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2009年1月20日 (火)

久留米の記憶

久留米の記憶

      ロイリーあけぼのこと呂伊利記す

取りあえず?投稿者名を「呂伊利」としておきませう。
急に思い出した!
ロイリーは一時期「ニュー東映」系(東映の現代劇もの)の映画を上映していた。
で、さくらさん、大勝館の裏は映画館が2件並んでおり、久留米荘や田園あたりもふくめて「有楽町」と言ってました(私の父母や祖父母は「おぜき町」と言っており、正月父に訊いたら、「おぜき」という大地主?家主?の土地だったらしいです)。

「新世界」は大勝館裏ではなく、正面の大通りの向かい側から入っていくいくつかの路地です。「広又材木店」は小学校の頃、勝手に入って同級生と遊んだ覚えがあります。またボーリング場は、i池町川沿いにあった光華楼がやっていたところでしょう。
私は昭和46年3月、高校の卒業式の後、初めてここでボーリングを体験しました。
じいさんばあさんの世間話でよかじゃなかですか。

seikoさん、そん「木下」は、やはり私の高校時代からの腐れ縁的友人です。
今はワケありで糟屋郡に住んでます。私の父の出身地は広川であることしか知りません。
尋常小学校の頃両親とも亡くし、一時期現井筒屋の地にあった長屋?に住んで日吉小にも通ったことあるらしい。今でも広川小同窓生とのつき合いがあるみたいで、こないだ同窓生名簿(大正1926年4月~昭和2年3月生まれ)を見せてもらいました。ちなみに旧姓は大森です。
 
乙四郎さん、「どんどら」という地名を初めて知りました。
とにかく久留米市内以外はあまりわからないけど八女、その他久留米旧市内郊外(失礼!)のこと、いろいろ教えて下さい。

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コメント

光華楼のボーリングじょうは、私もいったことがあります。上の姉が高校生で、男子から誘われたけど、あんまり行きたくない。あんたもついておいで・・という感じでつき合わされました。小学校の頃です。広又材木店も、覚えています。一番街が寂れていくのとは裏腹に、広又は発展し、ホテルや高級焼肉店などできております。このホテルは「じゃらんを見た。」といって予約すると割引が効くという事です。青森からのお客さまはここをいつも利用してます。長崎の妹たちも。西鉄から近いし、さんきゅっぱでとまれるということです。いえ、ホテルの回し者ではありません。

 「久留米にロイリーがあった頃」の続きです。またまたぼんさん、小頭町3丁目に「べら安」という食堂があるのは知らないでしょうか。ぼんさんが子どもの頃は別のところにあったかも知れないけど、ここの先代か先々代は西鉄ライオンズの私設応援団長で、それで経営が傾いて今の所に移ったという噂も聞きました。私は24~25歳の頃、ここの子どもの家庭教師をやってたことがあります~その子たちももう40代なんだろうな、今度久留米に帰ったら行ってみようかな。
 「すいこうえん」は「翠香苑」で、ホテル・宴会場・結婚式場など?うちの弟も、そして藤井フミヤもここで結婚式&披露宴をやってます。その頃テレビでフミヤが言ってたのと弟の場合と同じ感想~披露宴のビデオがまるで翠香苑のコマーシャル・ビデオみたいだった!
 光華楼は私の中華料理屋の原点?考えてみれば経営者翁さんも、中華料理、映画館(ロイリー・文化会堂など)、ボーリング場と多角経営してたんですね。そしてお嬢さん(と言ってももう50代後半)は久留米の「フォークソング界」で活躍していました。1970年前後の久留米フォークソング事情についてはまたいずれ。広又の今昔についても言いたいこといろいろあるけど、また今度。

はいな。

おや、夕べここに書いた記憶があるのに残ってない。送信せずに消してしまったようだ。
自分ひとりの記憶ではあやふやが多くなってきている。兄(s 20年生)姉(S23年、25年生)たちに聞いて詳しい事をリポートしてきます。

