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2008年12月29日 (月)

乙四郎語録   対話篇2

八女戦国百首和歌「夏日侍」を読む

      竹橋乙四郎

▼ とんでも冗談的シンクロ

邪馬台国諸説の中に宮崎県の古墳群が。
西都原古墳群。西方に男狭穂塚(おさほつか)、女狭穂塚(めさほつか)古墳。
(これらは九州最大の古墳で八女の岩戸山古墳はそれに継ぐ。)
東に新田原古墳群、茶臼原古墳群。南に本庄古墳群。
この本庄古墳群がある宮崎県東諸県郡国富町には神社が25もある。
筑後地方にも神社がやたら多いが、ここも辺地にしてはやたら多い。
飯盛神社、日吉神社、菅原神社、大土神社、宇津野神社、八幡神社、川上神社、諏訪神社、金刀比羅神社、三島神社、大原神社、八幡宮、稲荷神社といったメジャーどころ神社が居並ぶ。
中に源王神社というのも。
過去、いろんな有名人が立ち寄り、聖地が創られていったのであろう。
そのほか、宮崎県ローカルのチェーン神社など、それぞれ由来がそれなりに推定できる神社ばかりの中、ふたつ、独自の名称の神社がある。
ネット検索してもここだけ。神社ゆかりの祭事も伝承されているので、国富町内での位置づけは高い。
その、ふたつの神社とは
「嵐田神社」と「森竹神社」
嵐田森竹
荒木田守武が立ち寄った?

▼ 世の中百首  (俳祖荒木田守武)

この百首をざっと見たくなって、京都大学のデジタルライブラリに行ったが、流し字がほとんど読めない。すべての歌に「世の中」が織り込んである模様、そのくらいしかわからないが、いずれにせよ、「世(の中)」は守武を意識する際のキーワードかも。
嵐竹の槿の歌にも「世」が織り込んであるが、他の戦国歌人はどうだろう。「憂世」などいくつかあるが、覚元の歌にこんなのがあった。覚元は、難波津の梅の花を詠んだ方。

六十四  神楽     覚元
祈てふ事はおろかにあらし世に
しらゆふかけてうたふ御神楽

あらし世に、というのがよくわからない(他のところもよくわからないが・・・)
そもそも仏僧(みたいな名前の人)が神楽を詠むのが変、というか妙に覚めている感じ。
「憂世」みたいな語は馴染みだが、「あらし世」という語はないのではないか。
「祈てふ事は、おろかにあらし」と前の語に掛けた意と、「あらし、世にしらゆふかけてうたふ、御神楽」と、後段の主語としての「嵐」。違うかっ。

資料:絵入り世の中百首(東京学芸大学デジタルライブラリ)。少しは読める。
   

http://library.u-gakugei.ac.jp/orai/f023_003.html

▼ かささぎの旗管理人

白木綿かけて、というのは、今で言う紙垂(しで)をかけて。の原型だろう。ちなみにかささぎの変わり者の夫はこの幣をつくるのが得意。何流かはしらん。

いのりちょうことは愚かにあらじ世に
白木綿掛けてうたふ御神楽

かささぎはこう読んだが濁点はうたなかった。
嵐世とかけているのがみえたから。
ちなみに、おつしろうが引いてくれたサイトの高良山物語の、元寇のところをよんでください。元が攻めてくると色めきだって、まずなにをしたか。これが傑作。というか、これが神道なんだとハッときづかされるのですが、太神楽修行されんことをどうのこうのと書かれている。
太神楽とはなんぞや。と調べましたとも。
なんのこたなかとです。神楽を大々的にやるってことで、うたえやおどれやのたぐいです。
最前線で元寇をむかえうつのは九州の筑後勢だったことをおもえば、非情に切ないはなしじゃございませんか。
昔の人は何をば考えておられたのかと、一瞬目が点になったかささぎでしたが、国家存亡のとき、祈るより他にせんなしとて、神話時代の日蝕のときも似たようなことをしたことをおもえば、わかるような気もするのでした。

