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2009年2月28日 (土)

波郷の門、秀野の門、かささぎの門、希望の門。

きぼうさん
ひとつお尋ねしてもよろしいですか
石田波郷の
綿蟲やここは屍の出でゆく門
この最後の門は、やはりモンとよむのでありましょうか
ずっとトとよんできたため、モンのルビにとまどっています
お考えをいつか日記にでも書いていただけませんか
   
      そこつもののひめの
ひめの さま

こんにちは。
メールありがとうございます。


波郷の句のなかでも、有名なもののひとつだと思いますが、

 綿虫やそこは屍の出でゆく門

をわたしは、「モン」と読んでおりました。字余りのモンを句尻におくのがこの場合、落ちつきがよいように長年(そう
意識せずに)思っておりました。
ひめのさんに問われて、あらためて自省してみますと、わたしは病床の波郷が落葉して寒々とした雑木林をすかして、療養所の門を見ている、という具体的なイメージを強固につくっておりまして、その中で「屍の出でゆく門」が詠まれていると思っております。
おそらくその背景には、わたしが少年時代から自転車で石神井・田無・清瀬あたりの雑木林や麦畑の間を走り回って、具体的によく知っているという個人的な事情があると思います(今はすっかり都市近郊宅地に変貌しましたが)。
わたしの解する波郷に即して言えば、「屍の出でゆく門」の響きの奥には、“地獄門”とか“肉体の門”(田村泰次郎は近すぎるかな)などの、人間苦や世界苦の象徴としての「門」があるように感じられます。

この後は蛇足の憶測です。
ひめのさんの、


 綿蟲やここは屍の出でゆく門

は、もし、単純なタイプミスではなかったとして、「ここは」とご記憶されておられたのだとすれば、わたしのイメージする「門」とは、作者にとって距離感がまるで違っているように思います。より強い切迫感をおぼえます。「ト」はそういうことと関連があるかな、と考えたりしている次第です。

大江希望
大江希望さま
拝復。
丁寧な返信をいただきまして、ありがとうございました。
そこは!そこはでしたね。はあ~・・・脱力してしまいました。
なんとまあせっかちに生きていることでしょう。
確認してみました。たしかにそうです。
みごとなフォローまでしていただいて、赤面のほかありません。
もん。肉体の門、は読んでいません。こんど気に掛けてみてみます。
石橋秀野の秀句ではない句に、
菖蒲湯へ罹りし留守のかどの錠  昭和十六年
というのがあります。この句の「かど」は、門だとおもうのですが、
カドといういいかたをきっちりとひらかなでしてみせる秀野に、
なにか強いこだわりをもっていたのだろうかと思ってしまう。
希望さん、このかど、どう思われますか。
また暇なときにお返事くださいませんか。
ありがとうございました。
冬日宙少女鼓隊に母となる日
ふゆひそら・ふゆひちゅう。ふゆひそら。とおもっていた。みづえさんは、ちゅうでしたね。
それと、
寒椿つひに一日の懐手
これはヒトヒとおもっていた。イチニチでしたね、みづえさんは。
あと、
日盛のシャワー痩躯を荘厳す
ソウゴンとよみたかった。ショウゴンでしたね、みづえさんは。笑
捕蟲網踏みぬ夜更けの子の部屋に
ホチュウアミと読みたいがホチュウモウと読んだみづえさん。
ただ、これは意見が一致しました。
創痛や春の山鳩応えつつ
こたえじゃなく、いらへつつ。いらえる。大和言葉ではございませんでしょうか。
でも、やわらかい。秀野もいらえるということばをつかっていた。
       姫野恭子
ひめの さま

わたしは、石橋秀野の名は知っているのですが、稀に歳時記などで目にしたことがあるという程度で、まとめて読んだことはありません。山本健吉の奥さんだった人、ということは知ってましたが。
彼女は奈良生まれなんですね。出雲にいたことがあることは知っていましたので、「かど」について、山陰方言と関係ないかな、とまず思ったのですが、それはわたしのハヤトチリでした(ひめのさんが昭和16年と付けておいて下さった)。


  菖蒲湯へ罷りし留守のかどの錠
の「かど」についての感想を ひめのさんから尋ねられて、わたしは子供のころ鳥取県日野郡で育ちましたので、その山村でいう「かど」をすぐ思いました。農家の作業場にもなる「庭」のことです。その山村では「門」のある家といえば白壁の門長屋のある村長さんの家などで、わたしの育った家もそうでしたが「門」というべきものはありませんでした。村長さんところでも、「門を閉じる」というべき「門」はなかったです。
でも、村の道とそれぞれの家の「かど」との境界は明瞭で、わたしの家の場合は、3,4段の石段でした。村を流れる小川を跨ぐ小さな土の橋が境界となる家もありました。もっと漠然と、石がいくつか地面にはめ込んであるだけという家もありました。
「かどの錠」ですから、この「かど」は門を閉ざすなんらかの装置(簡単な木片を落とし込むようなものであっても)がついている門であって、戦前の都会の小さな板塀の家などをわたしは想像します。「かどの錠」というひらがな表記については、「門の錠」では、いかにも厳重な外世界と内世界を遮断する“近代的なキー”になってしまうことを秀野は避けたのではないでしょうか。おそらく、その彼女の語感の背後には、わたしが「かど」という語に「庭」と「門」の両方を思い浮かべるのと同じ、大和言葉の世界があるように思います。
わたしの感想は、こんなものです。石橋秀野を検索していてAmazonに姫野恭子さんのご著書があるので驚きました。なお、「罹りし」では意味がとれないので「罷りし」としております。
大江希望

昭和の話をしようよ。の4

みんなで懐かしき昭和を語ろう。

 
かささぎの旗の共同風呂コーナーです。
都合のいい時間に来て、きおくのもやいぶろにゆっくりのんびり浸かっていってくださんし。
いまのところ、九州の筑後地区出身者が多いです。(管理人)

spa裸電球が灯りチロリン村が始まる頃、共同風呂のお湯が沸いたことを知らせる「カンカンカン・・」と、板を打つ音が近所中に響きわたります。
「もえぶろ」とか「もやいぶろ」と呼ばれていましたね。
脱衣、洗い場はきちんと仕切られていましたが、湯船の下はつながって、浴槽は1個になっていました。
私の町内は毎日どこかの家が順番でお風呂を沸かしにいってました。
その時は祖母に連れられて薪くべを手伝いました。
たらいを卒業した赤ちゃんも、嫁いでこられた若いお嫁さんも、人の手を借りるおばあさんも、み~んないっしょに入って賑やかでした。
おかんのんこがある時、近所のおばちゃん達から「○○ちゃんな、さるのあかちゃんのごたったよ~」ってよくからかわれていました。小さく痩せて生まれたのでシワシワだったようでした(^_^;)

やだなあ、エメさん。
またまたコメントが集中しそうな、話題を出しちゃった。共同風呂かあ、なつかしいなあ。「もやいぶろ」そう言ってましたね、確かに。そして、行ってましたとも、ばあちゃんと。
ばあちゃんたちの情報収集の場であり、社交場でもありました。小学校中学年のころ、自宅に風呂場ができるまで、毎日毎日通いました。記憶が確かなら、そのころ、風呂場の角には手押しポンプがあって、しゃこしゃこやって、水をくみ出していた。でも、まさかあの大きな風呂桶にはポンプで水はってたわけじゃないよね。

いやそのまさかだとおもうけど。
エメさんの文章、なつかしくって泣きました。
どっこの過去にもかえりたくはないけど、ばあちゃんに連れられていっていた共同風呂のころにはかえりたい。うん。かえりたい。半年しかもたなかったそろばん塾通い(十歳のころ)、まっくらな道、途中おはかがあるところをだだばしりで帰ってた。だんぜん、夜の時間がむかしの昭和のころは豊かだったなあとおもう。やさしいひとたちばかりがいた。
それと。
ことし、わが町(村か)納楚のきりあけ商店が閉店しました。
ながいながいつきあいの近所の小売店で、物心つくころから十円もっておかしを買いにいってた店なんだよね。いつもなにかおまけしてくれた。さいごに父はたばこを二カートンかって、それで幕。感無量でありました。よく村のおとこしが枡酒を飲んでいた。あの人もあの人も、もうこの世にはいない。むねがいっぱいになるね。さみしいね。桐明商店さま、ながいこと、ありがとうございました。本当におせわになりました。

あべしげさんのブログ、いつも、現実の切り取り方に脱帽する。
さすがにプロ。さすがにブン屋。

ショッピングモールにもののあふれゐてホントに欲しいモノが見えない

2005年芥火賞応募作品「街騒のなか」から

大牟田のイオンモールのオープン日が延期されたり、佐賀のモラージュが閉店では?の噂を聞いたり、大型ショッピングセンターはこの不況をどう乗り切るのだろうか。
少なからず私たちも若干の賃金カットを余儀なくされている。ボンビーな生活は慣れているからどうってことはない。
西日本新聞の「価格の向こう側」シリーズにも書いてある。米をたいて自分で握れば20円のおにぎりだが、コンビニで買えば105円はする。「年越し派遣村」に行くような人もコンビニでお金を使っている。現代の人は自分の食を自分の手でまかなおうとしていない。
わが子が小学生の頃、地域懇談会というのが夏休み前にある。「学校に対するご意見を・・・」と司会者が言うので、「子供たちが自炊できるように家庭科にもっと力を入れてほしい。」と言う意見をだしたが、誰も何も答えてくれず、サーっと流されてしまった。
自分で料理が出来れば、子等はコンビニに行かず、店の前にたむろする事もなく、集団でホームレスを襲う事もなく(短絡過ぎるか)いくとおもうのだが。
土曜の朝からこんな事考えているわたしだが、お惣菜売り場には助けられていることもある。近所に化粧せずに歩いていけるお店がなくなってしまうのは困りものだ。
これから年をとって、車の運転ができなくなったとき、買い物に行くのはどの店だろう。地元の店を大事にしよう。

 帚木蓬生って、森山光章さんのお兄さんだったんですか!森山さんは1つ年上で同じ高校、授業中もフランス文学などを読んでいて勉強せず、1年留年し2・3年と同じ学年だった。クラスは違ったけど友人を介して何度か話したことあります。3年の時の文化祭では、校舎2階にあった講堂の中をバイクが突っ走るという、当時流行った「アングラ演劇」を上演するなど、何かと話題の多い人だった。
 その後、塾の先生しながら俳句やったり詩集を出したりとか、お兄さんが何かの文学賞候補になったとかいう話は聞いていたけど、いやはや、そうだったのか。

こうづひょうろくはもりやまみつあきの後輩もしくは同級生だったのか
世間はせせこましいもんだな
その懐旧談は かささぎの知ってる怪人のイメージを破りそうで優しく補完する
十年前一度あったその人は とても静かで無口で だけど親指で大きな体をプイと圧せば
お経みたいな難しい漢字がうじゃうじゃ際限なく湧き出てきそうな怖さがあった
小郡の怪人と密かに名付けて畏れ敬っていた
私生活はまったく知らん
ただ文韻中に 森山さんがそう書かれていた はわきぎそうせいは兄だと

森山光章に捧げる歌二つ

帚木に影といふものありにけり  虚子

帝王のかく閑かなる怒りもて
割く新月の香のたちばなを    邦雄

あら
なまえ間違えました
ほうせい◎ そうせい×
杉山のオンジイに そこつ者と言われても
同感ですというほかない
まことに失礼致しました

ろいりさんが俳人の森山さんと同窓と知って、偶然とは思えなくなり、文章をまるごと引用しました。
読まれてください。
去年出席した保健医療経営大学の創立記念行事で、かささぎが傘のことで話しかけたお方は井手信という偉いお方だったらしく、そのことも偶然とは思えなくなりました。ぼんが前に貸してくれた小冊子に、この井手信というひとの書かれた文章がありましたね。なにも知らないのに、ひっぱられてしまいました。

森山光章と橋章山

橋章山って誰どす?
   ↓

そうだった。赤面。おそれいりやの鬼子母神。
このおそれいりやの・・・のフレーズは、鍬塚さとこさんから四十代のころ習った。ちゃんとものごとにはルーツがあるね。ははは・・かんらからから。(とごまかしてそそくさとにげる)

木曜日の夜、私は三ノ輪線と言う東京で唯一の路面電車に早稲田から乗り、鬼子母神を通って大塚に行った。

ええっまだ路面電車があるんですかい。さくらさん。
みのわせん。みつのわせん。みつわせっけん。
きしもじん。
そその鬼子母神はどっかでどなたかのおはなしのなかに出てきたのを入力したことがあります。ちゃんと指が覚えています。ちょっと確認してみる。円交だったっけな。たぶん。まず思い出すのはそれ。大塚。ウン間違いない。

三ノ輪橋とうところが基点で昔は三ノ輪線と言ってたようですが、今の正式名は、都電荒川線、鬼子母神前駅です。
http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/toden/map/index.html

都電と熊野前で交わる、この線の名前も好きです。
   ↓

 「おそれ入谷の鬼子母神(きしぼじんorきしもじん)」「ピーピー、ドンドン、神楽坂」「酔って九段の坂の下」「銭が内藤新宿で」など、江戸っ子の洒落言葉、昔、舟木一夫の歌で覚えました~他にも「その手は桑名の焼き蛤」とか。都電荒川線は早稲田の次が面影橋、「面影橋から天満橋…」じゃなかった(これは六文銭や吉田拓郎が歌った歌の歌詞)、大塚や王子を通って、終点は近くに吉原や山谷がある三ノ輪という、東京都唯一の路面電車、と言いたいが、東急世田谷線も一部路面を走っている。
 ところで、この荒川線に私の名字と同じ駅があるのであるのである。1度行ってみたいと思いながら20年近く、まだ下車したことのない駅。

 ついでに参考ながら、入谷の鬼子母神近くには林家三平の記念館「ねぎし三平堂」、「子規庵」「一葉記念館」という見所あり。何年か前行って、三平のCDを買ってしまった。

樋口一葉。と乙骨まき子(太郎乙長女)がおなじ歌塾、萩の舎で学んでいたのではなかったかなあ。とても元気がいい勝気なまき子さんがイメージとして浮かぶ。どんな歌を詠んだのか。
ろいりさんのなまえ神津兵六にまだ執着してるのは、ろいりには苗字がないからです。名前だけは正面をむいていてほしい。という視点から、神津だと、きちんとした情報を発してくる。本人はいやかもしれないけど、受け取る側には逃げない何かがある。

堀川バスって慰安旅行には良く乗せていただきました。
確か八女のバス会社でしたが、何かありましたか?

さくらさん
こないださくらさんの夢をみました
会ったことないのに何故か解るとこが不思議だった
ウエストにベルトつきの紺色の半そでワンピースだった

堀川バスは今も頑張っています

過去の透視術を持ってるの?
そのワンピースをお見せしたいほどです。
紺の半袖ワンピースに、紺と白の細かいストライプでベルトを作ってもらいました。
そのストライプ柄で、襟ぐりと袖口に縁取りをしてもらいました。
デザインをこのように指定して仕立ててもらいました。

新大阪-鹿児島間を直通で結ぶ新幹線の名前が決まりました。「さくら」だそうです。

乙さん、さくらさん。

わたしも夕方のニュースで、新幹線の名前が「さくら」に決まったのを見て、すぐ、さくらさんを思った。でも、かささぎどんと違って、顔がわからない人の夢はみたことない。笑
紺色のワンピースのイメージ、わかります。
さくらさんの写真に出てくる、女児用ワンピやストライプの木綿のワンピ。清楚できちんとしたイメージ。さくらさんって、きっとそんな女性だと思う。ぞろぶくスカートは決して履かない。ぞろぶくスカート崇拝者のわたしとは、対照的だね、きっと。

 堀川バスって、八女に本社があったのか!そういや、小学校から高校まで、バス旅行と言えばほとんど堀川バスで、その理由は西鉄バスより安いからと聞いたこともあるけど、真偽のほどはわかりまへん。
 浪人生の頃、西鉄久留米駅と一丁田の間ぐらいにあった堀川バスの営業所みたいなところで、バス掃除のバイトをやったことあるな。昔は久留米市内も、今よりは堀川バスが走っていたような気がする。 
 というわけで、今朝堀川バスで検索してみたら、ヤフオクに新型のバスとボンネットバスの、チョロQセットが出ていた。1200円、買おうかなと思って迷いつつ、昼間職場でもう1度見たら、既に売れていて、惜しいような、どうでもいいような気分に。ボンネットバスが走っていた記憶はかすかにあるけど、みなさんどうですか?

あります。みたことあった。あの色独特だし、むかしは野暮天ぽく思えたけど、この年になるとセピア色とかキャラメル色とかとおなじ暮色なんだ。いい色。
それと今朝厠でjafのおたよりを読んでいたら、最後の頁にカンカンに入った働く車のちょろキューセットが載っていた。ほしくなったけど、六千円もするので、思いとどまった。じっさいにいろんな部品が動くって書いてあったから、さぞや楽しかろうと思った。

せいこさん。わたしはさくらさんのお写真を拝見したことがある。高橋甲四郎先生が見せてくださった。正統派のクラシックな美人でした。
ある医院の窓口勤務だったころ、失礼のないよう患者さんの似顔絵を描いて名前を覚えた。ある上品な欝の婦人が、医院にカシミヤの毛布を寄付してくださったり、おいしいケーキを差し入れしてくださったり、フランス焼き菓子の作り方を教えてくださったりしてたのですけど、その人のお顔、今も浮かぶときがある。亡くなられていると思う。残像力、強し。

こんばんわ
堀川バス>>通学や社会科見学、修学旅行、などなどたくさんお世話になりました^^
今は宅配などで個人の荷物が運ばれますが、昔はよく、バス停の切符とかを売ってる商店のおばちゃんが数個の小荷物を運転手さんに預けてありましたね。そして山手や途中のバス停まで運ばれていたんだと思います。
busほんとに日々の生活に密着した交通手段でしたね☆彡

堀川バスには格安の日帰りバスツアーが時々出る。前の職場にいるとき、5~6人で利用していた。温泉入浴付きで、¥3980 昼食も食べきれないほどあります。おみやげを特別買わされたりということもなく、気軽に行けます。良心的です。

かささぎさん
さくらさんの夢、みられたんですか!
彼女はイメージどおり、素敵な女性です。
甲四郎先生の写真も、そうだったでしょ。
背もたかくすらっとしていてよかおなごしっていうのかな。
方言の使い方も最近忘れかけています。

耳がかゆいなぁと思っていたらさんざんうわさされよったですね。
紺白グレーの世界から脱皮して紫ピンクオレンジ黄色と何でも挑戦しようと思っています。
ひめのさんが見たという写真も霜降りグレーのじみーなジャケット着ていたと思います。
甲四郎先生がエッセイの受賞でもらわれた大きな花束を、飛行機に乗せて持って帰れないからと私がもらい受けに行ったホテルで撮った写真です。
どこまでも花が付きまといます。

ハンドルネームの「さくら」は、東京の桜の花を撮ったことがカメラの始まりだったので安易につけた名前ですがもう8年ぐらい使っています。
寝台列車の「さくら」は九州までの往復に何度か乗ったと思いますが、今度は新幹線に受け継がれたんですね。

そうです、そしてペットの牝のなづけの第二位でもある。さくら。社犬とおなじ名。で、今日車検がおわりました。よかった。
エメさんへ。
エメさんの書かれたことを読むと、すぐ伝票に細い針金が結んであった荷物にくっつけるのを連想しました。なつかしかです。
思い出って、そんな具体的なモノ一つで、どっとあふれでてくるものなのですね。

荷札ですね♪
国鉄の荷預かり窓口に大きな荷札をつけた荷物をよくお願いに行ったものです。
それには相手の住所とこちらの住所を書きました。
ついこのあいだのような気がしますが、まさに昭和時代の話ですね☆彡
車検がすんでよかったですね。 落ち着いて運転できるでしょうrvcar
最近は何をかけながらの運転でしょう~。 当方は季節はずれなチューブでした^^cd

その昔、上京したときの引越し荷物は、国鉄でチッキで送りました。
あの荷札と同じ構造の紙と針金は、今も、大災害時に患者を重症度別に仕分ける(トリアージといいます)時に、患者に括り付けるのに用います。ちっとやそっとでは外れないので重宝します。

私の職場では棚卸しの時に使います。丸巻の布地が何メートルのこっているかをはかって、荷札に記入するのです。
乙さんとは反対に、棚卸しが済んだ後はずしていくのですが、外れなくて、てこずります。

チッキという言葉を遠い記憶から思い出しました☆
トリアージという言葉は初めて知りました☆
棚卸しの時にも活用されるのですね☆
なるほど~☆☆☆ 
私はたまのフリマに値段を書いてぶらさげます。
色んな方面に今でも活躍してますね~hospitalhairsalondenim

荷札、このごろまで引き出しにありました。
チッキとはどんな意味なんでしょうね。
確か旅行する時切符を見せて頼んでなかったですか?
大きな荒縄で手際よくきゅっと締めて荷物を作ってくれました。元海軍で国鉄勤務だったおじが。
紐を結ぶとかものたたむとか整理整頓とか軍人だった人はものすごく綺麗です。
いつ船が沈んでも敏速に身の始末をして逃げられるような訓練をしているからです。
漂流してるところに縄はしごを投げてもらった時、しっかりつかまって助かる訓練までしています。
命を粗末にしたかの様な言い伝えがありますがけしてそんなことはありません。
わずかな水で軍服を真っ白に洗うことまで叩き込まれているので身ぎれいにします。
今でも自分の下着はお風呂に入った時自分で洗うおじいさんも居ます。
戦後教育の人のほうが全然だらしないです。

話がそれまして。

友人に自衛隊関係者がいるのですが、(すでに退職されてます。)バーベキューにおよばれしたとき目を見張りました。火おこしから設営、その他てきぱきとお父さんがするのです。うちでは考えられないのでびっくりしました。
でも、家に入ったら何もしないんですって。それもおかしいよね。自衛隊訓練は厳しそうですね。それよりも厳しいのが、久留米の「梅林寺」での修行だそうです。新入社員教育が時々行われるそうですが、皆帰りたがるそうです。

2009年2月27日 (金)

攝津幸彦と高岡修にみる伝統

高岡修句集『透死図法』30句を読む、を読む
   
(九州俳句誌 星永文夫抄出)   

今日、「おくりびと」をみてきたばかり。映画の中の「死」は美しかったけど、高岡修の「死」は目をそらしたくなる言葉に飾られている。
同じ「死」なのに。どちらも受け止めなければいけないのでしょうね。

参照:「糸の夢」ブログ
http://houyume1150-4.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-bcf7.html
ついでに「マリオットの盲点」あっさむさんのブログも
http://assam226.tea-nifty.com/mariotte/2009/02/post-b1fd.html

高岡さんの俳句を 好きではないと思っていた。
だが、 この星永文夫の解説は良く書けているなと思うし、編集部は評者の人選が的確だと思った。

あしびきの 山鳥(やまどり)の尾のしだり尾の
   長々し夜を ひとりかも寝む

          柿本人麿(3番) 『拾遺集』恋3・773
この和歌が本歌取りしているのは、

桜咲く遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬ色かな
 
          後鳥羽院 『新古今和歌集』春歌下・巻頭

そこへと収斂してゆく歌の伝統を、 詩人も受け継いでいる。

死界までその尾を垂らす山ざくら  高岡修

アネモネが血を売りにくるこの夕べ  修

アネモネは「キリストの赤い血の滴」。
その由来は、十字軍の戦死者の埋葬地に聖地の土を撒いた翌春、その墓地が赤いアネモネで覆われたことから。アネモネは聖地パレスチナの自生花で、巡礼者が広げたらしい。
血を売りにくる、とは何ぞや。
ユダヤ教/キリスト教の価値観の押し付けで流血を招いている昨今の中東情勢がイメージとして重なる。

乙四郎
深い読みをしてくれて有難う。
アネモネとくれば、 我々はすぐ、 故・攝津幸彦の 「姉にアネモネ」 を思う癖がついてる。
攝津幸彦もすごく魅力的な俳句を書いた人でしたが、 高岡修はまたそれとは異なる。
俳句の書き方は異なっても、懸けておられるものの大きさは見えるから、 なんとか解りたいなあといつも思っていた。
白鳥の句とか自死情死はとてもきれいな句で印象的だった。

春の兵六万

春の兵六万

宮の陣・八丁島(はっちょうじま)の信号から見える景色。

兵六万 端間遠望(はたまえんぼう)と同じ信号からの景色です。
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-1dae.html

兵六万 
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-e2f8.html

昨日ここを通りかかったので、以前撮ったのを思い出し、写す。
青いのは麦畑のいろです。

無線機を届けに

無線機を届けに

昨日、現場に立っている者に無線を届けました。
片側通行の現場で双方の距離が隔たっている時には不可欠です。
ところで。

201号線と322号線を間違えてしまいました。
道を号数で覚えていないかささぎは、大刀洗へ行くのに田主丸へ行ってしまい、無駄なエネルギーと時間を費やしてしまいました。引き返す時、なきたかった。しかも車検だったので、代車だし、とほほな日でした。いや、そんなことより、無線を待っていた隊員さんを長く待たせて申し訳ないことでした。このアホ事務員が。とおもったろうね。

今からでも間に合う。大学とすいぜんじ海苔。

こないだ息子が新聞をみながらこんなことをボソッとつぶやいた。

「あー保健医療経営大学がのっとらん!!」

「今からでも間に合う大学一覧」の中に入ってなかったらしい。
なんでじゃろう。ひどいね。いくら「下流大学」でも、そんな継子いじめはひどかね。
こないだの報道のしかたといい、この仕打ちといい、なんでじゃろう。
大学の背後にある政治家がついてると思われているからだろか。
かささぎも最初そう思っていたから人のことはいえないが。

子は、去年の今頃、ばたばたとここの受験を決めた。
のほほんとして、核がさだまっていなかった。
中流大学の環境学科に入って二年目。突然やめるという。
ここらのことばでいうところの「ふーたぬるい」生活を中断し、半年派遣社員として岐阜へも行き、世の厳しさを知ったばかりのころ。
なにか芸ができねば世の中は渡れぬことを身をもって知り、岐阜から戻ってきた。
一年たち、やはりここ有明の下流大学に入学してよかった、と子を見ていて、思う。
本人が落ち着いた。
大学について何一つ知らず親のカンだけで受験させたけど、本当に良かったと思う。
生き方の問題。これからの世の中を渡る学問だと思う。
だから、なにか応援の文章を書いてあげたいけれど、悲しいかな、おばさんは書き方がわからないのよね。
親御さんや先生がたで、こどもや生徒の進路について、とくに就職難の今、迷われていらっしゃるのであれば、考えて見られたらいかがでしょう。
その際、大学へ請求なさるものは、「保健医療経営大学紀要」がよろしいかと存じます。

ところで関係ないけど、昨日から今朝の西日本新聞一面に大きく水前寺海苔の件が出ていた。
どこか黄金川あたりを開発する?のに伴い、絶滅のおそれがある。
そこで開発をやめる。とか、そういうことなのかな。(ちらっとしかみてない)

書いたことがあったから気になって。↓

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_ad72.html

検索したら、http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%8E%E3%83%AA/

これ。なにか腑に落ちなくない?

