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2008年12月31日 (水)

乙四郎語録  とんでも対話篇4

八女戦国百首和歌「夏日待」をよむ

        

隠された郷土史、とんでも探検隊

▼  竹橋乙四郎       

とんでも楽しい

  ↓

http://www.ican.zaq.ne.jp/rekishi/episode15.html

▽ かささぎの旗管理人

私が引用した太田龍という人の本にもそれは載っていました。説得力があった。

「高良山物語」で、わからないのは、高良山にまつってあるという荒木田襲津彦(あらきだ・そつひこ)。この襲は熊襲を連想させるし、祖とも読める。伊勢神宮の代々の内宮神官が荒木田姓なのはなぜかとあわせて、どういう関連で高良山に祭られ、どういう素性の人だったのかを知りたい。五百年のあいだに失われたものの大きさよ。高木神社も高良山にありますよね。麓近くです。

追伸:古田武彦サイトで古賀達也というネイティブクルメリカンらしき人の

1『
玉垂命と九州王朝の都』

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga24.html

2『高良玉垂宮と七支刀』

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga25.html

3『高良玉垂命の末裔 稲員家と三種の神宝』

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou26/koga26.html

なる一文を発見しました。
かささぎは使命として、指名させていだだきます。

1担当、ぼん。地元在住であるから。
2担当、乙四郎。七支刀、太神の関係から。
3担当、整子。地元だから。

あと整子さんのお仲間の音火子さんに、資料はないか聴いてくれん。
同じ古賀姓の広川邑の人が登場します、「高良山物語」。
みんなでやれば、こわくない。なにか発掘できそう。
ばどさんもかまど神社関連調べてくれるとありがたい。
おーいおっさーん おっさーん げんきかやー げんきかやー
ソランさん、生きてる。大分関係をやりませう。
しもげぐんとかみげぐんってあるけど、毛ってなに。
ちょっとどぎまぎするよね。え。しないってか。
中世の八女から豊後へ抜ける道を知りたい。

ということで、打てば響くたいこのかわ。ぼーん!

▼ 三潴邑高三潴在住の八山呆夢:

私たち夫婦の仲人をしてくださった方が三潴の歴史に詳しい方です。
三潴町史の編纂にもたずさわっておられたのですが、高齢ゆえ、現在は老人ホームに入っておられると思います。
奥様も非常に頭の良い方で、いつも相談にのっていただいていたのですが、数年前になくなられました。
御塚(おんつか)や、月よみ神社は子供たちが通った幼稚園の隣にあり、現在は公民館もたっていて、地域の広場になっています。中央公民館に出向いてお話を伺う事はできると思いますが、歴史に弱い私、お役に立てるかどうか・・・お正月休みで公民館も閉まってますので、年が明けてからなんらかの行動を起こしたいと思います。

うちのばあちゃんが、弓頭神社(高三潴にあり)は高良山より位が上だから・・・とよくいいます。ここにもなんか碑があったので、よく読んできます

▼  竹橋乙四郎

年末スペシャル


うけうり・とんでも説のうけうり補足

モーセは日本の神から授かった十戒をユダヤ民族に与え、イスラエルを去ったモーゼは日本に帰って石川県の宝達山の麓(現在、「モーゼパーク」として整備されている)に葬られた。
キリストの墓は青森県三戸郡新郷村大字戸来にある。キリストは21歳のとき日本に渡り、12年間神学について修行を重ね、34歳のとき、ユダヤに帰って神の教えについて伝導を行った。弟イスキリを身代わりに十字架の磔刑から遁れたキリストは日本に帰り、106歳で没した。118歳説もある。12年のズレ、ここにも。日本でのキリストは、伊勢神宮内宮の地の選定に功績があった。
パレスチナと日本との距離は1万キロ。1日に30キロ歩いたとして1年かかる。準備万端、ただひたすら歩くだけでいいのなら1年で日本に到達することができるが、現実には食料を調達しながら寄り道や回り道を余儀なくされるし、天候や地形にも左右される。十年がかりで実現できるかどうか、といったところだろう。○○や△△がその生涯に日本を往復していたというとんでも説は信じがたい。
対し、古代、○○部族が日本に来ていたというとんでも説は頭ごなしに否定はできない。民族は、少しずつ行動半径を広げながら移動する。1日に100メートル移動したとして、1年で36.5キロ、三百年で1万キロ。紀元前1020年にイスラエル王国を構成していた12支族の一部が、三百年後に日本に到達していたとしてもあり得ない話ではない。

 イスラエル王国の12支族のうち2支族は1947年に再建されたイスラエルの国民となったが、他の10支族(割礼の習慣がない支族)は行方不明。終末の日には12支族が結集してイスラエル民族の栄光の日が来るといわれ、ダビデ王の子孫からメシア(救世主)が出現すると聖書に預言されている。終末の預言の成就を願うユダヤ教世界では失われた10支族の行方を捜す調査機関(「アミシャーブ」)もある。日本には12支族すべてが揃っている可能性があり、終末の日にメシアが出現するのは日本ではないかとも。10支族が失踪したのは紀元前721年。支族を率いたのは、預言者イザヤ。日本の国の始まりはイザナギ、イザナミ。神武天皇の誕生は紀元前711年。古代ユダヤ人は黒髪・黒目の褐色の人種で、背が低かった。神武天皇の和風諡号である「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」はヘブライ語で「サマリアの大王・神のヘブライ民族の高尚な創設者」という意。

さて、もうすぐお正月。年末の大掃除はユダヤの習慣でもある。
ユダヤの過越祭(すぎこし:新年のお祭り)は7日間。丸く平べったい種なしパンを祭壇の両脇に重ねて供える。
エルサレム神殿の門(ヘブライ方言でトリイ)には16弁の菊花紋が刻み込まれている。
移動式神殿(伊勢神宮の遷宮みたいなもの)や古代イスラエル神殿では、入口に水盤がある。ユダヤにも、水や塩で身を清める禊の習慣がある。(ユダヤ人は体を洗ってから風呂に入る。他の西欧人はバスタブの中で体を洗う。)
水盤の次に、至聖所(拝殿)、聖所(本殿)と並ぶ。古代イスラエル神殿は木造建築で祭壇には常夜灯があり、神殿の前には賽銭箱が置かれていた。
ユダヤ教の祭司は初穂の束を揺り動かす。
そして、ユダヤ人はメズサ(護符、お守り)をゲットする。
生後30日目に赤ちゃんを神社(神殿)に初詣でさせる習慣は、日本人とユダヤ人のみの習慣。
ユダヤ人は13歳の男子に、成人を迎える儀式を行なう。日本の古来の元服式も13歳男子。
元伊勢の「眥(籠)(この)神社」の裏家紋は「ダビデ王の紋章(六竏星(六芒星))」であり、眥神社の奥の院である真名井神社の石碑に刻み込まれている。
伊勢神宮内宮と外宮を結ぶ参道の石灯籠にもダビデの星(GHQの圧力で刻まれたとの説あり)。
伊勢神宮暦は他の神社と違ってヘブライ暦(ユダヤ暦)と一致。
「東方の日出づる国」はヘブライ語で「ミズホラ」。
約束の大地カナン「カヌ・ナー」はヘブライ語で「葦の原」。
「ヤ・ウマト」は「神の民」。
行方不明の「契約の聖櫃(アーク)」は日本の神輿とそっくり。アークは金で覆われ、上部には2つのケルビムの像が羽を広げて向かいあう。アークの下部には2本の棒が貫通しており、移動するときには、レビ族が肩にかつぎ、鐘や太鼓をならして騒ぎ立てる。
ユダヤの“シオン(Zion)祭り”は、京都の祇園(ぎおん)祭りと同じ7月17日に行なわれる

<ヘブライ語講座>
アッパレ  栄誉を誇る
アラ・マー どうした理由・何?
アナタ   貴方
アノー   私に応答させてください
アリガトウ 私に(とって)・幸運です
エッサ   持ち運べ、持ち上げるぞ
オイ    泣く
オニ    私を苦しめるもの
オハリ   終端
グル    団結する
グル    回る
コラ    自制せよ
スケベー  肉欲的に寝る
ダマレ   沈黙を守れ・私に(対して)
ドシン   肥満
ノコッタ  征服した
ハッケ・ヨイ投げうて・よろしく
ヒリ    痛みを感じる
マズ    何?・これは
ワル    凶悪な者

▽ かささぎの旗管理人

年末に笑わせてくれますね。
でも、これは決してうそではない。ほんとうにあったはなし。
つがるさんぐんし。をよめば、そうおもえる。
あらはばき。のことも、やまいちこく(ときにやまたいこく)のことも、しょうとくたいしとわたしたちがよんでいる篤く仏教に帰依したてまつったひとのことも、すべて、なぞがとける。
筑紫にはじまった倭国は青森へ。

▽ かささぎの旗管理人のまとめのことば。

毎日毎日こうしんしました。師走。
いやほんとにまったくお疲れさん。
つきあって読んでくださった方々に心からの謝意を捧げます。
竹橋乙四郎にせかされてではありますが、実際はもっと奥にあるものにせがまれている。
出してくれ出してくれ。と、そのものたちがいうのです。
高良山物語を一気に読み、(わたしはまいにち高良宮のその御前を通って、というより、聖域を横切らせてもらって、一の鳥居の中を出入りするかたちで通勤している)、いくつも疑問がわいてきました。
中世の武士たちにあって、今のわたしたちに失われてしまった歴史感覚。

からだのおくそこからわいてくるもの。
それをたしかめに。

でかけようではありませんか。時空間の旅へ。

下準備:下のサイトを寸暇にによむ。

古田武彦サイトたとえば。
   東北の真実:http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai1/furuta02.html

     

母のこと  さくら語録対話篇

 母のこと

     神崎さくら

  

母の死に際して思いあたることを書きます。

葬儀の終わった夜、妹と母の部屋に寝ました。
母の部屋にあったたくさんのスナップ写真を見て、母親の葬儀の夜と言うのに不謹慎な爆笑の夜をすごしました。
母の写真と言うのがことごとく踊ってる写真、踊ってるか歌ってるか笑い転げてるかの写真ばかりだったのです。
どこかチューリップ畑に遊びに行った写真でも、満開のチューリップの前で踊ってるんです。
しかも衣装まで持参して。

「まーた踊ってる!!」
「これも踊ってる!!」
「こんな格好して!」
と言いながら大爆笑!

母は芸事が好きで婦人会や敬老会、運動会、○○創立記念なんていうと、近所の人集めて踊りを教えてふざけた踊りを踊っていたんです。
どうしてそんなに踊らにゃいかんとやろか!
と夫や子供達にはあきれられる一生でした。

これは母に限らず、実家のあたりでは、花が咲いたと言えば飲めや歌えや、田植えがすんだといえば飲めや歌えや、田んぼが良く育ってるといえば飲めや歌えやが習慣でしたがね。

元寇の時でさえも踊っていた・・・と言うところに繋がりました(笑)
関係ないか?
(いえ、じゅうぶん連句的です。かささぎ)

またよなかじゅう母の部屋を引っ掻き回し、着られる服を物色してきました。
あとで、49日がすむまでは部屋をかき回しちゃいかんて言うよ、と叔母に聞かされどっきりしました。

元寇は、軍歌が好きになり、CD聞いたりしているうち「元寇」のメロディが大好きになりました。子供の頃どっかで聞いたメロディなので誰でもすぐに歌える曲です。

歌詞と歌が聴けるサイト紹介:http://blogs.yahoo.co.jp/torakyojin88/35491894.html

▽ かささぎの旗管理人:

聞いてすぐ、うわかった!
二ヶ月前にdvd借りてみた黒澤映画で繰り返しヒロインによってくちずさまれていたうたでした。映画紹介書いていた。(『女優・入江たか子』の題)

○○余州をこーえて 十万余きのてき

と思っていたのが、あらら。

四百余州(しひゃくよしゅう)をこぞる  十万余騎の敵

でした。こういう軍歌の漢詩読み下し文的きびきびさが今、とても新鮮に映る。
おそろしく弛緩しきった時代、どうしようもなくおのれを律することのわずらわしさに。
今、独裁者がでてきたら、従うかもしれぬ。
われら、じゆうの家畜にて。

▼ 山下整子の連句的:

さくらさん。ありがとうございました。

『元寇』の曲は耳にしたことがなかったけれど、『勇敢な水兵』という楽曲はメロディに聞き覚えがありました。
30年前になくなった祖母が口ずさんでいたものです。
なつかしくて胸が熱くなりました。
祖父は昭和16年に戦死。海軍兵として激戦地沖縄で。
遺された父は15歳、祖母は37歳でありました。
祖父は明治34年うまれで身長180センチの大男だったとか。
海軍さんの白い軍服がそれは似合う人やったと祖母が話してくれました。
何十年ぶりかに祖母のことを、顔も知らない祖父のことを思い出しました。

軍歌『勇敢な水兵』 http://jp.youtube.com/watch?v=-pCQCwm9Z2s&feature=related

参照:

『高良山物語』倉富了一・著より「元の襲来」(http://snkcda.cool.ne.jp/kourataisya/18gen.html

2008年12月30日 (火)

