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2008年12月25日 (木)

守武翁と飛梅   乙四郎語録26

八女戦国百首和歌「夏日侍」をよむ

   
         竹橋乙四郎      

▼ 飛梅の発句ではじまる守武千句

飛梅といえば、書道用半紙に「飛梅」というのがあったような記憶が。今はミミズが這った跡のような(なんて言ったらミミズさんに失礼な)字しか書けないのだが、小学校の頃は、揮毫会で入賞して太宰府天満宮に張り出されたことがあった。その時に使った半紙。
かくも「飛梅」というのは筑紫人には特別の響きを持つ語彙。飛梅といえば天神様。
その飛梅が、俳祖荒木田守武の代表作の冒頭句で登場するとなると、守武と筑紫との結びつきを意識せざるを得ない。
守武千句の中にこんなのが。

そゞろには成もはる/\"太刀はきて
 天神さこそつらきみちのく

とんでも超訳:「みちのく」は青森ではなく、道の苦、あるいは未知の苦。
(本来の落ち着き場所ではないので)心が落ち着かない場所まではるばる七支刀がやってきた。いや、天神様のほうが辛い苦難を負っていらっしゃる。

守武千句 :

http://sasa.org/~sasa/library/moritake/moritakesenku.html
   

守武千句*の末尾句。

もゝだちをとりてこきやうへ帰りきて
 天文九年しぐれふるころ

やはり、守武は天文9年まで長旅に出ていたのでは。
ところで、先述のはるばる旅してきた「太刀」の句。気になります。
他に、太刀を用いた句にこんなのがあります。

きるといふこともいはぬはみやこ人
 旅と太刀とのゆくゑしられず

ヤマト朝廷による虐殺と七支刀の略奪か。伊勢神官は何でも知っている。
こんな句も。鷹が出ました。

鷹が音やあかつきをさしてかへるらん
 はげたる太刀のつぼめ鳴ころ

ほかに謎めいた句。

ぬれ/\も蘇民将来朽やらで
 なみのそこにも家つくる世

「蘇民将来」というのは、日本各地に伝わる説話。
旅の途中でスサノオが宿を乞いた際、裕福な弟は断り、貧しい兄は粗末ながらももてなした。後に弟一族は滅ぼされたというお話。朝廷に逆らった高ピー磐井が滅ぼされたことを、それみたことかと揶揄しているのかも。
とんでも解釈:ところがどっこい、筑紫に来てみたら、磐井の末裔はしぶとく生き残っており、矢部川の底みたいなところに築城しようとしているではないか。

少人のいにしへ今のひとりごと
 いつかほうしのうかび出まし

とんでも超訳:今は、立場上、守武はひとりごとを言うしかないが、いつか宗祇法師みたいな方が語り継いでくれましょうぞ。

* 俳諧独吟守武千句は天文五年に立願、その年の冬には草稿を作り、天文九年、守武68歳の初冬に「飛梅千句」として完成をみる。(年譜より)

かささぎの旗管理人による参照記事

▼ 高橋睦郎著 『百人一句 俳句とは何か』
       中公新書1455
   (後学のため無断引用をなにとぞお許し願います)