芭蕉の連句にすでに出ている。すいぜんじ。という名前で。
なのに、それ以降の食用決定では、はなしがおかしかろうもん。
って風に、情報は錯綜する。

膨大な情報の中から、何が真実で何が誤りであるのかを判断するのは至難のわざ。
だが、縁があれば、真実への道は常に用意されている。

2009年2月26日 (木)

川柳誌  2008年点鐘雑唱  

かささぎの旗では、縁ある方々から戴いた御句集、同人誌を時間の許す限り紹介したいと思っております。けさは、れぎおんの表紙絵とカット絵でもおなじみの堺市の柳人・墨作二郎氏が地道に二十年以上に亘って発行しつづけてこられた『点鐘(てんしょう)』誌の年に一度のアンソロジーをご紹介いたします。
あとがきをまえがきといたします。本日はパート1。
現代川柳の潮流が概観できるかと思います。
スミサクさん、毎年ありがとうございます。
しっかり読んでおります。俳句と交わりつつ俳句を超える気概。
連句の雑の部で出したい句がたくさんある。
恋句も俳句より多いし、有季定型川柳もある。
連句人も数人いらっしゃって、お!と思いながら読んだ。
ただ、時事川柳は弱い。
これはしようがない。政局や世の中の動きがものすごく速くなっている。
(余談ながらきのうもお上からわが職場に失業者対策の処置をするから福岡まで出向くようにとのお達しみたいなお誘いの電話が何度もありましたが、はっきりいってありがた迷惑。おそすぎる。あとひとつきもせぬうち、最需要期はおわる。それ過ぎたら交通誘導警備業界は閑散となり季節労働者はさる。もっとはよせんかい。とおもった。)
いま読んで意味がわからぬ時事詠だろうと思われる句が散見された。
そういうのは毎朝、サラリーマン川柳でよむべきなのだろう。
普遍とはある意味、真っ向勝負の世界、それが川柳だから。

『点鐘雑唱』2008年刊

  現代川柳・点鐘の会

▼あとがき   墨 作二郎

恒例通り「点鐘雑唱」を発行して、それも二十二冊になる。
思えば多難の年であったと感慨は殊更深い。
漢字一字が「変」と決まって、経済不況は殊更に深刻。
この先も尚変転を予想される。
この様な時代に川柳をどう書けば良いのだろうか。
時に先達の存念を聞いて見たいとも思うばかりである。
点鐘の会も二十三年を迎え、常に「これからの川柳」を目指し、新たな川柳開拓を心がけて来た。新しい仲間が増えることにより、共々研究を怠らぬようにと心掛けている。「点鐘雑唱」は一年の成果を纏めたものであるが、繰返し読んで吟味して頂きたい。
点鐘誌への投句者も順次変化しつつあるが川柳に対する情熱は忘れず進展しつつあると自負している。相互に教えられて実力が向上するのである。点鐘勉強会も点鐘散歩会も一途に前向きで、その成果の程を常に好もしくしている。今後は更に深遠なる充実を心掛けたいばかりである。
先に「点鐘散歩会」の記録を一冊にしたが好評であった。
これは一重に取纏めに懸命だった有志の尽力によるもので感謝のほかはない。
この様に点鐘の会の今後は、良い仲間の協力体制で守られていることを忘れてはならない。各々に一層の活躍が望まれるのである。
新しい年を迎えて新しい作品が発表される。
その進歩と啓発を心より願っている。

   平成二十年十二月

作品

墨 作二郎

版画には番屋風景 硝子の浮き玉
万華鏡つぶやき ゲルニカ空転する
いつの世の銀貨 ゴンドラ着地点
壁に魔女の仮面が並ぶ エプロン売場
「蟹工船」時間差 銀行でない銀行
石柱にテニヲハ二月 迷彩服
橋の向こうは雪屋根 座り胼胝
思い出したように花に水やる 終戦忌

渡辺隆夫

補聴器を切ると桃源郷にいた
とげ抜きに来る銀座カンカン娘
原油高騰につき風葬可・水葬可
亀鳴くと鳴かぬ亀来て取り囲む
女将の特技は種回し皿まわし
農水の阿保ぼけなすび油むし

里上京子

縋りたい藁がなんだかわからぬが
鏡はだませてもだませない心
朝顔の蔓にきわどい視線あり
繋がったままの短縮ボタンあり
ボランティアの名札を鼻にかけている

中村迷々亭

共稼ぎ槍と楯とを持ち替える
遮光紙をやぶり遠景たしかめる
耐え抜いた人を乗せてる人力車
合鍵に一人じゃないと言い聞かせ
錆びたナイフ隙間だらけのピカソの絵

佐藤純一

爪が伸びたらブランコから下りる
うすば蜉蝣 十年日記書き出して
菜の花のはるか彼方に霊柩車
老婆心ながらと梯子はずされる
また曲がっているメランコリーな胡瓜

小池正博

湯豆腐やいくつあってもいい命
欄干の猫でもやはり怖いですか
善悪は垣根くぐってから決まる
木星が好きで月見うどんが好きで
指は蝋燭 火を消すときの心地よさ

春城武庫坊

決断の無痛無意識手術は無事
三日月に歩け歩けと連れ出され
癌手術して正月料理見てるだけ
いくつになってもチャンバラの血は熱い
もう七月 体重ふえぬ日が続く
蝉は合唱 気温が上るだけのこと

本多洋子

八ヶ岳冠雪ノコギリ岳いびつ
大仏の背なにぽっかり虚空の虚
泣きべそをかく外陣のおびんづる
なまはげ怒らせ山暗がりに雨
泣ぐ子いねーか介護保険は払えるか
いざという時の右手に紙コップ

南野 勝彦

一人になる子供になる私になる
今日もまた反戦の蝉鳴いている
やかましいと僕は言えない八月の蝉
汗を急ぐ いいことだったらいいのだが
赤とんぼこうしていよう暮れるまで
夏越した金魚の水を替えている

瀧 正治

昼の闇ぎっしり詰めるダンボール
記念樹が植えた順から枯れてゆく
カーナビで浄土の手前までは行く
神様が鳴らす自動の鐘搗き機
活断層の真上に当たる避難場所
哲学に浸る医院の待ち時間

瀬尾照一

七草粥から忘れずに小豆粥
ポケットに手を入れている負けている
単線の窓にちらり大和三山ちらり
新キャベツ新ジャガ おっと病院食
赤も黄もカンナは凛と立つ女
あさがおの元気を見てるひとりっ子

進藤一車

えにしときずな それに首吊り縄がある
冤罪や無人ピアノが鳴っている
駄菓子屋の匂い   後期高齢の匂い

杉戸金一

言霊がこれほど軽い日本語
ランキング本が完売 軽い脳ミソ
避難所か迷路か判らぬ案内図
こんなにも薄く切れるかマグロのお刺身

行列が出来ると 脳はむき出しに

阪本高士

ふるさとの景色を春の大皿に
みどり・緑 ちょっと昔のことですが
満月を見ているわがままなふたり
真っ白い猫が座っているページ
痛いところにそっと止まった糸トンボ

児玉怡子

読みかけの文庫本置き 爪を剪る
金木犀 
むかしの匂いすれ違う
海の高さと坂の高さが同じ家
一日いちにち蜜柑熟れゆく加齢かな
日本中が祭り 不景気な話

伊東マコ

煮びたしの茄子に根性説いてみる

井上恵津子

先生のオルガンに逢う皿うどん

小田明美

雪催い 今宵無口の人といて
ビロードの闇ちりちりと遠花火
あの夏に堕ちていきます火の花弁

今井和子

朝の自転車野鳩の声にせかされて
りんご割るその時ふっと母も居る
星を見上げて 
私を少し光らせて
ほのぼのと砂場に遊ぶ帽子たち
古い言葉の優しさはとっておく

岩崎千佐子

ぬくもりを一匙すくう散蓮華
猿芝居の猿の覚悟が落ちている
つぎはぎの堪忍袋裏返す
転がりながらみんなわすれてゆく手毬
言い訳を買いに走ったことがある
指揮棒が手垢まみれになってきた

岩田多佳子

足早に空き缶蹴って次の辻
サボテンに花を咲かせてさようなら
片虹を揺らし尺取虫の反り
わたくしの背なのビオラの軋む音


上野楽生

故郷が相撲甚句に盛ってある
遠い日の夢に出てくる紙芝居
介護付きホームが胸を張っている
右ひだり見てアメリカを見て立ち泳ぎ
原っぱに整列している ゴミ袋

大橋あけみ

介護まだ小さな傘が置き去りに
掌の中の海が溢れる日向ぼこ
ごった煮の中で人間らしくなる

小河柳女

信じるものは 裏の畑の茄子南瓜
表紙だけ変わる世相の深海魚
俎板の窪みで残照を刻む
秋の蝶耳の運河を抜けて 藪
食卓の欠けたところに黄水仙
裏口から入る やさしい人だった

笠嶋恵美子

喝采でサーカス小屋が揺れている
体温になるまで絵の具溶いている
雑音を吸いとる大き目のカンバス
原色に触れると指が熱くなる
ぼんやりと見ているマーメードの乳房
踊り場で欠伸している 日銀
列島の腰のあたりが病んでいる

加藤かずこ

ひび割れの街で孤独なロボットよ
煮沸する昨日の余罪消すために
鍵穴をするりと抜ける仔猫たち
少しずつ男が沈むスープ皿
ガタガタの巣箱をゆする老ふたり
逆転はなかった 父のちびた靴

神谷 三八朗

積めば崩れる 崩れたら積む石よ
ゆるい坂だがこの頃歳のことを言う
誰でもいい用だから 君に頼む
本心を聴診器にも聞かせたか
逢った土橋は別れる土橋 昼の月
踏切で待つのも旅のうちのこと

川上千寿枝

八幡宮鳩文字 日傘揺れている
正面から反対はせぬ 石庭の白
正論の通らぬ不況 海猫よ
棚田百選 金子みすゞの風が吹く
春の扉のひとつ開いて苺摘む
イエスマンの人生でした杉花粉
「吾亦紅」唄えば母の微笑んで

2009年2月25日 (水)

車検切れの車に乗って

気付いたときには車検切れで一日過ぎていた。
でもどうしても今日中に病院に行かなければいけない。
さんざん迷った揚句、その車ででかけることにし、ひやひやしながら
久留米駅近くのクリニックに行き、薬をもらってくる。
その帰り道。
ここを右に曲がると青果市場のある通り、背後は西鉄久留米駅通り。
赤信号になっても直進車が絶えず、とても怖い。
前を堀川おばばバスが通っていたから、くっついていった。
このバスが昔から藤山線を通っていたバスでしょうか。
としたら、なつかしーい。八女から天神まで朝五時半起きで通勤していた頃、利用してた。
西鉄バスにもお世話になったけど、地元堀川バスにもお世話になりました。
高校時代はスクールバスにも乗っていましたし。
軟弱だったので、自転車通学はしませんでした。
息子は自転車であの胸つきはっちょうの坂を漕いで通学しました。
ところで。藤山線、いつになったらもっと道が広くなるのだろう。
と思っていましたが、だいぶ今工事が進んできました。
完成まであとちょっとみたい。
狭い通りを、バスの車体を樹木で擦りながら走っていました。

高岡修句集『透死図法』評  星永文夫

高岡修句集『透死図法』三十句

    星永文夫・抄出

しののめの鳥類図鑑にある羽音
きらきらと助詞を殺しているひとり
水の炎(ほ)となる白鳥の発火点
花舗のくらがり亡命の白鳥を犯し
春暁を横抱きにして殺意くる
死界までその尾を垂らす山ざくら
春水に顔ぬすまれて失踪す
蝶を噛みいのちのにがさ満たす午後
永劫の綳帯で巻く蜃気楼
昏睡のたまご一個を揺り起こす
野遊びの夕べの空の挽肉機
暮れ果てて痴情あらわな野のすみれ
春夕べ水立ちくらむ瓶のなか
アネモネが血を売りにくるこの夕べ
行く春の頭蓋の窪の水たまり
煉獄がさくらすみれに逢いにゆく
この遊星のにおいすみれをどうしよう
死せば空に泥の虹吐くかたつむり
生たまご飲み野牡丹になりすます
〈死は思想〉蟻灼熱の地を噛めり
永遠のおとろえが見え罌栗揺れる
蝉の木を地の記憶より抜いている
海に来て死は昼顔を欲情し
かげろうは骨となるまで立ちあそぶ
こうこうと夢接木せる爆死の木
火口湖が飼う秋雲の溺死体
自死情死秋の湖心へ透きとおる
死者たちの指紋荒らぶる秋のノブ
死者たちの饒舌に輝(て)る夜の葡萄
姦淫は月光に舌入れてより

  高岡修句集『透死図法』

〈奢る死〉への刺戟に充ちて

      星永 文夫

高岡修は俳壇の中でももっとも異彩を放つ作家であり、詩壇の中でも確固たる位置をもつ詩人である。その両者の詩域に墻はなく、詩想の細胞が分裂し、拡大したり連続したりするとき、〈詩〉が生まれ、分裂せず、核自体が異光を放つとき〈俳句〉となる。この句集と、昨年九月刊行の『高岡修詩集』(現代詩文庫)とを合わせて読むと、そのことが明確になる。
それでも彼が〈俳句〉にかかわるのは、自らいう。少し長いが引用する。

俳句を俳句作品として異化させている機能としてゆいいつ解答可能なのが、切字を含む〈切れ〉の構造なのである。それを私は俳句のみならず詩の根源的な構造であるとしたいのである。もっとも、現代の詩作品において〈切れ〉の構造は複雑である。(中略)作品がまぎれもなく詩であるとき、その作品はどこかで(あるいは作品全体で)散文脈からの切れ方が、つまりは作品の詩的個性なのである。
そうであってみれば俳句の〈切れ〉の構造を検証することこそが、根源的な詩学を検証することにおいても、もっとも重要な事項となる。

 (「死の詩論」ー『高岡修詩集』所収)

そうだからである。『透死図法』を読み取る角度が、ここに一つ示唆されている。

       ■

『透死図法』はさまざまな〈死〉の透視図を展開する。
といっても、その〈死〉は〈生〉と隔絶された〈死〉ではない。
〈生〉の中に胚胎し、孵化し、果ては〈生〉を呑みこんでしまう、その予感にふるえる〈象かたち〉である〈死〉の諸相である。

海に来て死は昼顔を欲情し
かげろうは骨となるまで立ちあそぶ

これらが醸す〈死〉のエロス。〈死〉を荘厳で処理する日常を断ち切って、なまめく肢体(死体)を塑像する。ここに彼のいう切れが効果的に生かされている。

死界までその尾を垂らす山ざくら
永劫の綳帯で巻く蜃気楼

俳句的情緒たっぷりに浸る「山ざくら」や「蜃気楼」を、ずるずると死界へ引き込んで、そのまま美意識を剥奪した〈死〉の冷えた爛熟。

火口湖が飼う秋雲の溺死体
自死情死秋の湖心へ透きとおる

さまざまな〈死〉の形態を鏡のごとき湖に写し、検死官のように屍を撫でる。
〈美〉に昇華させるまで。かくてま一枚の透死図ができる。
などなど、奢る死、熟れる死、透ける死、はたまた狂う死、沈む死、迷う死、黙る死など、透死図法は多様多彩。
内なる未生の〈死〉を言語で紡ぐ、その手法は儀式めく納棺師のそれに似て美しく、静謐である。切れの妙致。
その点で、今年度もっとも異光を放つ、刺激的な句集であった。

『九州俳句』153号より引用

2009年2月24日 (火)

福富健男句集『異郷』評  高岡修

福富健男句集『異郷』三十句抄

     ( 高岡 修・抄出 )

多穴の流域舌の赤さの秋を走り
渡りゆく密航の窓つきそう弦月光
故郷の堰切れて卓をいろどる妻の手紙
霧が隠した山小屋の窓馬のぞく
髪刈られ村のゆたかな鳥瞰図
鍬(ホー)をなげるボス麦の刈跡燃えろ燃えろ
紅葉林のさびしい受話器汗ばむ僕に
アラビアの歌が呪文となるぶどう祭
方位失うまぶしさ赤い花弁水溜りに
ぶどう詰めた手の麻痺で夕焼の湖
びろびろと
蓖麻に吹かれて砂質の俺
霧が明るくて石油ポンプたちの首振り
首曲げてつっこむ小鳥たち戸惑うベトナム
まといつく母国語ウランとなる諂の空地
鳥くるくると落日を告げ一枚の麦秋
肉親のくぼみもつオレンヂ手さぐりの異郷
厚みます掌丘にびしびし多肉植物
霊柩車紅葉吸いこむぼくらの休暇
山際の虹言葉で温め合う村人たち
庭にバラ突き出し留守の日の妊婦
口あける影絵ぬるぬると泳ぐ芭蕉
霧の深みに背骨たててわが礼拝堂
青銅色の草てる六月ケネディー死す
紅葉の色ねられゆく森ゆたかな臨終
濃い影つけて歩く真昼白いけやき林
なにげなく菜の花をさす杜のやみ
叫んでいるから夕焼けている草の中
たびにねてしろい円柱ながくのこる
あやめいけるあらゆる壷の夜のしぐれ
あかい萩の一束たれて河童の笑い

福富健男句集『異郷』に寄せて

     高岡 修

句集『異郷』を出したいという連絡を受けたとき、福富健男は二つの希望を述べた。
ひとつは作品の全てを第二期の「形象*」から選びたいということ、もうひとつはその選句を私にしてほしいということだった。
私が「形象」に投句を始めた1968年、私はまだ十九歳だったが、福富健男はすでに旺盛な作句力を同誌に展開していた。
私が眩しく見つめた形象作家群のひとりである。
私は福富健男のその志と希望をうれしく受け容れた。
作業は全作品のコピーから始まったのだが、これが案外時間がかかった。
作品を探す途中で読み始めてしまうのである。
その当時の思い出にふけってしまうのである。
それはまたうれしい寄り道の連続でもあった。

「形象」への投句初期、福富健男は「海程」でも新人として嘱望されていた。
それゆえ、私の三十句選でも了解されるように、その頃の作品には、有季定型から離れた場所で俳句形式を屹立させようとする強い志向が見られる。
そうして今、そんな作品の中から私があえて推奨したいのは次の五句である。

多穴の流域舌の赤さの秋を走り
方位失うまぶしさ赤い花弁水溜りに
厚みます掌丘にびしびし多肉植物
霊柩車紅葉吸いこむぼくらの休暇
紅葉の色ねられゆく森ゆたかな臨終

一句ごとに試行されては確立されてゆくリズム、そのイメージの豊饒。
こうして書き写しながら私は幾度も賛嘆の声をあげてしまう。〈舌の赤さを走る秋〉〈方位を失うことのまぶしさ〉〈霊柩車が紅葉を吸いこむのかぼくらの休暇が紅葉を吸いこむのかわからないそんなぼくらの休暇〉そうして告げられる〈ゆたかな森の臨終〉。
何という見事な詩界の現前であることだろう。
ここには見せかけだけの手垢に汚れた意味などはひとかけらもない。
在るのは喩に昇華したイメージだけである。
四十年ほど前の現代俳句はこんなにも詩情ゆたかな作品群を有していたのである。いま私たちが立っている現代俳句の地平は、それから進化しているのか、後退しているのか。そうして私はこの句集の整理中に立ち止まった「形象」掲載の次の文章を思い出す。

「新しい芸術の養分は、つねに非芸術の領域に存することは、歴史の法則である。美術の歴史をひもとくと、ある時期に支配的な絵画様式が、その前の時期には非芸術として非難されたことが、しばしばであることを見出す。このことは、印象主義、フォーヴィズム、キュービズム、シュルレアリズム、アブストラクト等々が起こった時どのような非難や嘲笑をあびたかを想起するだけで充分だろう。(略)芸術が単なる繰り返しではなく、新たな価値の創造である以上、非芸術のなかにこそ新しい芸術の栄養が存するのである」
    (木村重信『現代絵画の解剖』)
かつて「海程」や「俳句評論」や「渦」といった句誌を中核とした前衛俳句の富を私たちはいつ失ってしまったのだろう。
句集『異郷』は私にそんな思いを抱かせてくれた貴重な一冊であった。

  超結社俳句季刊誌『九州俳句』153号より引用
       2009・2・15      

蓖麻:

http://www.botanic.jp/plants-ta/tougom.htm

▼ かささぎ読み三つ。

びろびろと蓖麻に吹かれて砂質の俺

びろびろと。というオノマトペが俳諧としての抜けを獲得している。
ひまし油の原料となるヒマ、この句ではじめて知りました。
誰も使わなかった蓖麻は、さらさらと零れ落ちる砂粒の俺に拾い上げられ、印象的な句になり、さぞや嬉しく本望だったことだろう。
風に吹かれているのはヒマの葉っぱのほうなのに、いつしか主客入れ替わっている。映像がうかぶ。

首曲げてつっこむ小鳥たち戸惑うベトナム

これ。かささぎは連句的に、ノーベル賞?だったか何の賞だったか知らないが、さいきんテレビでチラッと見た、海外の文学賞みたいなのを受賞して、スピーチでガサ侵攻反対を唱えた現代作家の顔が浮かんだ。きっとりっぱなことなんだ。でも・・・。こんなに離れたとこの人間になんにもほんとのところなんてわかりゃしないんだよよそさまの事情なんて。とおもってしまう。
りっぱなことは、なんとこっぱずかしいことだろう。

まといつく母国語ウランとなる諂の空地

書き写すとき、諂は焔の誤植ではないか。と疑う。
なんども読む、まといつくぼこくご。うらんとなる、へつらいのあきち。
まといつく母国語と、へつらいの空地がウランを核に等価契約を結ぶ。
それはいったいどういうことなんだろう。
安保反対するにしろ、賛成するにしろ、まといつく母国語。
へつらっている母国語。ウランを核に。ウランを核に。
核に守られながら。核を憎み。それに守られる。へつらう。
まといつく母国語。まといつくへつらいの空地。
空虚な暗澹と空虚な母国の・・・ことば。

そのことばでわたしたちはたましいのうたをかく。

(やはりかささぎは、三無主義の時代の人間だ。)

諂: てん。( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%82 )

まといつく母国語ウランとなる諂(てん)の空地  健男


2009年2月23日 (月)

給料明細、手書き!

