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2009年2月 1日 (日)

護無三社が鎮座する久留米の記憶対話篇  

ろいりーさん。一学年14クラス。団塊の世代は何年生まれまでを指すのでしょうか。
私たちの小中は、3クラスでした。
一クラス、33~35人くらい。

でも、ぼん。うちの母は十人近いきょうだいの真ん中あたりですが、丸くありません。きょうだいの真ん中というのは、やさしいか、根性がうんとわるいかの両極端みたいです。

「団塊世代」とは確か堺屋太一が名付けた言葉で、ウィキペディアによると狭義では1947年から49年までの3年間に、最も広い定義としては、45年から53年までに生まれた人々だそうです。私の感覚ではうちの姉(1950年生)までが下限かな?諏訪中のもう一つ上は15クラス、私の時は12クラスでした。それが中学としては当たり前だのクラッカーと思っていた。兄弟の真ん中はやさしいか根性が悪いかの両極端、当事者の私に言わせれば、その両方を併せ持っているのでは。

ろいりさん。
宗ですね、其の通りです。パチパチパチ。
どうも書かれていることから推察しますと、ろいりさんは二歳年上でいらして、ということは広義の団塊世代に入る。では又お聞きしますよ。
その一学年14クラスや12クラスが、一気にがたっと半分くらいに減ったとき、あまった教室はどうなったでしょうね?あまった先生たちはどうなさったでしょうね?きになります。

23年生まれの姉の時は、16クラスだったように思います。29年生まれの私たちは11クラスでした。
100番以内にはいっておれば頭のいい子でした。1クラス45人ぐらいかな。広川に転校して、成績が50番ぐらい上がったけど、広川は7クラス。昔は成績、廊下に張り出してあったんだよね。出来がいいときはなんとも思わなかったけど、下がったときは嫌だったね。
プチ自慢。転校していった時、クラスの男の子の半分から年賀状が来た。一生の中で、一番持てたひとときでした。

あれ?今朝ここに投稿したと思ったけど載っとらん。改めて…諏訪中は7年間で、16クラスから11クラスまで減ったということか。でもその後はそんなに急減してないと思います。100番以内云々というのはその通りで、私の時が県立M高に100人以上合格した最後の年だった。K大学F高校だって男子だけなのに、補欠も含めて40人以上受かったし~当時は両方受かったらM高に行く人のほうが多かったんじゃなかろか。
かささぎさんの気になること~教室は急増期に特別教室潰したり改築・増築したらしく、体育館・講堂の類さえなくて、卒業式・入学式もよその会場を借りていた。減少期にはそれが元に戻ったということではないでしょうか?教員は、その頃高校進学者が急増しており、こっちのほうが待遇が良いし高校に変わった人が多かったいうのが私の推測です。ちなみに私は団塊の世代という自覚はなく、それを仰ぎ見たり真似したり、冷ややかに見たり批判したり、そんなポスト団塊世代と思ってます。

ロイリさん。ぼんとおなじことをおっしゃいましたね。かいたのに載っていない。って。
消しゴムウイルスがいるのかもしれません。
炉入り呂伊利さん。一学年17クラスで一クラス四十五人。では計算したら、えーと・・七百人近い、一学年が!!うじゃうじゃーっといるんですね。活気がありすぎる。大運動会は大大大うんどうかい。先生はどなりまくり。トイレには行列。給食はぱんと牛乳だけ。とか。そりゃないですか。
ろいりさんも、三無主義世代でしたか。でも学生運動にかろうじて間に合った世代でしょう?

諏訪中は弁当でした。兄の弁当は毎日四角いてんぷら2枚だったと思います。3年間ほとんど毎日。漬物や梅干ははいっていたかもしれませんが。それでも毎日弁当が持っていけるのは、いいほうじゃなかったかと思います。高校にいけない人もたくさんいたし。父から一度だけ『あそこに遊びに行ってはならん」といわれたことあり。大人になって意味が解りました。
当時、花畑駅からゴム3社まで、小頭町~ロータリーを経由して歩いていく人が多かった。その時間は水天宮さんのお祭の時みたいで、子供心にうれしくて、ながめていました。