▼ 竹橋乙四郎

この背景説明で、覚元の歌がすんなり頭に入りました。
それにしても高良山物語、すごい資料を掘り当てたものです。
地道に古文書を読み解いた汗の結晶なのでしょう。ネット情報のみに頼る自分自身が情けなくなる。
高良山物語には八女郡串毛村田代に神籠石があると書かれています。ここだけにある情報。串毛村というのは黒木町の前身の村のひとつ。
同じく、地道な努力が感じられるサイトを発見しました。山川町の郷土史研究家の故松尾龍城氏のライフワークによるものだそうです。
ここには、ヤマトは「山内」に対する「山外」が転じたものとあります。

   

http://f27.aaa.livedoor.jp/~mdanbo/YAMA001.HTM

芭蕉研究者のページで、あれこれ調べている(らしい)のがありました。乙には、基本的素養の絶対的欠如で、ほとんど内容をフォローできませんが、関連部分を引用するとこんな具合です。
=======================
「蔦植えて竹四五本のあらしかな」〈野ざらし紀行〉があります。この「蔦」と「竹」はこれも「大和国」に飛び「葛下(かつげ)の郡竹の内」「竹のおく」「庭上の松」にいたります(野ざらし紀行)。またこれは「植え」で須賀川に行きますが、竹で「荒木田」です。これは「閑人の茅舎(ばうしや)を訪ひて」という前書のもので、この「閑人」は〈笈日記〉では「盧牧」です。盧牧は「伊勢の人なり。其姓氏を知らず」となっています(芭蕉全句)。これは一応、大淀三千風かもしれません。「其」=「薗」があり「薗姓で氏を知らず」とも読めます。荒木田は薗田と二つの氏姓があるのが、迷わされるところでもあり、解釈の広がりを促すものでもありました。
=======================

   http://www5f.biglobe.ne.jp/~inou/newpage40.htm

▼ かささぎの旗管理人

降参。世の中はひろい、ひろすぎます。
その大量にある資料の中から、なにを拾ってくるのか。
これは運であり、百首和歌のメンバーの一人の名前「頼運」はすごい命名だと感動します。時代は、戦争を禁じられている世であるありがたいげんざいと、いくさにあけくれるしか道がなかった非道い時代とで、正反対なのでありますけども、なぜかどこか相通じる一本の細い糸がみえてくる。それにきづくのは実におそろしいことであります。

ところで、守武翁の世の中百首は、伊勢論語として親しまれている・・と紹介されていて、どれもが説教調の句ですけど、つぎのは一つだけ、俗情がでてる。返し歌まであるのはこれだけ。つい本音を吐いたのでおおっと、と返しをつけたようなかんじ。笑
91、世の中に銭だに持たば芸能も
   いらぬと我は思ふべらなり
返し)世の中に芸能ありてその上に
   銭をば人の持たぬものかは
意味:
   二首で自問自答のうた。
   おかねがあったら、芸や才能はいりません。
   しかし、芸能があってその上お金があったらどんなにいいだろうか。

この歌をよんで、かささぎは、今年聞いた矢部村の椎窓猛先生のおはなしにあった、「恒心と恒産」のはなしを連想しました。
恒心あるところに恒産あり。

この歌と、もう一つ、おわりから三個目の歌
98、
世の中は身の上を知れ知れや知れ
知れや世の中知れや世間(よのなか)

もう自分でも世の中はってフレーズに飽き飽きしてやけっぱちになって連呼したかのようです。

▼ 竹橋乙四郎

神籠石があるという、八女郡串毛村田代。調べたら、姫御前岳の麓でした。広い地区なので、どのあたりが神籠石かは検討つかず。

▼ かささぎの旗管理人

田代。東妙寺らんと奥八女のグリーンピア黒木の重箱磐へ行ったとき、帰りに脇道から田代へ抜ける近道を通りました。そうしたら、たしかにそういう案内が出ている箇所があった、ような。ちょっと停めてくれ、ともいえず。でもふしぎだなあと内心思って。初めて通る道だった。知らないことばかりだ。ふるさとなのに。

