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2008年12月 2日 (火)

捕虜六万

1「兵六万」http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-e2f8.html

2「端間遠望 兵六万 乙四郎語録3」
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-1dae.html

これにつけた資料を読んでいたら、大正生まれのかたの戦記に、「捕虜六万なら」というはなしが出てきました。加えて難民五万というのですから、併せて十一万!この数。これは内戦ではなく、南京でのはなしです。引いておきたい。暗い話ですが、かささぎの良心として。

東京裁判で南京大虐殺が表面化した。これは事実であったろう。

我々部隊の将校でも兵隊でも、自分の周辺のほんのわずかなことしか知らないものである。それ故に日本軍全体が何をしたのか無知なのである。

捕虜虐殺など、九十九パーセントの人がそれが良いことだ、それが当たり前だと思ってなどいなかったはずで、たとえ大勢の中にはそれが当たり前だという奴がいたかも知れぬが、それは米の中の石粒程度の割合で、そんな狂気を持った奴は日本人だけではないだろう。

將介石にしてみれば、上海から南京までの戦いは、せっかく築き上げた国民政府の首都攻防故に、全軍を挙げての死闘であったに違いない。国土を侵略された中国民にとって抗日感情は、日本人の戦いに抱いていた感情とは比べものにならなかったのは当然で、兵器に勝る日本軍が有利だっただけで、精神面で勝っていたとはどうしても思えない。我々兵士が語る手柄話は、大方自己偽りの武勇伝で、日本軍が勇猛である根拠になどなりはしない。ただ攻防が激しければ激しいほどに憎悪の念は、両者共に燃え上がってゆくものなのだ。

当時の日本軍は兵力、火器その他全の装備が完備され、なおかつ損傷の少ない五個師団が南京城攻撃に当たった。

上海、南京攻略に何個師団を投入したかは知らぬが、これらの部隊が上陸した時、「日本軍百万、抗州に上陸す」なるアドバルーンを上げ、中国軍を威嚇した事実がある。

將介石総統にすれば、国民政府の名誉にかけてこの南京城を死守したかったに違いない。従って自軍の撤退が遅れたのだろうと思う。その上日本軍の進撃が予想以上に早く、揚子江は海軍が押さえ、陸軍は浦口及び揚子江までの陸地に到達してしまっていた。よって、中国軍は包囲され、六万近い捕虜と、難民五万が城内に取り残されたといわれている。

こうした混乱の中でこの数字がどこまで本当なのか分からぬが、言葉で六万とか五万人というが、避難民は別としても兵六万という捕虜をどう取り扱ったらよいか、これが事実なら途方にくれたであろう。二人か三人の捕虜ですら、生かしておくには飯を与えなければならないし、糞もさせねばならない。これほど世話の焼ける代物はないのである。

日本にそれなりの力があり、富士山のすそ野にでも収容所を作って養ってくれるのなら別だが、現地ではそれどころではない。戦死者や負傷者の始末をしなければならないのだ。

相手は殺し合いをした人間達である。それを面倒だからと逃がしたのでは、再び殺し合う相手に変わるような不安があり、結局面倒だから処分してしまえとなる。六万どころか一万人ですら大変な処分業務である。殺気だっている内はまだよいが、平常心に戻れば亡霊に取り付かれる。人を殺して平気でいられる奴など千人に一人か万人に一人なのだ。

戦友の一人がその頃の話をしてくれた。

「二百人からの捕虜を後ろ手に縛り上げ城外の草原に連れだし重機関銃で射殺したが、運のいい奴は弾が当たらず、なかなか死んでくれない。死体の下でうごめいている。その悲鳴がいつまでも残り、その情景にうなされ眠れない夜が続いた」と彼は恐る恐る語って、このことはどこまでも君の胸にしまって口外してくれるなとつけ加えた。

また別の兵の話であるが、「後ろ手にした捕虜を船に積み、揚子江に突き落としていた部隊を目撃したことがあり、あれは本当に良い方法だった。あれなら死体を片づける必要もなく、揚子江が海の彼方まで押し流してくれるものね。嫌だね、あんなことは。もう二度と戦争には行きたくないよ。どうなるんだい日本は? 支那はそれほど悪いことをしているのかい、俺にはさっぱり分からん」

