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2009年1月26日 (月)

連歌師2・肖柏   鶴崎裕雄

連歌師ー政治的な、あまりにも政治的な人たち

    鶴崎 裕雄

(1からのつづきです。)

肖柏は他の連歌師とは一線を画している。
正室の子ではないとはいえ、准大臣中院通敦の子であり、内大臣中院通秀の弟であって、歴とした公家の出身である。肖柏自身、他の公卿たち同様、歌人であって連歌師という意識はなかったのではないかと思われる。とにかく、後土御門天皇や後柏原天皇の許に昇って連歌に参加することができた。『実隆公記』明応元年1492十一月二十五日条には、

 御連歌如例、
 親王御方・按察大納言・中御門大納言・下官・・・
 肖柏等候之、一座遅々入夜終功、退出、

 御発句
 月やけさわれてものこるうす氷
 水うちかふる霜さむき山     肖柏
 風しほる松のひまより瀧見えて 中御門大納言

と記す。親王御方は後の後柏原天皇、按察大納言は庭田雅行、中御門大納言は中御門宣胤、下官は実隆。こうした貴人や高位高官の連衆の中で天皇の発句に脇を付けるとは、後で話を聞いた連歌師たちは肖柏の栄誉に耳をそばだてたことであろう。

肖柏は文明十四年1482ごろから摂津の池田に住み、池田・京都間を行き来する。池田では国人領主池田が勢力を持って、周辺の荘園を押領、特に現在の豊中市や箕面市に広がる興福寺領に侵出した。『蔭涼軒日記』文正元年1466閏二月十日条に、京都相国寺蔭涼軒の季瓊真蘂が有馬の湯治に出かけた時、葉山三郎という者から聞いた池田氏の噂を記している。

 当国池田筑後守、其子曰民部丞、云尤富貴無双也、

裕福な池田氏が話題になる。京都より比較的近距離にある摂津の池田には、公家をはじめ、歌僧や連歌師が池田氏の無双の富貴に引き付けられるようにして訪問し、居住する者まであった。肖柏もその一人であり、歌僧招月庵正弘も池田に晴雲庵という草庵を持った。肖柏も永正十五年1518より以前、堺に移住する。

肖柏には『春夢草』という歌集と句集があるが、両集とも部立になっていて、詞書きにはほとんど年月日や詠草事情は記されていない。幸い正弘の歌集『松下集』の詞書きを使って池田と堺における詠草事情を比較してみると、池田においては、池田若狭守正種、同名彦次郎正誠、池田兵庫助正盛という人名が並ぶように、池田氏のための歌会や追悼歌となっている。
これに較べ、堺はバラエティに富んでいる。
堺における歌会の場所や人名を拾ってみよう。
引接寺、永昌院、藤原家定、海会寺、季弘和尚、宗椿、小林寺、隆珍、清賀、藤原忠誠、常楽寺の鎮守天神、金光寺住持、通玄庵・・・とまだまだ続くが、堺にはこのように幾つもの歌会があり、幾人もの主催者がいた。応仁の乱で疲弊した都の人々を魅了する池田や堺であるが、池田氏だけが富を独占する池田と、遣明貿易で希代の有徳人となった湯川宣阿やその余慶にあずかる人々の住む堺とでは自ずから相違がある。やはり堺は自由都市というにふさわしい中世都市といえよう。

永正五年、管領細川氏に内紛が生じ、室町幕府にも、細川氏が守護を勤める攝津の国人にも大混乱が起こった。池田氏も二派に分かれて争った。こうした混乱を避けるかのように、肖柏は池田より堺へと移住した。そうした意味で、肖柏は本稿の副題「政治的な、あまりにも政治的な人たち」にそぐわない人物といえよう。

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コメント

ザビエルが都で拠点としたのも堺。

そやさかい、堺やで連句をまきますねん。
堺とは松のこと。松はこの世とあの世をつなぐ境目です。

本文につけます。暇をみつけて。今朝のアクセス解析のおかげでここを久々に見直しました。するとこの人物のなまえが目をひいた。(読めなかったためです。)
季瓊真蘂(きけいしんずい、1401年(応永8年) - 1469年9月16日(文明元年8月11日))は、室町時代の臨済宗の僧、鹿苑院蔭涼軒主。蔭涼軒真蘂とも。播磨国の赤松氏の支族にあたる上月氏の生まれだが、父母は不明。

雲頂院の叔英宗播に師事する。将軍との連絡役である相国寺鹿苑院内蔭涼軒主となり、将軍に近侍する側近となる。1441年に赤松満祐らが6代将軍足利義教を謀殺した嘉吉の乱の後に引退するが、8代将軍足利義政時代には伊勢貞親らとともに政治顧問となり、幕政に影響力を持つ。義政夫人の日野富子に子(足利義尚)が誕生した後は義政が次期将軍と約束していた弟の足利義視を排斥しようとして策謀し、三管領の1つの斯波氏の家督問題(武衛騒動)にも介入し(一時的に当事者の1人、松王丸を稚児として預かっていた)、1466年(文正1年)に対立する細川勝元らによる文正の政変で貞親・斯波義敏・赤松政則らとともに失脚する。1467年からの応仁の乱で近江国へ逃れる。

『応仁記』などでは否定的評価で書かれている。公式日記である『蔭涼軒日録』の一部を執筆。

以上、ウィキより引用。いくつか、嘉吉の乱、日野富子、斯波義敏。こんだけ、きになる。理由?
かきつの乱は、かささぎの娘が高校生時代つかっていたペンネーム、嘉吉しょう。の姓の由来だから。
日野富子は高良山十景にも出る日野一族。
斯波義敏も、おなじ理由で斯波のシがきになる。
いじょうです。

それと、あらためて思うこと。
この鶴崎先生の文章をよんで、かささぎは、なぜみやま、つまり瀬高の庄は古代から大陸へむけて港が開けていただろうに、堺と同様に分限者がでなかったのだろう。
うたまるさん、
ろいりさん、
乙四郎さん。
こたえることができますか。

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