▼ 追って、最後に かささぎの旗管理人記す。

朝いちばんで、何かが気になり、それは守武の兄のひとりが自殺をしている。
その件について、守武が書いていた。と、それを確認したく、乙四郎がひいてきた芭蕉の深層意識をさぐる頁をだいぶ探した。しかし、そこではなかった。

「荒木田守武」にでていました。それも、世中百首!

この句です。解説まるごと引用しておきます。
うしろにある守武のきもちはわかりませんが、厳しく激しいものを感じる。

28 
   世の中は命を棄つる人の上に
   ほうけぬもあり ほうくるもあり   守武

人の死に方にも、道理にあう命の棄て方と、ぼけてつまらぬものがある。
(守武の兄守晨は内宮長官一の禰宜になったが、神宮守護のため自殺している。)

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コメント

荒木田守晨(もりあさ、もりとき)の手掛かり
伊勢内務長官。守秀の五男。守武の兄。宗祇門人。詠歌が守武とともに『新撰菟玖波集』に入集。永正13年(1516)歿、51才。「永正記」作者。

木村徳宏(専門分野 神道学 神道史 神道思想史 神道祭祀 神社祭式)の論文
学術論文
荒木田守晨について-その生涯・学統を中心として- 平成15年10月01日 中世後期の内宮祠官・荒木田守晨の生涯について考察し、従来学説の分かれていた名のりを「モリアサ」であると確定した。また、彼に関係する年表を作成すると共に、彼が生涯注力した神道書の書写について現段階に於ける全容を解明して目録を作成した。また、これらの伝写と相承の過程を照射して彼とその前後の学統を明らかにし、彼が果たした神道史上に於ける役割と位置付けを試みた。(A5版、総45頁)
【単著】
『神道史研究』51巻3・4合併号
編者名及び共著者名:神道史学会
掲載頁:81-125頁
荒木田守晨について 平成16年03月31日 中世後期の内宮祠官・荒木田守晨の生涯について基礎的研究の成果を発表した。特に学説の分かれていた「守晨」の訓について考察を加えると共に、これまであまり知られていなかった彼の幼名を史料に拠って紹介した。また、彼の自害の理由についても基礎的な考察を加えた。(B5版、総2頁)
【単著】
「神道学会会報」
編者名及び共著者名:皇學館大学神道学会
掲載頁:10-11頁

さすがですね。ほしい情報がささっと手に入ります。
なにもいわなくても、ちゃんとでてくる。
ありがたい。こころのともよ。ううう。
検索では、なまえのよみは「もりとき」になっていました。
自死のその、理由が知りたい。
よみたいものです。

ブログ記事として、守武、兄の死。という題でさきほどから、年譜をうつしていますが、なんどやっても消えた。やめておけ。というサインですね。
この年、永正十三年十一月には六日前に違う兄(長官、一の禰宜だった)もなくしている。ということは、それに関連する死だったか。調べたわけではないが、年譜をみていると、十人のねぎに欠員が生じると新しい禰宜をいれるが、それに連られて一位づつ位があがる。年譜には書かれていないが、この長官だった兄の死でもりあさがトップになったのだろう。それはそんなに重大なことだったのだろうか。
『神官守護のために』みずからの尊い命を棄てる。それはどういう意味があったのだろうか。
また、母はこのふたりの愛する息子の死の四年後になくなっている。
この世の中百首は、ふたりの兄たちの死の年から九年後、九月の庚申の夜一夜で仕上げたものです。

