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2009年1月 3日 (土)

深まる七支刀の謎   語録30!

八女戦国百首和歌「夏日侍」をよむ

     竹橋乙四郎

▼七支刀とんでも仮説の追加とこれまでの整理

367年:高牟礼神が高牟礼山に鎮座。
372年:「七支刀」が百済から倭王へ贈られる。
3??年:高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出る。高牟礼神が譲ったので高良玉垂命が鎮座。山の名が高良山となる。
※ とんでも仮説:一夜の宿を高良玉垂命から求められたのは「七支刀」では。もし七支刀の居所が当初から石上神宮なら、七支刀は他の剣と同様に石上神宮の祭神となっていても然るべきだが、実際は格落ちの「社宝」扱い。
400年:「高良玉垂命神社」(高良大社)創建。
863年:神主が夢で見た草薙剣を模して布留神剣が作られた(『石上布留神宮略抄』)。石上神宮禁足地に祭神等(剣、矛、勾玉)を埋める。
869年:鷹尾神社が高良別宮として創建。


※ とんでも仮説:「七支刀」が一夜の宿から終の棲家へ移る。
  
七枝のデザインが鷹尾神社の社紋となる。
http://www.educ.pref.fukuoka.jp/bunka/cgi-bin/detail/detail.cgi?number=219

1213年:鷹尾神社全焼。「七支刀」は、一時的に、猫尾城の支城、犬尾城(八女市山内)の隣接地に保管してもらう。保管場所は鷹尾城と称される。
1219年:鷹尾神社復興。「七支刀」戻る。
1516年:伊勢神宮内宮の禰宜が相次いで亡くなるなど、伊勢神宮の危機。
1536年:鷹尾城築城申請の交換条件に、「七支刀」の朝廷への奉納を申し出る。
1540年:古びた「七支刀」が伊勢神宮禰宜荒木田守武によって鷹尾神社から持ち去られる。内密に石上神宮禁足地に隠される?

鷹が音やあかつきをさしてかへるらん
はげたる太刀のつぼめ鳴ころ

そゞろには成もはる/\"太刀はきて
天神さこそつらきみちのく

もゝだちをとりてこきやうへ帰りきて
天文九年しぐれふるころ

きるといふこともいはぬはみやこ人
旅と太刀とのゆくゑしられず

(以上、守武千句より。「七支刀」は日本書記では、ななつさやの「たち」。)

15??年:「七支刀」が持ち去られた物語が人形にされ、祠に納められる。
ゆかりの地を太刀の神にちなんで太神、祠の名を高良にちなんで「こうや(ら)の宮」とする。
「七支刀」の奉納先は布都御魂大神を祭神とする神社とされ、五三桐紋像を造る。

※ 五三桐紋の岡山県石上布都魂神社は、奈良の石上神宮の記録に「布都斯魂大神。もと備前国赤坂宮にありしが、仁徳天皇の御代、霊夢の告によりて春日臣の族市川臣これを当神宮に遷し加え祭る。(抜粋・官弊大社石上神宮御由緒記)」とあり、由緒正しい。

1548年:鷹尾城完成
1549年~:肥後菊池の筑後侵略。

菊池の紋が「並び鷹の羽」(鷹のひとつがい?)紋に。


 註・八女戦国百首和歌の65番に、

  鷹狩         鑑栄

ふる雪に狩場の鷹の一つがひ
花をはらへる袖かとぞ見る

1549年:荒木田守武死去。
1550年:橋爪鑑実、菊池討伐。
1555年:荒木田守武と親交あった橋爪鑑実(=鑑述)が、守武の死を偲び、守武の遺作を織り込んだ百首を今伊勢=伊勢神宮内宮を宛先として奉納。権威づけのために「源」を称する。
1571年:橋爪鑑実、正月に俳諧を興行。
1585年:石上神宮は社禄を没収される。七支刀は禁足地に埋められて無事?
1588年:橋爪鑑実、自刃。
1874年:禁足地発掘。鎌倉・室町期の瓦も出土。足を踏み入れてはならない場所のはずなのに、当時、何かが埋められている。
1876年:宮司が「七支刀銘文」を発見。

参考:
石上神宮の重要文化財の一部。
色々威腹巻(いろいろおどしはらまき)-「腹巻」は甲冑の一種。
朱札紅糸素懸威鉄腹巻(しゅざねくれないいとすかけおどしかなはらまき)
黒塗練革星兜鉢(くろぬりねりかわほしかぶとばち)