うわ。ぼん。そんなにぎょうさん兄姉がいたの。そりゃ、すごい。

く、く、く、妹と弟も一人ずついる。6人きょうだい。
私には、兄、姉、妹、弟全てそろっている。だから円いのかもしれない。

 うちの姉もS25年生まれなんで、ひょっとしたら諏訪中で同級生だったかも~でもそん頃は1学年14クラスだったらしいからその確率は…計算しきらん。私にはあとS30年生まれの弟がいます。

ろいりーさん。一学年14クラス。団塊の世代は何年生まれまでを指すのでしょうか。
私たちの小中は、3クラスでした。
一クラス、33~35人くらい。

でも、ぼん。うちの母は十人近いきょうだいの真ん中あたりですが、丸くありません。きょうだいの真ん中というのは、やさしいか、根性がうんとわるいかの両極端みたいです。

「団塊世代」とは確か堺屋太一が名付けた言葉で、ウィキペディアによると狭義では1947年から49年までの3年間に、最も広い定義としては、45年から53年までに生まれた人々だそうです。私の感覚ではうちの姉(1950年生)までが下限かな?諏訪中のもう一つ上は15クラス、私の時は12クラスでした。それが中学としては当たり前だのクラッカーと思っていた。兄弟の真ん中はやさしいか根性が悪いかの両極端、当事者の私に言わせれば、その両方を併せ持っているのでは。

ろいりさん。
宗ですね、其の通りです。パチパチパチ。
どうも書かれていることから推察しますと、ろいりさんは二歳年上でいらして、ということは広義の団塊世代に入る。では又お聞きしますよ。
その一学年14クラスや12クラスが、一気にがたっと半分くらいに減ったとき、あまった教室はどうなったでしょうね?あまった先生たちはどうなさったでしょうね?きになります。

23年生まれの姉の時は、16クラスだったように思います。29年生まれの私たちは11クラスでした。
100番以内にはいっておれば頭のいい子でした。1クラス45人ぐらいかな。広川に転校して、成績が50番ぐらい上がったけど、広川は7クラス。昔は成績、廊下に張り出してあったんだよね。出来がいいときはなんとも思わなかったけど、下がったときは嫌だったね。
プチ自慢。転校していった時、クラスの男の子の半分から年賀状が来た。一生の中で、一番持てたひとときでした。

あれ?今朝ここに投稿したと思ったけど載っとらん。改めて…諏訪中は7年間で、16クラスから11クラスまで減ったということか。でもその後はそんなに急減してないと思います。100番以内云々というのはその通りで、私の時が県立M高に100人以上合格した最後の年だった。K大学F高校だって男子だけなのに、補欠も含めて40人以上受かったし~当時は両方受かったらM高に行く人のほうが多かったんじゃなかろか。
かささぎさんの気になること~教室は急増期に特別教室潰したり改築・増築したらしく、体育館・講堂の類さえなくて、卒業式・入学式もよその会場を借りていた。減少期にはそれが元に戻ったということではないでしょうか?教員は、その頃高校進学者が急増しており、こっちのほうが待遇が良いし高校に変わった人が多かったいうのが私の推測です。ちなみに私は団塊の世代という自覚はなく、それを仰ぎ見たり真似したり、冷ややかに見たり批判したり、そんなポスト団塊世代と思ってます。

ロイリさん。ぼんとおなじことをおっしゃいましたね。かいたのに載っていない。って。
消しゴムウイルスがいるのかもしれません。
炉入り呂伊利さん。一学年17クラスで一クラス四十五人。では計算したら、えーと・・七百人近い、一学年が!!うじゃうじゃーっといるんですね。活気がありすぎる。大運動会は大大大うんどうかい。先生はどなりまくり。トイレには行列。給食はぱんと牛乳だけ。とか。そりゃないですか。
ろいりさんも、三無主義世代でしたか。でも学生運動にかろうじて間に合った世代でしょう?

