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2009年1月31日 (土)

連歌師5・紹巴  鶴崎裕雄

連歌師ー政治的な、あまりにも政治的な人たち

     鶴崎裕雄

紹巴の場合ーその3

本文の前半は高野山の武力放棄により安全と仏法相続の瑞相があること、後半は秀吉が「高野の木食ではなく、木食の高野である」と応其を高く評価したことが記されているが、果たしてどこまで秀吉の言葉か信じがたい内容である。
ただし会談の時、秀吉の傍に木食応其と聖護院道澄・昌叱・紹巴がいて、末座に高野山の使節がおり、次の間に諸大名が控えるというのは、多くの出席者がいて、でたらめは書けない事実であろう。
その後も秀吉は文化人や芸能者を交渉の場や会談の席に侍らせる。
また講和の使者として派遣することもあった。

天正十五年、秀吉は九州に攻め入って薩摩の島津勢をうち破った。
薩摩の国守島津義久は頭を丸めて上洛し、しばらく京都や大坂に滞在した。
その間、連歌会が催された。
連衆は玄旨(細川幽斉)・興山上人(応其)・白(聖護院道澄)・義久・紹巴・昌叱・心前・文閑・賢家・宗波・幸侃たちである。
このうち幸侃は義久の重臣伊集院忠棟である。
この連歌、かなり政治的な色合いの濃いものであったろう。
秀吉の命を受けた応其や紹巴たちが敗軍の将を慰めたり、説得したりする。
そんな一環として連歌が行われたのではあるまいか。

文禄二年1593秀吉の後継者、関白豊臣秀次は聚楽第で公家や門跡を招いて連歌会を催す。
紹巴も昌叱とともに連衆に加わった。
二年後、秀次は謀反の嫌疑で追放され、自害する。
秀次に連座して紹巴も三井寺に蟄居を命ぜられるが、その前にもう一つ、重大な晴れの連歌会に参加している。

文禄三年三月、秀吉の母大政所の三回忌に高野山青厳寺で行われた『高野参詣百韻』である。
発句は秀吉、脇は青厳寺住持興山上人(応其)、以下、連衆は聖護院道澄・右大臣今出川晴季・常真(織田信雄)・紹巴・徳川家康・玄旨(細川幽斉)・前田利家・伊達政宗ほか、いかにも秀吉好みの錚々たる顔ぶれである。
文禄四年、紹巴は秀次に連座して近江の三井寺門前に蟄居を命ぜられる。
与えられた百石の知行地も没収された。
帰洛を許されるのは二年後の慶長二年1597。
秀吉が亡くなるのはさらに二年後の慶長四年。
帰洛後も紹巴は連歌活動を続けたが、慶長七年、七十八歳(七十九歳とも)の生涯を閉じた。

紹巴の生涯、特に晩年を見ると、塞翁が馬を思い出す。
文禄四年、秀次に連座して近江に蟄居した二年間、それまで与えられていた富も名誉も消失した。
ところが秀吉没後、豊臣政権は崩壊し、徳川氏によって江戸幕府が樹立する。
紹巴と、いつも紹巴とともにあった昌叱の子孫たちは、幕府御連歌師里村北家・里村南家として、江戸時代三百年の連歌界に君臨する。
毎年正月十一日、江戸城で行われる柳営連歌のため、京都から江戸へ旅立つ。豊かな生活を保障された御連歌師。
晩年に紹巴が憂き目を見たことは子孫たちにとって塞翁が馬となったが、残された柳営連歌の作品にはさほど文芸の香は漂っていない。
御先祖様があまりにも政治的だったことが、連歌の生命力を削ぎ取ってしまったのであろうか。

        (了)

『連歌師』 鶴崎裕雄  

  『文学』(岩波)2002・9,10月号より全文引用。

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