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2009年1月16日 (金)

はんや舞の源流  乙四郎語録36

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

     竹橋乙四郎

鷹尾城と鑑述とがリンクした!*

やはり、活字情報はオンライン情報に優ります。
刺激を受けて、マニアック蔵書数○万冊を誇る保健医療経営大学図書館へ赴き、「祭礼行事・福岡県」(おうふう)という書籍を手に取りました。
鷹尾に古来伝わる「はんや舞」が気になっていたので。
以前、守武の俳諧ははんや舞に着想を得たもの、というとんでも仮説を披露しましたが、その仮説の検証です。
残念ながら、その書籍には、鷹尾の「はんや舞」についての詳細はありませんでしたが、星野村の麻生神社に伝わる「はんや舞」について2ページにわたる解説がありました。「中世芸能の名残を残す貴重な民族芸能」なのだそうです。そして、そこで歌われているのは鎌倉時代の「短歌群」であると記載されていました。元歌は「閑吟集」から、とも。
閑吟集(1518)は、連歌師の宗長(1448~1532)が編集したもの(らしい)。
守武が影響を受けたとされる人の一人です。しかしながら、閑吟集というのは歌謡集であり短歌集ではありません。
Wikipediaによると、
「室町時代に流行した「小歌(民間の卑俗な歌で、軽く肩のこらない娯楽的なもの)」226種の他、「吟詩句(漢詩)」「猿楽(謡曲)」「狂言歌謡」「放下歌(ほうかうた:「放下」は中世・近世に行われた芸能の一つで、小切子(こきりこ)を打ちながら行う歌舞)」「早歌(そうか:別名「宴曲」とも言う、鎌倉末期から室町時代にかけて、武家を中心に貴族、僧侶などの間に流行した宴席のうたいもの)」などを合わせて、311首が収録されています。内容的には、恋愛を中心として当時の民衆の生活や感情を表現したものが多く、江戸歌謡の基礎ともなりました。」
とあります。さすれば、「はんや舞」は、閑吟集から五七のリズムのものを抽出したもの、ということになります。「いわば軽く肩のこらない娯楽的な」短歌群です。
ここに来て、連歌と俳諧連歌の違いがよくわからなくなってきました。「はんや舞」の短歌群というのは俳諧連歌そのものでは。

▼ ひむろについて

星野村の麻生神社の宮司は「氷室」姓でした!
ここには人麿神社というのもあり、人麿神社を祭っている家の長老は「江良」氏。人麿の妻は依羅。

天の海に雲の波立ち月の船
星の林にこぎ隠る見ゆ
(柿本朝臣人麻呂『万葉集』巻七、一〇六八)
大船に真楫(まかじ)しじぬき海原を
漕ぎ出て渡る月人壯子(をとこ)
(柿本朝臣人麿『万葉集』巻十五、三六一一)
「昔者、筑後国の御井川の渡瀬、甚だ広く、人畜渡り難し。ここに、纏向の日代の宮の御宇麻天皇、巡狩の時、生葉山に就きて船山と爲し、高羅山に就きて梶山と爲して、船を造り備へて、人物を漕ぎ渡しき。」
(『肥前国風土記』)
「月人をとこ」=月神(高良玉垂命)を信仰する船乗りたち。
人麿は白村江戦に参加しているらしい。(古田)
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
(額田王『万葉集』巻一、八)

本稿の参照元(古賀達也氏)
   ↓

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou46/koga46.html

春秋をわけぬはかりか松がさき
氷室も夏をほかにこそもれ 

(32番、題「氷室」 松寿、八女戦国百首和歌)

 

氷室開きは春分、氷室(麻生神社)の「はんや舞」は秋分。

参照*

八女戦国百首和歌を残した、豊饒美濃守源鑑述は、筑後の山下城主だった可能性が高い。ということが昨日わかりました。かささぎはまだ文献資料をさがしてはいませんが、「大和町史」にあった一つの史料見出しのなかの名前(それは「坪付」というものに出てきた)、それと以前立ち読みした(ああとんでもごめんなさい)ゆうめいな吉永正春氏のお城の本で、山下城に、その名前に似た名前の記載があったこととがぴたっと一致しました。ですので、これは今後の課題として調べる。
じつは、ここでおそろしいシンクロがおきていまして、連句仲間の山下セイコがこの山下城主とも関係しているような話です。

