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2008年12月20日 (土)

ハンヤ舞・ハイヤ節・ハイソ武士  語録22

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

     竹橋乙四郎

▼ 浮流の源流 『鷹尾宮のハンヤ舞』

九州各地のすべての浮立の源流ですか。
阿波踊りの源流は天草(牛深)のハイヤ節にあるというのを何かで見た記憶があるので、もっと広域の文化の源がここにあったということかも。

アジア・アフリカ各地の民族を実地で見聞してきた経験からいえば、「文化」は太鼓のリズムに合わせて歌い踊ることから始まっているように思います。
日本という国の起源を探る時に、古事記/日本書紀や大陸の古文書から探るというやり方だけでなく、日本固有の「文化」の起源を突き詰めてゆくというやり方があってもいいのかな、という気がします。
乙式とんでも仮説でも、「俳諧」という文化が、伊勢宮(荒木田守武)と筑後(橋爪鑑実)とを結ぶ謎解きの鍵となったわけですし。
ちなみに、ハイヤ節の牛深は、乙が大学を転学して医師を目指すことになった、人生の転機を与えてくれた恩人の医師のおられたところ。乙式浮立人生の源流の一つでもあります。これ、シンクロ。

今、これを書いてて、唐突にひらめいた。

筑後のハイソな武士たちと伊勢の太神宮の荒木田守武との間に何らかの交流が生まれ、その結果として、橋爪鑑実は荒木田守武の影響を受けて、後に俳諧会を開催した、というのが先日のとんでも仮説だったのだが、ひょっとして、交流の結果として、荒木田守武は俳諧の着想を得た、という仮説は成り立たないだろうか。

とんでも仮説:俳諧誕生物語。
荒木田守武は筑後地方に来て、歓迎式で、破牟耶舞の歌とリズムに触れる機会を得た。「ヤーハンヤーイヤオワオンハー」と五音節と七音節の組み合わせで連綿と続く節回しは魂に響く。連歌とはまた違った味わい・・・う~ん。

かささぎの旗管理人記す:

うーん・・・それはないでしょう。
記録にありません。
記録といいますのは、手元にある『荒木田守武』年譜。
これがすべてとはおもわないが、想像するだに「そりゃないだろう」と思います。
伊勢宮のねぎがどんな生活をおくっていたか、ちょっと引いてみますと、こんなかんじです。

15才のとき、亡くなった外祖父の代理で十禰宜に任じられる。
そして、
17才からはもう、じっさいの「ねぎとしてのいのりの仕事」がばんばん入ってくる。
それはこんなことばで書かれる。引く。まんまじゃなく、かささぎのわかりやすいことばに変換する。
「延徳元年1489、守武17歳、1月、ニ星合のため七日間の御祈を命ぜられ、内宮十人の禰宜が連署して奉仕した旨を言上する。
同年十禰宜のひとりが欠け九禰宜になる。その九人連名で、宇治の一乱で疲弊したため、新禰宜を雇い入れる任料がないので、どうかご勘弁くださいという願書を出す。十二月にはまた内宮禰宜連名で今神明破却等を願い出る。」

「永徳三年、十九歳、守武、母の42歳の厄年にあたり、祈念法楽のため毎日発句を詠む。(荒木田守武集)。三月、一人死亡し八禰宜となる。六月、ニ星合のため七日間の御祈を命じられ奉仕。九月、一人退任により七禰宜となる。」

「明応三年、二十二歳、三月、流星のため七日間の御祈を命じられ、奉仕する。五月、地震のため七日間の御祈を命じられ奉仕する。五月、変異・地震のため御祈を命じられ奉仕する。七月、炎旱(炎暑と旱魃)のため御祈を命じられ奉仕。十月、ニ星合のため七日間の御祈りを命じられ奉仕。」

「明応四年、二十三歳、(先に引いたことですが、)いすゞ川氾濫により兄とともにかなりな距離まで下流にながされるも助かる。それは八月八日。ついで九月二十六日、宗祇選の『新撰つくば集』に兄とともに一句づつ入集する。」

