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2009年1月30日 (金)

連歌師5・紹巴  鶴崎裕雄

連歌師ー政治的な、あまりにも政治的な人たち

      鶴崎裕雄

紹巴の場合(その2)

この年、永禄七年、長慶が亡くなると、三好三人衆や松永久秀が覇権を競うが、永禄十一年には織田信長が入洛する。以後、紹巴は信長の家臣たち、細川藤孝(後に幽斉)や明智光秀の連歌会に名を連ねる。
天正六年1578、羽柴秀吉は西国攻めの出陣を前に紹巴宅で戦勝祈念の千句連歌を張行した。連中には秀吉・紹巴のほか、白をはじめ、紹巴が後見する昌叱や連歌師心前たちが一座した。白は近衛家出身の聖護院道澄の一字名、秀吉政権と関わりの深い門跡である。この頃、連歌会場によく紹巴宅が使われている。連歌師宅を連歌会場に使うことは連歌師の収入を増やすことになったのだろうか。

天正十年五月、本能寺の変を前にして明智光秀は有名な『愛宕百韻』を張行した。
例の「ときは今天が下しる」の発句に、土岐氏の流れを汲む光秀自身が天下を握ろうとしたといわれている。この連歌、最初の初折表八句は次の通りである。

 ときは今天が下しる五月哉  光秀(夏=五月)
 水上まさる庭の夏山      行祐(夏=夏山)
 花落つる池の流れをせきとめて 紹巴(春=花)
 風に霞を吹き送るくれ     宥源(春=霞)
 春も猶鐘のひびきや冴えぬらん 昌叱(春=春)
 かたしく袖は有明の霜     心前(冬=霜)
 うらがれになりぬる草の枕して 兼如(秋=末枯れ)
 聞きなれにたる野辺の松虫  行澄(秋=松虫)

作者名の下に季と季語を示したように、夏春冬秋と四季がすべて詠み込まれている。連歌は初折表と名残裏には八句、初折裏・二折表裏・名残折表には十四句詠むが、普通、一つの面に四季をすべて詠むことはまずない。表八句には季語のない雑の句を入れるゆとりがないので、すべて季移りという雑の句を挟まずに直接季節を変える手法を使っている。妙な百韻連歌である。この話をすると、研究仲間の一人が、やはり『愛宕百韻』には呪術的な要素があるのかといった。そんな講談調の話には乗りたくないが、『愛宕百韻』は不思議な連歌である。
紹巴はこの不思議な連歌に参加した。後日、光秀が敗死した後、紹巴は秀吉から光秀の発句について問責されたというが、七月には藤孝の主催する信長追善の懐旧百韻に出座している。

天正十二年、秀吉が仙洞御所の造営のため現地に赴いた時、紹巴が毛氈を敷き、金屏風を立て回して一盞を勧めた。『兼見卿記』同年十月四日条に、

筑州着座、公家各対座、菓子有一盞之儀、初献筑州、次徳大寺殿、其外次第不同、無正躰、次筑州発句云、

 冬なれとのとけき空のけしき哉   秀吉
 さかへん花の春をまつ比       紹巴
筑州一段褒美、依此儀百石紹巴ニ遣之、即折紙於当座遣之、天下之面目実儀也、次第三幽斉へ所望也、即云。
 あたらしき御庭に松を植そへて   玄旨 
筑州褒美、機嫌なり。

とある。紹巴が秀吉に取り入ろうとする具体例である。
秀吉から百石の知行を与えられたことに注目したい。
このように秀吉との接触を深め、紹巴は秀吉政権に参画するようになる。
天正十三年、紀州攻めの後、秀吉が高野山の使節と会見する時、紹巴はその場に立ち会うこととなった。一年後、木食応其の書いた覚書を見よう。応其は高野山側の使節として会見に臨み、以後、秀吉の知遇を得て、これまた秀吉政権に参画する人物である。

 太閤様御雑談之趣、木食記録之一札
   御座敷御人数之事
上様 
拙僧木食 昌叱 聖護院殿 紹巴
末座ニ為金剛峰寺使節衆徒両人、次の間ニ諸大名
    

御諚之意趣者、高野山之儀、二世之御願所ニ永代被召置上者、寺領等勿論不可有相違。所詮衆僧如法之行儀可為肝要。後代ニ雖為弱武士、其寺於令異見者、猶可相随。自然其砌対武具、少成其存分たてを仕候者、重而強武士出来候時、必可加退治。然者数珠のつかまてを取候事、山も安全ニして、仏法相続之瑞相也。又次ニ木食一人ニ対し高野を立をかせられ候間、高野の木食と不可存。木食が高野と可存旨、各衆僧ニ申聞之由、両度おしかへし、被成御諚候。先以、愚老悉奉存。誠日を経ても猶感涙難押。致帰山、御言葉を其のまゝ一字ももらさず一紙ニ記したてまつる。一代教主之御説法も、此外ニあるべからず。ありがたく覚え侍りける。

     木食興山上人

   (つづく。)

引用は岩波書店『文学』2002年9、10月号より。

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コメント

先ほどれぎおん64号が届きました。あけるのももどかしく一番にまことさんの追善歌仙を読みました。そらんさんの留め書きを読みました。生前のまことさんが偲ばれる、追善にふさわしい、あたたかい、いい文章でした。温度も湿度もちょうどいい。そんな留め書きであったと思います。

うん。ほんとにそうだね。
そらんさん、ごめんなさい。
一番に送らなきゃいけないのに、じつはまだ手元にあります。
本だけ送ればいいんだろうけど、なにかお礼状でも書いて・・と思ってるうちに、日がたった。
ばたばたして日を送ってます。
いまからまた久留米にいかなきゃいけない。
しかたない、本だけ、送るね。すみません。あと古賀さんや他の人たちも送りますので。ありがとうございました。本当によい歌仙ができました、ね。

