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2008年12月 7日 (日)

倭王=イワイ説 乙四郎語録9

八女戦国百首和歌『夏日侍』

とんでも解釈 part 7

          竹橋乙四郎

音読みには漢音、呉音があるが、漢音は7、8世紀に導入。それ以前は呉音。
【倭】
音読み
呉音 : イ(ヰ)、ワ
漢音 : イ(ヰ)、ワ
【王】
音読み :
呉音 : オウ、ワウ
漢音 : オウ、ワウ

王を[ワイ]と読むようなことはネット辞書には書いてない。倭王=イワイ説は眉唾。
だが、露語を学習した頃、「日本語の母音のウは他の母音より短く発音されがちなので露語のウは意識的に長めに発音するといい」と学んだ。短く読まれたウが他の音に変化することはありがちなことかも。「行こう!」→「行こい!」みたいに。

ところで、巌の宮様も、その従兄弟の仲哀天皇も、その親の日本武尊も、仲哀天皇の配偶者の神功皇后も、実在性が疑われる伝説上の人物。仲哀天皇は(熊襲討伐のために神功皇后とともに筑紫に赴いた際に)筑紫の香椎宮で(神の怒りによって)死に、その子、応神天皇(西暦270~)が即位している。応神天皇は、神功皇后の三韓征伐の帰途に宇瀰(福岡県糟屋郡宇美町)で生まれたとされるが、親の実在性はともかくとして、本人の実在性が濃厚な最古の天皇。なお、応神天皇と次代の仁徳天皇とは同一人物説があるらしい。
不思議なのは、なぜ、末っ子とはいえ、成務天皇の子である「巌の宮様」が正統な女王として後継せず、成務天皇の兄弟の子が即位したのか。しかも、架空の人物くさい。

三    霞
朝夕に霞たなびく小松原
きみがちとせの春ぞ久しき


古事記の応神天皇の条に、春山霞壮夫(はるやまのかすみをとこ)なる神様の話がある。一人の女神をめぐり、兄の秋山之下氷壮夫(あきやまのしたびをとこ)と賭けをした。弟の「霞」が勝って女神に子供も一人できたが、兄は賭けの約束を破った、というお話。

小松原
「産舎岬」という神功皇后が三韓征伐の帰りに応神天皇を産んだ産所に関する続風土記の記述。
「此地、海辺の出崎なり。其中にむかし大松ありしとぞ。近世まで朽のこりて、小松など其上に生せりといえども、今は其朽木さえなく、只小松原となれり。」
ここには「本宮八幡」神社がある。八幡の本宮?
「当社は豊前国宇佐郡八幡を勧請す。故当所を本宮と名つく。すべて宇佐を以って各八幡の本宮とす。一云、本宮八幡は國中神社多き中にも、とりわけ霊験厳重なる神社也、則八幡宮(応神天皇)御誕生の地と申傳ふ。」

ここでまた、大胆とんでも仮説。
成務天皇の後継の天皇は、実はその子「巌の宮様」で、「巌の宮」は事情あって千年川付近の「八苦」の地で卑弥呼として君臨した。その後継天皇は、卑弥呼の実子(すなわち、当然、福岡生まれ)の応神天皇であったが、後世の者が、成務天皇と応神天皇の間を繋ぐ天皇が筑紫の卑弥呼では都合悪い事情があり、日本武尊、仲哀天皇、神功皇后という架空の人物をでっちあげた。

とんでも超訳
(兄に欺かれた春山霞壮夫みたいな経緯があるものの)正統な血統として応神天皇が生まれた所
筑後川域に築いた正統な君主よ永遠に

注記:

とんでも仮説の年齢考証
第13代天皇の成務天皇は西暦84年生まれ、卑弥呼は175年頃の生まれなので、とんでも仮説が正しければ「さざれ石の宮様」は成務91歳の時の子ということになる。38番目の末っ子なので高齢の時の子であるに違いないが、ちょっとね。生年に誤りがあるのでしょう。でなければ、成務天皇の没年は西暦190年なので107歳まで生きたことになる。
いずれにせよ、没年の15年前ころに「さざれ石の宮」が生まれている。御伽草子では、「さざれ石の宮」は14歳の時(成務天皇の没年ころにあたる)に転機が訪れている。
第15代天皇の応神天皇は西暦201年の福岡生まれ。とんでも仮説が正しければ、卑弥呼の26歳の時の子。応神天皇の即位は西暦270年。卑弥呼は248年頃に没しているので、仮説が正しければ、22年の空白期間が生じるが、仲哀天皇の在位も没年の西暦200年までなので、仲哀天皇と応神天皇の間にも70年の空白期間(神功皇后摂政)がある。そもそも仲哀天皇は父日本武尊の没後36年目に生まれている。でっちあげが雑。
なお、応神天皇の後継の仁徳天皇の皇后は「磐之媛命(いわのひめのみこと)」。

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コメント

一萬田鑑実(いちまだ あきざね)物語
「朝夕に霞たなびく小松原 きみがちとせの春ぞ久しき」はじめ、八女天文百首に多くを残している鑑実について、その哀しい一生を追体験。

一萬田氏の不動産、小牟礼城と鳥屋山城(鳥ヶ鼻城?)の城主。
大友宗麟に仕える。
天文19年(1550年)の菊池義武討伐に功績。
この頃、橋爪に改姓。橋爪美濃守鑑実。
天文22年(1553)弟の一萬田鑑種が高橋に改姓。
弘治3年(1557年)の秋月文種討伐に功績。
永禄11年(1568年)に弟の鑑種が謀反を起こしたが、宗麟に味方し鑑種討伐。
永禄12年(1569年)毛利軍と戦った多々良浜の戦いでは息子の鎮実と共に功績。
天正6年(1578年)の耳川の戦いに功績。加判衆となって宗麟の側近として活躍。この年、大友宗麟はキリスト教の洗礼を受ける。
天正14年(1586年)からの島津氏との戦い(豊薩合戦)で、息子の鎮実が島津氏に寝返ったが、大友氏方に留まり頑張った。
しかし、妻が大友宗麟に寝取られて、宗麟のもとに逃げられた。
天正16年(1588年)自刃。

「鑑実は大友家の重臣を招いて俳諧会を行っている。20年ほど前に彼らの詠んだ歌が記録された巻物が発見されたが、なぜか一度も公表されていない。」(Wikipedia)

これって、八女天文百首のこと?

おつしろう
こないだから聞こう思いよったばってん
どっから調べてきたん
解読者がいなかったから発表が出来なかったのよ
私が初めて見た時には半分くらいしか読めていませんでした
くずし字辞典を穴のあくほど見て ああでもないこうでもないと考えて 読んだ
だけどね!
八女市は発表してくれなかったの
なぜか 今ならわかるよ
あんたを待ってくれてたんだと

か~照れ~

いま 発掘した
あす 送る

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