毎月の交通誘導隊員さんたちの給料計算。
人数が増えてきて、たいへん。
100名近くの給与明細を毎月ひとりで手で書いてる。

計算機で計算し、明細書を書く。

多分旧石器時代のやり方。
パソコンは導入されている、三台も。
んが、なぜか手の方が早い。
信じられないけど、こういう世界が現にある。

ではきみに給料計算のやりかたをせつめいしよう。
まず、編成表と個人の出勤表とをにらみ合わせる。
ここに現物の写真をいれたいところだ。

編成表とは毎日どの現場に誰が何時から何時までどの車両でまたは自転車で徒歩で出動したかの記録ね。
出勤表とは隊員別の一目で見晴らせる一ヶ月の出勤表。でづら表ともいう。
毎日克明に記録してゆくものなんだ。
だから朝一番にするのは黒板の編成をそのまま編成表に書き写すって仕事。

翌日になると、予定の時間と実際の警備時間とのずれもわかる。
警備報告書が警備先の監督のサインをもらって帰ってくるから。

毎日どこへ誰が何時から何時まで出、残業がどのくらいあったか。
事務の仕事にとってこのチェックが、最も大事な作業。
多忙な今みなとてもきついので、交代していても伝票に記載されてなかったりする。
それをなくすのがチェックということになります。

ダブルチェックトリプルチェックをします。
わたしが見てセイネンがみて。ボスもみる。
この三つの眼で確認後ようやく計算に入ります。

一人の明細書かくのに、昼勤の一日がいくら、半日がいくら、夜勤の一日がいくら、半日がいくら。あと、上番後中止がいくら、、、、隊員の二級手当て。日曜手当て。・・ってふうに、びっしり書き込まないといけないんです。残業も一人一人異なっているし、間違えないようにやるのがたいへん、やはりまちがう。気付いたときは、翌月清算します。
こういうこともありました。
ちゃんと自分でメモしてる隊員さんなら間違いありませんが、繁忙期はみなそんな悠長なことやってられない。
こないだ、半年前の編成表と受託表と報告書の三点セットを確認する作業中、ある隊員と別の隊員を取り違えていることが判明。では今月の給料で調整しようとして、さらにまた同じ隊員の組み合わせで別の月、その真逆の取り違えが判明。だから調整しなくてもよくなった。わがミスながら見事だなあとかんしんした。

単純な仕事、しかし奥が深い。
味わい深い職場である。
いろんなことを隊員さんたちから日々教わる。

風媒花2  足立 攝

随想

風媒花(2)

  類句・類想問題とコンピュータ

     足立 攝

俳句は「世界最短の詩」であると形容されることが多い。
十七文字を基本として、その中に人生観や世界観を凝縮させるのだから、奇跡の文学といえるだろう。俳句を始めてその奥深さに驚かされている。

しかし俳句のこの短さは、同時に宿命的な問題を内包する。
その一つが「類句・類想問題」であろう。好むと好まざるとにかかわらず、俳句を愛好するものは、いつもこの問題と隣り合わせでいる。

類想を避けるため、表面的、類型的な捉え方をやめ、自分なりの突っ込んだ表現をするようにと説く選者もいるようだ。これは有益なことに違いないが、要するに「より良い俳句をつくりなさい」というのとほとんど同義であり、類句・類想問題の解決に迫っているとはあまり言えないのではないだろうか。

最近気になったものに、例えば今年の「原爆忌東京俳句大会」の作品がある。

原爆忌ことんことんと電車来る  河村 正浩

この作品は、本来大会の上位入賞句のはずであったが、大会実行委員会により取り消された。実行委員会の「ご報告」に次のような一文がある。
「(この句は)昨年第二位となった古川麦子さんの作品〈広島忌ごつんごつんと朝が来る〉との類似性を検討の結果入賞としませんでした」

ー 私は実行委員会の決定にケチをつけるつもりは毛頭ないが、「ことんことんと電車来る」と「ごつんごつんと朝が来る」に入賞を取り消すだけの類似性が認められるかどうか疑問が解けないでいる。河村氏の「電車」は、いわゆるチンチン電車のことだろう。広島も、長崎も、日本で数少なくなった路面電車の走っている都市である。かつて灼熱の光線と放射線に破壊された都市も、今では何事もなかったように電車が走っている。その路面電車ののんびり走る様子が的確に捉えられているではないか。
「ことんことん」はチンチン電車だから説得力を持つのであって、東京でいう電車、すなわち「列車」では単なる観念的な擬音になってしまう。その辺の感覚が東京の実行委員に伝わらなかったための入賞取り消しではあるまいか。どちらの作品もすばらしいので残念でならない。

さて、類句・類想問題に最終的な決着をつけるのは、コンピュータによるデータベース化以外にないと思っている。私自身がそれを生業としているから強くそう思う。なぜ類句・類想問題がしばしば人間性や道徳の問題となるのか不思議でならないのである。

コンピュータのもっとも得意とする分野が抽出、分類などを含む情報処理である。最近は曖昧な検索も自在にできるようになり、実用化の条件が整った。何を可とし、何を不可とするのかの基準を整え、実用新案の特許と同様に、全国レベルの申請主義で先行作品を保護すればいい。

その準備をする時期が、すでに到来しているのではなかろうか。

   足立 攝  大分在住

 超結社季刊俳句誌『九州俳句』153号より引用
      平成21年2月15日発行
   北九州市 福本弘明事務局長
   編集委員 堀川かずこ
     〃    夢野はる香 

2009年2月22日 (日)

風媒花1  河野輝暉

随想 風媒花 (1)

 「柩に未来」の不思議  

              河野輝暉

写俳、というのがある。
俳句と写真は相性がよいと言われる。
それは共に一瞬の心景を捕捉する表現方法が相似ているからだろう。
そんな俳句を理想として私も目指した。
そんな私の頭を一撃した文は高岡修氏によるものであった。
氏は現代俳句評論賞を取った論文の中で西東三鬼の名句に着目した。

広島や卵食ふとき口ひらく   

引用するとー 三時制の現前こそが詩の昇華への決定的要素だ。
爆死者に過去の広島、未来の卵、口をひらく現在、という三つ。
これ程に見事に三時制を形象化させた作品を他に知らない。ーと。
では、俳句は必ずしも瞬間湯沸かし器だけがいいのではないな、と暫くはおろおろする私であった。高岡氏が、先程「・・・作品を他に知らない」と豪語したが、その後、他にも知ることとなった。

今年*の九州俳句大会が宮崎市で催された。
大会選者として私も採った、下の佳作賞作品に瞠目した。

春光や柩(ひつぎ)に未来あるごとし   山下恵子

死は全ての終焉である。
なのに、死に未来がある様だ、とは何事かと訝った所にこの俳句の存立があるのだ。
人は死んだら最期、死体は単なる腐敗すべき物質だ、と思わされて来た。唯物史観偏重のこの思い込みは戦後六十余年、高齢者を含めて三世代にわたりインプットされた教育の歴史である。
「無神論難民」が量産されている。
その結果、社会的病理現象としてかつてのオーム真理教への狂信的逃避、自殺者年間
三万人以上、秋葉系誰でもよかった殺人、「千の風になって」への爆発的飢餓などが挙げられる。

だが、殆どの人が見落としている原因に、精神の不安時にその治療を精神病院や安定剤のみに依存していて、宗教的情操に無頓着であることが考えられる。
「千の風」の歌詞は宗教的である。
歌は一神教圏からの輸入品なのに、内容は多神教的である。
だから野球や仏教の如く輸出先の方で流行している。
日本人の宗教観は八百万神で一木一草に神を認識するアニミズムであり、土着の神社神道に具現している。かつ仏教的でもある。
「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりける
」とは道元禅師の詠みし和歌。
この和歌と「千の風」に使われている語彙は何と酷似していることか。
輪廻転生は「生きかはり死にかはりして打つ田かな  鬼城」として古来日本民族の死生観でもあった。
こう見て来ると、祖先から子孫へ命のリレーが営まれ、死は決して終焉ではなく「柩」は未来への代替新生への出発地点だ。

俳句教室で本句を示したら、私がまだ気付かぬ事を発言してくれた。
「この一句に現在過去未来が揃っている」と。
ハッとして三鬼の句に重ねた。
柩の過去、春光の現在、未来ある如し、と成程。
「柩」の字は、木箱に居る死者のために悠久な転生への祈りを語っている。

* 平成二十年

  超結社季刊俳句誌『九州俳句』152号より引用
     平成20・11・20

    編集発行 北九州市 福本弘明事務局長

2009年2月21日 (土)

『安楽病棟』を読む  松永伸夫

 『安楽病棟』 を読む

       松永 伸夫
       

1 はじめに

開業医であり作家でもある帚木蓬生さん*の作品(四六判、1999年4月15日新潮社発行)である。全462頁は30の話から成っている。装丁は、目次に続いてそのまま第一話が始まり、第30話のすぐ後には奥付が来ている。(このような構成は、聖書が全部で66の話=旧約聖書39話と新約聖書27話*から編集されていて、前言もあとがきも著者紹介もないのと似ている。)

この本『安楽病棟』 は、介護老人保健施設で働く医師と看護婦との目を通して、老人医療・福祉・介護のあり方について鋭く問いかけている。全30話は1話ごとに完結しているが、全体を通してこの本の底を流れているのは、現在の日本が直面し将来にむけて善処すべき課題の、老人医療対策である。
特に高齢者医療・看護の問題に関係する話をとりあげて、自分の思うところを記してみたい。

2 本文から

「(略) もう亡くなられた高名な陶芸家の残された言葉があるので、みなさんにも紹介しておきましょう」
先生はそう言って、黒板に大きく四つの漢字を書きました。
〈手考足思〉という言葉でした。
「手で考え、足で思う。これは看護の精神そのものなのです。机の上ばかりでひねくりまわさない。何はともあれ、患者さんの傍に駆けつけ、手で触れ、そして見守るのです。机の前に坐って手も動かさず、考えるだけでは看護とは言えません」
(略)

そこで強調されたのは、痴呆といっても個人によって千差万別だということでした。その人の病前の性格、学歴、職業、家族の状況によって、何十通り、何百通りの呆け方がある。(略) それぞれの特色に応じた看護が要求されるのです。ーそんな言い方で、その日の講義は終わりました。
(略)
先生はスライドを百枚近く持ってきていました。痴呆病棟でのお年寄りの暮らしぶりと、看護婦の働きぶりを、余すところなく撮ったという印象でした。食事、入浴、歯磨き、身体の運動、おむつ替え、排尿誘導、散歩、そして雛祭の行事など、人間の生活の隅々までよくもこんな風に援助できるものだと感心しました。〈手と目で護る〉看護、〈手考足思〉だと先生が言ったことは、全く本当だったのです*。
(略)
「これから先、痴呆の患者さんはどんどん増えていきます。こんなにお年寄りの多い国は他にありません。日本が世界に先駆けて、老人国に突入していくのです。これまでの歴史で、どの国も体験しなかった状況にわたしたちの国が立ち向かって行きます。人類史上初めての大きな実験といえます」*
(略)「老人をかかえる経済的な負担も、国としては相当なものでしょう。それに看護についても、まだまだ模索状態です。有効な薬物もないし、各個人の実情に合わせた看護や介護も確立されていません。みなさんが現場で働いてみたら、多くの矛盾を感じるでしょう。無力感を味わうでしょう。あるいは絶望を感じるかもしれません。
しかし、(略)この老人問題にこそ、日本の進む道があるような気がします。本当に困難な事業ではありますが、今の時代こそ、日本が世界に先駆けてよその国にお手本を示す絶好の機会なのです。(略) ここで本当の知恵を出して、歩むべき道を見出すチャンスでもあるのです。どうか、老いから眼をそむけないように。老いや痴呆に接する機会があったら、そこに何か、人の生きる道、いやこの国が生きる道のヒントが隠されていると思って下さい。(略)
」*

3 私見

1 「後期高齢者医療制度」について

健康保険の仕組みが大きく変わって、2008年4月1日から、「後期高齢者医療制度」なる公的な医療保険が、新しくスタートした。
従来の医療保険から、高齢者だけを分離して管理していこうとする新制度である。
具体的には、75歳以上の人は、医療機関での発生医療費の一部を自分達で負担しあい、その保険料は各県ごとに設けられた広域連合が運営する。
高齢になれば多くの人は、体のあちこちにがたが来て、病院にお世話になる機会がふえる。そのための支払医療費も多くなる。その医療保険料を、若い人たちの支払う保険料だけにのっかっていくのではなく、高齢者だけの別会計で管理しようという仕組みである。
だから、今までは息子らの扶養家族になっていて保険料負担がなかった人にも、新制度では負担を平準化させる。すなわち高齢者全員に、医療費応分の負担(一律月額6000円)が発生する。この新制度のもとでは、夫婦の一方が後期高齢者である所帯では、実質的な保険料が増額負担となるケースが発生している。
2年前小泉内閣の時に行財政改革の一環として、この「後期高齢者医療制度」が国会で可決されて今回スタートした。内容面では、保健・医療・福祉・介護の方法を、これまでの症状別に専門病院での治療・看護・介護という方式から、かかりつけ医による治療、在宅介護という方式に変更している。

今回の制度改正は、医療費削減の視点からだけで、せっせと在宅治療へと促す厚生行政の思惑がある。医療費の発生総額を抑えるためにだけ、机上で編み出した制度であるので、医療の現場・市町村の窓口ではすでに混乱が生じていることを、マスメディアは伝えている。

また、この政府による「診療報酬」の抑え込み策によって、閉鎖に追い込まれた医療機関が多く発生している。このような現実に直面して、まさしく医療・看護・福祉に関わる教育機関には、「昨今の福祉切り捨ての中で、社会の中の弱者とされる高齢者や障害者の方々とともに生きていくすべを考え、実践する役割が課されている」* のである。

2 地域医療の衰退の現実とその対応策

小泉内閣のもとで、行財政改革の一として全国で市町村の大合併が推し進められた。複数の行政機関の合併により業務の合理化を図ろうとしたのである。
この医療制度改革の大きいうねりの中で、医療機関についていえば、次のような現実がある。例えば、長崎半島の最南端にある長崎市野母崎町(旧・長崎県西彼杵郡野母崎町)は、合併前は町立病院を常勤の医師5名体制で運営していた。しかし、合併後は市民病院の分院として、常勤医師は3名になった。これまでは町立病院で診てもらえた診療科目だったのに、現在ではバスを50分ばかり乗り継いで都心部にある市民病院の当該診療科まで出向かなければならなくなった。
このような地域医療衰退の実態に対しての善後策は何なのだろうか。
30余年前、高齢者の死亡数が全国でも上位にあった長野県では、鎌田實医師らが旗振りをして、その時から地域全体で地道に生活習慣の改善など予防医学への取り組みを進めてきた。その結果、現在では高齢者の死亡数は減少し、必然的に地域での医療費の発生額も日本で際立って少ない地域へと成果を勝ち得ている。*
為政者はこのような事例を研究しながら、中長期スパンでの医療行政・厚生行政へと、舵取りを見直すことが緊要だと思う。

4 おわりに

この『安楽病棟』 は、10年前に出版された本である。
帚木蓬生さんの視点のすごさに敬服させられる。
著者は、今回の「後期高齢者医療」にどのような意見をもっておられるのだろうか。
保健医療と経営とを学ぶ本学の学生達にとって、大変参考になる本だと思う。

* 帚木蓬生:小郡市生まれ、本名は森山成彰。
東京大学文学部卒業後、民放勤務を経て、九州大学医学部に学び精神科医になる。現在は中間市でメンタルクリニック開業医師として診察をしながら、作家としてヒューマニズムに満ちた作品を発表している。最新刊は『インターセックス』(2008.8月)がある。
* カトリック教会ではこのほかに、旧約聖書続編13話を第二正典としている。
* 帚木蓬生『安楽病棟』p141-142「起床」
*     p142
*           p144
*  井手信「聖マリアグループの福祉のこころの行方を問う」
  『ルルドの聖母』2008・8月巻頭言
*国民健康保険中央会は、このたび(9月4日)、後期高齢者医療の4月分医療費を発表したが、加入者一人当たりの平均額は7万350円で、最低の長野県は5万6697円、また、最高の福岡県は8万7396円であった。
同じく一人当たりの入院費は、最低の長野県が2万5861円、最高の高知県が5万1475円であった。(『毎日新聞』ホームページ2008・9・4)

▼執筆者

松永伸夫:保健医療経営大学(みやま市瀬高町)
       学務課 参与

『保健医療経営大学 紀要』
    
創刊号 平成21年1月刊より引用

  

  

2009年2月20日 (金)

昭和の話をしようよ。の3

はあっ。なんでこげんもりあがっとると?皆詳しいね。ろいりさんの映画好きなのは筋金入りのごたるね。子供の頃見たのは月光仮面か赤銅鈴の助、101匹わんちゃん(これはなぜか学校から皆で見に行ったようなきがする)、兄にせがんで若大将シリーズ3本立て、ぐらいです。八女に引っ越してからザ・タイガースのやあやあやあ(違っているかも)を妹と二人で見に行きました。あと、東京オリンピックの記録映画もみましたね。開会式のファンファーレを口真似でしていました。

タイガースの映画、見ました。 「世界は僕らを待っている」
久美かおりさん、素朴で可愛かったdiamondですね。
この映画はLP盤まで持ってました(^_^;)
うちの中学は生徒全員を「若大将シリーズ」を毎年観に連れて行ってくれてました。
今思うと、あれは先生達が見たかったんじゃないのかな~と(^_-)-☆

「ホームラン教室」(1959-1963 NHK)
 アンパン:小柳徹
 トチ:太田昭雄
 16番:矢沢新
 ガリ:斉藤弘昌
 ネズミ:安藤哲
 ミドリ:臼間香世
 クリ:岡本久美子
 ポロ助:細田勝彦
 アンパンの父:牟田悌三
 アンパンの母:幸つや子
 ミー:安田まり子
 トチの父:黒木三郎
 トチの母:三崎千恵子
 辻先生:富田浩太郎
 ネズミの姉:古賀さと子
 ネズミの父:森塚敏
 ボロ助の母:西口紀代子
 ボロ助の父:池田忠夫
 ガリの母:岸旗江
 もーやん:土屋靖雄
 ホームラン堂主人:佐藤衛
 デカ:芦沢義仁
 本田:朝倉宏二
 渡辺:日下桂子
 杉浦:佐藤貴美雄
 父(具体的な役不詳):田島辰夫
 姉:白銀道子
 劇団こまどり
 みすず児童合唱団
 作:高垣葵 

古賀さと子さんも出演してたようです。主役の小柳徹は自動車事故で夭逝。
この「ホームラン教室」で、乙は「寮」という言葉を覚え、「寮生活」に憧れ、やがて中学1年生にして憧れの寮生活にワクワクしながら転校することになった。いわば乙の人生を狂わすことになったドラマともいえる。「チロリン村とくるみの木」(1956-1964)と同じ頃の放映。
てなもんや三度笠はホームラン教室より後で、何でも考え何でも知って何でもかんでもやってみよぉう~!のケペル先生(1961-1969)と同じ頃。
   ↓

 せーこさんのばあちゃんが好きだったスローニン役やってた人って、近衛十四郎では?TVでやってた「素浪人月影兵庫」、コミカルで大好きでした。焼津の半次役の品川隆二も良かった。去年、息子の松方弘樹主役でリメイクしたけど1クールで終わってしまった。
 長門勇は人気絶頂の頃、戦艦長門ならぬ「駆逐艦雪風」という映画で主演してます。東京オリンピックの映画は、日本国中かなりの小中学生が学校で見に行ってるのに、久留米では私の世代だけ行ってない~それは卒業式の後に上映されたからのようだ。
 久美かおり、そういやいたね。レコード大賞新人賞取ったけど、どんな歌かも覚えとらん、男は矢吹健(あなたのブルース)、グループではピンキラだった。それにしても八女の先生は理解がある!久留米市民会館に加山雄三が来た時、諏訪中では見に行くのを禁止された~もっとも生徒会長さえ規則違反で行ったらしいけど。
 ホームラン教室の父親役牟田悌三は先月亡くなりましたね。深夜放送ではちょっとエッチなムーちゃんだった。小柳徹については、偶然にも数週間前ネット検索したばかり。子役後は北山修・黒沢久雄らとともに「ヤング720」の司会やってて、その最中の事故死だったので気になっていた。
 では、ケペル先生また来週?