乙四郎語録 対話篇3

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

      竹橋乙四郎

▼  荒木田守晨(もりあさ、もりとき)の手掛かり


伊勢内務長。守秀の五男。守武の兄。宗祇門人。詠歌が守武とともに『新撰菟玖波集』に入集。永正13年(1516)歿、51才。「永正記」作者。

木村徳宏(専門分野 神道学 神道史 神道思想史 神道祭祀 神社祭式)
論文、 学術論文
荒木田守晨について-その生涯・学統を中心として- 平成15年10月01日 中世後期の内宮祠官・荒木田守晨の生涯について考察し、従来学説の分かれていた名のりを「モリアサ」であると確定した。また、彼に関係する年表を作成すると共に、彼が生涯注力した神道書の書写について現段階に於ける全容を解明して目録を作成した。また、これらの伝写と相承の過程を照射して彼とその前後の学統を明らかにし、彼が果たした神道史上に於ける役割と位置付けを試みた。(A5版、総45頁)
【単著】
『神道史研究』51巻3・4合併号
編者名及び共著者名:神道史学会
掲載頁:81-125頁
荒木田守晨について 平成16年03月31日 中世後期の内宮祠官・荒木田守晨の生涯について基礎的研究の成果を発表した。特に学説の分かれていた「守晨」の訓について考察を加えると共に、これまであまり知られていなかった彼の幼名を史料に拠って紹介した。また、彼の自害の理由についても基礎的な考察を加えた。(B5版、総2頁)
【単著】
「神道学会会報」
編者名及び共著者名:皇學館大学神道学会
掲載頁:10-11頁

かささぎの旗管理人:

検索では、なまえのよみは「もりとき」になっていました。
自死のその、理由が知りたい。
よみたいものです。

ブログ記事として、守武、兄の死。という題でさきほどから、年譜をうつしていますが、なんどやっても消えた。やめておけ。というサインですね。
この年、永正十三年十一月には六日前に違う兄(長官、一の禰宜だった)もなくしている。ということは、それに関連する死だったか。調べたわけではないが、年譜をみていると、十人のねぎに欠員が生じると新しい禰宜をいれるが、それに連られて一位づつ位があがる。年譜には書かれていないが、この長官だった兄の死でもりあさがトップになったのだろう。それはそんなに重大なことだったのだろうか。
『神官守護のために』みずからの尊い命を棄てる。それはどういう意味があったのだろうか。
また、母はこのふたりの愛する息子の死の四年後になくなっている。
この世の中百首は、ふたりの兄たちの死の年から九年後、九月の庚申の夜一夜で仕上げたものです。

九男だとする守武、九に縁を感じていたのか。

竹橋乙四郎:

 伊勢神宮禰宜の心的背景
永正9年(1512)11月19日に伊勢神宮で大火災。京都御所レベルで官民あげての大騒ぎとなり、その再発防止会議で、「皇太神宮の鬼門の方向に当たる篠島神戸の里に「火度見善光寺如来」を祀り祈願すれば後世難を逃れるであろう」という結論が出され、永正13年、知恩院に命じ、伊勢神宮の古材を使って篠島に西方寺が建立された。
神だのみなのか仏だのみなのかまったくもって良くわからない防止策(さすが、元寇対策に神楽を練習せいと命じた国に恥じない意思決定!)であるが、この間、禰宜たちがいわれのない誹謗中傷、屈辱に塗れたことであろうことは想像に難くない。

▽ かささぎの旗管理人:

竹橋乙四郎先生のおっしゃるとおりかもしれません。
今、嵐竹のすべての歌を拾っていたら、「春駒」「五月雨」「立秋」「槿(あさがほ)」、「来不逢恋(来て逢はざる恋)」の五首ありました。
そこで、「世」を荒木田守武のキーワードをすれば・・、という目で読み直しますとき、ハッと気づいたのは、守武の辞世の一句であります。守武忌は、朝顔忌というではありませんか!

朝顔にけふは見ゆらむ我が世かな  守武

祖(おや)を守り俳諧を守り守武忌   高濱虚子

何がいいたいのかといえば、嵐竹の俳号には、乙四郎が指摘したように、俳諧師としての匂があるということです。まだ何も資料はございませんが、これは確かな確信であります。

四十六    槿(あさがほ)  嵐竹

あだなりと見しは残らじ槿は
世にはてしなき秋ごとの花

この一首はどこかに荒木田守武を匂いづけしている。
直接の弟子ではなかったかもしれませんが、なにかの縁で守武の水が流れ込んでいる。そうでなければ、あのように生き生きとした恋の歌は書けなかったでしょう。あの一首だけが時代を突き抜けて、まっすぐこころに届きました。俳諧歌でした。

嵐竹の立秋の歌、いいよね。乙としては春駒の歌も好きです。
まぐれにたまたまいい歌を詠む人であれば無名のままでしょうが、いい歌をたくさん詠む人なら後世に名前が残ってもいいはず。ところが、「嵐竹」は乙式検索エンジンにまったくひっかからないのです。嵐竹はこの場限りのペンネームじゃなかろうか、というのが、とんでも思いつきの始まり。もし嵐竹=荒木田守武なら、「旅する太刀」の謎解きに夢が膨らみます。九州から宝刀を持ち帰れば、伊勢の禰宜の形勢も持ち直せましょうぞ。
八女百首のコペルニクス的転回。
コペルニクスが『天球の回転について』(地動説)を出版したのは1543年(天文12年癸卯)。

芭蕉と伊勢との関係に着目し、笈の小文の解説文を読んでいたら、この句が出てきた。

裸にはまだ衣更着(きさらぎ)の嵐哉  芭蕉

伊勢神宮に奉納された句だとか。
この句の解説文。
「嵐は「三十日月なし」句にも出てくるが、伊勢は「神風の伊勢」と言われるように、嵐に縁がある。」
と。
芭蕉の伊勢参り:http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/oinokobumi3.html  

▽ かささぎの旗管理人

伊勢は嵐に関係がある。そうですか。
大風(台風)や嵐を鎮める風の宮のことを言っているのですね。
その家のかたが何度かれぎおんに文章を書かれていましたが、・・・。

芭蕉が伊勢に詣でて外宮の外から遥拝するというのは、僧として当然として、一般的にも外宮へ先におまいりするもののようです。かささぎは未だ一度も詣でたことはないので、よく位置関係がわからないのですが、今朝しらべたところ、次のようなことが目につきました。

1 とゆけのおおかみを祀る外宮、その位置はもと丹波。
2 外宮の傍に四つの別院、多賀宮、土宮、月夜見宮、風宮。

かささぎが殊に注目するのは、多賀宮(たかみや)です。
このお宮は外宮の中でも地位が高いとかかれています。

伊勢宮ホームページ資料よりコピペで引きます。

一、宮名とご祭神
 多賀宮(たかのみや)
 
豊受大御神荒御魂(とようけおおみかみのあらみたま)

ニ、ご鎮座地
 豊受大神宮大前の御池にかけられている亀石を渡ると、右手に土宮、左手に風宮が見えて参ります。それを過ぎ、正面の98段の石階を上がると、檜尾山に南面して、外宮の第一別宮である多賀宮がご鎮座になっています。

三、ご鎮座の由来と沿革
 『延暦儀式帳』に「高宮一院 等由氣太神宮之荒御玉神也」とみえ、古来高宮とも称されております。恐らくは小高い丘の上にご鎮座になっていることからそう呼ばれたのでしょう。ところで、豊受大神宮別宮には多賀宮、土宮、月夜見宮、風宮の4宮がありますが、多賀宮だけは『止由気宮(とゆけのみや)儀式帳』および『延喜神名式』に記載がみえる別宮で、他の3宮が後年宮号宣下により別宮に列せられたことに比すれば、一際格式が高く、しかも皇大神宮の荒祭宮同様、外宮の第一別宮として古くより特別な待遇を受けて参りました古社です。
 さて、当宮の淵源を尋ねると、今から凡そ1500年前、第21代雄略天皇の御代22年に天照坐皇大御神の御神勅によって豊受大御神が丹波の国から御饌(みけ)つ神として迎えられ、豊受大神宮が創立された際、多賀宮も同時に奉斎されたと伝えられています。
 14別宮のうちで荒祭宮同様殊に重きが置かれ、20年1度の大祭である式年遷宮でもこの2宮だけは正宮に引き続き真っ先に斎行されます。また、勅使参向の際は恒例祭と臨時祭とをとわず正宮の祭典終了後ただちに幣帛が奉られることからもその重要性が容易に推察頂けるでしょう。
 現在は、農事に携われる方はもちろんのこと、産業全般にわたって従事される方々の篤い崇敬を集めております。

引用をおわります。

ここで、また「荒」がちらつきます。

▽ おまけ記事

かささぎの旗のうけうり・とんでも説:

失われた十部族わんだりんぐ・じゅう古代イスラエルの民が遊動民スキタイとともに日本へ流れ落ちた。
「豊受大神」こそは古代イスラエルの神である。

元伊勢なる地が丹波に二箇所ある。
その一つの大江山麓のは後世つくられたもので、本来の元伊勢は籠神社(このじんじゃ)である。日本三景の一つ天の橋立を北から見下ろす位置にある。(参照・雪舟の国宝天橋立図)
以下、そのまま引用。なにから引いてるか、おしえない。

「伊勢神宮に祭られている天照大神は最初から今の伊勢にあったわけではない。それは25回も巡幸している。初めは倭国笠縫邑であり、次がこの元伊勢、籠神社であった。以後、吉備、大和、伊賀、淡海、美濃、尾張などを移動しつつ二十五番目についに伊勢の内宮となったのである。」

「籠神社で祭られていた豊受大神は古代イスラエルの神である」

「81代宮司は『原初の最高神と大和朝廷の元始』(桜楓社)という本を著し、「これら元初の神の信仰は、明らかに記紀編纂時代、和銅養老年中間以前に、我国に存在していたものであるが、これがその後一般大衆の信仰の上に根を張り、枝葉を生ずるに至らなかった理由の重要なものとして、和銅、養老の直後、いわゆる天平時代に仏教の信仰が急速に朝野上下、大衆の間に関心を持たれ、その最高仏の信仰がこれに代わって根を下ろすに至ったことにあるであろうことが看取せられねばならぬ」」
「すなわち我国の上古に、元初の神の信仰が既に存在していたことは、既述のように記紀によって明示せられるところであるが、奈良に東大寺が建立せられ・・・従前の信仰形態に相当の変貌がもたらされたであろうことが察せられなくはないであろう」

この本によると、伊勢神宮の二十年に一度の式年遷宮も古代イスラエルの移動式礼拝所(幕屋)が下敷きにあるという。

いろいろ書かれていますが、丁度取り上げたばかりの元寇のくだりを引きますね。

「元寇。二度に渡ってやってきた。
1274年文永の役のとき、元は遠征軍として兵士三万数千、軍船九百艘の大群を率いてやってきた。十月五日、元軍は対馬を蹂躙し、十月十四日壱岐に侵攻し、十月十八日には博多湾に侵入した。そして十月二十日に本格的な戦闘が行われ、午後には博多の町は焼かれて至る所で黒煙があがっていたという。が日本軍にとって幸いなことに、その夜元軍は不案内な地での野戦を避けるべく兵をまとめて引き揚げた。そしてその夜、大暴風雨が博多湾を襲った。たちまちのうちに元軍は海の藻屑となったのである。

「続いて弘安の役、1281年。元が宋を滅ぼして二年後、こんどはさらにパワーアップし、将兵合わせて14万、軍船はなんと四千四百艘だったという。日本は文永のときとは異なり準備万端にして待ち構えていた。しかし戦いは一進一退。そんな中、またもや七月30日の夜大暴風雨が襲ったのである。元軍はたちまち壊滅、日本軍は残れる兵を掃討するだけであった。」

おおげつひめ:http://www.dai3gen.net/ainu_yu11.htm

さまよえる倭姫:

 

2008年12月29日 (月)

乙四郎語録   対話篇2

八女戦国百首和歌「夏日侍」を読む

      竹橋乙四郎

▼ とんでも冗談的シンクロ

邪馬台国諸説の中に宮崎県の古墳群が。
西都原古墳群。西方に男狭穂塚(おさほつか)、女狭穂塚(めさほつか)古墳。
(これらは九州最大の古墳で八女の岩戸山古墳はそれに継ぐ。)
東に新田原古墳群、茶臼原古墳群。南に本庄古墳群。
この本庄古墳群がある宮崎県東諸県郡国富町には神社が25もある。
筑後地方にも神社がやたら多いが、ここも辺地にしてはやたら多い。
飯盛神社、日吉神社、菅原神社、大土神社、宇津野神社、八幡神社、川上神社、諏訪神社、金刀比羅神社、三島神社、大原神社、八幡宮、稲荷神社といったメジャーどころ神社が居並ぶ。
中に源王神社というのも。
過去、いろんな有名人が立ち寄り、聖地が創られていったのであろう。
そのほか、宮崎県ローカルのチェーン神社など、それぞれ由来がそれなりに推定できる神社ばかりの中、ふたつ、独自の名称の神社がある。
ネット検索してもここだけ。神社ゆかりの祭事も伝承されているので、国富町内での位置づけは高い。
その、ふたつの神社とは
「嵐田神社」と「森竹神社」
嵐田森竹
荒木田守武が立ち寄った?

