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2008年12月30日 (火)

乙四郎語録 対話篇3

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

      竹橋乙四郎

▼  荒木田守晨(もりあさ、もりとき)の手掛かり


伊勢内務長。守秀の五男。守武の兄。宗祇門人。詠歌が守武とともに『新撰菟玖波集』に入集。永正13年(1516)歿、51才。「永正記」作者。

木村徳宏(専門分野 神道学 神道史 神道思想史 神道祭祀 神社祭式)
論文、 学術論文
荒木田守晨について-その生涯・学統を中心として- 平成15年10月01日 中世後期の内宮祠官・荒木田守晨の生涯について考察し、従来学説の分かれていた名のりを「モリアサ」であると確定した。また、彼に関係する年表を作成すると共に、彼が生涯注力した神道書の書写について現段階に於ける全容を解明して目録を作成した。また、これらの伝写と相承の過程を照射して彼とその前後の学統を明らかにし、彼が果たした神道史上に於ける役割と位置付けを試みた。(A5版、総45頁)
【単著】
『神道史研究』51巻3・4合併号
編者名及び共著者名:神道史学会
掲載頁:81-125頁
荒木田守晨について 平成16年03月31日 中世後期の内宮祠官・荒木田守晨の生涯について基礎的研究の成果を発表した。特に学説の分かれていた「守晨」の訓について考察を加えると共に、これまであまり知られていなかった彼の幼名を史料に拠って紹介した。また、彼の自害の理由についても基礎的な考察を加えた。(B5版、総2頁)
【単著】
「神道学会会報」
編者名及び共著者名:皇學館大学神道学会
掲載頁:10-11頁

かささぎの旗管理人:

検索では、なまえのよみは「もりとき」になっていました。
自死のその、理由が知りたい。
よみたいものです。

ブログ記事として、守武、兄の死。という題でさきほどから、年譜をうつしていますが、なんどやっても消えた。やめておけ。というサインですね。
この年、永正十三年十一月には六日前に違う兄(長官、一の禰宜だった)もなくしている。ということは、それに関連する死だったか。調べたわけではないが、年譜をみていると、十人のねぎに欠員が生じると新しい禰宜をいれるが、それに連られて一位づつ位があがる。年譜には書かれていないが、この長官だった兄の死でもりあさがトップになったのだろう。それはそんなに重大なことだったのだろうか。
『神官守護のために』みずからの尊い命を棄てる。それはどういう意味があったのだろうか。
また、母はこのふたりの愛する息子の死の四年後になくなっている。
この世の中百首は、ふたりの兄たちの死の年から九年後、九月の庚申の夜一夜で仕上げたものです。

九男だとする守武、九に縁を感じていたのか。

竹橋乙四郎:

 伊勢神宮禰宜の心的背景
永正9年(1512)11月19日に伊勢神宮で大火災。京都御所レベルで官民あげての大騒ぎとなり、その再発防止会議で、「皇太神宮の鬼門の方向に当たる篠島神戸の里に「火度見善光寺如来」を祀り祈願すれば後世難を逃れるであろう」という結論が出され、永正13年、知恩院に命じ、伊勢神宮の古材を使って篠島に西方寺が建立された。
神だのみなのか仏だのみなのかまったくもって良くわからない防止策(さすが、元寇対策に神楽を練習せいと命じた国に恥じない意思決定!)であるが、この間、禰宜たちがいわれのない誹謗中傷、屈辱に塗れたことであろうことは想像に難くない。

▽ かささぎの旗管理人:

竹橋乙四郎先生のおっしゃるとおりかもしれません。
今、嵐竹のすべての歌を拾っていたら、「春駒」「五月雨」「立秋」「槿(あさがほ)」、「来不逢恋(来て逢はざる恋)」の五首ありました。
そこで、「世」を荒木田守武のキーワードをすれば・・、という目で読み直しますとき、ハッと気づいたのは、守武の辞世の一句であります。守武忌は、朝顔忌というではありませんか!

