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2009年2月11日 (水)

武田晴信「倭漢聯句」のこと 1  村松定史

一月末ころ数日に亘って引用をした鶴崎裕雄の論文『連歌師ー政治的な、あまりにも政治的なひとたち』でも紹介されていた史料であります、甲斐の武田信玄の巻いた倭漢連句について、きっちりと調べ上げて書かれた文章を、本日ぐうぜん書架で見つけました。それはまるで、「わたしを読んで」と小声でささやきかけているかのようでした。ネット検索しますと、あまり引っかかってきません。おそらく、だれもまだ打ち込んではいないようです。ちょっと長いのではありますが、国民放送で妻夫木くん主演で大河ドラマもやってることではございますし、引用いたしたいと思います。この仕事はめんどうではありますが、天文年間の百首和歌を読み解く資料の一つになります。村松定史。連句界では有名な人です。きっちりとした仕事をなさいます。出典は『2003連句年鑑』(平成15年版・連句協会編)。全文引用。

武田晴信「倭漢聯句」のこと

     村松 定史

山梨県甲府市に万松山積翠寺という古刹がある。
甲府駅から北東へ四キロほど登ると、かつて武田信虎が山城を築いた要害山があり、寺はその麓にある。
奈良時代に臨済宗妙心寺派の行基が創建、境内の巨石からの湧水にちなんで石水寺と称されるが、後に積翠寺の字に改められた。麓にはまた温泉場があって、筆者は郷里の甲州に帰ると、時折ここに骨休めをする。

ところで、積翠寺には数百年前に武田信玄の巻いた連句一巻が保存されていると聞いていたので、いつも湯船につかりながらそれが気にかかっていた。寺の案内書や郷土史の一節に言及はあるものの、全容が知りえない。ある時、住職にご無理を言って直資料を拝見の上、複写のお許しをいただいた。詳細をつまびらかにするには力及ばないが、知りうる限りでつぎに紹介を試みたいと思う。

積翠寺はすでに鎌倉時代から武田家一族のゆかりの寺であったが、大永元年1521十一月三日に武田信玄はここで産声を上げている。戦国動乱のさなか、武田信虎は駿河の軍勢に攻められ、妻大井夫人を要害城に避難させる。臨月を迎えていた夫人は積翠寺にて信玄を出産する。今も本堂裏に産湯を汲んだ井戸が残されている。

武田信玄1521~73は、言うまでもなく甲斐国主にして、兵法、政治、宗教、学芸に通じ、「甲州法度之次第」1547の制定でも名を残した名将である。
幼名は勝千代、元服して晴信、出家して信玄の法名を名のった。

さて、くだんの連句だが「天文十五年七月廿六日於積翠寺/倭漢聯句」の詞書の後に、一行おいて晴信の立句ではじまる和句漢句あわせて四十四句が、天地十八・五センチ、左右五十二センチほどの雁皮紙に墨書されている。横長の和紙の下を折り目に二つ折りにしたものを二つ重ね、右端を紙縒(こより)でとじ、第一面に十四句、裏の第二面に十六句、二枚目の第三面に十四句、その裏面には連衆十一人の名と句数が記されている。

俗に半百韻とも呼ばれる四十四句の「世吉行よよしこう」は、いわば百韻の縮小型で、初表八句、初裏十四句、名残表十四句、名残裏八句で、二花三月。
慶事の機会などに催されるもので、この巻も京都からの公家二人が賓客として連座しているところから、歓迎と記念の奉納連句と思われる。

またこれが、和句と漢句を取り混ぜた和漢連句の張行であることから、晴信の意気込みと座の教養がうかがえよう。平安時代中期から中国の漢連句が日本でも試みられ、これが鎖連歌と結びついて室町時代ころから和漢連歌という新形式が徐々に流行し始めている。これには漢詩文の素養と俳諧の機知が要求されるから、なかなか高尚な文芸であったといえる。

天文十五年1546と言えば、晴信は二十六歳、この年に信州の内山城を、前年には信州の高遠城、竜ヶ崎城を落とし、着々と勢力を伸ばしつつある時だ。五年前に父信虎を駿府に追放して国主となり、信玄堤の築造や金山の開発など国政にも力を注いでいる。また後に跡継ぎとなる四男勝頼が同年に誕生している。西上の志を抱いて邁進し、五十三歳にして陣中に没する波乱の生涯のまさに半ばの年のことである。