▼ 世の中百首  (俳祖荒木田守武)

この百首をざっと見たくなって、京都大学のデジタルライブラリに行ったが、流し字がほとんど読めない。すべての歌に「世の中」が織り込んである模様、そのくらいしかわからないが、いずれにせよ、「世(の中)」は守武を意識する際のキーワードかも。
嵐竹の槿の歌にも「世」が織り込んであるが、他の戦国歌人はどうだろう。「憂世」などいくつかあるが、覚元の歌にこんなのがあった。覚元は、難波津の梅の花を詠んだ方。

六十四  神楽     覚元
祈てふ事はおろかにあらし世に
しらゆふかけてうたふ御神楽

あらし世に、というのがよくわからない(他のところもよくわからないが・・・)
そもそも仏僧(みたいな名前の人)が神楽を詠むのが変、というか妙に覚めている感じ。
「憂世」みたいな語は馴染みだが、「あらし世」という語はないのではないか。
「祈てふ事は、おろかにあらし」と前の語に掛けた意と、「あらし、世にしらゆふかけてうたふ、御神楽」と、後段の主語としての「嵐」。違うかっ。

資料:絵入り世の中百首(東京学芸大学デジタルライブラリ)。少しは読める。
   

http://library.u-gakugei.ac.jp/orai/f023_003.html

▼ かささぎの旗管理人

白木綿かけて、というのは、今で言う紙垂(しで)をかけて。の原型だろう。ちなみにかささぎの変わり者の夫はこの幣をつくるのが得意。何流かはしらん。

いのりちょうことは愚かにあらじ世に
白木綿掛けてうたふ御神楽

かささぎはこう読んだが濁点はうたなかった。
嵐世とかけているのがみえたから。
ちなみに、おつしろうが引いてくれたサイトの高良山物語の、元寇のところをよんでください。元が攻めてくると色めきだって、まずなにをしたか。これが傑作。というか、これが神道なんだとハッときづかされるのですが、太神楽修行されんことをどうのこうのと書かれている。
太神楽とはなんぞや。と調べましたとも。
なんのこたなかとです。神楽を大々的にやるってことで、うたえやおどれやのたぐいです。
最前線で元寇をむかえうつのは九州の筑後勢だったことをおもえば、非情に切ないはなしじゃございませんか。
昔の人は何をば考えておられたのかと、一瞬目が点になったかささぎでしたが、国家存亡のとき、祈るより他にせんなしとて、神話時代の日蝕のときも似たようなことをしたことをおもえば、わかるような気もするのでした。

▼ 竹橋乙四郎

この背景説明で、覚元の歌がすんなり頭に入りました。
それにしても高良山物語、すごい資料を掘り当てたものです。
地道に古文書を読み解いた汗の結晶なのでしょう。ネット情報のみに頼る自分自身が情けなくなる。
高良山物語には八女郡串毛村田代に神籠石があると書かれています。ここだけにある情報。串毛村というのは黒木町の前身の村のひとつ。
同じく、地道な努力が感じられるサイトを発見しました。山川町の郷土史研究家の故松尾龍城氏のライフワークによるものだそうです。
ここには、ヤマトは「山内」に対する「山外」が転じたものとあります。

   

http://f27.aaa.livedoor.jp/~mdanbo/YAMA001.HTM

芭蕉研究者のページで、あれこれ調べている(らしい)のがありました。乙には、基本的素養の絶対的欠如で、ほとんど内容をフォローできませんが、関連部分を引用するとこんな具合です。
=======================
「蔦植えて竹四五本のあらしかな」〈野ざらし紀行〉があります。この「蔦」と「竹」はこれも「大和国」に飛び「葛下(かつげ)の郡竹の内」「竹のおく」「庭上の松」にいたります(野ざらし紀行)。またこれは「植え」で須賀川に行きますが、竹で「荒木田」です。これは「閑人の茅舎(ばうしや)を訪ひて」という前書のもので、この「閑人」は〈笈日記〉では「盧牧」です。盧牧は「伊勢の人なり。其姓氏を知らず」となっています(芭蕉全句)。これは一応、大淀三千風かもしれません。「其」=「薗」があり「薗姓で氏を知らず」とも読めます。荒木田は薗田と二つの氏姓があるのが、迷わされるところでもあり、解釈の広がりを促すものでもありました。
=======================

   http://www5f.biglobe.ne.jp/~inou/newpage40.htm

▼ かささぎの旗管理人

降参。世の中はひろい、ひろすぎます。
その大量にある資料の中から、なにを拾ってくるのか。
これは運であり、百首和歌のメンバーの一人の名前「頼運」はすごい命名だと感動します。時代は、戦争を禁じられている世であるありがたいげんざいと、いくさにあけくれるしか道がなかった非道い時代とで、正反対なのでありますけども、なぜかどこか相通じる一本の細い糸がみえてくる。それにきづくのは実におそろしいことであります。

ところで、守武翁の世の中百首は、伊勢論語として親しまれている・・と紹介されていて、どれもが説教調の句ですけど、つぎのは一つだけ、俗情がでてる。返し歌まであるのはこれだけ。つい本音を吐いたのでおおっと、と返しをつけたようなかんじ。笑
91、世の中に銭だに持たば芸能も
   いらぬと我は思ふべらなり
返し)世の中に芸能ありてその上に
   銭をば人の持たぬものかは
意味:
   二首で自問自答のうた。
   おかねがあったら、芸や才能はいりません。
   しかし、芸能があってその上お金があったらどんなにいいだろうか。

この歌をよんで、かささぎは、今年聞いた矢部村の椎窓猛先生のおはなしにあった、「恒心と恒産」のはなしを連想しました。
恒心あるところに恒産あり。

この歌と、もう一つ、おわりから三個目の歌
98、
世の中は身の上を知れ知れや知れ
知れや世の中知れや世間(よのなか)

もう自分でも世の中はってフレーズに飽き飽きしてやけっぱちになって連呼したかのようです。

▼ 竹橋乙四郎

神籠石があるという、八女郡串毛村田代。調べたら、姫御前岳の麓でした。広い地区なので、どのあたりが神籠石かは検討つかず。

▼ かささぎの旗管理人

田代。東妙寺らんと奥八女のグリーンピア黒木の重箱磐へ行ったとき、帰りに脇道から田代へ抜ける近道を通りました。そうしたら、たしかにそういう案内が出ている箇所があった、ような。ちょっと停めてくれ、ともいえず。でもふしぎだなあと内心思って。初めて通る道だった。知らないことばかりだ。ふるさとなのに。

▼ 追って、最後に かささぎの旗管理人記す。

朝いちばんで、何かが気になり、それは守武の兄のひとりが自殺をしている。
その件について、守武が書いていた。と、それを確認したく、乙四郎がひいてきた芭蕉の深層意識をさぐる頁をだいぶ探した。しかし、そこではなかった。

「荒木田守武」にでていました。それも、世中百首!

この句です。解説まるごと引用しておきます。
うしろにある守武のきもちはわかりませんが、厳しく激しいものを感じる。

28 
   世の中は命を棄つる人の上に
   ほうけぬもあり ほうくるもあり   守武

人の死に方にも、道理にあう命の棄て方と、ぼけてつまらぬものがある。
(守武の兄守晨は内宮長官一の禰宜になったが、神宮守護のため自殺している。)

2008年12月28日 (日)

嵐竹の庚申恋歌  乙四郎語録28

八女戦国百首和歌「夏日侍」をよむ

      竹橋乙四郎

干支の謎を思案中、八女百首の中に干支を詠み込んだのが一首あるのを見つけた。

七十三  来不逢恋  嵐竹
とひきてもねぬときなれやくやしくて
おもひわすれじ庚申かな

唐突な”庚申”の違和感。
荒木田守武の句の”天文九年”と相通じるセンス。
嵐竹というのは何者だろう。
鑑*や鎮*や頼*とは異なり武士らしくはない。
覚*や宗*や*亀や*寿のように坊さんらしくもない。
弘俊、孫七、牧也、弘智、通次、廣吉、藤次、述秀のような庶民名でもない。
ただ一人だけ俳号風の名前で異彩を放っている。
ここで、ひょんなことを考えた。
鑑述と守武とに親交があったのであれば、今伊勢宮へ奉納する百首のうちの何首かを守武にお願いしたりはしないのだろうか。実名は隠すとして。
荒木田の荒の音韻から嵐を連想した。
守武の武から竹を連想した。
とんでもひょっとして、嵐竹=荒木田守武ではなかろうか。

さて、庚申。
天文24年に最も近い庚申の年は、1560年と1500年。5年後か55年前。恋歌で、悔しくて思い忘れることができない年が未来だったり、そんな昔だったりというのは不自然。
「○○○年」と検索するとWikipediaではその年に起きた出来事が出てくるので便利。庚申の年を片っ端から調べてみた。1500年以前にはこれといった出来事はなかったが、ひとつだけ、720年に日本書紀完成とあった。
九州王朝の末裔にとっては、正史が権力によって捻じ曲げられた、悔しくて思い忘れることができない年かも。
古の栄光に浸る筑紫の人々の強い思いに接し、それを叶わぬ恋になぞらえて揶揄したのかも。

かささぎの旗管理人:

荒木田守武が庚申の夜に書いたのは、「世の中百首」。
それにしても、なぜ荒木田。本当は薗田姓なのに。
あらき。荒木。これ。どっかでなんかでみた。
なんだったろうか。
あらはばき。じゃなく。
うーん。おもいだせない。

▼ 以下、竹橋乙四郎引用。

荒木田と上津荒木(こうだらき)と荒木神社
『高良山物語』 倉富了一・著
                    

八十一  松   弘智

得てうへし松にならへる君が宿を
猶すみよしの神や守らぬ

八十二   竹    宗房

きみが代を久しかれとて植へをきし
たけの臺のかげ越しぞ思

81番の初五「得てうへし」、原書は、「恵てう辺(正字)し」。
かささぎは意味がとれず、ずっと思案しておりましたが、「得て植ゑし」だろうとおもいました。えちょうべし。では意味が取れませんし。(植えるは、旧かなですと、植ゑる。が、試験などでは正解とされるのでしょうが、実際、むかしの人の作品を見ているとさまざまな表記があります。俳聖芭蕉も間違っている。)

これで果たして正しいのだろうかと気に掛けていたのですが、この高良山物語を読んで、これでいいのだ。と納得しました。得て植えたのです。得て植える。妙な表現であり、妙な歌いだしですが、どこから得たのか。それはすっとばしても、当時のひとには常識だったからなのですね。すなわち、「こうだらき」=かみつあらき=神津荒木=上津荒木から。でも、まだなぞです。なぜ、荒き荒木荒木田姓なのか、荒木田守武は。

▼ だいすきな嵐竹さんのほかの歌二首。

山川のあさせも此の五月雨に
よしあだなミはたヽじとぞおもふ

2008年12月27日 (土)

田北鑑富   乙四郎語録27 

八女戦国百首和歌「夏日待」をよむ

      竹橋乙四郎

▼  田北鑑富(たぎたあきとみ)物語

天文24年の時点では仲良く歌を詠みあっていた橋爪鑑実と田北鑑富であったが、四半世紀後に鑑富は鑑実の軍に討伐されることになる。
その物語。
鑑富は大友家奉行人の子。
のち鑑重(あきしげ)と改名し、入道して紹鉄(じょうてつ)となる。

天文19年 申次職として義鎮の側近。
天文24年 八女百首

弘治2年(1556) 小原鑑元の謀反鎮定のため出陣。
永禄5年(1562) 対毛利戦。戸次鑑連の指揮下で門司城を攻める。
永禄8年 豊前長野筑後守討伐。三ヶ岳城破却。
永禄12年 毛利軍の豊前進出に備え、宗麟は鑑富(紹鉄)を田川郡に駐屯させる。

天正6年 日向土持氏討伐に出陣。日向高城合戦で多くの一族を失う。
天正7年 秋月種実討伐に出陣。夜襲を受けて敗退、中津城 に入る。
天正8年 秋月種実との謀書が発見される。
筑前秋月種実が筑前から大友氏の勢力を駆逐するため、紹鉄に反乱工作を行ったとするもの。
また、紹鉄の宣教師(巡察使バリヤーニ)殺害計画の情報が宗麟に通報され、調査の結果、事実であったことが確かめられた。
陰謀が露見したことを知った紹鉄は大友氏への敵対を明らかにした。
紹鉄は朽網郷松牟礼城を出て熊牟礼城に拠って抵抗。
宗麟・義統は、一万田鑑実らを将とする一万余の討伐軍を出陣させる。
紹鉄勢はわずか百人ばかりの人数であった。
城中で一族から諌言を受け逃走を決意した紹鉄は、逃走径路を朽網郷阿曽野(庄内町)にとる。
ここで激しい追撃戦をかわして日田郡に向かう。
4月13日、 五馬荘を経て松原村(大山町)にさしかかったとき、財津久右衛門の手にかかって最期を遂げた。法名清台院殿手翁紹鉄大居士。
乱後、大友義統は謀叛は紹鉄ひとりの企てであり田北一門の罪は問わないとし、統員に相続させている。
謀書には讒言説がある。讒言のため切腹を命じられ、それが不服で熊牟礼城で挙兵したというもの。
紹鉄は親類等に、両殿様(宗麟、義統)に私曲はないこと、讒者の妨げか、御不満はわからないが切腹を仰せ出されたこと、自分は切腹するが、統員(むねかず)に相続させしてもらいたいことを記した書状を送っている。
紹鉄は讒者が誰であるかは記していない。

歌を詠んでいた頃がいちばん平和だった。

十二  帰鳫(帰雁)  鑑冨
見るうちもたちぬかずとや天津雁
雲間にきえて立かへるらん

とんでも超訳:
社宝として飾って見るだけで抜くことはないとおっしゃってた渡り鳥のような荒木田守武さん。出雲の向こうまで行ってしまわれたのだが、太刀は帰ってくるのだろうか。

かささぎ訳:

見ているうちにも次々と北の空へ旅たって行く雁よ。その夥しいまでの数よ。
数える間もなく雁の列は雲のはたてに消え、あとには呆然と口をあけて見送っているわたくしだけが残る。

かささぎの連句的:

