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2008年12月14日 (日)

俳祖荒木田守武  乙四郎語録16

八女戦国百首『夏日侍』をよむ

      竹橋乙四郎

▼「こうやの宮」と中世俳諧


七支刀人形のこうやの宮の所在地、みやま市太神(おおが)。この、太神という地名が謎めいているので、乙式検索エンジンをフル稼働させたら、伊勢神宮太神宮というのを見つけた。言わずと知れた三重県の神宮なので、七支刀のある石上神宮も近い。
さて、太神宮法楽歌会で天文十一年に千首和歌が詠まれている。この時、荒木田守武という方が太神宮の祠官。この人物を検索したところ、「荒木田守武(1473-1549)戦国時代の伊勢神宮祠官・連歌師。山崎宗鑑とともに俳諧の祖とも言われる人物」とある。
かささぎ曰く
>この時代にまだ俳諧はありません
ということでしたが、俳諧の芽生えの時代ではあったかも。
http://www.pref.mie.jp/BUNKA/TANBO/Q_A/13.htm
に荒木田守武の才に関する詳しい記述があったので引用します。
=====(引用はじめ)=====
 守武は、禰宜職を務める一方、連歌などもよくたしなみ、その才能には優れたものがありました。十三歳のとき、宗祇の連歌集『老葉(わくらば)』を筆写したり、それから十年後には、兄の守晨とともに、準勅撰の連歌集『新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)』に一句入集を果たしたりしました。
 連歌全盛のこの頃、守武の名を高めたのは、四年がかりの推稿の末に仕上げた『守武千句』(『俳諧之連歌独吟千句』・『独吟千句』・『飛梅千句』ともいう)の達成(天文九年完成)です。そこから一句あげてみます。
   青柳の まゆかく きしのひたひかな
 この句は、川岸に柳が芽ぶく様子を、岸という額に柳眉(美しい女性の細い眉)をかくと見立てたものです。まだ和歌風で、この『守武千句』の作業が連歌の余技であった俳諧を独立の文芸の境地へと高め、俳諧の形態を確立する嚆矢となったようです。
そうしたことから、守武は、『新撰犬筑波集』の撰者の山崎宗鑑とともに「俳諧の始祖」とされています。この『守武千句』以外にも多くの著作物が知られており、『国書総目録 著者別索引』(岩波書店昭和五十一年)によれば、二一点あがっています。禰宜職に関連するものを別にすると、一七点が文学です。一夜で百首を詠みあげた『世中百首』、連歌師宗長の訃報を聞き日を置かずに追悼の連歌を詠んだ『宗長追善千句』、最晩年の独吟『秋津州千句』などがあります。
 そして、守武の俳諧に対する熱意と文学愛好者たちとの交遊が、後年に「伊勢風」と呼ばれる俳諧の作風の原点となったのです。
=====(引用おわり)=====
『俳諧之連歌独吟千句』とあるので、俳諧という用語は生まれているようです*。他のサイトにも「彼が文学史上に名を残したのは、天文5年から腹案を持ち同9年に完成した「守武千句」(飛梅千句)を独吟した事である。これは俳諧に千句という長大詩形を完成し、連歌体の俳諧形式を確立して、ともすれば軽視されがちな俳諧を本連歌と同様に価値ある文芸と認められて後世に伝えた事である」とありました。
 太神宮の古文書によると、荒木田姓は成務天皇の時に賜ったとのこと。これ以降、仲哀朝、神功朝、応神朝、仁徳朝・・・と、ず~っと神主姓。

