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2009年1月25日 (日)

再びくるす野へ 語録45 ザビエル物語  

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

    竹橋乙四郎

くるす野に十月かかりて戻り来て
縁の力か座の持つそれか (乙)

ザビエルが鹿児島に上陸したのは、1549年8月15日。
荒木田守武が没したのは1549年8月30日(天文18年8月8日)。
キリスト世界と守武との間に接点はまずない。
しかし、辞世のうたには、キリスト教の教義への皮肉があるところが面白い。

つゐに行(ゆく)道を心にこととへば
こたへやらぬやをしへなるらむ

キリスト教は「つゐに行(ゆく)道」を明確にした教え。
死者の復活と来世の生命。すべての死者は審判を受けるべく復活させられる。
信じるものには来世の生命が与えられる。

▼ ザビエル物語
勘違いしてました。ザビエルは鹿児島から大分へ向かったのではなく、平戸や山口への2年3か月の布教の後、帰国に際して大分へ向かったのだそうです。以下、Wikipediaの引用要約。

フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier 1506年4月7日 - 1552年12月2日)。
ナバラ王国のザビエル城で地方貴族の家に育つ。5人姉弟(兄2人、姉2人)の末っ子。父はナバラ王フアン3世の家臣として宰相を務めた。ナバラ王国は1515年にスペインに併合される。
1525年、パリ大学に留学。哲学を学ぶ。中年学生イグナチオの影響を受け聖職者を志す。
1534年8月15日、イグナチオらとイエズス会を発足。イエズス会は世界宣教がテーマ。
1541年、リスボンを出発。アフリカのモザンビークで秋と冬を過す。
1542年5月、目的地ゴア(インド)に到着。同地に3年滞在して宣教活動。のちマラッカに渡る。
1547年12月、マラッカで鹿児島出身のヤジロウ(アンジローとも)に出会う。
1549年4月、ゴアで洗礼を受けたヤジロウら3人の日本人と共にゴアを出発。
1549年8月15日、鹿児島(鹿児島市祇園之洲)に上陸。
1550年、平戸で宣教活動。当初、通訳のヤジロウがキリスト教の神を「大日」と訳し、「大日を信じなさい」と説いたため、仏教の一派と勘違いされ、僧侶に歓待された。
1550年11月、都へ向かう途上、山口で大内義隆に謁見。男色(同性愛)を罪とするキリスト教の教えに大内が激怒したために山口を離れる。男色が公然と行われているのにザビエルは驚いている。
1551年1月、京都に到着。京で「日本国王」に謁見し、布教の許可を得る目的。しかし、戦乱で足利幕府の権威は失墜していた。僧侶たちとの論戦は比叡山から拒絶された。天皇への拝謁には献上品が必要と知り、滞在わずか11日で失意のうちに京都を去る。
1551年3月、平戸に戻る。山口へ向かい、再び大内義隆に拝謁。珍しい文物を義隆に献上。義隆は喜んで布教の許可を与える。
1551年9月、ポルトガル船が豊後に入港したという話を聞き、豊後に向かう。同地で22歳の大友義鎮に謁見。
1551年11月、豊後の港から出港。日本人青年4人とともにゴアへ向かう。
1552年2月、ゴアに到着。
1552年4月、日本布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国にキリスト教を広めることが重要であると考え、中国入国を目指し、8月に上川島(ポルトガル船の停泊地)に到着。しかし中国への入国はできないまま、体力も衰え、精神的にも消耗した。
1552年12月2日、上川島で病没。享年46歳。
遺骸はゴアに移され、1554年に拝観が許されたが、参観者の1人の貴婦人が右足の指2個を噛み切って逃走した。2個の足の指は、彼女の死後聖堂に返され、1902年、1個がザビエル城に移された。
1614年、右腕がイエズス会総長の命令で切断され、ローマに移された。この右腕は、1949年ザビエル来朝400年記念の際、日本で展示された。

>1551年9月、ポルトガル船が豊後に入港したという話を聞き、豊後に向かう。
なぜ長崎や鹿児島でなく、大分の港なんだろう?