落花枝にかへると見れば胡蝶かな  守武

 エズラ・パウンドといえば、T・S・エリオットの長詩『荒地』を三分の二に添削し、アーネスト・ヘミングウェイに小説を書かせてその文体を鍛え、ウィリアム・バトラー・イエーツに能の台本を書かせ、ジェイムズ・ジョイスの大小説『ユリシーズ』執筆を支えたという二十世紀英米文学の大伯楽だが、詩人として彼が標榜したイマジズムのシンボルとして挙げたのが荒木田守武の掲句だった。
 爛漫の桜が散りはじめたさまを眩しい思いで見るともなく見ていると、散ったはずの花びらの一枚が枝に帰っていくではないか。まさかと思ってよく見ると、落花さなかの枝にまさに止まらんとする蝶だった。砕いて読めばこんなところだろうか。
 パウンドがこの句を推奨したもう一つの理由は俳句の五七五という短さにある、と思われる。詩の表現は簡潔であればあるほどよいとしたパウンドのことだから、五七五という短さで詩の定形が成立するという事実は奇蹟に思えたに違いない。パウンドにとって俳句五七五音律は、世界最短にして世界最高の詩だったのだ。
 守武は伊勢神宮内宮(ないくう)の神官を世襲した荒木田氏一門薗田(そのだ)家当主守秀(もりひで)と同門藤波家氏経(うじつね)の女(むすめ)の間に生まれ、父や兄たち(姫野註・守武は九男、但し通説)の死後、晩年になって正四位上、一禰宜(いちのねぎ)長官になった。荒木田家は外宮(げぐう、またとつみやとも言う)の度会(わたらい)氏とともに平安期以降文芸活動で知られ、守武の編んだ『荒木田集』に入った一族の連歌作者は、じつに五十五名を数える。とくにその中でも傑出した氏経を外祖父に、宗祇と同座したこともある守秀を父に持つ守武は、自分の本領を連歌に置いていたようだが、晩年の天文九年(1540)法楽のために完成した『守武千句』によって、宗鑑と並んで俳諧の鼻祖とされる。
 守武の発句、次のとおり。

 とび梅やかろがろしくも神の春
 撫子(なでしこ)や夏野の原の落し種
 かささぎやけふ久かたの雨(あま)の川(がは)
 茶の水に我とふたする氷かな

 天文十八年七十七歳で没。同じく俳諧の鼻祖とされる宗鑑とも交流があったようだが、宗鑑が十数歳以上年長だった

以上で引用おわり。

▽ かささぎのひとりごと

ももだちの一句。
守武450年忌連句大会入賞の副賞に桃の形の置物がありました。
守武は「桃神主」とよばれていた。家号が「薗田桃神主家」、桃が家の印だったから。・・・という注釈があります。ももだちは百太刀ですかね。たくさんの刀、それとも立派な刀?

かささぎの一句。
これは高橋睦郎先生にもお尋ねしたい。この時代もルビはつけたでしょうか。
雨の川と書いて、天の川。
なんのために。
俳句実作者としてのカンですが、実景にみせかけるために。
「久かた」は天にかかる枕ことば、それを久方ぶりの久方に転じ、天の川を雨の川に移している。
まるでかささぎを守武は知っているかのよう。

 

大内氏関連でみつけた落首一首

大内文化について 大内文化コラムより引用

都よりあきなひそうぎ下りけり
    言の葉めせといはぬばかりに

   

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コメント

知っているようでみんなが知らないことって、たくさんありますね。
とびうめ伝説、いろんな人に聞いてみましたが、「どこから飛んできたのか」、知っている人はいませんでしたよ。笑
わたしだけではなかった!

>守武は「桃神主」とよばれていた。
びっくりシンクロ。
七支刀がある石上(いそのかみ)神宮。剣を祭神とするが、七支刀は祭神ではなく社宝。神功皇后の時代にそこにあったのなら祭神であってしかるべきだが、社宝でしかないということは、やはり、相当の新参者ではなかろうか。
石上神宮の祭神の剣は「布留」と称され、地名や川の名になっている。
「此剣(石上神宮の神霊)を布留といふ事は、布留河の水上より一の剣流れ下る。此剣に触るるものは、石木共に伐砕き流れり。 下女、布を洗ひて此河にあり、剣下女か布に留まりて流れ遺らず。則ち神と祝に奉る。故に布流大明神と云ふ。」(『源平盛衰記』)
さて、石上神宮から布留川を少し上ると、日本の滝行の発祥地「布留の滝」があります。八つの大きい岩があり、八岐の大蛇に見立てられています。この布留の滝、後世、なぜか「桃尾の滝」という別称になっている。
ところで「ももだち」。
「股立」(ももだち)は「袴の左右の腰の側面にあたるあきの縫い止め」のこと。「股立をとる」とは「動作を便利にするために袴の股立ちをつまみあげて帯または袴の紐にはさむこと」だそうな。そういう意味だと「もゝだちをとりてこきやうへ帰りきて」を素直に読むことができるが、あえて、股立をとりて、と断らなければならない必然性もなく、まして末尾の句でもあるので、何らかの掛け言葉があるととらえたほうが自然。
ももだち=桃尾の太刀
とにかく、太刀がはるばるやってくるだの、旅と太刀が行方不明だの、太刀が謎めいたキーワードになっている守武千句だが、守武のこの旅の隠密の目的が、七支刀を筑後の太神から伊勢の太神宮まで持ち帰り、石上神宮の禁足地に隠すことだったとすれば、すべて合点がゆく。守武がはるばる旅した記録が年譜にない(消されている)ことも含めて。

