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2009年1月26日 (月)

連歌師3・宗長  鶴崎裕雄

連歌師ー政治的な、あまりにも政治的な人たち

    鶴崎 裕雄

 宗長の場合

宗長七十歳の自叙伝『宇津山記』に、

 予つたなき下職のものゝ子ながら、十八にて法師になり、受戒加行灌頂などいふ事までとげ侍りし。はたちあまりより国のみだれいできて、六・七年、遠江国のあらそひ三ヵ年うちつゞき、陣屋のちりにまじはりしかども、口ばかりには精進ぐさきあざみやうの物までぞをくりし。

とある。宗長は出家した十八歳のころから駿河守護今川義忠に仕え、戦陣の塵にも交じった。義忠は文明八年1476遠江出陣の帰途、敵の残党の夜襲にあって戦死した。宗長が都に出て、宗祇の許で連歌師の道を歩み始めるのは、この義忠戦死の前後である。

宗長の上洛が義忠戦死の前であるならば、国守の許可を得た京都留学でなかったかと思われる。当時、すでに戦国大名的要素を内在する守護たちは、領国の権威を高めるため、さかんに都の文化を摂取しようとした。『朝倉高景条々』に、

 一、四座の猿楽さいさい呼び下し、見物好まられまじく候。其の値を以て国の猿楽の器用ならんを上洛せさせ、仕舞を習はせ候はば、後代まで然べからん。

とある。文芸の才能を認められた宗長が京都留学を命じられたのかもしれない。

その後二十年、明応五年1496宗長は駿河に帰り、義忠の子氏親の庇護を受ける、というよりも氏親に仕える。以後、宗長は上洛はするものの、居所は駿河に構えた。『宇津山記』に、

 匠作近き居をかまへ、春の草木、秋の木草を求め植ゑ池ひろく水ゆたかにして夏冬経べき八木の恵みしげく、朝夕の煙絶えず。

と記すのも、匠作こと、修理大夫氏親から豊かな生活が保障されていたことが窺われる。
二十年の京都での修行時代、宗長は宗祇に随行して、公家や幕府の武将たちの許に出入りし、越後の上杉氏や周防の大内氏をはじめ畿内の国人領主たちと交渉を持った。特に公家の三条西実隆、管領の細川高国と親しんだことは宗長の大きな財産となった。東海道を往復するうちに親しくなった豪族もいる。伊勢の関氏・尾張の織田氏・水野氏・三河の松平氏・牧野氏たちである。

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