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2009年1月31日 (土)

連句誌れぎおん冬64号に答えがあった!

連句誌れぎおん。

初めて読んだのはいつだったろう。一目でひきつけられた。
まったく他の俳句誌とは違っていた。わたしは夢中になった。
その頃はまだ甲子園にいらした前田編集長に文章を送り、初めて載せて貰った時のことを鮮明に覚えている。
13号で『俗の細道』という連載随想を持たせてもらった時の晴れがましさも。

今、かささぎの旗では天文24年の八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむことに集中しておりますが、主たる読み手である竹橋乙四郎がやむをえぬ窮状のため休場となり、かささぎは一人で光りものを集める作業を続けます。そのうち事情は好転すると信じて。かささぎは竹橋乙四郎を信じている。

れぎおん冬号が届き、やっと時間がとれたので読む。
今朝まで引用をさせていただいた『連歌師』の鶴崎裕雄先生の連歌の留書!
疑問だった「百首和歌」というジャンルへの答えが載っていました。
あっと思いました。これは引用しなければいけない。
氏への断わりもなくこんなことをしていいのだろうかと躊躇しつつ。
無礼の段は、おゆるしください。

『直江兼続と寄合の文芸』

      鶴崎裕雄  

今年(平成二十一年)もNHKの大河ドラマが新しく始まった。主人公は直江兼続、原作は火坂雅志(ひさかまさし)の小説『天地人』である。

直江兼続は越後の戦国大名上杉謙信に仕え、謙信没後、上杉景勝を助けて活躍し、名宰相と呼ばれた人物である。時は織田信長から豊臣秀吉・徳川家康と天下人がめまぐるしく交代する動乱の時代であった。上杉景勝は信長と相争ったが、秀吉とは友好関係にあった。秀吉が命じた無謀な朝鮮出兵にも参加した。
しかし慶長三年1598秀吉は上杉氏に会津百二十万石への国替えを命じた。
会津に移った後、まもなく秀吉が病死。
上杉景勝は、秀吉に代わって天下に睨みを効かす徳川家康とは対立する。
家康が会津の上杉氏を攻めんと出陣すると、京・大坂では石田三成が家康討伐の兵を挙げた。関が原の合戦である。結果は徳川方の勝利。三成と手を組んだ上杉氏は米沢三十万石に減封、百二十万石から三十万石、四分の三のリストラである。

連歌や俳諧・連句は複数の作者、いわゆる連衆で創作する文芸である。
この他、中世には継歌(つぎうた)が流行した。継歌は、複数の作者が歌題に従って百首とか五十首とかの歌を短冊に記し、読み上げ役の講師(こうじ)が題の順序で歌を披露する。
この歌の順序は、おおよそ春夏秋冬の四季・恋・雑である。
雑というのは、四季や恋以外の、海や山・松や芝・馬や鶏・旅や名所・神社仏閣など季節を表さない様々な物である。
参加した詠者は題に従って歌を詠み、講師が読み上げる参加者全員の歌を聞く。自分の感情や意志を捨てて歌の世界に没頭する。
それは前句に従って付句を詠み、創作と鑑賞を楽しむ連歌や俳諧・連句の世界と同じである。寄合の文芸である。

戦国時代、連歌や継歌を愛好する武将たちが多かった。
三好長慶や細川幽斎たちは連歌の名手であった。
『天地人』に登場する上杉景勝も直江兼続も連歌を詠んだ。
特に直江兼続は漢詩文の教養が深く、和句と漢句を交えた和漢聯句または漢和聯句の作品が多い。

昨年平成二十年十一月の下旬、誘われて山形県東置賜郡高畠町・川西町を訪ねた。高畠町では亀岡の文殊堂に奉納された『亀岡文殊堂奉納詩歌百首』を拝見した。これは関ヶ原合戦の結果、会津より米沢に減封されて移転した翌年慶長七年、米沢藩領にある亀岡の文殊堂に直江兼続ら二十一人の主立った上杉家家臣や有力寺院の僧侶たちが催した継歌百首である。歌題は兼続の実弟大国実頼が選んだとある。兼続主導の歌会であろう。四分の一のリストラという上杉家一大事の時、この続歌奉納は家臣の心を一つにし、揆を一にする精神を高めたことであろう。
寄合の文芸の一つの特徴である。

  鶴崎裕雄:帝塚山学院大学名誉教授。連歌師。

(連句誌『れぎおん』2009・冬・64号より引用しました。)

参照記事:

細川幽斎http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%B9%BD%E6%96%8E

三好長慶http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%85%B6

直江兼続http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E5%85%BC%E7%B6%9A

上杉景勝http://tikugo.cool.ne.jp/osaka/busho/uesugi/b-uesugi.html

連歌師5・紹巴  鶴崎裕雄

連歌師ー政治的な、あまりにも政治的な人たち

     鶴崎裕雄

紹巴の場合ーその3

本文の前半は高野山の武力放棄により安全と仏法相続の瑞相があること、後半は秀吉が「高野の木食ではなく、木食の高野である」と応其を高く評価したことが記されているが、果たしてどこまで秀吉の言葉か信じがたい内容である。
ただし会談の時、秀吉の傍に木食応其と聖護院道澄・昌叱・紹巴がいて、末座に高野山の使節がおり、次の間に諸大名が控えるというのは、多くの出席者がいて、でたらめは書けない事実であろう。
その後も秀吉は文化人や芸能者を交渉の場や会談の席に侍らせる。
また講和の使者として派遣することもあった。

天正十五年、秀吉は九州に攻め入って薩摩の島津勢をうち破った。
薩摩の国守島津義久は頭を丸めて上洛し、しばらく京都や大坂に滞在した。
その間、連歌会が催された。
連衆は玄旨(細川幽斉)・興山上人(応其)・白(聖護院道澄)・義久・紹巴・昌叱・心前・文閑・賢家・宗波・幸侃たちである。
このうち幸侃は義久の重臣伊集院忠棟である。
この連歌、かなり政治的な色合いの濃いものであったろう。
秀吉の命を受けた応其や紹巴たちが敗軍の将を慰めたり、説得したりする。
そんな一環として連歌が行われたのではあるまいか。

文禄二年1593秀吉の後継者、関白豊臣秀次は聚楽第で公家や門跡を招いて連歌会を催す。
紹巴も昌叱とともに連衆に加わった。
二年後、秀次は謀反の嫌疑で追放され、自害する。
秀次に連座して紹巴も三井寺に蟄居を命ぜられるが、その前にもう一つ、重大な晴れの連歌会に参加している。

文禄三年三月、秀吉の母大政所の三回忌に高野山青厳寺で行われた『高野参詣百韻』である。
発句は秀吉、脇は青厳寺住持興山上人(応其)、以下、連衆は聖護院道澄・右大臣今出川晴季・常真(織田信雄)・紹巴・徳川家康・玄旨(細川幽斉)・前田利家・伊達政宗ほか、いかにも秀吉好みの錚々たる顔ぶれである。
文禄四年、紹巴は秀次に連座して近江の三井寺門前に蟄居を命ぜられる。
与えられた百石の知行地も没収された。
帰洛を許されるのは二年後の慶長二年1597。
秀吉が亡くなるのはさらに二年後の慶長四年。
帰洛後も紹巴は連歌活動を続けたが、慶長七年、七十八歳(七十九歳とも)の生涯を閉じた。

紹巴の生涯、特に晩年を見ると、塞翁が馬を思い出す。
文禄四年、秀次に連座して近江に蟄居した二年間、それまで与えられていた富も名誉も消失した。
ところが秀吉没後、豊臣政権は崩壊し、徳川氏によって江戸幕府が樹立する。
紹巴と、いつも紹巴とともにあった昌叱の子孫たちは、幕府御連歌師里村北家・里村南家として、江戸時代三百年の連歌界に君臨する。
毎年正月十一日、江戸城で行われる柳営連歌のため、京都から江戸へ旅立つ。豊かな生活を保障された御連歌師。
晩年に紹巴が憂き目を見たことは子孫たちにとって塞翁が馬となったが、残された柳営連歌の作品にはさほど文芸の香は漂っていない。
御先祖様があまりにも政治的だったことが、連歌の生命力を削ぎ取ってしまったのであろうか。

        (了)

『連歌師』 鶴崎裕雄  

  『文学』(岩波)2002・9,10月号より全文引用。

2009年1月30日 (金)

連歌師5・紹巴  鶴崎裕雄

連歌師ー政治的な、あまりにも政治的な人たち

      鶴崎裕雄

紹巴の場合(その2)

この年、永禄七年、長慶が亡くなると、三好三人衆や松永久秀が覇権を競うが、永禄十一年には織田信長が入洛する。以後、紹巴は信長の家臣たち、細川藤孝(後に幽斉)や明智光秀の連歌会に名を連ねる。
天正六年1578、羽柴秀吉は西国攻めの出陣を前に紹巴宅で戦勝祈念の千句連歌を張行した。連中には秀吉・紹巴のほか、白をはじめ、紹巴が後見する昌叱や連歌師心前たちが一座した。白は近衛家出身の聖護院道澄の一字名、秀吉政権と関わりの深い門跡である。この頃、連歌会場によく紹巴宅が使われている。連歌師宅を連歌会場に使うことは連歌師の収入を増やすことになったのだろうか。

天正十年五月、本能寺の変を前にして明智光秀は有名な『愛宕百韻』を張行した。
例の「ときは今天が下しる」の発句に、土岐氏の流れを汲む光秀自身が天下を握ろうとしたといわれている。この連歌、最初の初折表八句は次の通りである。

 ときは今天が下しる五月哉  光秀(夏=五月)
 水上まさる庭の夏山      行祐(夏=夏山)
 花落つる池の流れをせきとめて 紹巴(春=花)
 風に霞を吹き送るくれ     宥源(春=霞)
 春も猶鐘のひびきや冴えぬらん 昌叱(春=春)
 かたしく袖は有明の霜     心前(冬=霜)
 うらがれになりぬる草の枕して 兼如(秋=末枯れ)
 聞きなれにたる野辺の松虫  行澄(秋=松虫)

作者名の下に季と季語を示したように、夏春冬秋と四季がすべて詠み込まれている。連歌は初折表と名残裏には八句、初折裏・二折表裏・名残折表には十四句詠むが、普通、一つの面に四季をすべて詠むことはまずない。表八句には季語のない雑の句を入れるゆとりがないので、すべて季移りという雑の句を挟まずに直接季節を変える手法を使っている。妙な百韻連歌である。この話をすると、研究仲間の一人が、やはり『愛宕百韻』には呪術的な要素があるのかといった。そんな講談調の話には乗りたくないが、『愛宕百韻』は不思議な連歌である。
紹巴はこの不思議な連歌に参加した。後日、光秀が敗死した後、紹巴は秀吉から光秀の発句について問責されたというが、七月には藤孝の主催する信長追善の懐旧百韻に出座している。

天正十二年、秀吉が仙洞御所の造営のため現地に赴いた時、紹巴が毛氈を敷き、金屏風を立て回して一盞を勧めた。『兼見卿記』同年十月四日条に、

筑州着座、公家各対座、菓子有一盞之儀、初献筑州、次徳大寺殿、其外次第不同、無正躰、次筑州発句云、

 冬なれとのとけき空のけしき哉   秀吉
 さかへん花の春をまつ比       紹巴
筑州一段褒美、依此儀百石紹巴ニ遣之、即折紙於当座遣之、天下之面目実儀也、次第三幽斉へ所望也、即云。
 あたらしき御庭に松を植そへて   玄旨 
筑州褒美、機嫌なり。

とある。紹巴が秀吉に取り入ろうとする具体例である。
秀吉から百石の知行を与えられたことに注目したい。
このように秀吉との接触を深め、紹巴は秀吉政権に参画するようになる。
天正十三年、紀州攻めの後、秀吉が高野山の使節と会見する時、紹巴はその場に立ち会うこととなった。一年後、木食応其の書いた覚書を見よう。応其は高野山側の使節として会見に臨み、以後、秀吉の知遇を得て、これまた秀吉政権に参画する人物である。

 太閤様御雑談之趣、木食記録之一札
   御座敷御人数之事
上様 
拙僧木食 昌叱 聖護院殿 紹巴
末座ニ為金剛峰寺使節衆徒両人、次の間ニ諸大名
    

御諚之意趣者、高野山之儀、二世之御願所ニ永代被召置上者、寺領等勿論不可有相違。所詮衆僧如法之行儀可為肝要。後代ニ雖為弱武士、其寺於令異見者、猶可相随。自然其砌対武具、少成其存分たてを仕候者、重而強武士出来候時、必可加退治。然者数珠のつかまてを取候事、山も安全ニして、仏法相続之瑞相也。又次ニ木食一人ニ対し高野を立をかせられ候間、高野の木食と不可存。木食が高野と可存旨、各衆僧ニ申聞之由、両度おしかへし、被成御諚候。先以、愚老悉奉存。誠日を経ても猶感涙難押。致帰山、御言葉を其のまゝ一字ももらさず一紙ニ記したてまつる。一代教主之御説法も、此外ニあるべからず。ありがたく覚え侍りける。

     木食興山上人

   (つづく。)

引用は岩波書店『文学』2002年9、10月号より。

団塊の世代と  久留米の記憶

光華楼のボーリングじょうは、私もいったことがあります。上の姉が高校生で、男子から誘われたけど、あんまり行きたくない。あんたもついておいで・・という感じでつき合わされました。小学校の頃です。広又材木店も、覚えています。一番街が寂れていくのとは裏腹に、広又は発展し、ホテルや高級焼肉店などできております。このホテルは「じゃらんを見た。」といって予約すると割引が効くという事です。青森からのお客さまはここをいつも利用してます。長崎の妹たちも。西鉄から近いし、さんきゅっぱでとまれるということです。いえ、ホテルの回し者ではありません。

 「久留米にロイリーがあった頃」の続きです。またまたぼんさん、小頭町3丁目に「べら安」という食堂があるのは知らないでしょうか。ぼんさんが子どもの頃は別のところにあったかも知れないけど、ここの先代か先々代は西鉄ライオンズの私設応援団長で、それで経営が傾いて今の所に移ったという噂も聞きました。私は24~25歳の頃、ここの子どもの家庭教師をやってたことがあります~その子たちももう40代なんだろうな、今度久留米に帰ったら行ってみようかな。
 「すいこうえん」は「翠香苑」で、ホテル・宴会場・結婚式場など?うちの弟も、そして藤井フミヤもここで結婚式&披露宴をやってます。その頃テレビでフミヤが言ってたのと弟の場合と同じ感想~披露宴のビデオがまるで翠香苑のコマーシャル・ビデオみたいだった!
 光華楼は私の中華料理屋の原点?考えてみれば経営者翁さんも、中華料理、映画館(ロイリー・文化会堂など)、ボーリング場と多角経営してたんですね。そしてお嬢さん(と言ってももう50代後半)は久留米の「フォークソング界」で活躍していました。1970年前後の久留米フォークソング事情についてはまたいずれ。広又の今昔についても言いたいこといろいろあるけど、また今度。

はいな。

おや、夕べここに書いた記憶があるのに残ってない。送信せずに消してしまったようだ。
自分ひとりの記憶ではあやふやが多くなってきている。兄(s 20年生)姉(S23年、25年生)たちに聞いて詳しい事をリポートしてきます。

うわ。ぼん。そんなにぎょうさん兄姉がいたの。そりゃ、すごい。

く、く、く、妹と弟も一人ずついる。6人きょうだい。
私には、兄、姉、妹、弟全てそろっている。だから円いのかもしれない。

 うちの姉もS25年生まれなんで、ひょっとしたら諏訪中で同級生だったかも~でもそん頃は1学年14クラスだったらしいからその確率は…計算しきらん。私にはあとS30年生まれの弟がいます。

ろいりーさん。一学年14クラス。団塊の世代は何年生まれまでを指すのでしょうか。
私たちの小中は、3クラスでした。
一クラス、33~35人くらい。中学では五クラスだったかな。記憶あいまい。

でも、ぼん。うちの母は十人近いきょうだいの真ん中あたりですが、丸くありません。
きょうだいの真ん中というのは、やさしいか、根性がうんとわるいかの両極端みたいです。

「団塊世代」とは確か堺屋太一が名付けた言葉で、ウィキペディアによると狭義では1947年から49年までの3年間に、最も広い定義としては、45年から53年までに生まれた人々だそうです。私の感覚ではうちの姉(1950年生)までが下限かな?諏訪中のもう一つ上は15クラス、私の時は12クラスでした。それが中学としては当たり前だのクラッカーと思っていた。兄弟の真ん中はやさしいか根性が悪いかの両極端、当事者の私に言わせれば、その両方を併せ持っているのでは。

ろいりさん。
そうですね、その通りです。パチパチパチ。
苦労をすると、それだけ心のキャパシティが大きくなる。
どうも書かれていることから推察しますと、ろいりさんは二歳年上でいらして、ということは広義の団塊世代に入る。では又お聞きしますよ。
その一学年14クラスや12クラスが、一気にがたっと半分くらいに減ったとき、あまった教室はどうなったでしょうね?あまった先生たちはどうなさったでしょうね?きになります。

23年生まれの姉の時は、16クラスだったように思います。29年生まれの私たちは11クラスでした。
100番以内にはいっておれば頭のいい子でした。1クラス45人ぐらいかな。広川に転校して、成績が50番ぐらい上がったけど、広川は7クラス。昔は成績、廊下に張り出してあったんだよね。出来がいいときはなんとも思わなかったけど、下がったときは嫌だったね。
プチ自慢。転校していった時、クラスの男の子の半分から年賀状が来た。一生の中で、一番持てたひとときでした。

2009年1月29日 (木)

おつしろうのピンチ

「保健医療経営大学にペナルティ」。

テレビニュースは残念ながら見ませんでした。
でも今朝の新聞にのっていたのは。
こういう性質の違う違反を二件いっしょくたにして論じる書き方はとても印象が悪い。
幹部ぐるみの悪事って書いてあったけど、それは言い過ぎだ。
そういう性質の違反ではない。
単にそうしなければ開学に間に合わなかったってことなんだ。
かささぎはそういうふうにみています。
詳細なウラを知りませんが、そのようなことで他の悪質な学校同様のペナルティを課すのは、風評被害のダメージを伴う手厳しい制裁だと感じます。なぜこの時期にそういうことをするのでしょうか。
もっとも、生徒も先生方も、まったく気にしている風ではありませんが。

連句的にかいてしまおう。今しかないからね。
かささぎの夫は去年道路交通法違反で捕まった。
最近、何気なく立ち寄ったあるサイトで、さも極悪人みたいな書き方をされているのを偶然読み、なんともいえないきもちになりました。去年の新聞記事(かささぎは知らなかった、報道されていたことを)から実名を拾ってです。一滴も酒を飲めないのに、飲酒運転で捕まったかのような書き方でした。無責任な。
そうじゃないんだ!!とかささぎは声をあげたかった。
うちのおとうちゃんの免許の点数がなくなったのは小さな違反をこつこつとつみあげた結果なんだぞ。ばーろー。免許がなくなったのはそんだけ一所懸命会社のために家族のために営業をやっていたからなんだ。くるめとやめの山の中を一日何往復していたか知りもしないで。なにも知らんで人をわるくいうな!なにも罪をおかしてないとはいわないけども、でも、事故をおこしたわけじゃない。一旦停止義務違反とか信号が黄色で発進したとか小さな違反のたびに高い反則切符の罰金払ってきたんだし、もう、免許もなくなった今、鞭打つのはやめて。日本の警察は金儲け至上主義で血も涙もないのか。もうじゅうぶんな制裁を受けてる。仕事も失ったし、家族も失いかけた。もうこれ以上、ささいなことで悪くいうのはやめて。

ああ気分がわるくなった。
はなしをころっと連句的にとばします。

おなじ思いの人、みつけた。

この人。やった!わが同士よ。ううう・・

ttp://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20080920

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連歌師5・紹巴  鶴崎裕雄

 連歌師ー政治的な、あまりにも政治的な人たち

        鶴崎裕雄

紹巴の場合

連歌師の生涯で誰が一番面白いかと聞かれたら、紹巴と答えたい。
紹巴は同じ秀吉政権と深く関わりのあった千利休に匹敵する波瀾万丈の生涯を送った。
出生は奈良興福寺の小者の息子。周桂に連歌の手ほどきを受け、周桂没後、昌休に師事した。昌休没後は昌休の子昌叱の後見を勤めた。紹巴も連歌会を通して、宗祇・宗長・宗牧といった先輩の連歌師と同じように、時の権力者に取り入った。実隆以来、二代にわたって公家文化を代表する三条西公条の許に出入りし、天文二十二年1553には妻を亡くしたばかりの公条を吉野の花見に誘い出して奈良・高野山・吉野・信貴山・天王寺へ案内する。公条の紀行『吉野詣記』の冒頭に、

 紹巴とて筑波の道に心ざし深くて、このころ都に住まひし侍りて、夜昼来訪ひかり。しかも敷島の大和の国の人にて、道たどたどしからず、吉野の花見るべきよしいざなひけり。

とある。この旅行には、一 吉野の花見、二 亡妻の供養、三 父実隆の追善、
四 太子信仰の巡礼という四つの要素が考えられる。六十七歳の老躯に鞭打っての長旅、金剛山へは山伏姿になって登った。紹巴はこの老貴紳を助けて旅したのである。

弘治年間から永禄年間の前半1555-1564、三好長慶が畿内を支配した。長慶は連歌に熱心で、あの『猿の草子』の作者が「連衆、さて誰か有べきぞ。当時の先達なれば宗養召下さばやと思へども、河内の飯盛へ下向のよし聞及間、打置くぬ」と皮肉っぽく筆を走らせる通り、河内の飯盛城を居城とする長慶の許にはまず宗牧の子宗養がいた。永禄六年1563宗養が亡くなると、紹巴が長慶の連歌に相伴した。永禄五年、長慶と宗養が両吟百韻を詠んだ。永禄七年、長慶と紹巴が両吟百韻を詠んだ。宗養を偲んだ懐旧連歌とはいうものの、永禄六年の宗養の死を挟んで連歌界の主座が宗養から紹巴に移ったことを象徴するようである。

2009年1月28日 (水)

連歌師4・宗牧   鶴崎裕雄

連歌師ー政治的な、あまりにも政治的な人たち

     鶴崎裕雄

宗牧の場合

天文十三年1544宗牧は息子の無為(後の宗養)たちを伴って、白川堰など歌枕を尋ねる東国の旅に向かった。『東国紀行』の旅である。『東国紀行』の冒頭から前関白太政大臣近衛尚通の臨終の場面があって、

 八月廿六日早朝より大事にならせ給ひて、初夜巳前に薨じたまひぬ。此ほどいかにもたしかにましまして、御成の両度。右京兆毎日伺候。御門跡御所に集まり給ひ、いろいろの御遺言、来し方行く末の御物語こまやかなりとぞ、

と、あたかも宗牧自身がその場にいたかのように描かれている。宗牧のこの紀行、全体に自分がいかに高貴な人々と接しているか、いかに権力者たちと親しいかを書き連ねているように思われてならない。しかしそれらは事実であって、話の捏造はないであろう。ただし二、三箇所、連絡が付かなくて、土地の豪族が慌てて見参するといった場面があるが、これは物語の綾と云った程度であろう。

簡単に『東国紀行』の行程と訪ねた諸豪族を見ると、天文十三年九月二十日、京都を出発して近江の石山寺、十月、観音寺城の六角定頼、十一月、伊勢の員弁川流域の北方一揆の国人たち、桑名から尾張の那古野(名古屋市)の織田信秀、十一月晦日、伊勢に戻り、栗原や浜田(四日市市)の俵藤田の子孫という田原党の国人たち、閏十一月、伊勢湾を渡って知多半島から三河に入り、岡崎の松平広忠、西郡(蒲郡市)の鵜殿氏や松平氏たち、十二月、豊中から富永(新城市)を回って遠江を急ぎ、駿河の府中(静岡市)の今川義元の許で越年、翌天文十四年二月、伊豆の熱海の湯に湯治して、相模の小田原の北条氏康、三月、鎌倉を見物して、武蔵の神奈川(横浜市)から江戸に出て浅草の観音を拝み、隅田川を渡る所で紀行は途切れている。この後、宗牧一行は下総・下野を経て白川堰を一見し、下野の佐野まで帰って来るが、宗牧は病を得て客死する。

右に挙げた以外にも、宗牧が訪ねた豪族は六角氏被官の進藤氏や永田氏、知多半島の本庄氏・水野氏、東三河の牧野氏・菅沼氏、遠江の井伊氏、今川氏被官の朝比奈氏などまだまだあって、宗牧がいかにこれらの諸氏から歓迎され歓待されたか、どれほどの餞別を得たか書き連ねている。

まず、宗牧が『東国紀行』で最も書きたかったことの一つ、後奈良天皇の女房奉書を託されて、尾張那古野の織田信秀と三河岡崎の松平広忠に伝えたことを見よう。
伊勢の員弁川流域の北方一揆の面々と別れた後、次のように記す。

 是より参河渡海と定め侍りしを、其の年織田弾正禁裏御修理の儀仰せ下されるに依り、平手中務丞まかりのぼり、御料進物納む。其の後叡感(えいかん)の趣をおおせくだされたくは覚しめしながら、所々出陣など聞こしめしをよばれ、旁とかくをこたられしを、態勅使など下さるべき事は国の造作なれば、我等下国に女房奉書などことづてらるべきよし広橋殿より仰せ聞かせられたり。便路とは申しながらはゞかりおほくて、しんさくの趣、再三申しあげたれども、しゐて仰せなれば御請けを申したり。この次で参河へまかり仰せ下すべしとて、是は典侍殿の御局より三条右府へ仰せのむね伝へ上られて、御局さま御盃御服など頂戴の事なり。面目身にあまれる事なり。

京都を出発前、宗牧は織田信秀に女房奉書を伝えるよう依頼された。信秀が禁裏修理の費用を進上した感状である。さらに松平広忠にも女房奉書を伝えることとなった。宗牧は、再三の辞退に拘わらず、引き受けることとなったとはいうものの、女房奉書といい、頂戴した御盃御服といい、まさに「面目身にあまれる事」である。文中の平手中務丞は信秀の重臣平手政秀。広橋殿は武家伝奏の大納言三条公頼である。『東国紀行』に、宗牧の京都出発の直前、公頼も但馬へ下向したが、その折、宗牧は挨拶に参上したとある。

桑名から津島を経て那古野に着くと、宗牧は平手政秀の歓待を受ける。翌朝、織田信秀に会見するのであるが、その前、桑名から連絡すると、

 今度、濃州に於いて不慮の合戦、勝利をうしなひて弾正一人やうやう無事に帰宅。無興散々の折ふしながら早々まかり下るべきのよし返事あり。

とある。この年の秋、信秀は美濃に兵を進めたが、手痛い敗北を喫した直後であった。傷心の信秀にとって禁裏からの女房奉書は大きな励ましとなった。というより、権威の回復に大いに役立ったはずである。霜台こと、弾正信秀との会見は次のようにある。

 翌日、霜台に見参。朝食巳前、女房奉書・古今集など拝領。今度不慮の存命もこのためにとてぞ有りける。家の面目之に過るべからずなど、敗戦無興の気色も見えず。濃州之儀一度本意達す事侍らば、重ねて御修理の儀ども仰せ下され候やうにないない申し上ぐべき云々。武勇の心きはみえたる申されやう、御言伝めいわくも忘れて、老後満足也。

この後、例によって連歌会が催されるのであるが、敗軍の直後なので、織田邸を避けて平手政秀が催すこととなった。三河岡崎の松平広忠の場合は、出陣の最中で、宗牧の知人安部大蔵も到着した日は不在、翌日に会った。しかし「石川右近茶湯用意とてずいぶんのふるまひどもなり」と丁重にもてなされ、次いで、

 松平三郎かたへ去年三条西殿下向。いさゝか進納の事ありけむ。其の御礼として女房奉書達し侍り。

とある。先の織田信秀に較べるとかなり簡単な書きぶりである。禁裏の扱いに差があったのか、元々両者の上納額に差があったのか。

こうした名誉を伴った旅行である。
先々の豪族たちの送迎ぶりを見ておこう。まず伊勢湾では豪族の同名衆が警護に当たる。

 これより知多の大野のわたり七里となむ。舟の事かねがねいひつけられて、天気も大切の事にて急ぎ侍り。息彦次郎殿をはじめ、湊ちかき小庵にまちかまへられ、餞別の盃・・・この海にもふたがりとて賊難有りとか。警護の侍あまた、同名左馬允をのせたれば、おぼつかなからず。夕なぎして暮れはてぬほどにをしつけたり。

東三河の山中を越えて遠江の井伊谷(静岡県引佐町)へ向かう途中、富長の豪族、菅沼氏や今泉氏の送別の宴の後、井伊氏の迎えに会う。途中、井伊一族の出城からは引き留めることもできないといって酒肴が送られる。夜、宿所に着くと、早速、井伊氏の当主直盛が来て明日の連歌を懇望する。

 このわたりまでむかひくるらんなど申すもあへず、深山をこえて、侍の四五人、井伊殿同名彦三郎迎へとてさきへ案内あり。いそぎ行くほどに、かた岡かけたる小城あり。これも井伊一家の人。今日谷まで下着あひさだめたれば、抑留にをよばずとて、使僧して樽さかなをくらる。馬上盞の躰なり。初夜の過ぎに和泉守所へ落ち着きたり。次郎殿やがて光儀。明日一座の懇望。

第一節で見た『宗祇終焉記』とこの『東国紀行』を比較すると『東国紀行』の送迎の方がさかんで賑々しいことに気付く。およそ四十年の間に連歌師に対する世間の評価が変化したのである。

もう一つ、同時代の公家の駿河下向と比較してみよう。弘治二年1556中納言を辞退した山科言継は駿河に向かった。一例として『言継卿記』弘治二年九月二十一日条を挙げよう。

 今朝飡(さん)以後発足、過三里着引馬、人夫伝馬之事、飯尾着三郎に遣太刀雖申遣、三川へ出陣留守云々、母も三里計仏詣云々、太刀取て帰了、宿にて一盞受用、亭主に牛黄円一員遣之、次引馬川渡之、次天龍川舟渡有之、船ちんの儀及び喧嘩、但所之長馳出、先無事候了、移刻、次過三里着目付衙了、