このあたりから文藝関連のできごとが多くまじりだす。
はじめて連歌のことばがでてくるのは、

「明応八年、二十七歳、荒木田守兼、守保らと一座連歌を興行する。(伊勢神宮神官連歌の研究*)」

長くなります。疲れたので、(つづく)。

伊勢神宮神官連歌の研究*・・・奥野純一著・
            昭和五十年発刊、日本学術振興会

↑の本をかささぎは読みたい。
なぜなら、乙四郎の説がほんの少しでもかすっていれば、つまり、真実の周縁にあるのなら、このような研究書の資料のどこかに、ほんのささいな事実のきれっぱしくらいは探せるかもしれません。それに、神官連歌ということばから、ひょっとして、豊饒美濃守というのは、みのりのかみ、御法の守で神官だったのではないかなあとも思えてきました。こんなふうに素人はなんにもとらわれませんから、おもしろくっていいよね。
ちなみに、近年の朝顔八月八日の俳句大会に招かれる俳人のお名前の筆頭は、なぜかいつも鷹羽狩行氏なのはなんでじゃろう。

追伸

つぎの漢文を訳せ。

而自橿日宮南到八女県、航海遷干鷹尾宮

かささぎ訳:

じんぐう皇后は、(なびかなかった)たゆつひめを討とうとして、香椎の宮から南へ下り八女つあがたへ行き、そこからさらに干潮の川を航海し鷹尾宮へでる。この、「航海遷干」ということば。なんだろう・・・。かささぎのあたまに、海へいったんはそ知らぬ顔で出た舟が、そこから干潮のときを見計らって川をさかのぼってゆくイメージが浮かびました。戦争にそういう策略は必要だったと思われます。無駄のない漢文表記に、まるでイワイが背後からヤマトにうたれたときのような緊迫した雰囲気を感受します。

漢文は俳句にどこか似ている。
漢字と漢字の隙間をうめるのは、イメージだけです。
この文章、プロはどう読んでいるのでしょうね?(検索でなぜ出ないの)

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コメント

遷干

「出自幽谷、遷干喬木(ゆうこくよりいでて、きょうぼくにのぼる。※うつるとも読む) 」(詩経「伐木」全18行中2行目)
ウグイスが深山の暗い谷間から飛び立ち高い木に移ることにたとえて、学問に励み立身出世をすること。
「依鳳勅初遷干陸地、是今太敷立場也」(雲州日御碕社記)

それにしても、鷹尾宮は神功皇后以降の三代を祭神としているのに、それ以前から鷹尾宮があったとは不思議です。

へえーーー。

なまえにはりつけたひとのところとその周辺のいくつかをうろうろしてた。確実に古神道の知識が必要。かきそびれたけど、守武は24歳のころ飛鳥井雅親の家集を書写する。とあります。しらべたら、『亜槐集』あかいしゅう。という家集がある。でも、なんでこのひとなんだろう。あかい。閼伽井。アラビアのロレンス、やっとみた。アカバ陥落。閼伽場陥落ね。

天文の頃、伊勢神宮はたいへんな財政難で存続の危機に。
こんな記述を見つけた。(名前貼り付け参照)
=======================
此度の用脚は従前の如く上よりの下行の形式を執るものでなく、神宮側の直接交渉によって得られたものである事は、此間に於ける神宮側の積極的な対外活動とその成果を物語るものである。天文十一年十月廿六日荒木田守武より竹田我得に与へた書状の一節は、此の事情を明かにしてゐる。「内宮御遷宮御沙汰候へと都へ毎々注進申処 御大儀之由承 仰一禰宜何様にも調法可仕承候間 江州永原と申方を頼候 其も料足一度渡候いて去卯月二日御殿造立候へ共 于今御遷宮御延引候 重々注進申候処 十一月下旬かた可有遷宮候哉定候かくれ有べからず候 京都さへ御大儀候事勝手のみ御座候 其方ひろく御座候きこしめし分られ御合力有様に何様御かたへも御物語頼入候・・・」
=======================

とんでも仮説のように、とても七支刀を購入するどころの台所事情ではなさそう。しかし、神宮側があちこちへ寄進願い行脚に出向いたかもしれない。荒木田守武が九州入りしていた可能性はあるかも。

時代は違うが、次のような文献もあった。シンクロ。
・豐後風土記:半紙判寫本。安政五年。橋爪太神正澄。
・豐後風土記:寛政十二年荒木田久老校訂
(伊勢の荒木田久老神主校訂鼈頭して印行せられし也)

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