諏訪中は弁当でした。兄の弁当は毎日四角いてんぷら2枚だったと思います。3年間ほとんど毎日。漬物や梅干ははいっていたかもしれませんが。それでも毎日弁当が持っていけるのは、いいほうじゃなかったかと思います。高校にいけない人もたくさんいたし。父から一度だけ『あそこに遊びに行ってはならん」といわれたことあり。大人になって意味が解りました。
当時、花畑駅からゴム3社まで、小頭町~ロータリーを経由して歩いていく人が多かった。その時間は水天宮さんのお祭の時みたいで、子供心にうれしくて、ながめていました。

弁当のところと給食のところとあったなんて不公平ね。今も私立は自腹でお昼ごはんをたべますが、公立は給食、いいよね。
ゴム三社って何の神社ですか。
ぼん。
求人案内という若者向け情報誌に求人したところ、毎週四五人の若者が面接に来ました。ところが、通過してゆくだけ。入っても長続きしません。
いつぞや、ホームレスの若い子を拾ってきて、教育してうまくいくやに思えた矢先、一ヵ月後、やっぱり行方不明になりました。投資してもだめ。根性がないから。いまごろどうしているかしら。この寒いのに。

ゴム三社ってブリジストン・日本ゴム・月星ゴムじゃろもん。

ちょいと、ゴム3社を知らんとはナンタルチア。朝日靴(日本ゴム)、月星ゴム、ブリジストンのことです。
覚えといてね。

私は昔、西鉄久留米駅一番街にあった「べら安」の孫です。
「べら安」はおじいちゃんの一代で築いた食堂です。
うどんもお蕎麦も地下で手打ち、カレーもカレー粉から作る本格的なものでした。
おじいちゃんは西鉄ライオンズ私設応援団長、久留米商業の応援団もボランティアでしていたらしいのですが、それで経営が傾いたわけではなく、後継ぎがいなくて「べら安」で働いていた人にのれん分けし、その方が今の場所で食堂をされているだと思います。
西鉄応援団長時代の久留米絣のハッピと3連覇した時のペナントを形見分けで大事に持っています。
昨年、たまたま久留米に20年ぶりに行きましたが、新幹線が通り、ずいぶん変わっていました。
櫛原町にあった昔懐かしい久留米ラーメンが恋しいです。

べら安のお孫さんですか。
ってったって、私はべら安を知らないので、ほんとうにごめんなさい。すみませぬ。
カレー粉まで手作りしてた、というのは、すごいですね。うどんやそばを手打ちにするってのは聞きますが。
二十年ぶりの久留米。新幹線が通り変わっていた。。。。そうですね、一番街二番街などの商店街が廃れ、ゆめタウンに中心が移ってしまいましたね。
櫛原に久留米ラーメンがあったんですか。
久留米ラーメンという銘柄、いま、かささぎの連想で出てくるのは、五木の棒ラーメンですが。すみませぬすみませぬ。
ぼんちゃん、何かコメントを。どなたか元久留米人の方よろしくお願いします。

べら安>>小頭町ということでしたが、3丁目には有りませんでした。4丁目にもなかったような気がしますが。ろいりさんがご存知ということは広又にあったのでしょうか。

久留米を離れて早46年たっています。記憶はあやふやです。
久留米ラーメンも屋台の経験は無く、花畑大龍か、六つ門の新世界入り口付近にあったところぐらいしか解りません。櫛原も、当時の交通手段は自転車しかなく、行ったことがないのでほとんど記憶無し。お役に立てなくてごめんなさい。
ろいりさんの登場をお待ちしましょう。

今日親和BKの帰り、金丸小信号付近でふいと左を見たら「べら安」さんの看板が目に入りました。
偶然のチャンスに感謝しながら広又からぐるっと回ってお店の前を通過してきました。 丼物とかメニューにあっておいしい雰囲気。いつか入ってみますね^^☆

ぼんさん、えめさん、コメントありがとうございました。おかげでつながりました。よかったよかった。
あと、ここに神津呂伊利先生が一文投げ入れてくだされば、めでたしめでたしなんですが。

ここまとめたら、寝ます。

かささぎさん、メールありがとさん。おかげで久々にこのブログ開きました。

通称「べら安」のおっちゃん、有名人でした。おっちゃんのお孫さん、私設応援団の活動やり過ぎて店が傾いたなんて、噂話を真に受けて書き込みをし、すみませんでした。今よりずっと立地条件のいいところから店が移転したので、あらぬ噂が流れたんでしょうね。