昨秋、国際関係論の講義のためにカンボジアと日本の関係を調べていたとき、「日本には1541年に大分に漂着したポルトガル船が、大名の大友宗麟にカンボジア産のカボチャ (現在の日本カボチャ)を贈ったのが最初と言われています。この時にカンボジアから持って来たのでカンボジアがなまってカボチャと呼ぶようになったそうです」という文章に出会い、このブログにもカボチャは1541年伝来と紹介したことを思い出した(昨年の11月4日投稿)。
ちょっと待てよ、大友宗麟は1530年生まれだから、1541年には、まだ12歳。大名になるには早すぎ。このカボチャの記述の1541年は1551年の誤りでは。
この1551年のザビエルを乗せて帰ったポルトガル船こそ、現在、我々が美味しくいただいている日本カボチャの種をカンボジアから運んできた船では。
疑問がたちまち氷解した。漂着したんだね。
このポルトガル船が豊後の港に漂着していなかったら、ザビエルと大友義鎮との接点はなかったかもしれない。
月のさそへる船の行末が日本の歴史を変えたようです。

十ヶ月前はこの展開を予想もできなかった。
これが座の力だと思う。

去年(こぞ)まではみつると花にいつの世か
もしわすれずば人のことの葉

ふしぎなことに、おつしろうの先日の花の句が、この歌と呼応していました。

五百年花の香残す言の葉に  竹橋乙四郎

  (一月堺屋での胡蝶、花句)

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コメント

再び、素朴な疑問。
なぜザビエルの右手は切り取られたのか。
「ザビエルの右手」で検索したら、
けっこう有名なハナシだったのですね。
ローマ法王に彼の死を報告するために切り取られたのであるらしい。今でも右手はミイラ化して保管されているとも、ザビエルの遺体が腐食しなかったとも。
ザビエルの右手。

このキーワード、なぜだ、妙に胸にしみる。

追伸。
マラッカのセントポール協会にあるザビエル像も右手がない。これは後年、落雷で右手が落とされたんだそうだ。これを読んでたら、背中がぞわっと。いやいや、まじで。こわっ。

こわ!
足の指も欠けてたりして・・・

質問。死亡証拠の物件提出 は 氷室の氷を運んだのでしょうか ?
未来に科学が進んで蘇生可能な世の中になったとき 必要だからかな?
死体は焼かないのだろうか?

「あの方が息絶えられました」
「そうか。では丘からおろせ」
「ご遺体はどうしましょうか」
「東方では御魂を煙とともに送ると聞くが」
「特別なお方には特別な方法で畏敬を、ということですね」
「いかにも」
・・・
かくしてあの方は、「復活」の奇蹟を演じることができなくなりましたとさ。

乙名物、ウラ取り調査報告

火葬は多くの燃料と技術と費用がかかる。あえて火葬にするには意義付けが必要。
最初に火葬された天皇は持統天皇。
お釈迦様は火葬でした。日本で最初(700年)の火葬が記録(『続日本紀』)されている人も僧侶。明治政府が明治6年に火葬禁止令を布告したが、仏教徒の反発で明治8年には廃止している。火葬は仏教文化らしい(しかし、仏教徒であっても、近世までは土葬が主流。仏教伝来以前も、6世紀後半の古墳に火葬の痕跡あり)。
仏教に近いヒンドゥー教も火葬。屋外で薪で焼かれ、川に散骨する。ネパールで見たもんねー。焼かれている遺体が悶えているようにも見えたが、気のせい、気のせい。
ユダヤ教と、それに近いキリスト教、イスラームでは、最後の審判の時の死者の復活のためにもとの体が必要と信じられたりして、日本(ほぼ100%)ほど火葬は普及していない。
なお、死体は放置すると腐る。腐敗防止のためには、腐敗菌が増殖しないよう低温を保つか、腐敗菌への酸素供給を遮断しなければならない。

やい。おつしろう。そのネパールでみたもだえてる死体、まだ生きとったんやで。なんで見殺しにしたんや。しらゆきひめのはなし、しっとるやろ。しんでもしんどらんねや、なにかの拍子にいきかえることもある。
ってことはないだろか。まんがいつ。