弁当のところと給食のところとあったなんて不公平ね。今も私立は自腹でお昼ごはんをたべますが、公立は給食、いいよね。
ゴム三社って何の神社ですか。
ぼん。
「求人案内」というコンビニにおいてある若者向け情報誌で初めて求人したところ、毎週四、五人の若者が面接に来ました。これはかつてない景況感。
これまで、求人案内は新聞の紙面でやる→誰も来ず。新聞の折込広告でやる→高年のおっちゃんたちがぱらぱらとくる。ところが、今回は!!若い子たちがきたのだよ。花の十台二十台。しかも元気な子達が。
ではあったのだが。やはり現実はあまくない。ただ通過してゆくだけ。入っても長続きしません。おいおまえら!仕事ないときに仕事えらんでんじゃねえよ。っていいたかとです。
いつぞや、社長がホームレスの若い子を拾ってきて、衣服や住まいを与え、教育してうまくいくやに思えた矢先、一ヵ月後、やっぱり行方不明になりました。早い話がとんずらされたのでございます。まったく恩知らずめ。投資してもだめ。根性がないから。いまごろどうしているかしら。この寒いのに。

ゴム三社ってブリジストン・日本ゴム・月星ゴムじゃろもん。

ちょいと、ゴム3社を知らんとはナンタルチア。朝日靴(日本ゴム)、月星ゴム、ブリジストンのことです。
覚えといてね。

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コメント

なるほどこれでわかった!
日本ごむは朝日靴なんだね。
ぶりじすとんが石橋さん。タイヤやさん。
そして腹巻ときじろうじゃなかった、ほれ、あのお方。えみりちゃんのご主人。ほっかいどうのおとうとみたいな兄じゃとはあまりにていらっしゃらない。あたしはこっちのお方のほうが好きなんですが。えーと名前が出てこないままにほらあの人。おじいちゃんの別荘が鳥栖の競馬場ちかくにあって、いまはそれがなぜかどうじんかいじむしょになっていて。うわわなんでこんなどうでもいいことばかりでてくるんだろ。なまえでてこないまま・・・ごめんなさい。かささぎの旗に清き一票を。連句興行のパトロンになってくださいとあたまさげにいこうかしらん。どさくさまぎれに。
最後、月星ごむはムーンスター。
はいよ今かんぜんにあたまにおさまった。

で。
なんでここくるめの地に偉大な護無三社が鎮座しましますんでしょうか。

筑後は日本の文化中心でした。
   ↓

みごとなおちです。笑

見事な脇のさびしさよ。という攝津幸彦の句があったんだが。

月星ゴム(両親は今でも日華ゴムと言う、さすがに「つちやたび」とは言わん)は小学校の社会科見学の定番で、ゴムの臭いとおみやげにもらった三角形の鉛筆の触感は今でも覚えてます。その後月星化成と言ってたのが、いつの間にか変な名に。日本ゴムもいつの間にか名前が変わって、倒産して…
久留米は昔よく「ゴム三社と久留米絣で知られる」という形容句が付いていたが、商店街育ちの私としては、あれっ?という気持ちがありました。
給食の件、昔はどこも弁当で、諏訪中ではパン販売も来てました。久留米市内の中学は牛乳だけ配られていたと思います。給食か弁当か、その他すべて地方自治体次第、今でも自校調理やってるとこあるのかな?

いっちゃんふるい私の給食の思いでは、脱脂粉乳のいやーなにおいの飲み物です。
脱脂粉乳って言ってもしらんやろね。
茶色ににごった汚い色の牛乳で、アメリカさまが貧乏な日本人の子供達に下すったもの。
最近聞いた話だとこれは実は家畜にやる飼料のカスだったらしいよ。おえーっていうくらいまずかった。

高校1年の時に地理の先生から、「お前たちの飲んだ脱脂粉乳は牛乳より栄養があるちゅうて騙されたかんしれんばってん、牛乳のカスなのにそげなわけなかろうが、そいが入っとる袋には [for animal] ち書いちゃったつぞ」と教えられました。脱脂粉乳はうちの弟世代までは体験してるから、かささぎさんやぼんさんも御存じでしょう。
「日華ゴム」の件、実は私らも子どもの頃、親の影響でそう言ってました。

ろうりーさん。八女郡のほとんどの中学校が完全給食でっせ。現在もなお。もちろん、わたしたちが中学生んときも。

あら。ろうりーさんになってた。失礼をば。
ろいりーさん。

アイヤー!なんと八女は進んでる!私は1979年に東京に来て、中学でも給食があると聞いてアッと驚くタメゴロー。でも、やはり区や市によって違ったようです。だからやはり、小中学校は市町村の方針次第、ちなみにかささぎさん、私立中でも給食のところあるし、どっちみち給食費は自腹です。

たいがどらまみました きょねんはあつひめまったくみなかったけど こんどはみるよ 妻夫木くんが主役だからね

なに 脱脂粉乳
はなつまんでイッキ飲みしてましたなあ
そうだった
当番で給食ひを徴収してましたね
給食ひ払って貰えない家がありました

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