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2009年1月27日 (火)

連歌師3・宗長  鶴崎裕雄

連歌師ー政治的な、あまりにも政治的な人たち

       鶴崎裕雄

宗長その3

宗長の交渉を知るのに面白いのが尊経閣文庫蔵の『飯尾文書』である。
『飯尾文書』は室町幕府奉行人飯尾氏に伝わった文書で、飯尾氏の許に届いた書状の一部の収集である。
江戸時代、加賀の前田家に入り、尊経閣文庫に収められている。この中に遠江の羽鳥荘の年貢を巡って今川氏側からの十一通の書状がある。『飯尾文書』は飯尾氏の許に届いた書状だけが残されているので、飯尾氏が送った書状はない。案文のような写しでもあれば、応答がわかるのであるが、ここでは今川氏からの一方通行である。遠江の羽島荘は、現在の浜松市、天竜川の右岸、東名高速道路インターチェンジの北にあった。『飯尾文書』に残された今川氏の書状十一通は、今川氏奉公人福島範為の八通、宗長の二通、氏親の一通である。以下にその内容を紹介しよう。

①の書状は永正八年四月三日、飯尾貞運宛福島範為の返書。
これより以前、幕府奉行人飯尾貞運より今川氏の許へ羽島荘の年貢の催促の書状が送られたのであろう。
貞運の書状はすぐ氏親に申し届け、このことは相阿にも伝えたといい、今後も連絡してほしいと記す。
相阿は将軍の同朋衆で『君台観左右帳記』を著した水墨画家相阿弥真相ではなかろうか。

②は七か月後の永正八年十一月八日、相阿宛福島範為の書状。
関東での北条早雲の和談のこと、馬の進上が困難なことなど、種々細々と書き連ね、羽島荘については今川氏の使者堆持者を上洛させて申し上げると記す。

③は同日、十一月八日、飯尾貞運宛福島範為の書状。
羽島荘は交戦中の斯波氏との境の地のため年貢の徴収は遅れているが、氏親も等閑には思ってないと記す。
この時代の羽島荘の所領関係は不明であるが、今川氏の守護請けとなっていたのであろう。
今川氏が駿河より遠江へ進出しようとする時期で、幕府に対して遠江での今川氏の勢力をアピールする必要があった。

④は永正八年十一月十六日、宗長宛福島範為の書状。
範為が宗長に意見を求める書状で、はなはだ興味深い。
羽島荘の年貢分として来年、金十両を送ることに氏親も納得しているが、この方針で良いかと相談する。都の公家や幕府の武将たちの事情に通ずる宗長にとって外交問題の相談にあずかることも役割の一つであった。
それでは、なぜこの宗長宛の範為の書状が京都の飯尾貞運の許にあったのか、答えは⑥の貞運宛の宗長の書状にある。

⑤は永正八年十一月十八日、飯尾貞運宛福島範為の書状。
羽島荘の年貢を来年より送ることを伝える。

⑥は同日、十一月十八日、飯尾貞運宛宗長の書状。
宗長自身の近況を述べ、羽島荘について範為より相談を受けた④の宗長宛福島範為の書状を送ると記す。④の宗長宛の書状がなぜ飯尾文書に含まれているかこれでわかるのであるが、いかにも今川氏側の手の内を見せるような宗長の外交に目を見張る思いがする。

⑦は同日、十一月十八日、相阿宛福島範為の書状。
羽島荘の年貢として来年、金十両を送ること、斯波義達の井伊山出陣に対し、範為も出陣することなどを記す。

⑧は永正九年十月十一日、飯尾貞運宛今川氏親の書状(この書状は現在『武家手鑑』に入っているが、元は『飯尾文書』にあった)。いよいよ羽島荘の年貢金十両が送られた。

⑨は永正九年十月十三日、飯尾貞運宛福島範為の書状。
前の⑧の氏親の書状とともに金十両を今川氏の使用堆侍者に渡したと伝える。

⑩永正九年十月二十三日、飯尾貞運宛宗長の書状。
金十両を送ったこと、来年正月には伊勢山田まで行くが、山城の薪まで行きたいと記す。

⑪永正九年十一月二十六日、飯尾貞運宛福島範為の書状。
羽島荘の年貢金十両と公儀(幕府)へ二万疋の進上を伝える。

長い紹介になったが、『飯尾文書』は宗長が今川氏の政治に関与した具体例を示す史料である。宗長の場合、駿河の今川氏との関わりが強く、政治的行動も主に今川氏の範囲に留まっている。ところが、次の宗牧や紹巴の場合は、禁裏や天下人と関わって、さらに全国規模へと拡大する。

(次はいよいよ問題の“宗牧”。お楽しみに!)
八女戦国百首の「牧也」は「宗牧の弟子」かも知れない。
時代と名づけがそう言ってる。

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コメント

宗長検索で訪問があっていました。
おかげで、大内文化コラムというブログで、面白い事実を知る。(室町時代の書を読む、宗長日記)。
また、おなじブログの『「こしち」は大内文化のキーワード』には、
矢部でなくなった南朝の征西将軍懐良親王の異母兄弟の一人であり、東北につかわされていた宗良親王(征東将軍)の歌集と大内まさひろの歌のことが書かれています。歌を通じての師弟関係について、そのうたの響かせ方、影響の受け方を作品のなかによむという、筆者によるモンタージュ作業。
読めて良かった。ありがとうございました。☟

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