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2009年1月24日 (土)

歌の座といふ政治   乙四郎語録44

八女戦国百首和歌「夏日侍」をよむ

   竹橋乙四郎

整理整頓すると見えてくるもの。
鑑述の周辺では、1550年(天文19年)頃、武界再編が起きている。
一万田が橋爪になったり、高橋になったり。養子?

この年前後にスポットを当て、歴史年表をレビュー。

1549年(天文18)

肥前龍造寺が筑後侵略する。
肥後菊池が筑後侵略する。
荒木田守武が77歳で死去。死因は?死亡地は?
註(年譜に記載なし。「辞世の歌」あり。欄外にかささぎ引用。)
ザビエルが鹿児島に来てキリスト教を伝える。

1550年(天文19)

大友義鑑死亡。(二階崩れの変)
大友を謀反した筑後の溝口、西牟田、三井氏が大友側の田尻氏の鷹尾城を攻める。
大友義鎮は蒲池氏・田尻氏に溝口要害を攻め落とさせる。

1551年(天文20)

龍造寺隆信、肥前を逃れ蒲池氏をたより一ツ木村に隠れる。
山口の大内義隆、陶晴賢に討たれる。
義鎮は弟の義長を大内家当主として送り込む。

▼妄想的とんでも仮説:

とりあえず武界再編が一段落したところで、若き獅子たちが筑後で総決起集会をした。
アドバイサーとして第一線を隠居した老獪も招待。
時代を動かす新しい価値観を模索。
「キリスト教、というのはどうじゃろうか。薩摩から、すごい人心吸引力の宗教だという噂が聞こえてきている」
「いいかもしれん。義鎮殿に提言しよう」
「さっそく、ザビエルとやらを豊前へ招くアレンジをしましょう」
「でも、女癖の悪い義鎮殿が、はたして信心してくれるものでしょうか」
「あの方は超ドライだから、人心操縦の手段と割り切って信者を演じきることくらい、平気の平左でしょう」
「では、この地をキリスト教で治めるということで、ちゃんちゃん」
「ちょっと待て。表面的には西洋宗教の神への帰依を装っても、九州人としての誇りを忘れてはならないぞ」
「そのくらいわかってますよ。西洋の神の世なんて信じませんよ」
「そうだ、そうだ、日本国は君が代だ」
「では、心が揺らがないよう、皆、その思いを歌に込めて記録に留め置くことにしようではないか」

とんでも仮説の信憑性

ザビエルが大分で義鎮と会ったのは1551年(天文20年)。

常識的に、こんなことは偶然の出会いではあり得ず、周到なアレンジあってこそ。禅宗の信者で、それまでキリスト教というものをまったく知らない義鎮が、自主的にあやしげな宣教師を招待するなんてありえない。
またザビエルも、たまたま上陸地が鹿児島だったとして、布教ルートとして次の訪問先を大分にした理由もよくわからない。
こういうことをアレンジするのは誰か。

当然、取り巻きの家臣グループ、すなわち鑑述たちにほかならない。
八女百首メンバーには、大友家の外交事務を管掌した鑑続の弟、鎮續もいる。

1551年頃、キリスト教は大きな政治的意味を持っていた。
義鎮は、領内での布教活動を保護し、南蛮貿易を行った。
日本で初めて大砲を使ったのは義鎮。大砲には火薬の原料の硝石が要る。
“自分はキリスト教を保護する者であり毛利氏はキリスト教を弾圧する者である。これを打ち破る為に大友氏には良質の硝石を、毛利氏には硝石を輸入させないように”との手紙を出し、義鎮は宣教師に硝石の輸入を要請した。
義鎮はキリスト教に傾倒するあまりに寺社を破壊したといわれているが、破壊された寺社は選択的・限定的であり、大友に非協力的な寺社を潰し、寺社領を取り上げて家臣に与えるという政治的理由の方が大きかったとされている。
義鎮が大友領内でのキリスト教信仰を許可したため、家臣団の宗教対立が起き、1553年(天文20年)に一萬田鑑相、1556年(弘治2年)に小原鑑元が謀反を起こした(姓氏対立事件)。

まさに、八女百首の頃は、大友の家臣グループにとって、キリスト教は最もホットな話題であったに相違ない。

▼かささぎの感想:

ほへえ。おつしろうってすごいね!
ウラをきっちりとっとっとはね。
政治そのものです、座はまさに。

参照記事:

くるす野:http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_79fc.html

荒木田守武辞世三首:

つゐに行(ゆく)道を心にこととへば
こたへやらぬやをしへなるらむ

神路山こしかた行衛(ゆくへ)ながむれば
峯の松風峯の松風

去年(こぞ)まではみつると花にいつの世か
もしわすれずば人のことの葉

上記は『法楽連歌』の見返にあったものだそうです。

出典:『荒木田守武』俳祖守武翁顕彰会編・
平成11年8月8日

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コメント

くるす野に十月かかりて戻り来て
縁の力か座の持つそれか (乙)

ザビエルが鹿児島に上陸したのは、1549年8月15日。
荒木田守武が没したのは1549年8月30日(天文18年8月8日)。
キリスト世界と守武との間に接点はまずない。しかし、辞世のうたには、キリスト教の教義への皮肉があるところが面白い。

