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2009年1月19日 (月)

孫七の歌   乙四郎語録38     

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

     竹橋乙四郎

▼ 孫七の歌

九    蕨        孫七

もえわたる野辺のさわらび影は見ねど
あたりの草ハけぶり合けり

十九    三月盡      孫七

伊勢のうミや波よるもくさかきためて
くらす神代の春はいく春

孫七っつぁん。
そこらの筑後のおっちゃんにしてはミヤビでないかい?
宗祇の時代の人だから天文24年には後期高齢者か黄泉人かもしれないが、この人かも。

内藤護道(ないとうもりみち)
室町中期の武将・連歌師。長門守護代内藤正賀の子。
通称は孫七・内蔵助、法名は宗俊。
周防守護大内氏の家臣。
宗祗の筑紫旅行の世話に当り、宗祗・大内政弘らと共に「何船百韻」に同座。
上京して、宗祗・兼載らと連歌を催す。
また、兼載の『聖廟法楽千句』に注を加えた。生歿年未詳。

孫七が内藤護道だとすると、宗祇がぐっと八女百首に近づいてくるので楽しいが、難点は、この方が大内氏の家臣であること。
大友と大内の仲が良いはずがないので。
それとも、孫七はこの頃には大内氏を離反していたか。
寝返り、陰謀、何でもありの時代。

▲ かささぎの旗管理人:

人物設定がたとえ間違っていたって、よほど大ぼけでない限りは、うんと飛翔したほうが楽しい。歴史浪漫はそういうものだろうから。また、そうすることでしか、核心をつくことはできない。
だんだんわかってきました。
生きた勉強とはこういうものだろう。
歴史のただなかに歌を置く、歌が生れた処に戻す。
見えてくる世界がある。

ところで、単に「孫七」で検索をかけますと、まっさきに出てくるのは、戦艦長門にちなむ軍人の名前です。いくらなんでも時代がね。
孫七という命名の由来は、七人目の孫?祖父の命名か。

萌えわたる野辺のさわらび影はみえねど
辺りの草は煙り合ひけり  孫七

伊勢の海や波よる藻草かきためて
暮らす神代の春は幾春  孫七

たしかに和歌の王道をゆくようなみやびな歌いぶり、しかし出歌数は多くありません。たった二首だけ、それも早い時点で出し終わっている。(9番と19番)。どんな位置にいた人物だろうか。(かささぎの推理では、お年寄りだった。だから早めに退席させてもらった)。ということは、乙四郎の推理は当たっているかもしれない。七十台後半くらいか。大内と大友、敵同士とはいえ、こういう座ではどうだったのか。そういう例があるか調べる必要があります。で突然思い出しました。あすは本能寺に討ち入るという明智光秀が詠んだ歌がありました。あれは座で詠んだ歌と記憶してるけど、。なんだったかなあ。暗号みたいな歌。かささぎは初めて連句を教えて下さった札幌の故窪田薫師に昔それを教えてもらったです。

これでした。http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/tishiki/ks00093.htm
どなたさまか引用させてもらいます。有難産休縁燐寸。

<5月28日>
 光秀、連歌会「愛宕百韻」に参加。

 時は今天が下しる五月哉(明智光秀)
 水上まさる庭の松山(西坊行祐)
 花落つる流れの末をせきとめて(里村紹巴)


  この時の光秀の歌は
  「時」は「土岐源氏の明智氏」のことで、
  「天が下しる」は「天下を治める」と解釈されて
  光秀の信長への謀反の意思表示であったとされる。

追書:   竹橋乙四郎

▼ 天文24年頃の大友氏と大内氏との関係

Wikipediaの大友氏のその頃の記述です。
===================
天文20年(1551年)には大内義隆が家臣の陶隆房(陶晴賢)の謀反により死去すると、義鎮は弟の大内義長を大内家当主として送り込み、北九州の旧大内領はもとより、周防や長門にも影響力を誇った。弘治3年(1557年)に義長が毛利元就に討たれて大内氏が滅亡すると、周防・長門方面での影響力は失ったが、北九州の権益の大半は確保した。
===================


たまたま、堂々と大内と大友が同席できる時期だったようです。

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コメント

長門守護職内藤孫七と戦艦長門の孫七。なんと不思議な暗合。

いつも行くスーパーの隣に株式会社長門と言う不動産会社がある。
単に社長さんの姓が長門なのかもしれないが、写真を撮らねばと前から思っている。
昨日は「飛龍」と言う中華やさんのお店を撮ってきた。
勘だけどここはきっと「飛龍」乗組員だった人に間違いない。
今度「飛龍」の絵葉書を持って訪ねよう。
名前へリンク
№30 山口多聞提督の最後