朝顔にけふは見ゆらむ我が世かな  守武

祖(おや)を守り俳諧を守り守武忌   高濱虚子

何がいいたいのかといえば、嵐竹の俳号には、乙四郎が指摘したように、俳諧師としての匂があるということです。まだ何も資料はございませんが、これは確かな確信であります。

四十六    槿(あさがほ)  嵐竹

あだなりと見しは残らじ槿は
世にはてしなき秋ごとの花

この一首はどこかに荒木田守武を匂いづけしている。
直接の弟子ではなかったかもしれませんが、なにかの縁で守武の水が流れ込んでいる。そうでなければ、あのように生き生きとした恋の歌は書けなかったでしょう。あの一首だけが時代を突き抜けて、まっすぐこころに届きました。俳諧歌でした。

嵐竹の立秋の歌、いいよね。乙としては春駒の歌も好きです。
まぐれにたまたまいい歌を詠む人であれば無名のままでしょうが、いい歌をたくさん詠む人なら後世に名前が残ってもいいはず。ところが、「嵐竹」は乙式検索エンジンにまったくひっかからないのです。嵐竹はこの場限りのペンネームじゃなかろうか、というのが、とんでも思いつきの始まり。もし嵐竹=荒木田守武なら、「旅する太刀」の謎解きに夢が膨らみます。九州から宝刀を持ち帰れば、伊勢の禰宜の形勢も持ち直せましょうぞ。
八女百首のコペルニクス的転回。
コペルニクスが『天球の回転について』(地動説)を出版したのは1543年(天文12年癸卯)。

芭蕉と伊勢との関係に着目し、笈の小文の解説文を読んでいたら、この句が出てきた。

裸にはまだ衣更着(きさらぎ)の嵐哉  芭蕉

伊勢神宮に奉納された句だとか。
この句の解説文。
「嵐は「三十日月なし」句にも出てくるが、伊勢は「神風の伊勢」と言われるように、嵐に縁がある。」
と。
芭蕉の伊勢参り:http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/oinokobumi3.html  

▽ かささぎの旗管理人

伊勢は嵐に関係がある。そうですか。
大風(台風)や嵐を鎮める風の宮のことを言っているのですね。
その家のかたが何度かれぎおんに文章を書かれていましたが、・・・。

芭蕉が伊勢に詣でて外宮の外から遥拝するというのは、僧として当然として、一般的にも外宮へ先におまいりするもののようです。かささぎは未だ一度も詣でたことはないので、よく位置関係がわからないのですが、今朝しらべたところ、次のようなことが目につきました。

1 とゆけのおおかみを祀る外宮、その位置はもと丹波。
2 外宮の傍に四つの別院、多賀宮、土宮、月夜見宮、風宮。

かささぎが殊に注目するのは、多賀宮(たかみや)です。
このお宮は外宮の中でも地位が高いとかかれています。

伊勢宮ホームページ資料よりコピペで引きます。

一、宮名とご祭神
 多賀宮(たかのみや)
 
豊受大御神荒御魂(とようけおおみかみのあらみたま)

ニ、ご鎮座地
 豊受大神宮大前の御池にかけられている亀石を渡ると、右手に土宮、左手に風宮が見えて参ります。それを過ぎ、正面の98段の石階を上がると、檜尾山に南面して、外宮の第一別宮である多賀宮がご鎮座になっています。

三、ご鎮座の由来と沿革
 『延暦儀式帳』に「高宮一院 等由氣太神宮之荒御玉神也」とみえ、古来高宮とも称されております。恐らくは小高い丘の上にご鎮座になっていることからそう呼ばれたのでしょう。ところで、豊受大神宮別宮には多賀宮、土宮、月夜見宮、風宮の4宮がありますが、多賀宮だけは『止由気宮(とゆけのみや)儀式帳』および『延喜神名式』に記載がみえる別宮で、他の3宮が後年宮号宣下により別宮に列せられたことに比すれば、一際格式が高く、しかも皇大神宮の荒祭宮同様、外宮の第一別宮として古くより特別な待遇を受けて参りました古社です。
 さて、当宮の淵源を尋ねると、今から凡そ1500年前、第21代雄略天皇の御代22年に天照坐皇大御神の御神勅によって豊受大御神が丹波の国から御饌(みけ)つ神として迎えられ、豊受大神宮が創立された際、多賀宮も同時に奉斎されたと伝えられています。
 14別宮のうちで荒祭宮同様殊に重きが置かれ、20年1度の大祭である式年遷宮でもこの2宮だけは正宮に引き続き真っ先に斎行されます。また、勅使参向の際は恒例祭と臨時祭とをとわず正宮の祭典終了後ただちに幣帛が奉られることからもその重要性が容易に推察頂けるでしょう。
 現在は、農事に携われる方はもちろんのこと、産業全般にわたって従事される方々の篤い崇敬を集めております。

引用をおわります。

ここで、また「荒」がちらつきます。

▽ おまけ記事

かささぎの旗のうけうり・とんでも説:

失われた十部族わんだりんぐ・じゅう古代イスラエルの民が遊動民スキタイとともに日本へ流れ落ちた。
「豊受大神」こそは古代イスラエルの神である。

元伊勢なる地が丹波に二箇所ある。
その一つの大江山麓のは後世つくられたもので、本来の元伊勢は籠神社(このじんじゃ)である。日本三景の一つ天の橋立を北から見下ろす位置にある。(参照・雪舟の国宝天橋立図)
以下、そのまま引用。なにから引いてるか、おしえない。

