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2009年2月20日 (金)

昭和の話をしようよ。の3

はあっ。なんでこげんもりあがっとると?皆詳しいね。ろいりさんの映画好きなのは筋金入りのごたるね。子供の頃見たのは月光仮面か赤銅鈴の助、101匹わんちゃん(これはなぜか学校から皆で見に行ったようなきがする)、兄にせがんで若大将シリーズ3本立て、ぐらいです。八女に引っ越してからザ・タイガースのやあやあやあ(違っているかも)を妹と二人で見に行きました。あと、東京オリンピックの記録映画もみましたね。開会式のファンファーレを口真似でしていました。

タイガースの映画、見ました。 「世界は僕らを待っている」
久美かおりさん、素朴で可愛かったですね。
この映画はLP盤まで持ってました(^_^;)
うちの中学は生徒全員を「若大将シリーズ」を毎年観に連れて行ってくれてました。
今思うと、あれは先生達が見たかったんじゃないのかな~と(^_-)-☆

「ホームラン教室」(1959-1963 NHK)
 アンパン:小柳徹
 トチ:太田昭雄
 16番:矢沢新
 ガリ:斉藤弘昌
 ネズミ:安藤哲
 ミドリ:臼間香世
 クリ:岡本久美子
 ポロ助:細田勝彦
 アンパンの父:牟田悌三
 アンパンの母:幸つや子
 ミー:安田まり子
 トチの父:黒木三郎
 トチの母:三崎千恵子
 辻先生:富田浩太郎
 ネズミの姉:古賀さと子
 ネズミの父:森塚敏
 ボロ助の母:西口紀代子
 ボロ助の父:池田忠夫
 ガリの母:岸旗江
 もーやん:土屋靖雄
 ホームラン堂主人:佐藤衛
 デカ:芦沢義仁
 本田:朝倉宏二
 渡辺:日下桂子
 杉浦:佐藤貴美雄
 父(具体的な役不詳):田島辰夫
 姉:白銀道子
 劇団こまどり
 みすず児童合唱団
 作:高垣葵 

古賀さと子さんも出演してたようです。主役の小柳徹は自動車事故で夭逝。
この「ホームラン教室」で、乙は「寮」という言葉を覚え、「寮生活」に憧れ、やがて中学1年生にして憧れの寮生活にワクワクしながら転校することになった。いわば乙の人生を狂わすことになったドラマともいえる。「チロリン村とくるみの木」(1956-1964)と同じ頃の放映。
てなもんや三度笠はホームラン教室より後で、何でも考え何でも知って何でもかんでもやってみよぉう~!のケペル先生(1961-1969)と同じ頃。
   ↓

 せーこさんのばあちゃんが好きだったスローニン役やってた人って、近衛十四郎では?TVでやってた「素浪人月影兵庫」、コミカルで大好きでした。焼津の半次役の品川隆二も良かった。去年、息子の松方弘樹主役でリメイクしたけど1クールで終わってしまった。
 長門勇は人気絶頂の頃、戦艦長門ならぬ「駆逐艦雪風」という映画で主演してます。東京オリンピックの映画は、日本国中かなりの小中学生が学校で見に行ってるのに、久留米では私の世代だけ行ってない~それは卒業式の後に上映されたからのようだ。
 久美かおり、そういやいたね。レコード大賞新人賞取ったけど、どんな歌かも覚えとらん、男は矢吹健(あなたのブルース)、グループではピンキラだった。それにしても八女の先生は理解がある!久留米市民会館に加山雄三が来た時、諏訪中では見に行くのを禁止された~もっとも生徒会長さえ規則違反で行ったらしいけど。
 ホームラン教室の父親役牟田悌三は先月亡くなりましたね。深夜放送ではちょっとエッチなムーちゃんだった。小柳徹については、偶然にも数週間前ネット検索したばかり。子役後は北山修・黒沢久雄らとともに「ヤング720」の司会やってて、その最中の事故死だったので気になっていた。
 では、ケペル先生また来週?