4年近く前の書き込みでは、今のところにある、エメさんの見たべら安のこと書いてますが、1年ぐらい前にこのお店に入りました!なんと30年以上ぶり。
私が家庭教師をしていた時の店主が、まだご夫婦とも健在で店を切り盛りし、当時小学生だった男の子が成長してご両親と一緒に働いていました。ただ残念だったのは、ご両親とも私のことを覚えてなかったこと…2年も行って、一番上の子をちゃんと県立高校に受かるまでにしたんですけどね。私が教えた上2人の子はいずれも女の子だったから、その時店にいなくて残念でした。

ぼんさんのいう「六つ門の新世界入口」にあったのは、新世界なき今でもしぶとく残っている「播陽軒」でしょう。
櫛原にあった久留米ラーメンというのは知らないですね、私の家、今は櫛原だけど昔はあけぼの商店街の近くだったので。「久留米ラーメン」という店の名前なのか、それとも一般的な意味での久留米ラーメンなのか?櫛原に名の知れたラーメン屋はなかったと思うので、おそらく後者でしょう。
「久留米ラーメン」というのは、カップ麺になったり、奈良駅前など全国数ヶ所に「虎と龍」という久留米ラーメン&博多ラーメンの店があったりして、そこそこのブランド商品になってます。
かささぎさんが言ってるのはマルタイ棒ラーメンのこと??

ろ伊利先生、返信かたじけないです。

三木市に凝っていらっしゃるとのこと、mixiの経験がないのでわからないのですが、ふぇいすぶっくみたいなのでしょうか。お元気そうで何よりです。

呂伊利さんが書かれると話が俄然具体味を帯びます。ありがとうございました。
べら安、きのうタウンページで偶然みかけました。
小頭町になっておった。
えめさんが通りかかったというのはここですね。
もっともこがしらまちがどこかわからんばってん。

と。
呂伊利先生のご実家、あの古い病院の通りひとつ隔てたところ、あそこも櫛原ですか。へえ~。
じぶんの母の姉が昔すんでいたとこの地名が櫛原、でも、ずっと西鉄電車の路線寄りでした。緯度はほぼ同じだけど。

久留米ラーメン、五木の棒ラーメンにはありませんでした。きのう、マルキョウで確認してきた。
あったのは、熊本ラーメン、鹿児島ラーメン、博多ラーメンです。そもそもなぜ五木製麺にこだわりだしたかというと、最近新製品が増えているから。まい注目ブランドなわけ。熊本の会社だろうか。
おいしくて、やすければ、確実に売れる。
逆にいえばよ、ブランド名にあぐらかいていたら、だめよね。シャープさんとかね。オリンパスさんとかね。関係ないか。
いまやラーメンは韓国ブランドのもあって、競争が激しい。
で、五木のは、あんかけ太麺やきそば。というのがあって、これがいますきです。うちのどらたちは野菜嫌いなので助かります。
また、マルタイ棒ラーメンみたいなかんじの熊本ラーメンが88円。安い。二人前の麺がわけられてない簡易包装。
マルキョウはラーメンとお菓子類が安いので、そっち買う時は行く。

久留米ラーメンって呼称は、呂伊利先生がおっしゃるごとく、全国のなかでの久留米地域でのラーメンという意味じゃなかろうか。長浜ラーメンというのも、久留米のに入るだろうか、それとも博多、わからんなあ。
久留米ラーメンという名前のお店は、210号線ぞい、合川町をもっと東にいったとこらへんにあります。テーブル席が多い。一度入ったことがある、母たちと。ちなみに、お年寄りはラーメンをあまり好みませぬ。


昔、私の実家があるところと、第一病院の間の道は、幅が今の半分ぐらいしかありませんでした。バイパス作るために道路拡張したわけですね。

ちなみに実家は、もともと祖父の弟が店開いていたところで、その人が亡くなって数年後にうちが買い取り、あけぼのから引っ越してきたわけです。

小学生の頃の私にとって櫛原というのは、今の実家あたりから急に道が狭くなり、ひょっとしたら舗装もされてなかったかも?日吉校区の田舎という感じでした。特に5丁目あたりまでいくと、なにやら不気味な空き地はあるし、蓮根堀で行き止まりだったような。でも友達いたからよく遊びに行ったな。

