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2009年1月17日 (土)

百首和歌のボス豊饒氏について   語録36

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

     竹橋乙四郎

▼ 鎮時と豊饒の物語

島物語(http://snkcda.cool.ne.jp/tanbou/jojima/murata/page2.htm
に鎮時が登場。
城島氏の24代目が大蔵丞鎮時。
21代石見守時次の時に大友氏の配下に。
22代は石見守鑑時、23代は備中守鑑数。
鑑時の頃から、七百年来の旧家は傾きかけ、鑑時は獣医となる。
以来、城島氏の当主は獣医に。きっと鎮時も獣医だったでしょう。

鎮時は、天正十一年、城島の館を捨てて、楢林に引っ越した。
鎮時は、はじめ時次といい、後に大友宗麟から鎮の一字を貰い鎮時と改め、晩年には入道して真慶と号した。

城島物語には「豊饒氏」も登場します。以下、引用。

=====================
豊饒は、ぶねう(ぶにょう)とよむ.
豊後の豊饒村から起つた土豪で、大友豊後守親繁の筑後征服以来、筑後の土豪を監視するために、大友氏から派遣された督軍の一人である.
豊饒氏は、天正六年ごろは、上妻郡(八女郡)の兼松城、白木城などに拠り、八十町ばかりの領主として、ニラミを利かせていたが、天正八年、肥前の竜造寺隆信に追われて、豊後に逃げ帰った.
豊饒氏が城島に本拠を構えていたのは、天文三年の頃で、それまで西久留米城(今の篠山城跡)に居った.
同年六月、西久留米城主豊饒美作入道永源は、周防の大名大内義隆の大将陶入道のために城を追われて、肥前西島(南茂安村)の城に移つたが、陶氏の再度の命令で、城島に移された.(中略)
豊饒氏の上妻郡兼松城への移住は、その年代が明らかではない.
永禄七年、大友宗麟が下田城主堤越前守貞元を攻めたとき、大友氏に協力した三瀦郡の土豪のうちに、城島氏と並んで豊饒氏の名前が見えるから、この時までは城島に居たと思われる.(中略)
豊饒氏の時代になっても、城島の一角に居住していた城島氏は、天正八年の頃は、西牟田氏と共に、早くも竜造寺の幕下に降つていた.
その二年前、天正六年三月に調製された『大友幕下筑後領主附』には、すでに豊饒氏は上妻郡兼松城主として記録されているから、豊饒氏が城島を去つたのは、永禄七年から天正六年にいたる間のことである.
=====================
(引用ここまで)

豊饒美作入道永源は、別の伝説、三潴郡の「踊り念仏」にも登場します。
三潴郡の江上の里の「吸い殺し田」の呪いを小菊という娘が舞で封じた話を豊饒美作入道永源という領主が聞き、感動して寺田三反三畝を寄進して「西方山九品寺」をこの地に建立したと。

以前、鑑述を検索したとき、豊饒弾正忠直弘(ぶにょうだんじょうのちゅうなおひろ)から伸びる系図もどきに「鑑述美濃天文頃」があった。鑑述の次の行に「永源美作入道 筑後国方分」、その先に「美作兼松城主」「大蔵天文頃」と続いており、これらがシンクロした。

「鎮時」の歌:

4番鶯、31番蝉、57番霜、66番炭窯、91番旅
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/cat33636509/index.html

▼ 追って:

「久留米城」史に豊饒永源の記述を見つけた。
「天文二年(1533)から翌年にかけて大内勢が筑後へ侵攻し、大友方と戦闘を交えた。
大内軍の杉興房(すぎおきふさ)が久留米城を攻撃、城将・豊饒永源(ぶにょうえいげん)は支えきれず敗走した。」(吉永正春氏 「筑後戦国史」)
兼松城でも豊饒氏が君臨していたようだが、天文24年頃の兼松城主は誰だろう。
上述から、その頃には「永源」は失脚し、豊穣氏は次の世代となっている可能性も大きい。兼松城主は豊饒鑑述か。永源の源をミドルネームにして源鑑述と名乗っているかも。城島氏とは友好を保ち、鎮時と鑑述は仲良く歌を詠みあっている。