ああ、ろいりーさん、
つきかげひょうご、それそれ。
みすぼらしいはかま姿のスローニンの主役。そして、焼津のはんじ。ひょうきんな下っ端の役どころ。そうです。父もこの番組を見てよくわらってたなあ。

主役は近衛十四郎だったのですね。すっかり忘れていました。品川隆二さんの名も思い出せなかった。この番組は父にも祖母にもつながる想い出です。ああ、ひさしぶりにばあちゃんに会いたくなってきたなあ。

うん。ほんなこて。
ところで、エメさん、どこの中学がそげん寛大なことをやってたの。こすかー。
ぼんの書いてたように101匹わんちゃんはほんとに学校から見に行ったような。ねえ、戦争と平和、学校からみにいかじゃった?りゅどみゅらさんのほう、おーどりーのじゃなく。ちっとも面白くないのを硬いいすのうえで石と化すまでみなければならなかった。あれは絶対ふくしまの映画館だった。

おはようございます
こすくてすみません(^^ゞ
でも毎年って書いて少し自信がなくなってきました。
2度行ったのはなんとなく記憶にあります。
映画がモノクロからカラーに移るころは、ポスターの中に総天然色ってカラーの字で書いてありました。
バス停で新しい映画のポスターを眺めるのが好きでした。
総天然色>>特に印象が残っているのが「モスラ」のポスター。
小さいピーナッツも不思議だったけど、出演者の不安な表情にこちらもドキドキしたものですtyphoon

「戦争と平和」は映画館で見た(観た、ではない)記憶がある。自主的に行ったはずはないので学校行事だったのだろうか。学校行事に映画鑑賞がある時代。各教室にある視覚機器といえば幻灯機。テレビは家庭科教室(裁縫実習の畳の広間。女の子の秘密教室が開催されていた部屋でもある。その間、男の子たちは無邪気に騒いでた)に1台あるのみ。時に、講堂にスクリーンを張って、映写会もあった。「トムとジェリー」の映写があったのを覚えてる。「トムとジェリー」を全児童に見せることの、上妻小学校の教育意図は不明。きっと、ほかの大事な映像との抱き合わせだったのでしょう。そっちの方はとんと覚えていない。講堂に、変な超能力師がやってきて児童全員で見たのも覚えてる。あれは何だったのだろう。最後のほうで、何人かの年長児童が選ばれ、「君はきっと偉くなる」とおまじないがかけられていた。暗示効果はあるのだろうが、今から思えば、あれはペテン師にほかならない。
ビートルズの映画は、さすがに学校行事で鑑賞することはないけれど、禁止されていた記憶はない。ボーリング同様、行けば不良のレッテルが貼られるような雰囲気はあったかも。

「世界はぼくらを待っている」それでしょう。やめの京町にあった映画館だったと思います。やはり前の方で、聞こえるはずもないのにきゃあきゃあ騒いでいた人たちがいました。
チロリン村とくるみの木やホームラン教室、名前の記憶はありますが、内容はぜんぜん覚えていません。お母さんと一緒の中の一コーナー、人形劇が実演にかわるお話コーナーが好きでした。ブーフーウーの三匹の子豚が今も頭にあります。歌も歌えます。)
古賀さとこさんもこの番組で歌ってあったでしょうか。
みんなの歌もいい曲ばかりですよね。堺まさあきの「北風こぞうの三太郎」が今でも好きです。
テレビはきたのは昭和36頃だったと思うのです。父の意見は絶対で、ほとんどNHK、たまにプロレス。
TNCはきれいに映らなかったので、引き戸の上の方にスイッチを切り替える装置を取り付けていました。それを入れるとややきれいに見えました。

昭和時代の話になると、なんでこうも盛り上がるのだろうね。不思議だ。同世代を生きていたのに、記憶の差が顕著であります。「ホームラン教室」にも「チロリン村」にも「おかあさんといっしょ」にも記憶なし。チャンネルにTNCがあったことなど、まったく覚えてない。
みんなよく覚えてるよねえ。

ブーフーウー
声優と主題歌。オオカミの声優さんの悲しいお話。
   ↓

乙四郎さん、リンクありがとう。読んでるうちに涙が出てきた。最近ほんとに涙腺がゆるい私です。
コメントしてある方の記憶、すごいね。おおかみさんのもの悲しいメロディ、うっすらと記憶にありますが、ぼんやりしています。
魔法の絨毯の「あぶらかたぶらちちんぷぃ」は覚えています。(だったかな?)徹子さんが端っこに座っていて、呪文を唱え、画面に空から見た風景が映し出され・・・それだけです。へんなことおぼえとるね。なんでやろ。

ちろりん村。ブーフーウー。
家でじゃなく、学校で、みんなでみていたような記憶がある。おおかみさんの着ぐるみに入っていたのは、高橋悦史さんだったのですか。へえ。
さんびきのこぶた、一匹は、わらのうちをたてました(るるるるるるるる)おおかみがきて、わらのうちはめっちゃくちゃ。歌、歌える三番まで。
ホームラン教室はみたことありません。
ちろりん村のりっぷちゃんが異常にすきでした。こうしてコメントを読んでいますと、まさに連句的、繋がってるけどばらばら、それぞれの興味のありどころによって覚えているとこが違う、それが楽しいですね。

 H、O、W、HOW・HOW・HOW、インディアンじゃないんだよ、英語でどうしたって訊いてんだ、ケペル先生今日は。何でも考えかんでも知って、何でもかんでもやってみよう。
 というわけで、ダルメシアンを見ると「101匹わんちゃん…」を思い出すけど、その後東映動画で作られた「わんわん忠臣蔵」は見てませんか?それから昔話の「三匹の子豚」と飯沢匡原作の「ブーフーウー」はもともと別の話で、それが混同されているようです。でも、どちらも三兄弟の兄が一番アホで弟が一番賢いというのが、兄たる私には不満だった。「チロリン村…」は「ひょっこりひょうたん島」の前の番組で、数年前に大木こだまが流行らせた「チッチキチー」というのは、「チロリン村…」に出てきた「クルミの頑固じいさん」の口癖でした。
 TNCってテレビ西日本だったかな、家はあとRKBとKBCと、NHKの2局はもちろんRKK(熊本放送)まで映り(中身はあまり変わらんけど)、後にはFBSまで映るごつなった。大学入って大分市出身者と知り合ったら、何と民放は2局しか映らないと聞いてビックリ!今はそんなこともなかろうが。あ、家でTV買ったのは1960年で、「ハリマオ」「七色仮面」「ナショナルキッド」「ライフルマン」など見てました。やはり男女で見た番組違うでしょうね。でも姉の影響で「ザ・ヒットパレード」見て、おかげでアメリカン・ポップスの日本語バージョンはお手の物、ビートルズも最初は日本語歌詞で覚えた~スリー・ファンキーズとかの。東京ビートルズなんてのがいたのも、今考えればお笑いぐさだ。

高校時代に物理室に暗幕張って、真っ暗な中で、ロックを聞いた記憶が蘇った。コンサートのわけはない。田舎の県立高校でそんなはずはないからね。
でも、たしか高校一年生のとき、真っ暗になった物理室でわけのわからん音楽を聴いた。
記憶違いじゃなければ、あれはCCRとかいうロックバンドのこぴー。もしくはレコードをばんばん鳴らして聴いた。3年生の大橋だいちゃんが連れて行ってくれた先が物理室だった。だいちゃんは物理部だったから。うるさくて、うるさくて、そのよさがわからんまま出てきたけど、今から考えると、あれは学校の許可なんか取ってない秘密の音楽祭だったのかも。

「イレブンPM」って放送が何か怪しげで面白い番組だと雑誌で散々書いてあるんだけどいったいどうやったらそれを見られるのかと思っていました。
その番組はFBS(日本テレビ系列)だとわかったけど、FBSが九州で見られるようになったのは昭和40年代、その頃私は東京にきたのでふんだんに見られるようになった。

>大木こだまが流行らせた「チッチキチー」というのは

ほんま?
あの、「そんなこたぁあれへんでぇ・・・」「そんな人おらへんでぇ・・・」の?

敏江・玲児漫才が好きなんですが。

その秘密の音楽祭でばんばんかかっていた曲は「スージーQ」かな~と思います^^♪

せーこさん、そげなんがあったと。
では、あれはなんだった。ほら、オオギリとかやってたでしょう。あれが文化祭?じぶんは何をしていたのかが記憶にさっぱりない。きっとぼけえとしてたんだ。じぶんのからにとじこもって、そっから世界をみてぶつぶついってたから。太平楽なことでしたねえ。
くるめ一往復、みやま一往復。今日はひさびさの英語でした。ぼんが忘れていた。びっくりだね、まじめな彼女が。わたしが忘れるならともかくも。

しごとは忙しいし、

充実した休日を過ごしていたはずなのに、英語がすっぽりぬけていた。は・は・は・笑うしかない。

黒柳徹子さんで検索してNHKのページに行ったんだけど、似たようなコメントをしてある方がいらした。どちらさまも思い入れが強いし、よくいろいろなことを記憶してござる。(久留米の方言)察するに少し年上の方のよう。TV放送は確かS.28からだから、そのころのことはわからん。だから興味深い。

 思い出した!FBSは筑後地区ではTVがVHF(超短波?)で映りにくくなり、UHF(極超短波)化されるようになった時、映るようになった局で、やっと久留米でも「11PM」とかが見れるようになり、おじさんたちのみならず思春期の少年たちの間でも話題になったんだった。だけど、従来のテレビでUHFを見るためには専用のアンテナと、コンバーターというのをつけなければならなくなった。ぼんさんの家にあった切り替え装置って、これじゃなかと?
 最近大橋巨泉の本読んでたら、11PMであれだけ有名になったのに、ある地方都市に行ったら顔見られても注目してくれず、その理由は、そのへん一帯では11PMが放送されていないからだということがわかった、と書いてあった。
 CCR、「雨を見たかい(Have you ever seen the rain)」が数年前車のCMで使われてましたね。

 

昭和の話をしようよ。の2

八女、久留米、鳥栖出身者が思い出を語っております。
かささぎの旗では、編集せず、そのままアップします。
なにかの資料になれるかもしれないとの思いからです。
     (かささぎの旗管理人)

昭和の話をしようよ企画にかたります。
生まれた年号なのにもう「昭和」はなつかしく思い出す時代になったのですね。
世代的には長かった昭和時代のちょうどまん中あたりに生まれているので、前半の空気や匂いも経験してますね。
chair映画館の思い出はたくさんあります。
京座では東宝映画や洋画を見ました。
バス停の近くの福島劇場はたしか入り口が2ヶ所あって東映と日活、とか^^
福島劇場で最後に見た映画は高校生の時に「ケメ子の歌」です。内容は全然覚えていないんですけど(^_^;)
福島バス停にはいつも映画の大きなポスターが貼られていました。
高倉健さんの等身大のポスターを覚えています。
あの頃のバス停にはたくさんの人がごったがえしていましたね☆彡

エメラルドさんってどうしてそんなに記憶力がいいのですか。わたしは京座しか覚えていませんでした。
父に朝聞いたら、映画館は三つあったとの答え。ほぼエメさんとおなじようなことを申してました。
父は映画をみに行ってたようですが、母は一度もみにいったことはない。といいます。時代、男尊女卑というより、農家には、そんな余裕はどこにもないころでした。

私、高倉健のデビュー作を見たのが自慢。
松島とも子と田代百合子姉妹の隣の部屋に住むやさしいお兄さん役。
子供ごころにもすっごいハンサムだと思った。

映画館へ映画見に行くことは最高に贅沢でしたね。
正座してみたいような貴重なものでしたが、ビデオ借りてきて寝転んでみる時代がこようとは?

>脳の奥底で懐かしく共鳴する音楽といえば、やはりビートルズでしょうか

と、このコメントを書いているのが、おねどしの乙さんってことに驚いた。わたしもかささぎどんと同じく、ずいぶん大人になってから、ビートルズの曲を聴いた。高校時代に初めてレコードプレーヤーをこづかいを貯めて買った。初めて聴いたのがS&Gだった。先輩の影響で岡林信康も吉田拓郎も聴いたけど、結局心酔したのは、S&Gと井上陽水さんでした。アルバイト禁止だったので、こづかいをこつこつ貯めてレコードを買った。初給料で買ったのは、S&GのLP盤。ピュアな時代でしたね。

 私が「ヤァヤァヤァ」を初めて見たのは、それこそ隣の映画館ロイリーで、しかも家の敷地内からのただ見~昔はクーラーとかなく映画館の窓も開けっ放しやった。当時の久留米の中学・高校ではビートルズの映画を見に行くのを禁止していたらしいけど、八女ではそんなことなかったですか?ビートルズについては姉が大ファンで、私は門前の小僧状態で耳に入ってしまった。その後、以前書いたようにフォークルに完全にはまりました。全曲歌えるのはもちろん、ギターもOK、まるで坂崎幸之助です。「イワン・イワノビッチ・イワノフさんと…」は「イワン・イワノヰッチ・イワノフさんとイワン・イワノヰッチ・イワノフさん」で検索してみたらわかります。でもどんな歌かは聴いたことない、というより初めて知った。サトウハチローと言えば、フォークルの「悲しくてやりきれない」も作詞もしてますね。
 かささぎさん、なかなか良い映画見とるじゃなかね。キョンキョンの映画は「空中庭園」も、最近立て続けに映画館で見た「転々」「グーグーだって猫である」「トウキョウソナタ」も良かった。映画はやはり映画館で、2本立てや3本立てで見たい、それが約30年前に東京で就職した最大の理由でした。昔は本当に映画館が多かった。久留米では花畑や水天宮の近くや広又にもあったし、当時は久留米じゃなかった草野にも映画館があったらしい。神津島でさえ2軒あったというからね。

 書き忘れた、「イワン・イワノヰッチ・イワノフさんとイワン・イワノヰッチ・イワノフさん」はサトウハチロー作詞の、日本の曲らしい。

呂伊利ーさん
イワン・イワノヰッチ・イワノフさんとイワン・イワノヰッチ・イワノフさん(唄:伊藤久男,伴久美子)でしたか。「ヰ」とは気付かなかった。長年のもやもやがスカッと晴れました。ありがとうございました。歌いだしの部分は今でも歌えます。耳に残るメロディーです。CDが出てるのですね。いずれゲットすることになると思います。歌詞も味わいがあったのですが、サトウハチローだったとは。同姓同名のふたりの道中物語。

さとうはちろー、へえ。佐藤春夫の子なのかな。

ツイストの思い出をかきます。せらさんじゃないよ。
小学四年生のときだったと思う。お友達の誕生日パーティというものに初めて招かれました。
いまこが(って矢部線の駅があったね、近くに)のくまがいあっこちゃんち。
ぶたの貯金箱かなにかプレゼントをもっていったように記憶してるけど、それはずっとあとの中学生時代の記憶と重なってるのかもしれん。とにかく、あっこちゃんにはおねえさんがいて、歌の好きなおねえさんでした。とても歌の上手な姉妹だったのね。だから彼女の家には当時超珍しかった蓄音機があって、それでレコードをかけて、みんなでツイストを踊りました。おかしいよね、ちびまるこちゃんみたいな話。
あっこちゃんともう一人のおませさんが上手で、どんくさい私もしかたなくまねして手足を動かし腰をひねってたのを昨日のことのように懐かしく思い出します。曲はなんだったかわすれてしまったけど。

すっごー、伴久美子が登場。
童謡全盛時代の、古賀さとこ、近藤圭子と共に三羽烏だった伴久美子。
3人の中では素直な声と容姿でした。
彼女達ももう70歳ぐらい。
伊藤久男さんも朗々とした歌い方に太い声の持ち主、「オロチョンの火祭り」って歌じゃなかったっけ。

このエントリーは、どんどん記憶力を目覚めさせてくれる感じ。

「イワノヰッチ」でヒットしたサイトから。
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この曲をリクエストした方は、10年ほど前にNHKの「ラジオ深夜便」で一度聞いただけでその後もずっと記憶に残り、折に触れて口ずさんでいたとか。
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わかる、わかる。自分もそう。強烈な印象だったから。
CDの曲目紹介引用から。
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イワンイワノヰッチイワノフさんという同じ名前の人が二人いたらどうなるだろうとは、いかにもハチローの考えそうなことで、この名前にふさわしく、舞台をロシアに置いているこの詩を作曲の原六朗に渡して、「君こんなもの作曲できるかね。君しかできないよ、君くらい変わっている人しかできない」といったそうな。それだけ作曲者の力を信じていたということだろう。詩をみて二、三日は出来なかったというが、出来てからは歌手の伊藤久男も伴久美子もよくのって稽古してくれ、気持ち良く仕上がり、ハチローも喜んだということです。
====================

clubエメに改名します^^
同居の若い叔父叔母がいたので、流行ものは身近にありました。
彼らツイストの練習の時はタオルのはじを両手でひっぱって、前にもったり、背中にもったりして手や腰を動かしていました(手の位置がかっこよく決まるらしい・・)
座敷でみんなで踊っていました。曲は「監獄ロック☆」
ツイスト、フラフープ、だっこちゃんはいっしょの時期に流行りましたね^^♪

サトウハチローは佐藤春夫の子ではなく、佐藤愛子の腹違いのお兄さん。おとうさんも物書きだったけど、晴夫さんではない。佐藤愛子さんの「血脈」という本を読めばすぐわかる。
サトウハチローさんは「小さい秋みつけた」ほかいい詩をたくさん書いている。でも、とんでもない人物。身内にこんな人がいたら困りものというような人。妻妾同居だし金使いはあらいしで・・・どこからあんな詩(ことば)がでてくるのかと不思議でしょうがないけど事実なんですよね。天才は凡人には理解できない。

その頃はやっていたツイストビートはこれでは?
   ↓

ぼんは血脈を読んだとブログにかいてましたっけね。サトウハチローぼんのうのひとだったんだね。
ぼんのう即ねはん。みっきょうのしそう。
おつしろう。
ばらばら。
そんなえいごのうたじゃない。日本語だったとおもう。

あえかなる薔薇撰りをれば春の雷  石田波郷

こんなところにもあった。
長い題名の第106位
   ↓

 サトウハチロー・佐藤愛子の父親は佐藤紅緑、「ああ玉杯に花うけて」という大時代的な少年小説を数年前に読んだが、この人も息子・娘以上の波瀾万丈人生を送ったらしい。
 ツイスト、私も兄弟3人でよく踊ってました。両手はタオルで背中を拭くように、片足は煙草の吸い殻をもみ消すようにというのが、うまく踊るコツだと(TVかなんか)で教わった。そして日本のツイスト・キングと言われたのが、以前紹介した、今や悪代官役がピッタリ?の藤木孝でした。
 古賀さとこ、近藤圭子は知ってたが、伴久美子という歌手は知らなかった。小鳩くるみなら知ってるが。近藤圭子には知る人ぞ知る「怪傑ハリマオ」の挿入歌も歌ってた~三橋美智也歌う主題歌レコードのB面。古賀さと子は1年ほど前BSで特集番組やってました、追悼番組だったかも?

伴淳三郎ならしっとる。
連句的に、おいりゃあせんのう。っていってたおっさんの顔がでてきた。なまえわすれた。

追伸。
石田はきょうに、松山中学三年か四年のころ、俳句をするよう誘ったのは、のちの俳優大友柳太朗しょうねんでした。

あ!この「ばらばら」って曲、同居していた14歳違いの叔父が聴いていたよ。記憶が蘇る。わたしがまだ小学生くらいで、叔父とは中学2年くらいまで同居していた。あのころ、音楽を聴く楽しさがまだ理解できてなかった。本ばっかり読んでいた「文学少女もどき」やったけん。笑  でも、このばらばらはリズムが目新しくて調子よくて、こころに残ってる。

英語の歌ったって、出てくる語彙は、myとbabyとballa(意味不明)のみ。
これさえ覚えとけば「英語の歌を歌詞を見ずに通しで歌えるよ~」と自慢できるとばい。

お、どうしてかわからんばってん、伴淳三郎がでてきとる!

おえりゃせんのう、は長門勇、この人好き。
どんこんならん、、、、みたいな意味。
おえりゃせんのうで大方のことが表現できるところが
爆笑もん。

この時代の喜劇人はほんっとおかしいこと言ってた。お笑いが昔からすいとったけん。

今はくすっとも笑えんお笑い。

 ホンマに、何で突然「アジャパー」やら「母ちゃん、一杯やっか」のバンジュン(伴淳三郎の愛称)がここで出てきたとやろか。長門勇は「スチャラカ社員」「てなもんや三度笠」「三匹の侍」でとぼけたオッさんやった。「おえりゃあせんのう」とは確か岡山弁では?大友柳太朗は東映チャンバラ黄金時代に「笛吹童子」「紅孔雀」とかで萬屋ならぬ中村錦之助とか東千代之介の兄貴分的役をやったり、「怪傑黒頭巾」「丹下左膳」の役をやったり、そして晩年も鈴木清順とか伊丹十三の映画で割と良い役やってたけど、なぜか自殺してしもた。喜劇人と映画のことならまかせとってください。
 「ばらばら」って「マイ ベイビー、バラバラ」という歌のことだったのか、それなら私もよう知っとる、中1の時流行ったけど、歌詞は簡単でも肺活量がないと途中で息継ぎできない歌だった。

 追悼番組があったのは川田正子でした、古賀さと子さんを勝手に殺してごめんチャイ。ついでながら近藤圭子さんは「月光仮面」の後番組「豹(ジャガー)の眼」の美少女役でも出て、副主題歌を歌ってました。

てなもんや三度笠!なつかしかあ!
見てました。夕方6時くらいからの放映ではなかったでしょうか?前田クラッカーの宣伝とともに記憶に残ってる。藤田まことさんと白木みのるっていう小さな男の人が出てたのでしょ?
小学2年生か1年生の夏休みにテレビがやってきた。もちろん白黒で、それも画面がちっちゃいやつ。スイッチがガチャガチャとまわすもので。

大友柳太朗とか大川橋蔵とか、ばあちゃんが好きな俳優さんで、もうひとりお気に入りの俳優さんがいた。なんて名前だったかな。スローニンの役をやってたひと。ああ、思いだせん。

もしかして、東千代之介じゃなか?

白木みのるさん、出ていました。博多座の北島三郎公演にね。懐かしかった。
そうだったんですね。
じつは今朝おいりゃあせんのう。ってことばと、あのあったかいおっさんの顔が突然浮かんで、消えないので、お昼休みにサイバー携帯で検索した。でも、おいりゃあせんのう。だけではわからなかったとです。なまってたから。正解は、おえりゃあせんのう。だったんだね。岡山弁。意味不明だったけど、さくらさんの解説でわかった。サンキュ。
わたしは弟しかいなかったので、みなさんのはなしをこうしてきいて(みて)いると、いろいろななぞがとけてゆく気がして、ありがたいです。
そうでしたか。大友柳太朗さんは自裁されたんですか。
去年、ある時代劇スタアを調べていたら、ぐうぜん、和歌のほうとつながったことがありましたね。だれだったっけ。えーと、古今集の。たんげしゃじぇんの。筑前出身の。わっかんね。おもいだせないよー
でも、ふしぎなかんじ。長門勇さんもふしぎなかんじ。出方が。ねえ、さくらさん。長門って戦艦、でましたよね?孫七で。うわあこれか。

大河内 傳次郎、今ウイキペディアで見てきた、福岡出身とは知らなかった。

大友柳太郎さんはあの有名な「北の国から」にもでてたよね。

孫七さんの息子さんが戦艦「長門」の艦長だった。
調べた先からどんどん忘却するのでこうして確認させていただきます。

ありがとうございます。

では、連句的に入ります。

綿蟲やそこは屍の出でゆく門  波郷

わたむしや・そこはかばねのいでゆくもん。
綿蟲、冬。於清瀬村。
わたしは、この有名な句のよみ、最後の門を「と」と読んでいました。じっさい、ととも読めるし、俳句は五七五の定型詩ですから、そう読んだほうが決まると信じていた。ところが、ルビは「もん」。これを読んで、悶々としています。はきょうがそう発音してみせたのでしょうか。きいてみたい。どうしても。

警備士のいる風景3

警備士のいる風景3

「霧の朝」と同じ場所、ほぼ同じ位置からの撮影です。
信号待ちのあいだに写しました。
去年までブリヂストン関連の何かがあったような記憶。
「霧の朝」のときは更地になっていました。

「霧の朝」:

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-c81c.html

むすめの誕生日

むすめの勤務している博多の中くらい大きな病院の経営がずっと思わしくなく、とうとう熊本の病院の傘下に入った、という。
その熊本の病院を経営しているのはどこかと調べてみたら、消費者心理と女性心理をたくみに衝いてくるテレビCMで有名な、熊本のさる化粧品会社であった。
そこまで手をのばしていたとは・・・。しかし、おかげで安定してきたらしい。

むすめは病院給食を作る仕事をしている。
正月にも帰らなかった。
一人が病欠していたので、その分も働いていたとのこと。
わがむすめながら、よく働く。
振り返れば、不登校でとても心配した時期が小学六年生から中学にかけて一年半ほどあった。弟が生れて間もないころである。一人、博多から八女のおばちゃんち(いま、わたしとむすこたちがいる、ここ)へ帰り、博多の家族とは別々の暮らしをした。
黒木の山へ竹を伐りにいくのに付いて行ったり、それを細かく切り出す作業をしていた姿を今も思い出す。いちごを作っていたじいばあの農業のてつだいをしているうちに、だんだんときもちがいえて、やがてまったくだいじょうぶになっていった。高校は農業高校へ行った。女だけのクラスで、コミケに熱中していた。
料理専門学校へ通った二年間をふくめ、高校時代からバイトをして自分のお小遣いを得ていた。とてもきつかっただろう。
子育てに追われ、そんなむすめの苦労を見てみないふりをした。
それしかなかったからだが、それでよかったと今思う。

きょう、27歳。
おめでとう。
17歳の子にくどかれたよ。年寄りなのにね。と笑ってる。
朗報をきくのは、さて、いつのことだろう。

2009年2月19日 (木)