つゐに行(ゆく)道を心にこととへば
こたへやらぬやをしへなるらむ

キリスト教は「つゐに行(ゆく)道」を明確にした教え。死者の復活と来世の生命。すべての死者は審判を受けるべく復活させられる。信じるものには来世の生命が与えられる。

十ヶ月前はこの展開を予想もできなかった。
これが座の力だと思う。

去年(こぞ)まではみつると花にいつの世か
もしわすれずば人のことの葉

ふしぎなことに、おつしろうの先日の花の句が、この歌と呼応していました。

追加:
守武辞世の発句
あさがほに今日はみゆらむ我が世かな  

ザビエル物語
勘違いしてました。ザビエルは鹿児島から大分へ向かったのではなく、平戸や山口への2年3か月の布教の後、帰国に際して大分へ向かったのだそうです。以下、Wikipediaの引用要約。

フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier 1506年4月7日 - 1552年12月2日)。
ナバラ王国のザビエル城で地方貴族の家に育つ。5人姉弟(兄2人、姉2人)の末っ子。父はナバラ王フアン3世の家臣として宰相を務めた。ナバラ王国は1515年にスペインに併合される。
1525年、パリ大学に留学。哲学を学ぶ。中年学生イグナチオの影響を受け聖職者を志す。
1534年8月15日、イグナチオらとイエズス会を発足。イエズス会は世界宣教がテーマ。
1541年、リスボンを出発。アフリカのモザンビークで秋と冬を過す。
1542年5月、目的地ゴア(インド)に到着。同地に3年滞在して宣教活動。のちマラッカに渡る。
1547年12月、マラッカで鹿児島出身のヤジロウ(アンジローとも)に出会う。
1549年4月、ゴアで洗礼を受けたヤジロウら3人の日本人と共にゴアを出発。
1549年8月15日、鹿児島(鹿児島市祇園之洲)に上陸。
1550年、平戸で宣教活動。当初、通訳のヤジロウがキリスト教の神を「大日」と訳し、「大日を信じなさい」と説いたため、仏教の一派と勘違いされ、僧侶に歓待された。
1550年11月、都へ向かう途上、山口で大内義隆に謁見。男色(同性愛)を罪とするキリスト教の教えに大内が激怒したために山口を離れる。男色が公然と行われているのにザビエルは驚いている。
1551年1月、京都に到着。京で「日本国王」に謁見し、布教の許可を得る目的。しかし、戦乱で足利幕府の権威は失墜していた。僧侶たちとの論戦は比叡山から拒絶された。天皇への拝謁には献上品が必要と知り、滞在わずか11日で失意のうちに京都を去る。
1551年3月、平戸に戻る。山口へ向かい、再び大内義隆に拝謁。珍しい文物を義隆に献上。義隆は喜んで布教の許可を与える。
1551年9月、ポルトガル船が豊後に入港したという話を聞き、豊後に向かう。同地で22歳の大友義鎮に謁見。
1551年11月、豊後の港から出港。日本人青年4人とともにゴアへ向かう。
1552年2月、ゴアに到着。
1552年4月、日本布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国にキリスト教を広めることが重要であると考え、中国入国を目指し、8月に上川島(ポルトガル船の停泊地)に到着。しかし中国への入国はできないまま、体力も衰え、精神的にも消耗した。
1552年12月2日、上川島で病没。享年46歳。
遺骸はゴアに移され、1554年に拝観が許されたが、参観者の1人の貴婦人が右足の指2個を噛み切って逃走した。2個の足の指は、彼女の死後聖堂に返され、1902年、1個がザビエル城に移された。
1614年、右腕がイエズス会総長の命令で切断され、ローマに移された。この右腕は、1949年ザビエル来朝400年記念の際、日本で展示された。

>1551年9月、ポルトガル船が豊後に入港したという話を聞き、豊後に向かう。
なぜ長崎や鹿児島でなく、大分の港なんだろう?

昨秋、国際関係論の講義のためにカンボジアと日本の関係を調べていたとき、「日本には1541年に大分に漂着したポルトガル船が、大名の大友宗麟にカンボジア産のカボチャ (現在の日本カボチャ)を贈ったのが最初と言われています。この時にカンボジアから持って来たのでカンボジアがなまってカボチャと呼ぶようになったそうです」という文章に出会い、このブログにもカボチャは1541年伝来と紹介したことを思い出した(昨年の11月4日投稿)。
ちょっと待てよ、大友宗麟は1530年生まれだから、1541年には、まだ12歳。大名になるには早すぎ。このカボチャの記述の1541年は1551年の誤りでは。
この1551年のザビエルを乗せて帰ったポルトガル船こそ、現在、我々が美味しくいただいている日本カボチャの種をカンボジアから運んできた船では。
疑問がたちまち氷解した。漂着したんだね。
このポルトガル船が豊後の港に漂着していなかったら、ザビエルと大友義鎮との接点はなかったかもしれない。月のさそへる船の行末が日本の歴史を変えたようです。

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