▼ 『ツルはどこからやって来るのか』 
        鴨川誠・著(葦書房刊)より引用

世界にいるツルは19種。
昔、日本に渡ってきていたツルは6種類いた。
いま、わたってくるツルは3種類しかいない。
その3種は、丹頂、真鶴、鍋鶴のみ。
明治以前、たくさん全国へ渡ってきていたこれらのツルは、将軍家が大事にして保護していた。
御鳥見役という役人を置き、餌をやって保護した。
ところが将軍家光以来、正月には鷹狩でツルを捕らえ京都御所へ献上した。
もっともその折でさえ、丹頂鶴は霊鳥としてあがめ、決して捕獲しなかったのである。中略ー
いまはわずかに鹿児島県出水、荒崎一帯に真鶴と鍋鶴を二千羽、山口県熊毛郡にニ、三百羽の鍋鶴、そうして北海道の釧路にニ、三十羽の丹頂を見るだけになってしまった。中略ー
かれらは多くシベリアで繁殖して、十月、あるいは11月になって日本へ渡ってくる。
そして、三月にはまた北へ去るのである。
彼らは、ミミズ、昆虫類、蛙、泥鰌、小魚、まれには蛇、ねずみなども食い、豆類や草の葉、水草などもたべる。(内田清之助『渡り鳥』)

はやぶさ

とつぜん、おもいだしました。
JAに小学校の同級生が勤めていて、その人を仮に北さんとする。
その人の長男とうちの次男は同級生でした。
かささぎは、その子の五年生のときの俳句を忘れない。
こんな句です。

はやぶさが北の空へと飛んでゆく 大樹

なぜ忘れられないのか。
まず、季語のはやぶさ。http://f4.aaa.livedoor.jp/~yanbird/b-hyabusa.html

隼は冬の季語です。連句などではよく使われる鷹匠も冬。
それを心の片隅におき又句を眺めますと、北という方角。
北は時空間が一致する陰暦で、根の方角、子(ね)です。
偶然は、とてもすばらしい。
悠々たる隼の飛翔が時の源への飛翔へ転じる瞬間を、この一句に見るかささぎでありました。

これを突然思い出したのは、料理教室で、その友達の近況を聞いたから。
いまはそうぎ場のトップになっておられるらしい。

シンクロのすごさに打たれるのは、翌日の朝訪ねたブログ「き坊の棲みか」。
最初にめくったページで「はやぶさ」に出会った。

「き坊の近況」の2008年1月4日付日記。http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/kibo/kinkyo.htm#top

▼ 「はやぶさ物語」

すばらしい動画が見れます。
http://spaceinfo.jaxa.jp/hayabusa/movie/story01.html

これは正月にみてください。

2008年12月26日 (金)

もち吉

先先週、職場近くのもち吉の売り子さんが商品を持って、事件のお詫びかたがたご挨拶にみえました。毎年いまの時期はお菓子を持って、お歳暮はうちで。とごあいさつにみえるのです。

マイボスはもち吉のファンですが、こんどはちょっと見送るそうです。
うちはよくても、もらったひとが気になさるといけないから。
ということで、お酒屋さんのおまかせギフトにしたようです。

真相はなぞですが、いろいろあるのでしょう。
でも、こういうことにひるまず、がんばってほしいとおもいます。

八女はたけのことしいたけの産地です。
でも、いまはどこで買ってもおいしいのが少なくなりました。
やまおくのお店でもどこもいっしょです。
ラベルは信じていません。
自分の舌とねだんを信じるだけです。

乙四郎語録 官僚番外編3 

▼ 色褪せる記憶 自然の摂理

       竹橋乙四郎

広島で使われたウラン235の半減期(放射能の強さが半減するのに要する時間)は7億年。長崎で使われたプルトニウム239の半減期は2400万年。
それにひきかえ、広島・長崎の記憶の半減期はぐっと短い。
国家の記憶の風化。
昭和20年以前に生きていた人は30年後の昭和50年には人口の半分になった。その30年後の平成17年には人口の4分の1。
広島・長崎の体験世代の半減期は30年。
体験世代がゼロになったとしても次の世代が語り継げば国家の記憶は伝承される。しかし、次の世代の人口もいずれ半減する。伝承の半減期は30年かも。我々の孫の孫の世代は広島と長崎の悲劇をまったく語らないかもしれない。
天文年間の人たちの間に、その千年前の磐井の時代のことがどのくらい伝承されているかが気になった。千年というのは30年の33倍以上。伝承の半減期が30年とすれば、およそ百億分の1(2の33乗分の1)しか伝承されないことになる。磐井の時代、何十万もの人が生活をし、人それぞれの人生で何十万もの物語が紡がれていたのであれば、数百億の物語がそこにあり、それが百億分の1に減ったとしても、いくつかの物語は伝承される。

さて、天文年間(450年前)の人たちは、我々より、どのくらい多くを知っているだろう。450年というのは、30年の15倍。ざっと今より3万倍(2の15乗倍)の伝承が残っていたはず。石人石馬のことだって、七支刀のことだって、邪馬台国のことだって、不明点だらけではあったろうが、我々の3万倍の情報に囲まれていたはず。当時の知識人が古典(万葉集など)に詳しいのも頷ける。

[かささぎの旗管理人の連句的]

1991年12月8日(日)西日本新聞 
特集記事「筑紫君磐井」より引用

▼ 無視された・・・「矢野の研究」

   文・原田博治

「磐井の乱」は、『日本書紀』によると継体天皇21年(527年)に起き、翌年まで続いた。
大和朝廷が朝鮮半島の新羅に奪われた任那の地を奪還すべく出兵させた際、磐井が乱を起こし、これを阻止。その後、磐井は物部麁鹿火(あらかひ)率いる朝廷軍と戦い、筑紫御井郡(現久留米市)の決戦で敗れた、と伝える。
その磐井の墳墓について『筑後風土記』逸文は「上妻(かみつやめ)の県(あがた)南二里」と記す。
この記述を元に1956年、当時の福岡県立福岡高教諭(後の九州産業大教授)の森貞次郎さんが岩戸山古墳を磐井の墓と推測する論文を発表し、今日の定説となった。
実はこれより前の江戸時代末期、久留米藩士の矢野一貞(いってい)が綿密な考証によって同様の指摘をしていた。だが当時の時代状況と、矢野が在野の研究者だったため、この研究成果が中央で顧みられることはなかった。

乙四郎語録  七支刀対話編1

知っているようでみんなが知らないことって、たくさんありますね。
とびうめ伝説、いろんな人に聞いてみましたが、「どこから飛んできたのか」、知っている人はいませんでしたよ。笑
わたしだけではなかった!
七割の人が「京都らへんの都から」ニ割が「北野天満宮から」のこる一割が「さあ。しらん」

>守武は「桃神主」とよばれていた。

びっくりシンクロ。
七支刀がある石上(いそのかみ)神宮。剣を祭神とするが、七支刀は祭神ではなく社宝。神功皇后の時代にそこにあったのなら祭神であってしかるべきだが、社宝でしかないということは、やはり、相当の新参者ではなかろうか。
石上神宮の祭神の剣は「布留」と称され、地名や川の名になっている。
「此剣(石上神宮の神霊)を布留といふ事は、布留河の水上より一の剣流れ下る。此剣に触るるものは、石木共に伐砕き流れり。 下女、布を洗ひて此河にあり、剣下女か布に留まりて流れ遺らず。則ち神と祝に奉る。故に布流大明神と云ふ。」(『源平盛衰記』)
さて、石上神宮から布留川を少し上ると、日本の滝行の発祥地「布留の滝」があります。八つの大きい岩があり、八岐の大蛇に見立てられています。この布留の滝、後世、なぜか「桃尾の滝」という別称になっている。

ところで「ももだち」。
「股立」(ももだち)は「袴の左右の腰の側面にあたるあきの縫い止め」のこと。「股立をとる」とは「動作を便利にするために袴の股立ちをつまみあげて帯または袴の紐にはさむこと」だそうな。そういう意味だと「もゝだちをとりてこきやうへ帰りきて」を素直に読むことができるが、あえて、股立をとりて、と断らなければならない必然性もなく、まして末尾の句でもあるので、何らかの掛け言葉があるととらえたほうが自然。
ももだち=桃尾の太刀
とにかく、太刀がはるばるやってくるだの、旅と太刀が行方不明だの、太刀が謎めいたキーワードになっている守武千句だが、守武のこの旅の隠密の目的が、七支刀を筑後の太神から伊勢の太神宮まで持ち帰り、石上神宮の禁足地に隠すことだったとすれば、すべて合点がゆく。守武がはるばる旅した記録が年譜にない(消されている)ことも含めて。

桃尾の滝
   ↓

七支刀の謎が解けた!

きるといふこともいはぬはみやこ人
 旅と太刀とのゆくゑしられず

きる=布留

き(ぬ)る → 布留
布留(ふる)を「きる」と読ませるのは無理があるかも。
「ふる」だったら、無理しなくてもここにあった。

もゝだちをとりてこきやうへ帰りきて
 天文九年しぐれふるころ

「しぐれ」「ふる」の用例にこんなのが。
いそのかみ布留の神杉ふりぬれど色には出でず露も時雨も(攝政太政大臣)
深緑あらそいかねていかならむ間なく時雨の布留の神杉(太上天皇)

原稿をおくるとき俳句も出してといわれ、なにもうかばずこまったかささぎは、冗談句をアレンジした。
profoundってこういうものじゃないだろうか。

新年やふるふるふるとあらみたま  恭子

あらみたま。とあらたま。のちがいを考えていたから。

記事を書いたときから、なにかがずうっと引っかかってくる。今それがわかった。
芭蕉庵桃青。これが芭蕉の通り名です。
松尾芭蕉ってのは現代のよみであって、正式な呼び名は桃青なんだよ。(「芭蕉庵桃青の生涯」に書いてあった。高橋庄次。)とうせい。いままで問うたこともなかったことだけど、なんで芭蕉はバナナなのに、桃、それも青い桃の号なのだろうね?
高良さんにある「桃青霊神社」は、こうやの宮よりもっとささやかな祠だった。岡良山。

そみんしょうらい。
ぬれぬれも。ってところでおもいだした。
とうせいれいじんじゃをしらべていた十年前。
ぬれせぬやま。という別名が高良山にある。
しっとった。こんな字を書く。
不濡山=ぬれせぬやま。
恋句に使ったから覚えていた。

ぬれそぼつ不濡山のお道行  (かささぎ俳諧)

>磐井の末裔はしぶとく生き残っており、矢部川の底みたいなところに築城しようとしているではないか。

磐井の末裔ってホントにいらっしゃるわけ?
滅ぼされたって聞いたので、それはないだろ?と思うのであるが。

Wikipediaによれば、磐井は捕らえられて麁鹿火に斬られた(『日本書紀』)あるいは、豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(『筑後国風土記』)とされているが、息子の筑紫君葛子は、糟屋(現・福岡県糟屋郡)の屯倉をヤマト政権に献上したため死罪を免れたとあるので、末裔がいてもおかしくはないかも。
ブログ管理人の反逆精神には磐井のDNAを彷彿とさせるものがあります。

2008年12月25日 (木)

守武翁と飛梅   乙四郎語録26

八女戦国百首和歌「夏日侍」をよむ

   
         竹橋乙四郎      

▼ 飛梅の発句ではじまる守武千句

飛梅といえば、書道用半紙に「飛梅」というのがあったような記憶が。今はミミズが這った跡のような(なんて言ったらミミズさんに失礼な)字しか書けないのだが、小学校の頃は、揮毫会で入賞して太宰府天満宮に張り出されたことがあった。その時に使った半紙。
かくも「飛梅」というのは筑紫人には特別の響きを持つ語彙。飛梅といえば天神様。
その飛梅が、俳祖荒木田守武の代表作の冒頭句で登場するとなると、守武と筑紫との結びつきを意識せざるを得ない。
守武千句の中にこんなのが。

そゞろには成もはる/\"太刀はきて
 天神さこそつらきみちのく

とんでも超訳:「みちのく」は青森ではなく、道の苦、あるいは未知の苦。
(本来の落ち着き場所ではないので)心が落ち着かない場所まではるばる七支刀がやってきた。いや、天神様のほうが辛い苦難を負っていらっしゃる。

守武千句 :

http://sasa.org/~sasa/library/moritake/moritakesenku.html
   

守武千句*の末尾句。

もゝだちをとりてこきやうへ帰りきて
 天文九年しぐれふるころ

やはり、守武は天文9年まで長旅に出ていたのでは。
ところで、先述のはるばる旅してきた「太刀」の句。気になります。
他に、太刀を用いた句にこんなのがあります。

きるといふこともいはぬはみやこ人
 旅と太刀とのゆくゑしられず

ヤマト朝廷による虐殺と七支刀の略奪か。伊勢神官は何でも知っている。
こんな句も。鷹が出ました。

鷹が音やあかつきをさしてかへるらん
 はげたる太刀のつぼめ鳴ころ

ほかに謎めいた句。

ぬれ/\も蘇民将来朽やらで
 なみのそこにも家つくる世

「蘇民将来」というのは、日本各地に伝わる説話。
旅の途中でスサノオが宿を乞いた際、裕福な弟は断り、貧しい兄は粗末ながらももてなした。後に弟一族は滅ぼされたというお話。朝廷に逆らった高ピー磐井が滅ぼされたことを、それみたことかと揶揄しているのかも。
とんでも解釈:ところがどっこい、筑紫に来てみたら、磐井の末裔はしぶとく生き残っており、矢部川の底みたいなところに築城しようとしているではないか。