ああ、ろいりーさん、
つきかげひょうご、それそれ。
みすぼらしいはかま姿のスローニンの主役。そして、焼津のはんじ。ひょうきんな下っ端の役どころ。そうです。父もこの番組を見てよくわらってたなあ。

主役は近衛十四郎だったのですね。すっかり忘れていました。品川隆二さんの名も思い出せなかった。この番組は父にも祖母にもつながる想い出です。ああ、ひさしぶりにばあちゃんに会いたくなってきたなあ。

うん。ほんなこて。
ところで、エメさん、どこの中学がそげん寛大なことをやってたの。こすかー。
ぼんの書いてたように101匹わんちゃんはほんとに学校から見に行ったような。ねえ、戦争と平和、学校からみにいかじゃった?りゅどみゅらさんのほう、おーどりーのじゃなく。ちっとも面白くないのを硬いいすのうえで石と化すまでみなければならなかった。あれは絶対ふくしまの映画館だった。

おはようございます
こすくてすみません(^^ゞ
でも毎年って書いて少し自信がなくなってきました。
2度行ったのはなんとなく記憶にあります。
映画がモノクロからカラーに移るころは、ポスターの中に総天然色ってカラーの字で書いてありました。
バス停で新しい映画のポスターを眺めるのが好きでした。
総天然色>>特に印象が残っているのが「モスラ」のポスター。
小さいピーナッツも不思議だったけど、出演者の不安な表情にこちらもドキドキしたものです

「戦争と平和」は映画館で見た(観た、ではない)記憶がある。自主的に行ったはずはないので学校行事だったのだろうか。学校行事に映画鑑賞がある時代。各教室にある視覚機器といえば幻灯機。テレビは家庭科教室(裁縫実習の畳の広間。女の子の秘密教室が開催されていた部屋でもある。その間、男の子たちは無邪気に騒いでた)に1台あるのみ。時に、講堂にスクリーンを張って、映写会もあった。「トムとジェリー」の映写があったのを覚えてる。「トムとジェリー」を全児童に見せることの、上妻小学校の教育意図は不明。きっと、ほかの大事な映像との抱き合わせだったのでしょう。そっちの方はとんと覚えていない。講堂に、変な超能力師がやってきて児童全員で見たのも覚えてる。あれは何だったのだろう。最後のほうで、何人かの年長児童が選ばれ、「君はきっと偉くなる」とおまじないがかけられていた。暗示効果はあるのだろうが、今から思えば、あれはペテン師にほかならない。
ビートルズの映画は、さすがに学校行事で鑑賞することはないけれど、禁止されていた記憶はない。ボーリング同様、行けば不良のレッテルが貼られるような雰囲気はあったかも。

「世界はぼくらを待っている」それでしょう。やめの京町にあった映画館だったと思います。やはり前の方で、聞こえるはずもないのにきゃあきゃあ騒いでいた人たちがいました。
チロリン村とくるみの木やホームラン教室、名前の記憶はありますが、内容はぜんぜん覚えていません。お母さんと一緒の中の一コーナー、人形劇が実演にかわるお話コーナーが好きでした。ブーフーウーの三匹の子豚が今も頭にあります。歌も歌えます。)
古賀さとこさんもこの番組で歌ってあったでしょうか。
みんなの歌もいい曲ばかりですよね。堺まさあきの「北風こぞうの三太郎」が今でも好きです。
テレビはきたのは昭和36頃だったと思うのです。父の意見は絶対で、ほとんどNHK、たまにプロレス。
TNCはきれいに映らなかったので、引き戸の上の方にスイッチを切り替える装置を取り付けていました。それを入れるとややきれいに見えました。

昭和時代の話になると、なんでこうも盛り上がるのだろうね。不思議だ。同世代を生きていたのに、記憶の差が顕著であります。「ホームラン教室」にも「チロリン村」にも「おかあさんといっしょ」にも記憶なし。チャンネルにTNCがあったことなど、まったく覚えてない。
みんなよく覚えてるよねえ。

ブーフーウー
声優と主題歌。オオカミの声優さんの悲しいお話。
   ↓

乙四郎さん、リンクありがとう。読んでるうちに涙が出てきた。最近ほんとに涙腺がゆるい私です。
コメントしてある方の記憶、すごいね。おおかみさんのもの悲しいメロディ、うっすらと記憶にありますが、ぼんやりしています。
魔法の絨毯の「あぶらかたぶらちちんぷぃ」は覚えています。(だったかな?)徹子さんが端っこに座っていて、呪文を唱え、画面に空から見た風景が映し出され・・・それだけです。へんなことおぼえとるね。なんでやろ。

