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2008年12月21日 (日)

暦感覚宗教感覚、パンク!  乙四郎語録23

八女天文百首和歌「夏日待」をよむ

     竹橋乙四郎

八女天文百首は天文24年の奉納なのに、天文12年の干支の記載。謎深し。
古田氏の九州王朝説に推古紀の「12年のずれ」問題というのがあるそうです。
推古紀の“日本”の記録が12年ずれていると仮定すると、大陸側の記録との辻褄がぴったり合うという古田仮説。
推古天皇といえば、天皇号が初めて用いられた“日本”の君主。いわば日本の元号、暦の始まりの頃。こんな時に実年次が12年(干支の一巡)もずれているとしたら大変なことなので、古田仮説は総スカンを喰らっています。
なお、“九州王朝”には、それ以前から独自の九州年号があったとか。

とんでも仮説:
九州の知識人の間では、九州王朝以来の伝統を重んじる裏文化が残っており、大和王朝以降に使用を強制された元号を用いる際にも、レジスタンスとして九州王朝時代に用いていた12年ずれの干支を小さく付記した。

▼「遷干」使用例

「出自幽谷、遷干喬木(ゆうこくよりいでて、きょうぼくにのぼる。※うつるとも読む) 」(詩経「伐木」全18行中2行目)
ウグイスが深山の暗い谷間から飛び立ち高い木に移ることにたとえて、学問に励み立身出世をすること。
「依鳳勅初遷干陸地、是今太敷立場也」(雲州日御碕社記)

それにしても、鷹尾宮は神功皇后以降の三代を祭神としているのに、それ以前から鷹尾宮があったとは不思議です。

かささぎの旗管理人:

奥野純一http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-okuno-junichi-isejingurengano-kenkyu.htmとその周辺のいくつかをうろうろしました。法楽という言葉の意味やいろいろが入ってきました。

手元に一冊だけある資料に、守武は24歳のころ飛鳥井雅親の家集を書写する。とあります。あすかいまさちかには『亜槐集』あかいしゅう。という家集がある。でも、なんでこのひとなんだろう。あかい。閼伽井だから?読んでいませんのでカンですが、この題の音のもつことたまがだいじだったんだろう。

『アラビアのロレンス』1巻をdvdでみた。
アカバ陥落。閼伽場陥落かも。

・・・と、しゃれで書いたのですが、本当だった!
アカバのあかは水のアクアから来てて、もとサンスクリット。
おとこの前厄はかぞえ24だから、守武の飛鳥井雅親の家集書写は厄払いの意味があったのだと思う。水は冬ではじまりの五行。芭蕉の冬の日とおなじで玉振りの法楽。てことは中東らへんにのこることばにある思想とおんなじではないですかい。
それと、なぜ十人なのかと(神宮の禰宜の数。いちばん偉いのは一のねぎで、もりたけは最終的に一の禰宜になっている)おもっていたけど、「太神の布告」、神を十と表記していました。この本、なんともいえない。わからん。太神とかいて、なんてよむのだろうね。おほかみ。大神とどうちがふ。本にはおおかみとるび、おほかむつみ神とも書いてる。そのおほかむつみがわからん。つみは罪ではない、積みである・・そうな。さっぱりわからんとです。でも、この本を世にだすのはきっとたいへんだったろうなということはわかる。昔でいえば神降ろし神示の膨大なやつを、戦争がおわる前年に受信し、書き留めたのが岡本天明。それは本人にもわからないものだった。それを解読して世に出す作業のおわりのほうの過程で、橋爪一衛という人がかかわっている。この本をみてもどうかかわったのか余りわからない。前書は古神道研究者・菅田正昭、あとがきの一人は天明の妻の岡本三典(みのり!ちなみにかささぎはこの名前さいきん見たと思った。安本美典、しかし彼はびてんだって。みのりじゃないのか)そして監修者・神示御伝人として。という文章を書いている人が橋爪一衛って人です。故人みたいです。この人も岡本とおなじ命じ大学。明治大学。ああそういえばかささぎは今年行った。ここの詩根幹。紫紺館。わけわからんうちになにかにくみこまれてしまってるような。冗談じゃない。

かささぎの夫はとても信心深い。その母上もまた。
ところがかささぎはぱんくしとるとです。
理由はじぶんでもわかりません。
ただただなにもおがみたくないしまつりたくない。
家にいくつのおまつりどうぐがあるとおもいますか。
にけんぶんです、にけんぶん。
ばちあたりなかささぎには天罰がくだるかもしれんとです。
でも、アラビアのロレンスの言ったことばを信じる。

Nothing is written.