▲ かささぎの旗管理人:

ぶにょう・・・。ほうじょうとばかりおもいこんでいた。

「三潴郡の江上の里の「吸い殺し田」の呪いを小菊という娘が舞で封じた話を豊饒美作入道永源という領主が聞き、感動して寺田三反三畝を寄進して「西方山九品寺」をこの地に建立したと」

すいころした。吸い殺し田。それほど深い田んぼなんだ。
ってことは、しづの田ってことなんだろう。
八女戦国百首和歌にある。なんとなくわかる、うたのこころ。

八十九    橋     頼運

これも又憂世をわたる心かは
賤が深田を越ゆる柴橋

脚注:

すいころした。ここの上のほう10分の1くらいあたりのコメントにあります。(乙)
   ↓

山下城出城、知徳城の城主は「一條氏」
その「一條氏」の忠実な家来だったのが、山下孫左衛門。
山ン下の「山下」。わたしはこの線を調べたい。

   31文字倉庫管理人 山下整子

山下城(立花町)の近くに若宮神社という室町時代頃の神社があります。武士達の勝利祈願の宮だったそうです。この神社の天井に、「見事な俳諧を書した額」が奉納されているとか。額は1844年(天保15)のもので新しいが、「地元山中周辺の集落、上庄、下庄の俳人70余句が見事な筆跡で書かれている」と。教養溢れる八女人の源泉。

   竹橋乙四郎 

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コメント

筑後の城のページより要約引用。天文(1532-1555)、弘治(1555-1558)、永禄(1558-1570)、元亀(1570-1573)年間の城主はまだ不明。

白木城
 天正年間(1573~92年)、豊饒左馬太夫の居城。肥前竜造寺氏が柳川城を攻め落城。この時、左馬太夫の奥方は白木川の淵に鏡を抱いたまま身を投げ自害し、このためこの淵を鏡が淵と呼ぶようになった。
兼松城
 天正年間(1573~92年)豊饒美作鎮運の居城。豊饒美作守は大友氏の同紋衆で、筑後の守護代として大友宗麟より派遣され、87町歩を領した。大友氏は筑後の支配では体身の勢力を外様大名として遇し、一門やその他で信望のある豪族を守護代として任命。

乙さん。どうやら、立花町には谷ごとに城が構えられていたと考えるべきでしょう。
山下城出城の知徳城主の家臣であった山下孫左衛門が没したのは1585年とありますので、たぶん、この白木城・兼松城と同じ時代であったと思われます。
じゃあ、なぜ、現広川町に出城があったんだろう。
素朴な疑問です。
現広川町の地域ににあったと思われる城の資料はないのでしょうか?わたしも広川町史の上巻を見てみたいと思います。

へ。そんなに古い時代の人なの。そりゃたいへん。

谷ごとに一つの城、というのは、分かりやすいです。
ちょうど横山康夫の俳句にあった。

帚木や谷を出づるは山出づる  康夫

かささぎの母は山の人間です。
昔のことを聞いてあげもしなかったんですが、先日神籠石を田代にみつけにいったときに行った、じろぶちっていう地名からいろいろと聞き出しますと、面白いことをたくさん教えてくれました。
牛がいた。昔の山の家には。馬だけかと思ってた。この牛に木材をひかせた。いやがるので叩いて使役した。かわいそうだったって。それと、こないだ連句のとき言った繭、おかいこさん。縁側じゃなくて、なんとお座敷で飼っていたらしい。おかいこさんはおきゃくさんかよ。それで、草もちかとか母たちにとってはぜいたくな部類のおやつを祖母が作っても、母たちこどもは食べることが出来ず、みんなそのおかいこ関係の人にお出しした、それがうらやましかった。って。山の家で普通にお蚕さんを飼っていたんだね。わが寺田村でもそうだったかもしれない。私に直接の記憶はありませんが、桑の実があちこちにあった記憶はあるから。

