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2009年1月 3日 (土)

八女戦国百首和歌「夏日侍」全99首

豊饒美濃守源鑑述奉納百首和歌

         第一次解読  松崎英一(故人)
         第二次解読   姫野恭子
         協力      東 明雅(故人)
          〃       前田 亜弥
 

                                         

 夏日待   

          今伊勢寶前同
                    詠百首和哥 
          美濃守源鑑述

一    立春

君が代のためしにすめる千年川
かはらぬたねに春や立つらむ

      子日        鑑教

さゝれ石の庭に小松を引き植へて
苔のむすまで友とこそ見め

三    霞         鑑實 

朝夕に霞たなびく小松原
きみがちとせの春ぞ久しき

四    鶯        鎮時

春立は谷のつらゝもうぐひすの
こゑうちとけて軒ぞながるゝ

五    若菜       鑑秀

わかなゆへとしとし*分てくるす野に
おほくのはるを我もつミけり

六    殘雪       鑑實

をそくとく消るや野辺の白雪の
跡まで見ゆる草のしたもえ 

七     梅        覚元

心ある友としミばや難波津の
花もさかりの香に匂ふころ

八    柳        弘俊

夜るの雨の晴てやなびく春柳の
露の玉ちるあさ明の庭

九    蕨        孫七

もえわたる野辺のさわらび影は見ねど
あたりの草ハけぶり合けり

十    桜        鑑述

さくら花けふより千ゝの色はへて
いく春までかさかへさかへむ

十一  春駒       嵐竹

つながでも放れぞやらぬ春駒の
野をわかくさや綱手なからむ

十二  帰鳫(帰雁)      鑑冨

見るうちもたちぬかずとや天津雁
雲間にきえて立かへるらん

十三    呼子鳥     鑑教

春の日もよぶこ鳥ゆへくれはとり
あやしきまでにまよひこし山

十四    苗代      鎮續

言葉の花の種まで桜田の
苗代水にまかせてやミむ

十五    菫       鑑栄

むらさきのゆかりにさける菫草
野をなつかしミくらすけふかな

十六    蛙       牧也

雨はるゝ田面の原のゆふぐれを
なくや蛙のこころなるらむ

十七    藤       宗右

岩に生ふる松にかゝれる藤なみも
をのれくだけて春ぞ暮けり

十八    款冬(山吹)   鑑栄

足曳の山吹さきてたそかれの
春をのこせる色にこそあれ

十九    三月盡      孫七

伊勢のうミや波よるもくさかきためて
くらす神代の春はいく春

二十  更衣     鑑實

たちきつる春の袂のおしければ
ぬぎかへがたき夏ころもかな

二十一   卯花   鑑述

曇なき月のひかりや卯花の
かきほあらたにかくるしらゆふ

二十二   葵     鑑教

詠(ながめ)よとおもはす露やかヽるらむ
おりにあふひの花の朝更

二十三   郭公(ほととぎす)  鑑述

ほとヽぎす心づくしの空音とも
まだ聞あへず夜半の一こゑ

二十四  菖蒲       覚元

えにしなき身ハあだ波の菖蒲草
たが家づとのつまとならまし

二十五  早苗       鑑述

小山田の早苗むらむら色つきて
秋にまぢかきかぜそよぐ也

二十六  照射(ともし)   鑑栄

夏山のしげみを頼む小牡鹿の
ともしさすてふいる影はいざ

二十七  五月雨      嵐竹

山川のあさせも此の五月雨に
よしあだなミはたヽじとぞおもふ

二十八  盧橘(ろきつ)   宗右

夢にとふむかしの人の袖の香や
そのまま残る軒のたち花

二十九  蛍        鑑教

うき草にやどる蛍の影もいま
なえをはなるヽゆふ暮の空

三十  蚊遣火      鑑實

まバらなる賎が伏屋のかやり火の
軒よりもるヽ夕けぶりかな

三十一 蝉    鎮時

木間より時雨こヽろになく蝉の
こゑも夕日にほすかとぞ思  *

三十二  氷室     松寿

春秋をわけぬはかりか松がさき
氷室も夏をほかにこそもれ

三十三  泉   宗房

をのずからまたこぬ秋の初かぜや
わきていづみのゆふ暮の空

三十四  荒和祓(あらにこはらひ) 鑑栄

月すゞし川瀬のなミの夕はらへ
こひをせまじと人はいふとも

三十五  立龝    嵐竹

昨日までふくとも見えぬ秋風の
簾にさはる初秋の空

三十六   七夕    弘俊

七夕のあふ夜のとこは天の戸を
をし明かたもいそがさらなん

三十七    萩     覚元

ほのめかす軒端の萩を来てみれば
露うちなびく秋の初風

三十八   女郎花    鑑述

ひとしくも手ふれてやみむ女郎花
をなじ花野の秋はあれども

三十九   薄       鑑栄

花すヽき音信わたる秋風に
あだにやなびくゆふ暮の空

四十     蘭       宗右

秋の野に主あればこそふぢはかま
色香を露のやつさざるらめ

四十一   萩    鑑述

龝の野や千草の色にひきかへて
錦をかざす萩の白露

四十二    鴈(雁)   弘智

いつもきくここちこそせで玉手箱
二見の浦をわたる雁

四十三     鹿     鑑実

さをしかの妻こふ野路の朝な/\
咲ける小萩の露こぼるらん

四十四     雰(霧)   鎮光

明更を遠方人のこころとや
雰うちはらふ袖のゆきかひ

四十五     露      鑑實

をく露は萩の上葉にとヽまらで
つれなく残る秋風のこゑ

四十六    槿(あさがほ)  嵐竹

あだなりと見しは残らじ槿は
世にはてしなき秋ごとの花

四十七    駒牽       松寿