朝食の後、引馬(浜松市)に着き、人や馬を頼みに今川氏の家臣飯尾氏を訪ねるが留守、土産に用意した太刀は渡さずに持って帰る。旅宿で酒を飲み、亭主に薬の牛黄円を遣わす。言継は医薬に詳しく、道中、何かと薬を贈り物にする。天龍川では船賃のことで喧嘩をし、土地の長老が仲裁に入る始末。三里過ぎて目付衙(磐田市)に着く。何ともはや、締まりのない道中である。豪族たちの送迎を受ける連歌師宗牧の旅とは雲泥の差といえよう。

(つづく。つぎは、連歌師じょうは。紹巴。)

引用:岩波書店『文学』2002年・9・10月号より。

竹橋乙四郎と橋爪章のあいだ 2   

橋爪章の仕事が紹介されています。

http://mytown.asahi.com/nagasaki/news.php?k_id=43000000901270003

いずれ消えてしまう記事です。

写真みてたらおかあさんそっくりなのですね。
お父上に似てると思っていたので、あれっと思いました。

橋爪章は小学校の同窓生、それ以外に接点はありません。
公立中学一年のとき事情があって熊本の仏教系私立中に転校していった彼は、それきりわたしたちの視界から消えました。成人式にも、来てなかったと思います。

で、ふたたび目の前にあらわれたのは、同窓会。

記事:http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_c941.html

文章でならなんでもへいきで聞けてしまうかささぎは、この友達を質問攻めにしてその後の消息を知りました。

東大に受かったのに気象大学を選んだ。
それなのに、その気象大学を中退してる。

おやの視点で考えると相当な辛抱を要したろう。

ものを書く人としての竹橋乙四郎。

これは運命でありましょう。
ちょうどのときにかささぎの旗が目に入った。
旗を振っていたのはかささぎであり、その背後のなにかですが、彼にはそれが見えたのです。八女戦国百首和歌をまだ世に出していないと思うかささぎは、それにのってくれた竹橋乙四郎に大きな希望を感じます。

いぜん戦国百首は与えられたしごととして目の前にあります。
ひとりではとけません。
みなさまのご協力をお仰ぎたてまつる次第です。

2009年1月27日 (火)

連歌師3・宗長  鶴崎裕雄

連歌師ー政治的な、あまりにも政治的な人たち

       鶴崎裕雄

宗長その3

宗長の交渉を知るのに面白いのが尊経閣文庫蔵の『飯尾文書』である。
『飯尾文書』は室町幕府奉行人飯尾氏に伝わった文書で、飯尾氏の許に届いた書状の一部の収集である。
江戸時代、加賀の前田家に入り、尊経閣文庫に収められている。この中に遠江の羽鳥荘の年貢を巡って今川氏側からの十一通の書状がある。『飯尾文書』は飯尾氏の許に届いた書状だけが残されているので、飯尾氏が送った書状はない。案文のような写しでもあれば、応答がわかるのであるが、ここでは今川氏からの一方通行である。遠江の羽島荘は、現在の浜松市、天竜川の右岸、東名高速道路インターチェンジの北にあった。『飯尾文書』に残された今川氏の書状十一通は、今川氏奉公人福島範為の八通、宗長の二通、氏親の一通である。以下にその内容を紹介しよう。

①の書状は永正八年四月三日、飯尾貞運宛福島範為の返書。
これより以前、幕府奉行人飯尾貞運より今川氏の許へ羽島荘の年貢の催促の書状が送られたのであろう。
貞運の書状はすぐ氏親に申し届け、このことは相阿にも伝えたといい、今後も連絡してほしいと記す。
相阿は将軍の同朋衆で『君台観左右帳記』を著した水墨画家相阿弥真相ではなかろうか。

②は七か月後の永正八年十一月八日、相阿宛福島範為の書状。
関東での北条早雲の和談のこと、馬の進上が困難なことなど、種々細々と書き連ね、羽島荘については今川氏の使者堆持者を上洛させて申し上げると記す。

③は同日、十一月八日、飯尾貞運宛福島範為の書状。
羽島荘は交戦中の斯波氏との境の地のため年貢の徴収は遅れているが、氏親も等閑には思ってないと記す。
この時代の羽島荘の所領関係は不明であるが、今川氏の守護請けとなっていたのであろう。
今川氏が駿河より遠江へ進出しようとする時期で、幕府に対して遠江での今川氏の勢力をアピールする必要があった。

④は永正八年十一月十六日、宗長宛福島範為の書状。
範為が宗長に意見を求める書状で、はなはだ興味深い。
羽島荘の年貢分として来年、金十両を送ることに氏親も納得しているが、この方針で良いかと相談する。都の公家や幕府の武将たちの事情に通ずる宗長にとって外交問題の相談にあずかることも役割の一つであった。
それでは、なぜこの宗長宛の範為の書状が京都の飯尾貞運の許にあったのか、答えは⑥の貞運宛の宗長の書状にある。

⑤は永正八年十一月十八日、飯尾貞運宛福島範為の書状。
羽島荘の年貢を来年より送ることを伝える。

⑥は同日、十一月十八日、飯尾貞運宛宗長の書状。
宗長自身の近況を述べ、羽島荘について範為より相談を受けた④の宗長宛福島範為の書状を送ると記す。④の宗長宛の書状がなぜ飯尾文書に含まれているかこれでわかるのであるが、いかにも今川氏側の手の内を見せるような宗長の外交に目を見張る思いがする。

⑦は同日、十一月十八日、相阿宛福島範為の書状。
羽島荘の年貢として来年、金十両を送ること、斯波義達の井伊山出陣に対し、範為も出陣することなどを記す。

⑧は永正九年十月十一日、飯尾貞運宛今川氏親の書状(この書状は現在『武家手鑑』に入っているが、元は『飯尾文書』にあった)。いよいよ羽島荘の年貢金十両が送られた。

⑨は永正九年十月十三日、飯尾貞運宛福島範為の書状。
前の⑧の氏親の書状とともに金十両を今川氏の使用堆侍者に渡したと伝える。

⑩永正九年十月二十三日、飯尾貞運宛宗長の書状。
金十両を送ったこと、来年正月には伊勢山田まで行くが、山城の薪まで行きたいと記す。

⑪永正九年十一月二十六日、飯尾貞運宛福島範為の書状。
羽島荘の年貢金十両と公儀(幕府)へ二万疋の進上を伝える。

長い紹介になったが、『飯尾文書』は宗長が今川氏の政治に関与した具体例を示す史料である。宗長の場合、駿河の今川氏との関わりが強く、政治的行動も主に今川氏の範囲に留まっている。ところが、次の宗牧や紹巴の場合は、禁裏や天下人と関わって、さらに全国規模へと拡大する。

(次はいよいよ問題の“宗牧”。お楽しみに!)
八女戦国百首の「牧也」は「宗牧の弟子」かも知れない。
時代と名づけがそう言ってる。

ザビエルの右手  火葬土葬対話篇6

再び、素朴な疑問。
なぜザビエルの右手は切り取られたのか。
「ザビエルの右手」で検索したら、
けっこう有名なハナシだったのですね。
ローマ法王に彼の死を報告するために切り取られたのであるらしい。
今でも右手はミイラ化して保管されているとも、ザビエルの遺体が腐食しなかったとも。
ザビエルの右手。

このキーワード、なぜだ、妙に胸にしみる。

追伸。
マラッカのセントポール協会にあるザビエル像も右手がない。これは後年、落雷で右手が落とされたんだそうだ。これを読んでたら、背中がぞわっと。いやいや、まじで。こわっ。

       山下整子

こわ!
足の指も欠けてたりして・・・

「あの方が息絶えられました」
「そうか。では丘からおろせ」
「ご遺体はどうしましょうか」
「東方では御魂を煙とともに送ると聞くが」
「特別なお方には特別な方法で畏敬を、ということですね」
「いかにも」
・・・
かくしてあの方は、「復活」の奇蹟を演じることができなくなりましたとさ。

▼ ウラ取り調査報告
火葬は多くの燃料と技術と費用がかかる。
あえて火葬にするには意義付けが必要。
最初に火葬された天皇は持統天皇。
お釈迦様は火葬でした。
日本で最初(700年)の火葬が記録(『続日本紀』)されている人も僧侶。
明治政府が明治6年に火葬禁止令を布告したが、仏教徒の反発で明治8年には廃止している。火葬は仏教文化らしい(しかし、仏教徒であっても、近世までは土葬が主流。仏教伝来以前も、6世紀後半の古墳に火葬の痕跡あり)。
仏教に近いヒンドゥー教も火葬。屋外で薪で焼かれ、川に散骨する。
ネパールで見たもんねー。焼かれている遺体が悶えているようにも見えたが、気のせい、気のせい。
ユダヤ教と、それに近いキリスト教、イスラームでは、最後の審判の時の死者の復活のためにもとの体が必要と信じられたりして、日本(ほぼ100%)ほど火葬は普及していない。
なお、死体は放置すると腐る。腐敗防止のためには、腐敗菌が増殖しないよう低温を保つか、腐敗菌への酸素供給を遮断しなければならない。

そのネパールでみたもだえてる死体、まだ生きとったんやで。
なんで見殺しにしたんや。しらゆきひめのはなし、しっとるやろ。
しんでもしんどらんねや、なにかの拍子にいきかえることもある。
ってことはないだろか。まんがいつ。

   かささぎ

ザビエルがなくなったのは、12月。遺体は棺に石灰を詰めて海岸に埋蔵されたが、4ヵ月後、マラッカに移送された棺を開けたところ、奇跡的に腐食していなかったという。
寒さ、塩分、石灰。なにがさいわいしたのだろうね。腐敗菌への酸素供給の遮断。神がかりではないか、これ。

    山下整子の整理。↑

へえ。そうだったのか。せいこさん、ちゃんと調べてくれてありがとう。
海岸に埋蔵される。埋葬じゃなく?
前に引用したけど、正岡子規の句。
中国人外交官(を父に持つ)若き友が日本で客死したのを悼み詠める(っていうような前書き)。戦時中の句。

早蕨や日本の土に殯(かりもがり) 子規

上五の季語、早蕨じゃなかったかも。
山でとれる山菜だったのはたしかだけどたけのこやつくしではなかった。
この句の雰囲気は、土葬。かささぎは、じゃ仮に葬った死体を取り出したら、どうなってるかな。と老婆心で心配した。

    かささぎの旗ひめの

タイタニック

つんのめる姿で歌へ天城越え  恭子

なぜか石川さゆり天城越え。連句の付け句がよろけでてきた。

朝晩ブログにつきっきりで、何の因果か竹橋乙四郎のおともをいま必死でさせられていますが、わが夫とはこんなに付き合ったことなど一度もなかった。とふと思う。
天敵のような関係。
このとおーいい厳しい絶壁のかもめ啼く距離感。
それをわれはひたすら愛す。

ふうふには他人より遠い時と間があるんだよ。
そのおかげでたくさんきづけみえてくるんだよ。(あいだみつを風に)

多様性をみとめあうところから、ふうふははじまる。
そして、
多様性をみとめあうところから、連句ははじまる。

夫に限らず人様をたびたびいやな目に陥らせるかささぎには、人間性とかなんとかそんな高尚なものはきれいさっぱりお諦め下すって、またあのあほが程度で気長にお付き合い下さい。かささぎって鳥は絞め殺したいほどいやな鳥なんです農民には。
でもなぜか天然記念物でとっちゃだめなんです。

世の中はそんなもんだよおとっつぁん。けっ。

で、タイタニック。

私はみたことなかったのです。やっとみることができた。
なにがよかったか。
老女優さんのきれいな青い目。
うつくしいひとでした。ヒロインはもちろんきれいで。
男優さんも魅力的で。

で。

死体を切り離すタイミング、絶妙の間。

愛する男が死んでる。でも、自分は生きてる。
と気づく、近くに船。
笛を鳴らす。其の前に、えいやっと死体男を切り離す・・・

なんてこったい。これまでのろまんてっぃくなはなしが。

あれはどうみたって、リアリティがある。
こいつわかってんじゃん。と
かささぎはぎょっとして、ここでひざをぽんとうつ。
ゆきてかへるこころ。このことか。

次は四月の頭に堺屋で又連句会やりますんで、どちらさまも、よろしくおたのもうします。
神戸から前田圭衛子師もいらしてくださるとのことです。
このどんぞこも底を打ってきていることを、今はただ願う。

おべんとにあと一品

おべんとにあと一品

家族の中で私だけはお弁当持参。
上は三つ桃印と書かれた、明治屋で98円のもの。安い!
ひたひたの油で揚げ表面をぱりぱりにしたらおいしい。
ていねいに一個に一個、グリンピースが乗っかってる。
きっと手仕事だろうとおもいます。うううれしい。

長男が「久留米の会社だよ」といいます。
えっと袋をひっくりかえしますと、確かに。
久留米市梅満町とありました。
へえ!
うめみつ町にみつもも食品。しらなんだ。

参照:みつもも食品九州工場:久留米市梅満町

http://www.mitsumomo-kyushu.co.jp/

連句的参照:http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_01e2.html

2009年1月26日 (月)

連歌師3・宗長  鶴崎裕雄

連歌師ー政治的な、あまりにも政治的な人たち

      鶴崎裕雄

宗長その2

こうした縁で宗長は、実隆を通して禁裏御料所の年貢の催促を頼まれることもあった。実隆の日記『実隆公記』永正七年1510五月七日条に、実隆が宗長に返事を書き、武蔵国住人三田弾正が所望している書物も書き遣わしたと記した後、

 就中上総国畔蒜庄者御服御料所也、件在書摩利谷某当時押領也、彼者三田弾正知音也、内々可相語試之由申之、予奉書所望之由宗長申之間、調愚状下賜三田弾正了、

と記す。畔蒜荘は千葉県君津市・木更津市の小櫃川流域にあった禁裏御料所の荘園である。これが小櫃川上流の真利谷に本拠を持つ上総武田氏に押領された。武蔵の勝沼(東京都青梅市)の三田氏は上総の武田氏と親しいという。実隆は顔の利く宗長に三田氏を通して武田氏に働きかけてくれるよう頼むのである。そのため宗長の指示通り三田氏が所望している書物を書き遣わし、奉書を用意するのである。奉書は女房奉書だろうか。

このように宗長は仲介を得意とした。いや、仲介の労を執るのが好きであったのかもしれない。宗長が得意げに語る仲介の話、それは『宇津山記』に記された永正十四年春の出来事である。宗長は今川氏親より甲斐国の勝山城(甲府市)に包囲された駿河勢二千余人の解放を交渉するよう依頼された。
「貴命そむきがたくて」というように氏親の依頼どころか厳命である。武田氏の支配する甲斐国に内紛が生じた。氏親は甲斐の国人と言い合わせて二千人余の兵を甲斐国に投入した。ところが甲斐の国人が心変わりして、駿河勢が勝山城に包囲されてしまった。宗長は甲斐の知人の館に入って交渉に臨んだ。甲斐の知人とは武田信虎である。『宇津山記』には、

 廿八日知人の館にいたりぬ。一折の連歌興行。

 世は春とおもふや霞峰の雪

 五十日におよび敵味方にさまざま老心をつくし、まことにいつはりうちまぜて、三月二日、二千余人一人のつゝがもなくしりぞき・・・

とある。「真に偽り打ち混ぜて」とは交渉の様が彷彿とする。
「一人の恙もなく退き」こそ宗長の誇りであろう。
相手の館に着くや連歌を始めるところがいかにも連歌師である。
相手も宗長と連歌をすることを心待ちにしていた。
その瞬間をぬって交渉の糸口を捜す。

宗長が交渉に連歌会を使うのは『東路のつと』にも見える。永正六年1509のこと、宗長は関東一円の歌枕を求め、日光や草津を巡った。白川関にも脚を伸ばそうとしたが、生憎の合戦と洪水のため、断念を余儀なくされた。その途中、江戸で上杉建芳に会って建長寺天源庵のために領地の交渉をした。

 江戸の館に六七日におよべり。連歌三百韻あり。

 霜寒き松ゆく田鶴の朝日かな
 雪は今朝水に積れるみぞれかな
 遠山に心は雪の朝戸かな    建芳

 「心は雪の」といへるあたり、古めかしくてしかもまた珍しげ也。一日隔てて、面白かりし会席也。
即ち、かの天源庵領二か所、返しつけらるべきよし、厳重のことなり。顕方も一所あり、同じく返しつけ畢る。都鄙今の折ふしには、希有のことなるべし。

とある。建芳は上杉朝良の法名。朝良は扇谷上杉氏の一族の出身で、養子になり、扇谷上杉氏の家督を継いだ。扇谷上杉氏は山内上杉氏と争いを繰り返しており、永正元年には武蔵の立河原(立川市)で山内上杉勢を破ったものの、翌年には川越城で大敗し、家督を養子朝興に譲って江戸館に隠棲していた。隠棲生活の徒然、宗長との連歌に心を和ませた朝良は宗長の申し入れを聞き入れ、天源庵領の返還に応じた。しかも顕方の押領した天源庵領まで返されることになった。顕方は長尾顕方、山内上杉氏の重臣。これら天源庵領がどこにあったのか、朝良と顕方との交渉がどのようになされたのか、不明であるが、宗長が「都鄙今の折節には希有のこと」というように、押領された荘園が返還されることは、当時としては珍しいことであった。なお群書類従本や太宰府天満宮西高辻家本には顕芳のことは書かれていない。

(つづく。あと一回分あります、宗長。・・・かささぎ)

クルスって何だ?  乙四郎語録46

   竹橋乙四郎

▼来栖神社の由来

・・・に関する詳しい解説がありました。
ものの由来を調べる時に神社が手掛かりになることを悟ったので。
苦すい時の神頼み。
   ↓

http://www5b.biglobe.ne.jp/~yottyann/19493844/

(来栖神社 読みました
東北 茨城に 油売る土蜘蛛アマゾネスが何で登場するんですか
瀬高のゾ山のあるじだったでしょう・・・かささぎ)

▼来栖さん

上記のリンク先の記述にこういうのがあった。
「一般に日本人の姓は名詞と名詞の組合せか、形容詞と名詞の組合せで成り立っているが、来栖さんは動詞と名詞の組合せで珍しい語感になっておられる」
地名もそうだろうか。
わが納楚は動詞と名詞の組合せ。
気になるもう一つの地名、筑波。山崎宗鑑が編纂した『犬筑波集』。なぜ「筑波」なのか。
つくば市のホームページ(http://www.city.tsukuba.ibaraki.jp/53/370/570/000575.html)に由来があった。

「筑波山の『つくば』という名の由来については,いろいろなお話があります。
奈良時代に書かれた常陸国風土記(ひたちのくにふどき)によると,筑波は,昔,紀の国と呼ばれていました。崇神天皇(すじんてんのう)時代,ツクハコの命(みこと)という大和朝廷から派遣されてきた筑波地方の初代の長官が,「自分の名をこの国につけて後世に伝えよ」と言ったことから,紀の国が『ツクハコの国』となり,後につくばとなったのだということです。
また,江戸時代の筑波山のお坊さんが書いた本には『神武天皇(じんむてんのう)の時代に,東の海が逆流して国中が海になった。だが筑波の山が高かったので波はさえぎられ,それで筑波から西の方は水びたしにならずにすんだ,だから,築波(つくば)山と名付けた』のだとあります。

さらに,『筑(ちく)』という言葉は,琴に似た楽器を意味します。
「むかし,天照大神(あまてらすおおみかみ)が父イザナギ母イザナミの二神を慰めようとして筑をおひきになった,すると鹿島の海がさかまいて,波が山頂に着いた,だから『着波(つくば)』と名付けた」とか, 「筑をかなでて波を動かした,つまり,筑の音で波が動いたので『筑波』と名付けたのだ」という説もあります。」
筑の動詞的用法の「築く」「着く」説より、ツクハコ説や筑(ちく)の音説のほうに個人的軍配。

「かすみのころもすそはぬれけり」への守武の付句「さほ姫の春たちながら尿をして」(佐保姫は春の野山の造化をつかさどる女神)。<犬筑波集>

土蜘蛛についての読みごたえあるページ。これから読みます。
   ↓

http://app.f.cocolog-nifty.com/t/comments?__mode=red&user_id=6513&id=54573986

追伸:

土蜘蛛のページ、降参。ついていけない。
土蜘蛛=土着農民ということくらいしかわからず。

連歌師3・宗長  鶴崎裕雄

連歌師ー政治的な、あまりにも政治的な人たち

    鶴崎 裕雄

 宗長の場合

宗長七十歳の自叙伝『宇津山記』に、

 予つたなき下職のものゝ子ながら、十八にて法師になり、受戒加行灌頂などいふ事までとげ侍りし。はたちあまりより国のみだれいできて、六・七年、遠江国のあらそひ三ヵ年うちつゞき、陣屋のちりにまじはりしかども、口ばかりには精進ぐさきあざみやうの物までぞをくりし。

とある。宗長は出家した十八歳のころから駿河守護今川義忠に仕え、戦陣の塵にも交じった。義忠は文明八年1476遠江出陣の帰途、敵の残党の夜襲にあって戦死した。宗長が都に出て、宗祇の許で連歌師の道を歩み始めるのは、この義忠戦死の前後である。

宗長の上洛が義忠戦死の前であるならば、国守の許可を得た京都留学でなかったかと思われる。当時、すでに戦国大名的要素を内在する守護たちは、領国の権威を高めるため、さかんに都の文化を摂取しようとした。『朝倉高景条々』に、

 一、四座の猿楽さいさい呼び下し、見物好まられまじく候。其の値を以て国の猿楽の器用ならんを上洛せさせ、仕舞を習はせ候はば、後代まで然べからん。

とある。文芸の才能を認められた宗長が京都留学を命じられたのかもしれない。

その後二十年、明応五年1496宗長は駿河に帰り、義忠の子氏親の庇護を受ける、というよりも氏親に仕える。以後、宗長は上洛はするものの、居所は駿河に構えた。『宇津山記』に、

 匠作近き居をかまへ、春の草木、秋の木草を求め植ゑ池ひろく水ゆたかにして夏冬経べき八木の恵みしげく、朝夕の煙絶えず。

と記すのも、匠作こと、修理大夫氏親から豊かな生活が保障されていたことが窺われる。
二十年の京都での修行時代、宗長は宗祇に随行して、公家や幕府の武将たちの許に出入りし、越後の上杉氏や周防の大内氏をはじめ畿内の国人領主たちと交渉を持った。特に公家の三条西実隆、管領の細川高国と親しんだことは宗長の大きな財産となった。東海道を往復するうちに親しくなった豪族もいる。伊勢の関氏・尾張の織田氏・水野氏・三河の松平氏・牧野氏たちである。

連歌師2・肖柏   鶴崎裕雄

連歌師ー政治的な、あまりにも政治的な人たち

    鶴崎 裕雄

(1からのつづきです。)

肖柏は他の連歌師とは一線を画している。
正室の子ではないとはいえ、准大臣中院通敦の子であり、内大臣中院通秀の弟であって、歴とした公家の出身である。肖柏自身、他の公卿たち同様、歌人であって連歌師という意識はなかったのではないかと思われる。とにかく、後土御門天皇や後柏原天皇の許に昇って連歌に参加することができた。『実隆公記』明応元年1492十一月二十五日条には、

 御連歌如例、
 親王御方・按察大納言・中御門大納言・下官・・・
 肖柏等候之、一座遅々入夜終功、退出、

 御発句
 月やけさわれてものこるうす氷
 水うちかふる霜さむき山     肖柏
 風しほる松のひまより瀧見えて 中御門大納言

と記す。親王御方は後の後柏原天皇、按察大納言は庭田雅行、中御門大納言は中御門宣胤、下官は実隆。こうした貴人や高位高官の連衆の中で天皇の発句に脇を付けるとは、後で話を聞いた連歌師たちは肖柏の栄誉に耳をそばだてたことであろう。

肖柏は文明十四年1482ごろから摂津の池田に住み、池田・京都間を行き来する。池田では国人領主池田が勢力を持って、周辺の荘園を押領、特に現在の豊中市や箕面市に広がる興福寺領に侵出した。『蔭涼軒日記』文正元年1466閏二月十日条に、京都相国寺蔭涼軒の季瓊真蘂が有馬の湯治に出かけた時、葉山三郎という者から聞いた池田氏の噂を記している。

 当国池田筑後守、其子曰民部丞、云尤富貴無双也、

裕福な池田氏が話題になる。京都より比較的近距離にある摂津の池田には、公家をはじめ、歌僧や連歌師が池田氏の無双の富貴に引き付けられるようにして訪問し、居住する者まであった。肖柏もその一人であり、歌僧招月庵正弘も池田に晴雲庵という草庵を持った。肖柏も永正十五年1518より以前、堺に移住する。

肖柏には『春夢草』という歌集と句集があるが、両集とも部立になっていて、詞書きにはほとんど年月日や詠草事情は記されていない。幸い正弘の歌集『松下集』の詞書きを使って池田と堺における詠草事情を比較してみると、池田においては、池田若狭守正種、同名彦次郎正誠、池田兵庫助正盛という人名が並ぶように、池田氏のための歌会や追悼歌となっている。
これに較べ、堺はバラエティに富んでいる。
堺における歌会の場所や人名を拾ってみよう。
引接寺、永昌院、藤原家定、海会寺、季弘和尚、宗椿、小林寺、隆珍、清賀、藤原忠誠、常楽寺の鎮守天神、金光寺住持、通玄庵・・・とまだまだ続くが、堺にはこのように幾つもの歌会があり、幾人もの主催者がいた。応仁の乱で疲弊した都の人々を魅了する池田や堺であるが、池田氏だけが富を独占する池田と、遣明貿易で希代の有徳人となった湯川宣阿やその余慶にあずかる人々の住む堺とでは自ずから相違がある。やはり堺は自由都市というにふさわしい中世都市といえよう。

永正五年、管領細川氏に内紛が生じ、室町幕府にも、細川氏が守護を勤める攝津の国人にも大混乱が起こった。池田氏も二派に分かれて争った。こうした混乱を避けるかのように、肖柏は池田より堺へと移住した。そうした意味で、肖柏は本稿の副題「政治的な、あまりにも政治的な人たち」にそぐわない人物といえよう。

2009年1月25日 (日)

連歌師1・宗祇   鶴崎裕雄

「連歌張行の建物・部屋」を引用中ですが、その前に「連歌師」のほうを先に入力いたします。大至急!