「伊勢神宮に祭られている天照大神は最初から今の伊勢にあったわけではない。それは25回も巡幸している。初めは倭国笠縫邑であり、次がこの元伊勢、籠神社であった。以後、吉備、大和、伊賀、淡海、美濃、尾張などを移動しつつ二十五番目についに伊勢の内宮となったのである。」

「籠神社で祭られていた豊受大神は古代イスラエルの神である」

「81代宮司は『原初の最高神と大和朝廷の元始』(桜楓社)という本を著し、「これら元初の神の信仰は、明らかに記紀編纂時代、和銅養老年中間以前に、我国に存在していたものであるが、これがその後一般大衆の信仰の上に根を張り、枝葉を生ずるに至らなかった理由の重要なものとして、和銅、養老の直後、いわゆる天平時代に仏教の信仰が急速に朝野上下、大衆の間に関心を持たれ、その最高仏の信仰がこれに代わって根を下ろすに至ったことにあるであろうことが看取せられねばならぬ」」
「すなわち我国の上古に、元初の神の信仰が既に存在していたことは、既述のように記紀によって明示せられるところであるが、奈良に東大寺が建立せられ・・・従前の信仰形態に相当の変貌がもたらされたであろうことが察せられなくはないであろう」

この本によると、伊勢神宮の二十年に一度の式年遷宮も古代イスラエルの移動式礼拝所(幕屋)が下敷きにあるという。

いろいろ書かれていますが、丁度取り上げたばかりの元寇のくだりを引きますね。

「元寇。二度に渡ってやってきた。
1274年文永の役のとき、元は遠征軍として兵士三万数千、軍船九百艘の大群を率いてやってきた。十月五日、元軍は対馬を蹂躙し、十月十四日壱岐に侵攻し、十月十八日には博多湾に侵入した。そして十月二十日に本格的な戦闘が行われ、午後には博多の町は焼かれて至る所で黒煙があがっていたという。が日本軍にとって幸いなことに、その夜元軍は不案内な地での野戦を避けるべく兵をまとめて引き揚げた。そしてその夜、大暴風雨が博多湾を襲った。たちまちのうちに元軍は海の藻屑となったのである。

「続いて弘安の役、1281年。元が宋を滅ぼして二年後、こんどはさらにパワーアップし、将兵合わせて14万、軍船はなんと四千四百艘だったという。日本は文永のときとは異なり準備万端にして待ち構えていた。しかし戦いは一進一退。そんな中、またもや七月30日の夜大暴風雨が襲ったのである。元軍はたちまち壊滅、日本軍は残れる兵を掃討するだけであった。」

おおげつひめ:http://www.dai3gen.net/ainu_yu11.htm

さまよえる倭姫:

 

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コメント

とんでも楽しい
   ↓

私が引用した太田龍という人の本にもそれは載っていました。説得力があった。

「高良山物語」で、わからないのは、高良山にまつってあるという荒木田襲津彦(あらきだ・そつひこ)。この襲は熊襲を連想させるし、祖とも読める。伊勢神宮の代々の内宮神官が荒木田姓なのはなぜかとあわせて、どういう関連で高良山に祭られ、どういう素性の人だったのかを知りたい。五百年のあいだに失われたものの大きさよ。高木神社も高良山にありますよね。麓近くです。

高良玉垂宮と七支刀
古賀達也
なる一文を発見しました。今から読みます。
かいものにいかんといかんのやけど。

年末スペシャル
うけうり・とんでも説のうけうり補足

モーセは日本の神から授かった十戒をユダヤ民族に与え、イスラエルを去ったモーゼは日本に帰って石川県の宝達山の麓(現在、「モーゼパーク」として整備されている)に葬られた。
キリストの墓は青森県三戸郡新郷村大字戸来にある。キリストは21歳のとき日本に渡り、12年間神学について修行を重ね、34歳のとき、ユダヤに帰って神の教えについて伝導を行った。弟イスキリを身代わりに十字架の磔刑から遁れたキリストは日本に帰り、106歳で没した。118歳説もある。12年のズレ、ここにも。日本でのキリストは、伊勢神宮内宮の地の選定に功績があった。
パレスチナと日本との距離は1万キロ。1日に30キロ歩いたとして1年かかる。準備万端、ただひたすら歩くだけでいいのなら1年で日本に到達することができるが、現実には食料を調達しながら寄り道や回り道を余儀なくされるし、天候や地形にも左右される。十年がかりで実現できるかどうか、といったところだろう。○○や△△がその生涯に日本を往復していたというとんでも説は信じがたい。
対し、古代、○○部族が日本に来ていたというとんでも説は頭ごなしに否定はできない。民族は、少しずつ行動半径を広げながら移動する。1日に100メートル移動したとして、1年で36.5キロ、三百年で1万キロ。紀元前1020年にイスラエル王国を構成していた12支族の一部が、三百年後に日本に到達していたとしてもあり得ない話ではない。

