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2009年1月20日 (火)

いくさ世的対話篇5

▼ かささぎの旗ひめの

長門守護職内藤孫七と戦艦長門の孫七。なんと不思議な暗合。

▼ 神崎さくら

いつも行くスーパーの隣に株式会社長門と言う不動産会社がある。
単に社長さんの姓が長門なのかもしれないが、写真を撮らねばと前から思っている。
昨日は「飛龍」と言う中華やさんのお店を撮ってきた。
勘だけどここはきっと「飛龍」乗組員だった人に間違いない。
今度「飛龍」の絵葉書を持って訪ねよう。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Screen/3222/itikawa1.htm
№30 山口多聞提督の最後

そうだ、深大寺に「多聞」と言うおそばやさんがあったぞ。

▼ かささぎの旗ひめの

さくらさん
孫七さんの長門に関する武勲 読んでも今一意味が分からないかささぎです
もし解れば噛み砕いて教えて下さいませんか
深大寺へは必ずもう一度行きますからねその時探してみます
きっとさくらさんは軍艦が切なかろうと思いました
甲板に鈴鳴りの水兵さんを見ていたら 私もさくらさんの気持がわかる

乙四郎
今息子を空手に送り車中から書き込みしてますが おでんを仕込み大和町史を読んでたら 正にその田中吉政の話と立花宗重の話
よしまさは子供の代で跡継ぎがたえ除封になる あとにまた宗重がすわる
その領石数がばしっとはしたの何升何合まで記載されております これには感動します

▼ 山下整子

おおっ。なんとタイムリーな。
かささぎどんと同じだ。

広川町史を読んでいて、田中吉政触書を含む7通の吉政関係文書が広川町の稲員家に保存されていて、稲員家文書として他の古文書と一括して340通が県の文化財の指定を受けたことが書いてありました。その中には、逸失したと思われていた忠政(四男である跡目)期の「上妻郡中掟」という、吉政の農村支配が伺える貴重な資料も含まれていたということです。稲員家といえば、古賀村の大庄屋に任命された家系。稲員孫右衛門の名前が見られました。
で、これを読み継ぐなかで、姫野家「家訓」というものに行き当たりました。甘木村(広川町内)の庄屋職を代々受け継いだ姫野家記とも言われるもので、田中吉政と広川谷の村々のかかわりを垣間見れるくだりがあったとのこと。

もうひとつ、孫のつく名前に遭遇。
入国法度之事
慶長六年に吉政花押のある領内統制の命令書の宛名書き。「大庄屋 夜明村孫兵衛とのへ」(歴世古文書所収)

昔の人って、よっぽど孫ってえのが好きだったのかねえ、まっつあん。子孫の孫。繁栄を祈るみたいな、ね。

▼ かささぎの旗ひめの

立花宗重じゃなく、宗茂でした。
それと、田中吉政は石田三成を捕らえた論功により筑後一国32万5千石を与えられた。と書いてあります。しかし吉政のあとを継いだ忠政が1620年に死ぬと世継ぎ断絶を理由に除封となる。
そこへ宗茂が10万9647石1斗9升7合の大名として再び入封した。すごすぎ。細かいはした!!
おつしろうもせいこさんもありがとう。ちょうど、おなじところをおなじ時間帯によんでいたのか。不気味。
おつしろうの紹介の系図、あっとおもった。まさかこの田中家につながるとはお釈迦様でもご存知あるまい。

地域学ともリンクしてるのですが、複数でコメントをやりとりしていると、なにか、大事な忘れていたことをおもいだせそうな気がする。
姫野家に関していえば、最初に読んだのは将士軍談でだった。つぎに夫が信仰している宗像の宮司さんが家紋からも調べてくださった。甘木家家老って書いてあった。でもその甘木家ってどこにあるのか知らなかった。おかげでわかった。広川であれば納得できる。約500年の歴史をもつ菩提寺も広川だし。戦国時代からの姓であれば、大分にも同じ姓の人たちがいる理由がわかる。追伸。うちはお百姓です。

▼ 竹橋乙四郎

天文24年頃の大友氏と大内氏との関係

Wikipediaの大友氏のその頃の記述です。
===================
天文20年(1551年)には大内義隆が家臣の陶隆房(陶晴賢)の謀反により死去すると、義鎮は弟の大内義長を大内家当主として送り込み、北九州の旧大内領はもとより、周防や長門にも影響力を誇った。弘治3年(1557年)に義長が毛利元就に討たれて大内氏が滅亡すると、周防・長門方面での影響力は失ったが、北九州の権益の大半は確保した。
===================
たまたま、堂々と大内と大友が同席できる時期だったようです。

宗右をさがせ!
北野神社関係資料(書状121点のうち119番目)
(宗右書状写)(天文15年〜23所務覚写共)
   ↓

http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/pub/tree/kitano.php

▼ かささぎの旗ひめの

芸がこまかい!
よくぞしらべてくださいました。
とことん調べますね。あたまがさがります。なみだでます。

感想。
やはり乙四郎はすごい。

▼ 神崎さくら

何千隻とあった帝国海軍の戦艦があの戦争で全て失われた中で、唯一最後まで生き延びたのが戦艦長門です。
その最後の艦長だった杉野修一さんの父親が杉野孫七さんで、日露戦争秘話として有名な人です。
最後まで生き延びたがためにアメリカに接収され、戦後ビキニ環礁での水爆実験に使われた。
最近の出来事では、長門の軍艦旗がオークションに出され、俳優の石坂浩二さんが1000万円で落札、呉の大和ミュージアムに寄付をした。
(石坂さんて実はそういう人)