小田鎮光物語
「光」は肥前小田氏の象徴。直光-貞光-親光-資光-政光と続く。
小田氏は少弐氏との関係を強めながら肥前での地盤を築いた。小田政光と少弐冬尚は、天文20年(1551)、龍造寺隆信を攻め肥前から追い出したが、天文22年(1553)、政光は蒲池鑑盛らの後ろ盾を得た隆信に攻撃され、隆信に降伏した。政光の子、鎮光・賢光・増光の兄弟は三瀦郡へ逃れた。
永禄元年(1558)、隆信は政光を先陣に立てて冬尚を攻めた。劣勢の政光は隆信に援軍を要請したが、隆信は兵を出さず静観したため、政光は戦死した。隆信は政光戦死を見届けてから、冬尚を攻めた。
鎮光らは隆信に取り立てられ、永禄二年(1559)、鎮光は肥前小曲城に復帰し、五千町の所領を得た。鎮光は隆信の養女を妻に迎え、妹を隆信の弟に嫁がせて、龍造寺氏との関係を強化した。鎮光は隆信の三男を養子に迎えて家督を譲り、忠誠を示したが、永禄11年(1568)、隆信は小曲城を鎮光から取り上げた。
永禄12年(1569)、大友宗麟は高良山に出陣し、鎮光に協力を要請し、鎮光はこれを諾した。宗麟は隆信を討つため、大軍を肥前に派遣した。鎮光は大友に味方し、弟の賢光も大友勢に参加した。一方、末弟の増光は龍造寺軍に加わり大友勢と対峙した。隆信は、大友軍の本陣に夜襲を敢行し、大友軍は総崩れとなった。鎮光・賢光兄弟は筑後に逃げたが、元亀二年(1571)、隆信に謀殺された。兄たちと袂を分かった増光は、筑後の吉井に移住し、天正十三年(1585)に病死した。こうして肥前小田氏の嫡系は途絶えた。

微妙なのは、八女百首の天文24年当時の鎮光のシチュエーション。親の政光が隆信に降伏した直後なので、龍造寺氏側の人間。隆信の信用も得ている模様。しかし、どの段階からか大友と通じて、兄弟で隆信を討とうとする。
八女百首の面々は、ずらりと大友側の人間。この頃から既に大友側と通じていたことになる。3年後に父が隆信に裏切られるのを予感していたのだろうか。

八十六   川     鎮光
いかにせん河瀬のなみの色々に
月のさそへる船の行末

広川にあった城は知徳城もふくめると五城。
鬼の淵区の「鬼の口城」、長延の「山王山城」と「城ノ尾城」、牟礼茶屋の「川瀬城」、そして「知徳城」だった。
氏との関連も面白い。「城ノ尾城」は「萩尾城跡」とも呼ばれていたらしい。この地域に萩尾姓はすくなくない。
「川瀬城」は三潴郡蒲池城主の次男(山下城主)の諫臣「矢賀部氏」だが、川瀬地区には蒲池姓が多い。川瀬の西念寺さんも含めその周辺にとくに。
鬼の口城主は「甘木氏」だが、広川に一軒だけ「甘城(あまぎ)」姓がある。がんしょう寺さんというお寺。

山ン下にはとうとう行き着かなかったけどね。

でも、知徳のお宮に熊野神社のご神体が祀られている由来みたいなものにはいきついた。
筑後市熊野にある熊野神社。その本山、熊野山。奈良・平安時代に始まったとされる広川荘は、熊野山の寄進地系荘園であったかもしれぬという記述があった。