走り読みしてたら、「宗牧」という連歌人の名が目に留まりました。
天文年間の越後の連歌師みたいです。では、では、八女戦国百首の牧也はこの連歌師の弟子でしたでしょうか。わかりませんが、「宗」の名を冠する者はみな、宗祇の名から派生した一派だったとみたい欲求に駆られます。こういう知りたい欲望に駆られての勉強は身につきます。それにしても、この本を神田の古書店の通信販売でもとめたのは数年前の暮だったと思いますが、何年も放っていたのに、今になってちょうど欲しい内容が載っていることに気づき、すごいことだったと心打たれる。

連歌師ー政治的な、あまりにも政治的な人たち

    鶴崎 裕雄

一 宗祇と肖柏の場合

文亀二年・1502宗祇は弟子の宗長や宗碩たちと越後より関東を経て駿河に向かった。宗長の記す『宗祇終焉記』の旅である。七月下旬、鎌倉近きところで千句連歌を行い、二日間の休息の後、

 廿九日に駿河国へと出立侍るに、其日の午刻ばかりの道の空にて、寸白と云虫おこりあひて、いかにともやる方なく、薬を用うれど露験もなければ、いかゞはせむ。国府津と云所に旅宿を求めて、一夜を明し侍しに、駿河の迎への馬、人、輿なども見え、素純馬を馳て来向はれしかば・・・

とあり、一行は力を得て、箱根山を越えようと湯本まで行くが、その夜、七月三十日、弟子たちに看取られて宗祇は亡くなった。

鎌倉近き所とは相模守護代上田館である。後述のように宗牧たちの旅には滞在先の豪族たちが送迎の人々を遣わすのであるが、この文章からは上田氏がさほど送りの人を付けたとは思えない。国府津まで来てやっと駿河からの迎えが来て、素純も駆けつけた。駿河の国守今川氏親が宗祇の来訪を心待ちにしていたことは、後日、十五夜の連歌の脇句でわかるのだが、この駿河からの迎えは宗長の依頼が大きいのではないかと思う。素純の場合も、氏親の命というより、古今伝授を受けようとする素純の個人的な行動と考えてよい。

宗祇の生涯を見ると、公家や幕府の武将、地方の有力大名の歌会や連歌会に出座し、さかんに交渉を重ねている。寛正五年1465ごろ、細川勝元の家臣安富盛長主催の『熊野千句』では管領細川勝元たちと同座。文明十年1478越後の上杉房定の許に滞在し、帰途、越前の朝倉孝景、若狭の武田国信を訪問。この後も越後には四度下向している。文明十二年、大内政弘の招きで周防から北九州を歴訪、大内氏の有力被官陶弘詮、杉弘相らと交わって『筑紫道記』を著述。
文明十四年、前将軍足利義政主催の百韻連歌で聖護院道興・実相院増運ら門跡と同座。文明十八年、『細川千句』で細川政元・同政春・薬師寺元長らと同座。このほか『源氏物語』や『伊勢物語』ほかの古典を講義し、そこには公家の子弟だけでなく、細川氏一族の者も顔を出している。こうした権力者との交渉はまだまだ続くので、列挙は打ち留めにするが、こうした交渉が、宗牧や紹巴のように政治絡みに進展することはなかった。宗祇の行動が政治を動かす、明確に政治に関与することはなかったといえよう。(「肖柏」の項につづく)

宗牧:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E7%89%A7

引用:『文学』2002・9、10月号より。

なお、かささぎは鶴崎裕雄先生とはれぎおん企画の「連句人による連歌興行」という催しで、一度同座した経験がございます。
きっちりといつであったかを思い出せないのですが、平成16年11月23日ころであった、と思うものです。あのとき前田編集長が招かれた連歌師は、日本を代表するお三方、島津忠夫氏、光田和伸氏、そして、この鶴崎氏でした。かささぎの印象では、三人のなかで、もっとも温和な先生でございました。あのときの座の、なんともいえない緊張感を、まだ鮮明に覚えております。出す句すべてが、光田氏によって「連句的!」と弾かれた屈辱も。かささぎ、全面敗戦の図でした。わすれられないなあ。

(そのときは、かれらがどれほど偉いひとたちであったのかを、かささぎは知る由もありませんでした。)こんな得がたい座を体験させてくださった、れぎおん、前田圭衛子師には感謝のほかはありません。

再びくるす野へ 語録45 ザビエル物語  

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

    竹橋乙四郎

くるす野に十月かかりて戻り来て
縁の力か座の持つそれか (乙)

ザビエルが鹿児島に上陸したのは、1549年8月15日。
荒木田守武が没したのは1549年8月30日(天文18年8月8日)。
キリスト世界と守武との間に接点はまずない。
しかし、辞世のうたには、キリスト教の教義への皮肉があるところが面白い。

つゐに行(ゆく)道を心にこととへば
こたへやらぬやをしへなるらむ

キリスト教は「つゐに行(ゆく)道」を明確にした教え。
死者の復活と来世の生命。すべての死者は審判を受けるべく復活させられる。
信じるものには来世の生命が与えられる。

▼ ザビエル物語
勘違いしてました。ザビエルは鹿児島から大分へ向かったのではなく、平戸や山口への2年3か月の布教の後、帰国に際して大分へ向かったのだそうです。以下、Wikipediaの引用要約。

フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier 1506年4月7日 - 1552年12月2日)。
ナバラ王国のザビエル城で地方貴族の家に育つ。5人姉弟(兄2人、姉2人)の末っ子。父はナバラ王フアン3世の家臣として宰相を務めた。ナバラ王国は1515年にスペインに併合される。
1525年、パリ大学に留学。哲学を学ぶ。中年学生イグナチオの影響を受け聖職者を志す。
1534年8月15日、イグナチオらとイエズス会を発足。イエズス会は世界宣教がテーマ。
1541年、リスボンを出発。アフリカのモザンビークで秋と冬を過す。
1542年5月、目的地ゴア(インド)に到着。同地に3年滞在して宣教活動。のちマラッカに渡る。
1547年12月、マラッカで鹿児島出身のヤジロウ(アンジローとも)に出会う。
1549年4月、ゴアで洗礼を受けたヤジロウら3人の日本人と共にゴアを出発。
1549年8月15日、鹿児島(鹿児島市祇園之洲)に上陸。
1550年、平戸で宣教活動。当初、通訳のヤジロウがキリスト教の神を「大日」と訳し、「大日を信じなさい」と説いたため、仏教の一派と勘違いされ、僧侶に歓待された。
1550年11月、都へ向かう途上、山口で大内義隆に謁見。男色(同性愛)を罪とするキリスト教の教えに大内が激怒したために山口を離れる。男色が公然と行われているのにザビエルは驚いている。
1551年1月、京都に到着。京で「日本国王」に謁見し、布教の許可を得る目的。しかし、戦乱で足利幕府の権威は失墜していた。僧侶たちとの論戦は比叡山から拒絶された。天皇への拝謁には献上品が必要と知り、滞在わずか11日で失意のうちに京都を去る。
1551年3月、平戸に戻る。山口へ向かい、再び大内義隆に拝謁。珍しい文物を義隆に献上。義隆は喜んで布教の許可を与える。
1551年9月、ポルトガル船が豊後に入港したという話を聞き、豊後に向かう。同地で22歳の大友義鎮に謁見。
1551年11月、豊後の港から出港。日本人青年4人とともにゴアへ向かう。
1552年2月、ゴアに到着。
1552年4月、日本布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国にキリスト教を広めることが重要であると考え、中国入国を目指し、8月に上川島(ポルトガル船の停泊地)に到着。しかし中国への入国はできないまま、体力も衰え、精神的にも消耗した。
1552年12月2日、上川島で病没。享年46歳。
遺骸はゴアに移され、1554年に拝観が許されたが、参観者の1人の貴婦人が右足の指2個を噛み切って逃走した。2個の足の指は、彼女の死後聖堂に返され、1902年、1個がザビエル城に移された。
1614年、右腕がイエズス会総長の命令で切断され、ローマに移された。この右腕は、1949年ザビエル来朝400年記念の際、日本で展示された。

>1551年9月、ポルトガル船が豊後に入港したという話を聞き、豊後に向かう。
なぜ長崎や鹿児島でなく、大分の港なんだろう?

昨秋、国際関係論の講義のためにカンボジアと日本の関係を調べていたとき、「日本には1541年に大分に漂着したポルトガル船が、大名の大友宗麟にカンボジア産のカボチャ (現在の日本カボチャ)を贈ったのが最初と言われています。この時にカンボジアから持って来たのでカンボジアがなまってカボチャと呼ぶようになったそうです」という文章に出会い、このブログにもカボチャは1541年伝来と紹介したことを思い出した(昨年の11月4日投稿)。
ちょっと待てよ、大友宗麟は1530年生まれだから、1541年には、まだ12歳。大名になるには早すぎ。このカボチャの記述の1541年は1551年の誤りでは。
この1551年のザビエルを乗せて帰ったポルトガル船こそ、現在、我々が美味しくいただいている日本カボチャの種をカンボジアから運んできた船では。
疑問がたちまち氷解した。漂着したんだね。
このポルトガル船が豊後の港に漂着していなかったら、ザビエルと大友義鎮との接点はなかったかもしれない。
月のさそへる船の行末が日本の歴史を変えたようです。

十ヶ月前はこの展開を予想もできなかった。
これが座の力だと思う。

去年(こぞ)まではみつると花にいつの世か
もしわすれずば人のことの葉

ふしぎなことに、おつしろうの先日の花の句が、この歌と呼応していました。

五百年花の香残す言の葉に  竹橋乙四郎

  (一月堺屋での胡蝶、花句)

雪の山茶花

雪の山茶花

雪の鶯

雪の鶯

2009年1月24日 (土)

歌の座といふ政治   乙四郎語録44

八女戦国百首和歌「夏日侍」をよむ

   竹橋乙四郎

整理整頓すると見えてくるもの。
鑑述の周辺では、1550年(天文19年)頃、武界再編が起きている。
一万田が橋爪になったり、高橋になったり。養子?

この年前後にスポットを当て、歴史年表をレビュー。

1549年(天文18)

肥前龍造寺が筑後侵略する。
肥後菊池が筑後侵略する。
荒木田守武が77歳で死去。死因は?死亡地は?
註(年譜に記載なし。「辞世の歌」あり。欄外にかささぎ引用。)
ザビエルが鹿児島に来てキリスト教を伝える。

1550年(天文19)

大友義鑑死亡。(二階崩れの変)
大友を謀反した筑後の溝口、西牟田、三井氏が大友側の田尻氏の鷹尾城を攻める。
大友義鎮は蒲池氏・田尻氏に溝口要害を攻め落とさせる。

1551年(天文20)

龍造寺隆信、肥前を逃れ蒲池氏をたより一ツ木村に隠れる。
山口の大内義隆、陶晴賢に討たれる。
義鎮は弟の義長を大内家当主として送り込む。

▼妄想的とんでも仮説:

とりあえず武界再編が一段落したところで、若き獅子たちが筑後で総決起集会をした。
アドバイサーとして第一線を隠居した老獪も招待。
時代を動かす新しい価値観を模索。
「キリスト教、というのはどうじゃろうか。薩摩から、すごい人心吸引力の宗教だという噂が聞こえてきている」
「いいかもしれん。義鎮殿に提言しよう」
「さっそく、ザビエルとやらを豊前へ招くアレンジをしましょう」
「でも、女癖の悪い義鎮殿が、はたして信心してくれるものでしょうか」
「あの方は超ドライだから、人心操縦の手段と割り切って信者を演じきることくらい、平気の平左でしょう」
「では、この地をキリスト教で治めるということで、ちゃんちゃん」
「ちょっと待て。表面的には西洋宗教の神への帰依を装っても、九州人としての誇りを忘れてはならないぞ」
「そのくらいわかってますよ。西洋の神の世なんて信じませんよ」
「そうだ、そうだ、日本国は君が代だ」
「では、心が揺らがないよう、皆、その思いを歌に込めて記録に留め置くことにしようではないか」

とんでも仮説の信憑性

ザビエルが大分で義鎮と会ったのは1551年(天文20年)。

常識的に、こんなことは偶然の出会いではあり得ず、周到なアレンジあってこそ。禅宗の信者で、それまでキリスト教というものをまったく知らない義鎮が、自主的にあやしげな宣教師を招待するなんてありえない。
またザビエルも、たまたま上陸地が鹿児島だったとして、布教ルートとして次の訪問先を大分にした理由もよくわからない。
こういうことをアレンジするのは誰か。

当然、取り巻きの家臣グループ、すなわち鑑述たちにほかならない。
八女百首メンバーには、大友家の外交事務を管掌した鑑続の弟、鎮續もいる。

1551年頃、キリスト教は大きな政治的意味を持っていた。
義鎮は、領内での布教活動を保護し、南蛮貿易を行った。
日本で初めて大砲を使ったのは義鎮。大砲には火薬の原料の硝石が要る。
“自分はキリスト教を保護する者であり毛利氏はキリスト教を弾圧する者である。これを打ち破る為に大友氏には良質の硝石を、毛利氏には硝石を輸入させないように”との手紙を出し、義鎮は宣教師に硝石の輸入を要請した。
義鎮はキリスト教に傾倒するあまりに寺社を破壊したといわれているが、破壊された寺社は選択的・限定的であり、大友に非協力的な寺社を潰し、寺社領を取り上げて家臣に与えるという政治的理由の方が大きかったとされている。
義鎮が大友領内でのキリスト教信仰を許可したため、家臣団の宗教対立が起き、1553年(天文20年)に一萬田鑑相、1556年(弘治2年)に小原鑑元が謀反を起こした(姓氏対立事件)。

まさに、八女百首の頃は、大友の家臣グループにとって、キリスト教は最もホットな話題であったに相違ない。

▼かささぎの感想:

ほへえ。おつしろうってすごいね!
ウラをきっちりとっとっとはね。
政治そのものです、座はまさに。

参照記事:

くるす野:http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_79fc.html

荒木田守武辞世三首:

つゐに行(ゆく)道を心にこととへば
こたへやらぬやをしへなるらむ

神路山こしかた行衛(ゆくへ)ながむれば
峯の松風峯の松風

去年(こぞ)まではみつると花にいつの世か
もしわすれずば人のことの葉

上記は『法楽連歌』の見返にあったものだそうです。

出典:『荒木田守武』俳祖守武翁顕彰会編・
平成11年8月8日

creative suffering

天津池さん

    山下整子(歌人・俳人・連句人)
    
八女郡広川町在住

わが家の近くにあるため池。
ただのため池なのに、地域びとは「天津池(あまつけ)さん」と「さんづけ」でお呼びになる。
まかふしぎなことじゃ。

そう言えばと、忘れかけていたふるい記憶が蘇る。

息子が中学生になったばかりのころ。
当時、行政区長をしていたおじが血相を変えてやってきた。
「天津池さんにボートを浮かべて遊んでいる子供がいるとの苦情を受けて見に行ったら、どうもお前んちのシュンスケのごたる。岸からやかましゅう怒鳴ってきたが、お前たちからもやかましゅう言うてくれ。
あそこは神さんのおらっしゃるところ。バチんあたっぞ」

そのころ魚釣りを始めたばかりの息子。
この池はブラックバスがうようよしているとかで、岸から釣れないので、友だち数人で、友達の父親が所有するゴムボートを浮かべ、まんなかから釣ることにするのだと言っていた。

やかましゅう言うもなにも、この母は、ゴムボートから釣ることを事前に報告されていたのだ。溺れないようにしなさいよとだけ注意を促して傍観していたのは、なんにも知らないこの母親であった。
「神さんがいる溜め池」なんて聞いたことがないし。

さて。町史にもどる。広川地名考から。

「天津池(あまついけ)」
つり鐘が沈んでいるとの伝説がある天津池の周辺地名。池そのものに天津神(あまつかみ)を祭祀することにちなみます。

水神信仰の項にも、
・・・智徳には天津池(
海士漬池)があって、天津神社が祭祀されています。
この池には天正時代のころに、銅鐘が池底に沈んだという二説の伝説が伝わっています。(中略)
天津池の本殿は池底にあると伝えられ、以前は池の中央に竹を立てて注連縄が張られていました。
との記載があった。

天津神ってのは、「記紀神話に基づき天降った神と伊弉諾・伊弉再尊の子孫神」をいうのだそうな。この池での雨乞いの様子も紹介されていて、どうやら水の神様がおらっしゃるらしい。

この池の由来を地域びとのみんながみんなご存知のわけではないのだろうが、やはりいにしえから信仰の対象として大切にあがめられてきたのに違いない。ここにも、信仰心の継承が伺える。

そんな信仰の対象物である「由緒正しきため池」での、それも、神さんの頭上からの「ボートからの魚釣り」を許可してしまった経験を持つ母は、あらためておのれの無信心ぶりを恥じ入るばかりである。

引用出典:http://tanka-souko.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-4563.html

▼ かささぎの旗ひめの

せいこさん。この
あまついけさんの伝説、ほんとはなにをかくしているのでしょうね。
たとえば。根性悪かささぎの推理。
ある時代雨がちっとも降らなくてすごい旱魃が続き米も麦もなにもとれず、飢えた。雨乞いもきいてくれない。そこで人身御供をときれいな乙女を一人水の底に沈めた。
ほら。あの吉田の中島さんの伝説。あれもほんとはどうだったのだろう。せいこ、旧姓中島じゃなかった。

▼ 31文字倉庫山下

かささぎどん。
ありえないハナシではないかも。
第一、なぜ、池の底に神様を祭ってるのかがわからん。
そういえば、ここには釣鐘伝説があった。

戦国時代のこと。
黒木郷の善応寺から西牟田城に送られるはずの釣鐘がここに転がり落ち、海士を呼び集めて引き上げようとしたが、どうしても引き上げらず、そのまま釣鐘はこの底に沈んでいるって伝説。だから、別名を
海士漬池とも呼ばれてるそうな。

雨乞いのために人身御供をさしだすって、
ホントにあったのかな?

▼かささぎの旗ひめの

あまがづけいけ?あまがづけとあまづいけ。
あまがつかっている。ような地名ですね。
人身御供は
あった。
かささぎはそれをみていたのでおぼえてる。
この国のいやらしいところはそういうところだとおもう。
それで逆のはなしにしたててきれいさっぱりしたかおで黙っている。
伊勢の斎宮に奉仕する斎王って職がありましたね。
あれはよく似ています。
女性が一生を棒に振るんです。国家の安泰のために。

脚注:

creative  suffuring ・・・キング牧師の歴史に残る演説
      “I Have a Dream.”に出て来る言葉。
創造的受難。ある状況に変化を生み出すための意味ある苦難。

さいくう、いつきのみや、さいわう:

http://www.pref.mie.jp/saiku/hp/nani/nani.htm

http://www.tv-osaka.co.jp/tokubetu/saio/ise/ise.html
   

天文歌人24人  語録43

八女戦国百首和歌「夏日侍」をよむ

   竹橋乙四郎

▼天文歌人24人の肖像(超ラフスケッチ)

これまでの整理整頓一回目

一 立春、十 桜、二十一 卯花、二十三 郭公、二十五 早苗、三十八 女郎花、四十一 萩、五十一 菊、五十九 雪、七十 初恋、七十六 恨恋、七十九 契恋、八十 暁、
以上
鑑述(あきのぶ・かんじゅつ。13首)
:豊饒美濃守鑑述。
1550年、溝口城を攻略。
兼松城主や久留米城から敗走した豊饒永源に近い人物。
1561年頃は竈門右京亮宇佐鑑述。

三 霞、六 殘雪、二十 更衣、三十 蚊遣火、四十三 鹿、四十五 露、五十八 霰、六十二 水鳥、八十五 山、九十 海路、
以上
鑑實(あきざね、かんじつ。10首)
:橋爪美濃守鑑実(1550年頃まで一萬田鑑実)。
1571年正月に俳諧を興行。高橋鑑種の兄。
(鷹尾城主は田尻鑑種。)

十五 菫、十八 款冬、二十六 照射、三十四 荒和祓、三十九 薄、五十 虫、六十五 鷹狩、六十九 歳暮、八十三 苔、八十七 野、
以上
鑑栄(あきひで、あきさか・かんえい。10首)
臼杵鑑栄。
大友義鑑の加判衆、臼杵長景の長男(?)で、長景を継いで民部少輔を称す。

二 子日、十三 呼子鳥、二十九 蛍、二十二 葵、五十三 秋田、五十六 時雨、六十 千鳥、九十六 述懐、
以上
鑑教(あきのり。8首)
:利光鑑教。大友氏の一族。大分郡鶴賀城(鶴ヶ城・利光城とも)主。

十七 藤、二十八 盧橘、四十 蘭、六十七 埋火、七十五 片思、九十五 懐旧、九十八 尺教、
以上、宗右(むねすけ、そうゆう。7首)
:北野神社関係資料に宗右の日野出雲守宛書状。

七 梅、二十四 菖蒲、三十七 萩、六十四 神楽、八十四 猿、九十二 離別、
以上、覚元(かくげん。6首)
:柳川城主田中吉政の血縁?

四 鶯、三十一 蝉、五十七 霜、六十六 炭竈、九十一 旅、
以上、鎮時(しげとき。5首)
:城島氏の24代目が大蔵丞鎮時。鷹尾城の田尻氏の血縁も大蔵姓。

十一 春駒、二十七 五月雨、三十五 立龝、四十六 槿、七十三 来不逢恋、
以上、嵐竹(らんちく。5首)
:荒木田守武に近い人?

三十三 泉、四十九 擣衣、七十一 纔見恋、八十二 竹、九十四 樵夫、
以上、宗房(むねふさ、そうほう。5首)
:調査中。未発表。

十四 苗代、五十五 初冬、六十三 網代、
以上、鎮續(しげつぐ。3首)
:臼杵鎮続。臼杵長景の長男(?)で長景を継いで1536年から1556年まで加判衆をつとめ大友家の外交事務を管掌した鑑続の弟。
鑑続の後任の志摩郡代。鑑栄の(義)弟?

四十八 月、七十四 度ゝ思恋、九十九 祝言、
以上、塩亀(えんき。3首)
:未調査

五 若菜、七十七 祈身恋、
以上、鑑秀(あきひで。2首)
:富来鑑秀。1501年頃、度牟礼城に籠城して田原軍(大内)に対峙。
鑑秀の妻は大友義鑑の娘。

八 柳、三十六 七夕、
以上、弘俊(ひろとし、こうしゅん。2首)
:調査するも時代相違のためやり直し。

九 蕨、十九 三月盡、
以上、孫七(まごしち。2首)
:内藤護道。室町中期の武将・連歌師。通称は孫七。
周防守護大内氏の家臣。宗祗の筑紫旅行の世話。

十二 帰鳫、七十二 不逢恋、
以上、鑑冨(あきとみ。2首)
:大友家奉行人の子。1550年、申次職として義鎮の側近。四半世紀後に鑑実の軍に討伐される。

十六 蛙、六十一 氷、
以上、牧也(まきや、ぼくし。2首)
:未調査

三十二 氷室、四十七 駒牽、
以上、松寿(まつひさ、しょうじゅ。2首)
:未調査

四十二 鴈、八十一 松、
以上、弘智(ひろとも、こうち。2首)
:未調査

四十四 雰、八十六 川、
以上、鎮光(しげみつ。2首)
:小田鎮光。のち、肥前小曲城主。

五十二 紅葉、八十九 橋、
以上、頼運(らいうん。2首)
:未調査

五十四 九月尽、八十八 関、
以上、通次(みちつぐ。2首)
:伊予石井山城主の弟、重見通次。
天文年間、周防に逃れる。

六十八 寒梅、九十七 夢、
以上、廣吉(ひろきち、こうきつ。2首)
:未調査

七十八 後朝、
以上、藤次(ふじつぐ。1首)
:本多藤次。天正十二年豊前国築上郡ニテ討死。

九十三 山家水、
以上、述秀(のぶひで。1首)
:未調査

出典:八女戦国百首和歌「夏日侍(なつひまち)」
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-9997.html

2009年1月23日 (金)

連歌張行のシチュエーション 2

1・19第一回http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-efc8.htmlからの続きです。なるべくそのままの引用をこころがけます。 

連歌張行の建物・部屋

     廣木一人

連歌張行にふさわしい建物、部屋を考える時、単に部屋自体の形態だけを問題にすればよいのではないことも注意すべきである。
部屋には室礼が必要であるし、その部屋がどのような庭に面しているか、どのような景に接しているかも重要である。『連理秘抄』には次のようにある。

 一座を張行せんと思はば、まず時分を選び眺望を尋
 ぬべし。
 雪月の時・花木の砌、時にしたがひて変はる姿を見
 れば、心も内に動き言葉も外にあらはるゝ也。おなじ
 くは、眺望ならびに地景あらん所を選ぶべし。山にも
 向かひ、水にも望み風情をこらす、尤も其の便りあり。

(ここで時間切れ。では行ってきます)

あと、なんが残ってる。

あと、何人残ってる。

調べようとし、これまでの記録をカテゴリー検索。
うわぐじゃぐじゃ。縦一列のカエルの卵紐状にだんだらりんと出てくる、どこまでもはてしなく。
うわあああ・・もうそれだけでどっとつかれた。やめたやめた。もうかえる。かささぎどんは巣にもどる。

おおっと、ここは自分の家だった。
おっとは帰る家がとばたにあるが、あたしゃカエル家、ここしかない。
いやでもここにいるしかない。ゆえーにかささぎ一家は一家離散。
こうなることはすくせのさだめ。いよっぺぺぺんぺんぺーんん。(三味の音)

いまどき、どちらさんも似たような光景であろうとは思いあげます次第でございますが、かささぎの家では早い話が三人の親をそれぞれ見ないといけないんであります。
そろそろ80になる一人暮らしの母を一人放ってはおけず、おっとはかえってゆきました。

ようしにはやれない。ようしじゃないとこまる。

果てしない平行線のいさかいをしてくださった双方のおやごさまも年をめされた。
どっちもちゃんとみるから。というのは約束でした。
ごっちゃらごっちゃらした糸、ほぐせばさーっとほどけてゆく。
もといた場所にかえるだけのこと。それだけのこと。

corgi

corgi

2009年1月22日 (木)

オバマ就任演説  番外篇連句的

竹橋乙四郎

▼オバマ大統領就任

福井県といえばオバマ。オバマといえば数時間前の就任演説。
次の一節が心に残った。(引用訳文は読売オンライン)

「我々のつぎはぎ細工の遺産は強みであって、弱みではない。
我々は、キリスト教徒やイスラム教徒、ユダヤ教徒、ヒンズー教徒、それに神を信じない人による国家だ。
我々は、あらゆる言語や文化で形作られ、地球上のあらゆる場所から集まっている。
我々には、南北戦争や人種隔離の苦い経験があり、その暗い時代から出てきて、より強く、より団結するようになった。
我々は信じている。古くからある憎しみはいつかなくなり、民族を隔てる線も消えると。
世界が小さくなる中で、我々に共通の人間愛が現れることになると。
米国が、平和な新しい時代の先駆けの役割を果たさねばならないと。」

そして、米国の指導者が、決して忘れないこと。

「我々の前に広がる道について考える時、今この瞬間にもはるかかなたの砂漠や遠くの山々をパトロールしている勇敢な米国人たちに、心からの感謝をもって思いをはせる。
彼らは、アーリントン(国立墓地)に横たわる亡くなった英雄たちが、時代を超えてささやくように、我々に語りかけてくる。
我々は彼らを誇りに思う。
それは、彼らが我々の自由を守ってくれているからだけではなく、奉仕の精神、つまり、自分自身よりも大きい何かの中に進んで意味を見いだす意思を体現しているからだ。
これこそが時代を決するこの時に、我々すべてが持たねばならない精神だ。」

さて、福井県。
嘘かホントか、八女の紙漉きの技術は福井県から流れてきたと耳にしたことがある。学生時代、全国郵便番号一覧の中から、福井県の九頭竜の近くに「橋爪」という地区があるのを見つけ、そこを目指して一人旅をした思い出も。「橋爪」のバスストップ、今も残っているだろうか。

就任演説の速報の検索中、たまたま見つけた別の記事。(すぐ消えるかも)
   ↓

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/214224/

▼かささぎの旗:ひめの

なぜ戦国百首をカテゴリーの君が代研究に入れているか、それを書きます。
江戸城開城で明治政府に政権がいき、あれよあれよと暦がかわる。西洋と対等に付き合いたくて、国歌を作る。そのとき乙骨太郎乙(ひさしぶり!つい乙四郎とかきそうになった)が、それなら大奥の儀式で歌われる君が代の歌はどうであろう。と諸賢にはかったところ、薩摩人がそれならおいどんのくににも琵琶歌がごわす。といい、長州人もうちにも似た歌がある。・・・、ということでピタッと意見が一致、これに決まる。
いまのように情報も意識もオンラインで結ばれてはいなかった時代、なぜにあんなにいきわたっていたのだろう、君が代。といぶかしく思っていると、八女の戦国の歌のなかにも冒頭歌として君が代が出てきていた。いわゆる賀歌というものだと思いますが。百首和歌という形式についてきちんと学んでいないので、うかつなことは書けませんが。
それで、そういうことすべての謎と和歌の歴史と、じぶんのなかに歴史をよみたいきもちの二兎を追いかけ、乙四郎がのってくれたのを幸い、よみ始めた次第です。読みながら考えながら走る歩く。

一月経ちました。

八女戦国百首は思ってた以上に深くて広い視野に開かれて立っており、決して「八女や筑後一円の地方武士の教養」などということばでくくれるものではありません。
座というものがすぐれて政治的であった時代の、第一級史料であります。
時代は麻のように乱れていたときであり、混沌が身分の上下や位置の東西南北をすべてひっくり返す。

謎がたくさんあり、今の常識が通用しない。
だから、とてもとてもおもしろい、新発見の山。
これまでだれも手をつけなかったのがふしぎです。
考えてください。こういう史料が全国にはたくさん眠っていることを。

〈連句的おまけ〉

去年アメリカ大統領選のみどころを教えてもらいにいった、あべしげさんのfacta、そこで学んだのは、命を賭して守るものがあることの価値でした。なんど懲りても戦争をやめぬ国アメリカの不撓不屈の根性の根っこにあるものに気づかせてもらいました。ものごとを一面からだけ見るのではなく、あらゆる角度からみることの大切さ。

考えてみれば、敗戦までの日本がもっていた(と思っていた)悠久の大義もそれであったろう。

情報誌『facta』編集長あべしげさんのオバマ記事:↓

http://facta.co.jp/blog/archives/20090120000812.html

▼ 八山呆夢(ぼん)の言葉。(旧姓・本多)

豊後本多氏の年表を覗いてきましたが、(本多一族の祖が同族かということの)こころあたりはまったくありません。(あたりまえじゃろ)父の父=祖父に会ったことはありません。物心ついたときにはすでに他界していたのだと思います。ばあちゃんの話だと(記憶によれば)宮大工だったといっていたようですが、兄が調べたら普通の大工だったらしいと。なにせ福井県福井市の生まれで、何の因果か久留米で商売を始めたわが父。福井の大火で、市役所も何もかも焼けてしまって、古い事はわからないと聞いておりました。なのに家系図があるところにはある。ミステリーです。

▼ 筑後の溝口地区

越前の日源上人と筑後の福王寺:https://www.city.chikugo.fukuoka.jp/chikugosyoukai/isan/isan_22.htm

あれ。検索では出てきませんね。

榎本武揚が記憶に残っていたのでしたが。たしか、像をたてて祀ったときの農政大臣だったとおもう。日源の像だけが出てきますが、ほんとはそのうしろに碑があって、文字が読めました。(数年前この寺を探してうろうろしたとき、近くの土手にとても古い神さびた神社があって、そこはなんといいますか、太古の森っていうような、気が非常に古いものを感受した。おそろしかった。有名な神社らしかった)

2009年1月21日 (水)

宗右の歌   乙四郎語録42

八女戦国百首和歌「夏日待ち」をよむ

    竹橋乙四郎

▼ 宗右の歌

宗右をさがせ!
北野神社関係資料(書状121点のうち119番目)
(宗右書状写)(天文15年〜23所務覚写共)
   ↓

http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/pub/tree/kitano.php

▼かささぎの感想▼

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宗右の出歌数七首というのは非常に多い数です。

これまで暇がなくて、誰が何首出しているかとか、何の題詠を出しているかなどの分析をまったくやっておりません。それをこうして電子図書館を使って、どこに何の史料が残っているとオンラインで知ることができる。すごい世の中になったものですね。

でも、せっかく乙四郎が上記史料を見つけてくれたのにもかかわらず、読むことはかなわないのでありましょうか。
どなたか、親切なかたが現れて、上の「宗右」なる天文年間の人物の残した文章をちらりと見せては下さらないでしょうか。また、ほかに心あたりがございますれば、ぜひかささぎの旗までご通知をお願いいたします。

これだけの歌を詠んでいる人物が外に名を残していないなどとは考えられないから。

さいごに、宗右は「むねすけ」でありましょうか、そうゆうでしょうか。

本多藤次の恋歌  乙四郎語録41

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

     竹橋乙四郎

▼ 藤次は本多一族の可能性大

恋歌

七十八   後朝    藤次

とはぬ間を待ちならひたる夕より
わかれし今朝ぞしづ心なき

本多藤次 天正十二年豊前国築上郡ニテ討死
本多家年表

   ↓

http://www5b.biglobe.ne.jp/~h-honda/kakeizu.(0).pdf#search='本多藤次'

78番「後朝」かささぎ読み:

昨夜あなたを訪ね、今朝、あなたとわかれてきました。
逢瀬を待ちかねている一人の夕べよりも、ずっと心が乱れるのは、あなたの気配がまだどこかに残っているからでしょうか。わたしはせつないのです。