 イスラエル王国の12支族のうち2支族は1947年に再建されたイスラエルの国民となったが、他の10支族(割礼の習慣がない支族)は行方不明。終末の日には12支族が結集してイスラエル民族の栄光の日が来るといわれ、ダビデ王の子孫からメシア(救世主)が出現すると聖書に預言されている。終末の預言の成就を願うユダヤ教世界では失われた10支族の行方を捜す調査機関(「アミシャーブ」)もある。日本には12支族すべてが揃っている可能性があり、終末の日にメシアが出現するのは日本ではないかとも。10支族が失踪したのは紀元前721年。支族を率いたのは、預言者イザヤ。日本の国の始まりはイザナギ、イザナミ。神武天皇の誕生は紀元前711年。古代ユダヤ人は黒髪・黒目の褐色の人種で、背が低かった。神武天皇の和風諡号である「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」はヘブライ語で「サマリアの大王・神のヘブライ民族の高尚な創設者」という意。

さて、もうすぐお正月。年末の大掃除はユダヤの習慣でもある。
ユダヤの過越祭(すぎこし:新年のお祭り)は7日間。丸く平べったい種なしパンを祭壇の両脇に重ねて供える。
エルサレム神殿の門(ヘブライ方言でトリイ)には16弁の菊花紋が刻み込まれている。
移動式神殿(伊勢神宮の遷宮みたいなもの)や古代イスラエル神殿では、入口に水盤がある。ユダヤにも、水や塩で身を清める禊の習慣がある。(ユダヤ人は体を洗ってから風呂に入る。他の西欧人はバスタブの中で体を洗う。)
水盤の次に、至聖所(拝殿)、聖所(本殿)と並ぶ。古代イスラエル神殿は木造建築で祭壇には常夜灯があり、神殿の前には賽銭箱が置かれていた。
ユダヤ教の祭司は初穂の束を揺り動かす。
そして、ユダヤ人はメズサ(護符、お守り)をゲットする。
生後30日目に赤ちゃんを神社(神殿)に初詣でさせる習慣は、日本人とユダヤ人のみの習慣。
ユダヤ人は13歳の男子に、成人を迎える儀式を行なう。日本の古来の元服式も13歳男子。
元伊勢の「眥(籠)(この)神社」の裏家紋は「ダビデ王の紋章(六竏星(六芒星))」であり、眥神社の奥の院である真名井神社の石碑に刻み込まれている。
伊勢神宮内宮と外宮を結ぶ参道の石灯籠にもダビデの星(GHQの圧力で刻まれたとの説あり)。
伊勢神宮暦は他の神社と違ってヘブライ暦(ユダヤ暦)と一致。
「東方の日出づる国」はヘブライ語で「ミズホラ」。
約束の大地カナン「カヌ・ナー」はヘブライ語で「葦の原」。
「ヤ・ウマト」は「神の民」。
行方不明の「契約の聖櫃(アーク)」は日本の神輿とそっくり。アークは金で覆われ、上部には2つのケルビムの像が羽を広げて向かいあう。アークの下部には2本の棒が貫通しており、移動するときには、レビ族が肩にかつぎ、鐘や太鼓をならして騒ぎ立てる。
ユダヤの“シオン(Zion)祭り”は、京都の祇園(ぎおん)祭りと同じ7月17日に行なわれる。
<ヘブライ語講座>
アッパレ  栄誉を誇る
アラ・マー どうした理由・何?
アナタ   貴方
アノー   私に応答させてください
アリガトウ 私に(とって)・幸運です
エッサ   持ち運べ、持ち上げるぞ
オイ    泣く
オニ    私を苦しめるもの
オハリ   終端
グル    団結する
グル    回る
コラ    自制せよ
スケベー  肉欲的に寝る
ダマレ   沈黙を守れ・私に(対して)
ドシン   肥満
ノコッタ  征服した
ハッケ・ヨイ投げうて・よろしく
ヒリ    痛みを感じる
マズ    何?・これは
ワル    凶悪な者