七支刀について

調べれば調べるほど新しいことがわかる。
七支刀は信長に一時奪われてへし折られていた。
オリジナルは槍形・・・
こうやの宮の七支刀に柄の部分がないのは何故?
疑問が増える。
新知識は軍刀に関するサイトから。
軍刀への思いが嵩じて七支刀まで調べ上げてあった。敬服。記載事項を要約引用します

===================
369年、百済王とその皇子の貴須王子が倭王の旨の為に谷那鉄山(こくなてつのむれ)の鉄を使って百済で製作。日本にもたらされたのは372年。東晋で造られた物か百済での複製か、製作も舶載時期も諸説あり。
刀となっているが槍である。全長74.9㎝、本身刃長66.5㎝、茎長8.4㎝、両刃平造りの槍で本身の左右に段違いで合計6本の両刃の支鉾が付く。図(省略)は七支刀の本来の使用想定図。恐らく七支刀は「辟邪=邪悪を斥ける」の祭祀用に使われたと思われる。
七支刀は茎側から三分の一の処で折損している。全体に錆で覆われていながら未だ鉄の性質を失っていなかった。
永禄11年(1568年)、信長が大和を攻略した際に多くの宝物と共に七支刀も持ち去られ、後にへし折られて石上神社に返還された。
社領が没収されて社人のいない神宮の宝物は、密かに神宮の御禁足地に埋蔵された。七支刀も破損したまま土中に埋められた。
ところが、信長方になった筒井順慶に依って天正8年(1580年)に社領が安堵され、七支刀は掘り起こされて再び社殿に奉祀された。
従って、七支刀は12年間土中に埋まっていた。若しこれが平安中期(11世紀)以降の日本刀だったとすれば、錆の進行が早く、その姿まで消滅したであろうが、七支刀は十数年土中に在ったにも拘わらず伝世品同様の姿で残っていた。

『旧日本帝国陸海軍軍刀』のサイトから、
七支刀
http://www.k3.dion.ne.jp/~j-gunto/gunto_132.htm

古代の技術研究グループによる七支刀鍛造実験

http://www.iri-tokyo.jp/publish/tirinews/0705/TN20070502.pdf#search='七支刀'

▼ 乙的とんでも注釈
室町・鎌倉時代のものが禁足地にあった理由がわかった。

信長に1568年に奪われたということは、その時点では禁足地に埋められていなかったということになる。
古来、神社の祭神、社宝は原則として禁足地に埋められる習慣の神社だったことを鑑みると、七支刀は石上神社に奉納されてからあまり年月が経っていなかったのではないか。

▼ 七支刀の鍔がないことについて

他のデータベースでは、守武の句が違ってた。
鷹→雁
あかつき→あつき
つぼめ→つばめ
どっちが正しいかわからぬが、ずいぶん印象が違う。

雁が音やあつきをさしてかへるらん
はげたる太刀のつばめ鳴ころ

(とんでも超訳)
借金(かりがね)のためだ仕方ない。
覆い(厚着:あつぎ)をして帰ろう
剥げた太刀である上に鍔もなく・・・

俳諧データベース:http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/haikai/index_era.html

かささぎの旗管理人の感想:

うたですが。   

鷹が音は聞いたことがありません。
鷹の鳴き声を詠んだ歌をこれまで読んだことがない。
鳶ならあります。季語に「鳶の笛」あり。

常識的に考えてかりがね だろうとおもいます。無理がないのは、

雁が音やあかつきをさしてかへるらん
はけたるたちのつばめ鳴るころ

はくというのは、佩く。刀を身に帯びる。
でも、佩きたるならすっと入りますが、佩けたるってへんです。
雁が帰ると、なぜ太刀の鍔目が鳴るのだろう。
デザイン的に穴が開いている鍔目で、その風穴を風が通る?

つぼむ。という言葉は、とても八女人には懐かしい響きがある。
すぼめることをつぼめる。といいますものね。どこか子ども時代の原初的なひびきがあって、ふと立ち止まりたくなることたまです。

かささぎは、平成15年に「石橋秀野ノート」を出版しましたが、その帯に、好きな秀野の句をとっているのですが、一つに誤植があります。
といいますのは、昭和24年出版の初版原著の句を、よもや誤植とは知らず、そのまま受け取って、それでそのいわくいいがたい味わい、意味がつかめそうでつかめぬ・・・に惹かれたからでした。

▽石橋秀野『櫻濃く』
(編集・山本健吉、創元社昭和24年刊)

昭和22年夏(この年の9月26日永眠):