晴信はこれに先立つ数年前には冷泉為和を招いて歌会を催しているし、『詠百首和歌』などみずから歌を多く残してもいる。また『甲陽軍鑑』には十九歳の晴信が昼夜を分かたず「詩を作遊す事」の記述があり、文芸への熱中ぶりはよく知られるところだ。ことに五山系の僧侶たちとの親密な知的交流は、この連句からも推察される。

原資料の懐紙には、三面に十四・十六・十四という句の配分で書かれているが、ここでは世吉の四折にのっとり句番号を補って、これに従って内容を概観してゆきたい。

まず連衆だが、晴信は繰り返すまでもなく武田信玄で座の主人。龍は三条西大納言実澄、蘭は四辻中納言季遠で、ともに後奈良天皇(在位1526~57)の勅使で客分。
鳳栖は東光寺前住職と注されており、東光寺は甲府にある臨済宗妙心寺派の古寺で、後年、晴信の長子義信の墓所が置かれる。
湖月も甲府の臨済宗妙心寺派法泉寺の前住職。
法泉寺は、信玄の世継ぎ勝頼の菩提寺に後になるところ。
其阿(ごあ)には武江日輪寺と添え書きがあり、武蔵国江戸は日輪寺住職。日輪寺は天台宗として開山し、後に時宗(日本浄土教の一派)となる。現在も台東区西浅草にあるが、当時は芝崎村(現、神田橋辺り)にあった。時宗では僧正をみな其阿の尊称で呼ぶ慣わしで、記録も消失しているため第何世かは不明。
他の連衆に注はない。

なお、懐紙裏に記された句数は晴信、蘭、台運のものが一句ずつ余分であり、鳳栖は一句不足して勘定されている。一方、初折裏十一句目は連衆名が空白になっている。句数表では一句余分の、晴信、蘭、台運のいずれかの作の可能性なしとはしない。月の座でもあり欠落が気になるが、ここでは不明のままとして、全体の正しい句数を付しておく。

連衆は初折裏の二句目までで十名が一巡しているが、信常のみ四句遅れで初折裏六句目で登場する。遅参したか、句柄から見るとまだ初心かもしれない。武田の一門であろうが、晴信との関係は明確には分からない。ただ、武田氏族の米倉丹後守昌尹(しょういん)の娘で「武田信常室」と注されている女性が米倉氏系図には見える。

2につづく。

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コメント

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43,000件中4位。
っても、まったく面識ございませんし、ここへこの御文章をアップすることの了解さえいただいたわけでもありません。でも、一般誌に公開されているのですから、だいじょうぶだろうとおもいました。どうかおゆるしください。
かささぎはこのおかたをどこでしったのでしょう。
連句誌です。
風信子、あるいは、解纜、あるいは、れぎおん、あるいは。どこかこころに残る句で、目をひきました。
どんなおかただろうか、とずっと思っていて。
今日アクセス解析してたら、このサイトが。↓

このサイトで、村松先生はこう述べられている、それにかささぎの旗はあつい共感をおぼえました。

 「卒論指導にはなかなか学生が集まりません。書かせすぎだと思われているようです。でも、調べたものをまとめて、タイトルをつけてプレゼンする。そういう学生を育てたいと思っています。どうやって自分の気持を相手に上手に伝えることができるか。人生なんて、身分が高かろうが給料が安かろうが、友達と、あるいは愛する人と幸せに暮らしていくことができればいい。それには言語というコミュニケーションしかない。それを学生たちに悟ってもらいたいと思って授業をしています。レポートは基本的にA4用紙に手書きですので、コピー&ペーストはできません。でも自筆なら文献を書き移しているだけでも相当頭に入ります。」

かささぎのこの稿は、手での打ち込みです。
自筆で筆圧をかけて書くことに勝る記憶法はありませんが、パソコン打ち込みでも、コピペするより数段くっきりとした残像が残ります。

おや、このおかたはまだ62歳ではありませんか。
失礼ながら、てっきり七十五くらいのお方だろうとおもいこんでいました。それに、おなまえも、むらまつていし、ってよんでおりましたが、さだふみ、とルビがふられています。
へ~!!わか!(よくもずけずけとかきますよね。すみませぬすみませぬ。なにしろがさつもんでして。)

では今日も元気にいってまいります。中番。変則勤務。九時から十九時まで。

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