「太神」で、もうひとつ、面白いのがヒットしました。とんでも脱帽。
皇祖皇太神宮(すみおやすみらおおたましいたまや)という茨城県北茨木市にあるわが国最古(自称)の神宮。
http://www.kousokoutaijingu.or.jp/legend01.html
この神宮は天地神一大神(あめつちまひとつのおおかみ)から神武天皇を経て今上天皇までのすべての代の天皇が祭神。別祖大神宮(とこおやおおたましいたまや)という別宮があり、ここは万国の五色人祖祖(いろひとおやかみ)(外国の国王、王妃、民主尊(みっとそん)ら)を祀る神宮だそうです。内宮外宮のはじまりとか。
「天皇が日本国だけの天皇となったのは神武天皇以後のことで、それまでの代代の天皇は一代に一度は必ず万国を巡幸(世界一周)されることを恒例とし天空浮船(あめそらうきふね)に乗って巡幸されながら、万国それぞれの国王、尊者、民主に謁(えつ)を賜り、任命されるなど光明赫灼とした、正に万国の棟梁、世界天皇でした」とのこと。ははあぁ~。
神足別豊(かんたるわけとよすき)天皇の御代にモーゼ、神心伝物部建(かんこころつとうものべたて)天皇の御代に釈迦、神武天皇の御代に老子、安寧天皇の御代に孔子、考安天皇の御代に孟子、垂仁天皇の御代にキリスト、欽明天皇の御代にモハメットとそれぞれ来日、参朝し、修業して帰りました、とのこと。おぉ~。
「このように皇祖皇太神宮は、特定の神だけを祀る神社(かみやしろ)ではなく、すべての神々を祀る神宮(たましいたまや)であり、ユダヤ教、道教、儒教、キリスト教、仏教、イスラム教すべてを包括する万教帰一の神宮であります。神州日本に生きる民族としての誇りを堅持し、世界の五色人もまた皇孫であるとの秘史の教えにしたがい、祖宗を祀り、世界の平和と繁栄のためにつとめることが、神宮を奉斉する私たちの使命です。」
 この神宮、他のサイトでも面白いのを見つけた。これは知ってた。
《昭和の初め、茨城県の皇祖皇太神宮という神社から、キリストはゴルゴダの丘で磔になったのではなく、死んだのは身代わりになった弟のイスキリで、キリストは日本に来て108歳で死んだ、というようなことを書いた古い文書が見つかった。場所は青森県三戸郡新郷村。昭和10年、皇祖皇太神宮の調査隊は新郷村に出発、村の小高い丘の上に塚を見つけ、これこそキリストの墓に違いないと判断を下した》。
《新郷村は昔、戸来(へらい)村と呼ばれていた。ヘライはヘブライが訛ったものではないだろうか》。
《キリストの墓とされたその塚は、代々沢口家が守ってきた。この沢口家の家紋は星型で、古代イスラエルの王ダビデのマークとよく似ている》。
《村では、生まれた赤ん坊を初めて外に出す時、額に墨で十字に書く風習がある》。
《村に古くから伝わる盆踊り唄の「ナニャドヤラー、ナニャドナサレノ」は、古代イスラエル語の「汝の聖名を誉め賛えん。汝の毛人を追い払って」の意味である》。

「天文年間、田尻親種は鷹尾城建築資金を得るために、城下の財宝、七支刀を伊勢宮へ売却した。売却金の一部は大友宗麟から築城許可をもらうための賄賂となり、それを宗麟は配下の戦国大名へ官位を乱発するための朝廷への賄賂に使った。長年の売却交渉に際し、伊勢神宮の和歌文化が筑後に流入した。親種は太神宮の荒木田守武の人となりに感銘し、七支刀のゆかりの地名を太神とした。橋爪鑑実は大友宗麟から美濃守の官位を頂戴し、伊勢の和歌文化にも感化され、今伊勢宮へ百首を奉納する気分になった。」というとんでも仮説を着想したが、皇祖皇太神宮の足元にも及ばないことを恥じ入り、この仮説は却下いたします。

▼戦国時代の俳諧
橋爪鑑実(一萬田鑑実)について、「元亀二年 (1571) 正月に俳諧を興行」というのがある。それ以上詳細な情報はネット上にはないが、年月を記した具体的な記述なので、どこかに何らかの根拠文書があるのであろう。書き間違いだろうと棄却するのは早い。
江戸初期の「俳諧の祖」松永貞徳は1571年生まれ。元亀二年までに鑑実に俳諧の影響を与えたのは、それ以前の「俳諧の始祖」荒木田守武(1473~1549)か山崎宗鑑(不明~1553)であろう。いずれにせよ、このような前衛文芸が、1571年に普遍的であるはずはない。かなり濃密な「俳諧の始祖」との接点があったに違いない。
やはり、伊勢の太神宮の荒木田守武と鑑実との間に、何らかの交流があったという仮説は捨てがたい。