戦艦に興味があるのは父が「金剛」に乗っていたということもあるが、名前がとても調子よくて良く覚えられる。
大和、金剛、愛宕に武蔵。
加賀、蒼龍、飛龍に赤城。
早霜、秋霜、岸波、沖波。
雪風、矢矧(やはぎ)に利根、鈴谷・・・・・・・
ねぇ、これ言って御覧なさい。
とってもごろがいいから。

▼ かささぎの旗ひめの

うわ。やはりさくらさんはただものではない!
ありがとうございます。
私は昨日「孫七」で出た軍艦長門の物語に出てくる孫七さんの話をよみましたが、下地もなにもなく、意味がとれませんでした。
これで納得しました。なぜビキニ沖の核実験の背後に長門が映っているのかも、初めて今知った次第。ひどい。ビキニ沖核実験の話は、第五福竜丸の被爆の話が自分たちの生れた年なので、そのことしか知りませんでした。あっとおどろくなさけなさです。まったく、私たちは肝腎なことを何も系統立てて知らされていない。ひどい話です。かなしい話です。民族としての誇りや希望を失ったまま、漂流するのみ。
よかった。聞いてよかった。さくらさん、ありがとうございます。

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コメント

「稲員孫右衛門安則」といえば、広川町でも有名な歴史上の人物。小学校4年生くらいで、必ず自分の町のおいたちなどを自分たちで調べる授業があるでしょう。そのとき、必ずといっていいほど、子供たちが出会うのがこのひと。孫右衛門さん。
広川中学校体育館まえには、彼の多大な功績をたたえて、でかい石碑が建立されています。この偉大な人も「孫」がつく名前だ。

広川町史、ミニ人物誌から。
「稲員孫右衛門安則」(1633~1707)
寛永10年6月12日古賀村に出生、幼名は清七郎。18歳で父安治の名代として所用をつとめます。19歳で古賀組大庄屋職を拝命し、名を孫右衛門と改めます。
在職40年間に及び、隠居して斎右衛門と改名。
水利土工に長じ、在世中の事績は、溜池構築67箇所をはじめ、道路、橋梁、堤防、井堰、村移転と多岐にわたります。このゆえんを以って後世の人は、水利土工の大恩人と呼びます。
大庄屋職にありながら高良山神職家の頭領としても大祭礼の再興など多くの功績を残しています。
宝永4年4月12日病没、行年75。

 「戦艦長門」は「トラ!トラ!トラ!」という(黒澤明が降ろされ、その後深作欣二などが黒澤明の代理役をした)映画の冒頭シーンに山本五十六とともに登場するそうです。プラモ・ファンから聞いたことあるので参考までに。

ろいりー、ありがとう。自分では見そうにない映画を、見たい気にさせてもらいました。
ロイリーとはどういう意味ですか。
いろりばたでひっくりかえる。
気が向けば教えてください。

せーこさんへ。あしたブログにあっぷしましょうね。
でも、硬い。こちこちやで。

ロイリーちゃ、ほら、久留米の映画館たい。

いらん世話。

 いや、あのー、最初に私が投稿した時書いたように、私が生まれ育った久留米の家の隣に、1970年頃まであった映画館の名前なのですが。これに関することは出てないかと思って検索した結果、唯一ヒットしたのが「ぼん」さんの投稿でした。これがかささぎさんのブログを知ったきっかけです。ロイリーという名前の由来そのものは知りません、光華楼のそしてロイリー映画館や、さくらさんも行ったことのあるボーリング場の経営者だった翁さんに訊くとわかるのかな?あとはまた「地域学」のコーナーでお会いしましょう、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ~オフコース風ではなく、淀川長治風に。

ロイリーは10円映画があったところ。赤銅鈴の輔か月光仮面かわすれたけど、木の格子のはまった牢屋に誰かがいて、助けを求めていた・・・様な記憶があります。かなり不確かですけど。

はじめまして

どうやら わたしは しそん みたいです。

広川中学校 と 古賀 に その方の銅像があります。
そんなに めだちません。

太田にも 稲員姓 あります。

つい さいきん です。
3年前かな 広川町に 工業団地のなかに

竜  公園と 素敵な公園があります。

稲員まごえもんの子孫であられる律子さま、コメントありがとうございました。

ところで、「つい最近です。」
とは?

おはようございます。
今 私は 100年前のルーツを調べてます。
喜次朗の次男の 半蔵さんが おじいちゃんです。
            いし さん が おばあちゃん。


9人子供が居ました。父は次男 謙次です。
             久保フジエが 母になります。

3姉妹の すぇっこが 私 律子です。

子孫ですよね。
知らなかったです。
お参りにいきたいけど、どこが孫右門安則さんのい絵なんでしょうか?教えていただきたいです。
宜しくお願いします。

ひえ~!!
そげなこつ、いわっしゃっても、わたしには何もわかりませんがな。

稲員孫右衛門、その業績と手柄、かささぎはまだよく調べてはおりません。なのになぜかご子孫のかたにコメントをいただいてしまったため、調べなければとは思っていますが。。。いかんせん、時間が限られております。

稲員律子さま。
稲員孫衛門さんの記念碑が広川中学校内の体育館前に建てられていますので、まずはここでお参りされることをオススメします。
直系のかたは、広川町の水原にお住まいではないかと存じますが個人情報でもあるので、ここで詳しくは書くことができません。できれば、あなたさまの身元を証明するものを持参され、広川町教育委員会の文化財担当職員の方をお尋ねになってはいかがでしょうか。
もしも、行かれる日時等が明確になるのであれば、わたくしのほうから前もって文化財担当の方へ連絡しておくこともやぶさかではありませんので、念のため申し添えます。

リツ子さまへ、
山下セイコは元広川町役場職員です。大船に乗ったつもりでいてくださいね。にこり。

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