子の茶碗つぼめ西日をきりかへす   石橋秀野

かささぎの描いた情景:
秀野は結核末期に入っており、布団に寝ている。
まだ幼い娘の茶碗がちゃぶ台に使ったそのままの形で置かれてある。
秀野は子が不憫でたまらない。渾身のちからをふりしぼって、お茶碗を伏せる。
とそのとき、お茶碗に西日があたる、衰えた身にそれはなんとも耐え難いものだ。だがまだ死なない死ねない。次におかれている句も、この読みを助けた。

昼の蚊を打ち得ぬまでになりにけり  秀野

(俳人というのはげにすさまじきものなり。蚊を打ち得なくなっても、俳句を詠むことはできたのだから。)

▽富士見書房平成12年刊『定本・石橋秀野句文集』

子の茶碗つばめ西日をきりかへす  秀野

かささぎはなぜこの間違いに気づけなかったのだろうか。
でも、今でも、「つぼめ」の方が秀野を近く感じる。(負け惜しみ)
ということも含めて、乙四郎のミス、ふしぎなシンクロだと思いました。

  

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コメント

今ひょいと思った
暁を指して帰るらん
暁は有明ですね
何かあるのだろか

謎解き
「雁」と「燕」とで、どこで詠まれた句かがわかる。
雁の集団越冬地の西限は島根県とか。南限は琵琶湖の湖北。春分(3月20日)の頃、シベリアへ帰る。雁の北帰行期は、狂いがほとんどないので、この句は春分の日頃の句。
同様に去来が正確な渡り鳥は、ツバメ。誤差は十日以内(近年は誤差が大きいとか)。気象観測官が桜の開花日と同様に重視する自然の営み。南方からのツバメの渡り日は、九州では3月中旬、下関で3月下旬。ほぼ1ヶ月かけて北海道に渡る。
従って、通常は、雁とツバメとは同時に観測されることはない。

燕来る時になりぬと雁がねは
本郷(くに)思ひつつ雲隠り鳴く
(大伴家持『万葉集』)

燕と雁とは擦れ違いなのである。少なくも、伊勢や京都ではありえない。
ところが、どうも昔は雁は全国で観測されていたらしい。そうなると話が違う。
春分の頃、ツバメと雁の北帰行との同時観測が可能な地点は筑後あたりか。
九州で雁を詠んだ歌、どなたか心当たりあれば紹介ください。

雁は昔は全国にいた。
   ↓

俳祖である守武には、当然、大和では雁と燕とが擦れ違いであるという知識があったであろう。あえて雁と燕とを同居させた句を出したのは、自分が九州(有明?)に居たことの暗号の意図を感じる。となると、守武千句というのは暗号のかたまりではないか、とワクワクする。フェルマーの最終定理以来のひさびさのワクワク感。
旅する太刀がたくさんでてきたのも、やはり暗号でしょう。
「倭王に贈られたはずの七支刀は筑後にずっとあり、天文9年に伊勢神宮禰宜が持ち帰り、その経緯が像として筑後に残されていた」というのが、謎解き中間経過。
これだけでも日本史がひっくり返る?

守武の暗号

山だちのほうづきやりはさびはてて
いとどみじかくおもひあこがれ

山だち=邪馬太刀
ほうづき・・・ほうずきの実は、まっすぐな枝に左右交互に付く。七支刀そっくり。

とんでも暗号解読超訳:
邪馬台国の太刀である七支刀の槍は錆び果ててずいぶん短くなっているが、思い憧れていたものだ。

はげつとはいへどばけつに成はてて
みやこいづれば山だちにあふ

とんでも暗号解読超訳:
剥げているとはいえども馬尻(うそっぽい外宮の祭神)くらいのありがたみで、都を出れば邪馬台国の太刀を見ることができる

尻といえば、伊勢外宮のこの祭神
   ↓

名前貼り付けたブログで雁の渡りを想像してみました。一度はみたい。北海道までいかんといかんとかいなねえ。昔はたくさんきてくれたんだね。その歌。
みるうちもたちぬかずとやあまがさき
雲間に消えて立ち返るらん
うじゃあっと鳥がいる、飛び立つ。
どうやって数えるんだろう。
シベリアわたりの中継地があって、北朝鮮と韓国との国境あたり。
雁は夜に飛び立つのか。
雁木という言葉もあります。雁風呂も。
雁が旅立ち、まれに体力がなくて、海に休むときの枝を落してゆく雁がいる。その木切れを雁木といい、それでお風呂を沸かすのを雁風呂という。(でしたよね?)風流はありますが実感がない。