ザビエルがなくなったのは、12月。遺体は棺に石灰を詰めて海岸に埋蔵されたが、4ヵ月後、マラッカに移送された棺を開けたところ、奇跡的に腐食していなかったという。
寒さ、塩分、石灰。なにがさいわいしたのだろうね。腐敗菌への酸素供給の遮断。神がかりではないか、これ。

へえ。そうだったのか。せいこさん、ちゃんと調べてくれてありがとう。海岸に埋蔵されるってのは、どうよ。埋葬じゃなく?仮にってことじゃろ。前に引用したけど、正岡子規の句に、こげなんがある。中国人外交官の友が日本で客死したのを悼み詠める。戦時中の句。

早蕨や日本の土に殯(かりもがり) 子規

上五の季語、早蕨じゃなかったかもしれない。山でとれる山菜だったのはたしかだけど。たけのこやつくしではなかった。この句の雰囲気は、土葬だね。

某火葬場で働いていた知人の話を書こうと思ったけど、あまりにおどろおどろなので、書けん。

>そのネパールでみたもだえてる死体

死体はみんなみもだえる。


朝からなんでこんなハナシになったんじゃ。
ああ、いやじゃ。いやじゃ。

わかなゆへとしとし分てくるす野に
おほくのはるを我もつミけり 鑑秀
アルメイダを調べていたら、天文24年当時のイエズス会の様子がわかってきました。高さ5メートルくらいのクルス(十字架)を活動拠点に立て、遠方からよく見えるようにしていたようです。
「来栖」はキリスト教伝来以前からの京都の地名で、万葉集(さしすきの栗栖の小野の萩の花 散らむ時にし行きて手向む)にも続古今和歌集(見渡せば若菜摘むべく成にけり くるすの小野の萩の焼原)にも出てきますが、天文24年の時点で大友重臣が詠むというシチュエーションであれば、異教伝来の意を重ねたとしても不思議ではないような気がします。
「クルス野に多くの春を我も摘みけり」
我「も」は、誰に続く「も」なのか?
1020年前に海外から宗教文化をもたらした先人(武寧王→磐井)がいた?
大和王朝編纂の記紀によれば、仏教伝来は磐井が死んだ10年後に百済からですが、大陸との交流があった九州王朝には、それ以前に伝来して「多くの春」をもたらしていたに違いありません。

乙四郎、
この歌はなんか、きますね。
よんで、まっさきに心にうかんだイメージは、竹橋乙四郎が以前詠んだ句のとおりの景色だった。
くるす野に一つ筍またひとつ  乙四郎
だったっけな。
いや、どっかがちがうな。まってください。
いま確認します。

あった。
筍のひとつ耶蘇墓またひとつ  竹橋乙四郎

[いつのものか正確にはわからないが野津(大分から阿蘇へ向う現・大野市)に十四・五の十字架がある」と。伴天連のルイス・フロイスが天正十三(1585)年に耶蘇会総長に書き送った手紙であるが、他にも豊後には八十ほどのクルスが建てられていると報告している。] kasasagi↓

>高さ5メートルくらいのクルス(十字架)を活動拠点に立て、遠方からよく見えるようにしていたようです。

これら、おなじものだろうかなあ。

1553年(天文22年)には大分市に聖堂が建ち、大分市のキリシタンは700人に達したのだそうです。
湯布院にも16世紀のリシタン墓地があります。

聖堂。どんなかたちのだろう。
話題をずらしますが、お座でこんな話がでました。昔の火葬はマキでのたき木だったので、火力がいまみたいに強くなく、途中、死体を裏返していた。
火葬場の近くの池にはあまりの骨が棄てられてて、そこで泳ぐとぎしぎしと音がした。魚がたくさんいた。。。。と。
きもちのいい話ではないですが、リアルな話です。
また、山住みだった人の話では、葬儀があって埋葬(土葬)から帰ってくるときの、わらじが道端にそのまま捨てられているのが、子供心にとっても怖かったと。これは笠原出身の母も言っていました。

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