引用は・・・http://hw001.gate01.com/t52okamura/myfather/fatherpage1.htm

かささぎは「廣田弘毅」(伝記刊行会の)を読んで、東京裁判で南京虐殺がどう裁かれたか、こちらの側の記述を読んでいた。だから史実だと知っていたが、今ひとつその理由がわからなかった。が、上記を読んで腑に落ちた。
これが戦争なんだ。

生きて帰ってきた兵たちは、貝になるしかなかったろう。

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コメント

足で解釈。とんでもリアリティ
今日は、朝霜もうちとける、春が立ったような小春日和になったので、山を三つと隆起地を一つ巡った。
第一散策地:清水山
有明海に臨む展望所に北原白秋の詩の石碑があった。
【山門の歌】
「山門はもうまし邪馬台、いにしへの卑弥乎が国、水清く、野の広らを、稲豊に酒を醸して、菜は多に油しぼりて、幸ふや潟の貢と、珍の貝・ま珠・照る鰭。見さくるや童が眉に、霞み引く女山・・清水。朝光よ雲居立ち立ち、夕光よ潮満ち満つ。げにここは邪馬台の国、不知火や筑紫潟、我が郷は善しや。」
邪馬台国論争がホットになる前の時代。白秋は、新井白石の山門郡説を素直に信じている。
ここからは、大学もよく見える。矢部川の下流の「下流大学」。大学の手前に、堤古墳群らしきところも。
第二散策地:堤古墳群
[堤古墳群→]の木製の粗末な案内看板が集落へ通じる小道の入り口にあるのみ。周辺の田圃より少しだけ隆起した一帯だが、一見、普通の民家集落。ところどころに、巨石が顔を覗かせている。民家にとっては邪魔そう。
第三散策地:女山神籠石(ぞやまこうごういし)
1m立方ほどの巨石がず~っと並んでいる。3kmも並んでいるとか。ただ、山の中腹で車を降りて並んでいる場所まで登るのに一汗かいた。切り出されたのは別の山。1個を切り出してここまで運び上げるのに何十人がかり、何か月がかりであったろう。ただ、並べた目的がわからない。この巨大プロジェクトの命令者もわからず。記録なし。
地元みやま市では、ここが女王山と呼ばれていたことから、卑弥呼ゆかりの地であると主張している。しかし、列石から弥生時代の遺物(中広の銅矛)が発見されているので、年代が合わない。順当に考えれば、6世紀以降の遺跡。磐井の乱が528年なので、磐井の乱の頃以降。古田武彦氏はこれを軍事的要塞の残骸とし、『これが「5-6世紀」の成立となる可能性は高い。では、この軍事要塞群の建造者は誰か。当然、その内部の中枢域に当る「筑紫・肥前の中心王者」(太宰府と筑後川流域中心)である。決して近畿の天皇家ではない』と書いている。しかし、高さ1mの石がどれだけ並んでいても防衛効果は疑問。
神籠石の合間に「山内古墳」という名の遺跡があった。ネットで検索したら「6世紀後半に築かれた墓と考えられます。標高158mの見晴らしの良い高所に築城された横穴式石室を内部とする円墳」とあった。
第四散策地:飛形山頂
姫御前岳どころか、遠くの山々が一望でき、壮観!
矢部川が日向神から連なる山あいから出てきたあたりが童男山古墳群のある「山内」。そして、矢部川が有明海デルタへ出る直前の最後の山が、「山内」古墳のある女山。その二点間からずーっと高良山あたりまでに広がる平野に、兵6万による大虐殺を想像してみた。荼毘にふされた後にインダス川に流される死体、広島の川を流れる夥しい数の死体、が脳裏をよぎった。遺体処理はどうしたろう。阪神淡路大震災の時は、広島の火葬場までフル稼働した。死体処理のことは人の話題になりにくいが、人が死ぬ現場ではリアリティ。
ここで、とんでも仮説。
山内地区の高台に埋葬しきれなかった虐殺の犠牲者は、川に流され、下流で回収され、女山に埋葬された。大量の「墓石」による重しで霊を封じた。

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