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2009年1月15日 (木)

かささぎ場外対話篇

八女戦国百首和歌「夏日侍」をよむ

      (その他資料篇)

たとえばと、こんな話も聞きました。
八女市の土橋には宇佐神宮をうぶすなの神としてまつられている地域があるが、これは磐井の皇子が宇佐で葬られたという言い伝えがあるからだ」と。
うぶすなの神。として、ちとくの神社に熊野神社のご神体が祀られているのにはどういった経緯があるのか。ちょっと調べたくなってきた。

投稿: seiko | 2009年1月12日 (月) 12時23分

神社仏閣の由来など考えた事もなかった
ばちあたりな私なのです

今度ゆっくりお話きかせてください

投稿: れい | 2009年1月12日 (月) 14時29分

わたしも同じです。
興味があまり持てなかったから。
高校んとき、世界史の次に日本史がキライでした。
現代のことさえ覚えきらんとに、
昔のことまで覚えきらんちゅーったい!

投稿: seiko | 2009年1月12日 (月) 20時45分

かつて手塚治氏の「火の鳥」を読んだとき、書いてあったように思うんだけど、その時々に治める人の信仰する神様を、地域の人も祭らねばならない。そんな内容だったと思う。仏教が入ってくる事を嫌ってあったようにも感じられた。あたかも、後にキリスト教を拒んだように。歴史は繰り返される。
わたしは、「苦しい時の神頼み」派なので、行き当たりばったりです。

投稿: ぼん | 2009年1月12日 (月) 21時02分

わたしも苦しいときの神頼み派なので、ばちあたりなくらい無信心です。
いいっちゃない。そんくらいで。

熊野神社を祀ってるのは、近くの天津池に由来するものかもしれないと勝手に思ってるわたくし。天津池さんに石碑があってね、神様とおなじものが備えられているのを見たことがあるったい。ただのため池みたいなのに、この土地のお年よりはみんな「天津池さん」と「さんづけ」でお呼びになる。不思議じゃろう?こんどは天津池さんば調べてみようっと。

投稿: seiko | 2009年1月12日 (月) 23時28分

私もまったく皆さんに同じ。
日本人は信仰が薄いなんて言うイメージがあるでしょ?
外国じゃ信仰が講じて戦争までやってるのに。
でも良く考えたら日本国中いたるところに神社仏閣の多いこと多いこと。
マンション建てるからと言って寺や神社を壊すことはまずないでしょ。
新宿の高層ビル街にも大手町のビジネス街にも寺や神社があるんだよね。ビルとビルの間に挟まるようにして寺はアル。
初詣には最近は有名じゃない寺や神社にも長蛇の列。
信仰が厚くないとは外国人がみたらそうは見えない現象だと思うんだ。
母が死にゃ7日7日に坊さんがきてお経を上げる、もう結構ですとはとっても言えない状況。

正月番組で北野タケシがはじめて伊勢神宮へ行くという番組を見た。
絶対一度伊勢へ行ってみたいと思うような感想をもらしたのだ。伊勢へ行ってみたい。

歴史は大東亜戦争以降にしか興味なかったけど、かささぎどんの迫力に押されてすこーし。

投稿: さくら | 2009年1月13日 (火) 00時11分

さくらさん。全くおなじことを今回、感じたのであります。人口2万人足らずのこの小さな町に、まあ神社仏閣のおおいことおおいこと。神社にあっては、なんと30箇所もありました。町内の行政区が33区ですから、ほとんどの村にひとつ信仰の対象であり民人が集う場所があったということなのです。
それと、庚甲さんとか猿田彦などの石碑?というか、石でできた社や地蔵さんや塔もそれはそれは多い。それらはみゃくみゃくと受け継がれた信仰心のもと、信仰心の厚いちいきびとによって守られてきているのです。現代のいまもけっして、おろそかにされてはいない。足蹴にはされていないということにおどろきました。

以前、ゴミの不法投棄が続く山中に対策として、注連縄を張って祀っている風を装ったら、不法投棄がなくなったという話を聞いたことがあります。信仰心のない日本人にも、信仰の対象物をおろそかにしてはならないという気持ちは日本人のDNAとして、みごとに受け継がれているのでしょうね。

投稿: seiko | 2009年1月13日 (火) 06時19分

どひゃー
ありがと産休縁燐寸。
犬がかわいいぞおー気が散る/このしっぽ!/
上等の推理小説を読んでいるみたいに
次から次へとピースがちりばめられた会話が続く
そのナカから確かな手ごたえを拾わねば

