラマの出演者名の隅っこに名前を見つけることができました。「太陽にほえろ!」でも薄幸の青年役だったそうです。

こういうアングラソングの歌手名を騙って脅迫状を書くのは、「自分は浪人ブルースに共感する世代の者だぞ」とカムフラージュ(フランス語:camouflage)する目的か、あるいは、本当に浪人ブルース共感世代だったのか、おそらく前者でしょうが、ただ、カムフラージュ目的だったら、同じ昭和43年に大ヒットした受験生ブルースの高石ともやを騙ればいいものを、高木門を騙るところは相当にオタクっぽい。「電波科学」が身近にあるので理系オタクですね。バイクの改造なんぞ序の口、捜査情報を得るために高性能盗聴器をこさえることくらいお茶の子さいさい。真犯人はいまごろは、豊富な資金力をバックに、理系オタク度をさらに磨いていることでしょう。

機密に触れる仕事に従事していると、盗聴には敏感になります。実際、盗聴器を発見したことや、盗聴を逆手にとって嘘の会話を演技したこともあります。よく役所には、人事異動時の就任祝いだとかに、胡蝶蘭の鉢植えなどの届け物などがあるのですが、盗聴器のチェックは怠りませんでした。今はネット時代なので、電話や会話の盗聴は主流じゃなくなりましたが、ネット上の情報を絶えずチェックしている人々はいますので、皆さん、ご用心のほど。この文章や前の文章みたいに、ちょっと危ない情報を漏洩したりすると、真犯人がどこかでチェックしていて、ロシア語が読める投稿者向けにロシア語で忠告が入ったり、○○が車に跳ねられ死んだぞ、と投稿を牽制されたりするかもしれません。


ほへ。シャー六句おつ。ふっかーつ。
シャーロックって高利貸しの名前だったよね?
いや、ちがった、あれは謝意六句か。ベニスの商人。
おたく度、相当たかいっす。
まったくきおくにない。高木門。そっかー。
高木ブーとはちがふのだな。
青春の門。はおもしろかったけどねえ。
石炭。
今日、らんちゃんと相良観音、山鹿温泉に行った。らんちゃんちは旧国鉄駅の前だったから、チッキを聞いてみた。知ってましたね、さすがに。ついでにこういう話をしてくれた。
石炭をたくさん落としていた(たぶん汽車だったからじゃろう)のを拾って風呂をたいていたと。
おなじことを黒木の駅官舎に住んでいた親戚のおばが今日話してくれました。汽車が使ったばかりのコークスを穴にざざっと捨てるのを拾ってきてた。と。たくさんの人たちが待ち構えていたって。まだ熱いコークスを拾ふ。(何に入れて持ち帰ったただろうね?新聞紙じゃ燃える。火鉢?)

高木門については、100人中99人は記憶にないと思います。記憶しようにも、ほとんど報道されなかったのではないかと思う。人々は、犯人の手際のよさと、直接的には誰も傷つけていない、銀行も損害が保険でカバーされて実損なし、というスマートさに、どちらかというと英雄視していた向きがあり、脅迫だの、誘拐予告、放火予告、毒物ばらまき予告、バイク窃盗や自動車窃盗といった犯罪者イメージを強めるような報道は陰に回ったようです。
グリコ事件報道にも似たような傾向がありましたが、こちらは誘拐や毒物ばらまきという悪質な犯罪性があったので、過去の「ヒーロー」とイメージをダブらせるような報道は避けていたようです。

コークスを入れていたのはブリキのバケツに違いない。それか、いっと缶に穴を開けはりがねをわたしたもの。火箸もどこの家にもあったんじゃないかな。いやまてよ、たどんを運ぶじゅうのうやったっけ。あれかもね。想像だけの世界。
乙さんの過去は、毎日の生活そのものがドラマみたいですね。「平穏な日々」も経験されているんでしょうか。