西鉄の櫛原駅付近は、正確に言うと東櫛原町だと思います。

ラーメン大好きですよ。 中学頃親戚が始めたので毎日遊びに行ってよばれてました。 少年マガジンとサンデーも目的だったんだけど。
スープの仕込みも覚えてるからたぶん作れるかも。

えめ男は小学は荘島、中学は牟田山、 7クラスあったらしくお正月の同窓会に参加してました。
今日は高校の同窓会へ行ってます。  なので、のんびり・・

くるめ談義となれば語らざるを得まい。
櫛原はとても思い出深いところです。
福岡銀行東町支店の横から入って行ったと思います。
櫛原はいつも夜の風景、暗い駅舎、駅舎といっても誰もいない木の改札口だけだったような記憶。
通りからちょこっと入った路地に古い染物やさんがあり、床の上にはいつも反物が山積みされていた。
そこのお嬢さんが可愛くてお人形さんのような顔して日本舞踊をやっていて、私のお師匠さんになってもらった。
そのお師匠さんと知り合ったのはなんとダンスホール。それも櫛原。
その櫛原にあったダンスホールの情報を求めているんだけど不明です。経営者は山田先生という人だったんだけど。

べら安さんの場所、だいたいわかりました。いつも遊びに行っていたまさこちゃんちの前でした。たぶん貸し本屋をしてあったところではないかと思います。
昭和41年ごろ引っ越したので、その後にできたのかもしれません。

櫛原の久留米ラーメン>>もしかしたら、護国神社のところの大砲ラーメンでは?あの辺は櫛原とは言わないのかな。

ダンスホールのことはまったくわかりません。

同じ櫛原でも、私のイメージする、第一病院のあたりから今のバイパスに沿ったあたりと、櫛原駅のあるあたりでは、だいぶん違いがありますね。第一病院あたりはそこそこ店舗が並んでいたし。

久留米の老舗のダンスホールといえばダイナしか知らないけど、これは櫛原からちょっと離れてますよね。通り町と明治通りが交わるあたり?

大砲ラーメンは、明治通り沿いの屋台から始まったらしく、現在の店舗はそんなに古くないし、五穀神社(五穀豊穣を祈る神社)の近くだから櫛原でもないですね。

すみません。間違えていました。
伯母が住んでいたのは、櫛原ではなくて、南薫町でした。櫛原町の東隣です。
大砲ラーメン本店は通外町とあります。マルナガアイスの近くですよね。以前ろいり先生が、護国神社にある胸像に、不適切ではないかと思えるのがひとつある、と書かれていた、その像はだれだったかな。たしかせいじかでしたね。みなあまりしらないような。・・・気になったから、みつけてきました。

そうかそうか、通外町(とうりほかまち)でしたね。

従妹が南薫小学校前に住んでいました。3号線が整備されてから、場所がどこだったのか全然わからなくなりました。

楢橋渡です。汚職事件で有罪判決を受けてます。
人それぞれ毀誉褒貶はあるだろうし、同時期に同選挙区で同じ自民党のライバルだった石井光次郎が立派な政治家だったかはさておいて、石井ではなく楢橋の胸像があるというところに、変な意図を感じますね。

それから護国神社ではなく五穀神社です。私も最初は、戦後意図的に改名したのかと思ったけど、戦前から穀物の神様を祭る神社だったのです。

ろいりさん

確かにそうでした。五穀神社。バス停に覚えあり。

ぼんちゃん。
通外町(とうりほかまち)?
ずっと、とおりそとまち、と読んでいました。

五穀神社は護国神社ではない。んですね。
どっちでもいいのかと思っていました。
呂伊利さんはやはりどこか教育者的権威が濃厚にあって、それはこのようなものの見方ひとつとってもそうで、胸像の件、なるほどねえと納得しました。石井寅次郎はないの?とらじろうじゃなかった。石井好子パパ。光次郎さんでした。評判のいい政治家だったみたいで、噂を幾人かから聞きました。

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