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2009年1月 1日 (木)

戦国時代、筑後にあった?今伊勢  語録28

八女戦国百首和歌「夏日侍」をよむ

    竹橋乙四郎

▼ 今伊勢宮と式年遷宮

「元伊勢」は天照大神(神体である鏡:八咫鏡、と剣:天叢雲剣=草薙剣)が一時的に鎮座していた伝承を持つ神社・場所をいい、元伊勢の中に、今伊勢と称するものがあるとのこと。伝承の比定地(百数十か所)は三重県を始め近畿地方がほとんどだが、西は広島県福山市、東は静岡県浜名湖周辺まで点在しているとのこと。広島県福山市神村町の今伊勢内宮外宮が西端とか。九州にはない、とされている。筑後にあるのに・・・(かささぎ註:天文年間・源鑑述ほか24人の武士による百首和歌の奉納先が今伊勢宮となっている事を指す。)

神体の大移動が現在の伊勢神宮に落ち着いて以降は、20年ごと(古くは19年ごと)の式年遷宮が行われている。内宮の第一回式年遷宮は持統四年(690)。外宮は二年遅れて斎行される制が守られてきた。
ところが、現在は、内宮・外宮の両宮が同時に斎行されている。
過去、何かがあった。
外宮の遷宮は室町時代に129年間中断している。
再開は永禄6年(1563)。荒木田守武の頃。
次の遷宮の天正十三年(1585)以降から同時斎行。

中断期間中、内宮(禰宜は荒木田氏)と外宮(禰宜は渡会氏)との不仲は最高潮に。正長二年(1429)、宇治(内宮)が山田(外宮)の民家へ放火。外宮を戦場として合戦に及び、宮城内が血で穢れる。「先代未聞、開闢以来之無き由、言語道断、浅間敷き事也」
宝徳元年(1449)、喧嘩で内宮側が外宮の二人を殺害。
外宮は内宮への参宮道路を遮断。両宮神人が弓矢をとって戦うに至る。
翌年正月、幕府の仲裁により両宮和睦するも、5月、外宮は内宮の道者を抑留して再び通行を止めた。
文明十七年(1485)、宇治と山田の神人が戦いを交える。死者百人。
文明十八年、宇治と山田の放火合戦。正月元旦、七日、十五日の神事が延引。
延徳元年(1489)、山田が宇治を攻め、内宮に放火。
明応二年(1493)、山田に放火。
永正九年(1512)11月19日、伊勢神宮で火災。詳細不明。

庁宣

可早以諸国貴賤之助成、致興隆内宮法楽舎護摩堂事、
右件堂者、皇太神宮長日法楽、殊勝最上之勤厚所、而抽天下泰平御祈祷之処、去正月一日旱天不慮小火起、立所仏閣滅盡、不思議之為体、載勧進帳具也、爰法師勲阿並了泉等、蒙十方檀那助縁、欲令造立所存神妙、彼法師等ニ合力輩、檀施輩者、神明之感得不過之、速可遂勘進節之状、所定如件、
永正十年九月 日
祝宜 荒木田神主判○外十員連署

永正十三年(1516)、内宮の禰宜、自殺。
永正十五年(1518)、両宮の通路が杜絶。
永正二十三年(1526)、山田が放火。焼死者あり。
これ以降、宇治と山田は冷戦へ。
永禄六年(1563)、外宮の遷宮が129年ぶりに再開。

たいへんな時代だったようです。
レオナルド・ダ・ヴィンチの没年が1519年、シェークスピアの生年が1564年。
荒木田守武はこの二人の天才の人生の狭間の時代を生き抜く。

年越しおまけ
   ↓

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コメント

今伊勢、164000件中1位。
どうよ。

こないだ、ひさしぶりにことまちさんの大宰府ブログによりました。そしたら、わたしのしつこいコメントの下に連句的についているコメントがありまして、それは、なんと、法隆寺は筑紫から移転していったものだった。という本の紹介なんですわ。ちらちらとよみましたら、もうこれが面白い。でもなんというか、文章がよみづらい。なんでかなあ。そうなんだよ。
でも、たとえそれがどこか不具合があったとて、説得力があることにかわりはありません。だれも昔に行った人はいないんだし。

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