今しばしかげを留よる望月の
駒の行辺も走り井の水

四十八    月         塩亀

あまてらす月を清水にうつしきて
猶かけまつる伊勢の神垣

四十九    擣衣(とうい)   宗房

秋といへばさびしかりけりむば玉の
夜わたる月に衣打つなり

五十     虫      鑑栄

女郎花露にやどりやかしつらん
こころのかぎりしのぶ虫の音

五十一    菊     鑑述

作りなす砌の菊のした水は
くむともつきじ万代のかげ

五十二    紅葉     頼運

玉鉾の道の山かげふきおちて
をらぬ紅葉を袖に見るかな

五十三    秋田     鑑教

種まきし難波の小田は夢なれや
をどろきあへぬ秋かぜの音

五十四    九月尽    通次

長月もけふにうつろふもみじ葉の
かぜの跡とふ友のうれしさ

五十五   初冬   鎮續

山姫や手染の色を白妙の
雲の衣にかへてたつらむ*

五十六   時雨    鑑教

むすぶてふ柴の庵のとこの上に
まなくしぐるヽ雲のよな/\

五十七   霜    鎮時

天つ星ひかりつつゆくあかつきの
空よりやがて霜やをくらむ

五十八  霰    鑑実

閨近き楢の枯葉の玉あられ
音してかへす夜半の夢かな

五十九  雪   鑑述

かきくもる雪に出で立つ朝あけや
枩に花さく岡の辺の山*

六十   千鳥   鑑教

霜さむきよるはすがらのうらなみに
なきたつちどりいづち行くらむ

六十一  氷    牧也

氷るかとかけひの水のたえ/\に
寝覚めさびしきあかつきのとこ

六十二  水鳥   鑑実

打羽ぶくこゑこそたゝね池にすむ
をし明かたの霜やさゆらむ

六十三  網代    鎮續

氷魚のよるながれも見えて田ノ上や
まもるあじろのとこはなれせぬ*

六十四  神楽     覚元

祈てふ事はおろかにあらし世に
しらゆふかけてうたふ御神楽

六十五  鷹狩    鑑栄

ふる雪に狩場の鷹の一つがひ
花をはらへる袖かとぞ見る

六十六  炭竈     鎮時

さしこもる小野の炭がま都にも
こころしられて立つけぶりかな*

六十七   埋火    宗右

さゆる月の老のおもひを埋づますは
何にかからむ夕べならまし

六十八   寒梅    廣吉

木ヽにつむ雪をはらへばはるをまつ
むめの匂ひにをどろかれけり

六十九  歳暮      鑑栄

忘めやあか井の水にとし暮て
わが身のかげをなにとくむらん*

七十   初恋     鑑述

見初つるその面影の身にそひて
わすれもやらぬおもひとぞなる

七十一  纔見恋 *  宗房

ほの見てし人に想ひをかけ初て
打いでぬ間の身をいかにせん

* 纔見恋・・わずかに見たる恋

七十二  不逢恋   鑑冨

今は我見る目も隠す言ふ甲斐も
なく/\袖のうらなみぞたつ

七十三  来不逢恋  嵐竹

とひきてもねぬときなれやくやしくて
おもひわすれじ庚申かな

七十四   度ゝ思恋   塩龜

ついにきてとはぬ仲かな花の春
もみぢの秋の空頼めして

七十五   片思     宗右

雨となり露とみだれて松の葉の
なびかぬ色にとしはへにけり

七十六   恨恋    鑑述

中々に身こそつらけれ今はたゞ
うらむるすぢをいふよしもなし

七十七  祈身恋   鑑秀

色かへぬ槇の下葉に立そひて
祈るこころも誰ゆへの身ぞ

七十八   後朝    藤次

とはぬ間を待ちならひたる夕より
わかれし今朝ぞしづ心なき

七十九   契恋    鑑述

黒かみの雪となるとも契りしは
かはりかはらじ頼むわが中

八十  暁    鑑述

あかつきの枕の夢の覚ぬるは
八こゑの鳥のつげわたる空

八十一  松   弘智

得てうへし松にならへる君が宿を
猶すみよしの神や守らぬ

八十二   竹    宗房

きみが代を久しかれとて植へをきし
たけの臺のかげ越しぞ思

八十三   苔    鑑栄

千代をかね松の下蔭苔むして
雨にいづれも色ぞまされる

八十四   猿(ましら)  覚元

秋の夜の月さへをそき山の端に
慰めとてやましらなくらむ

八十五   山     鑑實

ますらをが山分衣うちきつヽ
渡るや寒き岨の架け橋

八十六   川     鎮光

いかにせん河瀬のなみの色々に
月のさそへる船の行末

八十七   野     鑑栄

見渡せば移りにけりな春の野の
風より他に訪ふ人もなし

八十八    関     通次

せきもりの厳しく見ゆる陰ながら
行き過ぎ難き山さくらかな

八十九    橋     頼運

これも又憂世をわたる心かは
賤が深田を越ゆる柴橋

九十      海路    鑑實

うなばらや浪路はる/\旅だちて
いづくを船のとまりなるらん

九十一    旅     鎮時

明更の空にひかれて旅衣
いく野山をか越してきぬらん

九十二    離別    覚元

中々にうき旅人にともなひて
わかるヽときの袖のくやしき

九十三    山家水    述秀

すみなれて結ぶもいざや流れては
世にいづるてふ山川の水

九十四    樵夫     宗房

けふは又山路の雪を知りそめて
かはる嘆きの袖のくやしき

九十五    懐旧    宗右

古をつみてや誰もしのぶ草
しげる軒端の見しこともなき

九十六    述懐    鑑教

かへりてもおなじ憂世とおもひとる
爪木の山にいつまでをへん

九十七    夢     廣吉

待人はよもきが宿のよるの夢
さむるまくらに風ぞ声する

九十八    尺教(釈教)  宗右

岩つたふよ川の水のつふ/\と
とくをまことの御のりとぞしれ

九十九   祝言    塩亀

なべて世に神の恵みのはやくして
よろこぶ事をかさねつたへん

天文廿四年癸卯  卯月廿五日

(季刊『九州俳句』誌連載随想『暦論』と『連句誌れぎおん』誌上にて公開したものです。)