▼かささぎの旗管理人の感想

本多と聞いて、まっさきにこころに思い浮かべるのは、徳川家康の一の側近、本多正信、そして、われらが盟友、ぼんです(旧姓本多)。一族だと確信している。

みちつぐー重見通次の歌  語録40

八女戦国百首和歌「夏日侍」をよむ

     竹橋乙四郎

▼ 通次の歌

五十四    九月尽    通次

長月もけふにうつろふもみじ葉の
かぜの跡とふ友のうれしさ

八十八    関     通次

せきもりの厳しく見ゆる陰ながら
行き過ぎ難き山さくらかな

重見通次:

伊予の人だが、天文年間は一族が戦いに敗れ周防(豊予海峡の関を隔てて、豊後、伊予の対岸)に逃れている頃。
通次の子の名前は孫七郎
一族伝統の「通」を命名しなかったのは、孫七に憧れていたためか。

=====================

 享禄三年(1530)、伊予石井山城主の重見通種は河野氏に背いた。
しかし、河野通直の命を受けた来島氏に攻められて、敗れ周防に逃れた。
弟通遠は通種に従い、討伐軍との戦いで戦死している。

通種の反乱失敗後、重見氏の家督はもう一人の弟通次が継ぎ当主となった。
通次は、元亀三年(1572)、三好氏との戦いに従軍。
翌年、大野直之討伐軍にも従軍した。
通次の子孫七郎は、元亀四年、父とともに大野直之討伐軍に従軍。

天正十三年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐に際して小早川隆景軍に降伏した。

郷土の偉人まごえもん

広川町の稲員孫右衛門安則

   山下整子(八女郡広川町在住歌人俳人連句人)

「稲員孫右衛門安則」といえば、広川町でも有名な歴史上の人物。
小学校4年生くらいで、必ず自分の町のおいたちなどを自分たちで調べる授業があるでしょう。そのとき、必ずといっていいほど、子供たちが出会うのがこのひと。
孫右衛門さん。
広川中学校体育館まえには、彼の多大な功績をたたえて、でかい石碑が建立されています。この偉大な人も「孫」がつく名前だ。

広川町史、ミニ人物誌から。

「稲員孫右衛門安則」(1633~1707)

寛永10年6月12日古賀村に出生、幼名は清七郎。
18歳で父安治の名代として所用をつとめます。
19歳で古賀組大庄屋職を拝命し、名を孫右衛門と改めます。
在職40年間に及び、隠居して斎右衛門と改名。
水利土工に長じ、在世中の事績は、溜池構築67箇所をはじめ、道路、橋梁、堤防、井堰、村移転と多岐にわたります。このゆえんを以って後世の人は、水利土工の大恩人と呼びます。
大庄屋職にありながら
高良山神職家の頭領としても大祭礼の再興など多くの功績を残しています。
宝永4年4月12日病没、行年75。

久留米にロイリーがあった頃

○元久留米人・呂伊利から

最初に私が投稿した時書いたように、私が生まれ育った久留米の家の隣に、1970年頃まであった映画館の名前なのです。
これに関することは出てないかと思って検索した結果、唯一ヒットしたのが「ぼん」さんの投稿でした。
これがかささぎさんのブログを知ったきっかけです。
ロイリーという名前の由来そのものは知りません、光華楼のそしてロイリー映画館や、さくらさんも行ったことのあるボーリング場の経営者だった翁さんに訊くとわかるのかな?
あとはまた「地域学」のコーナーでお会いしましょう、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ~オフコース風ではなく、淀川長治風に。(神津兵六)

◎八山呆夢から

ロイリーは10円映画があったところ。
赤銅鈴の輔か月光仮面かわすれたけど、木の格子のはまった牢屋に誰かがいて、助けを求めていた・・・様な記憶があります。かなり不確かですけど。(ぼん。旧姓、本多、久留米出身。)

2009年1月20日 (火)

久留米の記憶

久留米の記憶

      ロイリーあけぼのこと呂伊利記す

取りあえず?投稿者名を「呂伊利」としておきませう。
急に思い出した!
ロイリーは一時期「ニュー東映」系(東映の現代劇もの)の映画を上映していた。
で、さくらさん、大勝館の裏は映画館が2件並んでおり、久留米荘や田園あたりもふくめて「有楽町」と言ってました(私の父母や祖父母は「おぜき町」と言っており、正月父に訊いたら、「おぜき」という大地主?家主?の土地だったらしいです)。

「新世界」は大勝館裏ではなく、正面の大通りの向かい側から入っていくいくつかの路地です。「広又材木店」は小学校の頃、勝手に入って同級生と遊んだ覚えがあります。またボーリング場は、i池町川沿いにあった光華楼がやっていたところでしょう。
私は昭和46年3月、高校の卒業式の後、初めてここでボーリングを体験しました。
じいさんばあさんの世間話でよかじゃなかですか。

seikoさん、そん「木下」は、やはり私の高校時代からの腐れ縁的友人です。
今はワケありで糟屋郡に住んでます。私の父の出身地は広川であることしか知りません。
尋常小学校の頃両親とも亡くし、一時期現井筒屋の地にあった長屋?に住んで日吉小にも通ったことあるらしい。今でも広川小同窓生とのつき合いがあるみたいで、こないだ同窓生名簿(大正1926年4月~昭和2年3月生まれ)を見せてもらいました。ちなみに旧姓は大森です。
 
乙四郎さん、「どんどら」という地名を初めて知りました。
とにかく久留米市内以外はあまりわからないけど八女、その他久留米旧市内郊外(失礼!)のこと、いろいろ教えて下さい。

覚元の歌6首

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

       

▼ 覚元の歌

八女戦国百首『夏日侍』(天文廿4年癸卯 卯月廿四日)
覚元の号を持つ歌全6首。

七     梅        覚元

心ある友としミばや難波津の
花もさかりの香に匂ふころ

二十四  菖蒲       覚元

えにしなき身ハあだ波の菖蒲草
たが家づとのつまとならまし

三十七    萩     覚元

ほのめかす軒端の萩を来てみれば
露うちなびく秋の初風

六十四  神楽     覚元

祈てふ事はおろかにあらし世に
しらゆふかけてうたふ御神楽

八十四   猿(ましら)  覚元

秋の夜の月さへをそき山の端に
慰めとてやましらなくらむ

九十二    離別    覚元

中々にうき旅人にともなひて
わかるヽときの袖のくやしき

吉政の祖・田中覚元  語録39

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

     竹橋乙四郎

▼ 覚元

この中にいる。↓

http://members2.jcom.home.ne.jp/sengokubusyou/nigihayahinomikoto1.htm

系図上、田中覚元の右のほう、ひ孫のひ孫くらいにいる田中吉政(1548~1609)という武将に記録があります。ちょっと年代設定に無理があるかも。
「関ヶ原の役では東軍に属し、佐和山城攻撃に参加し、9月23日石田三成を逮捕した。戦後、その功により筑後国柳川城主で三十二万石与えられた。領内の産業振興に努め、自らキリスト教に帰依し、領内キリスト教徒を保護した。慶長14年2月18日没す。」

いくさ世的対話篇5

▼ かささぎの旗ひめの

長門守護職内藤孫七と戦艦長門の孫七。なんと不思議な暗合。

▼ 神崎さくら

いつも行くスーパーの隣に株式会社長門と言う不動産会社がある。
単に社長さんの姓が長門なのかもしれないが、写真を撮らねばと前から思っている。
昨日は「飛龍」と言う中華やさんのお店を撮ってきた。
勘だけどここはきっと「飛龍」乗組員だった人に間違いない。
今度「飛龍」の絵葉書を持って訪ねよう。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Screen/3222/itikawa1.htm
№30 山口多聞提督の最後

そうだ、深大寺に「多聞」と言うおそばやさんがあったぞ。

▼ かささぎの旗ひめの

さくらさん
孫七さんの長門に関する武勲 読んでも今一意味が分からないかささぎです
もし解れば噛み砕いて教えて下さいませんか
深大寺へは必ずもう一度行きますからねその時探してみます
きっとさくらさんは軍艦が切なかろうと思いました
甲板に鈴鳴りの水兵さんを見ていたら 私もさくらさんの気持がわかる

乙四郎
今息子を空手に送り車中から書き込みしてますが おでんを仕込み大和町史を読んでたら 正にその田中吉政の話と立花宗重の話
よしまさは子供の代で跡継ぎがたえ除封になる あとにまた宗重がすわる
その領石数がばしっとはしたの何升何合まで記載されております これには感動します

▼ 山下整子

おおっ。なんとタイムリーな。
かささぎどんと同じだ。

広川町史を読んでいて、田中吉政触書を含む7通の吉政関係文書が広川町の稲員家に保存されていて、稲員家文書として他の古文書と一括して340通が県の文化財の指定を受けたことが書いてありました。その中には、逸失したと思われていた忠政(四男である跡目)期の「上妻郡中掟」という、吉政の農村支配が伺える貴重な資料も含まれていたということです。稲員家といえば、古賀村の大庄屋に任命された家系。稲員孫右衛門の名前が見られました。
で、これを読み継ぐなかで、姫野家「家訓」というものに行き当たりました。甘木村(広川町内)の庄屋職を代々受け継いだ姫野家記とも言われるもので、田中吉政と広川谷の村々のかかわりを垣間見れるくだりがあったとのこと。

もうひとつ、孫のつく名前に遭遇。
入国法度之事
慶長六年に吉政花押のある領内統制の命令書の宛名書き。「大庄屋 夜明村孫兵衛とのへ」(歴世古文書所収)

昔の人って、よっぽど孫ってえのが好きだったのかねえ、まっつあん。子孫の孫。繁栄を祈るみたいな、ね。

▼ かささぎの旗ひめの

立花宗重じゃなく、宗茂でした。
それと、田中吉政は石田三成を捕らえた論功により筑後一国32万5千石を与えられた。と書いてあります。しかし吉政のあとを継いだ忠政が1620年に死ぬと世継ぎ断絶を理由に除封となる。
そこへ宗茂が10万9647石1斗9升7合の大名として再び入封した。すごすぎ。細かいはした!!
おつしろうもせいこさんもありがとう。ちょうど、おなじところをおなじ時間帯によんでいたのか。不気味。
おつしろうの紹介の系図、あっとおもった。まさかこの田中家につながるとはお釈迦様でもご存知あるまい。

地域学ともリンクしてるのですが、複数でコメントをやりとりしていると、なにか、大事な忘れていたことをおもいだせそうな気がする。
姫野家に関していえば、最初に読んだのは将士軍談でだった。つぎに夫が信仰している宗像の宮司さんが家紋からも調べてくださった。甘木家家老って書いてあった。でもその甘木家ってどこにあるのか知らなかった。おかげでわかった。広川であれば納得できる。約500年の歴史をもつ菩提寺も広川だし。戦国時代からの姓であれば、大分にも同じ姓の人たちがいる理由がわかる。追伸。うちはお百姓です。

▼ 竹橋乙四郎

天文24年頃の大友氏と大内氏との関係

Wikipediaの大友氏のその頃の記述です。
===================
天文20年(1551年)には大内義隆が家臣の陶隆房(陶晴賢)の謀反により死去すると、義鎮は弟の大内義長を大内家当主として送り込み、北九州の旧大内領はもとより、周防や長門にも影響力を誇った。弘治3年(1557年)に義長が毛利元就に討たれて大内氏が滅亡すると、周防・長門方面での影響力は失ったが、北九州の権益の大半は確保した。
===================
たまたま、堂々と大内と大友が同席できる時期だったようです。

宗右をさがせ!
北野神社関係資料(書状121点のうち119番目)
(宗右書状写)(天文15年〜23所務覚写共)
   ↓

http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/pub/tree/kitano.php

▼ かささぎの旗ひめの

芸がこまかい!
よくぞしらべてくださいました。
とことん調べますね。あたまがさがります。なみだでます。

感想。
やはり乙四郎はすごい。

▼ 神崎さくら

何千隻とあった帝国海軍の戦艦があの戦争で全て失われた中で、唯一最後まで生き延びたのが戦艦長門です。
その最後の艦長だった杉野修一さんの父親が杉野孫七さんで、日露戦争秘話として有名な人です。
最後まで生き延びたがためにアメリカに接収され、戦後ビキニ環礁での水爆実験に使われた。
最近の出来事では、長門の軍艦旗がオークションに出され、俳優の石坂浩二さんが1000万円で落札、呉の大和ミュージアムに寄付をした。
(石坂さんて実はそういう人)

戦艦に興味があるのは父が「金剛」に乗っていたということもあるが、名前がとても調子よくて良く覚えられる。
大和、金剛、愛宕に武蔵。
加賀、蒼龍、飛龍に赤城。
早霜、秋霜、岸波、沖波。
雪風、矢矧(やはぎ)に利根、鈴谷・・・・・・・
ねぇ、これ言って御覧なさい。
とってもごろがいいから。

▼ かささぎの旗ひめの

うわ。やはりさくらさんはただものではない!
ありがとうございます。
私は昨日「孫七」で出た軍艦長門の物語に出てくる孫七さんの話をよみましたが、下地もなにもなく、意味がとれませんでした。
これで納得しました。なぜビキニ沖の核実験の背後に長門が映っているのかも、初めて今知った次第。ひどい。ビキニ沖核実験の話は、第五福竜丸の被爆の話が自分たちの生れた年なので、そのことしか知りませんでした。あっとおどろくなさけなさです。まったく、私たちは肝腎なことを何も系統立てて知らされていない。ひどい話です。かなしい話です。民族としての誇りや希望を失ったまま、漂流するのみ。
よかった。聞いてよかった。さくらさん、ありがとうございます。

2009年1月19日 (月)

孫七の歌   乙四郎語録38     

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

     竹橋乙四郎

▼ 孫七の歌

九    蕨        孫七

もえわたる野辺のさわらび影は見ねど
あたりの草ハけぶり合けり

十九    三月盡      孫七

伊勢のうミや波よるもくさかきためて
くらす神代の春はいく春

孫七っつぁん。
そこらの筑後のおっちゃんにしてはミヤビでないかい?
宗祇の時代の人だから天文24年には後期高齢者か黄泉人かもしれないが、この人かも。

内藤護道(ないとうもりみち)
室町中期の武将・連歌師。長門守護代内藤正賀の子。
通称は孫七・内蔵助、法名は宗俊。
周防守護大内氏の家臣。
宗祗の筑紫旅行の世話に当り、宗祗・大内政弘らと共に「何船百韻」に同座。
上京して、宗祗・兼載らと連歌を催す。
また、兼載の『聖廟法楽千句』に注を加えた。生歿年未詳。

孫七が内藤護道だとすると、宗祇がぐっと八女百首に近づいてくるので楽しいが、難点は、この方が大内氏の家臣であること。
大友と大内の仲が良いはずがないので。
それとも、孫七はこの頃には大内氏を離反していたか。
寝返り、陰謀、何でもありの時代。

▲ かささぎの旗管理人:

人物設定がたとえ間違っていたって、よほど大ぼけでない限りは、うんと飛翔したほうが楽しい。歴史浪漫はそういうものだろうから。また、そうすることでしか、核心をつくことはできない。
だんだんわかってきました。
生きた勉強とはこういうものだろう。
歴史のただなかに歌を置く、歌が生れた処に戻す。
見えてくる世界がある。

ところで、単に「孫七」で検索をかけますと、まっさきに出てくるのは、戦艦長門にちなむ軍人の名前です。いくらなんでも時代がね。
孫七という命名の由来は、七人目の孫?祖父の命名か。

萌えわたる野辺のさわらび影はみえねど
辺りの草は煙り合ひけり  孫七

伊勢の海や波よる藻草かきためて
暮らす神代の春は幾春  孫七

たしかに和歌の王道をゆくようなみやびな歌いぶり、しかし出歌数は多くありません。たった二首だけ、それも早い時点で出し終わっている。(9番と19番)。どんな位置にいた人物だろうか。(かささぎの推理では、お年寄りだった。だから早めに退席させてもらった)。ということは、乙四郎の推理は当たっているかもしれない。七十台後半くらいか。大内と大友、敵同士とはいえ、こういう座ではどうだったのか。そういう例があるか調べる必要があります。で突然思い出しました。あすは本能寺に討ち入るという明智光秀が詠んだ歌がありました。あれは座で詠んだ歌と記憶してるけど、。なんだったかなあ。暗号みたいな歌。かささぎは初めて連句を教えて下さった札幌の故窪田薫師に昔それを教えてもらったです。

これでした。http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/tishiki/ks00093.htm
どなたさまか引用させてもらいます。有難産休縁燐寸。

<5月28日>
 光秀、連歌会「愛宕百韻」に参加。

 時は今天が下しる五月哉(明智光秀)
 水上まさる庭の松山(西坊行祐)
 花落つる流れの末をせきとめて(里村紹巴)


  この時の光秀の歌は
  「時」は「土岐源氏の明智氏」のことで、
  「天が下しる」は「天下を治める」と解釈されて
  光秀の信長への謀反の意思表示であったとされる。

追書:   竹橋乙四郎

▼ 天文24年頃の大友氏と大内氏との関係

Wikipediaの大友氏のその頃の記述です。
===================
天文20年(1551年)には大内義隆が家臣の陶隆房(陶晴賢)の謀反により死去すると、義鎮は弟の大内義長を大内家当主として送り込み、北九州の旧大内領はもとより、周防や長門にも影響力を誇った。弘治3年(1557年)に義長が毛利元就に討たれて大内氏が滅亡すると、周防・長門方面での影響力は失ったが、北九州の権益の大半は確保した。
===================


たまたま、堂々と大内と大友が同席できる時期だったようです。

連歌張行のシチュエーション

以前紹介した連歌の本です。

2002年岩波書店『文学』9,10月号。

「連歌張行の建物・部屋」 

           廣木一人

連歌が座の文芸であるという時、その座の意味は多様である。
座という言葉は連衆の集まる場であると同時に、連衆の社会的結合をも意味する。後者の場合の座は公家・武家などの君臣の集まりでもあり、惣村・宮座などの地域的結合でもあり得る。さらには「花の下連歌師」などを想定する時、芸能者集団の座をも念頭にしなければならないかもしれない。このような座の存在を思い描いた時、それが中世社会の根底に関わるものであることに気づく。連歌はこの点でも正しく中世社会の申し子と言ってよいのであろう。(ざざっと略)

連歌が張行される場所、それは一般的には何かしらの建物の一室と考えてよいであろう。『吾妻鏡』寛喜二年1230、3月19日の条のように船中での会もあるし、「花の下連歌」や「笠置連歌」などというものが、連歌史上忘れてはならない形態であったということからすれば、野外という場も念頭にすべきであろうが、これらは特殊な例である。連歌はそのほとんどが部屋の中で行われてきたに違いないのである。
連歌会の行われた部屋を考える上で押さえておくべきことがある。それは、連歌が一般には七、八名から十数名程度の人々によって行われ、連衆のお互いのやり取りを基盤にした文芸であるということである。すぐれた連歌を目指すのであれば、連衆は平等な立場が確保できること、少なくとも部屋の形態に身分差を意識させるようなことがないことも必要であろう。また、心の寄り合えるような場所、あまり広くもなく狭くもない場所がよいはずである。
二条良基はその連歌論書『連理秘抄』の中で次のように述べている。

 稠人・広座・大飲・荒言の席、ゆめゆめ張行すべからず。
 すべて其の興なし。

「稠人・広座」は部屋の大きさと参加人数の関係で決まる。
部屋が広すぎることの欠点は、早く『明月記』においても、寛喜二年1230年8月3日の条に、

 尊卑父子各座遠而甚無興之間、

と記されている。連衆が離れすぎていてはお互い気持ちが通じ合わないというのであろう。また、部屋の規模はともかく、人数の多過ぎることについては、『筑波問答』に、お互いの心を掴み得ることが必要であることを前提としての言として、

 但、堪能に成りぬれば、人はいかに多けれども、句をよく配りて、すべて人を目にかけぬ事にてあれば、会衆の多少にもよるまじきにや。

と記されており、その不都合が暗示されている。これらを鑑みれば、連歌張行の部屋の理想的大きさは自ずと決定されてくるはずである。

さらに、連歌という文芸にとって連衆の気持ちの寄り合うことが大切であるならば、部屋の形態の適不適も定まってくる。当時の貴顕のための建物は身分差によって、座席の床の高さなどに相違があったからである。このことに関わっては、『満済准后日記』永享四年3月4日の条を引いての伊藤毅氏の次のような指摘がある。

 連歌が始まる以前は、身分差を反映した座が占められており、武家衆らは東落間(東庇)に祇候していたが、連歌が始まると、メンバーは全員六間に参入している。連歌はこのように貴賎同座が原則であって、少なくとも連歌が行われている間は平等性は保たれていた。

(ここに12行の漢文、省略。)

ただし、ここでも完全な平等が成就しているのではないらしいことは注意するべきである。

この論文は詳しく専門的なことを調べて書かれていますので、ぜひとも全文引用をしたく、また例によって数日かけて引いてゆきたいと思います。もちろん、戦国時代の座に関する言及もあります。今やらなければならないことは、当時、500年前、どういう部屋でどういう風にして座が営まれたか。ということの具体的なシチュエーションをあたまに描くヒントを沢山仕入れることです。

こういう時かささぎの光るものを見つける能力は侮れない。笑

なお、「八女戦国百首和歌」は、一般的には連歌ではないのですが、大雑把な括りかたをすれば、連歌の範疇に入れても何ら問題はないと思うものであります。

2009年1月18日 (日)

月のさそへる船の行末   語録37

八女戦国百首和歌「夏日侍」をよむ

     竹橋乙四郎

▼ 小田鎮光物語

「光」は肥前小田氏の象徴。
直光-貞光-親光-資光-政光と続く。
小田氏は少弐氏との関係を強めながら肥前での地盤を築いた。

小田政光と少弐冬尚は、天文20年(1551)、龍造寺隆信を攻め肥前から追い出したが、天文22年(1553)、政光は蒲池鑑盛らの後ろ盾を得た隆信に攻撃され、隆信に降伏した。
政光の子、鎮光・賢光・増光の兄弟は三瀦郡へ逃れた。
永禄元年(1558)、隆信は政光を先陣に立てて冬尚を攻めた。
劣勢の政光は隆信に援軍を要請したが、隆信は兵を出さず静観したため、政光は戦死。隆信は政光戦死を見届けてから、冬尚を攻めた。
鎮光らは隆信に取り立てられ、永禄二年(1559)、鎮光は肥前小曲城に復帰し、五千町の所領を得た。
鎮光は隆信の養女を妻に迎え、妹を隆信の弟に嫁がせて、龍造寺氏との関係を強化する。
鎮光は隆信の三男を養子に迎えて家督を譲り、忠誠を示したが、永禄11年(1568)、隆信は小曲城を鎮光から取り上げた。
永禄12年(1569)、大友宗麟は高良山に出陣し、鎮光に協力を要請し、鎮光はこれを諾した。
宗麟は隆信を討つため、大軍を肥前に派遣する。
鎮光は大友に味方し、弟の賢光も大友勢に参加した。
一方、末弟の増光は龍造寺軍に加わり大友勢と対峙。
隆信は、大友軍の本陣に夜襲を敢行し、大友軍は総崩れとなる。
鎮光・賢光兄弟は筑後に逃げたが、元亀二年(1571)、隆信に謀殺された。
兄たちと袂を分かった増光は、筑後の吉井に移住し、天正十三年(1585)に病死。こうして肥前小田氏の嫡系は途絶えた。

微妙なのは、八女百首の天文24年当時の鎮光のシチュエーション。
親の政光が隆信に降伏した直後なので、龍造寺氏側の人間。
隆信の信用も得ている模様。
しかし、どの段階からか大友と通じて、兄弟で隆信を討とうとする。
八女百首の面々は、ずらりと大友側の人間。
この頃から既に大友側と通じていたことになる。

3年後に父が隆信に裏切られるのを予感していたのだろうか。

▼ 鎮光の歌

四十四   雰(霧)   鎮光

明更を遠方人のこころとや
雰うちはらふ袖のゆきかひ

八十六   川     鎮光

いかにせん河瀬のなみの色々に
月のさそへる船の行末

丸星ラーメンと坂本繁二郎

丸星ラーメンと坂本繁二郎

     久留米人・神津兵六 

丸星ラーメンと坂本繁二郎の関係、そう言えばまだ坂本繁二郎が生きていた頃、この画家と当時の店主は交友関係にあり、店内に作品が飾ってあるとかいうことを、諏訪中の教師から聞いたのをうろ覚えしていただけでした。
そこで、あれこれ検索してみたところ、次のようなことがわかったのでお知らせします。

 丸星ラーメンの奥、右上の壁に2枚の油彩画レプリカが掲っています。
そのうち1枚はダルマを描いたもの。
かの坂本繁二郎画伯が丸星ラーメンの裏に住んでいたのですが、画伯の引っ越しを丸星ラーメンのご主人が手伝った際に画伯から贈られたものです。
実物は、久留米市内の石橋美術館に預託されています。

画伯は、丸星ラーメンのご主人が、毎朝、店の前の地蔵に願をかけているのを気に懸けていたそうです。引っ越しの際の雑談で、「毎朝、何を地蔵に頼んでいる?」と尋ねた画伯にご主人は「なかなか商売がうまくいきませんが、頑張っとります、と拝んでいます。」と応えたそうです。
画伯は、それでは七転び八起きで頑張るようにとダルマの絵をご主人にあげたのだそうです。

 以上です。
ところでかささぎさんは、八女のどちらのご出身でしょうか。
私の父は広川町出身です。
また現在住んでいる島の住宅の隣には、奇遇なことに御夫婦とも立花町出身の方がいます(うちは両方とも久留米)。
八女高卒業で、今はなき矢部線で通学したそうです。
そういえば、私がまだ小学生にもならない頃、東町公園の前を路面電車が走っていたような記憶があり、先日父に訊いたら、日吉町から八女の福島まで通っている三井電車というのがあったそうですが、どこをどう走っとったつやら?
ご存じの方いたら教えて下さい。
それにしても、たまに久留米がニュースになると、犯罪関係か暴力団関係かで、知らない人だったら危険な町だと思うでしょうね。「新世界」だって、銭湯での「刺青もの」だって、幼心にそんなに恐いというイメージではなかったけど…「新世界」にはまだ父の行きつけだった小料理屋が残っているみたいです。機会があったら誰か一緒に行きませんか?