橋爪章、その2

昨日はみやま市の保健医療経営大学の英語教室に行く。
いつもろくな前準備もせず、間違ってばかりいるけど、それでもとても楽しい。
きのうは久々に私の前の席の、小学校のベテラン教師のかたがいらしてた。
もう小学校では英語の授業は始まっているのかしら。聞くの忘れた。
この公開講座では、さまざまな年代および職種のかたがいらしてる。
福島高校時代にあこがれていた定時制の生徒になったみたいで、それもうれしい。

さて、大学に乙四郎がいました。
いそがしい人ですから、大学に行っても滅多にいない。
授業の前に3月に催す連句興行の場所をちょっと見せてもらった。
その上、「保健医療経営大学紀要」を一冊戴きました。
創刊号、とあります。こういうのにも創刊号ってあるんだな。
でもかささぎはたぶん読まない。時間がないもの。
もんのすごく力の入った、学者さまの論文がずらずらーっと並んでるのを、軟弱おばばが読めるわけがない。なめたらあかんのじゃ。かささぎはおのれを知っておる。でも、そんなこたいえんし、ありがとうと受け取った。
しかし、反動で良心が少しいたむ。

竹橋乙四郎と出会って、ちょうど一年になる。
最初のころ、大学の名前をちゃんといえなくて、かっこ悪かった。
いまはちゃんといえる。おつしろう大学。いやいや、違います。
保健医療経営大学です。
今朝、なにかその設立趣旨をきちんと説明してくれるものはないか。
と探した。
あった。
これです。

http://www.healthcare-m.ac.jp/university/guide/resources/president_1.pdf

この文章を読めば、橋爪章の緻密なあたまがよく分かる。
と同時に、今なぜかささぎの旗と遭遇したのか、その理由も分かる。

全体を視野におさめつつ、細部を大事にする。
それはまさに、時代が求める、「連句の思想」なのであった。

参照記事:かささぎの旗「橋爪章、」2008・3月4日
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_9311.html

2009年2月18日 (水)

前田圭衛子の薔薇

一千一日薔薇ぶっちぎる海鳴り    圭衛子

     前田圭衛子句集『ニッポニア・ニッポン』より

この句。
わが師・前田圭衛子の俳諧へは、ここから入りたい。
読んでみる。
口の中で何度もつぶやいてみる。

いっせんいちにち・ばらぶっちぎる・うみなり。

季語は薔薇。初夏。
なぜ一千一日なのか。この数字は何なのか。
そういうことはいっさい問わず、ひたすらこの跳ねるような一句のもつリズムに全身全霊をゆだねてみる。
やがて、見えてくる。
断崖の薔薇。
少し桃色がかった白い薔薇が潮風に揺れている。
薔薇は風とともに潮鳴りを激しく身に浴びる。
いっせんいちにち、しなやかな助走。
バラ、ぶっちぎる、ターンと弾みをつけて跳び箱をとぶように、飛び乗り、消える、消える・・・海の中へ、空の青さへ。
いま、すべてのものの影は消え、なにも見えない聴こえない。
バラぶっちぎる。薔薇ぶっちぎる。ばらぶっちぎる。
海鳴りを海鳴りを海鳴りを。薔薇のはなびらを。花びらを。花びらの香りを。ささやきを。ぶっちぎるほどに強い風。潮の音。潮騒。潮騒。海鳴り。潮鳴り。

この句をよんだとき、わたしはすぐ、芭蕉の佐渡を詠んだ大景の天の川の一句を思った。

荒海や佐渡によこたふ天の河  芭蕉

読み下した胸にひろがるのは、深い沈黙だから。
前田圭衛子は、かくも鮮らしい前衛的な句を詠む俳人であった。
この句を読めば、それがよくわかるとおもう。
説明はなにもいらない。
心が潮風にひりひりと
灼けつく、残像と残響の一句。

2009年2月17日 (火)

波郷の薔薇

あえかなる薔薇撰りをれば春の雷  波郷

昨夜、連句的に出てきたこの一句。

えりおればのえるという字を、選とかいていた。
朝、確認。(この字でしたので訂正しました。)

思春期のなやましさ、なまめかしさが匂うような句。
あえか。なる。えり。おれ。はる。らい。
このゆたかな母音とラ行音のなか、「ばら」が燦然と輝く。
ばらとぼいん群、らぎょう音を束ねる「ば」の一音。
わずか十七音のシンフォニー。
目に見え、耳で聞き、鼻で嗅ぐことができる、一瞬の無意識が統べるしんふぉにー。


2009年2月16日 (月)

杉山洋先生に又叱られる。

夕方の電話。

画家の杉山洋先生でした。

二年前の拙記事、「松延貫嵐の生涯」について、叱責のことばを頂戴しました。

わたしはそれに書いてたと思います、有名な祇園女御「柳の精」の話の作者名になぜ若竹笛きゅうとあるのに、杉山洋先生の灯篭人形紹介の本には藤福助(藤勘助だったかも。記憶で書いていますので要確認、松延かんらんの筆名)と書かれてあったりするのだろうか、と。それはずっと思い続けてきました。その説明や、わたしの文章の書き方への批判をきっちりと書かれ、どなたかのブログにアップされるそうです。

またか。と、わたしはおもう。あーあ。

石橋秀野を調べて書いていたときにも、なんども電話で怒鳴られました。
揚句の果て、本になったとき、一行も紹介のことばをふるさとの人たちにしてもらえないという屈辱を味わいました。
ご本人の口からなぜそうなったのかを聞いたことがあります。
本をお送りしましたら、すぐ電話がかかってきて、「ああたね、よくこんないいかげんな本を出しましたね」というお叱りのことばから始まって、とうとうと、何ページの何行目、どのことばが適切じゃない、とか、間違っているかを指摘され、とどめのように、「西日本新聞社の記者がどういう本かと聞いてきたので、いいましたよ。とんでもない間違いだらけの本で、批評の対象にもならない本だって」とおっしゃるのです。

して、その主なる間違いとは、いくつかの誤植、と、松江と松山の書き間違いと、大岡信氏の文化勲章受賞のミス(ほんとはその翌年の受賞)、と松江騒擾事件を共産党による赤の思想犯の事件だろうかと書いていたことです。

わたしにとっては、それらのミスはさほど内容にはかかわらぬことであり、致命的なミスとは思えなかった。しかし、杉山洋氏にとっては「批評の対象にもならないひどい本」で片付けられるものだったのです。八女の文化の窓口におられた氏は、とても力をもっておられました。
平成十五年十月当時、わたしの「石橋秀野ノート」を新聞でとりあげて紹介をしてくださったのは、毎日新聞福岡支社の記者の方であり、朝日新聞東京本社の人であり、詩人の高橋睦郎先生でした。四年間渾身の力で調べてかいてきた本を、このまま黙殺されるのだろうか。とひたすら悲しかった私に、それはどんなに有難い力強い支えとなったことか。

こんども、
あなたみたいにことばを大事にしない者に俳句やらする資格はない。
とまで言われました。
ああこのことば、何年ぶりだろうか!とすぐ思いました。
暴れ太鼓のような気合の入った声でぐいぐいと圧されます。
わたしはつい、やっぱりこんども我慢できず、いいかえしてしまいました。
十年前とおなじようにです。
なぜそんな枝葉末節のことでけちをつけられなければならないのですか。と。
言い返したほうが負けなのに、です。
また、こんどもわたしのまけみたいです。

ふつうは、こうまでいわれたら、たちあがれなくなるのでしょうが、かささぎ族は、そうやわではありません。なにがあってもへこたれない。ってか、ますます元気になる。

大切なことは、わたしのミスでも何でもかまわないから、それをきっかけとして、一人でも多くの人に八女の文化財を知ってもらうこと、むかしの人々の文芸に寄せるあつい思いをしってもらうことだとおもいます。ああ、まずわたしがよく知らないのですけど。笑

注:松延貫嵐の生涯http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_978e.html

こんなふうに杉山洋先生へのくやしい思いを書いてますけども、それは例えて言えば、身内の喧嘩に似て、後に残るようなものではございません。大声で電話のあっちとこっちで言い合ってる、太鼓の叩きあいのように。
なんだか、大人気ないのです。
が、こういう喧嘩、いまどき珍しいんじゃないかなあと思って、アップする次第です。

かささぎは、このおかたがいなくなったら、たいへんさびしいとおもうだろう。
先生、どうか長生きなさってください。
また火が出るような喧嘩をしましょう。
色々とまだまだ知らないことをたくさん、かささぎにお教えください。
おげんきで。

昭和の話をしようよ。

エメラルドさんって、もしかしたら・・・くり?違っていたらごめんなさい。高校の頃、エリッククラプトンの話なんかしたことなかったしね。
良かった。私も三波はるおも三橋みちやも好きでした。先日行った歌謡ショーで「たっしゃでな」をきいてきたところです。さくらさんやyokotimeさんはどうでしょう。

「二人の世界」がドラマの最後に歌われていたのは覚えています。
内容は全然思い出せないけどあの頃のドラマはみんなとても良かったです。
家が貧乏だとか父親が母親がどうとか、生い立ちがどうとかそんな内容が多かったですね。
連ドラは一週間がまちどうしくて絶対見逃すまいと見ましたね。今はテレビ番組表も見ない。あぁ、今日やってたんだみたいな感じでしか見ません。
三浦友一と池内淳子さんが母息子役のも良かったです。主題歌はさだまさしで。
これもドラマ主題歌で「僕にまかせてください」と言う歌ロイリーさんはしんなさらんやろか。
三橋美智也さんの登場は私が中一の時。
「うれしがらぁせぇてぇ・・・」の大ヒットはその年のこと。

その頃の俳優さんや歌手はみんなそれなりに年をとった顔になっているのにあおい輝彦さんだけは抜群に若い。

さくらさんよく覚えているねぇ。
ぼんさん、わたしも三橋美智也や三波春夫知っています。
GSでは断然、タイガーズの加橋かつみが歌う「花の首飾り」ですね。
演歌はやっぱりひばりちゃん!
それと井上陽水。「傘がない」あの高音と言葉がはっきりしている歌い方、たまりません。
久留米の話は私よく知らないのでごめんなさい。
でも、楽しく読んでいますよ。

ああ、時代はまさに歌とともに動くんですね。
なつかしい歌がいっぱいだ!

さくらさん、その歌、わたしもよく知っていますよ。
「ぼくにまかせてください」
そして、yokoさん、井上陽水さんはわたしの大好きなアーティストのひとりです。傘がない、人生が二度あれば、のこのしまの片思い、難破船、こころ模様・・・どの歌もわたしの青春時代をほうふつとさせる歌です。

ところで、みなさんにお聞きしたい。
この歌知ってます?
歌っていた人も題名もわからないのですが、なぜかときどき浮かぶ歌です。

~白いベンチに腰掛けながら、遊ぶ鳩 ふたりで見てた で始まるのですが、途中の歌詞が思い出せない。最後の部分は、~あそこからあの場所からやりなおしたいの、あなたと  **?**?愛を始めたいの でおわるのだったと思います。

もうひとつ。
最初も最後もわからないのですが、さびの部分は
~釣り人達が川のほとりに静かな午後でした
愛していることにこころはいっぱいでも、なぜかふたりは ラララ古い映画の**??**はなしばかり***

あら、思わず途中で送信してしまいました。
とにかく、この歌の題名もしくは歌詞が知りたい。
ご存知の方、よろしくです。

お尋ねの曲「あの場所から」ではござんせんか?
柏原芳江ちゃん大好き。
こういう追跡調査大好き。

↓はりつけ

また貼り付け失敗。
ごめんなさい。

http://www.youtube.com/watch?v=zJmotPVsH2I&feature=related

きゃあ、これこれ、これで~~す、さくらさん。
さすがですね、さくらさん、仕事が速い。
ああ、この歌、柏原よしえさんの歌だったんですね。なぜかこの歌のリフレインが浮かんできて、もう長いこと、もやもやしていました。
そうか、歌もインターネットで検索できるんだ。ありごとうございます。じゃ、もうひとつのも検索やってみましょう。静かな午後とかのフレーズでもでるのかな。

あの歌なんだっけかなぁ・・・と言う曲を探すサイトもありましたよ。最近見失ってるけど。

 かささぎさん、青ヶ島出身だからあおい輝彦?いい思いつきでしたが、これは本名のようです(青井輝彦)。私は名前のほうが、当時人気のあった西郷輝彦の名を取ったのかと思ってたけど、これも本名だった。なお青ヶ島については、1955年に「青ヶ島の子供たち 女教師の記録」という映画が作られており、デヴィ夫人がちょい役で出ていたそうです。
 エメラルドさん、高校生で「クリーム」のファンとは渋いですね、私は30歳の頃、仕事仲間とバンドを作り「クロス・ロード」のベースを弾きました。あとクラプトンの曲「(愛しの)レイラ」は、アート・ネイチャーのCMで有名なのでは。三橋美智也は私の声質と合っていて、若い頃はおじさんたちを喜ばすため、「古城」を歌ったりしてたけど、my favorite song は「怪傑ハリマオ」です。
 yokotimeさん、加橋かつみは「廃墟の鳩」も良かったですね。昨年の送別会で「傘がない」の神津島バージョン替え歌を歌い、かなりウケました。
 せーこさん、「のこのしまの片思い」は、1972年に能古島で行われた野外フェスの時を歌ったもので、私はここで、まだ無名時代の陽水(数年前に「アンドレ・カンドレ」の名でデビューしたがほとんど売れず)、海援隊、サンハウス(リーダーは鮎川誠)などを聴きました。
 さくらさんごめんなさい、「僕にまかせてください」という歌はわかりません。

神津兵六ってみなみはるおみたいなやつだな 全方位外交ができる
おれはーほんというとー連句がやりたいだけなんだが なかまがいなきや巻けないんだべな
んで ついつい節操なき外交つまり口説きをやっては後で吐き気がするほど自己嫌悪

まあ 誰かがやらなきゃ仕方ないことだっぺ

あなたのだいじなひとをぼくに任せて下さい はさだまさしだよさくらさん 君は両手に花を抱えて 急な坂を登る 僕の手には小さな水桶 君の後に続く 題は

そうそう。
墓前で亡きき母に言うのだ。
あなたの大切なひとをぼくにまかせてください、と。く~~っ!言われてみてえ。と、この歌を聴くたび思ったものでした。母は健在ではありますが、いまのいまも。笑
かささぎどん。節操なき外交、よかじゃなかですか。悲哀を感じることもにんげん、無駄ではない。で、3月の連句、わたしも節操のない外交をやってみますわ。下手なテッポウも数打ちゃ当たるってね。

さだまさしのうた、クラフトというグループがうたっています。偶然ラジオから流れてきました。
昔、「ドレミファドン」という番組があっていたのはごぞんじですか? 曲のイントロだけを聴いて曲名を当てる番組。毎週見ていて、かなりの確率であてていました。出演者の誰もが答えられずにいる曲を、TVの前の自分だけが答えた時など、快感でした。時々スペシャル番組でやっているので見ることがあります。ぜんぜん答えられない。昔の歌もそう。歌手は同じでも違う曲なんです。衰えを感じるばかりです。

ぼくに任せてください は、さだまさしと答えたあとで、まてよ。もしかしたら、グレープだったかも。と思ったのでした。
グレープとさだまさしは一応違います。

作曲はさだまさしだけど歌ってるのは「クラフト」って言うグループです。
ドラマの主人公は島田陽子で不幸な少女役だったと思います。すごいいいドラマでした。

かささぎさん、心のこもったおはがきありがとうございました。
そっちこっちに「おいでくださいまし」の文字が躍っていて、参加して欲しい気持ちは充分に伝わりました。
だがしかし、その時期法事はやりませんので帰郷は難しいです。
他にも事情ありです。
ご成功をお祈りしております。

 それにしてもグレープやバンバンの「相方」って、いったい何だったのだろう?「懐メロ番組」みたいのにも出てこないし、歌もほとんど(全く?)ハモりとか入れてないし、作詞・作曲にも関与してないし…
 70年代後半以降、あまりメジャーな歌は聴かなくなったのでクラフトなんて初めて知った。最近は大西ユカリやクレージーケンバンドの曲をよく聴いてます。40代以上に受けそうな曲が多いですよ。大西ユカリは60~70年代のカバーヴァージョンをたくさん出してるし。人生40代・50代から!
 かささぎさん、「みなみはるおみたいなやつ」って、意味不明だけど、とにかくもう神津とはサヨナラ、サヨナラだから、神津兵六の名も御返上。連句って連歌のことかと思ってたが、調べたら要するに俳諧連歌のことなんですね、日本史の教科書に書いてある程度のことしか知らないけど。あたしゃ、久留米およびその周辺(と言っても福岡市内まで含めて)のことを語り、知りたいだけでこのブログに投稿し始めましたので悪しからず。

呂伊利ーさん
かささぎさんは、この蟻地獄ブログに嵌った獲物を見境なく連句へ誘い込む性癖があるだけなのでお気になさらずに。私なんか蟻地獄の底に落ちまいと必死でもがきながら、はや1年。名前も、最初は変なのを命名されたけど無視しました。

脳の奥底で懐かしく共鳴する音楽といえば、やはりビートルズでしょうか。八女の映画館で「ヤァヤァヤァ」が上映された時、こどもだけで観に行った。切符売り場で「ぼっちゃん、漫画は向こうですよ」と言われて腹が立った。当時、八女には映画館が複数あった。
館内はガラガラだった。前のほうを数人の女学生が陣取っていた。彼女らが銀幕にハンカチを振って泣き叫んでいたのが可笑しかった。彼女らは今は60歳くらいのはず。もうじき八女市老連。
ビートルズ来日の時は、武道館コンサートを白黒テレビに齧りついて観た。うるさくて、音として覚えているのは前座のドリフターズくらい。
日本のアーチストではまったのはフォークル。北山修が好きで、大学時代のペンネームに北山をいただき、北山四郎を名乗った。(ちなみにタイガースも好きだった。岸部四郎が好きで・・・)
大学祭で招いたのは、さだまさしと太田裕美。プロのライブには痺れた。
感動ライブのダントツは米米クラブ。立ち見席しか取れなかったが、始終総立ちライブだったので関係なかった。
ずっと気になっている歌は、大学時代にNHKラジオで一度だけ流れた古い録音の童謡。乙式検索エンジンでもまったく引っ掛からない謎の歌。男女の掛け合いで、イワン・イワノビッチ・イワノフさんとイワン・イワノビッチ・イワノフさんが鉄砲担いで狩猟に行く物語。どなたかご存知ありませんか?

↑をよんで、乙四郎はモダンだなとおもった。上に兄弟がいるからだろか。
かささぎがビートルズを知ったのはずっとあとになってから。
うちでは父が映画にいくのに家人にとがめられないためのフセンとして、こどものわたしを連れて行った。いなかのお百姓さんとしては父は珍しく「すちーぶまっくいん(このひとはそう古い人じゃありませんが)」とかえーと忘れたけど、外国のカタカナ名前を知っている。
父と映画とチャイナ・マーブル。チャイナマーブルというのは色がきれいな砂糖飴、この三つがセットで思い出されます。
追伸:
ぼん。エメラルドさんはクリではありません。笑
追伸:
ろいりさん。グレープは、相方の人、ちょっと雰囲気のある人でした。初期のころの大ヒットLPでの存在意義は大きかったと思う。さだまさし一人ではだめだったろう。見た目や雰囲気が何よりだいじなころって、ある。

鈴木先生

鈴木先生

博多のむすめが置いていった一冊。

『鈴木先生』武富健治

中学校の学校給食が出てきます。
食事のマナーとして物心付く前に厳しくしつけられた美意識。
でもその美意識はみながみな同じものを持ち寄っているわけじゃない。
それにその美意識は善悪を決める価値基準でもない。
そういうことがちゃんと分かっている中くらいおおきなこどもたち、中学生が巻き起こすコップの中の嵐を真正面からシリアスに描いて、ちゅうくらいウンとおもしろい。
そうか、こんな描き方もあったのか。というおどろき。

そういえば、ものをくちゃくちゃ音をたてて食べてはいけない。
ひじをついてはいけない。
テレビや新聞を見ながらもいけない。しゃべりながらもいけない。
おわん、おちゃわんはちゃんと手でもつ。
おはしはきちんと持つ。
ごはんにおはしをつきたてちゃだめ。
などなど、ああだこうだああだこうだ言われて育ったよね。

ほか、中学生の性を善悪としてではなく、人間としての視点からさばいてみせる。
これはちょっと脱帽。デリケートなはなしを少しもいやらしくなく、しかもつたえるべきはきちんと伝えてみせる、その技に感心する。

きのう、『空中庭園』という小泉今日子主演の映画をみたけど、その映画のエッセンスともどこか通う。現実の醜悪さにたじろがない一種の余裕、ゆとりではないけれど、とりあえずはまずその現実を見て逃げない恐れない。
心にちいさな間を内包して、どんなものも止揚する。
これが時代の空気なのだろう。

2009年2月14日 (土)

源鑑述と人柱伝説の主との接点  乙四郎語録47 

八女戦国百首和歌「夏日侍」を読む

    竹橋乙四郎

今日はぶらりと八女伝統工芸館に立ち寄り。
「矢部川流域の文化財」(近本喜續著、平成17年)というのがあったので、ぱらぱらと立ち読み。八女天文百首も紹介してあった。
そこには鑑述は兼松城主だと明記してあった。

「矢部川流域の文化財」には、天文百首は、庄屋の中島家が保管していたみたいなことも書いてあった。庄屋の中島って人柱の中島だから、あらま乙の親戚筋がかかわっていたことになる。これもえにし。

人柱伝説

八女の山の井堰で人柱になった庄屋の中島内蔵助。

物語のエッセンスは次の通り。

① 1642年、水神さまが庄屋の夢枕に立ち、人柱を立てるよう示唆。
② 明朝、草履の緒が左結びになっている者が人柱になれとのお告げだと庄屋が言う。
③ 翌朝、庄屋ひとりが左結びの緒の草履を履いていた。
④ 庄屋の犠牲で工事が成功した。

さて、上の数行を書くため、「中島」「庄屋」「人柱」というキーワードで検索したら、別の人柱伝説がヒットした。
なんと、伊勢市に伝わる人柱伝承。
伊勢市の「中島」という地名のところに伝わる、庄屋の松井孫右衛門の物語。
① 1633年、宮川の怒りを治めるため、人柱を立てようということになる。
② 着物が赤い糸で縫ってある人を人柱にすると庄屋が決める。
③ 庄屋ひとりが赤い糸で縫った着物を着てきた。
④ 庄屋の犠牲で宮川堤は決壊しなくなった。

時代もストーリーもあまりにも似ている。
どちらも年代記録が明確で、史実であると思われる。
伊勢と八女のシンクロ。なぜだろう。
気になり、他の地域の人柱伝説もざっと調べてみた。

伊勢の楠原というところの伝説。
① 昔々、池の土手の決壊に悩み、人柱を立てようということになる。
② 袴の前と後を間違えているものを人柱にすると決める。
③ 庄屋が、はかまを前後反対にはいてきた。
④ 庄屋「勘弁してくれ! わしの家に奉公に来ているサヨという娘を身代わりにする」
⑤ 工事現場に弁当を届けるようサヨに命じ、後をつけてきた庄屋は、サヨの背中を押して人柱を埋める穴につき落とす。
⑥ サヨの犠牲で土手は決壊しなくなった。
⑦ ある日、サヨのお母さんが、サヨを尋ねてきた。
「庄屋さん。サヨは、元気でおりますか?。会わせて下さいな。」
「サヨなどしらん。どこかへ行ってしもた。帰れ、帰れ。」
⑧ 村に祟りが頻発する。

鳥取県名和町の乙女ヶ池の伝説
① 川の堤防修復工事に人柱を立てようということになる。
② 工事責任者の庄屋は、自家の下女である乙女を人柱に立てようと考え、工事現場に弁当を持ってくるよう命じる。
③ 乙女は弁当を持って堤防まで来て、落とし穴を踏んで落下し、人柱となる。
④ 堤防は修復できたが、後に決壊し、田地は池となり、乙女ヶ池と呼ばれるようになった。