ちろりん村。ブーフーウー。
家でじゃなく、学校で、みんなでみていたような記憶がある。おおかみさんの着ぐるみに入っていたのは、高橋悦史さんだったのですか。へえ。
さんびきのこぶた、一匹は、わらのうちをたてました(るるるるるるるる)おおかみがきて、わらのうちはめっちゃくちゃ。歌、歌える三番まで。
ホームラン教室はみたことありません。
ちろりん村のりっぷちゃんが異常にすきでした。こうしてコメントを読んでいますと、まさに連句的、繋がってるけどばらばら、それぞれの興味のありどころによって覚えているとこが違う、それが楽しいですね。

 H、O、W、HOW・HOW・HOW、インディアンじゃないんだよ、英語でどうしたって訊いてんだ、ケペル先生今日は。何でも考えかんでも知って、何でもかんでもやってみよう。
 というわけで、ダルメシアンを見ると「101匹わんちゃん…」を思い出すけど、その後東映動画で作られた「わんわん忠臣蔵」は見てませんか?それから昔話の「三匹の子豚」と飯沢匡原作の「ブーフーウー」はもともと別の話で、それが混同されているようです。でも、どちらも三兄弟の兄が一番アホで弟が一番賢いというのが、兄たる私には不満だった。「チロリン村…」は「ひょっこりひょうたん島」の前の番組で、数年前に大木こだまが流行らせた「チッチキチー」というのは、「チロリン村…」に出てきた「クルミの頑固じいさん」の口癖でした。
 TNCってテレビ西日本だったかな、家はあとRKBとKBCと、NHKの2局はもちろんRKK(熊本放送)まで映り(中身はあまり変わらんけど)、後にはFBSまで映るごつなった。大学入って大分市出身者と知り合ったら、何と民放は2局しか映らないと聞いてビックリ!今はそんなこともなかろうが。あ、家でTV買ったのは1960年で、「ハリマオ」「七色仮面」「ナショナルキッド」「ライフルマン」など見てました。やはり男女で見た番組違うでしょうね。でも姉の影響で「ザ・ヒットパレード」見て、おかげでアメリカン・ポップスの日本語バージョンはお手の物、ビートルズも最初は日本語歌詞で覚えた~スリー・ファンキーズとかの。東京ビートルズなんてのがいたのも、今考えればお笑いぐさだ。

高校時代に物理室に暗幕張って、真っ暗な中で、ロックを聞いた記憶が蘇った。コンサートのわけはない。田舎の県立高校でそんなはずはないからね。
でも、たしか高校一年生のとき、真っ暗になった物理室でわけのわからん音楽を聴いた。
記憶違いじゃなければ、あれはCCRとかいうロックバンドのこぴー。もしくはレコードをばんばん鳴らして聴いた。3年生の大橋だいちゃんが連れて行ってくれた先が物理室だった。だいちゃんは物理部だったから。うるさくて、うるさくて、そのよさがわからんまま出てきたけど、今から考えると、あれは学校の許可なんか取ってない秘密の音楽祭だったのかも。

「イレブンPM」って放送が何か怪しげで面白い番組だと雑誌で散々書いてあるんだけどいったいどうやったらそれを見られるのかと思っていました。
その番組はFBS(日本テレビ系列)だとわかったけど、FBSが九州で見られるようになったのは昭和40年代、その頃私は東京にきたのでふんだんに見られるようになった。

>大木こだまが流行らせた「チッチキチー」というのは

ほんま?
あの、「そんなこたぁあれへんでぇ・・・」「そんな人おらへんでぇ・・・」の?