歌の前に便宜上、番号をうちましたが、原文にはありません。
かなは万葉仮名がつかわれているところが目立ちます。
適宜漢字に変えましたが、最低限にとどめました。
当然、濁点がうたれていませんでしたので、どうしても意味が通じない歌には打ちました。しかし、正直言って、これでよかったろうか。と思うものもあります。ともかく、八女の重要文化財にはちがいなく、それを分けてくださった学芸員さんのおこころに報いるためには、少々のミスには目をつぶり、思い切って公の場に資料を提出することがまず第一の課題だと思いました。

現に、百首和歌を紹介した部分だけ「暦論」をブログ上に公開したところ、一人竹橋乙四郎という奇特な人があらわれて、読み解いてみたいと目下、その周辺の郷土の歴史を洗われているところです。

ふつう、こういう史料は素人の手には渡らず、資料館や保管庫などへ入れられて、お蔵いりとなる運命です。
しかし2001年元旦、ふしぎな運命の導きでかささぎの手に落ち、ブログを通じて竹橋乙四郎という研究者の手に落ちました。
今後、ネットを通じて、さらにいろんな、天文年間を研究しているひとたち、また歴史を研究している方々、百首和歌を研究する人たち、民俗学を研究している人たち、神道や仏教を研究している人たちへと浸透してゆき、人口に膾炙する歌が生れますように、かささぎの旗は祈っております。さいごに、柳川古文書館のなさっておられます「古文書解読講座」(無料)にはたいそうおせわになりました。重ねてあつく御礼もうしあげます。

史料初出:矢野一貞『筑後将士軍談』に「天文歌人」の見出しで、鑑述と鑑教の歌のみ紹介されている。

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コメント

一つ気がかりがございます。
それは、文化財の扱いです。
もしや、私がこれを公表したことで、学芸員さんにお咎めがいきますれば、顔向けができません。
といいますのも、石橋秀野を研究していた四年間、資料の扱いをめぐって不自由を感じることがありましたものですから。
だれが悪いというのではありません。ただ、制度上、おもうように文化財を扱えないのです。
私は当時、山本健吉の著書がとても読みたかったのですが、それらは資料館の保管庫に入れられており、貸してはもらえませんでした。何度となく司書の先生にお頼み申しましたが、これは文化財ですから貸し出せません、の一点ばりで、気の毒そうなお顔をなさいました。司書の先生のせいではないのに、ほんとうにうらめしかったものです。
だれも読まない本をうやうやしく飾っていることが文化の保護なら、そんなものはいらない。とおもったことです。

死蔵されている資料をそのまま、歴史好きな人たちへ開放するようなしくみへと行政は姿勢を変更して欲しいと思います。整理する予算だけを計上して。なんとかお金のかからぬ仕組みを編み出せないだろうかと思うものです。

今日はぶらりと八女伝統工芸館に立ち寄り。「矢部川流域の文化財」(近本喜續著、平成17年)というのがあったので、ぱらぱらと立ち読み。八女天文百首も紹介してあった。
そこには鑑述は兼松城主だと明記してあった。

たとえ文化財クラスの史料であっても、閲覧はできるようなシステムが不可欠のはずです。貸し出し、持ち出しは不可であっても、事務室で閲覧、必要な箇所は書き写すことも可能。そのくらいの裁量は館長にあってしかるべきだと。でないと、かささぎどんがいうように、文化財の価値が死んでしまう。それこそ死料になってしまうでしょう。文化財を生かすも殺すも、その責任者の裁量にかかっている。それも、おかしなことではありますが。

ソレヨリ、ナニヨリ、この記事、文字がだぶって読めないっちゃけど。文字が大きすぎるんちゃいまっか?かささぎどん。

「矢部川流域の文化財」には、天文百首は、庄屋の中島家が保管していたみたいなことも書いてあった。庄屋の中島って人柱の中島だから、あらま乙の親戚筋がかかわっていたことになる。これもえにし。

ごめん パソコン末っ子に占領されていて開けない 夕方長女が博多から帰省してほんとに久しぶりに三人キョウダイ揃って嬉しい 娘は弟二人に服をプレゼントしてくれました 毎年バレンタインにはそうしてくれてる 優しい姉です 関係ないけど書き込みしました
うわぁ おつしろう 背景が解りそうだね
私の聞いた話だとあれは福岡市内のかたが所有者だというので役場の人に持ち主の住所を聴いて手紙をお出ししたことがありました しかし何の音沙汰もなく諦めてました

せぃこさん
blogの文字 こちらからだと大サイズの文字だと思うけど
携帯端末からはフツーに見えますが
時々何度やり直してもコントロールできない
文字サイズ 色 それと長文を苦労して打ち込みまして いざ保存しようとすると 後で手を入れられないややこしいスタイルになってることがある

人柱伝説
八女の山の井堰で人柱になった庄屋の中島内蔵助。
物語のエッセンスは次の通り。
① 1642年、水神さまが庄屋の夢枕に立ち、人柱を立てるよう示唆。
② 明朝、草履の緒が左結びになっている者が人柱になれとのお告げだと庄屋が言う。
③ 翌朝、庄屋ひとりが左結びの緒の草履を履いていた。
④ 庄屋の犠牲で工事が成功した。

さて、上の数行を書くため、「中島」「庄屋」「人柱」というキーワードで検索したら、別の人柱伝説がヒットした。なんと、伊勢市に伝わる人柱伝承。
伊勢市の「中島」という地名のところに伝わる、庄屋の松井孫右衛門の物語。
① 1633年、宮川の怒りを治めるため、人柱を立てようということになる。
② 着物が赤い糸で縫ってある人を人柱にすると庄屋が決める。
③ 庄屋ひとりが赤い糸で縫った着物を着てきた。
④ 庄屋の犠牲で宮川堤は決壊しなくなった。

時代もストーリーもあまりにも似ている。どちらも年代記録が明確で、史実であると思われる。
伊勢と八女のシンクロ。なぜだろう。
気になり、他の地域の人柱伝説もざっと調べてみた。