せいこさん
こないだ当条村の人がコメントくださっていたね
あんとき、書こうとして文字機能がぶち壊れていてできなかったんだけど一条、とか当条ってのは条里制の名残の地名よね。ってことは古いけどそう古くはない。イワイの時代は何だったんだ。どんなスケールだったろう。裁判まであった国を治めていたイワイ、きっと文字があったはずだ。それ、どっかに残っていないだろうかなあ。イワイの時代の地名ってどんなんがあったろうね。
たとえば欠塚と書いてかげづかってのは、まさにイワイの怨霊を彷彿とさせる、いいえて妙な地名だけど、イワイ以後の地名。
で信号表記と違う表記のちとく知徳か智徳かも気になる。仏教くさい地名だからこれまたイワイ以後だろう。イワイはどんな信仰をもっていたろうか。かささぎのイメージではなんとなくスキタイみたいなイメージのイワイ。タリシホコ=聖徳太子=筑紫の王。とする説があるんだけど、正統的な歴史とうんと違うほど面白いね。

ほんじゃごはんの用意。

投稿: かささぎ | 2009年1月13日 (火) 17時10分

当条、一條の由来はわからんけどね、智徳はもともと知徳だったらしい。智徳の文字が使われるようになったのは、明治後半期のことらしい。と、町史にありました。
知徳の由来は、山下城の分城として知徳城というのがあって、その知徳城を守った一條氏の家臣に有徳の人がおられ、その徳にあやかろうと知徳という地名がおきた。と、これも町史から。山下城の分城はいまの知徳交差点のちょっと東付近のこんもりとした丘のうえ。知徳と当条のはざま。これはこの辺のもんならみんな知ってる。知徳城のあった知徳に、山下姓が多いのも不思議ではなかろう。ひょうたんからこま。山下一族のルーツにまでたどれそうだ

投稿: seiko | 2009年1月13日 (火) 22時55分

では、じょうやまの山下城の分城なの。あのね。八女戦国百首和歌で、十年前にいろいろしらべてみたとき、吉永正春って人のお城の本に、山下城で豊饒美濃守源なんとか。いう人が出ていたのよ。
まったく同じではないけど、かぎりなく似ていた、名前が。だから、たぶんその一族だろうなあとかささぎは思ったわけですが。どうも今の視点でしかものが推し量れない。山下城、それだと立花町になるよ。
山下姓はそこから来てたのかな。

投稿: かささぎ | 2009年1月13日 (火) 23時12分

だと思うよ。

町史に広川ミニ人物誌ってのがあって、そこに「山下孫左衛門」という方がのっています。

>山下城(現立花町)の出城のひとつに知徳城があり、城主一條和泉守に従う武将の一人に、山下孫左衛門がありました。天正13年(1585)5月10日、龍造寺政家の家士横岳頼次の軍が知徳城へ来襲します。和泉守兄弟以下は城を出て、大野が原(知徳村の地名)でこれを迎え討ちますが、山下孫左衛門を含めて主従ことごとく討ち死にします。享和3年孫左衛門五代の孫によって墓を造設。現在なお知徳納骨堂境内に残っています。大野観音堂は、大野の戦の敵味方双方の戦死者の霊うを供養のために建立と伝えます。

確かにあるわ。孫左衛門の墓も大野の観音堂も。へえ。そのようなお方の墓であったのか。この前の墓掃除のとき、ひこまるがシッコしてたけど。いかんいかん。ばちあたりなこっちゃ。かささぎどんのおかげで、知徳に詳しくなりよるばい。

投稿: seiko | 2009年1月13日 (火) 23時54分

おまけ。出城は11箇所もあったらしい。
黒木の南城とかいうのも、それじゃないとかね?

>一條和泉守
蒲池能久から一條村の内に知行をもらったことから、本郷(現瀬高町)の城より越してきたといいます。一條村の大坪という場所に館所を構え、姓も一條に改め、兄弟で知徳城を守ります。知徳城は山下城11箇所の出城のひとつで云々・・・とありまっせ。

投稿: seiko | 2009年1月14日 (水) 00時10分

せいこさんへ
面白いことになってきました。
私はなぜか「山国町史」と「大和町史」の二冊を持っていたのをすっかり忘れていた。それをせいこさんの記事を読んでいてハタと思い出したので、さっき気になるところだけアップしました。やまと町史ね。お城の地図も出ていますよ。せいこの山下城があるし、乙四郎の鷹尾城もあるよ。クリックしたら大きく見やすくなります。

今日だったの。支援セミナー。さむかったね。
乙四郎の出演はいつ。みたい。って人をさるかなんかみたいにいっちゃいかん。笑

投稿: かささぎ | 2009年1月14日 (水) 23時54分

はあ~だんだんくたびれ果ててきた。

参照:

ヤマシタセイコブログ:

http://tanka-souko.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-2609.html
http://tanka-souko.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-c453.html

   


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