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2008年12月15日 (月)

鎮続は臼杵鎮続か  乙四郎語録17

八女戦国百首和歌「夏日待」をよむ

       竹橋乙四郎

▼ 臼杵鎮続物語

永禄の頃、臼杵鎮続は大友家の志摩郡代、柑子岳城城督として豊後より召し出されていた。
主として、大友氏の筑前西部経営に尽くした。永禄末年から元亀年間に博多合戦・志摩郡防衛に活躍し宗麟から感状を受けている。
志摩郡は、古く、蒙古合戦の恩賞にて大友家が領した地。
当時、大友宗麟は、毛利元就と博多の支配権をめぐって熾烈な戦いを繰り広げていた。宗麟は、博多周辺に立花山城、宝満山城、鷲ケ岳城、荒平城とこの柑子岳城を大友五城として諸将を配し、博多を守備させていた。柑子岳城は、筑前の西の地を抑える重要な拠点であった。
志摩郡は、今津から加布里へと通じる水道によって、対岸の怡土とは隔たれていたが、この頃には泊、志登の辺りで怡土と繋がり、半島の様を呈していた。低い山地の間の沃野には田畑が広がり、里々には泊、由比、波多江、中村、元岡、小金丸、馬場、松隈といった土豪が栄え、それらの諸家は「志摩衆」として臼杵鎮続の支配の許に在った。
元亀二年、臼杵鎮続は、大友宗麟の命で志摩郡代の職を解かれ、豊後に戻る。
(筑前国続風土記)

春・夏・秋・恋・雑のそれぞれの部の冒頭歌は鑑述か鑑実だが、冬の部のみ鎮続が担当。

かささぎの旗管理人の感想:

竹橋乙四郎には、気持ちいいくらい迷いがない。
さっさかさっさか竹を割ったように先へ行く。
えちょっとまって。どっからこの人がこの人だと決めたの。
ときいてる間もありません。かささぎはあっけにとられてみてるだけ。
しかし、(これがだいじ)違っていたら戻ってくる。
それは確かです。笑

この
百首和歌の分類、春の部とか雑とかの部立(ぶだて)、かささぎが勝手に大雑把に便宜上振り分けたものです。ですから、専門の人から見たらおかしいかもしれません。九州俳句という俳句誌の読者に、そんな細かなことをいう人はいませんでしたが、興味がなく読まれていなかったからではなかろうかともおもいます。さっぱりどうも自信がない。でも、俳文学者の故・東先生はなにもおっしゃらなかったので、これでいいんじゃないでしょうか。(こまかくいえば、雑にひとくくりしたもののなかには色々ありました。それはわかっていますが、いちおう。)

部立てとは:

http://www7a.biglobe.ne.jp/~katatumuri/poem/yougo60.htm#budate

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コメント

川の流れに逆らって

時の過ぎゆくままにこの身をまかせ、ジュリーは還暦に。川の流れに身をまかせ、テレサ・テンは42歳で死亡。川の流れのように美空ひばりは52歳で逝ってしまった
川の流れを鎮めんと、中島内蔵助は1652年、没す。川は、怒ると怖い。
大きな河川は、大海へ出る直前には、広野を一直線にどど~んと駆け抜ける。
ところが、下の名前貼り付けを見てください。矢部川は、鷹尾城のすぐ手前までのごく限られた距離だけ、うねうねと蛇行し、上流からの西への流れのベクトルを大きく南方へと曲げています。ほぼ直角に蛇行してたりして、こういう所は川が氾濫したらイチコロ。明日には川底になってしまう。
ここで大きな疑問。
なぜ、こんな危険な場所に鷹尾城を築城したのか。築城申請の前々年の1534年には「大風37回も吹き、米穀類一粒もなく天下大いに飢饉し万民餓死す」ほどの天災に見舞われている。さぞかし矢部川は荒れたであろうに、怖くなかったのか。
そもそも当時の築城は、臼杵鎮続の柑子岳城や伊勢の竜王山城を例にあげるまでもなく、高地に築城するのが通例。近くに、女山という、古代に堅牢な石積みまでしてある天然の要塞があるというのに、なぜ、矢部川の剣が喉元で見え隠れしているような広野に、わざわざ築城したのか。
まったく同じ疑問が鷹尾神社にも。これまで無事でいられたのが不思議。古代、そんな危険な所にやんごとなき神社をわざわざこさえた精神がわからない。ここらへんには神社が多い。

ここで、とんでも仮説。
鷹尾神社(鷹尾城)は、ものすごく大きな古代建造物の上に建てられた。矢部川は、この建造物に遮られて、川の流れを変えた。

ナイル河畔のスフィンクスだって砂土に埋もれてたんだし、堆積物が多いデルタ地帯の土の下に巨大建造物が埋もれているとしてもおかしくはない。年に1cm堆積しても、500年で5m。お城の石垣だって埋もれてしまう。
(女山でも、高地なのに巨石の上に1mくらい土が堆積してた。年に1mm弱の堆積があったことになる)

「矢部川」をクリックして「洪水氾濫シュミレーション」のポイント3
   ↓

乙さま

おたずねします。
今日、以遠の職場で尋ねられました。
近場でいい講師はいないか、と。
生涯学習の講座で、医療現場の現状や課題、だからわたしたちはどういうことに留意すべきか。どう健康を保てばいいのか。といった視点からのお話、短時間でいいそうなのですが、そんな講師はいないかとのお尋ねで、まっさきに思い浮かんだのは学長でした。謝金はとっても少ないんだって。学長は時間があえば、こんなちっちゃな町の小規模の講演会にも来て下さるんでしょうかね?乙さんから打診してみてくださいませんか。交通費込みで10000円くらいの予算しかないそうですが。

seikoさん

学長に打診してみました。
喜んで、とのことです。時々、地球の裏側や都へ出張していなくなるけれど、時間さえ合えば、昼でも夜でも休日でもOKとのこと。
脱線してとんでもないことを話し出したりしないかが心配ではありますが。

ええ!?マジでですか?
さっすがかささぎどんの一押しの男!
いやあ、そうですか。

けっこう大きなとこでばっかしお名前を拝見する学長さんですからね、まさか受け入れ可能であるとは。でも、せっかくあのぼうっとした飄々とした仮面をつけた切れ者学長においでいただくのであれば、NPOも共催にして、たくさん人を集めたいなあ。で、内容も医療現場みたいな固い話じゃなくって、地球の裏側事情みたいな体験したものでなければ話せないお話がききとうございますなあ。

なーるほど。
つかいわけってべんりね。
どこでもドアみたい。
芸能・アイドルのカテゴリーで正解だったような。

臼杵鑑栄物語
鑑栄は、系図(http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ot_usuki.html)によると、大友義鑑の加判衆をつとめた臼杵長景の長男で、長景を継いで民部少輔を称している。別の記述では、臼杵長景の長男は、長景を継いで1536年から1556年まで加判衆をつとめ大友家の外交事務(対外貿易)を管掌した鑑続となっているので、鑑栄=鑑続かも。鑑続は、臼杵鎮続の兄で、鎮続の前任の志摩郡代。

六十五  鷹狩    鑑栄
ふる雪に狩場の鷹の一つがひ
花をはらへる袖かとぞ見る

鷹の一つがい、というのは、山内の鷹尾城と大和の鷹尾城のことだろうか。

筑前大友五城

検索でこちらが開かれていました。

今までここ↓よみふけっていた。

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