福岡県宮田町の伝説。
① 八木山川の土手の築堤工事。人柱を立てようということになる。
② 袴のすそを横じまの布でふせている者を人柱にすると決める。
③ 工事責任者の頭山某はすそを横じまの布でふせた袴を着用。
④ 頭山某の犠牲で工事完了。

丹後今福の伝説。
① 1670年、海の神様の怒りを鎮めるため、人柱を立てようということになる。
② 工事監督の田代近松は、袴に横ぶせのある人を人柱にすると決める。
③ 田代ひとり、横ぶせのある袴をはいていた。
④ 田代の犠牲で工事は見事に完成した。

大分県中津市のお鶴・市太郎の伝説
① 井堰工事が順調に進まないので、土地の地頭七人の一人湯屋弾正が、「人柱を立てよう」と提案する。
② 地頭七人が各自の袴を川に流し、真っ先に沈んだ袴の主を人柱にしよう、と取り決める。
③ 七人が袴を投ずると、湯屋弾正の袴が最初に沈んだ。彼は、自分の袴に石を入れておいた。
④ しかし、弾正の家来の娘お鶴と彼女の子市太郎が、弾正の代わりに人柱になった。

俳句  八女老連広報から

八女の人たちの俳句 

拙稿の机上明るき十三夜  東 日出雄

初鴉青き小枝をこぼしけり  田中大旦

目冴ゆるこの街に住み二十年  〃

地虫鳴く八千代座奈落の底にして  〃

ゆく春は真淋し海の広きこと    〃

わが妻も昔早乙女たりしこと   〃

雨来たり畑隅々にゆきわたる  樋口サカヱ

山の湯は老の集いや竹の春  中園シヅヨ

短日や話残して娘は帰る    〃

願うより謝して八十路の彼岸寺  江崎愛子

時雨るや托鉢僧の笠深く   〃

梅林の起伏に頼る拾ひ杖  高田紀代子

秀野句碑砂紋の庭に柿の花  〃

木下闇先人治水の苦学の碑  〃

夏蝶の午睡の羽は風に揺れ  〃

雀たち 熱くないの 屋根の上  山口幸敏

夏めくや厚物洗ひの一日なり   中村境子

一山を夏雲の影覆ひけり      〃

隣の犬くしゃみが一つ花粉症   池田タエ

老い行く 明日の日暮し 夢うつつ  松延キミ子

八女市老連広報2009・第41号より引用。

2009年2月13日 (金)

昔ばなし  木附大子

  昔ばなし

     木附 大子 
        

矢部の人が柳川から、お嫁さんをもらいました。
初めて嫁さんの里に行く時、家人から「柳川には蚊がおるけん、蚊帳をひいてあったら、「蚊帳とさ」と云って蚊帳の中に入るように」と云われました。
柳川では「のれん」と蚊帳を下げてありました。
むこさんはのれんを「蚊帳とさ」とそのままやすみました。
一晩中蚊にさされたとさ。

次に柳川に行く時、家人からのれんと蚊帳が下げてあったら、「のれんとさ、蚊帳とさ」とやすむように云われました。柳川では気をきかせてのれんをはずしてありました。むこさんは蚊帳の中へ「のれんとさ」と入り「蚊帳とさ」と出てしまいました。又一晩中蚊にさされたとさ。

矢部の人達が柳川へ行く時、あげまき(貝の一種)が出たら(へこ)を取って食べるようにと云われました。柳川ではさっそくあげまきが出ました。矢部の人達は皆立ち上がって「へこ」をはずしはじめました。柳川の人達はびっくりしましたが後でわけをきいて無事におさまったそうです。

矢部の人が初めて海を見て、「この堤は広かのう」とびっくりしました。
「これは海ばい」と教えられて、「そんならあの山のむこうには、ばさらか太かねぶと(おでき)が出きとろ」と云ったそうです。

曽祖父を(ひいじいさん)と呼んでいました。
くりかえし聞いた話です。
大へん可愛がってもらいました。
朝起きると東の方を向いて「日天様、月天様、やをよろづの神様、今日も無事ですごさせてください」とかしわ手をうってお祈りしていました。
面白い話を澤山
聞きましたが忘れてしまいました。
昭和四年に亡くなりました。

   木附大子、八女市山内在住

  2009八女市老連広報41号より引用しました。
  

2009年2月12日 (木)

made in china

made in china

近所の安売り洋服やさん○○○○で1280円のオフタートルネックのモールセーター。
ぶかっと着ます。軽くて暖かいので気に入りました。
低賃金労働者としてはもうデパートでは服は買えない。
意識を変えたら安いのは全く気にならなくなった。
むしろありがたい世の中になったなあとうれしくなる。

ところが、手洗いしてたのに糸のほつれが出てついひっぱると、袖口から身頃まであっというまにぴーっとほどけてしまいました。あらららら:::。
ひさびさに「中国製の悲哀」を感じた一瞬でした。
母に修理を依頼。
母は昔の女ですから、洋裁も和裁も私よりは上手です。
毛糸が黄色しかなかったといって、黄色のチェーンステッチでつなげてくれましたがおもてが裏編みになってかなりへん。でも、それさえやさしくてあったかい。

(娘からも糾弾される色気のない窮屈な性格をなんとかしようと、ピンク色に挑戦中。
ふしぎなことに、桃色の服を着たりしますと、それだけでほんわかと優しい気持ちになれる。赤ではだめです、絶対ピンクね。嘘だと思うなら、みなさまもどうぞ。試してみてください。)

年の暮にさくらさんの書いてらしたことにそそのかされて、オードリー・ヘプバーンの映画を立て続けに数本みたのですが、そのいずれかに、本屋の店員からモデルになる娘さんのがあった。冒頭のシーンで、全員服をピンク色に揃えているところがあります。とてもきれいだった。なんの映画だったっけ。フレッド・アステアが出るミュージカル。かな。ハンフリーぼかーとおじんがでるのかな。どっちだ。ごっちゃになってる。にたりよったり。でしたなあ。三本みたら飽きたけん。

ところでここから地域学。町内にあった電器やさんが遠くへ移ってしまった。
とても不便。だけど跡地にできるのは、ユニクロだと信じて待っていた。
ところがぎっちょんちょん。またまたホームセンターやん。
がっくし。
ホームセンターだらけ。あそこもここも半径五十メートル以内に三つも。
なんでじゃろ。
八女にはドラッグストアとホームセンターばかりだ。

武田晴信「倭漢聯句」のこと 2   村松定史

村松定史『武田晴信「倭漢聯句」のこと』を続けて引用します。
原文ではまず、四吉(よよし・44句)の一句ごとの解説が先に書かれ、最後に連句作品が紹介されてます。それをかささぎの旗ではまず作品を先に掲げ、あとで解説をつけることにします。筆者に断わりもなく順序を逆にしますのは、そのほうが分かりやすいと思ったからで、他意はありません。

 天文十五年七月廿六日於積翠寺

     倭漢聯句

初表

心もて染すはちらし小萩原    晴信
新霜有雁来             龍
搗衣空外力             鳳栖
かり寝の夢の覚るほとなき    蘭
月は猶残る雲間の影涼し     台運
暁雨はるるあとの山の端     其阿
水上もわかず落くる滝見えて   恵臨
龍門魚曝腮              湖月


初裏 
 

名に高き道をぞあふぐ家の風   長傳
末まで色のふかきことの葉     周誾(しゅうぎん)
写情春意緩              晴信
政質泰多回              鳳栖
八重咲くもひとへを花の初にて   龍
うすき霞に匂ふ梅の香        信常
假山含万象               蘭
巨海極三才               晴信
潮與佩聲漲              龍
泉令琴韵摧
              鳳栖
記晴歌月出              
星まつる夜の半天の雲       台運
稀にあふ露の契はうきちきり    其阿
不跡草無媒              龍


名残表

占隠人倫絶              湖月
ひとり伴ふ友鶴の声         蘭
盡欲縮湘景              晴信
漕ゆく船の遠きうら波        台運
仄にも見渡しかすむ朝朗      其阿
花の香ふかく月のこる雲      長傳
鶯舌啼春破              湖月
帰る山路は霧やむせなん     信常
就荒黄落宋              鳳栖
炊黍黒甜槐              龍
ゆく心千里隔つる波もなし     蘭
幾度緑徘徊              鳳栖
吟履為誰湿              湖月
詩篇教佛推              鳳栖
 
名残裏

法もたた謀をや道ならん     其阿
身を治てぞ世をおさめしる    周誾(しゅうぎん)
何事も心を種のわざなれや   長傳
わするる草の志げらずもがな  蘭
若盟兄弟好             湖月
ねくらの鳥の去さらぬこゑ     恵臨
野遭春日促             晴信
雪使韶光纔           
  龍

解説:村松定史

初折りのおもて

1 時は旧暦七月末。季は萩で秋。
勅使を迎える感動を萩に託した主人の発句。

2 「雁来タルコト有リ」季題の雁に寄せた客の挨拶。

3 「外力空シ」遠征の夫に砧の音も届かない。遠来の賓客への慰めか。

4 仮寝は前の雁にも掛け、旅寝の夢などすぐに消えます、と客が応じる。

5 月の座。

6 「腮(あぎと)ヲ曝(さら)ス」黄河上流の滝を龍に化そうと逞しく昇る魚の姿。

初折裏

1 前句の登竜門を受けて、家名を挙げるこころざし。

2 木の葉と言の葉を掛て、詩歌で後世に名を残すこと。

3 「情ヲ写シテ春意緩(ゆる)シ」ゆったりとした春情の表現の意か。

4 「政質泰クシテ多ク回ル」政治のやり方で平和が未来永劫めぐってくる。

5 花の座。

7 「仮山万象ヲ含ム」築山は万象の真理を内包している。

8 「巨海三才ヲ極ム」大海には天地人に通じる古今の摂理が極めつくされている。

9 「潮佩声(はいせい)ト漲ル」潮騒が帯の飾り玉の音(朝廷の高位高官の行列)を思わせる。

10 「泉琴韵(きんいん)ヲ摧(くだ)カ令(し)ム」泉流は琴の音に勝る。山水の風流が凌駕している。

11 月の座。

12 七夕の中空に浮かぶ雲。

14 「跡アラズ草ニ媒(ナカダチ)無シ」人の訪れに形跡もない草深い所なので、契りを取り持つ者もない。

名残表

1「隠ヲ占メテ人倫絶ユ」ひっそりと暮らし交際も絶え果てた。

2 つがいの鶴には、良き連れ合いの意も。

3 「盡(ことごと)ク湘景ヲ縮(ちぢ)メント欲ス」(洞庭湖に注ぐ湖水の名勝)の景色を縮めてすべてここに箱庭のように作りたい。

5 朝ぼらけ、あけぼのの景。

6 月花の同座。

7 「春ニ啼キテ破ル」鶯がとてもよく啼く。「破」は強意。

9 「荒ニ就ク黄葉ノ宋」荒れ果て落ちぶれた住まいよ。

10 邯鄲の黄梁一炊の夢の故事を踏まえる。

12 繰り返し緑の中を逍遥する。

13 吟履(ぱたぱた音のする草履)は「誰ガ為ニカ湿(うるお)フ」。

14 「仏ヲシテ推サ教(し)ム」拙作を仏が推敲してくれるの意。

名残裏

5 「兄弟ノ好キヲ盟(ちか)フガ若(ごと)シ」兄弟仲良く約束でもするかのようだ。

7 「野に春日ノ促スニ遭フ」山野をぶらついていると春の日があっという間に暮れてしまう。

8 「雪使韶光纔(ゆきはしょうこうをわずかならしむ)」雪が降って春景色もまだ浅い。

漢句はすべて五言句で総数二十二、和句の長句は十、短句は十二で、漢和の比はちょうど半々におさまり、理想的な構成である。和と漢の順序は、長・短・漢ないし漢・短・長が七組あり、全体の半分ほどは長・短・漢の三種の句のバランスよいリズムを作っている。漢句は一番多く並ぶ初裏7~11で漢が五句続いているが、「和漢ともに五句を以て限度とす。」(『増補はなひ草』)には適っている。
十五世紀の『漢和方式』(一条冬良)には「面八句は、漢四句和四句也。・・・和漢の時は八句め漢也。」とある。ここでは初表の八句も名残裏の八句も漢句は三句ずつで一句たりないが、八句目はいずれも漢句とする決まりは守っている。

平仄(ひょうそく)に関しては、最初に詠まれた偶数の漢句の脚韻に、以下に詠まれる偶数句の漢句は韻を合わせねばならないのだが、本巻では初めの漢句が脇句で「来(ライ)」で終わっている。これ以降の偶数漢句は、初表8「腮(サイ)」、初裏4「回カイ」、初裏8「才サイ」、初裏10「摧サイ」、初裏14「媒バイ」、名残表10「槐カイ」、名残表12「徊カイ」、名残表14「推スイ」、名残裏8「纔サイ」と、脚韻の平仄にも意を砕いている。

作者別に見ると、鳳栖と湖月は漢句のみで、台運、其阿、恵臨、長傳は長短合わせて和句のみ詠み、信常と周誾は短句がそれぞれニ句だけである。得手不得手、巧拙の差もあろうが、さすがに、晴信、龍、蘭は漢和とりまぜて五~六句を出しており、場所も各面にわたっていて均衡がよい。器量のほどがうかがえる。

一巻の内容としては、戦乱のなかで一国をおさめ、やがては西に上ろうとしている晴信の国政手腕や家運隆盛を暗に称揚する一方で、山河海洋、花鳥風月の逞しさ美しさを詠ってもいる。しかし、恋は淡く寂しげであり、隠棲や逍遥の場面に人の世のはかなさ、人生の空しさが託されているのは、乱世における諦観の思いが人々の心底に揺曳していた時代なのかもしれない。

いずれにせよ、後の武田信玄のすでにして天皇勅使を風雅と知性をもってもてなす度量を示す一巻であることに変わりはない。むろん僧侶を中心とする優れた知性集団の協力もあるが、後世にあっても、かくのごとく読みうる俳諧之連歌を残した名将をいまさらながら見事と感じ入るのは甲州人の身贔屓だろうか。

* 小文をなすに当たり元静岡大学菅野禮行教授、清泉女子大学今野真二助教授ほかのご教示および『連句辞典』(東京堂、東明雅ほか編)など参照させていただいた。記して謝するものである。なお、拙稿の不備の責はすべて筆者にある。諸氏のご高裁を乞うしだいである。(村松定史)

▼付録    出句表
左端は巻末に付されていた数。右端が実数。(かささぎ註)

晴信  6句   漢4 長1 短0 計5句
龍    6句  漢5  長1 短0 計6句
鳳栖  5句  漢6  長0 短0 計6句
蘭   6句   漢1  長1 短3 計5句
台運  四句  漢0  長1 短2 計3
其阿  4    漢0 長3 短1 計4
恵臨  2    漢0 長1 短1 計2
信常  2   漢0  長0 短2  計2
湖月  5   漢5         計5
長傳  3   漢0  長2 短1 計3
周誾  2   漢0  長0 短2 計2

無記名     漢1         計1

合計      漢22 長10 短12 計44

平成十五年『連句年鑑』連句協会編・巻頭評論を引用。

参照:連句連歌誌『れぎおん』64号
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/index.html

かささぎのひとりごと

これを打ち込んで、ハタと思い至った。
むかし、前田亜弥さんにも入っていただいて「ハリネズミなの」という短い作品を巻いたのです。そのとき、一炊の夢を一睡の夢と書いてしまったような記憶がある。邯鄲の夢のことだけど。あめりかのリップヴァンウインクルとおんなじのはなしで。今朝確認したら、一睡の夢じゃなくて、一炊の夢が正しいのですねえ。
連句は一炊の夢のようなものだなとつくづくおもった
http://homepage1.nifty.com/kjf/China-koji/P-066.htm


   

  

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2009年2月11日 (水)

武田晴信「倭漢聯句」のこと 1  村松定史

一月末ころ数日に亘って引用をした鶴崎裕雄の論文『連歌師ー政治的な、あまりにも政治的なひとたち』でも紹介されていた史料であります、甲斐の武田信玄の巻いた倭漢連句について、きっちりと調べ上げて書かれた文章を、本日ぐうぜん書架で見つけました。それはまるで、「わたしを読んで」と小声でささやきかけているかのようでした。ネット検索しますと、あまり引っかかってきません。おそらく、だれもまだ打ち込んではいないようです。ちょっと長いのではありますが、国民放送で妻夫木くん主演で大河ドラマもやってることではございますし、引用いたしたいと思います。この仕事はめんどうではありますが、天文年間の百首和歌を読み解く資料の一つになります。村松定史。連句界では有名な人です。きっちりとした仕事をなさいます。出典は『2003連句年鑑』(平成15年版・連句協会編)。全文引用。

武田晴信「倭漢聯句」のこと

     村松 定史

山梨県甲府市に万松山積翠寺という古刹がある。
甲府駅から北東へ四キロほど登ると、かつて武田信虎が山城を築いた要害山があり、寺はその麓にある。
奈良時代に臨済宗妙心寺派の行基が創建、境内の巨石からの湧水にちなんで石水寺と称されるが、後に積翠寺の字に改められた。麓にはまた温泉場があって、筆者は郷里の甲州に帰ると、時折ここに骨休めをする。

ところで、積翠寺には数百年前に武田信玄の巻いた連句一巻が保存されていると聞いていたので、いつも湯船につかりながらそれが気にかかっていた。寺の案内書や郷土史の一節に言及はあるものの、全容が知りえない。ある時、住職にご無理を言って直資料を拝見の上、複写のお許しをいただいた。詳細をつまびらかにするには力及ばないが、知りうる限りでつぎに紹介を試みたいと思う。

積翠寺はすでに鎌倉時代から武田家一族のゆかりの寺であったが、大永元年1521十一月三日に武田信玄はここで産声を上げている。戦国動乱のさなか、武田信虎は駿河の軍勢に攻められ、妻大井夫人を要害城に避難させる。臨月を迎えていた夫人は積翠寺にて信玄を出産する。今も本堂裏に産湯を汲んだ井戸が残されている。

武田信玄1521~73は、言うまでもなく甲斐国主にして、兵法、政治、宗教、学芸に通じ、「甲州法度之次第」1547の制定でも名を残した名将である。
幼名は勝千代、元服して晴信、出家して信玄の法名を名のった。

さて、くだんの連句だが「天文十五年七月廿六日於積翠寺/倭漢聯句」の詞書の後に、一行おいて晴信の立句ではじまる和句漢句あわせて四十四句が、天地十八・五センチ、左右五十二センチほどの雁皮紙に墨書されている。横長の和紙の下を折り目に二つ折りにしたものを二つ重ね、右端を紙縒(こより)でとじ、第一面に十四句、裏の第二面に十六句、二枚目の第三面に十四句、その裏面には連衆十一人の名と句数が記されている。

俗に半百韻とも呼ばれる四十四句の「世吉行よよしこう」は、いわば百韻の縮小型で、初表八句、初裏十四句、名残表十四句、名残裏八句で、二花三月。
慶事の機会などに催されるもので、この巻も京都からの公家二人が賓客として連座しているところから、歓迎と記念の奉納連句と思われる。

またこれが、和句と漢句を取り混ぜた和漢連句の張行であることから、晴信の意気込みと座の教養がうかがえよう。平安時代中期から中国の漢連句が日本でも試みられ、これが鎖連歌と結びついて室町時代ころから和漢連歌という新形式が徐々に流行し始めている。これには漢詩文の素養と俳諧の機知が要求されるから、なかなか高尚な文芸であったといえる。

天文十五年1546と言えば、晴信は二十六歳、この年に信州の内山城を、前年には信州の高遠城、竜ヶ崎城を落とし、着々と勢力を伸ばしつつある時だ。五年前に父信虎を駿府に追放して国主となり、信玄堤の築造や金山の開発など国政にも力を注いでいる。また後に跡継ぎとなる四男勝頼が同年に誕生している。西上の志を抱いて邁進し、五十三歳にして陣中に没する波乱の生涯のまさに半ばの年のことである。

晴信はこれに先立つ数年前には冷泉為和を招いて歌会を催しているし、『詠百首和歌』などみずから歌を多く残してもいる。また『甲陽軍鑑』には十九歳の晴信が昼夜を分かたず「詩を作遊す事」の記述があり、文芸への熱中ぶりはよく知られるところだ。ことに五山系の僧侶たちとの親密な知的交流は、この連句からも推察される。

原資料の懐紙には、三面に十四・十六・十四という句の配分で書かれているが、ここでは世吉の四折にのっとり句番号を補って、これに従って内容を概観してゆきたい。

まず連衆だが、晴信は繰り返すまでもなく武田信玄で座の主人。龍は三条西大納言実澄、蘭は四辻中納言季遠で、ともに後奈良天皇(在位1526~57)の勅使で客分。
鳳栖は東光寺前住職と注されており、東光寺は甲府にある臨済宗妙心寺派の古寺で、後年、晴信の長子義信の墓所が置かれる。
湖月も甲府の臨済宗妙心寺派法泉寺の前住職。
法泉寺は、信玄の世継ぎ勝頼の菩提寺に後になるところ。
其阿(ごあ)には武江日輪寺と添え書きがあり、武蔵国江戸は日輪寺住職。日輪寺は天台宗として開山し、後に時宗(日本浄土教の一派)となる。現在も台東区西浅草にあるが、当時は芝崎村(現、神田橋辺り)にあった。時宗では僧正をみな其阿の尊称で呼ぶ慣わしで、記録も消失しているため第何世かは不明。
他の連衆に注はない。

なお、懐紙裏に記された句数は晴信、蘭、台運のものが一句ずつ余分であり、鳳栖は一句不足して勘定されている。一方、初折裏十一句目は連衆名が空白になっている。句数表では一句余分の、晴信、蘭、台運のいずれかの作の可能性なしとはしない。月の座でもあり欠落が気になるが、ここでは不明のままとして、全体の正しい句数を付しておく。

連衆は初折裏の二句目までで十名が一巡しているが、信常のみ四句遅れで初折裏六句目で登場する。遅参したか、句柄から見るとまだ初心かもしれない。武田の一門であろうが、晴信との関係は明確には分からない。ただ、武田氏族の米倉丹後守昌尹(しょういん)の娘で「武田信常室」と注されている女性が米倉氏系図には見える。

2につづく。

2009年2月10日 (火)

背もたれケロちゃん

背もたれケロちゃん

同時代を生きてきた、歌!

おはようございます
みなさんのなつかしい話題が楽しいですね^^♪
第3の目は時々ひたいから出てきますが、俳句は作れそうもありません。。あ、でもB級グルメは参加したいかもです☆noodlebottle
pencil今日もお仕事がんばってくださいね。 気をつけて~car

青山孝のファンでした。中学時代のアルバムには彼のブロマイドがべたべた貼ってあります。姉と年が離れているので、明星やら平凡やら女学生の友やら、主婦の友やらいろいろ読んでました。妹は北 こうじのファンでした。年齢をさばよんでるみたいといつもいってました。青山孝君には弟がいて、たー坊にファンレターを出しても読んでもらえないだろうから、弟宛に一回だけ出した事があります。
返事は来ましたが、印刷したもので、誰にでも出してあるとわかる内容でした。
あーこれは地域学ではありません。ごめんなさいまし。

エメラルド様

どうしたらネット上で住所を教えて貰えますでしょう
テレパスになってください
第三の目がキャッチしますから
連句は初めての人と巻くべし
と言う偉大なかささぎ族長老の言葉がございます

きゃー
ぼん かわいい

甘太郎知っていますよ。
昔は回天やきやさんだったでしょ。
白い大きな豆のつぶつぶあんこがたっぷり入った回天やき。すごく美味しかった。
一番街の西鉄駅に近いあたりだったけど、その後西鉄駅ビルにもできていたよね。

私もフォーリーブズではター坊が一番好きだったよ。
清潔でかわいい。
彼らがそろって60才近くになってるのがショックだった。
それにしても初代ジャニーズのあおい輝彦さんはわっかい。
「二人の世界」って曲が大好きなんだけど。
知ってるでしょ?
なまえに貼り付け聞いてね。

明星 平凡 女学生の友が出てくると話又はずみそうだわ。

うーん、この歌も好き。
「あなただけを」(名前貼り付け)

「あなただけを」リンク訂正

又間違った、ごめんね。

わお!懐かしいハナシに花が咲いてますね。
さくらさん。
二人の世界、よく聞いてました。大好きです。
久しぶりに聞いた。なつかしかねえ。
やっぱ、よか曲です。
「あなただけを」は記憶にないのです。
これ、ひっとしました?

