無料ブログはココログ

« 竹橋乙四郎と橋爪章のあいだ 2    | トップページ | 連歌師5・紹巴  鶴崎裕雄 »

2009年1月28日 (水)

連歌師4・宗牧   鶴崎裕雄

連歌師ー政治的な、あまりにも政治的な人たち

     鶴崎裕雄

宗牧の場合

天文十三年1544宗牧は息子の無為(後の宗養)たちを伴って、白川堰など歌枕を尋ねる東国の旅に向かった。『東国紀行』の旅である。『東国紀行』の冒頭から前関白太政大臣近衛尚通の臨終の場面があって、

 八月廿六日早朝より大事にならせ給ひて、初夜巳前に薨じたまひぬ。此ほどいかにもたしかにましまして、御成の両度。右京兆毎日伺候。御門跡御所に集まり給ひ、いろいろの御遺言、来し方行く末の御物語こまやかなりとぞ、

と、あたかも宗牧自身がその場にいたかのように描かれている。宗牧のこの紀行、全体に自分がいかに高貴な人々と接しているか、いかに権力者たちと親しいかを書き連ねているように思われてならない。しかしそれらは事実であって、話の捏造はないであろう。ただし二、三箇所、連絡が付かなくて、土地の豪族が慌てて見参するといった場面があるが、これは物語の綾と云った程度であろう。

簡単に『東国紀行』の行程と訪ねた諸豪族を見ると、天文十三年九月二十日、京都を出発して近江の石山寺、十月、観音寺城の六角定頼、十一月、伊勢の員弁川流域の北方一揆の国人たち、桑名から尾張の那古野(名古屋市)の織田信秀、十一月晦日、伊勢に戻り、栗原や浜田(四日市市)の俵藤田の子孫という田原党の国人たち、閏十一月、伊勢湾を渡って知多半島から三河に入り、岡崎の松平広忠、西郡(蒲郡市)の鵜殿氏や松平氏たち、十二月、豊中から富永(新城市)を回って遠江を急ぎ、駿河の府中(静岡市)の今川義元の許で越年、翌天文十四年二月、伊豆の熱海の湯に湯治して、相模の小田原の北条氏康、三月、鎌倉を見物して、武蔵の神奈川(横浜市)から江戸に出て浅草の観音を拝み、隅田川を渡る所で紀行は途切れている。この後、宗牧一行は下総・下野を経て白川堰を一見し、下野の佐野まで帰って来るが、宗牧は病を得て客死する。

右に挙げた以外にも、宗牧が訪ねた豪族は六角氏被官の進藤氏や永田氏、知多半島の本庄氏・水野氏、東三河の牧野氏・菅沼氏、遠江の井伊氏、今川氏被官の朝比奈氏などまだまだあって、宗牧がいかにこれらの諸氏から歓迎され歓待されたか、どれほどの餞別を得たか書き連ねている。

まず、宗牧が『東国紀行』で最も書きたかったことの一つ、後奈良天皇の女房奉書を託されて、尾張那古野の織田信秀と三河岡崎の松平広忠に伝えたことを見よう。
伊勢の員弁川流域の北方一揆の面々と別れた後、次のように記す。

 是より参河渡海と定め侍りしを、其の年織田弾正禁裏御修理の儀仰せ下されるに依り、平手中務丞まかりのぼり、御料進物納む。其の後叡感(えいかん)の趣をおおせくだされたくは覚しめしながら、所々出陣など聞こしめしをよばれ、旁とかくをこたられしを、態勅使など下さるべき事は国の造作なれば、我等下国に女房奉書などことづてらるべきよし広橋殿より仰せ聞かせられたり。便路とは申しながらはゞかりおほくて、しんさくの趣、再三申しあげたれども、しゐて仰せなれば御請けを申したり。この次で参河へまかり仰せ下すべしとて、是は典侍殿の御局より三条右府へ仰せのむね伝へ上られて、御局さま御盃御服など頂戴の事なり。面目身にあまれる事なり。

京都を出発前、宗牧は織田信秀に女房奉書を伝えるよう依頼された。信秀が禁裏修理の費用を進上した感状である。さらに松平広忠にも女房奉書を伝えることとなった。宗牧は、再三の辞退に拘わらず、引き受けることとなったとはいうものの、女房奉書といい、頂戴した御盃御服といい、まさに「面目身にあまれる事」である。文中の平手中務丞は信秀の重臣平手政秀。広橋殿は武家伝奏の大納言三条公頼である。『東国紀行』に、宗牧の京都出発の直前、公頼も但馬へ下向したが、その折、宗牧は挨拶に参上したとある。

桑名から津島を経て那古野に着くと、宗牧は平手政秀の歓待を受ける。翌朝、織田信秀に会見するのであるが、その前、桑名から連絡すると、

 今度、濃州に於いて不慮の合戦、勝利をうしなひて弾正一人やうやう無事に帰宅。無興散々の折ふしながら早々まかり下るべきのよし返事あり。

とある。この年の秋、信秀は美濃に兵を進めたが、手痛い敗北を喫した直後であった。傷心の信秀にとって禁裏からの女房奉書は大きな励ましとなった。というより、権威の回復に大いに役立ったはずである。霜台こと、弾正信秀との会見は次のようにある。