これはなにを意味するか。
「もっときちんとしらべてくれ!」というあちらからのサインと思った。

▼かささぎの旗管理人:

はんや。ということばから、かささぎが連想するのは、はんごんこうのはん。返すという意味。こないだから言っている、「け」。
それと。アストロリコのりかさんブログよんでたら、お正月にしもがも神社にいったそうです。しもがも神社。サイトひらくと、宮司さんあらきさん。
字は、新木。
だからなに。ってきかれそう。なんでもない。
本の紹介がしてあって、そのタイトルみたらよみたくなった。神道ってのは奥がふかいです。
それと。中山ソランブログへいったら、熊本のどっかの港にいってる写真が出ていた。それ読んでいたら、長田王の歌、万葉集かな。が、出ていて、それ読んだら、九州にいたんだ。と直感した。
じんぐう皇后はかしいにいたんだろうし、九州の人だと思うし。長田王がどんな人かしらんけど、熊本の港をよく知っている人だろう。
あたしは、中山そらんがそういうことを調べてかいてくれたらいいなあ。とおもう。だって、行けないからね。遠くて。熊本人が書いてくれるとありがたい。
「さまよえる倭姫」というサイトがあるから、そこをよく読んで、かいてください。もし、このブログを読んでいるなら、ぜひ。

先日江戸時代の柳川、瀬高の港から東北へ米を買い付けにいった舟が帰りにおおかぜに流されて朝鮮に着いた話の古文書読み下しをもらいました。やながわのこに。関係ないはなしですが、倭、大和、山門、東北、朝鮮の関係が見え隠れしますね。けっきょく、それらの人たちはなにも罰されず、ふるさとへ送り返されたとありました。

「け」ともよむ白い反は「気」の一種だろうとおもう。

春もみる氷室のわたりけを寒み
こや栗栖野の雪のむら消え(源経信)

この歌をたずねますと、「け」はたんに「気」と置かれているサイトがあった。
原文を読んでいるわけではないんで、わからないが、かささぎ的には

まず、「けを寒み」皈を寒み。で、帰りたがる魂魄は寒さの中「こや・くるすのの」「来や・来るす野の」で、雪となって帰ってくる。ひむろは霊室。

です。

さて、こんどはきちんと引用できるでしょうか。
「さまよえる倭姫」:http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou69/kai06901.html

できた!ちなみにこの文の根拠となり、引用されているさる神社の宮司さんの本は、たまたまかささぎが十年ほど前に読んでいた太田龍の本にも引かれていました。だから余計にへえーと思って。

いろんな神社があり、いろんな宮司さんがいらっしゃいますが、どのはなしもとてもおもしろいです。神道には経典がないから、。

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コメント

山下城出城、知徳城の城主は「一條氏」
その「一條氏」の忠実な家来だったのが、山下孫左衛門。まさかあなた、一介の武士が山下城城主の氏をいただくわけなかでっしょ。
山ン下の「山下」。わたしはこの線を調べたい。

山下城(立花町)の近くに若宮神社という室町時代頃の神社があります。武士達の勝利祈願の宮だったそうです。この神社の天井に、「見事な俳諧を書した額」が奉納されているとか。額は1844年(天保15)のもので新しいが、「地元山中周辺の集落、上庄、下庄の俳人70余句が見事な筆跡で書かれている」と。教養溢れる八女人の源泉。

鎮時と豊饒の物語
城島物語(http://snkcda.cool.ne.jp/tanbou/jojima/murata/page2.htm)に鎮時が登場。城島氏の24代目が大蔵丞鎮時。
21代石見守時次の時に大友氏の配下に。22代は石見守鑑時、23代は備中守鑑数。鑑時の頃から、七百年来の旧家は傾きかけ、鑑時は獣医となる。以来、城島氏の当主は獣医に。きっと鎮時も獣医だったでしょう。
鎮時は、天正十一年、城島の館を捨てて、楢林に引っ越した。鎮時は、はじめ時次といい、後に大友宗麟から鎮の一字を貰い鎮時と改め、晩年には入道して真慶と号した。