▲かささぎの旗管理人より、地域学の欄新設。

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_2981.html

久留米の記憶が沢山寄せられてコメント欄が長くなりましたので、新たに設けました。
はじめて知ることが多く、もったいないので、カテゴリーをもうけ保存します。
出来る範囲でやります。
竹橋乙四郎の戦国和歌を読む仕事も、地域学ですね。
かたや軟派、かたや硬派の地域学。

久留米人さんへ提案。
久留米人ではのれんに腕おし、はにわに歯なしです。
俳号のようにお名前をおつけしませんか。
神津埴丸こうづ・はにまる。とか、神津兵六こうづ・ひょうろく。とか。
そうだ。兵六がいい。兵六万の兵六。と仮に置きますね。

筑後の山城

筑後の城  史料対話篇

▼ 乙四郎

筑後の城のページより要約引用。天文(1532-1555)、弘治(1555-1558)、永禄(1558-1570)、元亀(1570-1573)年間の城主はまだ不明。

白木城
 天正年間(1573~92年)、豊饒左馬太夫の居城。肥前竜造寺氏が柳川城を攻め落城。この時、左馬太夫の奥方は白木川の淵に鏡を抱いたまま身を投げ自害し、このためこの淵を鏡が淵と呼ぶようになった。
兼松城
 天正年間(1573~92年)豊饒美作鎮運の居城。豊饒美作守は大友氏の同紋衆で、筑後の守護代として大友宗麟より派遣され、87町歩を領した。大友氏は筑後の支配では大身の勢力を外様大名として遇し、一門やその他で信望のある豪族を守護代として任命。

    (竹橋乙四郎)

▼ 山下

乙さん。どうやら、立花町には谷ごとに城が構えられていたと考えるべきでしょう。
山下城出城の知徳城主の家臣であった山下孫左衛門が没したのは1585年とありますので、たぶん、この白木城・兼松城と同じ時代であったと思われます。
じゃあ、なぜ、現広川町に出城があったんだろう。
素朴な疑問です。
現広川町の地域ににあったと思われる城の資料はないのでしょうか?わたしも広川町史の上巻を見てみたいと思います。

   (山下整子)

▼ 姫野

谷ごとに一つの城、というのは、分かりやすいです。
ちょうど横山康夫の俳句にあった。

帚木や谷を出づるは山出づる  康夫

           (かささぎの旗管理人)

▼ 山下

広川にあった城は知徳城もふくめると五城。
鬼の淵区の「鬼の口城」、長延の「山王山城」と「城ノ尾城」、牟礼茶屋の「川瀬城」、そして「知徳城」だった。
氏との関連も面白い。「城ノ尾城」は「萩尾城跡」とも呼ばれていたらしい。この地域に萩尾姓はすくなくない。
「川瀬城」は三潴郡蒲池城主の次男(山下城主)の諫臣「矢賀部氏」だが、川瀬地区には蒲池姓が多い。川瀬の西念寺さんも含めその周辺にとくに。
鬼の口城主は「甘木氏」だが、広川に一軒だけ「甘城(あまぎ)」姓がある。がんしょう寺さんというお寺。

山ン下にはとうとう行き着かなかったけどね。

でも、知徳のお宮に熊野神社のご神体が祀られている由来みたいなものにはいきついた。
筑後市熊野にある熊野神社。その本山、熊野山。奈良・平安時代に始まったとされる広川荘は、熊野山の寄進地系荘園であったかもしれぬという記述があった。

そうそう。広川は谷のひとつでした。
広川ん谷には五つの城があった。
                  (山下整子)

▼ ひめのかささぎ

甘木氏。姫野は、甘木氏の家臣。
かささぎにはうかがい知れぬ次元の話。
代々の養子の呪縛をどうやって解こうか。
と、そればかり考えていた。

2009年1月17日 (土)

八女郡広川町古賀の高良坂本神社

高良坂本神社

          山下整子

以下、「広川町史 資料編」から引用します。

▼ 古賀 高良坂本神社

『寛文十年 久留米藩社方開基』では、
  古賀村鎮守、高良坂本宮
  唯今有之候社、享禄四年に稲員十郎右衛門再興仕候。

『寺社古城古墳等書付』では、
  坂本宮  氏神
        住吉大明神
  神体   高良大明神
        春日大明神
 (中  略)
 右開元建立之儀、当社古来より之棟木銘等吟味仕候処、正応三寅年御井郡稲員村稲員右京太夫、当村へ移住居。同五壬辰年、新に社一宇建立仕候由。享禄四年稲員十郎右衛門再興任候。唯今之社、貞享二丑年氏子中再興任候。宝物寄付等之品、申伝無御座候。

『稿本八女郡史』では、
 (中  略)
 同村稲員氏は、高良大明神の裔なりと云ふ。故に稲員村稲員右京太夫良参御井郡稲員村より当地へ移住後、正応五壬辰年新に社を建て坂本命を祀る、初め坂本宮と号す。
 (後  略)

 天和元年(1681)神殿造替と貞享二年(1685)拝殿造替は、稲員安則の陣頭指揮で行われたものです。村人と語らい、一汁一菜無酒で一軒宛て一分出銭の氏神講を奨励実践して財を貯え、豊後国で用材を求め、筑後川を流して神代村で陸上げして運んだ等々が、「家勤記得集」に詳しく記されております。現在の神殿はこの時の物で、いまなお棟木には墨痕も鮮やかに、安則の記した銘が残っています。
 また、神殿に掲げられる「坂本宮」と題する傍額は、高良社中興の座主として高名な、寂源僧正の筆になる物で貴重な墨跡と言うべきです。(中  略)

 いま一つ興味あることは、現在の社地を含む古賀村一帯は、古代の上妻郡(かみつやめのこうり)の郡衙(ぐんが)推定地となっていることです。平安時代の天慶七年(944)の「筑後国内神名帳」に、正六位上の神階を持つ「郡守神」なる神名が記されています。「家勤記得集」にも、正応五年(1292)に稲員良参が新社を建て坂本命を祀る以前すでに、高良大明神が祀られていたとあります。正恵(しょうえ)・大坪遺跡の発掘調査の成果からも、郡衙が古賀村に所在した可能性は限りなく高く、郡守神もまたこの地に鎮座したと考えるに無理はなく、あるいは郡守神すなわち高良大明神ではなかったかとも考えることができるのです。

以上で、引用を終わります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここからは、管理人山下の記述です。
「郡衙(ぐんが)」とは、律令[りつりょう]時代の「郡」をおさめるための役所。
今で言う市役所と同じくらいの役割だろうと思われます。
郡家[ぐうけ]とも言うそうです。

この高良坂本神社がある地域の行政区名を「古賀区」といいますが、これは、郡衙が転じたものという一説もあるのだとか。ただし、これは聞きかじりに過ぎません。
どちらにしても、稲員姓の多い地区(特にこのお宮さんの近くに稲員姓が多い)であることは事実で、はるかはるかむかし、高良大明神の末裔と呼ばれた方の一族のかたがたなのであろうと理解しました。


歴史にはとんと疎い管理人ですが、「広川町史」に助けてもらいました。
「町史」はどうしてどうして、なかなか侮れません。
それなりに読み応えがありますし、読み始めたらそれなりに、けっこう面白い。
購入ご希望の方は、広川町企画財政課でお買い求めいただけます。
在庫あり。ぜひ、どうぞ。ただし、けっこうなお値段です。
が、この内容(上・下巻、資料編・年表編の計4巻で一万円)はお買い得でしょう、たぶん。

http://www.town.hirokawa.fukuoka.jp/oshirase/tyoushi/tyoushi_2.htm

かささぎの旗姫野:以上は、山下整子ブログより引用しました。

http://tanka-souko.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-c453.html

百首和歌のボス豊饒氏について   語録36

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

     竹橋乙四郎

▼ 鎮時と豊饒の物語

島物語(http://snkcda.cool.ne.jp/tanbou/jojima/murata/page2.htm
に鎮時が登場。
城島氏の24代目が大蔵丞鎮時。
21代石見守時次の時に大友氏の配下に。
22代は石見守鑑時、23代は備中守鑑数。
鑑時の頃から、七百年来の旧家は傾きかけ、鑑時は獣医となる。
以来、城島氏の当主は獣医に。きっと鎮時も獣医だったでしょう。

鎮時は、天正十一年、城島の館を捨てて、楢林に引っ越した。
鎮時は、はじめ時次といい、後に大友宗麟から鎮の一字を貰い鎮時と改め、晩年には入道して真慶と号した。

城島物語には「豊饒氏」も登場します。以下、引用。

=====================
豊饒は、ぶねう(ぶにょう)とよむ.
豊後の豊饒村から起つた土豪で、大友豊後守親繁の筑後征服以来、筑後の土豪を監視するために、大友氏から派遣された督軍の一人である.
豊饒氏は、天正六年ごろは、上妻郡(八女郡)の兼松城、白木城などに拠り、八十町ばかりの領主として、ニラミを利かせていたが、天正八年、肥前の竜造寺隆信に追われて、豊後に逃げ帰った.
豊饒氏が城島に本拠を構えていたのは、天文三年の頃で、それまで西久留米城(今の篠山城跡)に居った.
同年六月、西久留米城主豊饒美作入道永源は、周防の大名大内義隆の大将陶入道のために城を追われて、肥前西島(南茂安村)の城に移つたが、陶氏の再度の命令で、城島に移された.(中略)
豊饒氏の上妻郡兼松城への移住は、その年代が明らかではない.
永禄七年、大友宗麟が下田城主堤越前守貞元を攻めたとき、大友氏に協力した三瀦郡の土豪のうちに、城島氏と並んで豊饒氏の名前が見えるから、この時までは城島に居たと思われる.(中略)
豊饒氏の時代になっても、城島の一角に居住していた城島氏は、天正八年の頃は、西牟田氏と共に、早くも竜造寺の幕下に降つていた.
その二年前、天正六年三月に調製された『大友幕下筑後領主附』には、すでに豊饒氏は上妻郡兼松城主として記録されているから、豊饒氏が城島を去つたのは、永禄七年から天正六年にいたる間のことである.
=====================
(引用ここまで)

豊饒美作入道永源は、別の伝説、三潴郡の「踊り念仏」にも登場します。
三潴郡の江上の里の「吸い殺し田」の呪いを小菊という娘が舞で封じた話を豊饒美作入道永源という領主が聞き、感動して寺田三反三畝を寄進して「西方山九品寺」をこの地に建立したと。

以前、鑑述を検索したとき、豊饒弾正忠直弘(ぶにょうだんじょうのちゅうなおひろ)から伸びる系図もどきに「鑑述美濃天文頃」があった。鑑述の次の行に「永源美作入道 筑後国方分」、その先に「美作兼松城主」「大蔵天文頃」と続いており、これらがシンクロした。

「鎮時」の歌:

4番鶯、31番蝉、57番霜、66番炭窯、91番旅
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/cat33636509/index.html

▼ 追って:

「久留米城」史に豊饒永源の記述を見つけた。
「天文二年(1533)から翌年にかけて大内勢が筑後へ侵攻し、大友方と戦闘を交えた。
大内軍の杉興房(すぎおきふさ)が久留米城を攻撃、城将・豊饒永源(ぶにょうえいげん)は支えきれず敗走した。」(吉永正春氏 「筑後戦国史」)
兼松城でも豊饒氏が君臨していたようだが、天文24年頃の兼松城主は誰だろう。
上述から、その頃には「永源」は失脚し、豊穣氏は次の世代となっている可能性も大きい。兼松城主は豊饒鑑述か。永源の源をミドルネームにして源鑑述と名乗っているかも。城島氏とは友好を保ち、鎮時と鑑述は仲良く歌を詠みあっている。

▲ かささぎの旗管理人:

ぶにょう・・・。ほうじょうとばかりおもいこんでいた。

「三潴郡の江上の里の「吸い殺し田」の呪いを小菊という娘が舞で封じた話を豊饒美作入道永源という領主が聞き、感動して寺田三反三畝を寄進して「西方山九品寺」をこの地に建立したと」

すいころした。吸い殺し田。それほど深い田んぼなんだ。
ってことは、しづの田ってことなんだろう。
八女戦国百首和歌にある。なんとなくわかる、うたのこころ。

八十九    橋     頼運

これも又憂世をわたる心かは
賤が深田を越ゆる柴橋

脚注:

すいころした。ここの上のほう10分の1くらいあたりのコメントにあります。(乙)
   ↓

山下城出城、知徳城の城主は「一條氏」
その「一條氏」の忠実な家来だったのが、山下孫左衛門。
山ン下の「山下」。わたしはこの線を調べたい。

   31文字倉庫管理人 山下整子

山下城(立花町)の近くに若宮神社という室町時代頃の神社があります。武士達の勝利祈願の宮だったそうです。この神社の天井に、「見事な俳諧を書した額」が奉納されているとか。額は1844年(天保15)のもので新しいが、「地元山中周辺の集落、上庄、下庄の俳人70余句が見事な筆跡で書かれている」と。教養溢れる八女人の源泉。

   竹橋乙四郎 

2009年1月16日 (金)

久留米ゆめタウンで

紀伊国屋書店。人がいっぱい。
で、売れていた!

・・・買った。読んだ。

くっくっく。文句なしにおもしろい!
内容ももちろんのこと、まずはその書き方が。
なんともうしましょうか。
受験生必携必ず出る英単語マスター本のノリで、要所要所に横文字が入ります。それがべつにヤらしくはなく押し付けがましくもなく、とても自然です。これ、なんなんだろうね。

ああそうか。わかった。

この文章、きっとブログ文化がもたらしたものなんだ。

だからスムーズに発信されているし、スムーズに受け取れる。

時代の潮流をうまく摑んでいる本だなあと感心します。

竹橋乙四郎、おそるべし!!
丁度のときに、よくぞこのようなヒット本にめぐり合いましたねえ。

『下流大学に入ろう!』  山内太地著 光文社刊

はんや舞の源流  乙四郎語録36

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

     竹橋乙四郎

鷹尾城と鑑述とがリンクした!*

やはり、活字情報はオンライン情報に優ります。
刺激を受けて、マニアック蔵書数○万冊を誇る保健医療経営大学図書館へ赴き、「祭礼行事・福岡県」(おうふう)という書籍を手に取りました。
鷹尾に古来伝わる「はんや舞」が気になっていたので。
以前、守武の俳諧ははんや舞に着想を得たもの、というとんでも仮説を披露しましたが、その仮説の検証です。
残念ながら、その書籍には、鷹尾の「はんや舞」についての詳細はありませんでしたが、星野村の麻生神社に伝わる「はんや舞」について2ページにわたる解説がありました。「中世芸能の名残を残す貴重な民族芸能」なのだそうです。そして、そこで歌われているのは鎌倉時代の「短歌群」であると記載されていました。元歌は「閑吟集」から、とも。
閑吟集(1518)は、連歌師の宗長(1448~1532)が編集したもの(らしい)。
守武が影響を受けたとされる人の一人です。しかしながら、閑吟集というのは歌謡集であり短歌集ではありません。
Wikipediaによると、
「室町時代に流行した「小歌(民間の卑俗な歌で、軽く肩のこらない娯楽的なもの)」226種の他、「吟詩句(漢詩)」「猿楽(謡曲)」「狂言歌謡」「放下歌(ほうかうた:「放下」は中世・近世に行われた芸能の一つで、小切子(こきりこ)を打ちながら行う歌舞)」「早歌(そうか:別名「宴曲」とも言う、鎌倉末期から室町時代にかけて、武家を中心に貴族、僧侶などの間に流行した宴席のうたいもの)」などを合わせて、311首が収録されています。内容的には、恋愛を中心として当時の民衆の生活や感情を表現したものが多く、江戸歌謡の基礎ともなりました。」
とあります。さすれば、「はんや舞」は、閑吟集から五七のリズムのものを抽出したもの、ということになります。「いわば軽く肩のこらない娯楽的な」短歌群です。
ここに来て、連歌と俳諧連歌の違いがよくわからなくなってきました。「はんや舞」の短歌群というのは俳諧連歌そのものでは。

▼ ひむろについて

星野村の麻生神社の宮司は「氷室」姓でした!
ここには人麿神社というのもあり、人麿神社を祭っている家の長老は「江良」氏。人麿の妻は依羅。

天の海に雲の波立ち月の船
星の林にこぎ隠る見ゆ
(柿本朝臣人麻呂『万葉集』巻七、一〇六八)
大船に真楫(まかじ)しじぬき海原を
漕ぎ出て渡る月人壯子(をとこ)
(柿本朝臣人麿『万葉集』巻十五、三六一一)
「昔者、筑後国の御井川の渡瀬、甚だ広く、人畜渡り難し。ここに、纏向の日代の宮の御宇麻天皇、巡狩の時、生葉山に就きて船山と爲し、高羅山に就きて梶山と爲して、船を造り備へて、人物を漕ぎ渡しき。」
(『肥前国風土記』)
「月人をとこ」=月神(高良玉垂命)を信仰する船乗りたち。
人麿は白村江戦に参加しているらしい。(古田)
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
(額田王『万葉集』巻一、八)

本稿の参照元(古賀達也氏)
   ↓

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou46/koga46.html

春秋をわけぬはかりか松がさき
氷室も夏をほかにこそもれ 

(32番、題「氷室」 松寿、八女戦国百首和歌)

 

氷室開きは春分、氷室(麻生神社)の「はんや舞」は秋分。

参照*

八女戦国百首和歌を残した、豊饒美濃守源鑑述は、筑後の山下城主だった可能性が高い。ということが昨日わかりました。かささぎはまだ文献資料をさがしてはいませんが、「大和町史」にあった一つの史料見出しのなかの名前(それは「坪付」というものに出てきた)、それと以前立ち読みした(ああとんでもごめんなさい)ゆうめいな吉永正春氏のお城の本で、山下城に、その名前に似た名前の記載があったこととがぴたっと一致しました。ですので、これは今後の課題として調べる。
じつは、ここでおそろしいシンクロがおきていまして、連句仲間の山下セイコがこの山下城主とも関係しているような話です。

これはなにを意味するか。
「もっときちんとしらべてくれ!」というあちらからのサインと思った。

▼かささぎの旗管理人:

はんや。ということばから、かささぎが連想するのは、はんごんこうのはん。返すという意味。こないだから言っている、「け」。
それと。アストロリコのりかさんブログよんでたら、お正月にしもがも神社にいったそうです。しもがも神社。サイトひらくと、宮司さんあらきさん。
字は、新木。
だからなに。ってきかれそう。なんでもない。
本の紹介がしてあって、そのタイトルみたらよみたくなった。神道ってのは奥がふかいです。
それと。中山ソランブログへいったら、熊本のどっかの港にいってる写真が出ていた。それ読んでいたら、長田王の歌、万葉集かな。が、出ていて、それ読んだら、九州にいたんだ。と直感した。
じんぐう皇后はかしいにいたんだろうし、九州の人だと思うし。長田王がどんな人かしらんけど、熊本の港をよく知っている人だろう。
あたしは、中山そらんがそういうことを調べてかいてくれたらいいなあ。とおもう。だって、行けないからね。遠くて。熊本人が書いてくれるとありがたい。
「さまよえる倭姫」というサイトがあるから、そこをよく読んで、かいてください。もし、このブログを読んでいるなら、ぜひ。

先日江戸時代の柳川、瀬高の港から東北へ米を買い付けにいった舟が帰りにおおかぜに流されて朝鮮に着いた話の古文書読み下しをもらいました。やながわのこに。関係ないはなしですが、倭、大和、山門、東北、朝鮮の関係が見え隠れしますね。けっきょく、それらの人たちはなにも罰されず、ふるさとへ送り返されたとありました。

「け」ともよむ白い反は「気」の一種だろうとおもう。

春もみる氷室のわたりけを寒み
こや栗栖野の雪のむら消え(源経信)

この歌をたずねますと、「け」はたんに「気」と置かれているサイトがあった。
原文を読んでいるわけではないんで、わからないが、かささぎ的には

まず、「けを寒み」皈を寒み。で、帰りたがる魂魄は寒さの中「こや・くるすのの」「来や・来るす野の」で、雪となって帰ってくる。ひむろは霊室。

です。

さて、こんどはきちんと引用できるでしょうか。
「さまよえる倭姫」:http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou69/kai06901.html

できた!ちなみにこの文の根拠となり、引用されているさる神社の宮司さんの本は、たまたまかささぎが十年ほど前に読んでいた太田龍の本にも引かれていました。だから余計にへえーと思って。

いろんな神社があり、いろんな宮司さんがいらっしゃいますが、どのはなしもとてもおもしろいです。神道には経典がないから、。

初からす

▼初からす

(下鴨神社宮司日記より引用させていただきます。)

御生山(みやれやま) はねずの空に 初からす   
 と詠んだのが「初句」です。「初釜」の茶碗を昨年の秋に焼き「端碗」(はつわん)と付けて筥書をしました。この「端」も「初」「はじめ」などと一緒の意味です。
ただし、何にもかもが「初」ではなく、なにかをなしとげ、その上に一段、飛やくしようとする「はじめ」の時を意味しています。
 句の「御生山」は、東山三十六峰の2番目の山のことです。
葵祭の2日前の御蔭祭がおこなわれるところです。「はねず」は、夜明け前、空一面があかね色に染まる直前の一瞬の色合のことです。出現の意味を表わします。「からす」は、下鴨神社の神様の別のお名前です。『古事記』や『日本書紀』に「やたがらす」と記されている神様のことで、生命、誕生の瞬間を云い表わしました。
  
     宮司       新木直人

 

http://www.shimogamo-jinja.or.jp/guuji/index.html

参照:はねず色(朱華色)http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/color/hanezu.html

詩とは国の記憶であるというメキシコの詩人「億旅をパス」のことばが蘇る。
国のからだにしみこんでいる詩歌のちからをまざまざと感受する。

以前書いた文章から。

詩は、ひとつの国の記憶といってもいい。
       オクタヴィオ・パス(メキシコの詩人)

民族の生命の光というものの起源を詩と呼ぶならば、当然その源は〈国の記憶〉の中にしかないわけです。〈国=くに〉とは、文明以前、あるいは文明以外と言い直してもいい。文明によって覆われて見えなくなってしまっている基層の中にしか宿っていないもの、それが〈国の記憶〉です。 
         
      宗 左近のことば
 
    『宮沢賢治の謎』 (新潮選書)より

かささぎはふっと石橋秀野の初からすの句を思い出します。

昭和19年

いさゝかの水仕のこすや初鴉  秀野

あらいものを仕残してしまった、というのです。
からだが丈夫ではない母親にとって戦時中の子育ては大変な労働だったろう。
毎日が戦いのようなもの。
俳諧は、こういう卑俗ともいえる毎日のスケッチを聖なるものに高める営為であろうとおもいます。けっして和歌の世界では詠まれなかった世界です。

2009年1月15日 (木)

豊饒美濃守鑑述

昨夜遅く『大和町史』資料編を読んでいると、第六章「田尻氏と田尻文書」のなかに、おお、この人がいる!!

田尻文書とは・・・

戦国時代に山門郡鷹尾(大和町鷹の尾・・平成11年当時)の城主であった大蔵姓田尻氏の家に代々伝わる一群の古文書。

田尻家の中世文書は、鎌倉期の文書(蒙古合戦の勲功を記す関東下知状)一点以外はすべて戦国期の文書226点。そのうち田尻家文書未収録分目録のなかに、発見!

81 天文22年9月15日 豊饒鑑述・小田鑑言連署坪付

文書番号は『佐賀県史料集成』の番号。と但し書きあり。

七支刀のうた  乙四郎語録35

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

    竹橋乙四郎

▼七支刀で斬り込む。

明治時代に編纂された百科事典、古事類苑(こじるいえん)の兵事部というところに七枝刀の項があり、そこに、次の二首が紹介してありました。いずれも古今和歌六帖(成立年代は未詳だが、貞元元年(976)から永延元年(987=兼明親王の没年)まで、または永観元年(983=源順の没年)までの間が一応の目安)から。

あふことのかたなさしたるななつこの
さやかにひとのこひらるるかな

ななつこのさやのくちくちつとひつつ
われをかたなにさしてゆくなり

▼ 荒木の地名分布図

荒木 と云う地名

たくさんあるかと思ったら、九州には3か所だけ。
宇佐と久留米と喜界島。

鹿児島県大島郡喜界町荒木
大分県宇佐市荒木
福岡県久留米市荒木町
山口県下関市豊田町大字荒木
山口県熊毛郡平生町堅ヶ浜荒木
兵庫県豊岡市出石町荒木
兵庫県西宮市荒木町
京都府福知山市堀荒木
京都府綴喜郡宇治田原町荒木
大阪府岸和田市荒木町
三重県津市安濃町荒木
三重県松阪市荒木町
三重県伊賀市荒木
愛知県豊橋市花田町字荒木
愛知県豊橋市石巻町字荒木
愛知県豊橋市嵩山町字荒木
愛知県蒲郡市金平町荒木
愛知県一宮市大和町馬引字荒木
福井県小浜市飯盛荒木
福井県福井市荒木新保町
福井県福井市荒木別所町
福井県福井市荒木町
石川県加賀市荒木町
富山県南砺市荒木
富山県富山市西宮岩瀬荒木町
埼玉県行田市荒木
東京都新宿区荒木町
福島県耶麻郡西会津町新郷大字冨士字荒木
秋田県大館市比内町独鈷字荒木
岩手県八幡平市荒木田

苦労して調べたあとにこんなのが出てきた。
   ↓

かささぎ場外対話篇

八女戦国百首和歌「夏日侍」をよむ

      (その他資料篇)

たとえばと、こんな話も聞きました。
八女市の土橋には宇佐神宮をうぶすなの神としてまつられている地域があるが、これは磐井の皇子が宇佐で葬られたという言い伝えがあるからだ」と。
うぶすなの神。として、ちとくの神社に熊野神社のご神体が祀られているのにはどういった経緯があるのか。ちょっと調べたくなってきた。

投稿: seiko | 2009年1月12日 (月) 12時23分

神社仏閣の由来など考えた事もなかった
ばちあたりな私なのです

今度ゆっくりお話きかせてください

投稿: れい | 2009年1月12日 (月) 14時29分

わたしも同じです。
興味があまり持てなかったから。
高校んとき、世界史の次に日本史がキライでした。
現代のことさえ覚えきらんとに、
昔のことまで覚えきらんちゅーったい!

投稿: seiko | 2009年1月12日 (月) 20時45分

かつて手塚治氏の「火の鳥」を読んだとき、書いてあったように思うんだけど、その時々に治める人の信仰する神様を、地域の人も祭らねばならない。そんな内容だったと思う。仏教が入ってくる事を嫌ってあったようにも感じられた。あたかも、後にキリスト教を拒んだように。歴史は繰り返される。
わたしは、「苦しい時の神頼み」派なので、行き当たりばったりです。

投稿: ぼん | 2009年1月12日 (月) 21時02分

わたしも苦しいときの神頼み派なので、ばちあたりなくらい無信心です。
いいっちゃない。そんくらいで。

熊野神社を祀ってるのは、近くの天津池に由来するものかもしれないと勝手に思ってるわたくし。天津池さんに石碑があってね、神様とおなじものが備えられているのを見たことがあるったい。ただのため池みたいなのに、この土地のお年よりはみんな「天津池さん」と「さんづけ」でお呼びになる。不思議じゃろう?こんどは天津池さんば調べてみようっと。

投稿: seiko | 2009年1月12日 (月) 23時28分

私もまったく皆さんに同じ。
日本人は信仰が薄いなんて言うイメージがあるでしょ?
外国じゃ信仰が講じて戦争までやってるのに。
でも良く考えたら日本国中いたるところに神社仏閣の多いこと多いこと。
マンション建てるからと言って寺や神社を壊すことはまずないでしょ。
新宿の高層ビル街にも大手町のビジネス街にも寺や神社があるんだよね。ビルとビルの間に挟まるようにして寺はアル。
初詣には最近は有名じゃない寺や神社にも長蛇の列。
信仰が厚くないとは外国人がみたらそうは見えない現象だと思うんだ。
母が死にゃ7日7日に坊さんがきてお経を上げる、もう結構ですとはとっても言えない状況。

正月番組で北野タケシがはじめて伊勢神宮へ行くという番組を見た。
絶対一度伊勢へ行ってみたいと思うような感想をもらしたのだ。伊勢へ行ってみたい。

歴史は大東亜戦争以降にしか興味なかったけど、かささぎどんの迫力に押されてすこーし。

投稿: さくら | 2009年1月13日 (火) 00時11分

さくらさん。全くおなじことを今回、感じたのであります。人口2万人足らずのこの小さな町に、まあ神社仏閣のおおいことおおいこと。神社にあっては、なんと30箇所もありました。町内の行政区が33区ですから、ほとんどの村にひとつ信仰の対象であり民人が集う場所があったということなのです。
それと、庚甲さんとか猿田彦などの石碑?というか、石でできた社や地蔵さんや塔もそれはそれは多い。それらはみゃくみゃくと受け継がれた信仰心のもと、信仰心の厚いちいきびとによって守られてきているのです。現代のいまもけっして、おろそかにされてはいない。足蹴にはされていないということにおどろきました。

以前、ゴミの不法投棄が続く山中に対策として、注連縄を張って祀っている風を装ったら、不法投棄がなくなったという話を聞いたことがあります。信仰心のない日本人にも、信仰の対象物をおろそかにしてはならないという気持ちは日本人のDNAとして、みごとに受け継がれているのでしょうね。

投稿: seiko | 2009年1月13日 (火) 06時19分

どひゃー
ありがと産休縁燐寸。
犬がかわいいぞおー気が散る/このしっぽ!/
上等の推理小説を読んでいるみたいに
次から次へとピースがちりばめられた会話が続く
そのナカから確かな手ごたえを拾わねば

せいこさん
こないだ当条村の人がコメントくださっていたね
あんとき、書こうとして文字機能がぶち壊れていてできなかったんだけど一条、とか当条ってのは条里制の名残の地名よね。ってことは古いけどそう古くはない。イワイの時代は何だったんだ。どんなスケールだったろう。裁判まであった国を治めていたイワイ、きっと文字があったはずだ。それ、どっかに残っていないだろうかなあ。イワイの時代の地名ってどんなんがあったろうね。
たとえば欠塚と書いてかげづかってのは、まさにイワイの怨霊を彷彿とさせる、いいえて妙な地名だけど、イワイ以後の地名。
で信号表記と違う表記のちとく知徳か智徳かも気になる。仏教くさい地名だからこれまたイワイ以後だろう。イワイはどんな信仰をもっていたろうか。かささぎのイメージではなんとなくスキタイみたいなイメージのイワイ。タリシホコ=聖徳太子=筑紫の王。とする説があるんだけど、正統的な歴史とうんと違うほど面白いね。

ほんじゃごはんの用意。

投稿: かささぎ | 2009年1月13日 (火) 17時10分

当条、一條の由来はわからんけどね、智徳はもともと知徳だったらしい。智徳の文字が使われるようになったのは、明治後半期のことらしい。と、町史にありました。
知徳の由来は、山下城の分城として知徳城というのがあって、その知徳城を守った一條氏の家臣に有徳の人がおられ、その徳にあやかろうと知徳という地名がおきた。と、これも町史から。山下城の分城はいまの知徳交差点のちょっと東付近のこんもりとした丘のうえ。知徳と当条のはざま。これはこの辺のもんならみんな知ってる。知徳城のあった知徳に、山下姓が多いのも不思議ではなかろう。ひょうたんからこま。山下一族のルーツにまでたどれそうだ

投稿: seiko | 2009年1月13日 (火) 22時55分

では、じょうやまの山下城の分城なの。あのね。八女戦国百首和歌で、十年前にいろいろしらべてみたとき、吉永正春って人のお城の本に、山下城で豊饒美濃守源なんとか。いう人が出ていたのよ。
まったく同じではないけど、かぎりなく似ていた、名前が。だから、たぶんその一族だろうなあとかささぎは思ったわけですが。どうも今の視点でしかものが推し量れない。山下城、それだと立花町になるよ。
山下姓はそこから来てたのかな。

投稿: かささぎ | 2009年1月13日 (火) 23時12分

だと思うよ。

町史に広川ミニ人物誌ってのがあって、そこに「山下孫左衛門」という方がのっています。

>山下城(現立花町)の出城のひとつに知徳城があり、城主一條和泉守に従う武将の一人に、山下孫左衛門がありました。天正13年(1585)5月10日、龍造寺政家の家士横岳頼次の軍が知徳城へ来襲します。和泉守兄弟以下は城を出て、大野が原(知徳村の地名)でこれを迎え討ちますが、山下孫左衛門を含めて主従ことごとく討ち死にします。享和3年孫左衛門五代の孫によって墓を造設。現在なお知徳納骨堂境内に残っています。大野観音堂は、大野の戦の敵味方双方の戦死者の霊うを供養のために建立と伝えます。

確かにあるわ。孫左衛門の墓も大野の観音堂も。へえ。そのようなお方の墓であったのか。この前の墓掃除のとき、ひこまるがシッコしてたけど。いかんいかん。ばちあたりなこっちゃ。かささぎどんのおかげで、知徳に詳しくなりよるばい。

投稿: seiko | 2009年1月13日 (火) 23時54分

おまけ。出城は11箇所もあったらしい。
黒木の南城とかいうのも、それじゃないとかね?

