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2008年12月 9日 (火)

一萬田鑑実の歌  乙四郎語録 12

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

         竹橋乙四郎

一萬田鑑実(いちまだ あきざね)物語

朝夕に霞たなびく小松原 
      きみがちとせの春ぞ久しき  鑑実

はじめ、八女天文百首に多くを残している鑑実について、その哀しい一生を追体験。

一萬田氏の不動産、小牟礼城と鳥屋山城(鳥ヶ鼻城?)の城主。
大友宗麟に仕える。
天文19年(1550年)の菊池義武討伐に功績。
この頃、橋爪に改姓。橋爪美濃守鑑実。
天文22年(1553)弟の一萬田鑑種が高橋に改姓。
弘治3年(1557年)の秋月文種討伐に功績。
永禄11年(1568年)に弟の鑑種が謀反を起こしたが、宗麟に味方し鑑種討伐。
永禄12年(1569年)毛利軍と戦った多々良浜の戦いでは息子の鎮実と共に功績。
天正6年(1578年)の耳川の戦いに功績。加判衆となって宗麟の側近として活躍。この年、大友宗麟はキリスト教の洗礼を受ける。
天正14年(1586年)からの島津氏との戦い(豊薩合戦)で、息子の鎮実が島津氏に寝返ったが、大友氏方に留まり頑張った。
しかし、妻が大友宗麟に寝取られて、宗麟のもとに逃げられた。
天正16年(1588年)自刃。

「鑑実は大友家の重臣を招いて俳諧会を行っている。20年ほど前に彼らの詠んだ歌が記録された巻物が発見されたが、なぜか一度も公表されていない。」(Wikipedia)

これって、八女天文百首のこと?

かささぎの旗管理人の言:

おそらくそうであろうと思われます。
じつは、かささぎは、いちばん最初に原本をいただいたとき(新ミレニアムを祝う記念すべきお能“翁の舞”が岩戸山古墳で上演奉納された日です、そういえば岩戸山古墳上で、その伊勢宮でいただいたんだったよ)、のめりこんで読みに没頭して、すべてが読めたとき、うれしくてうれしくて、十人ほどの人にコピーしたのを送りました。かささぎ読みもつけて。付されていた解説書も人様にさしあげてしまって、あれれ。手元には一個もない!というへまをやらかした。

その後、十年近くもたってから、もう一度それを見たいと思い、役場を訪ねたら、すでにその解説を書かれた方は事故死なさっており、ついにわからぬままです。これが何を意味するかわかりますか。それほど役場は忙しいのだ。人も予算もとれないでいる。それはわかるけど、でも、この調子でスライドして連想すると、あちこちの役場のお蔵には、たくさんのたいへん貴重なふるーい史料が、手付かずのまま、眠っていると思われます。それらはいつかだれかが起こしてくれるのを待っている。これは、すべて、縁だとおもう。
で、白紙にもどったところで、重要なのは、自分のよみをさがすこと。
おつしろうは、おつしろうのよみをすればいい。
だれの見解もすべてがただしいなんてありえない。
正解はわかりようがないけど、進むうちに、いろんな発見があるんだとおもうし、実際すごいことになってきたのを感じている。

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コメント

私は、この人のお話は知っています。おおともそうりんはとてもおんなぐせがわるく(あそびがすぎて、わるいびょうきにかかっていたとも矢野一貞の本には書かれていた)、むねがわるくなるような残酷なことをたくさんしたらしい。ちょっと美しい女性がいると、人妻だろうがなんだろうがものにした。この人の場合も、ほんとうにかわいそうでした。きれいなおくさんだったのですよね。しかし、そのひとがこの百首和歌の侍だとはかささぎは夢にも思わなかった。

宇佐鑑述(あきのぶ)物語
鑑述については情報が極端に少ない。
1555年の八女戦国百首の代表者として、美濃守源鑑述。
家系図らしきものに、豊饒直弘から伸びた線上に、天文頃、美濃、鑑述とある。
「1550年、大友方の豊饒美濃守が筑後の溝口城を攻略」という記述を見つけた。
そこで溝口城を調べてみると、溝口城址と思しき筑後市溝口地区に竈門(かまど)神社がある。そして1561年の由原宮大神宝物の調進者に竈門(かまど)右京亮宇佐鑑述(あきのぶ)とある。繋がった。
ところが、豊饒美濃守が溝口城を攻略した、まさにその頃、一萬田が橋爪に改姓して「橋爪美濃守鑑実」とある。美濃守は鑑述なのか、鑑実なのか。それとも鑑述と鑑実は同一人物なのか。そういえば、大学の文芸誌を編集していた頃、作品が思うように集まらなかったので一人でいくつかのペンネームを使い分けた経験がある。橋爪鑑実が乙のご先祖様でDNAを共通にしているのであれば、あり得る思考。右代表を務めるほどの人物の実像の記録が全くないのも頷ける。そもそも「源鑑述」なんてペンネーム臭い。「鑑」が付く戦国武将をずいぶん検索したが、鑑に源の姓が付く例は、蒲池鑑守が石銘に「蒲池武蔵守源鑑盛」と書いた例のみしか見つからなかった。もし同一人物とすれば、鑑述の歌と鑑実の歌を組み合わせて、いろんな暗号遊びができる。後日発表。
ところで、検索の副産物として、面白いことを発見した。「溝口城」というところで、過去、何度も攻防戦が繰り広げられている。古くは、1351年に懐良親王が溝口城を落としている。
「興国元年(一三四〇)後醍醐天皇の皇子の懐良親王は、九州平定のため西下興年三年に西国から九州へ向かい、薩摩に上陸し谷山城に入って六年間滞在、正平二年(一三四七)肥後の隈府城に入った。同六年、五条・菊池・恵良氏らの勢を督して北上し、筑後国溝口城を破り瀬高庄を経て筑後国府に入った。」
この懐良親王の後継者として九州入りした良成親王の后が産気づいて亡くなった場所が姫御前岳。繋がった。
1525年にも溝口城は、大友謀反勢が籠城して、大友に攻撃されている(筑後動乱)。
溝口城には支城(小田城)もあったそうな。溝口城って何だ?

[一萬田鑑実 妻] 9位。

キリシタンに改宗したら浮気は禁止なので1578年以降に寝とることはしてないよ。あと女好きというのは江戸時代の小説の創作ですね
1人の奥さんと8人も子供作ってるけど側室との子供って見当たらないのですよ。

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