運命は、ない。

▼ 竹橋乙四郎

天文の頃、伊勢神宮はたいへんな財政難で存続の危機に。
こんな記述を見つけた。http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/ktshk/sotsuron3.htm

=======================
此度の用脚は従前の如く上よりの下行の形式を執るものでなく、神宮側の直接交渉によって得られたものである事は、此間に於ける神宮側の積極的な対外活動とその成果を物語るものである。天文十一年十月廿六日荒木田守武より竹田我得に与へた書状の一節は、此の事情を明かにしてゐる。「内宮御遷宮御沙汰候へと都へ毎々注進申処 御大儀之由承 仰一禰宜何様にも調法可仕承候間 江州永原と申方を頼候 其も料足一度渡候いて去卯月二日御殿造立候へ共 于今御遷宮御延引候 重々注進申候処 十一月下旬かた可有遷宮候哉定候かくれ有べからず候 京都さへ御大儀候事勝手のみ御座候 其方ひろく御座候きこしめし分られ御合力有様に何様御かたへも御物語頼入候・・・」
=======================

とんでも仮説のように、とても七支刀を購入するどころの台所事情ではなさそう。しかし、神宮側があちこちへ寄進願い行脚に出向いたかもしれない。荒木田守武が九州入りしていた可能性はあるかも。

時代は違うが、次のような文献もあった。シンクロ。
・豐後風土記:半紙判寫本。安政五年。橋爪太神正澄。
・豐後風土記:寛政十二年荒木田久老校訂
(伊勢の荒木田久老神主校訂鼈頭して印行せられし也)

ここまで編集して、かささぎの気づいたこと。

引用元が干すという字と于(う。ここ・に・ゆ・く)の字を間違っている。

うはね‐かんびき【××撥ね干引き】
うはねかんびき」を大辞林でも検索する

漢字の「于(う)」は下をはね、「干(かん)」は下をはねないで、まっすぐに引くということ。字形の区別を覚えるための語

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コメント

筑紫へ行った人をみつけた!
それは宗祇。本を出している。
こんな有名な連歌師が。筑紫なんぞへなんでまた。
と思うよね。呼ばれていったのかな、それとも広めにいったのかな。そのどっちもでしょうね。
この連歌師を芭蕉は尊敬していた。
岐阜には宗祇水があります。
美濃守と関係ないだろうか。宗祇の句風は連歌そのものですけど、山崎宗鑑は俳諧。インスタントで調べた。じゃ、十分ありうるってことになる。

飛梅
伊勢神宮の宮司、渡会春彦(別称、白太夫)は、菅原道真が左遷(西暦901年。右大臣から筑紫国太宰員外帥へ)される折、形見に秘蔵の梅と松の鉢植えを託された。
<東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ>
 一年後、道真が白太夫に托した松が枯れた。管公の身を案じた白太夫は、梅鉢をかかえ、農夫を装って道真のもとへ。会った事が知れると罪に問われる白太夫の身を案じて、道真は「都の梅が一夜のうちに飛んできた」と周りの者に告げた。
これが、伊勢神宮からはるばる太宰府まで飛んで行った梅の伝説。
そして、荒木田守武が天文9年(1540)に出したのが、独吟千句集「飛梅の巻」。
<飛梅やかろがろしくも神の春>。
 この天文9年というのは、山崎宗鑑が没した年。宗鑑の句に<うずききてねぶとに鳴や郭公>というのがあるが、「卯月が来て声太く鳴いているのはホトトギスですよ」という意の他に「根太(=腫瘍)が疼いてきて泣いているホトトギスさんよ」という、親しい荒木田守武の病気(根太)を案じたものでもあるとか。1528年から讃岐国に籠もっていた宗鑑と交流が深かったということは、守武が宗鑑を慕って西方へ旅することもあったのかも。宗鑑はできもの(ヨウ)を患って香川県で亡くなっている(辞世は<宗鑑はいづくへと人の問うならば ちとよう(ヨウ)がありてあの世へといへ>)ので、宗鑑の見舞い(あるいは葬儀)のために香川県へ出かけ、そのついでに太宰府へ行った可能性もあるのでは。

