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2008年12月26日 (金)

乙四郎語録 官僚番外編3 

▼ 色褪せる記憶 自然の摂理

       竹橋乙四郎

広島で使われたウラン235の半減期(放射能の強さが半減するのに要する時間)は7億年。長崎で使われたプルトニウム239の半減期は2400万年。
それにひきかえ、広島・長崎の記憶の半減期はぐっと短い。
国家の記憶の風化。
昭和20年以前に生きていた人は30年後の昭和50年には人口の半分になった。その30年後の平成17年には人口の4分の1。
広島・長崎の体験世代の半減期は30年。
体験世代がゼロになったとしても次の世代が語り継げば国家の記憶は伝承される。しかし、次の世代の人口もいずれ半減する。伝承の半減期は30年かも。我々の孫の孫の世代は広島と長崎の悲劇をまったく語らないかもしれない。
天文年間の人たちの間に、その千年前の磐井の時代のことがどのくらい伝承されているかが気になった。千年というのは30年の33倍以上。伝承の半減期が30年とすれば、およそ百億分の1(2の33乗分の1)しか伝承されないことになる。磐井の時代、何十万もの人が生活をし、人それぞれの人生で何十万もの物語が紡がれていたのであれば、数百億の物語がそこにあり、それが百億分の1に減ったとしても、いくつかの物語は伝承される。

さて、天文年間(450年前)の人たちは、我々より、どのくらい多くを知っているだろう。450年というのは、30年の15倍。ざっと今より3万倍(2の15乗倍)の伝承が残っていたはず。石人石馬のことだって、七支刀のことだって、邪馬台国のことだって、不明点だらけではあったろうが、我々の3万倍の情報に囲まれていたはず。当時の知識人が古典(万葉集など)に詳しいのも頷ける。

[かささぎの旗管理人の連句的]

1991年12月8日(日)西日本新聞 
特集記事「筑紫君磐井」より引用

▼ 無視された・・・「矢野の研究」

   文・原田博治

「磐井の乱」は、『日本書紀』によると継体天皇21年(527年)に起き、翌年まで続いた。
大和朝廷が朝鮮半島の新羅に奪われた任那の地を奪還すべく出兵させた際、磐井が乱を起こし、これを阻止。その後、磐井は物部麁鹿火(あらかひ)率いる朝廷軍と戦い、筑紫御井郡(現久留米市)の決戦で敗れた、と伝える。
その磐井の墳墓について『筑後風土記』逸文は「上妻(かみつやめ)の県(あがた)南二里」と記す。
この記述を元に1956年、当時の福岡県立福岡高教諭(後の九州産業大教授)の森貞次郎さんが岩戸山古墳を磐井の墓と推測する論文を発表し、今日の定説となった。
実はこれより前の江戸時代末期、久留米藩士の矢野一貞(いってい)が綿密な考証によって同様の指摘をしていた。だが当時の時代状況と、矢野が在野の研究者だったため、この研究成果が中央で顧みられることはなかった。

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