そうだ、深大寺に「多聞」と言うおそばやさんがあったぞ。

田中覚元

この中にいる。
   ↓

系図上、田中覚元の右のほう、ひ孫のひ孫くらいにいる田中吉政(1548~1609)という武将に記録があります。ちょっと年代設定に無理があるかも。
「関ヶ原の役では東軍に属し、佐和山城攻撃に参加し、9月23日石田三成を逮捕した。戦後、その功により筑後国柳川城主で三十二万石与えられた。領内の産業振興に努め、自らキリスト教に帰依し、領内キリスト教徒を保護した。慶長14年2月18日没す。」

さくらさん
孫七さんの長門に関する武勲 読んでも今一意味が分からないかささぎです
もし解れば噛み砕いて教えて下さいませんか
深大寺へは必ずもう一度行きますからねその時探してみます
きっとさくらさんは軍艦が切なかろうと思いました
甲板に鈴鳴りの水兵さんを見ていたら 私もさくらさんの気持がわかる

乙四郎
今息子を空手に送り車中から書き込みしてますが おでんを仕込み大和町史を読んでたら 正にその田中吉政の話と立花宗重の話
よしまさは子供の代で跡継ぎがたえ除封になる あとにまた宗重がすわる
その領石数がばしっとはしたの何升何合まで記載されております これには感動します

おおっ。なんとタイムリーな。
かささぎどんと同じだ。
広川町史を読んでいて、田中吉政触書を含む7通の吉政関係文書が広川町の稲員家に保存されていて、稲員家文書として他の古文書と一括して340通が県の文化財の指定を受けたことが書いてありました。その中には、逸失したと思われていた忠政(四男である跡目)期の「上妻郡中掟」という、吉政の農村支配が伺える貴重な資料も含まれていたということです。稲員家といえば、古賀村の大庄屋に任命された家系。稲員孫右衛門の名前が見られました。
で、これを読み継ぐなかで、姫野家「家訓」というものに行き当たりました。甘木村(広川町内)の庄屋職を代々受け継いだ姫野家記とも言われるもので、田中吉政と広川谷の村々のかかわりを垣間見れるくだりがあったとのこと。

もうひとつ、孫のつく名前に遭遇。
入国法度之事
慶長六年に吉政花押のある領内統制の命令書の宛名書き。「大庄屋 夜明村孫兵衛とのへ」(歴世古文書所収)

昔の人って、よっぽど孫ってえのが好きだったのかねえ、まっつあん。子孫の孫。繁栄を祈るみたいな、ね。

ただいま。
六時半から八時半まで二時間、久留米の川ほとりのジムで実践空手。車中で本を読んで待っていた。子は楽しそうに戻り、疲れたといいつつもなにやらせっせと携帯に文字を打ち込んでる。なんしょん。ときけば、今習ったことを文字にして忘れぬように日記をつけている。という。毎回それをやっているとのこと。えらいな。 
週に二~三回。原付免許とってバイクで行きたい。というのをがまんさせて、久留米まで送迎してる。

立花宗重じゃなく、宗茂でした。
それと、田中吉政は石田三成を捕らえた論功により筑後一国32万5千石を与えられた。と書いてあります。しかし吉政のあとを継いだ忠正が1620年に死ぬと世継ぎ断絶を理由に除封となる。
そこへ宗茂が10万9647石1斗9升7合の大名として再び入封した。すごすぎ。細かいはした!!
おつしろうもせいこさんもありがとう。ちょうど、おなじところをおなじ時間帯によんでいたのか。不気味。
おつしろうの紹介の系図、あっとおもった。まさかこの田中家につながるとはお釈迦様でもご存知あるまい。
地域学ともリンクしてるのですが、複数でコメントをやりとりしていると、なにか、大事な忘れていたことをおもいだせそうな気がする。
姫野家に関していえば、最初に読んだのは将士軍談でだった。つぎに夫が信仰している宗像の宮司さんが家紋からも調べてくださった。甘木家家老って書いてあった。でもその甘木家ってどこにあるのか知らなかった。おかげでわかった。広川であれば納得できる。約500年の歴史をもつ菩提寺も広川だし。戦国時代からの姓であれば、大分にも同じ姓の人たちがいる理由がわかる。

天文24年頃の大友氏と大内氏との関係

Wikipediaの大友氏のその頃の記述です。
===================
天文20年(1551年)には大内義隆が家臣の陶隆房(陶晴賢)の謀反により死去すると、義鎮は弟の大内義長を大内家当主として送り込み、北九州の旧大内領はもとより、周防や長門にも影響力を誇った。弘治3年(1557年)に義長が毛利元就に討たれて大内氏が滅亡すると、周防・長門方面での影響力は失ったが、北九州の権益の大半は確保した。
===================
たまたま、堂々と大内と大友が同席できる時期だったようです。