で、さくらさんがリンクしてくれたところで、アリスの曲をしみじみ聴きました。遠くで汽笛を聞きながらとか、いまはもうだれも、とか、チャンピオンとか。青春時代そのものだよ、これ。

「二人の世界」は「まちぶせ」石川ひとみ、「思い出がいっぱい」H2Oなどと共に私のベストスリーです。
「あなただけを」これもヒットしましたよ。

甘太郎のところでとんだ誤字が、回天やきは回転やきの間違い。
回天は戦争中の兵器でした。

さくらさん
気づいてましたよ
笑ってはいかんのやけど ごめん わろた

これ、パソコン病だと思う。
そのときはまったく気がつかず、これで正しいと見えてしまうのが恐ろしいわ。

鳥栖は違う形のまんじゅうかなと思ってました。
近頃は白いたい焼きというものがでてきてますよ。生地にタピオカが入っていてもちもちするそうな・・・
まだ食べた事がないのですけど。誰か食べましたか?

はい。でもおいしくないよ。

たいやきでおいしいのは、くるめの山川町にある「日本一のたいやき」140円。でも、これも最初にたべたときその名づけに感激しただけで、次からはふつー。何に対しても感激がありません。最近なにがおいしかったかなあ。今日晩御飯に作ったいりこでだしをとったわかめの味噌汁。これはおいしかった。

 また4日間ほど仮釈放で本土上陸していたら、その間にコメントたくさんあったんですね。
 まずぼんさんの言う、KBCTVで長沢純司会の生番組、実は私、それに出たことあります!もちろん踊りではなく、フォークソング・グループのコンテストみたいなので、残念ながら1回だけで落とされた。確かアマチュア&アコースティック時代のチューリップがレギュラーで出ていたのでは。ちなみに久留米市民会館小ホールで、やはりアマチュア時代の海援隊(メンバーは武田・中牟田ほか3名の頃)の前座をしたこともあります。長沢純はスリー・ファンキーズの初代から解散までいたけど、歌は一番下手やった~だからソロになれず、でも司会業で成功した?
 天満屋は日吉校に近かったので、母が時々買ってきてくれたり、また高校の時クラブの仲間と行ったこともあるけど、いつ無くなったのだろう。甘太郎は文字通り甘味処というイメージが強く、ラーメンがあるとは知らなんだ。回転焼き、なぜか家では太鼓まんじゅうと言っていた。六ツ門饅頭は御存じでしょうか、ここもディープな老舗です。
 あおい輝彦ファンの方々、「ハイ、ハイ、ハイ」という歌も知ってるでしょう?けっこうヒットしたけど、完全なパクりのメロディだった。「二人の世界」は何かのTVドラマの主題歌で、「あなただけを」は誰か忘れたけどカラオケに別人バージョンが入っています。あ、何とこの人は伊豆諸島最果ての、人口数百人?の青ヶ島出身らしいです。
 御赦免で引っ越し&転勤とあいなり、4月までムチャクチャ忙しい時期です。でもGWには帰省するかも。
 以上、長々とすんまっしぇんでした。

へえ。呂伊利さんはうちの(戸畑の)夫とおなじようなことをいわっしゃる。
「同時代をかさなるようにいきたから、博多で、だからチューリップとかはスターってかんじ全くしない、もっとずっと身近なもんだったんよ・・」・っていってた。おなじ番組ではないみたいだけど、そういうチャレンジ番組に出たことあるらしいラジオの。あのころは、みーんなネコもしゃくしもロングヘアで、ギターひいて歌ってました。なんなんだろうね、流行って。時代の空気って。
五月には帰省するろいりさん。そのころに又連句をやりますからきてください。そのときはエメラルドさんもさそいますね。さくらさんやよーこさんもみえないかなあ。いつかみんなで連句会やれたら楽しいでしょうねえ。・・はっ。いつもあたまのなかは、連句しかない、かささぎでした。笑

あおい輝彦ってなまえの原点は、生れ故郷の離島の名前からとってらしたんですか。へえ!!
あまい声の歌い手さんで、平尾昌昭(字がちがう)とどっちがってくらい。上げられた歌は、みんな歌える。えっへん。三波春夫も三橋美智也も春日八郎も歌える。じつは、だいすきだった。

じぇんじぇん関係ない話。
いま長瀬って人が宣伝してるビールの背景に流れる英語の歌。毎日聞いてる歌だった。題、なんていうんだろうね。私が聞いてるのは、佐藤竹善のです。ちぇんぢ・ざ・わーるど?まじで?

こんばんわ
あおい輝彦氏は昔放映されていた「冬の旅」がすごく印象に残っています(田村正和氏と兄弟役)。 辛い内容を毎週かかさず見てました。 あの役ははまり役でした。 覚えてらっしゃいますか?

じぇんじぇんの話>>あの曲はChange the worldでしょう☆彡 でもエリッククラプトンじゃないですね。新しい感じなので、、。
高校生の頃「クリーム」の大ファンでした。「ホワイト・ルーム」はほんとに名曲ですね☆☆☆クラプトン氏には名曲がたくさんありますね^^

2009年2月 9日 (月)

牛耳捌・歌仙 『冬がれ』

 歌仙『冬がれ』

   第一回俳諧時雨忌

     捌・野村牛耳

オモテ

冬がれや世は一色の波のおと 翁
  凍つる汀に黙す老漁夫     牛耳
練上げの盌を灯りに透し見て   南方子
  二言三言胸につぶやく     圭草
山深き鄙のたよりは月のこと   空花
  白曼珠沙華燃えるすがたも 
 恭子
ウラ

百舌招く甘柿甘く熟れてゐて   健治
  湖に臨める阿弥陀千躰      南
宵々に板橋わたりゆくは誰ぞ    南
  二階の窓にいつも顔あり    恭
紅皿のべにをこぼさばひろがらむ 草
  曝書の山をくづしつつ読み   恭
イエテイの影雪渓の月に消え   耳
  襖隣りにキイ叩く音        花
決断の裏目に出たる先議権    南
  方向オンチ耄けし番犬      治
嵯峨祇園醍醐清滝花の中     南
  春眠浅き興亡のあと       治

ナオモテ

遠足の黄なる帽子の列つづき    恭
  ウーマン・リブと幼な子のいひ  草
スラックスぴったりしすぎ前うしろ   耳
  四十を越えて知りあへるひと   花
地球儀をまはし眺むる松の内    恭
  水吸ひ上げる肥後の水仙    南
町角の石油スタンド人気なく    徒司
  救急患者長く待たされ      恭
繰上げの議員左にバッジして    治
  それやこれやで話す最中    南
雑草の新駅かこみ月と虫      草
  手漉きの秋に楮切りだす    治

ナウラ

ながながと皮をたらして林檎むき  恭
  インターホンの訪ひの声     恭
アルヌーの水濁りたるフロレンス  南
  飯を啖ふは事のなきとき     南
花に会ふわれわが魂を見つめつつ  耳
  蝶のやすらふ紹興の甕      花

昭和四十六年十月十日首尾 於青山『いろは』

捌:野村牛耳

連衆:林 空花(東京義仲寺連句会)
    高島南方子(〃)
    石田圭草(〃)
    杉内徒司(〃)
    大畑健治(都心連句会)
    金子恭子(〃)

引用は 俳諧俳論集『行々子』 林 富士馬・著
昭和53年7月15日・東京義仲寺連句会発行
 

同作品はもう一冊の連句集にも収録されている。
こちらのほうが初出ということになる。
『野村牛耳連句集 摩天樓』 昭和50年7月6日
    東京義仲寺連句会編・発行
 

         
▼かささぎよみ:

山深き鄙のたよりは月のこと   空花

この単純にして余情ふかき一編の詩。すばらしい。
月の座は、三個ともすべて「月」という表現です。
二個目の他季の月は雪渓。夏。


ウラ折立で、すぐ恋を誘うような句がでたけれど、すぐに恋を詠むのは待ちかねの恋といって、下品なこととされる。さいきんは、でも、そうでもないようですが。

湖に臨める阿弥陀千躰      南

このじらし。ほとんど感動。しかもきれい。
恋がはじまるというところで、釈教句。それも無常のような。
へえーってかんじ。恋前に釈教句、ですよ。
なんと珍しいではありませんか。フツウは恋後にきますものね。
・・・どうでもいいことに見えるけど、連句人はここでおおっと思う。思わないといけない。

ーところが、よくみわたすと。
ほかにこれという恋がない。(とかささぎの目にはみえた)。
そうか。そうだったんだ。
この折立の句と阿弥陀千体の句のあいだに、あるんだ。
とても激しい恋が。

・・・つらい、いたい、ふかい。
失恋だったのですね。
たましひのくるしみを千躰もの仏像にして鎮めねばならぬほどの。

ふと、夫がおいていってた板に彫られた仏像を思う。
それはなぜか私のたましひに無言でせまってくる。
まるで失恋したのはじぶんだったかのように、むねがくるしくなる。
しかし。これはたぶんかささぎだけのふかよみ。邪道よみ。
ふつうの読みではただの叙景句。湖に面して阿弥陀仏が沢山。
そして、この句を前句として、つぎにでている小板橋の句。
明治でしたか大正でしたか、女流歌人がうたっていた。
その小板橋のうたを連想させるすぐれた恋句。
石上露子。この句を詠んだひとがこの詩をご存知かはしらないが。
ということは、ほんとうの恋句は、この板橋句からですね。
でもそうだとすると、とてもさびしい。
まあ、感じ方読み方は個人の自由ですから。

一巻の句の出方、流れ方。
自然です。

曝書から時事句へとうつってゆく、その移り方。
そして時事。時事は簡単にみえて、とても難しい。
なぜなら政界ニュース一つとっても、すぐ古くなる。

なにをとるか。なにをすてるか。取捨選択は至難のわざ。
しかし、さばきの野村牛耳はさすがにわきまえている。

決断の裏目に出たる先議権   南

その前句が、

襖隣りにキイ叩く音        花

ね。うまいなあ。
さりげない遣り句が上手な人をベテランというのです。

この南ってひとは、つぎの句もはっとするほどの諧謔。

飯を啖(くら)ふは事のなきとき     南

語彙のゆたかさ、イメージを伝えるけざやかさ。
そして人生を深く生きてきた人の視線の確かさ。

俳句がうしなってしまったものが、ここに、ある。
俗談平語を正す。
って、こういうことだったんだ。





2009年2月 8日 (日)

裏の槇の木

裏の槇の木

槙談義:

小学校の帰り路に垣根が槙の木の家がありました。赤い実がなって食べられた。
確か、あれが槙の木。

そうでしたか?
赤い実、なってるの見たことないなあ。
うーん。そうかなあ。これは要調査。
まきのき、なんで木偏に真実の真ってかくのでしょうね。裏のまきの手入れしないぼさぼさと、おもてのまきの、段々に丸くすっきりシャープなかたちと較べると、おなじ木じゃないみたい。でもたしかに葉っぱは槙です。裏には五本くらいあって、防風林みたいになってる。久留米の荒木からもらってきたものです。

槙の木には、実がなります。2段階の実だったと思う。食べたことはないけど、父が子供の頃はおやつに食べていたらしい。
むかしね、実家のまわりにはずらっと槙の木の生垣があってね、それにグレーの混じった赤い実がなってた。下に青い実があって、たしか二段階の実で。それを「ねずみもち」と呼んでいた記憶が。間違ってるかもしれない子供の頃の記憶。さくらさんのコメントが呼び起こした記憶。忘れていたのだけど、すっかり。

高野槇(こうやまき)

前の職場のボスが皇室医務主官だったこともあり、悠仁様のご生誕を記念して、職場の庭にお印の高野槇を植樹しました。高野槇は世界の三大庭園樹のひとつだそうです。あとのふたつは、ヒマラヤシダーと南洋杉。ヒマラヤシダーは上妻小学校の校庭に聳えてた。
中国の諺:この世に生を受けたら死ぬ時の事を考えて槇を植えよ。
この諺の槇は高野槇の事。高野槇は棺桶の材料として古代では、高貴な人達に珍重されていたとか。

 

生活

生活

春耕の父

春耕の父

2009年2月 7日 (土)

『暗喩の夏』  安西均

 暗喩の夏

     安西 均

うつむいて煎り豆を拾ってゐるすきに
世界が一瞬にして變ることがあるのだ

若い娘ふたりが
滿員電車で工場へ向かってゐた
戰爭の最後の夏だった
雜嚢に入れておいた罐から
煎豆が床にこぼれてしまった
その日の辨当代りだったのだらうか

娘たちは腰をかがめて
豆を探しつづけたさうだが
やがて頭をもたげたとき見たのは
《乗客も電車も窓外の景色も》燒けただれ
《無傷なのは二人だけだった》といふのだ
廣島で女學生だったひとが書いてゐる

われらが〈生〉にとって
つねに〈暗喩〉といふものは
一瞬だけずれる閃光に似てゐるが
もし地獄とやらにも
微笑があるとするならば
このやうなをかしさに違ひない。

* 引用は佐藤祝子詩集『過ぎてゆく』から。

***安西均詩集『暗喩の夏』(昭和58年刊)より引用***

2009年2月 6日 (金)

地域学は世代学と似とるね。

このあたりから11歳の差が出てきました。
私たちの頃の給食は、毎日の脱脂粉乳の他は給食らしいものはなく確か週一くらいの頻度で何か一品食べてたと思います。
焼かない食パンにジャムなんかはなかったです。

こんにちは
diamondclubdiamondエメラルドの伝説」と「heart02cloudheart02バラ色の雲」の歌詞UPありがとうございます。
ほんとにロマンチックで甘い素敵な詩ですね。
GSの誰々が好きってのは毎日の話題でした^^☆
ココア味の脱脂粉乳>>当時、あのまずかったミルクをなんとかおいしく飲ませてあげようって、、給食のおばちゃん達のやさしい心だったのかな~とも思ってみました。
中学の時、給食に初めてチーズが出ました。 あれはまるで石けんのような味でしたネ@@

タカマーガリンに、あまったらしいジャムに、
ココア味の脱脂粉乳に、たまにでるコッペパン。
給食の思い出がまざまざと蘇ります。
給食の献立に「ケチャップ味の煮込み」があったのは記憶にありませんか。脂身の多い豚肉と野菜とひょっとしたら質の悪いマカロニも入っていたかも知れません。この煮込みの豚の脂身が苦手で苦手で、どうしても食べれず、パンにつつんで持って帰ったことがあります。
好みの献立かどうかで、給食を食べ終わる時間が早い日と遅い日とはっきりしていたのでした。女の子はとくに多かった。

お気に入りのGSはスリーファンキーズでした。
おほほ。

お気に入りのGSはタイガースでした。
おほほほ。

でも、高校生のころ、心酔したのは、
サイモンとガーファンクルでした。
いまでも、大好きです。

お気に入りのGSはこまどり姉妹でした。おほほほのほ、というのはもちろん冗談で、GSではないけどフォーク・クルセダーズが私の人生を変えたのかもしれない。でもS&Gも好きで、今でもカラオケで歌います、ギターも弾けます。スリーファンキーズは結局初代が一番良かったけど、その頃は藤木孝がカッコ良くて、あんな大人になりたいと思った。今ではドラマのチョイ役に出ています。
それはさておき、こっちが本題。「タカ食品」?何となく身近に感じていたら、何と東京都(少なくとも神津島の小中学校)の給食にも使われております。気になってネットで調べたら、本社はみやま市(たまたま義姉が住んでるから知ってはいたけど、なんやねん、この市名は、伝統ある三池郡と山門郡の地名を安易にくっつけただけか)にあるとか。しかも給食用の小袋セットを通販で売っている!いやはや、市名の付け方はアホだがタカ食品は偉大だった。ちなみに昨夏神津島で、久留米に本社がある丸永製菓の白くまバーを見つけた時も同じ感動を受けた。自慢できる筑後地区の産業はゴム三社だけではないぞ。

えーっ。さささくらさーん。

そうでありましたか。あのみとこうもんの人?
青山孝がなくなりましたね。フォーリーブス。

十代のころこの人が夢に出たことがあります。ファンとかでなく。妙に忘れられない。あと、武田鉄矢。笑。根子岳の化け猫のはなしとセットになって夢にでてきた。霊的で忘れられない。夢は制御不能。

ろいりーさん。
その丸永製菓でいちばんなつかしくってロングランなのは「あいすまんじゅう」だと思うとります、個人的には。いまでも、コンビニのアイスボックスの中でもどうどうと売り場面積を確保してらっしゃる。笑

たしかにろいり・神津兵六さん(まだ執着)のいうとおり、みやま市って名前はきれいすぎておぼえきれません。みやま。深山。三山。美山。なーんかちがふ。山は深くなし美しくもなしふつーのひくい山。

丸永製菓はアイスまんじゅうでしょう。おいしいです。兵六さん。成人式のゲストは神津善行でした。

藤木孝。だれ。フジキ工芸の人?はは。冗談。

だれねぇー!
私ん名前ばおらびよっとは?

追伸・
きょう、つしま出身の隊員さんに聞いてみた。
学校給食のきおく。すでに牛乳世代でした。七十年代半ば生れ。鹿児島育ち。ときどき、コーヒー牛乳の素がついてきて、それを混ぜて牛乳をのむのが楽しみだったそうです。献立では、スパゲティが袋入りできて、それにミートソースからめて食べるのがおいしかったって。
せいこ。給食がまずくて、なきながら食べてたという人がいました。マイボス53歳です。
ケチャップ味のそれ、おぼえてる。たしかにぶたにくがきもちわるかった。むかしの豚肉って、あぶらがけっこうきつかったとおもわない。今と味が違っていた。
ポークビーンズってあったでしょう。
あれはきらいだったんですが、だんだんすきになった。ああいうふうにまめをたべることってあまり日本にはないから。

あれ。なまえかきわすれました。typhoon
土方歳三です。

丸永製菓は「アイスまんじゅう」が定番、そうでしたか。私は白くまの味が、昔日吉町にあった天満屋のアイスバーの味そっくりなので、勝手にレトロしてました。無名の方へ、水戸黄門の人というのは高橋元太郎のこと?結局、スリーファンキーズの中では彼が一番歌がうまかった。
藤木孝は知る人ぞ知る元ロカビリー歌手、今は新劇役者で、「24000回のキス」がヒット曲、1956年生まれの竹中直人が20年ぐらい前に、彼をリスペクトした「24000回のタカシ」という曲を出したがほとんどヒットせず。大河ドラマのファンには「篤姫」の久貝因幡守役、「新撰組!」の松平主税助改め上総介役と言えばわかるでしょうか。
蛇足ながら神津善行は神津中か神津小の校歌を作詞していますが、ただ単に名字が神津というだけの関係です。

せいちゃんごめん、津野先生やった。すなおせんせいもごめんなさい。勝手に殺して。だいすきなせんせいでした。ご無沙汰しております。すみませんでした。
スリーファンキーズ、懐かしいですね。もしかして、長沢純もでしたか?高校生の頃KBCTVで、長沢純司会の生番組があってました。出来たばかりの筑
陽学園の友達が、毎週のように出演して踊っていました。
私は高校受験に落ちたら、この頃スターの後ろで踊る、ほら、あれ、・・・でてこん。あそこに入ろうと思ってたよ。体育会系だったからね。音楽も好きだったし。

スクールメイツでした。思い出せて、すっきりした。

ぼん、すっきりしてよかったね。
わがやは今朝からトイレが故障!
上のトイレはつかえません。
こんなとき、下の便所が生きているのは有難いけど、行くのが超おそろしい。下のはむかしの厠。

あれ。いま、なおりました。はや!
みるひとが見てくださったらあっという間。

ろいりさん。藤木孝のご紹介ありがとう。
しりませんでした。
顔みたら、悪代官役でなんどかみたことある人でした。みとこうもんの高橋元太郎。そうそうでした。

>昔日吉町にあった天満屋のアイスバー

天満屋が懐かしい!!ロイリーサンよ。
西鉄駅から井筒屋のほうへ向かって右側でしょ?
その頃にしちゃ、南国風な店のつくりで縁日風でもありおしゃれな感じでもあった。
白い椅子にかけてキャンデーを食べました。

近くには木村紙店と言う用紙類の商社がありました。

さくらさん。ろいりさん。
3月は九州へは?
これから連句会の案内状を送付するのでございますが、いらっしゃいませんか。さくらさんのご住所はぞんじあげております。ろいりさん。神津兵六さんのご住所は知りません。みんなに教えなくてもいいから、かささぎに教えてくださいませんか。送ります。
日にちがあいてたら、こっちへ来るべきです。
なぜってそういう運命だからです。てきとー。

ほい。ほかに連句会の案内状がほしいよってかたがおいででしたらば、どうぞおっしゃってください。エメラルドさん。いりませんか。そうですか。
連句をやると第三の目があくとかささぎ族の長老が申しております。

さくらさん、甘太郎はご存知?久留米なのにしょうゆラーメン?がうりで、もちろん甘味も。ときどき食べたくなって、去年の今頃、娘と食べに行ったよ。
こちらにこられた時はみんなで久留米B級グルメツァーをしましょう。待ってるよ。

ロウバイ

ロウバイ

仔犬満一才

仔犬満一才

アルバム:

①http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_e44b.html
②http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_a157.html
③http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_d7f3.html

2009年2月 5日 (木)

竹橋乙四郎と橋爪章のあいだ 3

以下の文書がおつしろう大学から届いたのは先月末の事だった。
つまりニュースが世に出た翌朝には届いた。間髪を入れずの処置。
文章は理事長のものだが、じつに簡潔にして何の無駄もない。
見事であった。
そのことにいたく感動し、ここに文面を丸写しする。

                       平成21年1月28日

保護者各位 

                      学校法人ありあけ国際学園
                          理事長   橋爪 章
                           (右端に学園の押印)

         文部科学省からの処分について   

謹啓

時下ますます御清祥のこととお慶び申し上げます。
さて、このたび、誠に遺憾なことではございますが、本法人は、文部科学省から1月27日付けにて「5年の間、大学・学部の新増設等に係る認可をしない」という処分を受けました。
これは、次の理由によるものです。

①大学設置認可申請書に記載した投資計画を上回る変更を事前協議なしに行ったこと
②その結果、当初財源を上回る設置経費となったこと

これらにつきましては、開学前のごく少数の体制の時に認可申請及び開学準備等の膨大な業務をこなさないといけない中で、行うべき変更手続きを失念・看過してしまい、結果として手続き違反という過失が生じてしまったものです。
このことは決して申し開きのできることではありませんし、業務上の重大な過失として真摯に受け止めなければならないと考えております。
なお、財源の点につきましては、現在、本年度中に設立母体より追加の寄附をいただくべく
調整をしております。
開学後におきましては、整った組織体制の下で適切な業務運営を図ってきておりますが、今後決してこのような事態が生じないよう、さらに組織体制や法人運営のあり方の見直しに努めてまいります。
また、学生に対する教育や生活指導は、本件にかかわらず引き続き万全を期して進めてまいりますので、その点につきましては御心配の無きようお願い申し上げます。
御心配をおかけしましたこと、深くお詫び申し上げます。
今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。

                謹白

(余白には本件のお問い合わせ先として、事務局と事務局長の連絡先。)

以上である。

かささぎはここの開学間際に見学にきたことがあるのですが、そのときはまだ工事が全部済んではいませんでした。案内の看板すら出てはいない状態でした。だからこの文面に書かれていることがよく分かります。

では、けふも元気でいってきます。

2009年2月 4日 (水)