▼石上神社と七支刀


日本最古の神宮は石上神宮。『日本書紀』に記された神宮は、伊勢神宮と石上神宮だけ。決して茨城県の神宮ではない。
天文年間、石上神宮の近くに、大和国最大級の城、竜王山城があった。ここの城主が十市遠忠(1497-1545)。歌人でもあり、太神宮や石上神宮に和歌を奉納している。土地の有力者は伊勢神宮と石上神宮を行ったり来たり。
織田信長の大和侵攻後、十市氏は滅び、信長の命により竜王山城は廃城となり1578年に破却された。その後、石上神宮は1585年に社禄を没収されている。七支刀は?
石上神宮では、御神体布都御魂剣等が拝殿背後に埋められ、禁足地とされている。禁足地には誰も足を踏み入れてはならぬ。
石上神宮にある柿本人麻呂の歌碑に、
未通女等之 袖振山乃 水垣之 久時従 憶寸吾者
(おとめらが そでふるやまの みずがきの ひさしきときゆ おもいきわれは)
『布留山(石上神宮の背後の神山、転じて石上神宮境内)に瑞垣(拝殿背後の禁足地の垣)が出来た昔から あなたのことを思っていました』
とあり、禁足地は柿本人麻呂の時代(660年頃~720年頃)以前から設けられていた。
この禁足地が発掘されて剣、矛、勾玉などが出土したのは1874年。宮司が「七支刀銘文」を発見したのは1876年。さも、この発掘での出土品であるように思えるが、どうもそれ以前から石上神宮にあったらしい。
明治以前、七支刀は「布留神剣」と称され、木枠に柄とともに差し込まれ、その上から「布留社御剣袋」という錦袋で覆われ、鉾のような姿で神庫の中にあり、神事には神体として出されていたと。
ところが、1720年に筆記された『石上布留神宮略抄』によれば、布留神剣は863年以降に神主が夢で見た若宮出雲建雄神(草薙剣)を模して作られた、とある。明治以前の「布留神剣」と「七支刀」とは別物?
そもそも本物なら、1585年に没収されなかったのが不思議。
没収される直前に、禁足地に埋めて難を逃れたのかも。事実、1874年の発掘時には鎌倉・室町期の瓦も出土したとか。室町時代に禁足地に埋められたものがあることは間違いない。

ここで、とんでも仮説。
伊勢神宮も、石上神宮と同じく、社禄没収のおそれがあった。伝統神器であればまだしも、鷹尾城主から買った七支刀は没収対象だろう。そうだ、石上神宮の禁足地に埋めさせてもらおう! 石上神宮には、将来、発掘されるであろう時まで、模造品を祀ってもらうことにしよう。正体がばれにくいよう、普段は錦袋で覆っておこう。宮司だけに伝承される秘密。

*

かささぎ脚注:

俳諧という言葉

十年ほど前、日本青年館での全国連句大会の講演(「芭蕉俳諧の真価」)において、国文学者光田和伸先生はこうおっしゃっていました。歌の種類は大きく分けて○と○と○と・・俳諧歌がある。その俳諧という意味は、もともと変わったとかへんなとかおもしろいとかいうような意味であった。(記憶です。これまた調べたらどこかに資料プリントがあるとおもいます)忘れていました。ごめんなさい。

俳祖荒木田守武没後450年忌連句大会というのが、あったんだった。
平成11年8月8日の日付の作品集と「荒木田守武」資料集が手元にあった。
れぎおん同人にお伊勢さんの外宮のかたと内宮のかたと風の宮のかたとたしか三人いらっしゃった。年忌は50年に一度、一生ものの記念になるからとそのとき巻いた一巻を奉納して、それが伊勢市長賞?に入賞した。おもえば、それはなんと大いなる縁だったことか。メンバーは佛渕健悟、高木咲耶、明坂小箔(あけさかこはく)さんとの四吟でした。この組み合わせはれぎおん前田師プロデュース、歌仙の題は「着ぶくれて」。そうだ、いぜん引用した。

あった!!

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_97c8_1.html

おお、なんとなくつながってきたではないか。

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コメント

おつしろうのこの文章、さすがに科学者だとおもった。
わたしは「とらわれて」いました。
なにに。
かささぎ的常識に。
なにか、八女はずっとずっとどいなかで、このいなかは不動のものというようなとらわれです。ひなの地、ひなの血。みやこに遠い地という固定観念。それをぶちこわすために戦乱という時代はあったんだな。

五色人。
一番最初にかささぎに連句のてほどきをして下さった札幌のくぼたかおる(故・俳諧寺芭蕉舎宗匠)師が古代史マニアで、竹内文書をしらべたことがありました。たけのうち。です。ああそうか。この竹内文書があたまにのこってたから、竹橋乙四郎文書。となづけてしまったのかもしれない。カテゴリー。
阿蘇神社にいこう。とずっと思っていますがなかなか。