桃尾の滝
   ↓

七支刀の謎が解けた!

きるといふこともいはぬはみやこ人
 旅と太刀とのゆくゑしられず

きる=布留

き(ぬ)る → 布留
布留(ふる)を「きる」と読ませるのは無理があるかも。
「ふる」だったら、無理しなくてもここにあった。

もゝだちをとりてこきやうへ帰りきて
 天文九年しぐれふるころ

「しぐれ」「ふる」の用例にこんなのが。
いそのかみ布留の神杉ふりぬれど色には出でず露も時雨も(攝政太政大臣)
深緑あらそいかねていかならむ間なく時雨の布留の神杉(太上天皇)

原稿をおくるとき俳句も出してといわれ、なにもうかばずこまったかささぎは、冗談句をアレンジした。
profoundってこういうものじゃないだろうか。

新年やふるふるふるとあらみたま  恭子

あらみたま。とあらたま。のちがいを考えていたから。

記事を書いたときから、なにかがずうっと引っかかってくる。今それがわかった。
芭蕉庵桃青。これが芭蕉の通り名です。
松尾芭蕉ってのは現代のよみであって、正式な呼び名は桃青なんだよ。(「芭蕉庵桃青の生涯」に書いてあった。高橋庄次。)とうせい。いままで問うたこともなかったことだけど、なんで芭蕉はバナナなのに、桃、それも青い桃の号なのだろうね?
高良さんにある「桃青霊神社」は、こうやの宮よりもっとささやかな祠だった。岡良山。

そみんしょうらい。
ぬれぬれも。ってところでおもいだした。
とうせいれいじんじゃをしらべていた十年前。
ぬれせぬやま。という別名が高良山にある。
しっとった。こんな字を書く。
不濡山=ぬれせぬやま。
恋句に使ったから覚えていた。

ぬれそぼつ不濡山のお道行  (かささぎ俳諧)

>磐井の末裔はしぶとく生き残っており、矢部川の底みたいなところに築城しようとしているではないか。

磐井の末裔ってホントにいらっしゃるわけ?
滅ぼされたって聞いたので、それはないだろ?と思うのであるが。

Wikipediaによれば、磐井は捕らえられて麁鹿火に斬られた(『日本書紀』)あるいは、豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(『筑後国風土記』)とされているが、息子の筑紫君葛子は、糟屋(現・福岡県糟屋郡)の屯倉をヤマト政権に献上したため死罪を免れたとあるので、末裔がいてもおかしくはないかも。
ブログ管理人の反逆精神には磐井のDNAを彷彿とさせるものがあります。