そうそう。広川は谷のひとつでした。
広川ん谷には五つの城があった。
これ、短歌にしちゃろうっと。

おお!すばらしい!!
ドラマ仕立て、いよいよ佳境。

しかし。親が子を子が親を兄が弟を弟を兄が討つというのは。
織田信長みたいな武将が生れるのは必然だったんだね。

十九    三月盡      孫七
伊勢のうミや波よるもくさかきためて
くらす神代の春はいく春

孫七っあん。
そこらの筑後のおっちゃんにしてはミヤビでないかい?
宗祇の時代の人だから天文24年には後期高齢者か黄泉人かもしれないが、この人かも。

内藤護道(ないとうもりみち)
室町中期の武将・連歌師。長門守護代内藤正賀の子。通称は孫七・内蔵助、法名は宗俊。周防守護大内氏の家臣。宗祗の筑紫旅行の世話に当り、宗祗・大内政弘らと共に「何船百韻」に同座。上京して、宗祗・兼載らと連歌を催す。また、兼載の『聖廟法楽千句』に注を加えた。生歿年未詳。

おつしろう。
人物設定がたとえ間違っていたって、それがよほど大ぼけではない限りは、うんと飛翔したほうが楽しい。歴史浪漫はそういうものだろうから。また、そうすることでしか、核心をつくことはできない。
だんだんわかってきました。
生きた勉強とはこういうものだろう。歴史のただなかに歌を置く、歌が生れた処に戻す。見えてくる世界がある。

孫七が内藤護道だとすると、宗祇がぐっと八女百首に近づいてくるので楽しいが、難点は、この方が大内氏の家臣であること。大友と大内の仲が良いはずがないので。それとも、孫七はこの頃には大内氏を離反していたか。寝返り、陰謀、何でもありの時代。

この頁だったかなあ。せいこさんよ。
兼松城の出城だったという広川の山下城。

ところで。えいげんというなまえですが、
おなじ名前ではなかったか。
久留米高良さんの僧。
芭蕉の時代に京からやってきた名僧。
荒れ果てた山だったのを聖地にかえた。
・・・・寂源でしたね。
まぎらし。

おはようございます
私の母は萩尾姓よ^^
数年前長延城がどこにあるのか気になっていた時、関西からきた叔父に「どこでしょう?」に聞いてみました。
どこかは不明でしたが「城の根」って場所でよく遊んでいたらしい。 そこは長延の北側の丘陵あたりです。 で、もしかしたらそこかも・・って話をしました。
堤の奥に神社がありますね。私はあのあたりかなと思ってもいます。 まあつながっているしね。 大欅の場所は萩尾みどりさんのご先祖よね。 庄屋宅だった話を母から聞いています。

えめさん、萩尾城ってなまえをみたとき、私も萩尾みどりって女優さんをすぐ連想した。でもまさか、ほんとうに関係あったとは。せけんはせまい。

ここにありました。
大内軍の筑後攻撃。

白木城
 天正年間(1573~92年)、豊饒左馬太夫の居城。肥前竜造寺氏が柳川城を攻め落城。この時、左馬太夫の奥方は白木川の淵に鏡を抱いたまま身を投げ自害し、このためこの淵を鏡が淵と呼ぶようになった。

この話は黒木物語とそっくりです。

しらぎとくろぎ。
かがみがふちとつるぎがふち。
入水するおくがた。

先月、大分県国東の豊饒さんに偶然出会ったのですが、昨日、まったく別の豊饒さんと出会いました。鹿児島県鹿屋の出身だそうです。偶然なのか運命のシンクロなのか。人生でそう何度も豊饒さんと出会うことはないと思うのですが、それが二月続けて起きてしまった。

ふうん。

はやと瓜はなぜはやと瓜かな。
ウィキをはりつけたから、よおっとかんがえてみよう。おいしかったです。中島ともさん。

久留米 女優 萩尾みどり

で、読まれていました。

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