敏江・玲児漫才が好きなんですが。

その秘密の音楽祭でばんばんかかっていた曲は「スージーQ」かな~と思います^^♪

せーこさん、そげなんがあったと。
では、あれはなんだった。ほら、オオギリとかやってたでしょう。あれが文化祭?じぶんは何をしていたのかが記憶にさっぱりない。きっとぼけえとしてたんだ。じぶんのからにとじこもって、そっから世界をみてぶつぶついってたから。太平楽なことでしたねえ。
くるめ一往復、みやま一往復。今日はひさびさの英語でした。ぼんが忘れていた。びっくりだね、まじめな彼女が。わたしが忘れるならともかくも。

しごとは忙しいし、

充実した休日を過ごしていたはずなのに、英語がすっぽりぬけていた。は・は・は・笑うしかない。

黒柳徹子さんで検索してNHKのページに行ったんだけど、似たようなコメントをしてある方がいらした。どちらさまも思い入れが強いし、よくいろいろなことを記憶してござる。(久留米の方言)察するに少し年上の方のよう。TV放送は確かS.28からだから、そのころのことはわからん。だから興味深い。

 思い出した!FBSは筑後地区ではTVがVHF(超短波?)で映りにくくなり、UHF(極超短波)化されるようになった時、映るようになった局で、やっと久留米でも「11PM」とかが見れるようになり、おじさんたちのみならず思春期の少年たちの間でも話題になったんだった。だけど、従来のテレビでUHFを見るためには専用のアンテナと、コンバーターというのをつけなければならなくなった。ぼんさんの家にあった切り替え装置って、これじゃなかと?
 最近大橋巨泉の本読んでたら、11PMであれだけ有名になったのに、ある地方都市に行ったら顔見られても注目してくれず、その理由は、そのへん一帯では11PMが放送されていないからだということがわかった、と書いてあった。
 CCR、「雨を見たかい(Have you ever seen the rain)」が数年前車のCMで使われてましたね。

 

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コメント

裸電球が灯りチロリン村が始まる頃、共同風呂のお湯が沸いたことを知らせる「カンカンカン・・」と、板を打つ音が近所中に響きわたります。
「もえぶろ」とか「もやいぶろ」と呼ばれていましたね。
脱衣、洗い場はきちんと仕切られていましたが、湯船の下はつながって、浴槽は1個になっていました。
私の町内は毎日どこかの家が順番でお風呂を沸かしにいってました。
その時は祖母に連れられて薪くべを手伝いました。
たらいを卒業した赤ちゃんも、嫁いでこられた若いお嫁さんも、人の手を借りるおばあさんも、み~んないっしょに入って賑やかでした。
おかんのんこがある時、近所のおばちゃん達から「○○ちゃんな、さるのあかちゃんのごたったよ~」ってよくからかわれていました。小さく痩せて生まれたのでシワシワだったようでした(^_^;)

やだなあ、エメさん。
またまたコメントが集中しそうな、話題を出しちゃった。共同風呂かあ、なつかしいなあ。「もやいぶろ」そう言ってましたね、確かに。そして、行ってましたとも、ばあちゃんと。
ばあちゃんたちの情報収集の場であり、社交場でもありました。小学校中学年のころ、自宅に風呂場ができるまで、毎日毎日通いました。記憶が確かなら、そのころ、風呂場の角には手押しポンプがあって、しゃこしゃこやって、水をくみ出していた。でも、まさかあの大きな風呂桶にはポンプで水はってたわけじゃないよね。

いやそのまさかだとおもうけど。
エメさんの文章、なつかしくって泣きました。
どっこの過去にもかえりたくはないけど、ばあちゃんに連れられていっていた共同風呂のころにはかえりたい。うん。かえりたい。半年しかもたなかったそろばん塾通い(十歳のころ)、まっくらな道、途中おはかがあるところをだだばしりで帰ってた。だんぜん、夜の時間がむかしの昭和のころは豊かだったなあとおもう。やさしいひとたちばかりがいた。
それと。
ことし、きりあけ商店が閉店しました。
ながいながいつきあいの近所の小売店で、物心つくころから十円もっておかしを買いにいってた店なんだよね。いつもなにかおまけしてくれた。さいごに父はたばこを二カートンかって、それで幕。感無量でありました。よく村のおとこしが枡酒を飲んでいた。あの人もあの人も、もうこの世にはいない。むねがいっぱいになるね。さみしいね。桐明商店さま、ながいこと、ありがとうございました。本当におせわになりました。

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