少人のいにしへ今のひとりごと
 いつかほうしのうかび出まし

とんでも超訳:今は、立場上、守武はひとりごとを言うしかないが、いつか宗祇法師みたいな方が語り継いでくれましょうぞ。

* 俳諧独吟守武千句は天文五年に立願、その年の冬には草稿を作り、天文九年、守武68歳の初冬に「飛梅千句」として完成をみる。(年譜より)

かささぎの旗管理人による参照記事

▼ 高橋睦郎著 『百人一句 俳句とは何か』
       中公新書1455
   (後学のため無断引用をなにとぞお許し願います)

落花枝にかへると見れば胡蝶かな  守武

 エズラ・パウンドといえば、T・S・エリオットの長詩『荒地』を三分の二に添削し、アーネスト・ヘミングウェイに小説を書かせてその文体を鍛え、ウィリアム・バトラー・イエーツに能の台本を書かせ、ジェイムズ・ジョイスの大小説『ユリシーズ』執筆を支えたという二十世紀英米文学の大伯楽だが、詩人として彼が標榜したイマジズムのシンボルとして挙げたのが荒木田守武の掲句だった。
 爛漫の桜が散りはじめたさまを眩しい思いで見るともなく見ていると、散ったはずの花びらの一枚が枝に帰っていくではないか。まさかと思ってよく見ると、落花さなかの枝にまさに止まらんとする蝶だった。砕いて読めばこんなところだろうか。
 パウンドがこの句を推奨したもう一つの理由は俳句の五七五という短さにある、と思われる。詩の表現は簡潔であればあるほどよいとしたパウンドのことだから、五七五という短さで詩の定形が成立するという事実は奇蹟に思えたに違いない。パウンドにとって俳句五七五音律は、世界最短にして世界最高の詩だったのだ。
 守武は伊勢神宮内宮(ないくう)の神官を世襲した荒木田氏一門薗田(そのだ)家当主守秀(もりひで)と同門藤波家氏経(うじつね)の女(むすめ)の間に生まれ、父や兄たち(姫野註・守武は九男、但し通説)の死後、晩年になって正四位上、一禰宜(いちのねぎ)長官になった。荒木田家は外宮(げぐう、またとつみやとも言う)の度会(わたらい)氏とともに平安期以降文芸活動で知られ、守武の編んだ『荒木田集』に入った一族の連歌作者は、じつに五十五名を数える。とくにその中でも傑出した氏経を外祖父に、宗祇と同座したこともある守秀を父に持つ守武は、自分の本領を連歌に置いていたようだが、晩年の天文九年(1540)法楽のために完成した『守武千句』によって、宗鑑と並んで俳諧の鼻祖とされる。
 守武の発句、次のとおり。

 とび梅やかろがろしくも神の春
 撫子(なでしこ)や夏野の原の落し種
 かささぎやけふ久かたの雨(あま)の川(がは)
 茶の水に我とふたする氷かな

 天文十八年七十七歳で没。同じく俳諧の鼻祖とされる宗鑑とも交流があったようだが、宗鑑が十数歳以上年長だった

以上で引用おわり。

▽ かささぎのひとりごと

ももだちの一句。
守武450年忌連句大会入賞の副賞に桃の形の置物がありました。
守武は「桃神主」とよばれていた。家号が「薗田桃神主家」、桃が家の印だったから。・・・という注釈があります。ももだちは百太刀ですかね。たくさんの刀、それとも立派な刀?

かささぎの一句。
これは高橋睦郎先生にもお尋ねしたい。この時代もルビはつけたでしょうか。
雨の川と書いて、天の川。
なんのために。
俳句実作者としてのカンですが、実景にみせかけるために。
「久かた」は天にかかる枕ことば、それを久方ぶりの久方に転じ、天の川を雨の川に移している。
まるでかささぎを守武は知っているかのよう。

 

大内氏関連でみつけた落首一首

大内文化について 大内文化コラムより引用

都よりあきなひそうぎ下りけり
    言の葉めせといはぬばかりに

   

2008年12月24日 (水)

年号表記のなぞ  乙四郎語録25  

年号表記のなぞ

八女岩戸山伊勢宮に伝わる、天文歌人24人による
  百首和歌「夏日侍(なつひまち)」 巻末年号
  (天文廿四年 癸卯 卯月廿五日)

   

八女戦国百首和歌「夏日待」をよむ

          竹橋乙四郎

▼ 中世の青森と八女  響きあう年号表記法

昨夜放映のTVQ 「7大歴史ミステリーSP!!」
濃姫の没年のくだりで、“慶長17年壬子7月9日”とあった。
年と月日の間にその年の干支を表記。
中世の併記法らしい。

このような、元号年と干支とを併記して記年した例を探したが、ネット上にはあまりない。ネット上で検索可能となるためには、誰かがキーボードに打ち込まなければならないわけで、残念ながら考古学的資料の多くはネットの外に存在している。
数少ない併記例のひとつに、青森県の田屋熊野神社の例があった。
「文明18年太才甲午8月21日」の記年銘で、なぜか干支が間違っているとある。
文明18年の干支は甲午ではなく丙午。
甲午は12年前の文明6年の干支。

青森県は九州王朝とは関係なかろうが、ここでも12年のずれ。

偶然だろうか?

▼ つぎつぎ見つかる十二年のズレ!

藤氏家伝

12年のずれ、もうひとつ見つけた。

藤原氏の家伝書(鎌足伝、貞慧伝、武智麻呂伝の三点が伝わる)で西暦760年前後に作られたもの。
鎌足の生年。藤原家伝によれば、中臣鎌足大臣は豊御食炊屋姫天皇こと推古天皇34年、甲戌の年に藤原の地で生まれる。
「大臣以、豊御炊天皇卅四年、歳次甲戌、生於藤原之第。」
推古34年は丙戌のはずなのに、12年前の推古22年の甲戌を表記。

2008年12月23日 (火)

張形としての俳句

きのう書き上げ速達で送った原稿が届いたと、超結社誌『九州俳句』誌、新編集部の夢野はる香さんから今朝電話がありました。

長く書かせていただいているので、中村重義編集長が退かれる時は自分もいっしょにやめようと思っていました。しかし、新編集部から原稿依頼を受けると(断わることもできたかもしれないのに)、引き受けてしまいました。

題、「現代俳句と女たちー張形としての俳句」 です。
これを夢野さんは、新編集部になったので、あたらしくほかの題にかえませんか。といわれました。
はあ・・・そうですね。考えてみます。とかささぎは答えました。

八女人の性格をご存知ないようです。

いやなこったい!!っておもうのだ、こんなときは。
ところが、穏やかに話される同年齢の夢野さんとやりとりしてるうち、すこしひく。
年取って、段々丸くなるじぶんがかなしいよ。

はりかたって、すごい意味があるんですってね。
とおっしゃいました。
そうなのですか。
かささぎはよく知りません。(と、すっとぼけた。)笑
嫌悪感でも忌避感でもなんでもいいから、目にとめてもらって、なにかをつよく感じてもらうことが目的でした。
それには成功した、と思うのです。
だって第一回目、年配の女性俳人がたから総スカンくらいましたもの。
あれはじつにきもちよかった。
かけども書けども何の手ごたえもないのは、哀しいじゃないですか。

連載をはじめたころ浮世絵にこっていて、江戸学者の田中優子さんの本を読んでいるうちに、思いついた題です。深夜にひらめき、これしかないっておもった。
頭韻を踏んでいるし、きれいだし、インパクトがあります。
どうだ!って感じの一球入魂の文章を書くのだ。誰が何と言おうと。
と、かささぎはそう決意して、連載を始めたのでした。

きづけば14回も書いていて、だから昨日ので15回。
ってことは、四年ものです。長い!

さて。題をどうする。
むこうの押しがかつか。かささぎの反逆がかつか。

どっち。(クリスマスまでに結論を出す。)

p/s  来年は、ジェンダー学を学びたい。
   

たいめし

たいめし

こつはタイをあらかじめ焼いておくこと。
たきあがったら、ほぐします。
土鍋だと、中火十分、沸騰して五分。
あじつけはふつうのかやくごはんとおなじ。
みどりのみつばときいろの金糸玉子をさいごに散らす。
(先日のエーコープ料理教室での一枚)

荒木田守武 乙四郎語録24

荒木田守武

  『荒木田守武』平成11年8月8日発行
 編集: 俳祖荒木田守武翁顕彰会

松尾芭蕉えがく『荒木田守武肖像画』 神宮文庫蔵
題字 守武翁の自筆署名(世中百首) 神宮徴古館蔵

八女天文年間百首和歌「夏日侍」をよむ

     竹橋乙四郎

▼ 飛梅

伊勢神宮の宮司、渡会春彦(別称、白太夫)は、菅原道真が左遷(西暦901年。右大臣から筑紫国太宰員外帥へ)される折、形見に秘蔵の梅と松の鉢植えを託された。


<東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ>


 一年後、道真が白太夫に托した松が枯れた。管公の身を案じた白太夫は、梅鉢をかかえ、農夫を装って道真のもとへ。会った事が知れると罪に問われる白太夫の身を案じて、道真は「都の梅が一夜のうちに飛んできた」と周りの者に告げた。
これが、伊勢神宮からはるばる太宰府まで飛んで行った梅の伝説。
そして、荒木田守武が天文9年(1540)に出したのが、独吟千句集「飛梅の巻」。

<飛梅やかろがろしくも神の春>

この天文9年というのは、山崎宗鑑が没した年。宗鑑の句に<うずききてねぶとに鳴や郭公>というのがあるが、「卯月が来て声太く鳴いているのはホトトギスですよ」という意の他に「根太(=腫瘍)が疼いてきて泣いているホトトギスさんよ」という、親しい荒木田守武の病気(根太)を案じたものでもあるとか。1528年から讃岐国に籠もっていた宗鑑と交流が深かったということは、守武が宗鑑を慕って西方へ旅することもあったのかも。宗鑑はできもの(ヨウ)を患って香川県で亡くなっている(辞世は<宗鑑はいづくへと人の問うならば ちとよう(ヨウ)がありてあの世へといへ>)ので、宗鑑の見舞い(あるいは葬儀)のために香川県へ出かけ、そのついでに太宰府へ行った可能性もあるのでは。

挿絵入り、宗祇と守武の作品
   ↓

http://www.bekkoame.ne.jp/ha/a_r/sinhakken_081-085.htm

いちばん下の絵の右二つ。資料No.85

かささぎの旗管理人:

そのうたは、そういう背景があったの。へえ。しらなかった。よくおぼえていないのですが・・、落花枝にかえるとみえて蝶ちょかな*・・みたいな句。これも守武だったでしょうかね?四年前八女市制50周年記念で高橋睦郎先生が講演なさったとき、この句をとりあげて、これが西洋詩のイマジズムに影響を与えた。とおっしゃいました。エズラ・パウンドらの。

* 落花枝にかへると見れば胡蝶かな  荒木田守武

エズラ・パウンド:http://www.columbia.edu/cu/ealac/japanese/05S04.Essay.html

上から五番目 ザッカリカー “Pound and Profound”

2008年12月22日 (月)

面接にくる人が増えた

にわかに増えてきました。

事務所に面接に来る人たち。

交通誘導でもなんでもしますといわれます。
毎日二人はいらっしゃいます。
これまで二週間~ひと月に一~ニ人だったのに。

賞与も各種保険もないというのに、冬場は昼も夜も連続して勤務しなければならないというのに。

先月事務に入った高学歴のまじめな青年も、がんばっています。
柳川駅まで自転車で出て、駅に自転車を預け、電車で久留米駅まで、そこからはまた駅の駐輪場に預けている自転車で来るのです。時間もお金も労力もかかるけど、どこか泰然としている。現代の修行僧。

やっと受託先にこちらの思いが通じました。
現場が四箇所もある建築会社、それぞれの箇所ごとに長い請求書を二種類書き提出します。これまではこちらに有無をいわせず百円以下の端数は切り捨てられていた。一箇所ならともかく四箇所あわせて数千円にもなり、その上に協賛金だ手数料だと引かれるので、さすがにむっときて、立場もわきまえず、「そういうことはやめてください」と伝えたのが先月のことです。
それが効いたのか、今月は聞いてくれました。
端数を切り捨ててもいいかと。端数は七百円でした。
「申しわけございませんが、引かないで下さい。一円も。」
こちらは全く余裕がないのです、と。
向うは、はいはい。では引かないでおきましょう。
とおっしゃった。
我慢せず、言うべきはきっちり言おうときめた。

連句的:

き坊の棲みか:http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/kibo/kinkyo.htm#saisin

伊勢宮の御札と御師

きのう、らんちゃんがお昼にちょっと立ち寄った。

わたしは書かねばならない原稿をいっしょうけんめい書いていたが、筆が進まなかったのもあり、中断して、時間が一時間半しかないという彼女と福島のさかえ屋に行き、選んだ和菓子と和菓子用のおいしいコーヒーを淹れてもらって(これで三百いくら、安!)近況を話しあった。おかげで気づかされたことが一つある。忘れぬうちに書いておこう。暦論とも君が代ノートとも通じることだから。

暮になると、毎年うちには伊勢宮からの御札が届けられます。
どこのうちもそうかと思い込んでいたかささぎですが、どうもそうじゃないようです。配られているのは、遺族会のお世話人さんでありました。「天照皇大神宮」と書かれている昔ながらの御札、代金は払います。

従来、この御札と伊勢暦をとどける下級神官(すみません。そう書かれていますんで)を御師と呼びました。

伊勢宮の内宮の人と外宮の人と風の宮の人、それに御師の家の人までが連句誌れぎおんにはいらっしゃいました。これは偶然そうだったのですが、今思うとふしぎといえばふしぎです。

御師:http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/onshi.html

かささぎの旗では、以前その御師の家の俳人の句集をとりあげて紹介していました。
これです。http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_a036.html

村田治男先生は、かささぎが初めて前田圭衛子師の座での連句張行に参加したとき、同座したそのときすでに長老の先生でした。いまは隠居なさっておられるとお聞きしています。みんながうなる恋句を出されました。これ!