>一條和泉守
蒲池能久から一條村の内に知行をもらったことから、本郷(現瀬高町)の城より越してきたといいます。一條村の大坪という場所に館所を構え、姓も一條に改め、兄弟で知徳城を守ります。知徳城は山下城11箇所の出城のひとつで云々・・・とありまっせ。

投稿: seiko | 2009年1月14日 (水) 00時10分

せいこさんへ
面白いことになってきました。
私はなぜか「山国町史」と「大和町史」の二冊を持っていたのをすっかり忘れていた。それをせいこさんの記事を読んでいてハタと思い出したので、さっき気になるところだけアップしました。やまと町史ね。お城の地図も出ていますよ。せいこの山下城があるし、乙四郎の鷹尾城もあるよ。クリックしたら大きく見やすくなります。

今日だったの。支援セミナー。さむかったね。
乙四郎の出演はいつ。みたい。って人をさるかなんかみたいにいっちゃいかん。笑

投稿: かささぎ | 2009年1月14日 (水) 23時54分

はあ~だんだんくたびれ果ててきた。

参照:

ヤマシタセイコブログ:

http://tanka-souko.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-2609.html
http://tanka-souko.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-c453.html

   


2009年1月14日 (水)

天文19年卯月24日書状

天文19年卯月24日書状

資料

資料



16世紀末の九州

16世紀末の九州

田尻鑑種自筆刀数日記

田尻鑑種自筆刀数日記

きれいな付箋

きれいな付箋

2009年1月13日 (火)

黒木田代の神籠石を尋ねて

黒木田代の神籠石を尋ねて

きのう黒木で同窓会の母を送った帰路、田代神籠石を探した。
しかし、わからず。神露淵(じろぶち)まで行った。
どこにあるのだろう。

これ、なんでしょう。なんじょうってなんでしょう。

斬り込む、襲津秘子!  乙四郎語録34

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

     竹橋乙四郎

▼ 襲津彦

「襲津彦」で検索すると葛城襲津彦が頻発する。
『古事記』では、すべて「葛城之曾都毘古」。
『日本書紀』では5か所が「襲津彦」で「葛城襲津彦」と明記してあるのは、「神功皇后紀」五年と「応神天皇紀」十四年の二か所だけ(ともに大和王朝が葛城襲津彦を派遣したと記されてある記事のところのみ)。
葛城襲津彦という固有名詞の人物ではなく、大和の葛城の出身で熊襲征伐に関係した男、という意味では。

「襲津彦とは、襲の男の意味ではなかろうか。襲とは、熊襲の襲の意味に考えられるから、文字通り解すれば、葛城のソツ彦は、熊襲(襲)の出身者で葛城に土着したものか、大和の葛城の出身で熊襲の征定にも武勲を輝かしたものかであろう」。(井上光貞『日本国家の起源』)

津は「~の」を意味する接続詞。
}その説に従えば、八女津媛は「八女の女性」、荒木田襲津彦は「荒木田の襲の男性」ということになる。

日向襲津彦、という人物もあった。景行天皇の数ある息子の一人。
景行天皇は、「熊襲」が背いて朝廷に貢ぎ物を差し出さないというので、みずから筑紫に入って熊襲征伐を指揮したお方。その際、「日向」に「高屋宮」という名の行宮(かりのみや)を建てて6年間とどまっている。

「悉に襲国を平けつ。因りて高屋宮に居しますこと、すでに六年なり。是に、其の国に佳人有り。御刀媛(みはかしひめ)と曰ふ。則ち召して妃としたまふ。豊国別皇子を生めり。是、日向国造の始祖なり。」(「書紀」の景行天皇13年の条)
行宮の所在地は宮崎県だろうといわれているが、そう仮定すると天皇の行程に矛盾も出てくるらしく、日本書紀には竺紫の日向、という記述もあるので、ひょっとしたら筑紫のどこかかも、みたいなことが書いてあるサイトもあった。

高屋宮? どっかで聞いた響き。
こうやの宮?

参照:荒木田襲津彦が気になる!

http://snkcda.cool.ne.jp/kourataisya/11tamatare.html

2右のカテゴリーから「竹橋乙四郎文書」をひらき、俳祖・荒木田守武に斬りこんでいるところを読まれてください。俳諧のうまれいづるところはどこか。と同時に、日本神道史の秘密がわかります。いや、それは大げさかも知れぬが、その黒いしっぽがほんのちょっとだけ見える。

3「荒木田襲津彦につき同氏(船曳鐵門翁)は
 駿河風土記にも荒木田襲津彦とあり、神名式なる伊賀国荒木神社は此人を合わせ祀った もので、御井郡上津荒木から毎年子日松を本社に献る古代からの習慣がある、故に荒木 と云う地名も此人に由緒あることであろう。」(参照1から引用)

この文章の「本社」 とはどこを指すのだろう。
高良宮?伊賀国荒木神社?

2009年1月12日 (月)

高良大社のなぞー音火子の答え1

『高良山物語』で、わからないのは、高良山にまつってあるという荒木田襲津彦(あらきだ・そつひこ)。この襲は熊襲を連想させるし、祖とも読める。伊勢神宮の代々の内宮神官が荒木田姓なのはなぜかとあわせて、どういう関連で高良山に祀られ、どういう素性の人だったのかを知りたい。
五百年のあいだに失われたものの大きさよ。
高木神社も高良山にありますね。麓近くです。
               (かささぎの旗管理人)

山下様

具体的に何を知りたいのでしょうか。
稲員家と高良大社については様々な資料があるのですが、
まず、活字になっている「稲員家記(家勤記得集)」をお勧めいたします。
矢野一貞著『筑後将士軍談』のなかに「稲員家」の項目があります。
「太宰管内誌」の筑後国上妻郡の部分にも「稲員家」の記があります。
これらが、とりあたり手に入る資料でしょう。
稲員家は高良大社の大祝家の流れであり、神裔といわれている家です。
もともとは御井郡稲数村に住み、のち正応3年(1290)に広川の古賀に移った家です。江戸時代は大庄屋を勤めた家です。(古賀音火子)

古賀しゃん。別にわたしが知りたいわけじゃなかですたい。
歴史なんて赤点寸前の点数しか取ってなかったわたくしですばい。
自慢じゃないが、歴史になんて、興味はごぜえませんっ、きっぱり!
連句仲間の強固さんから上記の青色部分について、お尋ねがありましただけのこと。あーたの知識が借りてえ。
よろしくおねがいいたしやす!(山下整子)

高良山にはたくさんの神がいます。
本来は高良玉垂命だけであったのに住吉大神、八幡大神が両脇にならんで祭られているのです。そのように神様は紙切れで祭られいくものなので、どんな神様も祭られます。各家に伊勢の神様が紙切れ(お札)でくるようなものです。だから、伊勢信仰が入ってくれば、その神宮関係の荒木田関係の神が祭られても不思議ではありません。だけど、この神を熊襲とかに結びつけることは出来ません。

神さまははやり廃りがあるものなので、どんな神様も祭られたり、捨てられたりするものなのです。高良大社にかつて祭られたことがあったのでしょうが、廃れてしまったのです。
水田天満宮の恋木神社が大ブレイクしていますが、この神さまは恋とはまったく関係ない神です。このように神が大変身したり、大凋落したりするのは神様ぞ知ることなのです。荒木田襲津彦も忘れられた神様でしょう。
「高良山物語」がいま手元にないので、こんなことを空想したのです。
                    (古賀音火子)

           

かささぎが昨日、山下整子から預かった書類(送信記録)の丸写し(並べ替えあり)です。
最近またメール機能がへんでして、それまで日に三十近くきていた迷惑メールが五通ほどに減ったのは有難いが、ふつうのメールまで届かなくなった。なんてこったい。
こまったこまったこまどり姉妹。

古賀音火子の文章のでかた。
みょうにそこはかとなくけったいでおかしい。

「そのように神様は紙切れで祭られいくものなので」
はあ~。たしかにそうだけど。

堺屋の連句会

堺屋の連句会
黒柿の床柱、黒い壁、黒い床の間の「櫨」の書。

八女市堺屋記事と写真と連句

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/01/post_a64e.html

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_abb1.html

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_160d.html

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-e683.html

今年はじめての連句会。
うれしい飛び入り参加者も得て、胡蝶一巻あがりました。

平成21年正月11日(日)

参加者(敬称略)

甲斐麻莉子
菊元萌子
堺屋舟美
竹橋乙四郎
東妙寺らん
八山呆夢
山下整子
姫野恭子

 胡蝶  『父の訓』

オモテ三句

父の訓聴く膝小僧初座敷      山下整子
  千両の実のいやあらたまる   姫野恭子
砂に描く円と線との定まりて    堺屋舟美

参加者名簿の上から二人はうら若き乙女であります。
堺屋の水琴窟を見にこられた観光客のお嬢さんがたでした。
かささぎはなにかふしぎな想いがしました。
「時の縁に感謝します」
と書いてくださったお二人さん、ありがとうございました。

それから堺屋舟美さん、二回目です。
ゆったりとした鷹揚なふんいきの舟美さん。
なぜか埼玉見沼のきれいな夕日が映った湖?の携帯写真を見せてくださいました。
ちょうど氷川女体神社のこと(ずっと気になっている)を調べていたかささぎは、これもまたふしぎな暗合を感じました。
堺屋の黒柿の床柱一本で家一軒建つ価値があるというような話をしてくださいました。

古い和風住宅はとても寒かった。
小雪まじりの日で、電気ストーブを三台も出して。
ところが途中、煙が出てきて。(理由は書けません)
あやうく大事にはいたりませんでした。

ナカ五句目、恋離れでなかなかいい句が出ず、以前ネットでアンティーク歌仙をまいたとき出して下さったのに捨てた、ばどさん畢竟の名句を使わせていただきました。
これです。

四畳半引くに引けない畜生   bud

ありがとうございました。
次回はご参加のほどよろしくお願いいたします。

三時半ころウラのニ句目が出たあたりで、縁側のほうからだれか入ってきました。
あれま、竹橋乙四郎!関東へ帰省して家に帰る途中、立ち寄ってくれた。
無言の圧力が効いてたのかも。花の句を出してくれました。

どなたさんもありがとうございました。

(四時おきかささぎは帰宅後ごはんを作って洗物したら眠っていた。)

つぎは3月初旬と思っていましたが、3月はお雛様で堺屋は使えないそうで、4月にするかどうするか思案中。

2009年1月11日 (日)

『土佐行』

土佐行

     横山康夫

夕立せり島脱けを嗾すまで
常夜燈晝被冩體となるばかり
峽の驛はなやぎゐるは合歡の花
一輪に數多あつまる蓮見かな
日の辻の無風炎えたつ人の影
オカリナ高く瀧音を置き去りに
蜩と大地に鍬を入れゐたり
遠景の波の音なき高さかな
空蝉をかざせば沖は紺瑠璃に
八月の男を跨ぐ媼かな
月出づる一本杉の傷むまで
月の出の枝と化したる蟲の影
月光を殺めてしまふ床柱
床の閒に月光屆く山家かな
西峰を眞神は去にき盆の月
廢屋や音にはじまる夏の雨
羅やこころの洞(うろ)に風を入れ
杉の秀は天空に鯤呼びださん
亂伐や千年雨を乞ひつづけ
廢屋に殉じて虹の顯つならん
靑山河太郎次郎と戰没し
空谷の森閑たるを夏座敷
一領具足影が影生む芒原
かなかなや馬冷やすこともはやなく
三基目の墓は三郎澤滾つ
父は子の何見るべきぞ柞山
ふりかへる眼無數に風の山
風鈴の一山(いちざん)を澄みわたらしむ
桃囓り心は山の向かうかな
帚木や谷を出づるは山出づる

私と俳句     

    横山康夫

俳句は自分の心情を直接的に表現したいと欲する者にはまことに不向きな文芸である。わづか十七音といふ短さでは当然のことではあるのだが、言葉に信頼を置きすぎると逆に言葉に手ひどく裏切られることになる。
言葉と実体や現象は同じではない。
そのずれを承知の上で言葉によつてことがらの典型を描き出すことが俳句を書くといふことなのだと分かつてから、俳句を書くことが漸く面白くなつてきた。

   合同句集『花炎抄』2008.11.20発行
       こうひいや俳句会

横山康夫、健在なり。

かささぎがことにひかれる句。

月の出の枝と化したる蟲の影
空蝉をかざせば沖は紺瑠璃に
床の閒に月光屆く山家かな
靑山河太郎次郎と戰没し

三基目の墓は三郎澤滾つ
かなかなや馬冷やすこともはやなく

ふりかへる眼無數に風の山
風鈴の一山(いちざん)を澄みわたらしむ
桃囓り心は山の向かうかな
帚木や谷を出づるは山出づる

参照:

  1. こん【鯤】別ウィンドウで表示
    《「荘子」逍遥遊から》中国古代の想像上の大魚。北方の大海にすみ、大きさは幾千里だかわからないという。

2009年1月10日 (土)

島のくるす野

今に継ぐ土葬の慣ひ黒島の
墓地十字架をそれぞれ掲ぐ      臼井道子

短歌誌『やまなみ』の今月号に掲載されていた一首。

福島高校の北側に実家のぶどう園のある山畑がありました。
いまは病院の敷地になっています。
この直ぐ下に墓所があったそうです。
わたしもばあちゃんから、納骨堂ができて、この墓を掘り起こしたときのことを聞いたことがあります。け、のはなしが子供心にこわかったことを思い出しました。
            (山下整子)

せいこさん
その歌、とてもいい歌ですね。
情景だけを言って背後の歴史をふかぶかと伝える。

黒島を調べましたら、二十近く同名の島がでます。
キリスト教の殉教碑や十字架があるところは長崎だという偏見の目でみますと、平戸や五島など四つほどが見つかる。この数におどろきます。しぼれないのです。島の名付け、黒島人気はなぜ。

島。

最近コメントくださった方で久留米が故郷のかたがいらっしゃる。
そのかたは、神津島だそうです。かみつしまではなく、こうづしま。
いま検索したら伊豆諸島、地震があった式根島の近くの島でした。
ああすみません神津島も地震被害が大変だったんでしたか。

島に「ありま展望台」という殉教碑の立つ展望台があるようです。
それ、ネット映像見れます。ここ。 http://www.soi-inc.jp/kouzu/

山下整子追記:

作者の居住地と連作のほかの歌から考慮すると、この黒島は、九十九島のキリシタンの島。であろうと思われます。

黒島の象徴ならむ天主堂の
煉瓦はあかし夕日の丘に
   臼井道子
http://www.mirokuya.co.jp/mlmag/archive/vol107.html

2009年1月 9日 (金)

「け」の発見2   葬と冢と塋   

春もみる氷室のわたりけを寒み
こや栗栖野の雪のむら消え(源経信)

ぼんが正月に調べてくれた高三潴の塚は、高良大社にまつられている玉垂命の墓らしい。
説明文中にこんな字がでてくる。つぎの「ちょうえい」の「えい」の文字。ちょっと失礼します、引用、国語辞典。

  1. ちょう‐えい【冢塋】別ウィンドウで表示
    つか。はか。墓所。
  2. ちょう‐さい【冢宰】別ウィンドウで表示
    中国、周の六卿(りくけい)の一。天官の長で、天子を補佐して百官を統率した。宰相。
  3. ちょう‐ちゅう【冢中】別ウィンドウで表示
    塚の中。墓の中。
  4. ちょうちゅう‐の‐ここつ【冢中の枯骨】別ウィンドウで表示
    《「蜀志」先主伝から》死んだ人。また、無能の人をあざけっていう語。
  5. つか【塚/冢】別ウィンドウで表示
    土の小高く盛り上がっている所。また、目印などのために土を高く盛り上げたもの。「一里―」「貝―」 土を小高く盛って築いた墓。また、一般に墓。「無縁―」

「ちょうえい」の「ちょう」の字は、最近引用した[卑弥呼の冢]http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htmでもつかわれていました。

ところで、冒頭の一首ですが、きのう突然ひらめいたかささぎ読みを書いてしまいましたが、今一度ゆっくり考えてみたいと思います。

京都に都があったころ、葬祭は「子(ね)」のかたでしました。
源氏物語の夕顔は鳥辺山に連れてゆかれ火葬されたのでしょうか。
場所は詳しくは書かれていないようです。

http://www.hal-kyoto.com/ki/kyosikai/q_and_a/toribeyama/
(十七日の月が出ている中、鴨川の河原をお通りになりましたが、松明の灯りもほのかに、火葬場の鳥辺野の方を見ても、とくに不気味ともお思いになりません。)←上記サイトより部分引用。

ということは、源氏物語のころはもう火葬が入ってきている。
上層階級だけだったでしょうが。

源経信のうたは、葬に関する氷を調達することにかかわる歌であろうと思うのです。むかし、偉い人たちの葬儀は今よりもっと長い間、死体を保存した上で火葬なり土葬なりやっていたと乙四郎が紹介してくれたサイトには書かれていました。

私の生まれ里の奥八女笠原の山中でも、土葬でした。

母から聞かされた葬のなかで、印象に残るのが、お墓まで埋めるのに附いていった者たちは、みな、そこで履物を捨て、はだしで帰ってきた。
という点と、お棺のなかには、びわの葉と鳥の竿をいれた。という点です。

あるとき、なにかの民俗学の本をよんでいたら、これを鳥竿とよぶことをしりました。また、装飾古墳の本でもたくさん鳥が描かれていることをしりました。

▼鳥竿のことばにネット上で初めてであった。これは、詳しい。↓

http://www.ne.jp/asahi/lapis/fluorite/essay/fav/gyokusou.html

装飾古墳の本紹介:「装飾古墳のふしぎ」葦書房
    塩見桂二著・写真 榊 晃弘

山の中だけでなく、ここ八女市内でも戦前までは土葬だったようです。
うちのはたけに「はかどこ」とよぶちいさな一角がありますが、そこは昔墓所だったところです。
掘り返すのを見ていたという祖母がこう言っていました。

「壺ん中はきれいか水と真っ黒か髪の毛だけじゃったばい」

はい。最後にここで、又でました。

け!

2009年1月 8日 (木)

皈(け)の発見

「け」は、これかもしれない。
こんなところに、いた。
皈。
源の歌。

春もみる氷室のわたりけを寒み
こや栗栖野の雪のむら消え(源経信)

まず、「けを寒み」皈を寒み。で、帰りたがる魂魄は寒さの中「こや・くるすのの」「来や・来るす野の」で、雪となって帰ってくる。ひむろは霊室。

ちなみに。
去年貞永まこと追善歌仙にきてくれた山口のお寺の息、木戸葉三の本名は氷室である。彼は逆子であったときいた。かささぎも逆子、逆子クラブを結成するも、その後逆子だという人にあったためしがない。

かささぎは、今朝、基山のだいこうぜんじが妙にきになり、ウィキペディアの中国のをくっつけようとして失敗したことを思い出した。それであれこれやってたら、大石政則日記17にゆきあいました。そのコメントを読んでいたら「け」にあいました。以下、引用。

リサーチ:皈
http://takasi-azuma.de-blog.jp/blog/2008/01/post_c07a.html
(一茶の歩んだ道)
http://www16.ocn.ne.jp/~yenmado/omukae.html
(お精霊迎え)
http://www.miyoshi-mlit.go.jp/shasei/michi/hane.htm
(「君がため  名を高松に とめおきて 心は皈る 古郷の方」)
http://www2u.biglobe.ne.jp/~n-fuji/k116.htm
(除隊記念徳利)

次に面白いことが書いてありました。とつぐ、とも読むらしい。
婦のつくり 帰ると同じ ふしぎかな  (乙)
http://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/ko_tame27.html
嫁・婦(とつぐ)」(室町時代の古辞書『運歩色葉集』)

婦人(フジン)謂テ嫁ヲ曰(イフ) ∨皈(トツグ)ト。言(イフココロ)ハ女人適(ユク)コト∥夫(ヲトコ)ノ家ニ|如∨皈(カヘル)カ∥己カ家ニ|。故ニ云フ∨歸ト也。

「婦人を謂ひて嫁を皈(とつぐ)といふ。言ふ心は、女人夫(をとこ)ノ家に適(ゆく)こと、己が家に皈(かへる)がごとし。故に歸と云ふ」

はや!
すばらしい。
漢字字典では「かえる、かえす、き、」と出てました。き、け、は音読みでしょう。婦人は掃除する人のことと思ってた。
関係ないのですが、最初にあげてくれた資料の中にあった一茶の俗っぽい時鳥句を読んで、やっと「なるほど!」と溜飲が下がったことがあります。其角の時鳥の句に付随する艶っぽいかんじが隔靴掻痒で、たぶんそうじゃないかと思ったんだけど、権威ある岩波本にはなにも解説がないんで確かめようがなかった。乙四郎、ありがとう。

乙四郎さんのお友達のお父上である渋谷幽哉氏について

熊本のお寺のご住職であり、永年教育長を務められた。
大石家とは戦後ずーっと親交があり、政則少尉の母親の葬儀では弔辞を読んでいただいた。

「政則日記」のあとがきに登場する協力いただいた方々の中(231ページ)の渋谷月子さんは、渋谷幽哉氏の奥様である。
確かに熊本県芦北町とある。

184ページから始まる母親の手記
「想いで草」の中に登場する「マサノリイル、クシラヘイケ」と謎の電報を打って下さった方(197ページ)は、渋谷幽哉氏が自分の親に電報を打つよう頼んだための出来事であった。

私は今朝、出撃直前までの一部始終を一番知っていたのは渋谷幽哉氏であったことを知りました。
幽哉氏は数年前に亡くなられ、現在奥様は
お元気とのこと。(テンダさんのお母さんですね)

ものすごく穏やかで優しい方でした・・・
との乙四郎さんの印象はあたっていると思います。
生死の境を潜り抜けてきた戦中時代の方に共通するものだと思います。

乙四郎さん、ひめのさん、美恵子(さくらの本名)
これ、どうしましょう。

ネットにも 魂魄皈る 彼岸かな  (乙)

高良山から

高良山から

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-1674.html

参道石段の下から写した写真↑と比べると、ずっと見晴らしがいいです。
雲をみてると、なぜか坂本繁二郎の放牧三馬が想われました。

春財布

春財布

春財布というのは、立春以降に求めた財布を指すようです。
まだふゆですけども、お正月もきたし、はるさいふって言っていいよね。

ひだりの女の子柄のは、去年籤運のいいらんちゃんがさるところで籤をひかせてくれて当たったものです。裏は銀色無地、とてもチープなかんじでかわいい。
右の実物はずいぶんきれいなぴんく色です。
最近ピンク色の小物に凝っていまして、元旦にぼんちゃんの勤めているイオンでみつけました。なんと特価千円でした。冬財布はおかねが殖ゆ。春財布はおかねでおさいふが張る。のだよ。

かささぎの右足。(色気もへったくれもなくタイツ派!さむいと冷たい)

2009年1月 7日 (水)

松と榊    対話篇6

八女戦国百首和歌「夏日侍」をよむ

     竹橋乙四郎

▼ 松について

松ぼっくりがあったとさ

愛らしか名前の由来が知りたくて調べたら、松ふぐりが転じたもので、松ぼっくりは漢字で松陰嚢と書くのだそうです。

ついでに拾った正月ネタ教養。
迎春用の松は、若松と門松と荒神松の3種。
若松:神宿る松。まっすぐ上へ伸びた松。苗木から3~4年。
門松:苗木から4~5年。
荒神松:松の小枝。荒神様(※)に供える松。
いずれも黒松の成長段階の違い。

※「荒神」(又は「三宝荒神(さんぽうこうじん)」)は竃神(かまどがみ)とも呼ばれ、かまどの神様、転じて家の神様、財産の神様。火に関連深い神様ゆえ、不浄のものを浄化する神、厄除けの神とも。

乙の鷹尾城の家の敷地には、巨石(掘っていないのでどのくらい大いかは不明)の脇に大きな老黒松があり、今年の正月は自前の荒神松をたくさん飾れました。ありがたや、ありがたや。

実家では「ほとけさん(仏壇)」「こうじんさん(かまどの上)」「すいじんさん(流し台の上)」「おかんのんさん(庭先にお堂がある)」に、ごはんとお茶を毎朝あげるのが代々受け継がれてる習慣。
朝の一仕事、あそこらへんはみんなそうだけど。
実家を継いでる弟は、朝、嫁がこれをやらなければならないので、その他のことは自分がやるようにしている・・・と言っています。
時代は変わったものです。

わが家には何十年もたった大きなサカキの木があります。神棚とこうじんさんに、一日と十五日にサカキをお供えします。そのためのサカキの木なのです。
サカキを替えるのはずっと父の役目でした。父が入院してからは連れ合いの仕事になっています。大きなサカキの木はご近所からもサカキをもらいにこられるのにも役立っています。この地域は多くの家庭にサカキが植えられています。

お正月は乙さんがいうように荒神松と梅の枝と笹竹を飾ります。そう。松竹梅ですね。スーパーにセットで売られていますが、わが家もたいがい裏庭で調達可能です。

松は待つ。
ときのあわひをつなぐ。
境。境界。
うたのもう一つのよみ、

春秋をわけぬ秤かまつがさき
氷室も夏を外にこそ守れ

こっちのほうが、雁という季語扱いにもなる特別の言葉が入らないので、自然かもしれない。ほかに

春秋をわけぬばかりか松ヶ崎
氷室も夏を外にこそ守れ

ずうっと考え続けてきたので、あたまがいたくなってきた・・・。わたしはなんてしつこいんだろうか。

松と篠(くまざさ)と梅を飾っていたような記憶がある。正月のほとけさんばな。(ことし、わたしは目もくれていません・・・なんと無礼なやつだろう。)
その仏壇は母が、やってくれました。
神棚の榊(うちの神棚と夫のほうの神棚、それから善隣会の神棚=祖母が信仰していた、それと荒神さんの竈神で、ぜんぶあわせて9個)は父がやってくれました。
わがやもたいてい裏庭で調達可能です。松は一本枯れてしまいましたが、あと一本が健在です。ありがたやありがたや。ばちあたりでも超横着もんでも、なんとかいきていってるのは、父母の恩なるらん。

春秋を分けるもの  乙四郎語録33

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

    

      竹橋乙四郎

戦国の世の暦感覚


▼ 春秋を分けるもの      

(32番)  氷室     松寿

春秋をわけぬはかりか松かさき
氷室も夏をほかにこそもれ

春秋をわけるのは雁です。
それは松ヶ枝の先に来て又松ヶ枝の果てに消えてゆく。
飛翔という名の一本の航跡で季節を鮮やかに区切ります。
夏にはどこかほかの世界に籠っています。
氷室も夏はほかの処に籠って守られているのか。

     (上は試みとしてのかささぎ読み)

竹橋乙四郎の連句的


雁 ・・・ 春分の日に去ってゆき、秋分にやってくる。
松かさ ・・・ 松ぼっくりは秋の訪れ。
氷室 ・・・ 古来、氷室開きは春分の日の行事。

松寿という人物が不詳。
氷室開きは本州には行事として痕跡があるが、どうも九州にはなさそう。
遠方から来た特別ゲスト?
くるす野を詠んだ鑑秀の知人と見た。

わが国の氷室のルーツ、氷室神社が鎮座する西賀茂氷室は、古代には栗栖野と呼ばれていたそうです。

春もみる氷室のわたりけを寒み
こや栗栖野の雪のむら消え(源経信)

http://www.kagemarukun.fromc.jp/page036.html

ここが丹波篠山であることに目がいく。
丹波には籠神社があった。豊受大神をまつる。

かささぎの連句的

「くるす野」は源をよびさますつけあいだったかもしれない。

三潴と水沼 

八山呆夢のレポート

   ブログ「糸の夢」より

弓頭神社

本社は水沼別(みぬまわけ)の始祖、国乳別(くにちわけ)皇子を主祭神とする。成務天皇紀は「昔、国造(くにのみやっこ)を封せられる時は必ず楯矛を賜ひて其表(そのしるし)とす」とあり、第十二代景行天皇の皇子国乳別皇子が「古式に則り、弓箭(や)楯矛を賜りて、下向し給ひ、高三潴の地に御在所を定め給ひて、久しく筑紫地方を治め給へり」に由来するものと思われる。

この高三潴は、水沼君累代の政治の地であり古代行政文化の中心として繁栄した処である。

古代説に「神功皇后征韓の砌(みぎり)、弓大将なるが故に、弓頭大明神と称え奉られる由」と云い伝えられたとの説もある。

国乳別皇子の御墓は鳥帽子塚(弓頭神社御廟塚とも云う)と称し、本社西北三町(約三百メートル)許り(ばかり)の処にある。

明治六年六月、郷社に定められる。なお、神社が所蔵する銅剣、石包丁、石戈(せっか)、耳環は町の文化財に指定されている。

塚崎貝塚、高良御廟塚

三潴町指定史跡(高三潴字塚崎西畑)

この塚は『寛延記』には「高良明神御廟開基年号知らず」とあるが、出土品などから弥生時代と推定される。城内約七五七平方メートルの国有地内にある直径約二十メートル、高さ約二メートルの円墳で、墳頂に一株の松を植えている。

江戸時代頃、周囲は玉垣をめぐらせていたという。封土(盛土)中には、多数の牡蠣殻や貝殻類が含まれている。

この地は古くから高良玉垂命の塋(墓)域と言って、付近一帯は小高くなっており、弥生式土器の破片が散在し、土中から石斧、石鏃(せきぞく)、石戈(せっか)銅剣などが発見されている。なおこの銅剣について「高三潴村の百姓善兵衛が久留米藩の命により塚を発掘して、石棺より二口の銅剣を発見した」と伝えられている。

付近の住民の話によれば、昭和二十年頃までは、貝殻に覆われていて塚全体が白く見え、黒曜石の鏃や土器、石器、貝殻がいたるところに落ちていて気軽に拾えたそうである。そのうち、心ない愛好家が次々と持ち去り、塚全体が黒ずんでしまった。雨などによる風化も進み、塚表土の流出を防ぐため、上から土をかぶせて塚の保存を図っている。

平成十一年三月三潴町教育委員会

八山呆夢 「糸の夢」ぶろぐ紹介:

http://houyume1150-4.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-3435.html

追伸:

鬼夜案内:1月7日(きょうのよるだ!)