日本史、どんどんひっくりかえしてください。
なんにもかわらん世の中はたいくつだ。
もりたけさんは九州には来てないとおもうけど、九体皇子の話には荒木田兄弟の話が投影されているよね。時代、千年と五百年とでは倍の距離違うけど。
少なくとも、乙四郎が鷹尾になぜかグッタイミングで行ってくれたおかげで、このフィールドワーク風の探検も面白く、実感のこもったものになってきました。
まったく考えたこともなかった。
鷹尾って港だったんだね!!
それはかなりすごくないっすか。
しらゆう=白木綿も白絹も、輸入も輸出も。国際都市だったってことやん。すごかやん。へえー。
なんでそういう認識がまったくなかったんだろう。
うんとうんと田舎だとばかり思い込んでいた。
今の目でしか見れなかった。
せいこさんでさえ、邪馬台国関西説をいうくらいですからね。
邪馬台国は九州。まずこれを信じませう。

鷹尾海
瀬高の下の御庄(下庄)は平安末期にかけて、山門郡鷹尾郷の開発が進み、鷹尾宮が造営され瀬高下庄の総鎮守社として下庄の中の特別行政体鷹尾別符(べっぷ)の中心となり鷹尾別府八幡宮とも称した。代々の朝廷、および鎌倉幕府の尊崇厚く、造営は朝廷および鎌倉幕府によって行われ、その都度造営奉行が任命された。往古盛大な時は、大竹、樋口、下庄より高柳、井出の上、泰仙寺、鷹尾、皿垣まで残らず神領で樋口宮の地は鷹尾宮造営までの神霊を安置した仮宮でもあった。鷹尾宮は瀬高下庄の西部鎮守で樋口宮は東の鎮守であったろう。
建久2年(1191)には鷹尾別府という役所が置かれ、この地方を治めるとともに、矢部川を上下する商船に対して課税していた。有明海も鷹尾海と称して沖合いの方まで神領とされていた。
   ↓

>もりたけさんは九州には来てないとおもうけど

雁と燕の同時観察は、想像でなく実体験だと思う。こんな暗号、頭じゃ作れない。
他にも守武千句には、佐賀平野と筑後平野を生息地とするカササギが詠まれている。

有明の月はいかにもひらくして
かうやひじりのきたるかささぎ

かさ鷺や今日久かたの雨の川
はし吹わたす秋かぜもがな

これもカササギのことだと思う。本州の人は白い烏かと錯覚する鳥ゆえ。

あかつきの明星かすみもれいでて
しろきからすが飛といふ人

そして、守武と豊後の大友家臣たちとの接点がこれ。

涼しとやぶんごの国にくだるらん
わづらいならぬたびは夏なり

雁が音やあつきをさしてかへるらん
はげたる太刀のつばめ鳴ころ

のひとつ前の句はこれです。

今日にあふ子日の松けかすかにて
きらりとみゆる春の夕ぐれ

子日松のほかに松を詠んだのにこんなのがありました。

松に咲藤くぢらとやよりぬらん
なみにいるかはやすむこころか

鷹尾神社の境内に「牛の宮」というのがあります。今年は丑年なので扉が開けられていました。藤原氏の守護神だそうです。かつて九州に赴任した藤原氏が、この神社の境内に守護神として祭り、境内の松に藤がまつわり咲き、あまりにもみごとだったので藤原の姓を「松藤」に改名したと説明看板にありました。ここいらには松藤姓が多い。

七支刀で斬り込む

明治時代に編纂された百科事典、古事類苑(こじるいえん)の兵事部というところに七枝刀の項があり、そこに、次の二首が紹介してありました。いずれも古今和歌六帖(成立年代は未詳だが、貞元元年(976)から永延元年(987=兼明親王の没年)まで、または永観元年(983=源順の没年)までの間が一応の目安)から。

あふことのかたなさしたるななつこのさやかにひとのこひらるるかな
ななつこのさやのくちくちつとひつつわれをかたなにさしてゆくなり

「星兜鉢」検索でここへおいでです。どこにそんなことばがあったのだろう?とよくよくよんでみれば。
ありました、たしかに。
参考:
石上神宮の重要文化財の一部。
色々威腹巻(いろいろおどしはらまき)-「腹巻」は甲冑の一種。
朱札紅糸素懸威鉄腹巻(しゅざねくれないいとすかけおどしかなはらまき)
黒塗練革星兜鉢(くろぬりねりかわほしかぶとばち)

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