立春

立春

春帽子つかの間の幸深くかぶる  恭子

夜勤

やっと長男がバイトをするようになった。

それがね。コンビニの夜勤。

週に二回くらいだからいまのところ大丈夫みたい。
天然記念物みたいにのんびりしたやつだったんで、安心した。
せっかくおやが失職してくれたのに何も自主自立の気概もないんじゃ困りますもの。
まともまとも。

わたしが気にしたのは、深夜強盗対策のみ。
どう指導された?ときくと、
さっさと金を渡しなさい。といわれた。って。笑
いいご指導です。

私の勤務先(交通誘導警備業)は、目下とてもいそがしい。
夜勤がフツウに週にニ三回ある。
昼勤務の上に、ということです。
労働基準局がどういおうとこういう職場は現にある。
とてもきびしい。そんでみんなやさしい。
ふたつ上くらいのおじさんが夜勤から戻ってポツリ。

ああやっぱり週に二日はきついなあ。

きょうもちきゅうはまわってる。

なんばしよっとね

子ども時代、戦争で日本がやったことをきき、アメリカがやったことをききしてきたけど、あめりかは戦争に勝ったのに、日本を粗末にしないどころか、安保で命をかけてまもってもくれるなんて、なんて親切なんだろうか。と思ってた。「北風と太陽」政策みたいに。

米国の食糧援助は、確かに子どもたちの成長に役立ち、おかげでみんな悩んで大きくなったけど、一方で日本人の米食離れを進めて、余った小麦を日本に輸出しようとしたという説もあるし(結果的にはそうなっている)、また日本を反共の砦にするために経済自立化政策を早めさせたというのは事実で、まあ、どんなことでもいい面悪い面、光と陰の面があるんでしょ。鯨をさんざん取り尽くして(しかも肉は捨てるという無駄遣いして)、自分たちがもう必要ないから鯨取るのはけしからんというのも身勝手だし(日本の捕鯨の是非は別としても)。
でも今の日本がもっと途上国援助すべしというのは大賛成ですね。ただし国益最優先やヒモ付ではない、相手国に真に役立つ無駄のない援助をね。米国並みにとまでは言わんけど、外国人受け入れも。減反するより政府が買い上げて援助物資にできないもんだろうか。

ろいりろいりさん。
賛成。
減反はほんなこてかなしかとです。
あれはかんじんかなめのところで、なんかまちごうとるせいさくだとおもうとです。
ほんじゃいってきます。

そうです。ホームレスの皆様も実家に帰り、農業が出来ればよいのにと、いつも考えるのですが、米を自由に作れない日本。もうすぐ田植えの準備が始まろうとするこの時期に、まだ減反の配分や作る米の品種が知らされていない現実。なんばしよっとねといいたくなるのは私だけではないでしょう。

エメラルドの伝説  (違うか)

はじめまして
かささぎさんより1っこ上でエメラルドといいます。
時々おじゃましていましたが、脱脂粉乳でコメント入れたくなりました^^
まずかったけど、今になってみると思い出の味ですね。
少し冷えるとマクができてたでしょう~☆彡
ココア味はもっと最悪の不思議な味でした。
久留米人の夫を持っていますが、全国の中学生はみんなお弁当かと思ってたらしいです。
以前この話題になった時ショックを受けてましたriceball
pencil今日もお仕事がんばってくださいね^^

かささぎさんたちは私より11歳下なのにまだ飲んでいた脱脂粉乳、驚いた。
と言うことは昭和35,6年ごろまで頂いていたというのか。
東京オリンピックが昭和39年だからその直前までも?
オリンピックが開けるような発展振りの中国にまだ援助しなければならないのだろうか?と言うのとおなじやろか。

さくらさん。
わたしの記憶では、東京オリンピックの後も脱脂粉乳が給食で出ていましたよ。牛乳になったのは、たぶん五年生のころ。ッてことは昭和40年代当初まで脱脂粉乳援助があったってことでしょう。
日本がどのような経済状態だったのか、世界的にどういう位置づけだったのかうかがいしれる気がします。

はじめまして
エメラルドの伝説 でしたね どっちが好きでしたか
わたしはうにてんてんのビレッジしんがーすの 薔薇色の雲と思い出を抱いて て歌が好きでした
にしても 意外な話がたくさん転がってますね
まず ココア味の脱脂粉乳 んなもななかった!これはゆゆしき差別ではござらんか
給食で好きだったのはカレーうどんでした 今もたまに作ります
それと焼かない食パンが好きなのは学校給食のせいだと思います
あさご飯食べるのを忘れパンとチーズと林檎掴んでご出勤てのが度々

久留米の中学ってなんで給食がなかったのでしょうね?
だれかわかるかな

かささぎはそれはわからんけど 今久留米市民一人あたりいくら借金があるかを知ってる
答は38万円。
(なんで知ってるかというと、ロビイストのせんさんが電話でこないだ役場に聞いてたから。
笑。聞くほうも単刀直入なら、答えるほうもあっさり教えてくれてたよ。予想問答集でもあるのかしらん。)

今調べたら、福岡県の小学校給食が脱脂粉乳から牛乳飲用に変わったのは、1968(S43)年のことらしい。高度経済成長期の象徴たる東京オリンピックの4年後です。メキシコオリンピックの年で、全共闘運動(大学紛争?)がピークを迎えんとしつつある頃です。これまた都道府県によって違いがあるらしい。何?ようするに脱脂粉乳ってスキムミルクのこと?私はたまに出るココア味のほうがずっと好きでした。

ガリオア基金とエロア基金は、戦後のごく数年間の米国からの援助。18億ドルは現在価値にして12兆円相当だそうです。なお、その後、5億ドルは出世払いで返還しています。
日本の復興が本格化したのは昭和28年から。この年から昭和41年まで、国際復興開発銀行(通称世界銀行)から8億6290ドルの借款(出世払いの融資)を受け、この融資で黒部第四水力発電、愛知用水、東海道新幹線、東名・名神高速道路などが建設されました。出世払いで返し終えたのは平成2年7月。借金がある間は被援助国なので、ついこの間まで、日本は世界のお世話になっていたということになります。
日本が途上国への援助を開始したのは昭和29年。援助を受けながら援助をするのは、援助が重要な外交カードであるため。たとえば中国は日本から援助を受けながら、数多くの国へ戦略的に援助を展開しています。
以前、日本の資金で南太平洋の島々の国々の厚生大臣十数人をサモアに集めて予防接種普及のための会議を行ったことがありますが、会場のホテルへは、各国の厚生大臣が紅旗(中国の高級車)で続々と駆けつけてきました。中国がちゃっかり援助していた。飛行機代やらホテル代やら日本政府の出費は相当なものだったが、各国の大臣は中国の援助だと勘違いしたかもしれない。癪に障るエピソードでした。(このコメントは少々はきだめに鶴なので、官僚番外篇へ格納いたしました。失礼。・・かささぎ)

脱脂粉乳とパンとタカマーガリン。
これが八女の小学校給食の基本形でした。
鷹食品工業株式会社は、みやま市瀬高町にある。田舎の会社だが、昭和29年来ずーっと、学校給食小袋ジャムのトップシェアを継続中だそうです。

そこ 昔いちご農民だったころ 軽トラにたくさんいちごを積んで 出荷にゆきました
今もあるのですね

(こうかくと、いかにもかささぎがしていたかに思えるね、すみません母がです。笑
わたしはそのころ子連れで博多から帰るたび、いちご摘みを手伝っていた、話を聞いていた。)

おりょ、かささぎさんがこんな時間までおきとる。

私は久留米から八女に転校したので、広川が給食だったから助かりました。このころは肉を食べきらんやったけん、カレーの時などジャガイモ嫌いの人と交換して食べてました。ゆで卵がだめな人、牛乳がだめな人、いろいろでした。
一度コンビーフが献立にありました。担任のすなおちゃんはいつも「好き嫌いをしたらいけない」といっていましたが、この日ばかりはコンビーフが食べきれなくて、のりおかべがちゃんに食べてもらってました。
マーガリンとイチゴジャムをいっしょにたべるの、おいしかったね。タカ食品さんすごいね。

オオ。なんてねいちぶな話題。
広中んもんにしかわからん話題じゃね。
まるで暗号みたいだ。笑

すなおちゃんはゲンキかなあ。
むしょうに会いたくなってきた。

 

2009年2月 3日 (火)

脱脂粉乳と占領政策  官僚番外編

 脱脂粉乳とアメリカの占領政策 

      竹橋乙四郎

先の戦争について、アメリカという国には腹が立つことばかりではあるものの、戦後の復興支援については、喧嘩に勝ったガキ大将が負けた子にそっと手を差し伸べるのを褒めるのと同じ意味で、褒めてもいい。脱脂粉乳は、その差し伸べられた手の中にあった。

占領政策の一環とはいえ、日本人の生命や生活を護るため、軍事予算から援助資金が出された(ガリオア資金:占領地域救済政府資金GARIOA =Government Appropriation for Relief in Occupied Area)。
この資金で、脱脂粉乳や雑穀類が日本へ送られた。援助額は16億ドル弱。

アメリカの軍事予算からは、このほか、経済復興を目的とした援助資金も出された(エロア資金:占領地域経済復興資金EROA =Economic Rehabilitation in Occupied Area)。援助額は2億ドル強。
1ドル360円の時代なので、ガリオアとエロアを併せた18億ドル強は、約6500億円。60年前の6500億円は、とてつもない金額。
ちなみに、平成21年度のわが国の政府予算案のうち、途上国の開発援助予算(ODA)は6722億円。
南北アメリカの民間団体からも日本へ援助物資が送られた(ララ物資:アジア救援公認団体LARA=Licensed Agencies for Relief in Asia)。脱脂粉乳と衣類。
ユニセフからの援助もあった。脱脂粉乳と医薬品。
日本人の飢餓対策は援助の重点。

高タンパク食品の第一候補は牛乳であったが、牛乳は腐るので、腐りにくい脱脂粉乳が選ばれた。脱脂粉乳は無蓋貨物船でパナマ運河を経由して運ばれたので、高温多湿で痛み、臭いがついた。

戦後十年以上を経て、アラフィフの子供時代のタンパク減は、脱脂粉乳とクジラ。それでも栄養素が欠けるので、「肝油」で栄養を補助していた。
国内経済がたいへんな時に途上国援助に予算をかけすぎているのでは、との批判があるが、せめて、戦後の復興期に自分たちが世界から助けてもらった分くらいは恩返ししたい。トヨタも八幡製鉄も、援助で発展した。黒四ダムも東名高速も東海道新幹線も援助で建設された。日本の発展に寄与した学者の多くが、海外のスカラシップで留学させてもらった。乙もWHOの資金で米国へ研修に出してもらった。

脚注:アラフィフ・・・アラフォーに準ず。50台。

なーんだ!この人がこういうことばを使うとわっかんね。
真剣にしらべてそんした。(かささぎ)

今から思うと、あの脱脂粉乳はふしぎな味がした。
たまに臭わず、おいしく思えることがあった。
それがこどものかささぎにはなんか妙な気がした。
なぜだろう。って思っていた。これでほぼわかった。

▽ 追記

    竹橋乙四郎

ガリオア基金とエロア基金は、戦後のごく数年間の米国からの援助。18億ドルは現在価値にして12兆円相当だそうです。なお、その後、5億ドルは出世払いで返還しています。
日本の復興が本格化したのは昭和28年から。
この年から昭和41年まで、国際復興開発銀行(通称世界銀行)から8億6290ドルの借款(出世払いの融資)を受け、この融資で黒部第四水力発電、愛知用水、東海道新幹線、東名・名神高速道路などが建設されました。出世払いで返し終えたのは平成2年7月。借金がある間は被援助国なので、ついこの間まで、日本は世界のお世話になっていたということになります。

日本が途上国への援助を開始したのは昭和29年。
援助を受けながら援助をするのは、援助が重要な外交カードであるため。
たとえば中国は日本から援助を受けながら、数多くの国へ戦略的に援助を展開しています。
以前、日本の資金で南太平洋の島々の国々の厚生大臣十数人をサモアに集めて予防接種普及のための会議を行ったことがありますが、会場のホテルへは、各国の厚生大臣が紅旗(中国の高級車)で続々と駆けつけてきました。
中国がちゃっかり援助していた。
飛行機代やらホテル代やら日本政府の出費は相当なものだったが、各国の大臣は中国の援助だと勘違いしたかもしれない。癪に障るエピソードでした。

『海やまのあひだ』

『海やまのあひだ』

自選歌集『海やまのあひだ』 折口信夫著
 大正十四年五月三十日発行定価一円八十銭
    改造社刊

   

  供養塔

      釋 迢空 

数多い馬塚の中に、ま新しい馬頭観音の石塔婆の立つてゐるのは、あはれである。
又殆、峠毎に旅死の墓がある。
中には、業病の妻を家から隠して、死ぬるまでの旅に出た人のなどもある。

人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。
旅寝かさなるほどのかそけさ

道に死ぬる馬は、佛となりにけり。
行きとゞまらむ旅ならなくに

邑(むら)山の松の木(こ)むらに、日はあたり
ひそけきかもよ。旅びとの墓

ひそかなる心をもりて をはりけむ。
命のきはに、言ふこともなく

ゆきつきて 道にたふるゝ生き物の
かそけき墓は、草つゝみたり

   以上、大正十三年の作より

戦時中の馬たちのたましい

     神崎さくら

戦争中の馬の活躍話を私はこう書きました。
泣けちゃうよ。

砲兵隊では兵隊と共に数百頭の軍馬が配置され、分解した大砲や弾薬を背に載せて運び、頼もしい戦友として戦いました。
疲労困憊した隊員は、馬の尾につかまって引っ張って助けてもらう事もありました。
しかし敵機の激しい空爆の中で次の陣地への移動は、病傷馬は連れていけず、餌を与えて放馬するしか有りませんでした。
よろよろと後を追ってきた馬や、事態を悟っていなないた姿の哀れさは、復員した隊員の頭から離れる事はなく、各地に軍馬の慰霊碑が建立されました。  


▼戦争追悼画より
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Screen/3222/ehagaki3.htm

▼ かささぎの旗姫野

さくらさんのその文章、こころがこもっています。やさしい短い文章ですが、これだけ要約するために、たくさんの資料をよまれたことがしのばれます。
兵隊さんたちといっしょにいったい何頭の馬が大陸へ渡ったのでしょうね。

同じようにしてその昔、日本へ舟で渡ってきた馬たちを思います。(かささぎは、馬ってずっともとから日本にいたと思い込んでいた。でも、やまたいこく調べてたらそうじゃないとわかったし、「装飾古墳のふしぎ」を読んで、馬が大陸から舟でやってきたと知った)。

2009年2月 2日 (月)

学校給食の記憶  久留米鳥栖八女

なるほどこれでわかった!
日本ごむは朝日靴なんだね。
ぶりじすとんが石橋さん。タイヤやさん。
そして腹巻ときじろうじゃなかった、ほれ、あのお方。えみりちゃんのご主人。ほっかいどうのおとうとみたいな兄じゃとはあまりにていらっしゃらない。あたしはこっちのお方のほうが好きなんですが。えーと名前が出てこないままにほらあの人。おじいちゃんの別荘が鳥栖の競馬場ちかくにあって、いまはそれがなぜかどうじんかいじむしょになっていて。うわわなんでこんなどうでもいいことばかりでてくるんだろ。なまえでてこないまま・・・ごめんなさい。かささぎの旗に清き一票を。連句興行のパトロンになってくださいとあたまさげにいこうかしらん。どさくさまぎれに。
最後、月星ごむはムーンスター。
はいよ今かんぜんにあたまにおさまった。

で。
なんでここくるめの地に偉大な護無三社が鎮座しましますんでしょうか。

筑後は日本の文化中心でした。
   ↓

みごとなおちです。笑

見事な脇のさびしさよ。という攝津幸彦の句があったんだが。

月星ゴム(両親は今でも日華ゴムと言う、さすがに「つちやたび」とは言わん)は小学校の社会科見学の定番で、ゴムの臭いとおみやげにもらった三角形の鉛筆の触感は今でも覚えてます。その後月星化成と言ってたのが、いつの間にか変な名に。日本ゴムもいつの間にか名前が変わって、倒産して…
久留米は昔よく「ゴム三社と久留米絣で知られる」という形容句が付いていたが、商店街育ちの私としては、あれっ?という気持ちがありました。
給食の件、昔はどこも弁当で、諏訪中ではパン販売も来てました。久留米市内の中学は牛乳だけ配られていたと思います。給食か弁当か、その他すべて地方自治体次第、今でも自校調理やってるとこあるのかな?

いっちゃんふるい私の給食の思いでは、脱脂粉乳のいやーなにおいの飲み物です。
脱脂粉乳って言ってもしらんやろね。
茶色ににごった汚い色の牛乳で、アメリカさまが貧乏な日本人の子供達に下すったもの。
最近聞いた話だとこれは実は家畜にやる飼料のカスだったらしいよ。おえーっていうくらいまずかった。

高校1年の時に地理の先生から、「お前たちの飲んだ脱脂粉乳は牛乳より栄養があるちゅうて騙されたかんしれんばってん、牛乳のカスなのにそげなわけなかろうが、そいが入っとる袋には [for animal] ち書いちゃったつぞ」と教えられました。脱脂粉乳はうちの弟世代までは体験してるから、かささぎさんやぼんさんも御存じでしょう。
「日華ゴム」の件、実は私らも子どもの頃、親の影響でそう言ってました。

ろうりーさん。八女郡のほとんどの中学校が完全給食でっせ。現在もなお。もちろん、わたしたちが中学生んときも。

あら。ろうりーさんになってた。失礼をば。
ろいりーさん。

アイヤー!なんと八女は進んでる!私は1979年に東京に来て、中学でも給食があると聞いてアッと驚くタメゴロー。でも、やはり区や市によって違ったようです。だからやはり、小中学校は市町村の方針次第、ちなみにかささぎさん、私立中でも給食のところあるし、どっちみち給食費は自腹です。

たいがどらまみました きょねんはあつひめまったくみなかったけど こんどはみるよ 妻夫木くんが主役だからね

なに 脱脂粉乳
はなつまんでイッキ飲みしてましたなあ
そうだった
当番で給食ひを徴収してましたね
給食ひ払って貰えない家がありました

2009年2月 1日 (日)

カラムーチョ祇園七味

からむーちょ祇園七味

宅間田(地名)のおとめさん・まことくんちに連句誌れぎおんを届けに行く。
その前に子に頼まれていた「すっぱムーチョ」を牟田のコンビニに買いに行く。
でも、なかったよ、これしか。・・・

京都祇園七味。なんてレトロモダン。

ついでにこのイラストのばあちゃんかわいすぎ。ひー!!
かみしもつけた武士もあいらしい。

んが。たべたら、ひじょーに辛い。笑
辛抱してじっとじっとあじわいました。

護無三社が鎮座する久留米の記憶対話篇  

ろいりーさん。一学年14クラス。団塊の世代は何年生まれまでを指すのでしょうか。
私たちの小中は、3クラスでした。
一クラス、33~35人くらい。

でも、ぼん。うちの母は十人近いきょうだいの真ん中あたりですが、丸くありません。きょうだいの真ん中というのは、やさしいか、根性がうんとわるいかの両極端みたいです。

「団塊世代」とは確か堺屋太一が名付けた言葉で、ウィキペディアによると狭義では1947年から49年までの3年間に、最も広い定義としては、45年から53年までに生まれた人々だそうです。私の感覚ではうちの姉(1950年生)までが下限かな?諏訪中のもう一つ上は15クラス、私の時は12クラスでした。それが中学としては当たり前だのクラッカーと思っていた。兄弟の真ん中はやさしいか根性が悪いかの両極端、当事者の私に言わせれば、その両方を併せ持っているのでは。

ろいりさん。
宗ですね、其の通りです。パチパチパチ。
どうも書かれていることから推察しますと、ろいりさんは二歳年上でいらして、ということは広義の団塊世代に入る。では又お聞きしますよ。
その一学年14クラスや12クラスが、一気にがたっと半分くらいに減ったとき、あまった教室はどうなったでしょうね?あまった先生たちはどうなさったでしょうね?きになります。

23年生まれの姉の時は、16クラスだったように思います。29年生まれの私たちは11クラスでした。
100番以内にはいっておれば頭のいい子でした。1クラス45人ぐらいかな。広川に転校して、成績が50番ぐらい上がったけど、広川は7クラス。昔は成績、廊下に張り出してあったんだよね。出来がいいときはなんとも思わなかったけど、下がったときは嫌だったね。
プチ自慢。転校していった時、クラスの男の子の半分から年賀状が来た。一生の中で、一番持てたひとときでした。

あれ?今朝ここに投稿したと思ったけど載っとらん。改めて…諏訪中は7年間で、16クラスから11クラスまで減ったということか。でもその後はそんなに急減してないと思います。100番以内云々というのはその通りで、私の時が県立M高に100人以上合格した最後の年だった。K大学F高校だって男子だけなのに、補欠も含めて40人以上受かったし~当時は両方受かったらM高に行く人のほうが多かったんじゃなかろか。
かささぎさんの気になること~教室は急増期に特別教室潰したり改築・増築したらしく、体育館・講堂の類さえなくて、卒業式・入学式もよその会場を借りていた。減少期にはそれが元に戻ったということではないでしょうか?教員は、その頃高校進学者が急増しており、こっちのほうが待遇が良いし高校に変わった人が多かったいうのが私の推測です。ちなみに私は団塊の世代という自覚はなく、それを仰ぎ見たり真似したり、冷ややかに見たり批判したり、そんなポスト団塊世代と思ってます。

ロイリさん。ぼんとおなじことをおっしゃいましたね。かいたのに載っていない。って。
消しゴムウイルスがいるのかもしれません。
炉入り呂伊利さん。一学年17クラスで一クラス四十五人。では計算したら、えーと・・七百人近い、一学年が!!うじゃうじゃーっといるんですね。活気がありすぎる。大運動会は大大大うんどうかい。先生はどなりまくり。トイレには行列。給食はぱんと牛乳だけ。とか。そりゃないですか。
ろいりさんも、三無主義世代でしたか。でも学生運動にかろうじて間に合った世代でしょう?

諏訪中は弁当でした。兄の弁当は毎日四角いてんぷら2枚だったと思います。3年間ほとんど毎日。漬物や梅干ははいっていたかもしれませんが。それでも毎日弁当が持っていけるのは、いいほうじゃなかったかと思います。高校にいけない人もたくさんいたし。父から一度だけ『あそこに遊びに行ってはならん」といわれたことあり。大人になって意味が解りました。
当時、花畑駅からゴム3社まで、小頭町~ロータリーを経由して歩いていく人が多かった。その時間は水天宮さんのお祭の時みたいで、子供心にうれしくて、ながめていました。

弁当のところと給食のところとあったなんて不公平ね。今も私立は自腹でお昼ごはんをたべますが、公立は給食、いいよね。
ゴム三社って何の神社ですか。
ぼん。
「求人案内」というコンビニにおいてある若者向け情報誌で初めて求人したところ、毎週四、五人の若者が面接に来ました。これはかつてない景況感。
これまで、求人案内は新聞の紙面でやる→誰も来ず。新聞の折込広告でやる→高年のおっちゃんたちがぱらぱらとくる。ところが、今回は!!若い子たちがきたのだよ。花の十台二十台。しかも元気な子達が。
ではあったのだが。やはり現実はあまくない。ただ通過してゆくだけ。入っても長続きしません。おいおまえら!仕事ないときに仕事えらんでんじゃねえよ。っていいたかとです。
いつぞや、社長がホームレスの若い子を拾ってきて、衣服や住まいを与え、教育してうまくいくやに思えた矢先、一ヵ月後、やっぱり行方不明になりました。早い話がとんずらされたのでございます。まったく恩知らずめ。投資してもだめ。根性がないから。いまごろどうしているかしら。この寒いのに。

ゴム三社ってブリジストン・日本ゴム・月星ゴムじゃろもん。

ちょいと、ゴム3社を知らんとはナンタルチア。朝日靴(日本ゴム)、月星ゴム、ブリジストンのことです。
覚えといてね。

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