久留米観光コンベンション案内:
http://www.kttnet.co.jp/kurume-convention/category/00107.htm

行けないあなたに写真集:http://wadaphoto.jp/maturi/oniyo.htm
             (音楽つきです、身構えてからクリックしてね)

2009年1月 6日 (火)

初ラッシュ

初ラッシュ

俳諧之馬霊鶴処   対話篇6

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

     竹橋乙四郎

俳諧のうまれいづる処

▼ 七夕伝説

Wikipediaによると、カササギは秀吉の朝鮮出兵の際に、佐賀藩主鍋島直茂や柳川藩主立花宗茂などが持ち帰ったものが繁殖したものだとあった。これを信じれば、守武の没後まもなくのこと。かささぎどん、あんたは守武の生まれ変わりじゃ。
いずれにせよ、守武はカササギを見ていない。
しかし、ずっとずっと前に大伴家持が詠んでいる。
古代の教養人はカカサギの存在は知っていた。

鵲の 渡せる橋に おく霜の しろきを見れば 夜ぞ更けにける(『新古今和歌集』)

これは「七夕伝説」に由来する。
織姫と夏彦は結婚後、夫婦生活ルンルンのあまり、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなった。天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離した。しかし、年に一度だけ、7月7日にはカササギがやってきて橋を架けてくれるので会うことができた、という伝説。
ちなみに、七夕の牛は夏彦さん、牽牛星(彦星)のこと。

カササギは守武が筑後に来ていることの傍証とはならなかった。
でも、守武千句は、旅先(伊勢神宮の外)でそのほとんどが書き溜められたものであるとの直感がある。
そこに居るというだけで、心が自由にならない場所というものがある。
官仕えの経験者は語る。

「竹橋乙四郎」で検索すると800件ほどヒットするようになり、すでに橋爪章を凌駕しています。ところで今日またまたぶっとぶシンクロにあいました。暮から気になる「き坊の棲みか」。それともリンクするんですが。
もしや四柱推命、すなわち易、陰陽五行での縁起によって「癸卯」にされたのではないだろうか?とはたと思いつき、「癸卯とは」で検索、するとやはり。
みずのと・うは音読みだと「きぼう」、極楽卯の癸卯といわれるようです。(これみわあきひろのとこでひろった。かのと・うはさんばんめくらいの位らしい。ってふうに、卯にも順番があるんですって)
それに関して、名前はりつけたのをよんでくだされ。関係なさげで連句的。
では、これからごはんの用意にはいります。
おんなはせかいのどれいか。をかいたおのよーこはすてきだ。
つまぶきさとしくんは柳川。昭代地区だそうです。
お父上はパイロットってきいたけど、本当なの。
ついでに徳永英明も柳川だった。
ミーハーですんまへん。
追伸:

(かささぎ註:やかもちは少年時代に筑紫にきている。お父さんの旅人がお役人で筑紫にいたから。わが詩の師、安西均は筑紫郡筑紫村字筑紫出の詩人ですが、筑紫の古代を偲ぶ『新古今断想』を書いてこの先達へ奉っている。また山本健吉にも『大伴家持』なる一書あり。ちなみにかささぎは八女図書館でこれを借りて読もうとしたが、なぜか何度借りても読めなかったさいしょの頁しか。とほほ。あの本は健吉没後に八女市に遺贈されたものと思えた。健吉自身が書いた鉛筆書きの註があり、筆跡が健吉だった。紺色のハードカバー。ひまならきっちり読んでなにかくれ。)

今日午前中、弓頭神社と塚崎貝塚、高良御廟塚へ行ってまいりました。
碑を読んでまいりました。
今日はもう遅いので、明日書きます。
それと、やはり仲人をしてくださったおいちゃんは、痴呆の症状が出てあるそうで、聞きに行っても無駄ではないかとじいちゃん同士が友達のところの嫁が言うてありました。

守武の周辺の文芸関連事件を整理。
発見した。
守武が一禰宜となる直前の守武千句は、守武の没後100年過ぎるまで刊行されていない。
そして、一禰宜となった直後に『合点之句』を発表している。
数ヶ月の間に2作品。
おそらく、「裏」と「表」の使い分け。
親族の相次ぐ死により、朝廷への疑問がめらめらと燃え上がっていただろう守武。
捏造の日本書紀についても内部告白したい気持ちが抑えきれなくなっていたやも。
しかし、立場は一禰宜。この鬱屈を「裏」にぶつけて封じていたのでは。
昔も今も官仕えはつらいよ。
いわば、飛梅千句は現代のブログみたいなもの。

1473(1) 守武出生
1473(1)   『美濃千句』
1480(8)   『筑紫道の記』宗祇
1487(15)守武十禰宜となる
1488(16)  『太神宮法楽千句』
1495(23)守武『新撰菟玖波集』(連歌集)宗祇撰 に兄(守晨)とともに入集
1502(30)   宗祇没
1508(36)守武『法楽発句集』
1516(44)   兄の死。伊勢神宮の危機。
1525(53)守武『世中百首』
1527(55)   肖柏没
1530(58)守武『独吟百韻』
1532(60)   宗長没
1523~39(67)『犬筑波集』(誹諧連歌抄)山崎宗鑑
1536~40(68)守武『俳諧之連歌独吟千句(飛梅千句)』(俳諧連歌)
1541(69)守武一禰宜となる。内宮長官
1541(69)守武『合点之句』天文九年十二月二十五日(1541年1月21日)
1546(74)守武『法楽千句』
1549(77)守武没
1553       山崎宗鑑没
1652    『俳諧之連歌独吟千句(飛梅千句)』が『守武千句』の名で刊行
1990 ↓

こんばんは。
久留米ニ往復して、まだ起きている。偉い豪い。
ぶん、ありがとう。なにか出そうな予感。
私が思うに、高良さんよりそっちのほうが本家みたいな雰囲気します。
そこはかとなくただよう気配。それとやっぱ折口信夫がきちんと書いていたのがわすれられない。あのひとの生家は飛鳥にいます神社という古社ですものね。「水の女」という題で三潴のことを書いておられた。ふしぎな文章でなんのことかよくわからんのやけど。みずはめのなんとかのなんとか。すんません。興味があったら自分でよんでね。笑
おつしろうの独特の嗅覚。これまたすごい。
わたしは古田武彦先生の本は二冊しか読んでいなくて、これはいかん。と、今、ラジオの記録をネットで聞けますので、聞きながら仕事してます。はりつけました。
あ。ども。ご紹介ありがとうございました。

あらま。ぶんじゃなかった。ぼんちゃんごめんなさい。
参考:http://www.siesta.co.jp/aozora/archives/000778.html

古田先生

検索するとすぐに古田先生にぶつかるので馴染みとはなりましたが、嗅覚が鈍りそうなので、深入りは避けています。まだ1冊も読んだことがない。

2009年1月 5日 (月)

守武の暗号2  乙四郎語録32

八女戦国百首和歌「夏日侍」をよむ

     竹橋乙四郎

▼ 守武の暗号 2


暗号といえば「宝」。
守武千句に「宝」を含む句がふたつ。

あさがほの花のしげくやしほるらん
これ重宝の松のつゆけさ

「あさがほ」が守武を、「松」が筑後を象徴するとすれば、何かありそう。

夕されば野べの重宝つたへばや
さねもりたれや深草のさと

重宝を伝える、ときた。
「さねもり」って誰や?
著名な「さねもり」は平家物語に登場し、能にも芭蕉の句にもなった斉藤別当実盛。
篠原の合戦で、老武者・実盛は退却もせず、白髪まじりの髪を染め、前主君に拝領した兜を付け、かつて命を助けた情にもすがらず、ただ一騎奮戦し、討死するという、老武士の意地のお話。
何となく雰囲気はわかるが、わざわざ実盛を持ち出すまでもないような気がする。「さね」は鑑実の「実」、「もり」は守武の「守」。実と守を継ぐ子孫に伝えてほしい、違うかっ!

次に、宝といえば、隠し場所。石上神宮拝殿奥の禁足地の「垣」(剣先状の石瑞垣)を想定し、「かき」を含む句がいくつか。

あしがきにかかる爪ざねほのみえて
すずろにはらのどくとしれかし

「あしがき」は葦垣でしょうが、禁「足」の「垣」ともとれる。
「爪ざね」って何だ?
橋爪鑑実(はしづめあきざね)?

雪だまりかきなでかきやはらふらん
けづりはすとも爪ななきりそ

ここにも爪が!
爪という語彙が歌や句に織り込まれることは珍しいものだが、守武千句にはもうひとつ爪が。

うしのこのあしや七夕爪ならん
月にさけても賎をみましや

意味はまったくわからないが、「賎」が気になる。これも詠まれるのが珍しい語彙だが、八女百首に何度も登場する。



▼かささぎの旗管理人のよみ:

うしのこのあしや七夕爪ならん
月にさけても賎をみましや

牛の爪は七夕の織姫彦星みたいに二つに割けてる。
月にさけても身分の低い者の爪をみてはいけない。
(どんな爪をしてたろう。しづのつめって)
「みまし」が「みまじ」なのか、どうなのか。
印象的な印象的な「月にさけても」の措辞。
いまいちわかりません。現代人のあたまでは。

http://sky.geocities.jp/azamidainoibento/cn9/pg57.html牛の爪
http://www.kanagutu.com/souteisi3.html馬の爪


七夕爪http://janezkk.ycool.com/post.2120519.html映画?


夕されば野べの重宝つたへばや
さねもりたれや深草のさと

これはかささぎが思うに、えっちなバレ句。
「麦畑」みたいな歌だと想う。
新年の宴会芸で男女かけあいの麦畑を聞いたばかりのかささぎにはそう思えた。

かくなる歌がなにげに手挟まれている所、是すなわち俳諧。

▼ 八女戦国百首「しづ」の用例

三十  蚊遣火      鑑實

まバらなる賎が伏屋のかやり火の 
軒よりもるヽ夕けぶりかな

八十九    橋     頼運

これも又憂世をわたる心かは 
賤が深田を越ゆる柴橋     

七十八   後朝    藤次

とはぬ間を待ちならひたる夕より  
わかれし今朝ぞしづ心なき  (静心。字がちがふ。)

ところで、きのうの守武千句の山たちの歌ですが、調べたら「山賊の歌」でした。山たちは山賊。は。知ってた。そうですか・・・

大分(豊後)へ行った旅の歌もありましたが、実際に自分が行ったとは限らないかもしれません。御師(おし)たちが諸国をめぐり、伊勢暦や御札やいろいろを商っていたことを思えば、そういうものたちの話を常に聞くことのできる身分だった。ねぎは諸国めぐりしないような気がしますが、でも↓の歌は、かささぎを知っている人の歌です。有明月、有明海の月じゃないとはいえないかもしれない・・・。

有明の月はいかにもひらくして
かうやひじりのきたるかささぎ  もりたけ

有明の月(暁の月)はいかにもひらべったくて、高野聖がきたようだよ。
そら、かささぎ。おまえの大好きな餌になるよ。・・高野聖はタガメ。

めちゃくちゃなよみ。あんまりだろか。笑

「ひらくして」がいまいちつかめない。
平べったい、薄っぺら。

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-39be.html

現代人の有明月に寄せる想い:
http://homepage2.nifty.com/kunimi-yaichi/introduction/tsuki-2titles.htm

有明の月は陰暦16日以降の朝の空に残ってる月。

八十六   川     鎮光 

いかにせん河瀬のなみの色々に 
月のさそへる船の行末

この歌の河瀬はどこだろう。

追記:

かささぎについて荒木田守武の使用例から見えてくるもの。

「かさ鷺」の表記から感じた、鷺の一種と勘違いしてる。
だから、こうやひじりのような歌ができるのかもしれない。
たがめは水中生物、有明月と連句的に通じている。

        

2009年1月 4日 (日)

高良玉垂宮参道石段

高良山より千年川を望む

こうらさん

黙契の師ある如し初山河    恭子

守武の暗号   乙四郎語録31

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

     竹橋乙四郎

▼ 謎解き

「雁」と「燕」とで、どこで詠まれた句かがわかる。

雁の集団越冬地の西限は島根県とか。
南限は琵琶湖の湖北。春分(3月20日)の頃、シベリアへ帰る。
雁の北帰行期は、狂いがほとんどないので、この句は春分の日頃の句。
同様に去来が正確な渡り鳥は、ツバメ。
誤差は十日以内(近年は誤差が大きいとか)。
気象観測官が桜の開花日と同様に重視する自然の営み。
南方からのツバメの渡り日は、九州では3月中旬、下関で3月下旬。
ほぼ1ヶ月かけて北海道に渡る。
従って、通常は、雁とツバメとは同時に観測されることはない。

燕来る時になりぬと雁がねは
本郷(くに)思ひつつ雲隠り鳴く
(大伴家持『万葉集』)

燕と雁とは擦れ違いなのである。
少なくも、伊勢や京都ではありえない。
ところが、どうも昔は雁は全国で観測されていたらしい。
そうなると話が違う。
春分の頃、ツバメと雁の北帰行との同時観測が可能な地点は筑後あたりか。
九州で雁を詠んだ歌、どなたか心当たりあれば紹介ください。

雁は昔は全国にいた。
   ↓

http://www.jawgp.org/jghi1994/p005.htm

俳祖である守武には、当然、大和では雁と燕とが擦れ違いであるという知識があったであろう。あえて雁と燕とを同居させた句を出したのは、自分が九州(有明?)に居たことの暗号の意図を感じる。となると、守武千句というのは暗号のかたまりではないか、とワクワクする。
フェルマーの最終定理以来のひさびさのワクワク感。

旅する太刀がたくさんでてきたのも、やはり暗号でしょう。
「倭王に贈られたはずの七支刀は筑後にずっとあり、天文9年に伊勢神宮禰宜が持ち帰り、その経緯が像として筑後に残されていた」というのが、謎解き中間経過。
これだけでも日本史がひっくり返る?

▼ 守武の暗号

山だちのほうづきやりはさびはてて
いとどみじかくおもひあこがれ

山だち=邪馬太刀
ほうづき・・・ほうずきの実は、まっすぐな枝に左右交互に付く。七支刀そっくり。

とんでも暗号解読超訳:
邪馬台国の太刀である七支刀の槍は錆び果ててずいぶん短くなっているが、思い憧れていたものだ。

はげつとはいへどばけつに成はてて
みやこいづれば山だちにあふ

とんでも暗号解読超訳:
剥げているとはいえども馬尻(うそっぽい外宮の祭神)くらいのありがたみで、都を出れば邪馬台国の太刀を見ることができる

尻といえば、伊勢外宮のこの祭神

http://www.yume-jinja.net/original/contents/venus.php?mode=detail&id=35

▽ かささぎの旗管理人:

このブログで雁の渡りを想像してみました。

http://simijimi.exblog.jp/i46/

一度はみたい。北海道まで行かんといかんとかいなねえ。
(翻訳:北海道まで行かないといけないのでありましょうか)
昔はたくさんきてくれたんだ。その証拠の天文歌。

十二  帰鳫(帰雁)      鑑冨

見るうちもたちぬかずとや天津雁
雲間にきえて立かへるらん


うじゃあっと鳥がいる、飛び立つ。
どうやって数えるんだろう。
鶴にはシベリアわたりの中継地があり、北朝鮮と韓国との国境あたり。
雁は夜に飛び立つのかな。未明?
雁木という言葉もあります。雁風呂も。
雁が旅立ち、まれに体力がなくて、海に休むときの枝を落してゆく雁がいる。その木切れを雁木といい、それでお風呂を沸かすのを雁風呂という。(でしたよね?)風流はありますが実感がない。

日本史、どんどんひっくりかえしてください。
なんにもかわらん世の中はたいくつだ。
もりたけさんは九州には来てないとおもうけど、九体皇子の話には荒木田兄弟の話が投影されているよね。時代、千年と五百年とでは倍の距離違うけど。
少なくとも、乙四郎が鷹尾になぜかグッタイミングで行ってくれたおかげで、このフィールドワーク風の探検も面白く、実感のこもったものになってきました。
まったく考えたこともなかった。
鷹尾って港だったんだね!!
それはかなりすごくないですか。
しらゆう=白木綿も白絹も、輸入も輸出も。国際都市だったってことです。すごい。へえー。
なんでそういう認識がまったくなかったんだろう。
うんとずっと田舎だとばかり思い込んでいた。
今の目でしか見れなかった。
せいこさんでさえ、邪馬台国関西説をいうくらいですからね。
邪馬台国は九州。まずこれを信じる。

かさ鷺と鷹尾と  対話篇5

八女戦国百首和歌「夏日侍」をよむ

     竹橋乙四郎

▼ 鷹尾海

瀬高の下の御庄(下庄)は平安末期にかけて、山門郡鷹尾郷の開発が進み、鷹尾宮が造営され瀬高下庄の総鎮守社として下庄の中の特別行政体鷹尾別符(べっぷ)の中心となり鷹尾別府八幡宮とも称した。
代々の朝廷、および鎌倉幕府の尊崇厚く、造営は朝廷および鎌倉幕府によって行われ、その都度造営奉行が任命された。
往古盛大な時は、大竹、樋口、下庄より高柳、井出の上、泰仙寺、鷹尾、皿垣まで残らず神領で樋口宮の地は鷹尾宮造営までの神霊を安置した仮宮でもあった。
鷹尾宮は瀬高下庄の西部鎮守で樋口宮は東の鎮守であったろう。
建久2年(1191)には鷹尾別府という役所が置かれ、この地方を治めるとともに、矢部川を上下する商船に対して課税していた。
有明海も鷹尾海と称して沖合いの方まで神領とされていた。

   ↓
http://www.geocities.jp/bicdenki/newpage20.htm

>もりたけさんは九州には来てないとおもうけど

雁と燕の同時観察は、想像でなく実体験だと思う。
こんな暗号、頭じゃ作れない。
他にも守武千句には、佐賀平野と筑後平野を生息地とするカササギが詠まれている。

有明の月はいかにもひらくして
かうやひじりのきたるかささぎ

かさ鷺や今日久かたの雨の川
はし吹わたす秋かぜもがな

これもカササギのことだと思う。本州の人は白い烏かと錯覚する鳥ゆえ。

あかつきの明星かすみもれいでて
しろきからすが飛といふ人

そして、守武と豊後の大友家臣たちとの接点がこれ。

涼しとやぶんごの国にくだるらん
わづらいならぬたびは夏なり

雁が音やあつきをさしてかへるらん
はげたる太刀のつばめ鳴ころ

のひとつ前の句はこれです。

今日にあふ子日の松けかすかにて
きらりとみゆる春の夕ぐれ

子日松のほかに松を詠んだのにこんなのがありました。

松に咲藤くぢらとやよりぬらん
なみにいるかはやすむこころか

鷹尾神社の境内に「牛の宮」というのがあります。今年は丑年なので扉が開けられていました。藤原氏の守護神だそうです。かつて九州に赴任した藤原氏が、この神社の境内に守護神として祭り、境内の松に藤がまつわり咲き、あまりにもみごとだったので藤原の姓を「松藤」に改名したと説明看板にありました。ここいらには松藤姓が多い。

▽ かささぎの旗管理人記す

今日から仕事はじめ。恒例の高良さん参拝、その後新年会です。
昨夜いつのまにか眠ってしまいました。すみませんでした。
正月が正月ではなくなって。
不義理に不義理を重ね年賀状が一枚も書けていない。
まさに蟄居の状態です。

乙四郎、さすがに気象大学に行ってた人だと想うよ。

だんだんその気にさせられてきた。
では、これを読んでくれないか。
ずっと考えている。だがいまいちわからん。
なんと霊的なうただろうか。
お能のような。

三十二  氷室     松寿

春秋をわけぬはかりか松がさき
氷室も夏をほかにこそもれ

竹橋乙四郎が引いた守武千句のなかの、やまたちの歌は、ほんとうに邪馬太刀みたいに思えます。
つがるそとさんぐんしをよんでいるからかもしれませんが。
ただ、わたしも荒木田もりたけの歌の、かささぎの歌をみていると、「かさ鷺」という表記になっていまして、まっすぐ「倭国の笠縫邑」にあったという伝説の元伊勢を連想します。これ一首だけでなく、かさ鷺表記の歌がもう一つあったわけですね。上半分がまったく同じ歌。めずらしい。
地名の入った歌を抜き出そうとして、いちいち「暦論」をひらくわずらわしさから逃れようと、昨日一瞥で一巻見渡せるようしました。こんどからは右のカテゴリーの八女戦国百首和歌「夏日侍」をクリックすれば、まっすぐ繋がります。
これまで、「夏日待」にするか「夏日侍」にするかで揺れていました。
しかし、原文は侍である。であれば、夏日侍だし、読み方を夏日待ちとよめばいい。そういう結論に達しました。
みなさん、どうか「夏日侍」は「なつひまち」とよんでください。
私も竹橋乙四郎も専門知識の先入観は一切ないので、それが却っていい場合と、プロからみたら、なんじゃいなこりゃ。って時とがあるだろう。
しかし歴史をひっくり返すのに、そんなこた知ったこっちゃありまっせん。
いずれネイティヴやめりかんが主流になる日がくる。・・来ないか。
それと。おもしろいことにきづいた。
れぎおんで十年前くらい、ある人の代打で鳥のエッセイを担当したことがあり、そのとき、かささぎを調べました。
最初に持っていた鳥辞典は朝日選書、鷹野神事のいや高野伸二の本で、この人は日本野鳥の会会長って書かれていました。んで、まず、かささぎは白と黒のからすみたいな鳥で。
たしかにそうです。しかし、じっさいに見たことがある人なら、そんな表現はぜったいしない。碧であり蒼であり漆黒の部分もあり、とても美しい羽の色をした鳥だ。と、こういう書き方をすると思う。見たことがないのでよくわからない。と書かれていました。
たいがいの本にはかちかちと鳴くから、かちがらす。
秀吉の朝鮮出兵で持ち帰ったかちガラス。
などとかかれています。
魏志倭人伝には馬も鵲(かささぎ)もいないとかかれている
ひみこのいた九州に、そのすぐあと馬(もちろん舟で運んだ。装飾古墳の壁画にあるように)もかささぎも連れてこられた。と考えるのが自然なようにわたしはおもいます。戦国時代まで時代をまつなんて、ふつうに考えておかしいです。魏志倭人伝でそう書かれたときから、それらは海を渡る運命にあったろうから。

2009年1月 3日 (土)

八女戦国百首和歌「夏日侍」全99首

豊饒美濃守源鑑述奉納百首和歌

         第一次解読  松崎英一(故人)
         第二次解読   姫野恭子
         協力      東 明雅(故人)
          〃       前田 亜弥
 

                                         

 夏日待   

          今伊勢寶前同
                    詠百首和哥 
          美濃守源鑑述

一    立春

君が代のためしにすめる千年川
かはらぬたねに春や立つらむ

      子日        鑑教

さゝれ石の庭に小松を引き植へて
苔のむすまで友とこそ見め

三    霞         鑑實 

朝夕に霞たなびく小松原
きみがちとせの春ぞ久しき

四    鶯        鎮時

春立は谷のつらゝもうぐひすの
こゑうちとけて軒ぞながるゝ

五    若菜       鑑秀

わかなゆへとしとし*分てくるす野に
おほくのはるを我もつミけり

六    殘雪       鑑實

をそくとく消るや野辺の白雪の
跡まで見ゆる草のしたもえ 

七     梅        覚元

心ある友としミばや難波津の
花もさかりの香に匂ふころ

八    柳        弘俊

夜るの雨の晴てやなびく春柳の
露の玉ちるあさ明の庭

九    蕨        孫七

もえわたる野辺のさわらび影は見ねど
あたりの草ハけぶり合けり

十    桜        鑑述

さくら花けふより千ゝの色はへて
いく春までかさかへさかへむ

十一  春駒       嵐竹

つながでも放れぞやらぬ春駒の
野をわかくさや綱手なからむ

十二  帰鳫(帰雁)      鑑冨

見るうちもたちぬかずとや天津雁
雲間にきえて立かへるらん

十三    呼子鳥     鑑教

春の日もよぶこ鳥ゆへくれはとり
あやしきまでにまよひこし山

十四    苗代      鎮續

言葉の花の種まで桜田の
苗代水にまかせてやミむ

十五    菫       鑑栄

むらさきのゆかりにさける菫草
野をなつかしミくらすけふかな

十六    蛙       牧也

雨はるゝ田面の原のゆふぐれを
なくや蛙のこころなるらむ

十七    藤       宗右

岩に生ふる松にかゝれる藤なみも
をのれくだけて春ぞ暮けり

十八    款冬(山吹)   鑑栄

足曳の山吹さきてたそかれの
春をのこせる色にこそあれ

十九    三月盡      孫七

伊勢のうミや波よるもくさかきためて
くらす神代の春はいく春

二十  更衣     鑑實

たちきつる春の袂のおしければ
ぬぎかへがたき夏ころもかな

二十一   卯花   鑑述

曇なき月のひかりや卯花の
かきほあらたにかくるしらゆふ

二十二   葵     鑑教

詠(ながめ)よとおもはす露やかヽるらむ
おりにあふひの花の朝更

二十三   郭公(ほととぎす)  鑑述

ほとヽぎす心づくしの空音とも
まだ聞あへず夜半の一こゑ

二十四  菖蒲       覚元

えにしなき身ハあだ波の菖蒲草
たが家づとのつまとならまし

二十五  早苗       鑑述

小山田の早苗むらむら色つきて
秋にまぢかきかぜそよぐ也

二十六  照射(ともし)   鑑栄

夏山のしげみを頼む小牡鹿の
ともしさすてふいる影はいざ

二十七  五月雨      嵐竹

山川のあさせも此の五月雨に
よしあだなミはたヽじとぞおもふ

二十八  盧橘(ろきつ)   宗右

夢にとふむかしの人の袖の香や
そのまま残る軒のたち花

二十九  蛍        鑑教

うき草にやどる蛍の影もいま
なえをはなるヽゆふ暮の空

三十  蚊遣火      鑑實

まバらなる賎が伏屋のかやり火の
軒よりもるヽ夕けぶりかな

三十一 蝉    鎮時

木間より時雨こヽろになく蝉の
こゑも夕日にほすかとぞ思  *

三十二  氷室     松寿

春秋をわけぬはかりか松がさき
氷室も夏をほかにこそもれ

三十三  泉   宗房

をのずからまたこぬ秋の初かぜや
わきていづみのゆふ暮の空

三十四  荒和祓(あらにこはらひ) 鑑栄

月すゞし川瀬のなミの夕はらへ
こひをせまじと人はいふとも

三十五  立龝    嵐竹

昨日までふくとも見えぬ秋風の
簾にさはる初秋の空

三十六   七夕    弘俊

七夕のあふ夜のとこは天の戸を
をし明かたもいそがさらなん

三十七    萩     覚元

ほのめかす軒端の萩を来てみれば
露うちなびく秋の初風

三十八   女郎花    鑑述

ひとしくも手ふれてやみむ女郎花
をなじ花野の秋はあれども

三十九   薄       鑑栄

花すヽき音信わたる秋風に
あだにやなびくゆふ暮の空

四十     蘭       宗右

秋の野に主あればこそふぢはかま
色香を露のやつさざるらめ

四十一   萩    鑑述

龝の野や千草の色にひきかへて
錦をかざす萩の白露

四十二    鴈(雁)   弘智

いつもきくここちこそせで玉手箱
二見の浦をわたる雁

四十三     鹿     鑑実

さをしかの妻こふ野路の朝な/\
咲ける小萩の露こぼるらん

四十四     雰(霧)   鎮光

明更を遠方人のこころとや
雰うちはらふ袖のゆきかひ

四十五     露      鑑實

をく露は萩の上葉にとヽまらで
つれなく残る秋風のこゑ

四十六    槿(あさがほ)  嵐竹

あだなりと見しは残らじ槿は
世にはてしなき秋ごとの花

四十七    駒牽       松寿

今しばしかげを留よる望月の
駒の行辺も走り井の水

四十八    月         塩亀

あまてらす月を清水にうつしきて
猶かけまつる伊勢の神垣

四十九    擣衣(とうい)   宗房

秋といへばさびしかりけりむば玉の
夜わたる月に衣打つなり

五十     虫      鑑栄

女郎花露にやどりやかしつらん
こころのかぎりしのぶ虫の音

五十一    菊     鑑述

作りなす砌の菊のした水は
くむともつきじ万代のかげ

五十二    紅葉     頼運

玉鉾の道の山かげふきおちて
をらぬ紅葉を袖に見るかな

五十三    秋田     鑑教

種まきし難波の小田は夢なれや
をどろきあへぬ秋かぜの音

五十四    九月尽    通次

長月もけふにうつろふもみじ葉の
かぜの跡とふ友のうれしさ

五十五   初冬   鎮續

山姫や手染の色を白妙の
雲の衣にかへてたつらむ*

五十六   時雨    鑑教

むすぶてふ柴の庵のとこの上に
まなくしぐるヽ雲のよな/\

五十七   霜    鎮時

天つ星ひかりつつゆくあかつきの
空よりやがて霜やをくらむ

五十八  霰    鑑実

閨近き楢の枯葉の玉あられ
音してかへす夜半の夢かな

五十九  雪   鑑述

かきくもる雪に出で立つ朝あけや
枩に花さく岡の辺の山*

六十   千鳥   鑑教

霜さむきよるはすがらのうらなみに
なきたつちどりいづち行くらむ

六十一  氷    牧也

氷るかとかけひの水のたえ/\に
寝覚めさびしきあかつきのとこ

六十二  水鳥   鑑実

打羽ぶくこゑこそたゝね池にすむ
をし明かたの霜やさゆらむ

六十三  網代    鎮續

氷魚のよるながれも見えて田ノ上や
まもるあじろのとこはなれせぬ*

六十四  神楽     覚元

祈てふ事はおろかにあらし世に
しらゆふかけてうたふ御神楽

六十五  鷹狩    鑑栄

ふる雪に狩場の鷹の一つがひ
花をはらへる袖かとぞ見る

六十六  炭竈     鎮時

さしこもる小野の炭がま都にも
こころしられて立つけぶりかな*

六十七   埋火    宗右

さゆる月の老のおもひを埋づますは
何にかからむ夕べならまし

六十八   寒梅    廣吉

木ヽにつむ雪をはらへばはるをまつ
むめの匂ひにをどろかれけり

六十九  歳暮      鑑栄

忘めやあか井の水にとし暮て
わが身のかげをなにとくむらん*

七十   初恋     鑑述

見初つるその面影の身にそひて
わすれもやらぬおもひとぞなる

七十一  纔見恋 *  宗房

ほの見てし人に想ひをかけ初て
打いでぬ間の身をいかにせん

* 纔見恋・・わずかに見たる恋

七十二  不逢恋   鑑冨

今は我見る目も隠す言ふ甲斐も
なく/\袖のうらなみぞたつ

七十三  来不逢恋  嵐竹

とひきてもねぬときなれやくやしくて
おもひわすれじ庚申かな

七十四   度ゝ思恋   塩龜

ついにきてとはぬ仲かな花の春
もみぢの秋の空頼めして

七十五   片思     宗右

雨となり露とみだれて松の葉の
なびかぬ色にとしはへにけり

七十六   恨恋    鑑述

中々に身こそつらけれ今はたゞ
うらむるすぢをいふよしもなし

七十七  祈身恋   鑑秀

色かへぬ槇の下葉に立そひて
祈るこころも誰ゆへの身ぞ

七十八   後朝    藤次

とはぬ間を待ちならひたる夕より
わかれし今朝ぞしづ心なき

七十九   契恋    鑑述

黒かみの雪となるとも契りしは
かはりかはらじ頼むわが中

八十  暁    鑑述

あかつきの枕の夢の覚ぬるは
八こゑの鳥のつげわたる空

八十一  松   弘智

得てうへし松にならへる君が宿を
猶すみよしの神や守らぬ

八十二   竹    宗房

きみが代を久しかれとて植へをきし
たけの臺のかげ越しぞ思

八十三   苔    鑑栄

千代をかね松の下蔭苔むして
雨にいづれも色ぞまされる

八十四   猿(ましら)  覚元

秋の夜の月さへをそき山の端に
慰めとてやましらなくらむ

八十五   山     鑑實

ますらをが山分衣うちきつヽ
渡るや寒き岨の架け橋

八十六   川     鎮光

いかにせん河瀬のなみの色々に
月のさそへる船の行末

八十七   野     鑑栄

見渡せば移りにけりな春の野の
風より他に訪ふ人もなし

八十八    関     通次

せきもりの厳しく見ゆる陰ながら
行き過ぎ難き山さくらかな

八十九    橋     頼運

これも又憂世をわたる心かは
賤が深田を越ゆる柴橋

九十      海路    鑑實

うなばらや浪路はる/\旅だちて
いづくを船のとまりなるらん

九十一    旅     鎮時

明更の空にひかれて旅衣
いく野山をか越してきぬらん

九十二    離別    覚元

中々にうき旅人にともなひて
わかるヽときの袖のくやしき

九十三    山家水    述秀

すみなれて結ぶもいざや流れては
世にいづるてふ山川の水

九十四    樵夫     宗房

けふは又山路の雪を知りそめて
かはる嘆きの袖のくやしき

九十五    懐旧    宗右

古をつみてや誰もしのぶ草
しげる軒端の見しこともなき

九十六    述懐    鑑教

かへりてもおなじ憂世とおもひとる
爪木の山にいつまでをへん

九十七    夢     廣吉

待人はよもきが宿のよるの夢
さむるまくらに風ぞ声する

九十八    尺教(釈教)  宗右

岩つたふよ川の水のつふ/\と
とくをまことの御のりとぞしれ

九十九   祝言    塩亀

なべて世に神の恵みのはやくして
よろこぶ事をかさねつたへん

天文廿四年癸卯  卯月廿五日

(季刊『九州俳句』誌連載随想『暦論』と『連句誌れぎおん』誌上にて公開したものです。)