九男だとする守武、九に縁を感じていたのか。

さあ。もちをついている父母の手伝いをしますかね。

数え日やいつまで父母の娘なる  恭子

伊勢神宮禰宜の心的背景
永正9年(1512)11月19日に伊勢神宮で大火災。京都御所レベルで官民あげての大騒ぎとなり、その再発防止会議で、「皇太神宮の鬼門の方向に当たる篠島神戸の里に「火度見善光寺如来」を祀り祈願すれば後世難を逃れるであろう」という結論が出され、永正13年、知恩院に命じ、伊勢神宮の古材を使って篠島に西方寺が建立された。
神だのみなのか仏だのみなのかまったくもって良くわからない防止策(さすが、元寇対策に神楽を練習せいと命じた国に恥じない意思決定!)であるが、この間、禰宜たちがいわれのない誹謗中傷、屈辱に塗れたことであろうことは想像に難くない。

竹橋乙四郎先生のおっしゃるとおりかもしれません。
今、嵐竹のすべての歌を拾っていたら、「春駒」「五月雨」「立秋」「槿(あさがほ)」、「来不逢恋(来て逢はざる恋)」の五首ありました。
そこで、「世」を荒木田守武のキーワードをすれば・・、という目で読み直しますとき、ハッと気づいたのは、守武の辞世の一句であります。守武忌は、朝顔忌というではありませんか!

朝顔にけふは見ゆらむ我が世かな  守武

祖(おや)を守り俳諧を守り守武忌   高濱虚子

何がいいたいのかといえば、嵐竹の俳号には、乙四郎が指摘したように、俳諧師としての匂があるということです。まだ何も資料はございませんが、これは確かな確信であります。

四十六    槿(あさがほ)  嵐竹

あだなりと見しは残らじ槿は
世にはてしなき秋ごとの花

この一首はどこかに荒木田守武を匂いづけしている。

嵐竹の立秋の歌、いいよね。乙としては春駒の歌も好きです。
まぐれにたまたまいい歌を詠む人であれば無名のままでしょうが、いい歌をたくさん詠む人なら後世に名前が残ってもいいはず。ところが、「嵐竹」は乙式検索エンジンにまったくひっかからないのです。嵐竹はこの場限りのペンネームじゃなかろうか、というのが、とんでも思いつきの始まり。もし嵐竹=荒木田守武なら、「旅する太刀」の謎解きに夢が膨らみます。九州から宝刀を持ち帰れば、伊勢の禰宜の形勢も持ち直せましょうぞ。
八女百首のコペルニクス的転回。
コペルニクスが『天球の回転について』(地動説)を出版したのは1543年(天文12年癸卯)。

芭蕉と伊勢との関係に着目し、笈の小文の解説文を読んでいたら、この句が出てきた。

裸にはまだ衣更着の嵐哉

伊勢神宮に奉納された句だとか。
この句の解説文。
「嵐は「三十日月なし」句にも出てくるが、伊勢は「神風の伊勢」と言われるように、嵐に縁がある。」
と。
芭蕉の伊勢参り
   ↓

>なんのこたなかとです。神楽を大々的にやるって>ことで、うたえやおどれやのたぐいです。

難しいので斜め読みだけど一応読んでいます。

上の部分だけど、母の死に際して思いあたることを書きます。
葬儀の終わった夜、妹と母の部屋に寝ました。
母の部屋にあったたくさんのスナップ写真を見て、母親の葬儀の夜と言うのに不謹慎な爆笑の夜をすごしました。
母の写真と言うのがことごとく踊ってる写真、踊ってるか歌ってるか笑い転げてるかの写真ばかりだったのです。
どこかチューリップ畑に遊びに行った写真でも、満開のチューリップの前で踊ってるんです。
しかも衣装まで持参して。
「まーた踊ってる!!」「これも踊ってる!!」「こんな格好して!」と言いながら大爆笑!
母は芸事が好きで婦人会や敬老会、運動会、○○創立記念なんていうと、近所の人集めて踊りを教えてふざけた踊りを踊っていたんです。
どうしてそんなに踊らにゃいかんとやろか!と夫や子供達にはあきれられる一生でした。

これは母に限らず、実家のあたりでは、花が咲いたと言えば飲めや歌えや、田植えがすんだといえば飲めや歌えや、田んぼが良く育ってるといえば飲めや歌えやが習慣でしたがね。

元寇の時でさえも踊っていた・・・と言うところに繋がりました(笑)
関係ないか?