伊勢の楠原というところの伝説。
① 昔々、池の土手の決壊に悩み、人柱を立てようということになる。
② 袴の前と後を間違えているものを人柱にすると決める。
③ 庄屋が、はかまを前後反対にはいてきた。
④ 庄屋「勘弁してくれ! わしの家に奉公に来ているサヨという娘を身代わりにする」
⑤ 工事現場に弁当を届けるようサヨに命じ、後をつけてきた庄屋は、サヨの背中を押して人柱を埋める穴につき落とす。
⑥ サヨの犠牲で土手は決壊しなくなった。
⑦ ある日、サヨのお母さんが、サヨを尋ねてきた。
「庄屋さん。サヨは、元気でおりますか?。会わせて下さいな。」
「サヨなどしらん。どこかへ行ってしもた。帰れ、帰れ。」
⑧ 村に祟りが頻発する。

鳥取県名和町の乙女ヶ池の伝説
① 川の堤防修復工事に人柱を立てようということになる。
② 工事責任者の庄屋は、自家の下女である乙女を人柱に立てようと考え、工事現場に弁当を持ってくるよう命じる。
③ 乙女は弁当を持って堤防まで来て、落とし穴を踏んで落下し、人柱となる。
④ 堤防は修復できたが、後に決壊し、田地は池となり、乙女ヶ池と呼ばれるようになった。

福岡県宮田町の伝説。
① 八木山川の土手の築堤工事。人柱を立てようということになる。
② 袴のすそを横じまの布でふせている者を人柱にすると決める。
③ 工事責任者の頭山某はすそを横じまの布でふせた袴を着用。
④ 頭山某の犠牲で工事完了。

丹後今福の伝説。
① 1670年、海の神様の怒りを鎮めるため、人柱を立てようということになる。
② 工事監督の田代近松は、袴に横ぶせのある人を人柱にすると決める。
③ 田代ひとり、横ぶせのある袴をはいていた。
④ 田代の犠牲で工事は見事に完成した。

大分県中津市のお鶴・市太郎の伝説
① 井堰工事が順調に進まないので、土地の地頭七人の一人湯屋弾正が、「人柱を立てよう」と提案する。
② 地頭七人が各自の袴を川に流し、真っ先に沈んだ袴の主を人柱にしよう、と取り決める。
③ 七人が袴を投ずると、湯屋弾正の袴が最初に沈んだ。彼は、自分の袴に石を入れておいた。
④ しかし、弾正の家来の娘お鶴と彼女の子市太郎が、弾正の代わりに人柱になった。

いまパソコン画面を見て入力してますが、文字が大で濃いのでコンタクト入れていなくてもはっきり見えます。でも、パソコンによってはだぶってみえるのですか。大だけにして濃いを普通にもどしてみましょうか。本文の設定がコメント欄にまで響いてるようです。
おつしろう、ありがとう。まとめてくれたので、すっきり全国の人柱伝説が一望できる。パターンが決まってる。言いだしっぺが人柱になる。またはその部下。ほんとうはどうだったのかはその場にいたわけではないからわからないけど、伝説は「こうあってほしい」という物語だから、強制的に人柱にされたと思うのが一番自然かもしれない。でもそれだと夢見がよくないし人聞きもわるく祟る(むいしきがたたる)ので、あんしんの保険みたいな自己犠牲のはなしへと転換した。・・・と根性悪のかささぎ説。
それで、一つ気になるのが、「左結び」に意味があるか。という点です。
どこかで、なにかで、この「左結び」を見たんだけど、そのときメモしとけばよかった、わすれてしもうた。なにかがひっかかる。なぜ右結びじゃなく左結びか。

この文章をなんとか普通のサイズにしようとしたのですが、どうもおかしなことになってる。
まず、この頁を探して開く。すると、八こゑの鳥の告げわたる空・・という歌がものすごく大きなフォントででてきます。あれへんだなあと思ってると、つぎに、HTMLが複雑すぎるかフォーマットが不正です。表示できません。という案内が出るのです。
「確認」頁で確認すると、普通に入力できてるので、これでいいと思ってました。でも、せいこさんの指摘では、字が大きく重なり合っているみたい。
やり直すとしたら、一から打ち込まなければならない。大変時間と労力がかかりますが、それをきちんとしなければいけないみたい。

管理人殿
姫野様

偶然、 当ブログに出会いました。

私は、中島内藏助満幹に所縁のある者で、
現在、記載の源鑑述奉納百首和歌を保存しています。
 亡き父などに聞いている話、別途お話致します。ブログでは差障りがあるので、メール下さい。

中島様。
こんばんは。いまかえりました。
ご連絡いただきまして、ありがとうございます。
よかった、とにかくこの和歌を世に出したい、そうせねばならぬと思いつつも、一歩を踏み出せなかったのは、背景を何も存じ上げないからでした。いくらなんでも世にだすためには、知っているべきことがある。ところが何もわからない。少しはご存知だったかたも亡くなってしまい、途方にくれていました。もしやあなたさまは、中島くらのすけの血筋のかたでいらっしゃいますか。・・メールにします。

ひさしぶりにここをひらきました。
とても字が大きくてびっくりしますね。
でもコントロールがきかなかったんですよね。
実は、歌仙形式のおもて六句になぜ神祇釈教などの宗教や述懐や懐旧、恋、無常などがいけないのかを今日はずっと考えていました。そのヒントというか理由は、おもてぶりにはふさわしくない。おだやかに「序」の運びをするため。というのはもっともらしい理由になりますけど、それ以外にも、かささぎはこういうことがあるんじゃないかな。と思ったのは、たとえば、古い和歌集などがあるとする。それらは四季の歌から始まり、雑にいって、無常や懐旧、述懐などを経て釈教、神祇などでおわります。順番がきまっている。それを踏襲している部分もあるんじゃないだろうか。と。
この戦国九十九首は、こういう構成になっています。
1立春~19三月尽(以上、春歌20首)
20更衣~34荒和祓(以上、夏歌15首)
35立秋~54九月尽(以上、秋歌20首)
55初冬~69歳暮(以上、冬歌15首)
70初恋~79契恋(以上、恋歌10首)
80暁~94樵夫(以上、雑歌15首)
95懐旧96述懐97夢98釈教99祝言