俳祖

ありあけへ ハイソの水の 流れ来て 

うまい!ざぶとん三枚やってくれ。

八女戦国百首和歌の年号と日付の天文廿四年卯月廿五日とはグレゴリオ暦だといつになるのかを先日シンクロしていた「き坊の近況」さんの数式メカにはめこんでしらべた。(名前貼り付け)。1555年5月25日という、5が5ヶも出る日になった。こころ打たれ、芭蕉冬の日歌仙の「かしらの露をふるふ赤馬」っていう陽物のたまふり句をだした重五(これは芭蕉じゃなかろうか)を連想したかささぎであった。神様におちょくられている気分がする。

天文廿四年 癸卯 卯月廿五日
干支の卯月は西暦では3月頃。寅月の次の卯月。弥生の次の卯月ではない。
古来(3000年以上)、干支はもっぱら日付を表現するのに用いられ、暦がどう改定されても、干支による紀日法だけは不変。古い日付の確定の決定打。
天文24年の卯月の「癸卯」の日は、西暦3月30日。
(注:この年の卯月廿五日が本当に3月30日かどうかは未確認です。)
現代では、仏滅だの大安だの、行事日を選ぶのにカレンダーを気にするが、干支文化では干支の日付が意味を持つ。
癸巳の日から戊申の日までの16日間は、天一天上(てんいちてんじょう)といい、天一神が天上に帰り日遊神が地上に降りる期間で、行事に適した日とされる。癸卯の日は天一天上の11日目にあたり、吉日。

卯月が弥生の月の卯月である可能性もあり。
その場合、癸卯は5月29日(癸卯は60日ごとに巡ってくる)。

おつしろう
えとは 日付かもと思いましたが 何でか年号と思いこみました
それは 年号のすぐあとに書いてあったからと 江戸時代の考古学者が年号の干支と思い込んで 年号と合わないて書いてたからであります
卯月の件は やはりあなたも混乱しましたか
ただ タイトルを思い出したなら これは夏の日待ちですから
私が暦論に書いた文章が例によって行方不明 だけど 小満だったことだけははっきり記憶しています
八女市図書館にあったか 湯浅なんとかいう人の旧暦陽暦換算表を調べたらわかりました

天文廿四年 癸卯 卯月廿五日
卯月を寅月の次とすると、西暦1555年3月30日(癸卯)は卯月8日。卯月廿五日は4月16日で庚申。
卯月を弥生の次とすると、西暦1555年5月29日(癸卯)は皐月9日。卯月廿五日は5月15日で己丑。

合わない。
どこかで誰かの勘違い。

旧暦卯月 という項目で検索してみてください
すると二番目あたりにでる 天保以前の暦ではー小満を含む月が卯月 とあるでしょう?
その 小満 に どんな わくわくするような秘密があるのか かささぎは知りたいのですが これまで だれもこの謎を解き明かした人はいません

かささぎ計算で5月25日、乙計算で5月15日。
誤差10日の原因は、かささぎ計算がグレゴリオ暦を用いているため。
天正10年9月18日(1582年10月4日)まではユリウス暦、天正10年9月19日(1582年10月15日)からはグレゴリオ暦です。ユリウス暦とグレゴリオ暦との差が10日。

天文年間頃の便利な換算表
   ↓

違います かささぎの暦論に引いた日付は4月28日じゃなかったかなという気がする 3日しか違わないけど とにかく小満の日待ちだった
それ おつしろう案の日だと小満にはならないのじゃありませんか
せっかく名前貼り付けしてくれて有難いけど 今開けない見れない 携帯端末だから こういう時 気になって仕方ない
5月25日だとしたのは こないだ引用の希望さんの機械での数値ですからね

それにしても

鷹尾城に時々寝泊りするようになってこの方、何もかもがシンクロして気色悪いくらい。天文百首のキーパーソン、鑑実の姓が橋爪だったのが極めつけ。
ちなみに、結婚記念日は昭和55年5月25日。

ただ今見つかった
天文24年乙卯4月25日己丑小満
というとこまでしか書いてなかった
あら これは暦論最終回にかいたぶん なら 達するを恐れる
と言う題ででてきますね

橋爪さん
私生活は謎の人なのですが やはり

1555年の小満は5月22日
   ↓

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