 愛宕百韻を完全解読いたしましたので、ご高覧いただけると幸いです。
 明智憲三郎的世界 天下布文!
 http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai

明智さん。
ただいま、読ませていただきました。四百年間の誤解をとかれましたね。すごいことだと思います。歴史の勝者が敗者を裁く。うそにまみれたレッテルを貼る。それはいつの時代もどこにでもみられることでありますね。
コメントをつけてくださって、ありがとうございました。わたしは、なにか応援のことばを付け足せると思います。
それは、石橋秀野の随想、『明智燈籠』と、秀野と健吉との一人娘であられる山本安見子著『k氏のベレー帽』のなかの『吉良贔屓の夢』をリンクさせて、なにかかけそうな気がします。いいえ、書かなければなりません。自分の文章ではなく、引用すべきと思っています。全文引用で。それがいちばんいい方法だと思うから。

きのう行った八女の積文館書店(ツタヤとドッキングしている新しい店舗)で、このお方の本に出会いました。売れているようです。
明智憲三郎『本能寺の変 427年目の真実』

これが面白いと思います。☟

▼明智氏による連歌の謎解き部分のみ引用します。

[(1)謀反の動機
 光秀は謀反の直前に愛宕山で戦勝祈願の連歌の会を催しました。そこで詠まれた連歌が愛宕百韻です。通説では五月二十八日に催され、光秀は発句に「ときは今 あめが下しる 五月かな」と詠んだとされています。この句は「土岐氏である自分が天下を盗る五月になった」という意味で、光秀の天下盗りの野望を現していると解釈されています。戦勝祈願として詠んで愛宕神社に奉納された連歌ですので、これに光秀の謀反の心が詠み込まれていたことは確かです。
 ところが、コンピュータの論理性に負けまいとプログラムのロジックを必死に追い続けたSEの論理性からみると、この句は「あり得ない句」なのです。何故ならば、光秀が謀反を起こしたのは六月二日だからです。光秀が天下を盗りたかったのは六月であって五月ではないのです。
 この年の五月は二十九日しかありませんので六月とは二日の違いです。だから気にすることはないと四百年間、誰も疑問に思わなかったのでしょうが、プログラムのデバッグに没頭してきたSEからみると、これは100%間違いなくバグです。
 この通説となっている句は軍記物がこぞって書いて通説としてしまったものですが、最初に書いたのはやはり秀吉が書かせた『惟任退治記』です。秀吉が意図的に光秀の野望を演出した可能性が高いとみました。調べてみると1文字違いの「ときは今 あめが下なる 五月かな」と書かれた写本が伝わっていることがわかりました。詠んだ日も五月二十四日。二十四日だと六月とはかなり離れています。秀吉が意図的に句の言葉と詠んだ日付を改竄したと推理しました。
 SEとしてはこれを確かな証拠によって証明しなければなりません。愛宕百韻に参加した人物が二十八日に別の場所にいたという証拠をつかもうとしたのですがそのような記述はどの史料にも見付かりませんでした。諦めていたらふと思い付きました。「天気だ!」。「あめが下しる」でも「あめが下なる」でも雨が降っている情景を詠んでいます。したがって、「その日は愛宕山に雨が降っていなければならない!」。やはり脳内のバックグラウンド・ジョブが流れていたのです。
 調べてみると日記にその日の天気を書いた人物がいました。朝廷の公家(京都在住)、興福寺の僧侶(奈良在住)、松平家の城主(三河在住)です。これらの日記に書かれた天気を調べた結果、二十四日は雨、二十八日は晴れ。つまり、二十四日には「あめが下なる」と詠めたが、二十八日には「あめが下しる」とは詠めなかったのです。これで秀吉が四百年前に改竄して作り出した通説が覆ったわけです。
 そうすると「ときは今 あめが下なる 五月かな」という光秀の句にはどのような祈願が込められていたのかということになります。「土岐氏は今、この激しい雨にたたかれているような苦境にある五月である。しかし、月が変わって六月になればこの苦境から脱したい」。これが光秀の祈願であり、謀反の動機です。土岐氏滅亡の危機を光秀は救いたかったのです。]

明智憲三郎さんからコメントを頂いたのは三年も前でしたね。
今、八女の書店では前面で明智憲三郎著『本能寺の変 427年目の真実』を売っています。
それはそれは大河ドラマへの期待がすごい。
かささぎも買って読まねば。

と、きのう放映された官兵衛のプロファイルをみていて、思いました。
秀吉に付き従って、大内氏を討ちに行っていた官兵衛。そこへ明智謀反、信長死去の報せが。大返しと呼ばれる挙に出ますが、敵であるはずの大内氏の旗まで掲げて主君の仇討ちにはせのぼる軍団の士気の高さ。そこには何か、官兵衛にしかわからないものがあり、そこを攻略したからこそ、時代が動かせた、と、歴史学の先生が言っていた。

これまでの歴史のみかたがかわるかもしれませんね。


いずれにしろ、かささぎが今気にしているのは、おもてに四つの季節が全部揃っている、とする鶴崎先生の解説。
かたしく袖は有明の霜。
これ、霜が冬の季語だからといって、冬に分類すべきではないと思います。
「有明の霜」は有明の月の光の比喩、ほかにも、夏の霜といって夏の月光をいう季語があるとおりです。

このブログのこの部分☟を読んで、八女戦国百首もそういえば五月だったことを思い出した。

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