挿絵入り、宗祇と守武の作品
   ↓

そのうたは、そういう背景があったの。へえ。しらなかった。よくおぼえていないのですが・・、蝶枝にうつるとみえて落花かな・・みたいな句。これも守武だったでしょうかね?四年前八女市制50周年記念で高橋睦郎先生が講演なさったとき、この句をとりあげて、これが西洋詩のイマジズムに影響を与えた。とおっしゃいました。エズラ・パウンドらの。
ところで、名前貼付資料、よくわからんのですが。何がのってるの。

貼り付け資料は、いちばん下の絵の右二つ。

さきほどTVQの「7大歴史ミステリーSP!!」濃姫の没年のくだりで“慶長17年壬子7月9日”とあった。年と月日の間にその年の干支を表記。中世の併記法らしい。
このような、元号年と干支とを併記して記年した例を探したが、ネット上にはあまりない。ネット上で検索可能となるためには、誰かがキーボードに打ち込まなければならないわけで、残念ながら考古学的資料の多くはネットの外に存在している。
数少ない併記例のひとつに、青森県の田屋熊野神社の例があった。「文明18年太才甲午8月21日」の記年銘で、なぜか干支が間違っているとある。
文明18年の干支は甲午ではなく丙午。甲午は12年前の文明6年の干支。青森県は九州王朝とは関係なかろうが、ここでも12年のずれ。偶然だろうか?

おお。それは偶然と呼ぶにはあまりといえばあんまりな。
青森ですよね。!!
たちまちたけのうちもんじょと、くぼたかおる宗匠の長髪長靴半ズボンスタイルと、ついでにぼんのむすめさん(あったこともないが)と、よく週刊誌にのっている、いきがみさんとよばれる青森のおばさん(うちの夫はなぜか彼女をみたら涙を流すのです。ふしぎじゃろ。感応性が異常に高い。霊人。異能の人。)が、いっきにだーっと連想された。はーつかれた。

前に言ったことがあるかもしれんけど、娘が嫁いだ家のご先祖は、太宰治と遊んでいたんだそうな。金木町の斜陽館を案内していただいた時、いろいろうかがいました。地元の人ですのでお尋ねすればいろいろな事を教えてくださると思う。もしつてがいるようでしたらご一報ください。取次ぎいたします。

藤氏家伝
12年のずれ、もうひとつ見つけた。
藤原氏の家伝書(鎌足伝、貞慧伝、武智麻呂伝の三点が伝わる)で西暦760年前後に作られたもの。
鎌足の生年。藤原家伝によれば、中臣鎌足大臣は豊御食炊屋姫天皇こと推古天皇34年、甲戌の年に藤原の地で生まれる。
「大臣以、豊御炊天皇卅四年、歳次甲戌、生於藤原之第。」
推古34年は丙戌のはずなのに、12年前の推古22年の甲戌を表記。

ぼん。あなたはふしぎなひとだねえ。
なんともいえないふんいきがあります。
太宰治、だいすきです。だいすきでした。過去形だけど過去形はいまにつながってる。ありがとう。

おつしろう。光脈をほりあてましたか。すげ。
でもそれはなんとよむのですか。食い意地がはっているような姫の名前。とよみけかしぎやのひめ?
名前、幾つも同じ人が持ちすぎ。ついていけん。

私は「潤滑油」です。服部先生からいわれました。

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