宗右をさがせ!
北野神社関係資料(書状121点のうち119番目)
(宗右書状写)(天文15年〜23所務覚写共)
   ↓

芸がこまかい
よくぞしらべてくださいました
でももうねむいのであしたさがしますね
ごめんごめんごめん

感想。
やはり乙四郎はすごい。

何千隻とあった帝国海軍の戦艦があの戦争で全て失われた中で、唯一最後まで生き延びたのが戦艦長門です。
その最後の艦長だった杉野修一さんの父親が杉野孫七さんで、日露戦争秘話として有名な人です。
最後まで生き延びたがためにアメリカに接収され、戦後ビキニ環礁での水爆実験に使われた。
最近の出来事では、長門の軍艦旗がオークションに出され、俳優の石坂浩二さんが1000万円で落札、呉の大和ミュージアムに寄付をした。
(石坂さんて実はそういう人)

戦艦に興味があるのは父が「金剛」に乗っていたということもあるが、名前がとても調子よくて良く覚えられる。
大和、金剛、愛宕に武蔵。
加賀、蒼龍、飛龍に赤城。
早霜、秋霜、岸波、沖波。
雪風、矢矧に利根、鈴谷・・・・・・・
ねぇ、これ言って御覧なさい。
とってもごろがいいから。

うわ。やはりさくらさんはただものではない!
ありがとうございます。私は昨日「孫七」で出た軍艦長門の物語に出てくる孫七さんの話をよみましたが、そういう下地もなにもないので、よく意味がとれませんでした。これで納得しました。なぜビキニ沖の核実験の背後に長門が映っているのかも、初めて今知った次第。あっとおどろくなさけなさです。まったく、私たちは肝腎なことを知らされていない。ひどい話だ。よかった。聞いてよかった。さくらさん、ありがとうございます。

五十四    九月尽    通次
長月もけふにうつろふもみじ葉の
かぜの跡とふ友のうれしさ

八十八    関     通次
せきもりの厳しく見ゆる陰ながら
行き過ぎ難き山さくらかな

重見通次
伊予の人だが、天文年間は一族が戦いに敗れ周防(豊予海峡の関を隔てて、豊後、伊予の対岸)に逃れている頃。通次の子の名前は孫七郎。一族伝統の「通」を命名しなかったのは、孫七に憧れていたためか。
=======================
 享禄三年(1530)、伊予石井山城主の重見通種は河野氏に背いた。しかし、河野通直の命を受けた来島氏に攻められて、敗れ周防に逃れた。弟通遠は通種に従い、討伐軍との戦いで戦死している。通種の反乱失敗後、重見氏の家督はもう一人の弟通次が継ぎ当主となった。通次は、元亀三年(1572)、三好氏との戦いに従軍。翌年、大野直之討伐軍にも従軍した。通次の子孫七郎は、元亀四年、父とともに大野直之討伐軍に従軍。天正十三年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐に際して小早川隆景軍に降伏した。

日露戦争時の孫七さんの話は既読だと思いますが、Wikipedia によると、孫一さんの父上は孫太夫。

この逸話をかいつまんで書くと、上司広瀬武夫は日本初の軍神と言われ、非常に部下思いで、船が沈んだとき、船底に見回りに行った部下孫七を身の危険を省みず2度3度と探しに行って退避が遅れ、自身が敵弾にあって戦死したというもの。
孫七さんが非常に慕った広瀬武夫大佐は、大分県竹田市に広瀬神社として祀られており、なんと大石政則も竹田中学で学び広瀬大佐を尊んでいたのでした。

2行目誤り。
孫一→孫七

なるほど。やっと了解しました。
「船が沈んだとき、船底に見回りに行った部下孫七を」この部分が抜け落ちていたので、なぜ孫七は顕彰されるのかが分からなかったのです。やっとさくらさんの説明をきいて、状況がのみこめました。せっかく写真つきのりっぱな紹介記事でありますのに、惜しいことです。広瀬中尉がここにでてきましたね。政則さんは竹田の神社に御参りにいき、代表挨拶をしたのでしたっけ。

最終階級、広瀬中佐でした。

こちらのほうがこまかい。
もう完全に忘却してました。
おもいだせ、おもいだせ。

お久しぶりになりました。
この姫野家記のことを知りたいけど、その後、何かわかりましたか?
教えて下さい。

お久しぶりです
姫野家記、ぐぐりますと、かささぎの旗がでますね
私はみたことないのです
甘木氏の鬼ノ口城による家老みたいな記述があった説明文しか
ここ👇詳しいです
たくさんきいてみたくなります
ブラタモリ、最初の長崎、姫野さんの案内でしたね

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