歌の前に便宜上、番号をうちましたが、原文にはありません。
かなは万葉仮名がつかわれているところが目立ちます。
適宜漢字に変えましたが、最低限にとどめました。
当然、濁点がうたれていませんでしたので、どうしても意味が通じない歌には打ちました。しかし、正直言って、これでよかったろうか。と思うものもあります。ともかく、八女の重要文化財にはちがいなく、それを分けてくださった学芸員さんのおこころに報いるためには、少々のミスには目をつぶり、思い切って公の場に資料を提出することがまず第一の課題だと思いました。

現に、百首和歌を紹介した部分だけ「暦論」をブログ上に公開したところ、一人竹橋乙四郎という奇特な人があらわれて、読み解いてみたいと目下、その周辺の郷土の歴史を洗われているところです。

ふつう、こういう史料は素人の手には渡らず、資料館や保管庫などへ入れられて、お蔵いりとなる運命です。
しかし2001年元旦、ふしぎな運命の導きでかささぎの手に落ち、ブログを通じて竹橋乙四郎という研究者の手に落ちました。
今後、ネットを通じて、さらにいろんな、天文年間を研究しているひとたち、また歴史を研究している方々、百首和歌を研究する人たち、民俗学を研究している人たち、神道や仏教を研究している人たちへと浸透してゆき、人口に膾炙する歌が生れますように、かささぎの旗は祈っております。さいごに、柳川古文書館のなさっておられます「古文書解読講座」(無料)にはたいそうおせわになりました。重ねてあつく御礼もうしあげます。

史料初出:矢野一貞『筑後将士軍談』に「天文歌人」の見出しで、鑑述と鑑教の歌のみ紹介されている。

深まる七支刀の謎   語録30!

八女戦国百首和歌「夏日侍」をよむ

     竹橋乙四郎

▼七支刀とんでも仮説の追加とこれまでの整理

367年:高牟礼神が高牟礼山に鎮座。
372年:「七支刀」が百済から倭王へ贈られる。
3??年:高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出る。高牟礼神が譲ったので高良玉垂命が鎮座。山の名が高良山となる。
※ とんでも仮説:一夜の宿を高良玉垂命から求められたのは「七支刀」では。もし七支刀の居所が当初から石上神宮なら、七支刀は他の剣と同様に石上神宮の祭神となっていても然るべきだが、実際は格落ちの「社宝」扱い。
400年:「高良玉垂命神社」(高良大社)創建。
863年:神主が夢で見た草薙剣を模して布留神剣が作られた(『石上布留神宮略抄』)。石上神宮禁足地に祭神等(剣、矛、勾玉)を埋める。
869年:鷹尾神社が高良別宮として創建。


※ とんでも仮説:「七支刀」が一夜の宿から終の棲家へ移る。
  
七枝のデザインが鷹尾神社の社紋となる。
http://www.educ.pref.fukuoka.jp/bunka/cgi-bin/detail/detail.cgi?number=219

1213年:鷹尾神社全焼。「七支刀」は、一時的に、猫尾城の支城、犬尾城(八女市山内)の隣接地に保管してもらう。保管場所は鷹尾城と称される。
1219年:鷹尾神社復興。「七支刀」戻る。
1516年:伊勢神宮内宮の禰宜が相次いで亡くなるなど、伊勢神宮の危機。
1536年:鷹尾城築城申請の交換条件に、「七支刀」の朝廷への奉納を申し出る。
1540年:古びた「七支刀」が伊勢神宮禰宜荒木田守武によって鷹尾神社から持ち去られる。内密に石上神宮禁足地に隠される?

鷹が音やあかつきをさしてかへるらん
はげたる太刀のつぼめ鳴ころ

そゞろには成もはる/\"太刀はきて
天神さこそつらきみちのく

もゝだちをとりてこきやうへ帰りきて
天文九年しぐれふるころ

きるといふこともいはぬはみやこ人
旅と太刀とのゆくゑしられず

(以上、守武千句より。「七支刀」は日本書記では、ななつさやの「たち」。)

15??年:「七支刀」が持ち去られた物語が人形にされ、祠に納められる。
ゆかりの地を太刀の神にちなんで太神、祠の名を高良にちなんで「こうや(ら)の宮」とする。
「七支刀」の奉納先は布都御魂大神を祭神とする神社とされ、五三桐紋像を造る。

※ 五三桐紋の岡山県石上布都魂神社は、奈良の石上神宮の記録に「布都斯魂大神。もと備前国赤坂宮にありしが、仁徳天皇の御代、霊夢の告によりて春日臣の族市川臣これを当神宮に遷し加え祭る。(抜粋・官弊大社石上神宮御由緒記)」とあり、由緒正しい。

1548年:鷹尾城完成
1549年~:肥後菊池の筑後侵略。

菊池の紋が「並び鷹の羽」(鷹のひとつがい?)紋に。


 註・八女戦国百首和歌の65番に、

  鷹狩         鑑栄

ふる雪に狩場の鷹の一つがひ
花をはらへる袖かとぞ見る

1549年:荒木田守武死去。
1550年:橋爪鑑実、菊池討伐。
1555年:荒木田守武と親交あった橋爪鑑実(=鑑述)が、守武の死を偲び、守武の遺作を織り込んだ百首を今伊勢=伊勢神宮内宮を宛先として奉納。権威づけのために「源」を称する。
1571年:橋爪鑑実、正月に俳諧を興行。
1585年:石上神宮は社禄を没収される。七支刀は禁足地に埋められて無事?
1588年:橋爪鑑実、自刃。
1874年:禁足地発掘。鎌倉・室町期の瓦も出土。足を踏み入れてはならない場所のはずなのに、当時、何かが埋められている。
1876年:宮司が「七支刀銘文」を発見。

参考:
石上神宮の重要文化財の一部。
色々威腹巻(いろいろおどしはらまき)-「腹巻」は甲冑の一種。
朱札紅糸素懸威鉄腹巻(しゅざねくれないいとすかけおどしかなはらまき)
黒塗練革星兜鉢(くろぬりねりかわほしかぶとばち)

七支刀について

調べれば調べるほど新しいことがわかる。
七支刀は信長に一時奪われてへし折られていた。
オリジナルは槍形・・・
こうやの宮の七支刀に柄の部分がないのは何故?
疑問が増える。
新知識は軍刀に関するサイトから。
軍刀への思いが嵩じて七支刀まで調べ上げてあった。敬服。記載事項を要約引用します

===================
369年、百済王とその皇子の貴須王子が倭王の旨の為に谷那鉄山(こくなてつのむれ)の鉄を使って百済で製作。日本にもたらされたのは372年。東晋で造られた物か百済での複製か、製作も舶載時期も諸説あり。
刀となっているが槍である。全長74.9㎝、本身刃長66.5㎝、茎長8.4㎝、両刃平造りの槍で本身の左右に段違いで合計6本の両刃の支鉾が付く。図(省略)は七支刀の本来の使用想定図。恐らく七支刀は「辟邪=邪悪を斥ける」の祭祀用に使われたと思われる。
七支刀は茎側から三分の一の処で折損している。全体に錆で覆われていながら未だ鉄の性質を失っていなかった。
永禄11年(1568年)、信長が大和を攻略した際に多くの宝物と共に七支刀も持ち去られ、後にへし折られて石上神社に返還された。
社領が没収されて社人のいない神宮の宝物は、密かに神宮の御禁足地に埋蔵された。七支刀も破損したまま土中に埋められた。
ところが、信長方になった筒井順慶に依って天正8年(1580年)に社領が安堵され、七支刀は掘り起こされて再び社殿に奉祀された。
従って、七支刀は12年間土中に埋まっていた。若しこれが平安中期(11世紀)以降の日本刀だったとすれば、錆の進行が早く、その姿まで消滅したであろうが、七支刀は十数年土中に在ったにも拘わらず伝世品同様の姿で残っていた。

『旧日本帝国陸海軍軍刀』のサイトから、
七支刀
http://www.k3.dion.ne.jp/~j-gunto/gunto_132.htm

古代の技術研究グループによる七支刀鍛造実験

http://www.iri-tokyo.jp/publish/tirinews/0705/TN20070502.pdf#search='七支刀'

▼ 乙的とんでも注釈
室町・鎌倉時代のものが禁足地にあった理由がわかった。

信長に1568年に奪われたということは、その時点では禁足地に埋められていなかったということになる。
古来、神社の祭神、社宝は原則として禁足地に埋められる習慣の神社だったことを鑑みると、七支刀は石上神社に奉納されてからあまり年月が経っていなかったのではないか。

▼ 七支刀の鍔がないことについて

他のデータベースでは、守武の句が違ってた。
鷹→雁
あかつき→あつき
つぼめ→つばめ
どっちが正しいかわからぬが、ずいぶん印象が違う。

雁が音やあつきをさしてかへるらん
はげたる太刀のつばめ鳴ころ

(とんでも超訳)
借金(かりがね)のためだ仕方ない。
覆い(厚着:あつぎ)をして帰ろう
剥げた太刀である上に鍔もなく・・・

俳諧データベース:http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/haikai/index_era.html

かささぎの旗管理人の感想:

うたですが。   

鷹が音は聞いたことがありません。
鷹の鳴き声を詠んだ歌をこれまで読んだことがない。
鳶ならあります。季語に「鳶の笛」あり。

常識的に考えてかりがね だろうとおもいます。無理がないのは、

雁が音やあかつきをさしてかへるらん
はけたるたちのつばめ鳴るころ

はくというのは、佩く。刀を身に帯びる。
でも、佩きたるならすっと入りますが、佩けたるってへんです。
雁が帰ると、なぜ太刀の鍔目が鳴るのだろう。
デザイン的に穴が開いている鍔目で、その風穴を風が通る?

つぼむ。という言葉は、とても八女人には懐かしい響きがある。
すぼめることをつぼめる。といいますものね。どこか子ども時代の原初的なひびきがあって、ふと立ち止まりたくなることたまです。

かささぎは、平成15年に「石橋秀野ノート」を出版しましたが、その帯に、好きな秀野の句をとっているのですが、一つに誤植があります。
といいますのは、昭和24年出版の初版原著の句を、よもや誤植とは知らず、そのまま受け取って、それでそのいわくいいがたい味わい、意味がつかめそうでつかめぬ・・・に惹かれたからでした。

▽石橋秀野『櫻濃く』
(編集・山本健吉、創元社昭和24年刊)

昭和22年夏(この年の9月26日永眠):

子の茶碗つぼめ西日をきりかへす   石橋秀野

かささぎの描いた情景:
秀野は結核末期に入っており、布団に寝ている。
まだ幼い娘の茶碗がちゃぶ台に使ったそのままの形で置かれてある。
秀野は子が不憫でたまらない。渾身のちからをふりしぼって、お茶碗を伏せる。
とそのとき、お茶碗に西日があたる、衰えた身にそれはなんとも耐え難いものだ。だがまだ死なない死ねない。次におかれている句も、この読みを助けた。

昼の蚊を打ち得ぬまでになりにけり  秀野

(俳人というのはげにすさまじきものなり。蚊を打ち得なくなっても、俳句を詠むことはできたのだから。)

▽富士見書房平成12年刊『定本・石橋秀野句文集』

子の茶碗つばめ西日をきりかへす  秀野

かささぎはなぜこの間違いに気づけなかったのだろうか。
でも、今でも、「つぼめ」の方が秀野を近く感じる。(負け惜しみ)
ということも含めて、乙四郎のミス、ふしぎなシンクロだと思いました。

  

2009年1月 2日 (金)

高良大社別宮考  

八女戦国百首和歌「夏日侍」をよむ

     かささぎの旗管理人:姫野恭子

高良大社の別宮(厳密な定義は知りませんが)として、ネットで拾えた神社です。

1 蒲生神社:http://cache.yahoofs.jp/search/cache?fr=slv1-ytpprn&p=%E9%AB%98%E8%89%AF%E5%A4%A7%E7%A4%BE%E5%88%A5%E5%AE%AE&ei=UTF-8&u=www.hayato.com/jisya/kamo_hachiman.html&w=%E9%AB%98%E8%89%AF+%E5%A4%A7%E7%A4%BE+%E5%88%A5%E5%AE%AE&d=eLKvHEfiR_0x&icp=1&.intl=jp

鹿児島までもこうらさんの影響が響いていたというのは驚きです。

2鷹尾宮:http://proto.harisen.jp/minato1/takao.htm

これは竹橋乙四郎が今おいかけているので省略いたします。

3祇園山古墳(卑弥呼の墓についての論考):http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm

高良山を美嚢連山(耳納連山、水縄山)の西端ととらえるとき、こういう視点の考察が生きる。

4川を隔て向かい合う神社:http://www.genbu.net/data/hizen/tiriku_title.htm

「高良山物語」には、もっとはるかな距離を隔てて対座する、太宰府の山々、しおうじやま、ほうまんざん、までも射程にいれておられたような気がします。なにしろ一気読みでしたのでどこの章だったか忘れましたが。歴史を考えるとき、方位とか距離とか、今よりもずっとずっと大事に考えなければならないと思う次第です。

5玉垂神社:http://www11.ocn.ne.jp/~interval/kurumejinja.htm

以下の説明文は上記サイトよりの引用でございます。
勝手に引用しました。ありがとうございました。(かささぎの旗・姫野)

藤田村鎮守玉垂命神社
祭神 竹内宿禰 筒男三神 応神天皇 大巳貴命
由緒
 創建年代は不詳ながらも、寛文2年(1662)再興、天保15年(1844)再々興の記録がみられ高良宮とも高良大明神とも称されていたことが分かります。寛延2年(1749)に藤田村庄屋源次郎が藩庁へ書き上げた書付には御神体として木像2体と前神王2社の木像もあると記されています。
 御祭神の中で大巳貴命は、もとは字茶臼塚に祀られていたのですが、大正13年5月21日に合祀された神様です。また前神王は善神王とも書かれ、一般的には主祭神に随身する神様と考えられている。
 ちなみに久留米の高良大社には銅鐸が伝わっておりその箱書に、もとは藤田村玉垂社のあったもので地中に埋まっていたものを奉納したとの意味が記されていますが、これは元禄10年(1697)、近くの天神浦に、新しく溜池が築かれた際に出土した13本の銅鐸の一つです。
(神社に掲げられた由緒による)

所在地 久留米市荒木町藤田

ほかに数社あるようです(玉垂の文字と高良の文字が入った神社が上津には。)

6大善寺の玉垂宮
http://kurumenmon.com/oniyo/oniyosetumei.htm

http://kurumenmon.com/oniyo/oniyotaimatujyunbi/makigai.html

神宮皇后時代から連綿といき続いているという、木にのぼる巻貝。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/furusato.103-ku.nishi.htm

かささぎが倉富了一の高良山物語を読んで、とても気になっているのは、上津荒木から伊勢のほうへ送っていたという子日松のことです。その松はどこで作っていたのでしょう。いま、苗木を作るので思いつくところといえば、たのしまる(田主丸ともいう)しか浮かびません。でも、はっきり「上津荒木」とかいてありました。
どなたかその件について、なにかの解答をご存知でしたら教えてください。

それが分かったからといっても、何が変わるわけでもないかもしれません。

しかし、気になるのです。

あす百首和歌のうち、地名らしきものが出てくるものを抜き出してみます。

追加:

竹橋乙四郎の指摘で、もう一社追加します。

淡路にも高良大社の神々を祀ったところがありました。

▽ 淡路國津名郡賀茂神社

http://www.genbu.net/data/awaji/kamo_title.htm

この他にもございましたら、何卒このコメント欄にて知らせ下さい。

謹賀新年七支刀  語録29

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

      竹橋乙四郎

謹賀新年

鷹尾神社に参詣してきました。
駐車場がない神社なので参詣者は少ない。
鷹尾神社は869年に創建。
高良別宮とあるが、神社のロゴは高良大社とは異なる。
びっくりした。真ん中に一本の線、そして左右に三本ずつの枝。

http://www.educ.pref.fukuoka.jp/bunka/cgi-bin/detail/detail.cgi?number=219

上に、現代風にデフォルメした神社ロゴ(杯を三つ重ねたような図)があるが、神社の中で見るロゴは、真ん中が突き抜けた七つの枝!を丸く囲んだ図。
石鳥居をくぐると、木造の通過門がある。
左右手前にスフィンクス然としたペアの狛犬。
左右奥(通常、仁王様がいるようなところ)に、デンと構えたペアの貴人。
中央にでっかい家紋(剥がれてよくわからない)のある衣冠束帯の像。
どっかで見たような・・・そうだ!
こうやの宮の真ん中にいた偉そうな人。

鷹尾神社は1213年に全焼(1219年に復興)してるので七支刀伝来の時代とは異なるはずだが、それにしても似ている。
拝殿の天井には、ほとんど剥げてはいるものの、絵巻の絵のような、当時の世相を描いた絵が全面に。
しっかり再現すれば、どこかに七支刀が描かれているかも。

▼ そこで正月スペシャル、とんでも仮説

「こうやの宮」の七支刀人形群は16世紀に作られた。七支刀を運んでいる人形のモデルは荒木田守武もしくはその付き人。
偉そうな貴人は七支刀が運ばれる先のやんごとなき人。

『いけばなの起源』

http://www.jimbunshoin.co.jp/mybooks/ISBN4-409-54062-9.ht

上のサイトには接続しないようですので、引きます。

中山真知子 なかやま まちこ
兵庫県に生れる。帝塚山学院高等部卒業論文「なぜ、平安時代に女流文学が栄えたか」成城大学文芸学部西洋美術史卒業論文「モンドリアン」。1988年以来、アジア各地で、公開講座、講演、個展活動を続け、現地の植物や花器を使い、花を通して日本の伝統文化を紹介している。現在、アジアセンター客員研究員。
著書:“Origins of Ikebana Philosophy” (The Asian Centre, 1999)


平安時代の貴族社会では、四季を花であらわし、花を詠うことを基本的な教養として、春には梅や桜の一木を挿し立て、秋には枝の紅葉を楽しんだ。鎌倉時代から室町時代へと、花の美しさを鑑賞することから伝統いけばなの原点といわれる「立花(たてはな)」への変遷、さらに利休の茶花を経て「立華(りっか)」へと発展していく。こうした「いけばな」の起源と、大和における最高の社、石上神宮の国宝「七支刀」とを結びつける、驚くべき着想。七枝の立花伝承の謎にとらわれた著者は、この仮説を掌中にまっしぐらに史料と資料の山に分け入っていく。なぜ「七」なのか? 七支刀の吉祥銘文の思想史的背景を探り、道教や仏教との関連、陰陽道、大黒、天神、稲荷、庚申、妙見、北斗信仰その他、七草、七夕など風俗や民俗のなかの「七」の意味、および日本文化における「北」の重要性等々、さまざまな宗教・民俗学説を引例しつつ、自己の着想と比較検証してゆく。流派を超えたいけばなの本質を知りたいという欲求、素直な好奇心、新鮮なまなざしが見事に結実した、華道に親しむ人に是非一読をすすめたい労作。
著者はマレーシアのペナン島在。アジアセンター客員研究員。現在、アジア各地で現地の植物を使い、日本の伝統形式にのっとったいけばなを紹介するかたわら、アジア文化圏との共通性から日本文化を捉え直す比較研究をつづけている。(引用をおわります。)

キリストの幕屋:
http://www.makuya.or.jp/teatime/aj_page/h20081005.htm

七支刀人形の時代考証

正月早々研究しています。
昨年末まで「こうやの宮」の七支刀人形は、七支刀が百済から倭へ贈られた4世紀に造られたものと思い込んでいたが、鷹尾神社で疑問が舞い降りた。
時代考証が必要。

まず、中央の貴人の桐の紋。
そもそも家紋の起源は、推古天皇十一年(7世紀はじめ)に旗幟に絵を描かせた事に始まるとか(『日本書紀』)。紋として定着するのは10世紀以降。後世に書き加えられたものでなければ、これだけをもって4世紀ではあり得ない。
桐紋は平安時代には天皇の衣装につけられるようになっていたが、天皇家の家紋として完成したのは鎌倉時代。後鳥羽上皇のとき(12世紀)と推測されている。
七支刀人形の桐紋は完成度の高い「五三の桐紋」。皇室・朝廷の桐紋は「五七の桐紋」。五三の桐紋が皇室・朝廷関係者以外へ下賜されたのは16世紀。
七支刀人形が造られた時期は16世紀以降ではなかろうか。
神社にも神紋がある。平安時代後期以降に使われ始めている。伊勢神宮の紋は四弁花菱、石上神宮の紋は上藤(両神宮の紋がいつごろからかは未調査)。
ただし、神紋と社紋とは混同される。神社ごとの紋は「社紋」、祭神ごとの紋が「神紋」。
石上神宮の御祭神、布都御魂大神(御神体である「布都御魂剣」に宿る御神霊)の神紋については手掛かりあり。岡山県に「石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社」という神社があり、そこのホームページ

http://www.genbu.net/data/bizen/hutumitama_title.htm

ここに五三の桐紋が出ている。

(16世紀以降に)布都御魂大神を御祭神とする神社へ七支刀が奉納された、と推定しても、それほどとんでもじゃなさそうな気がする。

謎は、七支刀を持つ武人(?)。異国風の衣装だが、室町時代末期以降は、戦闘方法の変化に対応して、甲冑が実践的・合理的に改良されたとあり、「前引合具足(まえひきあわせぐそく)」という七支刀人形のように前で合わせるハイカラ武具も出てきたらしい。変な帽子も、16世紀の武将、上杉謙信の絵に似たような帽子がある。

神社の紋の便利ページを見つけた。鷹尾神社の紋は「鷹の羽紋」に似ている。七枝に見えたのは羽の骨。
   ↓

http://www.genbu.net/sinmon/index.htm

間違い訂正(竹橋乙四郎)
>現代風にデフォルメした神社ロゴ(杯を三つ重ねたような図)
これは、引用ホームページのロゴでした。

かささぎの旗管理人の感想:

まだほんものをみたことはないのですが、ネットで七支刀人形をみてると、南蛮渡来ということばとか、ナガサキカステラの包装紙みたいな雰囲気を連想します。あと少年ケニヤの顔なべずみぬりたくり土人とかです。すんません。

それと、「いけばなの起源」の本紹介にあるはなしがおもしろいです。
ちょうど、ぼんとのコメントやり取りの中で、チェーン店立花うどんのことを書いたばかりで、そういえば立花藩の立花はりっかとかきますよね。すごいシンクロです。

2009年1月 1日 (木)

戦国時代、筑後にあった?今伊勢  語録28

八女戦国百首和歌「夏日侍」をよむ

    竹橋乙四郎

▼ 今伊勢宮と式年遷宮

「元伊勢」は天照大神(神体である鏡:八咫鏡、と剣:天叢雲剣=草薙剣)が一時的に鎮座していた伝承を持つ神社・場所をいい、元伊勢の中に、今伊勢と称するものがあるとのこと。伝承の比定地(百数十か所)は三重県を始め近畿地方がほとんどだが、西は広島県福山市、東は静岡県浜名湖周辺まで点在しているとのこと。広島県福山市神村町の今伊勢内宮外宮が西端とか。九州にはない、とされている。筑後にあるのに・・・(かささぎ註:天文年間・源鑑述ほか24人の武士による百首和歌の奉納先が今伊勢宮となっている事を指す。)

神体の大移動が現在の伊勢神宮に落ち着いて以降は、20年ごと(古くは19年ごと)の式年遷宮が行われている。内宮の第一回式年遷宮は持統四年(690)。外宮は二年遅れて斎行される制が守られてきた。
ところが、現在は、内宮・外宮の両宮が同時に斎行されている。
過去、何かがあった。
外宮の遷宮は室町時代に129年間中断している。
再開は永禄6年(1563)。荒木田守武の頃。
次の遷宮の天正十三年(1585)以降から同時斎行。

中断期間中、内宮(禰宜は荒木田氏)と外宮(禰宜は渡会氏)との不仲は最高潮に。正長二年(1429)、宇治(内宮)が山田(外宮)の民家へ放火。外宮を戦場として合戦に及び、宮城内が血で穢れる。「先代未聞、開闢以来之無き由、言語道断、浅間敷き事也」
宝徳元年(1449)、喧嘩で内宮側が外宮の二人を殺害。
外宮は内宮への参宮道路を遮断。両宮神人が弓矢をとって戦うに至る。
翌年正月、幕府の仲裁により両宮和睦するも、5月、外宮は内宮の道者を抑留して再び通行を止めた。
文明十七年(1485)、宇治と山田の神人が戦いを交える。死者百人。
文明十八年、宇治と山田の放火合戦。正月元旦、七日、十五日の神事が延引。
延徳元年(1489)、山田が宇治を攻め、内宮に放火。
明応二年(1493)、山田に放火。
永正九年(1512)11月19日、伊勢神宮で火災。詳細不明。

庁宣

可早以諸国貴賤之助成、致興隆内宮法楽舎護摩堂事、
右件堂者、皇太神宮長日法楽、殊勝最上之勤厚所、而抽天下泰平御祈祷之処、去正月一日旱天不慮小火起、立所仏閣滅盡、不思議之為体、載勧進帳具也、爰法師勲阿並了泉等、蒙十方檀那助縁、欲令造立所存神妙、彼法師等ニ合力輩、檀施輩者、神明之感得不過之、速可遂勘進節之状、所定如件、
永正十年九月 日
祝宜 荒木田神主判○外十員連署

永正十三年(1516)、内宮の禰宜、自殺。
永正十五年(1518)、両宮の通路が杜絶。
永正二十三年(1526)、山田が放火。焼死者あり。
これ以降、宇治と山田は冷戦へ。
永禄六年(1563)、外宮の遷宮が129年ぶりに再開。

たいへんな時代だったようです。
レオナルド・ダ・ヴィンチの没年が1519年、シェークスピアの生年が1564年。
荒木田守武はこの二人の天才の人生の狭間の時代を生き抜く。

年越しおまけ
   ↓

佐藤春夫著 『上田秋成』

佐藤春夫著 上田秋成

    桃源社・昭和39年8月20日発行

上田秋成の『菊花の約(ちぎり)』、昔少年少女名作全集にて読みしに、
年末に届く神田の古書店のリストでこれを発見す。

原価850円が時価3千円。高いか安いか。読みしのちに判断せん。

▽ 連句的

http://www.ksskbg.com/navi/a-fuka/29.html より引用一行。

「秋成は、伊勢の国学者・荒木田末偶から宣長の著書を借用して、
それを返す時、次の如き批評を書いている。」

賀正

賀正

かささぎの氏神さんであらせられる寺田天満宮
   (かささぎ重文指定)

みどころ:鳥居(昭和12年の刻印あり)
      「天満宮」の文字は廣田弘毅。
      廣田弘毅は石屋のせがれであった。         

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