子供のころ外で遊ぶことを、かどで遊ぶと言っていました。
鳥取県で子供時代を過ごされた方と同じ風景でした。

コークス拾いという言葉がありました。
落穂拾いと同じように線路で行われていたように思います。

乙さんの書かれたようなことは、政治の世界を見ていると現在進行形、先日から騒がれていることも一本線でつながるようですが。

 「高木門については、100人中99人は記憶にない」、なるほどその通り。しかし「浪人ブルース」というタイトルを聞いて記憶が蘇った。
 フォークルの「帰ってきたヨッパライ」がヒットして以来、アングラと言いつつ実はただ、テープの早回しなどを真似したコミックソングに過ぎないものが雨後の竹の子のようにレコード化されたものの、ほとんどヒットしなかった。アングラヒット曲第2弾?「ケメ子の歌」は、作詞・作曲者はアングラ系だが歌ったのはプロのバンド、でも第3弾の「受験生ブルース」は、当時高石友也は既にレコード出していたものの、アングラと言って良いだろう。つまり、アングラという言葉が完全に誤解され、実際はプロが作詞や作曲していた頃にレコード化されたコミックソングが、「受験生ブルース」をヒントにした「浪人ブルース」。当時大映レコードがかなり力入れていたみたいで、ヒットしなかったにもかかわらず、当時深夜ラジオをよく聴いていた私には、その歌詞や曲が記憶に残っている。何かの事件で名前を使われたというのも思い出した、シャーロック乙さんありがとう。
 というわけで、高木門について調べたら、この人、もともと役者やないの?1967(S42)年の日活映画とかに出とるやんけ。
 ついでながら、「破廉恥」という言葉を「ハレンチ」と、従来とは違ったニュアンスで流行らせたのは、永井豪の「ハレンチ学園」だと思っている同世代者が多いけど、実はフォークルなのであります。

フォークルが駆け抜けたのが、この昭和43年でしたね。
たった一年のプロ活動で、この存在感は何なのでしょう。フォークルとしての最後の曲が、五木寛之が詞を提供した、青年は荒野をめざす、でしたね。解散後は、北山修がいい詞をいろんな歌手に提供してます。浅川マキの「赤い橋」、自分の前にしばしば現れた橋でした。
   ↓

しかし、石橋貞吉と石橋秀野夫妻がナップを抜けたのは、第一子をなくしたからだとおもう。それはどこにもきちんと記されていないけど、俳句作品から察して昭和九年。全てをかけてというくらいに熱中しマルクス思想が、つき物がおちたみたいにつまんなくなる瞬間。

さくらさん。かどって角じゃなく庭っていみのですか?へえ。大江希望さんの書かれているのといっしょだ。きいてみるものですね。

   ↑
浅川マキ。

ミッキー安川も亡くなっちゃいましたね。

乙四郎、ありがとう。

秋出水草の茎みな赤きまゝ  秀野昭和13年

秀野ノートに、秀野と健吉の赤についての彷徨をどこかに書いていたと思い返し、さがしてみたら、最初のところにありました。句集の冒頭から二番目にこれがあった。で、かささぎが当時もっていた歳時記の例句に

秋出水乾かんとして花赤し   普羅

さいしょにふらの句があって、ひでの句はそれを下敷きにしている。とまず思った。でも、昭和九年ころにはもう左翼運動からはきれいさっぱり足を洗っている、健吉のものいいでは。でも、ひょっとしたら秀野はまだこころのどこかに赤い思想がふつふつとたぎっていたんじゃないか。この句はそんな句ですよね。
健吉はその後ずいぶん長生きをしたからこそ、大きな時代の目で、過去の若かりしころの気の迷いと断罪できる。でも、秀野は早く死んだので永遠にあの時代にとじこめられているから、相対化することなどできやしない。今の目で断じてはいけない。

ミッキー安川さんもなくなってしまいましたね。
若いころ、この人のはちゃめちゃな自伝を読んで、ファンというより強烈な個性の持ち主として、わたしの中に印象づけられ、それ以来気になる存在なのでした。アメリカへ留学中のエピソード、抱腹絶倒もの。文字にはできんけど。

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