掌中の玉こねこねと佳し   村田治男

             百韻歌仙平成九年、六甲山にて
             (題を忘れました)

村田先生は偉大な詩人であり、戦争体験のある俳人、連句人でした。

連句的:

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/post_3e7b.html
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_cdc4.html
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_a4fb.html


2008年12月21日 (日)

暦感覚宗教感覚、パンク!  乙四郎語録23

八女天文百首和歌「夏日待」をよむ

     竹橋乙四郎

八女天文百首は天文24年の奉納なのに、天文12年の干支の記載。謎深し。
古田氏の九州王朝説に推古紀の「12年のずれ」問題というのがあるそうです。
推古紀の“日本”の記録が12年ずれていると仮定すると、大陸側の記録との辻褄がぴったり合うという古田仮説。
推古天皇といえば、天皇号が初めて用いられた“日本”の君主。いわば日本の元号、暦の始まりの頃。こんな時に実年次が12年(干支の一巡)もずれているとしたら大変なことなので、古田仮説は総スカンを喰らっています。
なお、“九州王朝”には、それ以前から独自の九州年号があったとか。

とんでも仮説:
九州の知識人の間では、九州王朝以来の伝統を重んじる裏文化が残っており、大和王朝以降に使用を強制された元号を用いる際にも、レジスタンスとして九州王朝時代に用いていた12年ずれの干支を小さく付記した。

▼「遷干」使用例

「出自幽谷、遷干喬木(ゆうこくよりいでて、きょうぼくにのぼる。※うつるとも読む) 」(詩経「伐木」全18行中2行目)
ウグイスが深山の暗い谷間から飛び立ち高い木に移ることにたとえて、学問に励み立身出世をすること。
「依鳳勅初遷干陸地、是今太敷立場也」(雲州日御碕社記)

それにしても、鷹尾宮は神功皇后以降の三代を祭神としているのに、それ以前から鷹尾宮があったとは不思議です。

かささぎの旗管理人:

奥野純一http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-okuno-junichi-isejingurengano-kenkyu.htmとその周辺のいくつかをうろうろしました。法楽という言葉の意味やいろいろが入ってきました。

手元に一冊だけある資料に、守武は24歳のころ飛鳥井雅親の家集を書写する。とあります。あすかいまさちかには『亜槐集』あかいしゅう。という家集がある。でも、なんでこのひとなんだろう。あかい。閼伽井だから?読んでいませんのでカンですが、この題の音のもつことたまがだいじだったんだろう。

『アラビアのロレンス』1巻をdvdでみた。
アカバ陥落。閼伽場陥落かも。

・・・と、しゃれで書いたのですが、本当だった!
アカバのあかは水のアクアから来てて、もとサンスクリット。
おとこの前厄はかぞえ24だから、守武の飛鳥井雅親の家集書写は厄払いの意味があったのだと思う。水は冬ではじまりの五行。芭蕉の冬の日とおなじで玉振りの法楽。てことは中東らへんにのこることばにある思想とおんなじではないですかい。
それと、なぜ十人なのかと(神宮の禰宜の数。いちばん偉いのは一のねぎで、もりたけは最終的に一の禰宜になっている)おもっていたけど、「太神の布告」、神を十と表記していました。この本、なんともいえない。わからん。太神とかいて、なんてよむのだろうね。おほかみ。大神とどうちがふ。本にはおおかみとるび、おほかむつみ神とも書いてる。そのおほかむつみがわからん。つみは罪ではない、積みである・・そうな。さっぱりわからんとです。でも、この本を世にだすのはきっとたいへんだったろうなということはわかる。昔でいえば神降ろし神示の膨大なやつを、戦争がおわる前年に受信し、書き留めたのが岡本天明。それは本人にもわからないものだった。それを解読して世に出す作業のおわりのほうの過程で、橋爪一衛という人がかかわっている。この本をみてもどうかかわったのか余りわからない。前書は古神道研究者・菅田正昭、あとがきの一人は天明の妻の岡本三典(みのり!ちなみにかささぎはこの名前さいきん見たと思った。安本美典、しかし彼はびてんだって。みのりじゃないのか)そして監修者・神示御伝人として。という文章を書いている人が橋爪一衛って人です。故人みたいです。この人も岡本とおなじ命じ大学。明治大学。ああそういえばかささぎは今年行った。ここの詩根幹。紫紺館。わけわからんうちになにかにくみこまれてしまってるような。冗談じゃない。

かささぎの夫はとても信心深い。その母上もまた。
ところがかささぎはぱんくしとるとです。
理由はじぶんでもわかりません。
ただただなにもおがみたくないしまつりたくない。
家にいくつのおまつりどうぐがあるとおもいますか。
にけんぶんです、にけんぶん。
ばちあたりなかささぎには天罰がくだるかもしれんとです。
でも、アラビアのロレンスの言ったことばを信じる。

Nothing is written.

運命は、ない。

▼ 竹橋乙四郎

天文の頃、伊勢神宮はたいへんな財政難で存続の危機に。
こんな記述を見つけた。http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/ktshk/sotsuron3.htm

=======================
此度の用脚は従前の如く上よりの下行の形式を執るものでなく、神宮側の直接交渉によって得られたものである事は、此間に於ける神宮側の積極的な対外活動とその成果を物語るものである。天文十一年十月廿六日荒木田守武より竹田我得に与へた書状の一節は、此の事情を明かにしてゐる。「内宮御遷宮御沙汰候へと都へ毎々注進申処 御大儀之由承 仰一禰宜何様にも調法可仕承候間 江州永原と申方を頼候 其も料足一度渡候いて去卯月二日御殿造立候へ共 于今御遷宮御延引候 重々注進申候処 十一月下旬かた可有遷宮候哉定候かくれ有べからず候 京都さへ御大儀候事勝手のみ御座候 其方ひろく御座候きこしめし分られ御合力有様に何様御かたへも御物語頼入候・・・」
=======================

とんでも仮説のように、とても七支刀を購入するどころの台所事情ではなさそう。しかし、神宮側があちこちへ寄進願い行脚に出向いたかもしれない。荒木田守武が九州入りしていた可能性はあるかも。

時代は違うが、次のような文献もあった。シンクロ。
・豐後風土記:半紙判寫本。安政五年。橋爪太神正澄。
・豐後風土記:寛政十二年荒木田久老校訂
(伊勢の荒木田久老神主校訂鼈頭して印行せられし也)

ここまで編集して、かささぎの気づいたこと。

引用元が干すという字と于(う。ここ・に・ゆ・く)の字を間違っている。

うはね‐かんびき【××撥ね干引き】
うはねかんびき」を大辞林でも検索する

漢字の「于(う)」は下をはね、「干(かん)」は下をはねないで、まっすぐに引くということ。字形の区別を覚えるための語

2008年12月20日 (土)

ハンヤ舞・ハイヤ節・ハイソ武士  語録22

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

     竹橋乙四郎

▼ 浮流の源流 『鷹尾宮のハンヤ舞』

九州各地のすべての浮立の源流ですか。
阿波踊りの源流は天草(牛深)のハイヤ節にあるというのを何かで見た記憶があるので、もっと広域の文化の源がここにあったということかも。

アジア・アフリカ各地の民族を実地で見聞してきた経験からいえば、「文化」は太鼓のリズムに合わせて歌い踊ることから始まっているように思います。
日本という国の起源を探る時に、古事記/日本書紀や大陸の古文書から探るというやり方だけでなく、日本固有の「文化」の起源を突き詰めてゆくというやり方があってもいいのかな、という気がします。
乙式とんでも仮説でも、「俳諧」という文化が、伊勢宮(荒木田守武)と筑後(橋爪鑑実)とを結ぶ謎解きの鍵となったわけですし。
ちなみに、ハイヤ節の牛深は、乙が大学を転学して医師を目指すことになった、人生の転機を与えてくれた恩人の医師のおられたところ。乙式浮立人生の源流の一つでもあります。これ、シンクロ。

今、これを書いてて、唐突にひらめいた。

筑後のハイソな武士たちと伊勢の太神宮の荒木田守武との間に何らかの交流が生まれ、その結果として、橋爪鑑実は荒木田守武の影響を受けて、後に俳諧会を開催した、というのが先日のとんでも仮説だったのだが、ひょっとして、交流の結果として、荒木田守武は俳諧の着想を得た、という仮説は成り立たないだろうか。

とんでも仮説:俳諧誕生物語。
荒木田守武は筑後地方に来て、歓迎式で、破牟耶舞の歌とリズムに触れる機会を得た。「ヤーハンヤーイヤオワオンハー」と五音節と七音節の組み合わせで連綿と続く節回しは魂に響く。連歌とはまた違った味わい・・・う~ん。

かささぎの旗管理人記す:

うーん・・・それはないでしょう。
記録にありません。
記録といいますのは、手元にある『荒木田守武』年譜。
これがすべてとはおもわないが、想像するだに「そりゃないだろう」と思います。
伊勢宮のねぎがどんな生活をおくっていたか、ちょっと引いてみますと、こんなかんじです。

15才のとき、亡くなった外祖父の代理で十禰宜に任じられる。
そして、
17才からはもう、じっさいの「ねぎとしてのいのりの仕事」がばんばん入ってくる。
それはこんなことばで書かれる。引く。まんまじゃなく、かささぎのわかりやすいことばに変換する。
「延徳元年1489、守武17歳、1月、ニ星合のため七日間の御祈を命ぜられ、内宮十人の禰宜が連署して奉仕した旨を言上する。
同年十禰宜のひとりが欠け九禰宜になる。その九人連名で、宇治の一乱で疲弊したため、新禰宜を雇い入れる任料がないので、どうかご勘弁くださいという願書を出す。十二月にはまた内宮禰宜連名で今神明破却等を願い出る。」

「永徳三年、十九歳、守武、母の42歳の厄年にあたり、祈念法楽のため毎日発句を詠む。(荒木田守武集)。三月、一人死亡し八禰宜となる。六月、ニ星合のため七日間の御祈を命じられ奉仕。九月、一人退任により七禰宜となる。」

「明応三年、二十二歳、三月、流星のため七日間の御祈を命じられ、奉仕する。五月、地震のため七日間の御祈を命じられ奉仕する。五月、変異・地震のため御祈を命じられ奉仕する。七月、炎旱(炎暑と旱魃)のため御祈を命じられ奉仕。十月、ニ星合のため七日間の御祈りを命じられ奉仕。」

「明応四年、二十三歳、(先に引いたことですが、)いすゞ川氾濫により兄とともにかなりな距離まで下流にながされるも助かる。それは八月八日。ついで九月二十六日、宗祇選の『新撰つくば集』に兄とともに一句づつ入集する。」

このあたりから文藝関連のできごとが多くまじりだす。
はじめて連歌のことばがでてくるのは、

「明応八年、二十七歳、荒木田守兼、守保らと一座連歌を興行する。(伊勢神宮神官連歌の研究*)」

長くなります。疲れたので、(つづく)。

伊勢神宮神官連歌の研究*・・・奥野純一著・
            昭和五十年発刊、日本学術振興会

↑の本をかささぎは読みたい。
なぜなら、乙四郎の説がほんの少しでもかすっていれば、つまり、真実の周縁にあるのなら、このような研究書の資料のどこかに、ほんのささいな事実のきれっぱしくらいは探せるかもしれません。それに、神官連歌ということばから、ひょっとして、豊饒美濃守というのは、みのりのかみ、御法の守で神官だったのではないかなあとも思えてきました。こんなふうに素人はなんにもとらわれませんから、おもしろくっていいよね。
ちなみに、近年の朝顔八月八日の俳句大会に招かれる俳人のお名前の筆頭は、なぜかいつも鷹羽狩行氏なのはなんでじゃろう。

追伸

つぎの漢文を訳せ。

而自橿日宮南到八女県、航海遷干鷹尾宮

かささぎ訳:

じんぐう皇后は、(なびかなかった)たゆつひめを討とうとして、香椎の宮から南へ下り八女つあがたへ行き、そこからさらに干潮の川を航海し鷹尾宮へでる。この、「航海遷干」ということば。なんだろう・・・。かささぎのあたまに、海へいったんはそ知らぬ顔で出た舟が、そこから干潮のときを見計らって川をさかのぼってゆくイメージが浮かびました。戦争にそういう策略は必要だったと思われます。無駄のない漢文表記に、まるでイワイが背後からヤマトにうたれたときのような緊迫した雰囲気を感受します。

漢文は俳句にどこか似ている。
漢字と漢字の隙間をうめるのは、イメージだけです。
この文章、プロはどう読んでいるのでしょうね?(検索でなぜ出ないの)

2008年12月19日 (金)

柳川鷹尾宮の破牟椰舞 乙四郎語録21 

八女戦国百首和歌「夏日待」をよむ

      竹橋乙四郎

▼ 鷹尾宮の破牟耶舞

昨夜は鷹尾城泊。今朝、夜明け前、近所散策。鷹尾城主の墓碑があった。説明板を懐中電灯で照らすと(怪しげなおっちゃんとしか見えない・・・)、毎年10月に破牟耶舞なるイベントが開催されるとか。
さっそく検索。
「ヤーハンヤーイヤオワオンハー」と囃しながら舞う古風な踊りとか。