 翌日、霜台に見参。朝食巳前、女房奉書・古今集など拝領。今度不慮の存命もこのためにとてぞ有りける。家の面目之に過るべからずなど、敗戦無興の気色も見えず。濃州之儀一度本意達す事侍らば、重ねて御修理の儀ども仰せ下され候やうにないない申し上ぐべき云々。武勇の心きはみえたる申されやう、御言伝めいわくも忘れて、老後満足也。

この後、例によって連歌会が催されるのであるが、敗軍の直後なので、織田邸を避けて平手政秀が催すこととなった。三河岡崎の松平広忠の場合は、出陣の最中で、宗牧の知人安部大蔵も到着した日は不在、翌日に会った。しかし「石川右近茶湯用意とてずいぶんのふるまひどもなり」と丁重にもてなされ、次いで、

 松平三郎かたへ去年三条西殿下向。いさゝか進納の事ありけむ。其の御礼として女房奉書達し侍り。

とある。先の織田信秀に較べるとかなり簡単な書きぶりである。禁裏の扱いに差があったのか、元々両者の上納額に差があったのか。

こうした名誉を伴った旅行である。
先々の豪族たちの送迎ぶりを見ておこう。まず伊勢湾では豪族の同名衆が警護に当たる。

 これより知多の大野のわたり七里となむ。舟の事かねがねいひつけられて、天気も大切の事にて急ぎ侍り。息彦次郎殿をはじめ、湊ちかき小庵にまちかまへられ、餞別の盃・・・この海にもふたがりとて賊難有りとか。警護の侍あまた、同名左馬允をのせたれば、おぼつかなからず。夕なぎして暮れはてぬほどにをしつけたり。

東三河の山中を越えて遠江の井伊谷(静岡県引佐町)へ向かう途中、富長の豪族、菅沼氏や今泉氏の送別の宴の後、井伊氏の迎えに会う。途中、井伊一族の出城からは引き留めることもできないといって酒肴が送られる。夜、宿所に着くと、早速、井伊氏の当主直盛が来て明日の連歌を懇望する。

 このわたりまでむかひくるらんなど申すもあへず、深山をこえて、侍の四五人、井伊殿同名彦三郎迎へとてさきへ案内あり。いそぎ行くほどに、かた岡かけたる小城あり。これも井伊一家の人。今日谷まで下着あひさだめたれば、抑留にをよばずとて、使僧して樽さかなをくらる。馬上盞の躰なり。初夜の過ぎに和泉守所へ落ち着きたり。次郎殿やがて光儀。明日一座の懇望。

第一節で見た『宗祇終焉記』とこの『東国紀行』を比較すると『東国紀行』の送迎の方がさかんで賑々しいことに気付く。およそ四十年の間に連歌師に対する世間の評価が変化したのである。

もう一つ、同時代の公家の駿河下向と比較してみよう。弘治二年1556中納言を辞退した山科言継は駿河に向かった。一例として『言継卿記』弘治二年九月二十一日条を挙げよう。

 今朝飡(さん)以後発足、過三里着引馬、人夫伝馬之事、飯尾着三郎に遣太刀雖申遣、三川へ出陣留守云々、母も三里計仏詣云々、太刀取て帰了、宿にて一盞受用、亭主に牛黄円一員遣之、次引馬川渡之、次天龍川舟渡有之、船ちんの儀及び喧嘩、但所之長馳出、先無事候了、移刻、次過三里着目付衙了、

朝食の後、引馬(浜松市)に着き、人や馬を頼みに今川氏の家臣飯尾氏を訪ねるが留守、土産に用意した太刀は渡さずに持って帰る。旅宿で酒を飲み、亭主に薬の牛黄円を遣わす。言継は医薬に詳しく、道中、何かと薬を贈り物にする。天龍川では船賃のことで喧嘩をし、土地の長老が仲裁に入る始末。三里過ぎて目付衙(磐田市)に着く。何ともはや、締まりのない道中である。豪族たちの送迎を受ける連歌師宗牧の旅とは雲泥の差といえよう。

(つづく。つぎは、連歌師じょうは。紹巴。)

引用:岩波書店『文学』2002年・9・10月号より。

« 竹橋乙四郎と橋爪章のあいだ 2    | トップページ | 連歌師5・紹巴  鶴崎裕雄 »

コメント

東國紀行 訳

約二万件中6位。
直接の関連はありませんが、この鶴崎先生の論文はいろんなことを教えてくれます。
かささぎは、一度先生にお会いしたことがございます。どこか、あれは・・・ごとうだまさはる氏ににていられます。印象が。
レンガ師の先生です。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 連歌師4・宗牧   鶴崎裕雄:

« 竹橋乙四郎と橋爪章のあいだ 2    | トップページ | 連歌師5・紹巴  鶴崎裕雄 »

最近のトラックバック

2020年2月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29