 初めまして。史片吟と申します。
 一万田氏について検索していて、こちらにたどり着きました。大友氏の研究をしていこうと思っている者です。
 当史料について、いくらか質問とお願いがございますので、本日は書き込みさせていただきます。

 当史料は、おそらく大友氏について考えるに、非常に資する史料であると考えます。豊饒氏は筑後方分として長く活躍する一族でもありますし、一万田氏も大友家加判衆としての活躍の見られる人々です。
 また、一万田氏などに関する史料は少ないため、この連歌集は大友家の家臣団がどのような交流をしていたのかという点を見るにも、重要であると考えます。

 以上を踏まえたうえでまず、ご質問があります。
 まず一つに、これが翻刻された活字の報告・研究などはあるでしょうか? 歴史学・国文学どちらでもよいので、手に入る研究書・論文があれば教えていただきたく思います。
 二つに、自治体や大学は当史料の存在を知っているのでしょうか? 自治体での史料調査を受けているのか、お教え願いたく思います。またその報告などがあれば、それについてもお教えいただきたいです。

 以上の質問の上で、いくつかお願いもございます。
 もし、未だここでのみしか公開されていないものなのであれば、写真を頂くことはできるでしょうか。私も素人でしかないのですが、このような貴重な史料を拝見いたしたく思います。

 また、過度のお節介であるとは存じますが、できれば歴史学の査読雑誌へ投稿するか、あるいは大学・自治体などで調査を受け、信頼ある査読雑誌へ報告していただければ幸いです。
 現状ではこの史料を歴史研究上で、一次史料と扱うことができません。勿論、この史料を持っておられる方の感情優先ではございますが、もし歴史学に資したいとお考えであるならば、信頼できる形で史料の存在を広めて頂ければよいかと思います。

 以上、非礼と感じられたならば誠に申し訳ございません。お気持ちを害するつもりはないことをご理解いただければ恐縮であります。
 当史料は前述のように、本当に貴重なものですので、大切になさってください。

 それでは、長文失礼いたしました。

ご連絡いただきまして、ありがとうございます。
あとで、整理してみます。
いまから仕事なので、帰ってからになりますが。
失礼して、すみません。

史片吟さん。しぺんぎんさん。
だれも訪ねてくれないので、どうしたものかな。と。
こんなに面白くて資料価値が高いものを、筑後の歴史マニアや文藝好きがだれも調べようともしないなんて、信じられない、なんでだろう、と思っていました。そうですか、それは一級史料扱いをしてもらうには、それなりの手続きを踏まねばならない、ということなのですね。

誰の史料なのかという問いには、答えられますが、研究論文を書いている研究者がいますか、という問いには、いまのところ、だれもいないのではないかと思います。少なくとも、わたしはこれまでにそういう文章にであったことはありません。このブログで竹橋乙四郎という畑違いの学者があちこちを駆け回って調べてくださった、それが初めての研究者でしたね。

この歌の冒頭で名前を記したお方が研究をされていたようなのですが、事故に遭われて亡くなったとのことで、その方の歌のよみの不明空白部分をかささぎが埋めたものがこれです。
そのときはまるで何もおもわなかったのですけど、いまにして思えば、かささぎが連句をやっていたこと、れぎおんに所属していたこと、(れぎおんとは連句誌です)、そこで東めいが先生という高名な俳諧学者を知ったこと、八女の研究者の死には間に合わなかったけれど、東明雅先生の死には間に合った、生きておられるときに、この歌の原本コピーを送って、自分ではどうしてもわからないいくつかを教えてもらったこと、それから、柳川古文書館の学芸員さん白川さんだったっけな、にも「あらにこのはらへ」という季語をよみといてもらったことなど、あのときは、すべてが私が解読するために協力してくれてるかんじで、ふしぎでした。
めいが先生はなくなられる前の年だったんじゃないかとおもう。なんどもお葉書やお手紙をくださいました。縁というものであったのでしょうか。熊本の出身の学者先生で、柏市にお住まいでした。

八女市役所には歌のよみが全部解読できたとき、コピーをして届けましたが、どうも、これが黙殺でありましたよ。
ふつうなら腹がたつのでしょうが、以前、石橋秀野の研究をしていたころにも似たような扱いをうけたことがたびたびあったので、わが身の不徳のいたすところとあきらめています。
しかし、この資料が埋もれるのは歴史の真実が埋もれるということだから、それはなんとしても避けたい。
所有者の中島先生も信頼を絵にかいたようなすばらしい方です。なつかしいかたです。あとで、この資料の扱いかたを持ち主である先生に相談してみたいと思います。
史さんのコメントで、このような文化財にスポットらライトがあたらないのは、それ相応の扱いをしてこなかったからなのだな。という理由がやっと見えました。学者、それも歴史学、文学の両方からの解読と理解と文献的位置づけがまず必要であるということなのですね。

おしえてくださって、ありがとうございました。
あつく御礼もうしあげます。

 かささぎさま
 素早いご返信を有難うございます。
 どうやら、まだどこかの研究機関からの報告という形では発表されておられないとのこと。このような史料が埋もれているのは残念であります。
 しかし、あちこちで協力しておられる方がおられるということは、少なからずその存在自体は情報が伝わっているということかもしれません。
 この史料の全訳を市役所に送られた、ということでありますが、残念ながら、おそらく市役所ではその価値判断がつかなかったため黙殺されたのではないか、と思います。市役所というところは忙しいところでありますし、無礼を承知で申し上げますが、信憑性のわからぬ史料にまで手が回らなかったのかと。