おつしろうっておめでたいやつ。
まだ正月でもないとに。
しかし。おもしろすぎ。
ところで。太田龍も面白い。あの年であそこまで面白いとは。革命派も奥が深い。
こんなことを書いていて、なるほど。と感心した。
「トヨタは戦艦大和とおなじ運命をたどった」って。
アメリカよりどこよりトップに立った!とおもいきや、またたくまに墓穴をほらされて。入る皆ティに。
ふりーめーそんって、「古代自由正統石工組合」っていうんだそうですね。なにか感じませんか。

かささぎどんのおかげで、世界が広がった気がする。ことしも一年ありがとう。八女ん田舎の、一介のブロガーとしてますますのご活躍を期待しております。

それと違った意味で、世界を広げてくれた、乙さん。よいお年を。

今伊勢宮と式年遷宮
「元伊勢」は天照大神(神体である鏡:八咫鏡、と剣:天叢雲剣=草薙剣)を一時的に鎮座していた伝承を持つ神社・場所をいい、元伊勢の中に、今伊勢と称するものがあるとのこと。伝承の比定地(百数十か所)は三重県を始め近畿地方がほとんどだが、西は広島県福山市、東は静岡県浜名湖周辺まで点在しているとのこと。広島県福山市神村町の今伊勢内宮外宮が西端とか。九州にはない、とされている。筑後にあるのに・・・
神体の大移動が現在の伊勢神宮に落ち着いて以降は、20年ごと(古くは19年ごと)の式年遷宮が行われている。内宮の第一回式年遷宮は持統四年(690)。外宮は二年遅れて斎行される制が守られてきた。
ところが、現在は、内宮・外宮の両宮が同時に斎行されている。過去、何かがあった。
外宮の遷宮は室町時代に129年間中断している。再開は永禄6年(1563)。荒木田守武の頃。次の遷宮の天正十三年(1585)以降から同時斎行。
中断期間中、内宮(禰宜は荒木田氏)と外宮(禰宜は渡会氏)との不仲は最高潮に。正長二年(1429)、宇治(内宮)が山田(外宮)の民家へ放火。外宮を戦場として合戦に及び、宮城内が血で穢れる。「先代未聞、開闢以来之無き由、言語道断、浅間敷き事也」
宝徳元年(1449)、喧嘩で内宮側が外宮の二人を殺害。外宮は内宮への参宮道路を遮断。両宮神人が弓矢をとって戦うに至る。
翌年正月、幕府の仲裁により両宮和睦するも、5月、外宮は内宮の道者を抑留して再び通行を止めた。
文明十七年(1485)、宇治と山田の神人が戦いを交える。死者百人。
文明十八年、宇治と山田の放火合戦。正月元旦、七日、十五日の神事が延引。
延徳元年(1489)、山田が宇治を攻め、内宮に放火。
明応二年(1493)、山田に放火。
永正九年(1512)11月19日、伊勢神宮で火災。詳細不明。

庁宣
可早以諸国貴賤之助成、致興隆内宮法楽舎護摩堂事、
右件堂者、皇太神宮長日法楽、殊勝最上之勤厚所、而抽天下泰平御祈祷之処、去正月一日旱天不慮小火起、立所仏閣滅盡、不思議之為体、載勧進帳具也、爰法師勲阿並了泉等、蒙十方檀那助縁、欲令造立所存神妙、彼法師等ニ合力輩、檀施輩者、神明之感得不過之、速可遂勘進節之状、所定如件、
永正十年九月 日
祝宜 荒木田神主判○外十員連署

永正十三年(1516)、内宮の禰宜、自殺。
永正十五年(1518)、両宮の通路が杜絶。
永正二十三年(1526)、山田が放火。焼死者あり。
これ以降、宇治と山田は冷戦へ。
永禄六年(1563)、外宮の遷宮が129年ぶりに再開。

たいへんな時代だったようです。
レオナルド・ダ・ヴィンチの没年が1519年、シェークスピアの生年が1564年。荒木田守武はこの二人の天才の人生の狭間の時代を生き抜く。

年越しおまけ
   ↓

きれいはきたない きたないはきれい
てこのこと。火事は放火。なんてこったい。
永正九年の火事もそうなのか。年譜では翌年の正月にも法楽舎を焼失。なにも無駄口をかいてない年譜が、永正九年に限って言えば、火事の前、両宮の遷宮前後の訴訟の非についてどうのとか、四月、もりのり、もりあさ、もりかね、もりたけの禰宜四人、おのおの位一級すすめられるよう申し出る。と書かある。どういうことだろう。
九人の男兄弟の末子だった守武。なんか九人の息子がどうの。って最近よまなかった?あれはなんだったかな。

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