(由来)
 

神功皇后、欲討田油津媛、而自橿日宮南到八女県、航海遷干鷹尾宮、時人歓迎献海鯽魚、奏舞曲、後世号其曲曰破牟椰舞也云々。(筑後風土記)
   ↓

http://www.fsg.pref.fukuoka.jp/e_mingei/detail.asp?id=76-3

▼かささぎの旗管理人がネットで拾った説明

浮立(ふりゅう)の起源

諫早の浮立は、佐賀県・福岡県等で演ずる物と少しく異なるものもあるが、九州各地にあるすべてがその起源を一にするものではないかと思われる。ある者は鎌倉時代に起こった田楽の変化したものであろうと言い、ある者は里神楽の遺風だろうと言い、徳川時代に入ってある国学者は、肥前に行って浮立というものを見たので『・・・里かぐら、月の夜かけて鼓うつなり』と詠じ、その演奏が一糸乱れず実に面白いと書き残している。しかし田楽や猿楽に先立って、浮立に似たものがあったのではなかろうか。筑後風土記には破牟椰舞という舞曲が現れている。
 神功皇后、欲討田油津媛、而自橿日宮南到八女県、航海遷干鷹尾宮、時人歓迎献海鯽魚、奏舞曲、後世号其曲曰破牟椰舞也云々。
この神功皇后歓迎のハンヤ舞が肥後も肥前も伝承され、それが浮立になったものではないだろうか。神功皇后の時代には太鼓はあったであろうが、おそらく鉦は出来ていなかったことと思われるから、ハンヤ舞は太鼓と手振りだけで笛を使ったかどうかも疑わしい。テンヤハンヤと囃しながら、不得要領でいい加減に踊ったのであろう。だから不得要領で日を送るものをテンヤハンヤで日を暮らすといった言葉も生まれた事と思われる。諫早地方にもハンヤ節という古い民謡があるが、これも浮立のあるところにハンヤ(ハイヤ節と呼ぶ地方もある)が謡われる。破牟椰舞に関係あるものかどうかを明らかにすることはできない。ハンヤ舞を源流として数百年間、おそらく農漁村の唯一の娯楽として伝えられ、神事の場合はこれを奉納舞としたのが、後代になり音色良き鉦が加わり、明笛が取り入れられて今日の浮立となり、更に徳川時代に入って諸物資が豊かとなり、浮立の衣装が出来、多くの踊りも加えられて今日の諫早浮立のような華美なものとなってきたのであろう。
<諫早市史第三巻>http://www.isahayacci.com/s_history4.php?group=10

年の瀬に「源」を考える

詩は、ひとつの国の記憶といってもいい。
       オクタヴィオ・パス(メキシコの詩人)

民族の生命の光というものの起源を詩と呼ぶならば、当然その源は〈国の記憶〉の中にしかないわけです。〈国=くに〉とは、文明以前、あるいは文明以外と言い直してもいい。文明によって覆われて見えなくなってしまっている基層の中にしか宿っていないもの、それが〈国の記憶〉です。 
         
      宗 左近のことば
 
    『宮沢賢治の謎』 (新潮選書)より

▼ かささぎの連句的

けさ起きると、神棚のまえに一冊の本が置かれているのが目に留まった。
こんど夫がでていくとき置いていったのだろう。
『太神の布告』岡本天明著。解説橋爪一衛。
そうだ、夫はこの本にこっていたときが以前あった。
なにかが心にふれてくる。
そうだ、ぼんの書いていた文章。
日、月と休めず・・
(これを私は曜日とわからず、なぜ「ひ、つきと休めず」なんてぼんは書いたのだろう。って意味にとってしまったんだった。考えたらすぐわかることなのに、数日意味がわからなかった。なんてへんなわたしのあたまだろう。)

さいきん、あったな。なんだった。
そうだ、火付きけいびほしょう。日月警備保障って見た。
盗難事件。
まだ、ある。
そうだ、橋爪!

解説をかいた人を検索すると、妙なものがでた。
消火栓の研究。
松果体をしらべていなさる人らしい。

すべてが霊的。

かささぎの旗で「宗 左近」:http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_d7bb.html

2008年12月18日 (木)

鷹と鳶、地名考察  乙四郎語録20  

八女戦国百首和歌『夏日待』をよむ

        竹橋乙四郎   

▼ 飛形山(とびかたさん)

名前の由来は検索すれば出てくるが、どうも合点がゆかない。
素直に、鳥が大空をゆったりと飛んでいる形の山、と言われたほうがすっきりする。
飛形山の存在感は、中村八大作曲の福島小学校校歌(http://www8.ocn.ne.jp/~fukusho/)のとおり。
1番「飛形山」、2番「石人」、3番「矢部川」。

松延寛之の「飛鷹」は鋭い。
あの山の神々しさに似合うネーミングだと思う。
鳶は鷹より格下(用例:鳶が鷹を生む)なので「鳶形」ではあの山の存在感に似合わない。
鷹尾城で気になってたのは、なぜ「尾」なのか。
飛形山が「飛鷹」だったら、その謎が解ける。
山内の鷹尾城は、もはや跡形もない。
1615年に幕府の一国一城令により多くの城が廃城となり、石垣は解体され、土に埋められた。
ここは何だったのだろう。
城にしてはあまりにも小さく、犬尾城(猫尾城[黒木町の城山]の支城)とあまりにも隣接しているのが不自然。犬、猫、とくれば次は猿だろうに。
同じ筑後地域に同名の城が二つというのは偶然の一致ではなかろう。
大和鷹尾城の財宝、古文書の隠し場所、禁足地だったかも。
禁足地管理は犬に任せたとして。城跡に神社があるようであり、ちょっと気になる。実地調査候補地。山内には何かが臭う。クンクン。
(犬の糞かも。「鷹矢白」(たかのくそ)は、平安時代の医薬書『本草和名』(ほんぞうわみょう)記載の医薬品)

三題噺:「飛形山」「岩戸山古墳」「中島内蔵助」
http://image-search.yahoo.co.jp/detail?ei=UTF-8&fr=top_ga1&p=%E9%A3%9B%E5%BD%A2%E5%B1%B1&ib=20

筑紫の山伝説 http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-chikusi.html

あぜち

ちょっとタンマ!!

荒木田守武の資料みてた。
伊勢宮がいすゞ川の氾濫で、23歳のもりたけも兄上といっしょに流され「下流三町余にいたって助かる。」
これ、明応四年八月八日。
(もりたけ翁は77才の天文十八年1549年八月八日まで生きるとです)。

それと先日引いた『文学』って本に、あぜちがでた!
ほんとにびっくらこいた。つぎつぎ勝手に開かれるシンクロワールド。
けんれいもんいん徳子は助かったので評判悪いけど、本当の姿はどうかの研究。
以下引用。
・・・しようとしたが、無理無理。難解だしレ点つきの漢文!
ゆえにかささぎはあっさり投げる。そのかわりに、ウィキペディアのあぜち。これ、出ないか。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8F%90%E5%88%91%E6%8C%89%E5%AF%9F%E4%BD%BF%E5%8F%B8%E6%8C%89%E5%AF%9F%E4%BD%BF

また、以下は拾ってきた。
簡潔にして要を得たあぜちのコメント。

これはとてもおもしろい。
私もなぜ久留米なのかひっかかりましたもの。
それに、知らなかった!
古典離れもいいところだよね。
以下引用。(出典は下記サイト)。

按察使局(あるいは按察局)は宮廷女官の上臈の呼称として存在する。
従って複数の按察使局が居た可能性が高いと考える。
建春門院(平滋子)の側近に仕えた按察局とすれば、権大納言按察使藤原公通の娘である。
平家物語では、二位殿(平時子)が安徳帝を抱き入水、按察局も入水するが救助される。
吾妻鏡では、按察局が安徳帝を抱き入水。

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100827.html

ヴィーナス

このところ映画の記事をまったく書いてない。
これはいかん。

見てるのは見ていますです。それも米英と仏映画ばっか。

九州俳句誌に『張形としての俳句』っていう凛々しい題で文章を書かせてもらっているのですが、13回書き、行き詰ってしまってる。・・・ここからが本気だして挑まねばならんとこなんだ。でも壁にぶちあたってしもうとる。まったく何もうかばん。レッドクリフの戦いなんであるおーまいがっなんである。あしたまでになんとか果敢と書かんといかんとたい。

「セックスアンドザシティ」。
をみた。
一をみて*、ニの途中でギブアップ。
降参恒産。当分食傷。
一つ気づいた。
かささぎはひと月まえにパーマをかけたのですが、それ、もしかしてこのヒロインの髪とおなじだったのか?・・がーん。失敗してるので全くわからなかったが、きっと美容師さんはあのヒロインの髪型にしてあげたかったのかもしれない。
堺屋使用予約をしにいった市役所で中川ワタルにばったりあった。
近づいてきて「髪爆発してますよ」といいやがりました。わかっとるわい!

アメリカと韓国映画とでは性の描き方、考え方がまったく違う。
あたしは、どっちもいやだよ。どっちへ逃げても道がない。

ってところで、ピーターオトゥールの『ヴィーナス』、みました。

これはよかった。
印象に残った。
ラスト、波打ち際をヴィーナスの肩にすがって歩く、ヴィーナスに頼んで片足をはだしにしてもらって、水に足を浸す・・・
まるでそれは自分であるかのように、リアリティがあった。(この項、つづく)

* いつも借りられていた!ひと月まった。

2008年12月17日 (水)

臼杵鑑栄=鑑続か 乙四郎語録19

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

        竹橋乙四郎

▼ 臼杵鑑栄物語


鑑栄は、系図http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ot_usuki.html
によると、大友義鑑の加判衆をつとめた臼杵長景の長男で、長景を継いで民部少輔を称している。別の記述では、臼杵長景の長男は、長景を継いで1536年から1556年まで加判衆をつとめ大友家の外交事務(対外貿易)を管掌した鑑続となっているので、鑑栄=鑑続かも。鑑続は、臼杵鎮続の兄で、鎮続の前任の志摩郡代。

六十五  鷹狩    鑑栄
ふる雪に狩場の鷹の一つがひ
花をはらへる袖かとぞ見る

鷹の一つがい、というのは、山内の鷹尾城と大和の鷹尾城のことだろうか。

▼ 鷹尾城

古図とにらめっこして、自分の根城の位置がわかりました。
根城は、敷地の西辺と南辺が掘で、アオサギが営巣しています。
「大門」付近。掘ったら何か出てくるかな。
ところで、筑後に「鷹尾城」という名の城がもうひとつありました。
所在地は「八女市山内」。童男山古墳あたり。またシンクロ。

鷹のひとつがい

http://www.hb.pei.jp/shiro/chikugo/takao-jyo/
http://www.hb.pei.jp/shiro/chikugo/yamauchi-takao-jyo/

かささぎの旗管理人の感想:

鷹狩の歌、わかりませんが、つがいであることが必然的とは思えないから、考えていいのではないかと思った。
検索していて、矢野一貞(かずさだと思い込んでいたら、いってい)の和歌集があるのを知りました。買わないけど。でも歌人であれば、どのくらいの歌よみかはわかったはずで、だから目についた二人ぶんだけを紹介したのでしょうか。

前田先生がいわれたことですが、連句はだれもができるわけじゃないのよ、って。その意味を深くかんがえていきますと、おつしろうの人物指定はあながち突拍子もないことではない。こういうサロン文芸は、ある程度の余裕がなければめぐりあえないもののような気がします。(かささぎの場合は百姓であったことを珍しがられたために連衆に加えてもらえた)。また、たいがいが百姓で読み書きができなかった時代、よほどの文化人でなければ歌は詠めなかったろうし、字を読むことすらできなかったろう。紙もとても貴重でした。それを思えば、位の高い武士としか考えられない。この百首には、「地方武士の教養がわかる資料」と書かれた簡単な案内書がついていたのを記憶していますが、かささぎはなくしてしまいました。読めていない■があちこちにあって、だれも読み解く人がいないんだなという印象をうけました。これでは詳しい解説は書けないだろうとすぐ思った。それなら一から白紙の状態でよみたいというきもちがあって、だから案内書を紛失してしまったのじゃないかと今思う。竹橋乙四郎がやってくれるというのは、まさに運命。その読みの過程が生中継でみれるわけで、わくわくします。インターネットの時代になるまで待って、やっと初めて読める歌だったのでしょう。五百年近くもじっと眠っていた歌たち、起きなさい。

とびかたやま。という名前の由来をしりたい。
とびかたは鳶形ではなく飛形。意味があるとしたら鳶という音にあったのだろう。
鷹と鳶では鷹のほうが優れているのに、なぜとびかたにしたのか。
鳶が羽をひろげているようにみえるからだろうか。
とびのほうがやさしいかんじはしますけどね。
以前詠んだ正月の句

しなり良き八女の矢竹や初明り  恭子

八女福島の伝統工芸に弓作りがあり、矢も上等のは熊鷹の羽を使うらしいのですが、熊鷹は絶滅危惧種で滅多にいない。

▼ 松延寛之こと五木寛之の連句的

五木寛之の16歳のころの小説に出ている鳶形山とおぼしき山。
福島高校新聞部新聞から引用。発掘者は高橋甲四郎先生。

山の見える教室

紫がかつた山々のうねりが窓の外にかかつていた。筑紫山脈である。やや左手に一きわ高し、銀白の雲を背にそびえているのが飛鷹であろう。手をかざせば溶け込みそうな空の青さであつた。