またよなかじゅう母の部屋を引っ掻き回し、着られる服を物色してきました。
あとで、49日がすむまでは部屋をかき回しちゃいかんて言うよ、と叔母に聞かされどっきりしました。

元寇は、軍歌が好きになり、CD聞いたりしているうち「元寇」のメロディが大好きになりました。子供の頃どっかで聞いたメロディなので誰でもすぐに歌える曲です。

えーっさくらさん、「元寇」なんて曲があるんですかい。それはおもしろいです、おしえてください。
どこかできけないだろうか。
丁度、今「さまよえる倭姫」がどうしても引用できず、困ってしまって、はやさすらひめじゃないけど、あちこちさすらっていましたら(母が二階まで上がってきていやみったらしく神棚の榊を子にかえさせたりしてるのに、私にはこっちのほうが大事、目下緊急!)、古田武彦のホームページの「筑紫舞」を読んでいたところです。これは以前べつの本で読んだことがあった、西村こうじゅさいってひとが、肥後の菊邑検校って盲目の人から筑紫舞を習う、その話がとてもふしぎで、そのあとの私の知らないことも書かれていたので、つい読んでしまいました。
ここへもどり、あれ。さくらさん。
ちょうど、おどりのはなし!できるかどうか、わたしの引いた話をなまえにはりつけてみます。

えええええ。なんだなんだ。このむずむずは。
どっかで聞き覚えがあるのよ。
筑紫舞。そして、この西村山光寿なんてろ一族のこと。
なんだったっけ。誰からだったっけ。
仕舞の関係者からだったっけ。
ああ。むずむずしてしょうんなか。

せいこさん。おもいだして。
わたしね。きになるっちゃけど、新千年紀が始まるって年の元旦に岩戸山古墳の伊勢宮で、神事能「翁」をみたのですが、あれは梅若流かなにかでしたが、いったいだれのアイデアだったんだろうか。

筑紫舞
荒金氏の「九州古代史の謎」にあった。
友が一方的に貸してくれた本。

元寇の曲、ここで立派に聴けます。
名前にリンクしました。

一度は耳にしたメロディだと思うけど。

さくらさん。ありがとうございました。
元寇の局は耳にしたことがなかったけれど、勇敢な水兵という楽曲はメロディに聞き覚えがありました。30年前になくなった祖母が口ずさんでいたものです。なつかしくて胸が熱くなりました。祖父は昭和16年に戦死。海軍兵として激戦地沖縄で。遺された父は15歳、祖母は37歳でありました。祖父は明治34年うまれで身長180センチの大男だったとか。海軍さんの白い軍服がそれは似合う人やったと祖母が話してくれました。何十年ぶりかに祖母のことを、顔も知らない祖父のことを思い出しました。

えっ?seikoさん、「勇敢なる水兵」どこで聞けますか?おしえて。

リンク先にある紹介CDをクリックすると、CDのタイトル名一覧がありますが、このCDもっていたのに友人に貸したら戻ってこないのでもう一度買いたいと思っているくらい好きなのです、軍歌。

戦争中のものは、音楽も絵画もその当時の一級の芸術家を登用して作られてるのでなんでも最高にいいんです。

えっ?さくらさんが教えてくれたとこですよ。
元寇の曲を聴いて、その後、一番上の元寇をクリックしたら、敷島行進曲やら勇敢な水兵などの楽曲が表示されていました。そこで聞きましたよ~。笑

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