 この史料の存在については、むしろ大学か博物館の方に知らせてみてはいかがでしょうか。九州大学や大分大学には大友氏の研究者がおられます。また、大分県先哲史料館や柳川公文書館は、大友氏の史料編纂を行っているところです。これらのところに相談してみるのも一つの手ではないかと思います。そのようなところであれば、史料の価値判断することもできると思いますので。

 歴史史料として、この本が扱えるようになるには、翻刻が歴史学の査読雑誌の上で報告されることもありますが、原本が確認できることも重要と考えます。写真の形でも、文書が確認できれば翻刻の信頼性を研究者が確認できますので。
 そのような点からも、サイト上に写真を上げるだけでも、だいぶ変わってくるように思います。

 それでは、私もこのような貴重な史料が、大友氏に関する研究に用いられることを祈っております。
 こちらこそご対応ありがとうございました。

橋爪美濃守鑑実(あきざね)の末裔だと勝手に思い込んでいる乙四郎です。
天文20年:ザビエルと義鎮の邂逅 →大友家臣間の宗教対立
天文22年:一萬田鑑相の謀反
弘治2年(天文24年の翌年):小原鑑元の謀反
と、大友義鎮の足元がぐらぐらしているさなかの天文24年に大友勢が集まって「君が代」に始まる歌を詠んでいます。
「くるす野」がキリスト教と無関係に詠まれたものかも引っかかるものがあります。
重要な歴史資料です。

かささぎはほんとに24人いたのかうたがっています。知りたいことは山ほどあります。形式についても知りたい、こんなふうに99でおわっている百首和歌がほかにもあったのかあるのか。
キリスト教のひろがりはかんがえている以上にあったのではとおもえる。

・・・ということや、そのほかにもいろいろと多くの新事実が見えるようになるかもしれませんね。おなじ時代の似たような歌たちを集めている学者さんたちに提供すれば。


ということはわかりますが、かささぎ、このところ仕事が多忙で動くことができずにいます。
ネットでぼちぼちやっていく以外の方法をとれない。
持ち主の中島先生に資料の写真を出してもいいのかだけは確認いたします。もちぬしのおもいをおききしたく。
わたしもそうして赤崎さんに写しをわけてもらったものでした。赤崎さんは文化財課におられましたがいまはこのおかたもおられない。
かんがえたら、なんとふしぎなことでしょう。

(おおっともう時間だ。ではいってまいります。

今上天皇が日韓関係について言及されたことあります(平成13年)。
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。」
武寧王は人質で日本に来ていた王族の子で462年佐賀県生まれ。
磐井とは同じ時代を同じ地域で過ごしています。
武寧王の母親は倭人で、磐井の濃厚な親族であったとも。
・・・ということは、天皇家は磐井の血筋(母系)だとも言えます。
武寧王の頃の天皇家の父系は、血縁が断絶しかけたところでようやく見つけ出した遠戚の継体天皇。
武寧王の崩御は523年5月。
磐井が消息を絶ったのは、この5年後。
その3年後に継体天皇崩御し、3年間天皇空位。
武寧王の後継は聖明王で日本へ仏教を伝えた人物。
十数年後、聖明王の王子の余昌が敵に包囲された時、筑紫国造と言う者が進み出て弓を引き、囲んだ敵軍を弓で敗退させたという記録があります。
聖明王の没後、余昌の弟の王子、恵(けい)が日本に派遣され、その帰国時(556年)に護衛のため、筑紫火君(つくしのひのきみ:筑紫君の子)に勇士一千を率いさせて海路の拠点を守らせたという百済本記の引用も日本書紀にあります。
磐井の乱の後も、少なくとも四半世紀は、磐井一族は武寧王のもとで勢力を保っていたようです。
陵墓で発掘された誌石には「六十二歳癸卯年五月崩御」とあります。
癸卯年五月!!
千代(1020年)後の癸卯年に武寧王の追悼歌会が企画されましたが、実現がのびのびになって12年遅れてしまいました。
磐井の君の血を引く武寧王よ、
君が代のためしにすめる千年川
かはらぬたねに春や立つらむ

  ↑
乙四郎です。
天文廿四年癸卯の謎解き仮説。

武寧王の崩御は癸卯(523)年5月7日とのこと。
この頃の5月7日がユリウス暦の何月何日なのかはわかりませんが、天文年間の4月はユリウス暦の5月よりなので、天文廿四年の卯月廿五日が武寧王の崩御祈念日にあたる可能性はあります。ごく近いのは間違いない。
「癸卯卯月廿五日」と記載することに意味があり、それに実際の奉納年である天文24年を冠したのでは。

>「癸卯卯月廿五日」と記載することに意味があり、それに実際の奉納年である天文24年を冠したのでは。

賛成。
これだけは私もそう思います。
きぼうねん、うつきにじふごにち。
この日付に深い意味があった。
だってさ、みたらわかるけど、一文字の書き損じもない完璧な書の和歌なんです。まちがうはずない。

ついに謎が解けました。

武寧王の命日、継体17年5月7日は、グレゴリオ暦(現在の暦)に換算すると、西暦523年6月7日でした。
そして・・・
天文年間の癸卯の年、天文12年卯月25日は、グレゴリオ暦では1543年6月7日でした。
武寧王の千年命日、その日です!!

