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2008年12月19日 (金)

柳川鷹尾宮の破牟椰舞 乙四郎語録21 

八女戦国百首和歌「夏日待」をよむ

      竹橋乙四郎

▼ 鷹尾宮の破牟耶舞

昨夜は鷹尾城泊。今朝、夜明け前、近所散策。鷹尾城主の墓碑があった。説明板を懐中電灯で照らすと(怪しげなおっちゃんとしか見えない・・・)、毎年10月に破牟耶舞なるイベントが開催されるとか。
さっそく検索。
「ヤーハンヤーイヤオワオンハー」と囃しながら舞う古風な踊りとか。

(由来)
 

神功皇后、欲討田油津媛、而自橿日宮南到八女県、航海遷干鷹尾宮、時人歓迎献海鯽魚、奏舞曲、後世号其曲曰破牟椰舞也云々。(筑後風土記)
   ↓

http://www.fsg.pref.fukuoka.jp/e_mingei/detail.asp?id=76-3

▼かささぎの旗管理人がネットで拾った説明

浮立(ふりゅう)の起源

諫早の浮立は、佐賀県・福岡県等で演ずる物と少しく異なるものもあるが、九州各地にあるすべてがその起源を一にするものではないかと思われる。ある者は鎌倉時代に起こった田楽の変化したものであろうと言い、ある者は里神楽の遺風だろうと言い、徳川時代に入ってある国学者は、肥前に行って浮立というものを見たので『・・・里かぐら、月の夜かけて鼓うつなり』と詠じ、その演奏が一糸乱れず実に面白いと書き残している。しかし田楽や猿楽に先立って、浮立に似たものがあったのではなかろうか。筑後風土記には破牟椰舞という舞曲が現れている。
 神功皇后、欲討田油津媛、而自橿日宮南到八女県、航海遷干鷹尾宮、時人歓迎献海鯽魚、奏舞曲、後世号其曲曰破牟椰舞也云々。
この神功皇后歓迎のハンヤ舞が肥後も肥前も伝承され、それが浮立になったものではないだろうか。神功皇后の時代には太鼓はあったであろうが、おそらく鉦は出来ていなかったことと思われるから、ハンヤ舞は太鼓と手振りだけで笛を使ったかどうかも疑わしい。テンヤハンヤと囃しながら、不得要領でいい加減に踊ったのであろう。だから不得要領で日を送るものをテンヤハンヤで日を暮らすといった言葉も生まれた事と思われる。諫早地方にもハンヤ節という古い民謡があるが、これも浮立のあるところにハンヤ(ハイヤ節と呼ぶ地方もある)が謡われる。破牟椰舞に関係あるものかどうかを明らかにすることはできない。ハンヤ舞を源流として数百年間、おそらく農漁村の唯一の娯楽として伝えられ、神事の場合はこれを奉納舞としたのが、後代になり音色良き鉦が加わり、明笛が取り入れられて今日の浮立となり、更に徳川時代に入って諸物資が豊かとなり、浮立の衣装が出来、多くの踊りも加えられて今日の諫早浮立のような華美なものとなってきたのであろう。
<諫早市史第三巻>http://www.isahayacci.com/s_history4.php?group=10

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コメント

九州各地のすべての浮立の源流ですか。
阿波踊りの源流は天草(牛深)のハイヤ節にあるというのを何かで見た記憶があるので、もっと広域の文化の源がここにあったということかも。
アジア・アフリカ各地の民族を実地で見聞してきた経験からいえば、「文化」は太鼓のリズムに合わせて歌い踊ることから始まっているように思います。
日本という国の起源を探る時に、古事記/日本書紀や大陸の古文書から探るというやり方だけでなく、日本固有の「文化」の起源を突き詰めてゆくというやり方があってもいいのかな、という気がします。
乙式とんでも仮説でも、「俳諧」という文化が、伊勢宮(荒木田守武)と筑後(橋爪鑑実)とを結ぶ謎解きの鍵となったわけですし。
ちなみに、ハイヤ節の牛深は、乙が大学を転学して医師を目指すことになった、人生の転機を与えてくれた恩人の医師のおられたところ。乙式浮立人生の源流の一つでもあります。これ、シンクロ。

今、これを書いてて、唐突にひらめいた。
筑後のハイソな武士たちと伊勢の太神宮の荒木田守武との間に何らかの交流が生まれ、その結果として、橋爪鑑実は荒木田守武の影響を受けて、後に俳諧会を開催した、というのが先日のとんでも仮説だったのだが、ひょっとして、交流の結果として、荒木田守武は俳諧の着想を得た、という仮説は成り立たないだろうか。

とんでも仮説:俳諧誕生物語。
荒木田守武は筑後地方に来て、歓迎式で、破牟耶舞の歌とリズムに触れる機会を得た。「ヤーハンヤーイヤオワオンハー」と五音節と七音節の組み合わせで連綿と続く節回しは魂に響く。連歌とはまた違った味わい・・・う~ん。

乙さま

学長に伝言願います。
先日打診した件でについて、来年度、ぜひ、国際理解といった視点でのお話が聞きたいということになりました。生涯学習関係団体(高齢者が多い)とわたくしどもNPO法人「すくらむ」の共催というカタチで話を進める所存です。
5月・10月・11月・2010年1月のうちでお願いしたいとのこと。日時は後日調整させていただきたいのですが、とりあえず、次年度の予算確保のため、実施月だけは決定したい。
かささぎどんから、わたくしのケイタイ番号を聞いて、ご連絡いただけませんか。相手が急いで学長にコンタクトをとらせていただきたと仰せです。よろしくお願い致します。

カササギドン。ゴメン。
伝言板にしてしもうた。赦せよ。

せぃこさん
かささぎは竹橋おつしろうの私生活はまったく知らないです
返信なきときは
気長に待たれよ

追伸
学長への連絡は大学へ直接取ったほうがいいと姫野は思いました
かささぎの旗では blog上の連句的付け合い以外学長との付き合いはありません
そのてん お察し下さい

了解いたしました。学長への諸連絡は学校へさせていただくことにいたしました。
お手数をおかけいたしました。

夜遊びからただいま帰宅。
あー。面白かった。
命の洗濯っちゅうやつをしてきました。

おかえり。笑
おにのくびとったように報告しないでよ。

金光 元年 570 柳川鷹尾八幡太神祝詞、久留米市教育委員会蔵。

白鳳 元年 672 全国神社名鑑、八女市「熊野速玉神社縁起」 ※元年を672とする後代の改変型「白鳳」。

引用は↓「九州年号」

このたかおぐうののりと、みてみたいものです。
八女のくまのはやたまじんじゃは、佐野先生んちのお寺のすぐ東です。そのお寺、水月さんが行かれた善導寺の弁長のおはかもある、と八女市史にはあったなあ。
わたしたちのあたまはいまという時代からみおろしてその時代をみます。だけど、ほんとうはうんと古い時代からみあげねばならないのだろう。

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