城島物語には「豊饒氏」も登場します。以下、引用。
========================
豊饒は、ぶねうとよむ.豊後の豊饒村から起つた土豪で、大友豊後守親繁の筑後征服以来、筑後の土豪を監視するために、大友氏から派遣された督軍の一人である.
豊饒氏は、天正六年ごろは、上妻郡(八女郡)の兼松城、白木城などに拠り、八十町ばかりの領主として、ニラミを利かせていたが、天正八年、肥前の竜造寺隆信に追われて、豊後に逃げ帰った.
 豊饒氏が城島に本拠を構えていたのは、天文三年の頃で、それまで西久留米城(今の篠山城跡)に居った.同年六月、西久留米城主豊饒美作入道永源は、周防の大名大内義隆の大将陶入道のために城を追われて、肥前西島(南茂安村)の城に移つたが、陶氏の再度の命令で、城島に移された.(中略)豊饒氏の上妻郡兼松城への移住は、その年代が明らかではない.永禄七年、大友宗麟が下田城主堤越前守貞元を攻めたとき、大友氏に協力した三瀦郡の土豪のうちに、城島氏と並んで豊饒氏の名前が見えるから、この時までは城島に居たと思われる.(中略)豊饒氏の時代になっても、城島の一角に居住していた城島氏は、天正八年の頃は、西牟田氏と共に、早くも竜造寺の幕下に降つていた.その二年前、天正六年三月に調製された『大友幕下筑後領主附』には、すでに豊饒氏は上妻郡兼松城主として記録されているから、豊饒氏が城島を去つたのは、永禄七年から天正六年にいたる間のことである.
========================
(引用ここまで)
豊饒美作入道永源は、別の伝説、三潴郡の「踊り念仏」にも登場します。三潴郡の江上の里の「吸い殺し田」の呪いを小菊という娘が舞で封じた話を豊饒美作入道永源という領主が聞き、感動して寺田三反三畝を寄進して「西方山九品寺」をこの地に建立したと。

以前、鑑述を検索したとき、豊饒弾正忠直弘(ぶにょうだんじょうのちゅうなおひろ)から伸びる系図もどきに「鑑述美濃天文頃」があった。鑑述の次の行に「永源美作入道 筑後国方分」、その先に「美作兼松城主」「大蔵天文頃」と続いており、これらがシンクロした。

おつしろう。よくしらべておくれだね。ありがとうの三乗のこころなりよ。
まさかこんなに早く、そこまでわかるとは、おもってもみなかった。
よかった。ここでかんどうのなみだ。ありがとう。

そうだったのか。
ぶにょう・・・。ほうじょうとばかりおもいこんでいた。
三島由紀夫の「豊饒の海」のせいだろうね。古典をやるといろんな縛りから自由になれるからいい。

「三潴郡の江上の里の「吸い殺し田」の呪いを小菊という娘が舞で封じた話を豊饒美作入道永源という領主が聞き、感動して寺田三反三畝を寄進して「西方山九品寺」をこの地に建立したと」

これですが。すいころした。って、なんどす。
吸い殺し田。それほど深い田んぼなんだ。
ってことは、しづの田ってことなんだろうね。
八女戦国百首和歌にある。なんとなくわかる。

八十九    橋     頼運

これも又憂世をわたる心かは
賤が深田を越ゆる柴橋

すいころした。ここの上のほう10分の1くらいあたりのコメントにあります。
   ↓

「久留米城」史に豊饒永源の記述を見つけた。
「天文二年(1533)から翌年にかけて大内勢が筑後へ侵攻し、大友方と戦闘を交えた。大内軍の杉興房(すぎおきふさ)が久留米城を攻撃、城将・豊饒永源(ぶにょうえいげん)は支えきれず敗走した。」(吉永正春氏 「筑後戦国史」)
兼松城でも豊饒氏が君臨していたようだが、天文24年頃の兼松城主は誰だろう。上述から、その頃には「永源」は失脚し、豊穣氏は次の世代となっている可能性も大きい。兼松城主は豊饒鑑述か。永源の源をミドルネームにして源鑑述と名乗っているかも。城島氏とは友好を保ち、鎮時と鑑述は仲良く歌を詠みあっている。

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