(発句)君が代のためしにすめる「千年」川
(三句)きみが「ちとせ」の春ぞ久しき

99首の中の「軒」の字が5回も登場するのも気になってましたが、車編に「千」です。千代だの千草だの千ゝだのと、この99首は「千」だらけ。
99首目のトリの祝言を詠んだ塩亀の次の句は意味深です。

四十八 月 塩亀
あまてらす月を清水にうつしきて
猶かけまつる伊勢の神垣

   ↑
  乙四郎
暦変換ツール
   ↓

絶句。
うそだろうと思って、上の空でよんでいました。
ほんとうなんだね。
すごいなあ。
乙四郎。きみはあと十キロやせたらかなりいいおとこだっておもうけど(こらこら)、そうじゃなくても、すごいよ。
なんだか、まだ、ほんとうかなあ。って気持ちだけど、1600年代江戸時代の例の高良山十景歌をちょっとかじったときに、どうも今のわたしたちとは異なるなにかを当時のひとたちは常識としてもっていたような気がしたんだよね。
いまは完全にうしなわれてしまった信仰のようなもの。
それとなんどもくどくどかいてしまうんだけど、かささぎはふしぎでしようがない、太宰府になぜ大黒天立像がまつられているのか。
あれはどうみても、さまよえる神さんで苦悩している。
いわいかもしれないから。

山下整子ブログに書き込んできました。
どうかのぞいてくださんせ。
かささぎの、連句的。

天文百首の時代とキリスト教について。
大刀洗町に今村天主堂という教会があります。
この地域に200戸ほどの「隠れキリシタン」が潜伏していたことが幕末に「発見」されています。筑後地方に、いつごろキリスト教が入ってきたのでしょうか。
今村天主堂の案内板には「1560年代には筑後地方での代表的なキリシタン集団が生まれたと伝えられている。」と書いてあるのだそうです。
天文18年 8月 ザビエル神父、鹿児島に上陸
天文19年10月 ザビエル神父、博多立ち寄り。博多の名を書簡でヨーロッパに紹介。
天文20年 9月 大友宗麟、ザビエル神父を引見。
天文20年11月 ザビエル神父、豊後より離日。
天文21年 6月 大友宗麟の側近、一万田左馬助が筑後の高橋家を継ぎ高橋鑑種となる。
筑後今村には彼の家中の誰かによってキリスト教の種が蒔かれたと推測される。(福岡キリスト教年表より)
天文百首の時代の筑後地方の大友系の武将たちは、キリスト教に非常に近い立ち位置にいたようです。

天文後(16世紀後半)の八女とキリスト教(↓)

おおごもりのやせ仏。
みてきましたか。
私は本を読んで見に行った、なるほどでした。
キリストにもガンジーにもみえた。
ところで、筑紫広門。
夢庵と号して晩年は歌を詠んでいる。
墓がどこかを知りたい。
できるなら茶畑の中にあってほしいものだ。
どこかわからないようですね。
検索できない。

石橋秀野、山本健吉を読み解くキーワードの一つに、キリスト教があるとかささぎはひそかに思う。
秀野ノートに書いたんですが、

裸子をひとり得しのみ礼拝す   秀野

ミッション系を経た者にしかよめないとわたしはおもう。
れぎおんに書いたんだったかも。
礼拝をらいはいとよむか、れいはいとよむか。
礼拝をらいはいとよめば仏法くさく、れいはいとよめばキリ教くさくなります。
そして遠藤周作はこういう意味のことを書いていたと記憶する。
イエスをひとたび経たものは、けっして彼を捨て去ることはできない。

第二次秀野ブームで、後藤みな子さんが登場されたのを知り、検索してみましたら、活水を出ておられるんですよね。ミッションです。なるほどとおもいました。秀野さんが小学生のころ通ったウィルミナ女学院、もっと詳しく知りたい。日本のミッションスクールについて。
かささぎが思うに、ひとことでいって、たねはまいたとおもいます。

というふうに、八女戦国百首和歌は、さまざまなよみの広がりをあたえてくれる、貴重な史料です。

杉山のおんじい、わたしのことがお嫌いですか。
わたしは卒業しましたよ。
あなたがとっても苦手でした。受話器を五メートル離しても、がんがんひびくお声でまくしたてられたことが何度あったでしょう。

でも、もうすんだことです。
みよ。
泥棒かささぎはすべてを新しくする。笑

ここ。杉山おんじいの書かれた後藤みな子さんご紹介。

天文より少し後の事件になりますが、住吉大明神(大分市住吉町)が破却(社屋、玉躰の破壊と焼却)されたという史実があります。キリスト教に傾倒していた宗麟の命とも。
長崎でもキリシタン大名によって住吉神社が破却されています。
キリスト教の影響を考えると、次の一首がとても気になります。

八十一  松   弘智
得てうへし松にならへる君が宿を
猶すみよしの神や守らぬ

以前、「得てうえし」について、伝道師の常套文句のひとつであるマルコ伝11章24節『この故に汝らに告ぐ、凡て祈りて願ふ事は、すでに得たりと信ぜよ、さらば得べし。』の連想を書いたことがあります。

文法疑義

「守らぬ」=「守る」の未然形+「ぬ」
従って、「ぬ」は強調ではなく打ち消し。

住吉の神は守らないのだ

という読みでいいのでしょうか?

そうじゃないとおもう
守り抜くよ でしょう
なほ がありますし
意志でしょう

今日、鳥栖での仕事の帰路、今村天主堂へ立ち寄ってきました。煉瓦造りのおごそかな教会でした。
平野のど真ん中なので隠れる場所などない。キリシタン達は堂々と布教活動をやってたのではなかろうか。

聖母マリアと幼いキリストがエジプトへの逃避行中、追っ手のヘロデ王の兵士達に見つからないように隠れたのが松の木でした。松はキリストに隠れ場所を提供した木だとされているのだそうです。
長崎の枯松神社は暮れキリシタンを祀った神社です。

今村教会。今ウィキでみました。
鉄川与助の建築でした。
有名です。以前西日本新聞での連載をよみました。
筑後にもあったとはしりませんでした。五島に多かった。これが鉄川が建てた教会のぜんぶ。↓
あ。そうか。だけど、昔はなかったよね。

ひた走る磐井ロードや卯月の野   かささぎ

五月は皐月ではなく卯月でなければならんと思った。

乙四郎。脇をつけてください。
初夏です。旧暦卯月。
文音をまこう。途中で投げているものもありますが、それはそれとして。
ことしは卯月の二十五日は六月十四日ですが、去年では五月二十七日が卯月二十五日。ことしの卯月一日は小満で、入梅が卯月二十一日です。去年は小満が卯月十九日、入梅は皐月十日。
どうしてこんなにずれるんだろう、と思ったら、ことしは潤年で、旧暦だと潤三月、うるうやよひがあるからでした。
なぜ小満を気にするかといえば、天文二十四年卯月二十五日は小満だったから。それにどんな意味があったのかなあと思っています。
東明雅先生が「ねこみの」に書かれていた文章をさがしています。卯月の仏生会、甘茶仏、花祭りについて。この季節のなんともいえない感覚をうまく表現してありました。感に耐えないというかんじで。検索しても出てこなくなりました。世代が上の人たちの独特の季節によせる感覚は、学ばないとわからなくなっています。

