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2009年1月29日 (木)

連歌師5・紹巴  鶴崎裕雄

 連歌師ー政治的な、あまりにも政治的な人たち

        鶴崎裕雄

紹巴の場合

連歌師の生涯で誰が一番面白いかと聞かれたら、紹巴と答えたい。
紹巴は同じ秀吉政権と深く関わりのあった千利休に匹敵する波瀾万丈の生涯を送った。
出生は奈良興福寺の小者の息子。周桂に連歌の手ほどきを受け、周桂没後、昌休に師事した。昌休没後は昌休の子昌叱の後見を勤めた。紹巴も連歌会を通して、宗祇・宗長・宗牧といった先輩の連歌師と同じように、時の権力者に取り入った。実隆以来、二代にわたって公家文化を代表する三条西公条の許に出入りし、天文二十二年1553には妻を亡くしたばかりの公条を吉野の花見に誘い出して奈良・高野山・吉野・信貴山・天王寺へ案内する。公条の紀行『吉野詣記』の冒頭に、

 紹巴とて筑波の道に心ざし深くて、このころ都に住まひし侍りて、夜昼来訪ひかり。しかも敷島の大和の国の人にて、道たどたどしからず、吉野の花見るべきよしいざなひけり。

とある。この旅行には、一 吉野の花見、二 亡妻の供養、三 父実隆の追善、
四 太子信仰の巡礼という四つの要素が考えられる。六十七歳の老躯に鞭打っての長旅、金剛山へは山伏姿になって登った。紹巴はこの老貴紳を助けて旅したのである。

弘治年間から永禄年間の前半1555-1564、三好長慶が畿内を支配した。長慶は連歌に熱心で、あの『猿の草子』の作者が「連衆、さて誰か有べきぞ。当時の先達なれば宗養召下さばやと思へども、河内の飯盛へ下向のよし聞及間、打置くぬ」と皮肉っぽく筆を走らせる通り、河内の飯盛城を居城とする長慶の許にはまず宗牧の子宗養がいた。永禄六年1563宗養が亡くなると、紹巴が長慶の連歌に相伴した。永禄五年、長慶と宗養が両吟百韻を詠んだ。永禄七年、長慶と紹巴が両吟百韻を詠んだ。宗養を偲んだ懐旧連歌とはいうものの、永禄六年の宗養の死を挟んで連歌界の主座が宗養から紹巴に移ったことを象徴するようである。

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コメント

⚪⚪文化振興会の鶴崎裕雄検索でこちらへおいでです

この一分、おもしろいですよね。
てか、目を開かせられる。

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