田北鑑富(たぎたあきとみ)物語

天文24年の時点では仲良く歌を詠みあっていた橋爪鑑実と田北鑑富であったが、四半世紀後に鑑富は鑑実の軍に討伐されることになる。その物語。
鑑富は大友家奉行人の子。のち鑑重(あきしげ)と改名し、入道して紹鉄(じょうてつ)となる。
天文19年 申次職として義鎮の側近
天文24年 八女百首
弘治2年(1556) 小原鑑元の謀反鎮定のため出陣
永禄5年(1562) 対毛利戦。戸次鑑連の指揮下で門司城を攻める
永禄8年 豊前長野筑後守討伐。三ヶ岳城破却
永禄12年 毛利軍の豊前進出に備え、宗麟は鑑富(紹鉄)を田川郡に駐屯させる
天正6年 日向土持氏討伐に出陣。日向高城合戦で多くの一族を失う
天正7年 秋月種実討伐に出陣。夜襲を受けて敗退、中津城 に入る。
天正8年 秋月種実との謀書が発見される。筑前秋月種実が筑前から大友氏の勢力を駆逐するため、紹鉄に反乱工作を行ったとするもの。また、紹鉄の宣教師(巡察使バリヤーニ)殺害計画の情報が宗麟に通報され、調査の結果、事実であったことが確かめられた。陰謀が露見したことを知った紹鉄は大友氏への敵対を明らかにした。
紹鉄は朽網郷松牟礼城を出て熊牟礼城に拠って抵抗。宗麟・義統は、一万田鑑実らを将とする一万余の討伐軍を出陣させる。紹鉄勢はわずか百人ばかりの人数であった。
城中で一族から諌言を受け逃走を決意した紹鉄は、逃走径路を朽網郷阿曽野(庄内町)にとる。ここで激しい追撃戦をかわして日田郡に向かう。4月13日、 五馬荘を経て松原村(大山町)にさしかかったとき、財津久右衛門の手にかかって最期を遂げた。法名清台院殿手翁紹鉄大居士。
乱後、大友義統は謀叛は紹鉄ひとりの企てであり田北一門の罪は問わないとし、統員に相続させている。
謀書には讒言説がある。讒言のため切腹を命じられ、それが不服で熊牟礼城で挙兵したというもの。紹鉄は親類等に、両殿様(宗麟、義統)に私曲はないこと、讒者の妨げか、御不満はわからないが切腹を仰せ出されたこと、自分は切腹するが、統員(むねかず)に相続させしてもらいたいことを記した書状を送っている。紹鉄は讒者が誰であるかは記していない。

歌を詠んでいた頃がいちばん平和だった。

十二  帰鳫(帰雁)  鑑冨
見るうちもたちぬかずとや天津雁
雲間にきえて立かへるらん

とんでも超訳:
社宝として飾って見るだけで抜くことはないとおっしゃってた渡り鳥のような荒木田守武さん。出雲の向こうまで行ってしまわれたのだが、太刀は帰ってくるのだろうか。

おつしろう。ごはんつくらんといかん時間なのだが、そのまえに一筆。
あんた、がばすごい!滅多に人をほめないかささぎでありますが、すなおにほめよう。びっくりした。
おそらく、読者にはそのすごさがわからないとおもいますので、ご解説をいたします。

歌が99あった。天文年間、八女の岩戸山古墳上の伊勢宮に奉納されていた。ということだけしかわからない歌。あとはなんにもわからない。ただ、武士の数は24人で、そのうちの幾人かには、当時の支配者階級のマークがついていた。それが、名前にみえる、「鑑別の鑑の字」であり、「鎮静の鎮の字」である。
というとこからスタートして、竹橋乙四郎はどんどん勝手に読み解いていき、あれよあれよという間に、かれらの出自を特定し、もっともらしいストーリーをどこからか拾ってきます。
それが本当なのかどうか、私にはわかりません。が、ただ、橋爪章という人は裏でかなりの努力をする人です。ですから、しっかりとした根拠めいたものがあるのだろうと思います。
時折超とんでも説がとびだしはしますが、ご愛嬌。

なお、題が「夏日侍」になったり「夏日待」になったりしていますが、それはかささぎのなかでのゆれです。原書には侍となっていますので。

高橋庄次検索でみえていましまが、はて。

水月さんは八女古墳資料かんにも行かれた。
古田武彦先生の九州古代王朝説とか、語り合いたかったそうです。
だけど、係員さんは興味なさげでがっかりされたとのこと。
きもち、わかります!

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