今村教会は独身の時、仕事で何回かお邪魔した事がある。
古いものであるということ意外、外見も場所も良く記憶していません。

入所してある方たちが楽器演奏をして、楽しんでおられました。あんまり関係ないね。

二十九  蛍        鑑教
うき草にやどる蛍の影もいま
なえをはなるヽゆふ暮の空

昨夜、初蛍を見ました。(見に行った、が正しい)
まさか、まだいないだろうと疑いつつも、毎年5月下旬には初蛍が見れるという口承をとりあえず信じて某所へ行ってみたところ、いましたいました。

ひた走る磐井ロードや卯月の野   かささぎ
蛍の輝跡ゆふ暮の空         乙

早速有難うございます。
岩井ロード 蛍の名所 へ行かれたのですか?
ほたるのきせき ゆふくれのそら
短句で上と下にぶつんときれるのは余り歓迎されませんが
上のようなひらかなにしたら、きせきを結ふともよめますから、気になりません。軌跡 輝跡 これは乙四郎的カチカチ言語ですね。
いただきます、産休


いろいろ調べていたら、庚申侍(こうしんまち)、という用語に出会いました。
この「まち」も、「待」ではなくて「侍」ですね。

えっ
それはきづきませんでした
おしえてくれてありがとう

とってもひさしぶりでここをひらきました。
というのも、近衛家の国宝展でみたもののなかに、
「ハルヒマチ」があったから。春日侍と書かれている和歌です。
すぐこのナツヒマチを連想しました。東明雅先生から学ばなければ、夏日サムライってなんだろうとずっと思っていただろう。

ここについたコメントを懐かしく読み返した。
いくつか。
中島先生。
胸がいたむ。
庄屋さんの生家で上がり框に腰を下ろして、まるで見てきたように熱心に中島内蔵助のことを説明してくださった日。
生涯一回きりの出会い。

また、今村教会のこと。
こんなことを書いている。だれかとおもえば、自分が。
今村教会。今ウィキでみました。
鉄川与助の建築でした。
有名です。以前西日本新聞での連載をよみました。
筑後にもあったとはしりませんでした。五島に多かった。これが鉄川が建てた教会のぜんぶ。↓
あ。そうか。だけど、昔はなかったよね。

投稿: かささぎ | 2012年5月27日 (日) 18時06分

こないだの九州国立博物館で、さいごに常設展をみたのですが、ちいさな動画を一つ。それは「五島の教会群」でした。鉄川与助の手によるものです。
記憶のなかでは、たしか、ドロ神父の指導のもと、というのがくっついてたように思うのですが。

この人がド・ロ神父です。☟

古文書の崩し字、あなたも読めます 画像から似た字検索
(朝日新聞デジタル3月27日)
 読めない崩し字を解読します――。漢字の画像を入力すると、木簡や古文書の中からよく似た字を探し出してくれるシステムの運用が25日、始まった。奈良文化財研究所と東京大史料編纂所が共同で開発。そうしたシステムは初めてで、研究者だけでなく、一般の人もインターネットで無料活用できる。
http://mojizo.nabunken.go.jp/
両機関はこれまで、漢字入力によって木簡や古文書の文字を検索できる、二つのデータベース(DB)を共同で運用してきた。
今回、それらのDBを援用。知りたい漢字1文字をデジタルカメラで写すなどして画像ファイルにし、ホームページ(HP)の所定欄に入れると、似た漢字の画像と出典、楷書体の漢字が表示される仕組みだ。
収録しているのは、主に奈良時代の木簡の約650字(画像数5166)と、奈良~江戸時代の手紙や記録、書物などの約5800字(同2万4296)。代表的な漢字を選んだという。
「似ている度合い」を機械的に判断するため、人の目では似ているとは見えない字が示され、判読につながる可能性があるという。例えば、平城京にウリを届けた内容の木簡にあった「丁」に続く文字は長らく判読できなかったが、このシステムを使うと「仕」が示され、雑役を担う「仕丁」の意味らしいとわかったという。
編纂所の井上聡・助教は「古文書の読解に取り組む方々から問い合わせを頂くこともあるが、なかなか応じきれなかった。最先端の研究から趣味まで、広く役立つと思う」と話す。

「百首和歌」なのに九十九首しかない例をいくつか見つけました。
浲菴和尚「詠百首和歌」
春20首、夏14首、秋20首、冬15首、恋15首、雑15首の99首を収める。
後水尾院「仙洞御着到百首」寛永14年(1637)5月14日
「春」「夏」「秋」「冬」「恋」「雑」の99首を収める。
明智光秀「愛宕百韻」
初折の表に八句、裏に十四句、二折の表と裏と三折の表に十四句、三折の裏に十三句、名残折の表に十四句、裏に八句の九十九韻。

ありがとうございまする。

あのう、星野源流さんブログの、よめない古文書、も、そうなさってはいかがでしょう。きっとよめますとも。これは気合だっ!!

ひとつ、よめた。汚す、という文字と楮(こうぞ)の文字。末尾でのあいさつの辞だとおもう。これ、みて、ちょしゃ、とか、ちょ、っていうときの著は、楮からきたのか、とはっとした。紙は神だったんだね。(なんのはなしだ、とおもわれるでしょうか。)すみません、かきにげします。

雁の数渡りて空に水尾もなし  森澄雄

十二  帰鳫(帰雁)  鑑冨

見るうちもたちぬかずとや天津雁
雲間にきえて立かへるらん


数のあつかい。

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