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_d8ec.html

坊主頭

末子の三者面談がありました。
先生は開口一番、この子はよくわたしやみんなを喜ばせてくれるんですよ。とおっしゃいました。

担任の先生はとても元気のよい先生で、叱るべき時は火のように叱り、ほめるべきはニコニコとほめてくださいます。
剣道部の顧問をなさってますが、うちのむすこともうひとりの男子を特別に剣道部付きの学習部員として入部させ、部員の皆がきつい稽古に耐えているとき、二人には勉強をさせて監督してくださいました。家でまったく勉強をしない子に学校で七時半まで面倒をみてくださるのです。何とありがたいことではございませんか。
そのおかげで今日戴いた成績は見違えるようです。
いつつあった赤点が古文ひとつだけになっていた。
それも以前は12点だったのが24点。倍増です。笑

剣道部員はとても稽古が長くてきついのです。
土日は試合が入り遠征もありますが、ついていき、応援したりしていたようです。
クラスで一番か二番をとれば土日は休んでいいぞといわれて発奮しました。
結果、数学と世界史でとれた。本人が一番うれしそう。

親が嬉しいのは子の表情にひたむきさと明るさが戻ったこと。
この寒いのに坊主頭で夢にむかってがんばっています。
中学時代、よく悪さをして反省文を書かされては坊主頭にされていましたが、いまや自ら進んでの坊主頭。おちゃわん洗いも、おかあさんがきついならと気遣ってくれるようになりました。

人の気持ちが分かる様になるって、何より嬉しいことです。

2008年12月16日 (火)

冬の日

冬の日

午後四時十分ごろ久留米市

川ほとりの築城  乙四郎語録18

八女戦国百首和歌『夏日待』をよむ

         竹橋乙四郎     

▼ 川の流れに逆らって

時の過ぎゆくままにこの身をまかせ、ジュリーは還暦に。
川の流れに身をまかせ、テレサ・テンは42歳で死亡。
川の流れのように美空ひばりは52歳で逝ってしまった。
川の流れを鎮めんと、中島内蔵助は1652年、没す。
川は、怒ると怖い。
大きな河川は、大海へ出る直前には、広野を一直線にどど~んと駆け抜ける。
ところが、下の名前貼り付けを見てください。
矢部川は、鷹尾城のすぐ手前までのごく限られた距離だけ、うねうねと蛇行し、上流からの西への流れのベクトルを大きく南方へと曲げています。
ほぼ直角に蛇行してたりして、こういう所は川が氾濫したらイチコロ。
明日には川底になってしまう。
ここで大きな疑問。
なぜ、こんな危険な場所に鷹尾城を築城したのか。
築城申請の前々年の1534年には「大風37回も吹き、米穀類一粒もなく天下大いに飢饉し万民餓死す」ほどの天災に見舞われている。
さぞかし矢部川は荒れたであろうに、怖くなかったのか。

そもそも当時の築城は、臼杵鎮続の柑子岳城や伊勢の竜王山城を例にあげるまでもなく、高地に築城するのが通例。
近くに、女山(ぞやま)という、古代に堅牢な石積みまでしてある天然の要塞があるというのに、なぜ、矢部川の剣が喉元で見え隠れしているような広野に、わざわざ築城したのか。
まったく同じ疑問が鷹尾神社にも。これまで無事でいられたのが不思議。
古代、そんな危険な所にやんごとなき神社をわざわざこさえた精神がわからない。ここらへんには神社が多い。

ここで、とんでも仮説。
鷹尾神社(鷹尾城)は、ものすごく大きな古代建造物の上に建てられた。
矢部川は、この建造物に遮られて、川の流れを変えた。

ナイル河畔のスフィンクスだって砂土に埋もれてたんだし、堆積物が多いデルタ地帯の土の下に巨大建造物が埋もれているとしてもおかしくはない。
年に1cm堆積しても、500年で5m。
お城の石垣だって埋もれてしまう。
(女山でも、高地なのに巨石の上に1mくらい土が堆積してた。年に1mm弱の堆積があったことになる)

「矢部川」をクリックして「洪水氾濫シュミレーション」のポイント3
   ↓

2008年12月15日 (月)

鎮続は臼杵鎮続か  乙四郎語録17

八女戦国百首和歌「夏日待」をよむ

       竹橋乙四郎

▼ 臼杵鎮続物語

永禄の頃、臼杵鎮続は大友家の志摩郡代、柑子岳城城督として豊後より召し出されていた。
主として、大友氏の筑前西部経営に尽くした。永禄末年から元亀年間に博多合戦・志摩郡防衛に活躍し宗麟から感状を受けている。
志摩郡は、古く、蒙古合戦の恩賞にて大友家が領した地。
当時、大友宗麟は、毛利元就と博多の支配権をめぐって熾烈な戦いを繰り広げていた。宗麟は、博多周辺に立花山城、宝満山城、鷲ケ岳城、荒平城とこの柑子岳城を大友五城として諸将を配し、博多を守備させていた。柑子岳城は、筑前の西の地を抑える重要な拠点であった。
志摩郡は、今津から加布里へと通じる水道によって、対岸の怡土とは隔たれていたが、この頃には泊、志登の辺りで怡土と繋がり、半島の様を呈していた。低い山地の間の沃野には田畑が広がり、里々には泊、由比、波多江、中村、元岡、小金丸、馬場、松隈といった土豪が栄え、それらの諸家は「志摩衆」として臼杵鎮続の支配の許に在った。
元亀二年、臼杵鎮続は、大友宗麟の命で志摩郡代の職を解かれ、豊後に戻る。
(筑前国続風土記)

春・夏・秋・恋・雑のそれぞれの部の冒頭歌は鑑述か鑑実だが、冬の部のみ鎮続が担当。

かささぎの旗管理人の感想:

竹橋乙四郎には、気持ちいいくらい迷いがない。
さっさかさっさか竹を割ったように先へ行く。
えちょっとまって。どっからこの人がこの人だと決めたの。
ときいてる間もありません。かささぎはあっけにとられてみてるだけ。
しかし、(これがだいじ)違っていたら戻ってくる。
それは確かです。笑

この
百首和歌の分類、春の部とか雑とかの部立(ぶだて)、かささぎが勝手に大雑把に便宜上振り分けたものです。ですから、専門の人から見たらおかしいかもしれません。九州俳句という俳句誌の読者に、そんな細かなことをいう人はいませんでしたが、興味がなく読まれていなかったからではなかろうかともおもいます。さっぱりどうも自信がない。でも、俳文学者の故・東先生はなにもおっしゃらなかったので、これでいいんじゃないでしょうか。(こまかくいえば、雑にひとくくりしたもののなかには色々ありました。それはわかっていますが、いちおう。)

部立てとは:

http://www7a.biglobe.ne.jp/~katatumuri/poem/yougo60.htm#budate

暦感覚

天文二十四年 癸卯 卯月二十五日

これが八女戦国百首和歌の最後に記されている年号。
いまに置き換えるならいつか。
というのを昨日考えてみました。
捨て目を使うかんじで記憶のすみにとどめたい。
時間空間にシンクロという無意識の領域がある。
それを研究している気分になってきました。
最先端の学問をやっているなあという自覚が出てきました。
これ、とても大事なことかも。
名づけて、うーんなんにしよう。
ありあけ学。
トワイライトゾーン、さかいめの研究。

天文24年乙卯4月25日己丑小満

これが岩戸山古墳上の伊勢宮に伝わってきたという百首和歌「夏日侍」に付されていた年号を現代の暦研究書で調べなおした結果でてきた当時の日付です。

それがいまにおきかえたらいつかを調べます。
かささぎの数字は最近シンクロしていたブログ「き坊の棲みか」で換算してきたものです。

1、

かささぎ計算で5月25日、乙計算で5月15日。
誤差10日の原因は、かささぎ計算がグレゴリオ暦を用いているため。
天正10年9月18日(1582年10月4日)まではユリウス暦、天正10年9月19日(1582年10月15日)からはグレゴリオ暦です。ユリウス暦とグレゴリオ暦との差が10日。

天文年間頃の便利な換算表
   ↓

2008年12月14日 (日)

大興善寺と基肄城 さくら語録1

基山界隈

          神崎さくら

大興善寺の高い石段の下が戦死した父の実家で、小さな集落の中に清水の小川が流れ、沢ガニが生息し、山を見上げればお茶栽培、柿栽培の棚田があって美しいところです。
養子だった父が戦死したあと、再び義父を向かえ妹が生まれました。
大興善寺につつじが咲き始めると、妹と母と私と3人で、この大興善寺の下の祖母の家に泊りがけで遊びに行きました。
奥さんが前夫の実家に泊まりに行く、義父は黙ってそれをさせてくれたのでした。

ここのつつじともみじほんとに綺麗です。
HPがあります。(下記)
基肄(きいじょう)跡とは、普通は基山(きざん)と呼び、昔は何も知らず原っぱで草スキーできるのが楽しみで遠足していました。山頂に何か史跡があるって事は時々のぞいて知っていました。
こんな由緒あるところだったとは知りませんでした。

基山登山のブログ

http://ameblo.jp/qmaeda/entry-10153036277.html#main

大興善寺(中国):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%88%88%E5%96%84%E5%AF%BA

      (日本):http://www.tutujidera.ne.jp/

基肄城と基山:http://www.senior-net.gr.jp/kiyama/kii3/top/main.htm

下流大学に入ろう!

おつしろうの大学がここに載っています。

http://tyamauch.exblog.jp/9895753/

写真、やってくれます。うまいよ!

わたしも写真をとろうとしたけど、広大な田んぼの中にぽつんとあるそのイメージをなかなかうまく伝えきれず、・・。
案内板があっても、何度ゆきすぎたりもどったりしたことか。
荒野、そうか!

こうやの宮。http://www.geocities.jp/bicdenki/newpage74.htm#kouya
っていうのは、じつは廣野の宮なんだね。
七支刀を持った人形のある、大学のちかくの、全国的に有名な祠。
ユグドラシル、世界樹、生命の樹
のことです。

http://cse.niaes.affrc.go.jp/minaka/files/TreeOfLife.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E5%A1%94

保健医療経営大学は、ユグドラシルをめざします。

これ、かささぎが考えたキャッチコピー。

ちなみにかささぎの旗はいかなる営利団体にも与していません。
んが、今回は本の宣伝をしました。

山内太地(やまうち・たいじ
『下流大学に入ろう!』光文社2008・12・16刊
http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334934538

俳祖荒木田守武  乙四郎語録16

八女戦国百首『夏日侍』をよむ

      竹橋乙四郎

▼「こうやの宮」と中世俳諧


七支刀人形のこうやの宮の所在地、みやま市太神(おおが)。この、太神という地名が謎めいているので、乙式検索エンジンをフル稼働させたら、伊勢神宮太神宮というのを見つけた。言わずと知れた三重県の神宮なので、七支刀のある石上神宮も近い。
さて、太神宮法楽歌会で天文十一年に千首和歌が詠まれている。この時、荒木田守武という方が太神宮の祠官。この人物を検索したところ、「荒木田守武(1473-1549)戦国時代の伊勢神宮祠官・連歌師。山崎宗鑑とともに俳諧の祖とも言われる人物」とある。
かささぎ曰く
>この時代にまだ俳諧はありません
ということでしたが、俳諧の芽生えの時代ではあったかも。
http://www.pref.mie.jp/BUNKA/TANBO/Q_A/13.htm
に荒木田守武の才に関する詳しい記述があったので引用します。
=====(引用はじめ)=====
 守武は、禰宜職を務める一方、連歌などもよくたしなみ、その才能には優れたものがありました。十三歳のとき、宗祇の連歌集『老葉(わくらば)』を筆写したり、それから十年後には、兄の守晨とともに、準勅撰の連歌集『新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)』に一句入集を果たしたりしました。
 連歌全盛のこの頃、守武の名を高めたのは、四年がかりの推稿の末に仕上げた『守武千句』(『俳諧之連歌独吟千句』・『独吟千句』・『飛梅千句』ともいう)の達成(天文九年完成)です。そこから一句あげてみます。
   青柳の まゆかく きしのひたひかな
 この句は、川岸に柳が芽ぶく様子を、岸という額に柳眉(美しい女性の細い眉)をかくと見立てたものです。まだ和歌風で、この『守武千句』の作業が連歌の余技であった俳諧を独立の文芸の境地へと高め、俳諧の形態を確立する嚆矢となったようです。
そうしたことから、守武は、『新撰犬筑波集』の撰者の山崎宗鑑とともに「俳諧の始祖」とされています。この『守武千句』以外にも多くの著作物が知られており、『国書総目録 著者別索引』(岩波書店昭和五十一年)によれば、二一点あがっています。禰宜職に関連するものを別にすると、一七点が文学です。一夜で百首を詠みあげた『世中百首』、連歌師宗長の訃報を聞き日を置かずに追悼の連歌を詠んだ『宗長追善千句』、最晩年の独吟『秋津州千句』などがあります。
 そして、守武の俳諧に対する熱意と文学愛好者たちとの交遊が、後年に「伊勢風」と呼ばれる俳諧の作風の原点となったのです。
=====(引用おわり)=====
『俳諧之連歌独吟千句』とあるので、俳諧という用語は生まれているようです*。他のサイトにも「彼が文学史上に名を残したのは、天文5年から腹案を持ち同9年に完成した「守武千句」(飛梅千句)を独吟した事である。これは俳諧に千句という長大詩形を完成し、連歌体の俳諧形式を確立して、ともすれば軽視されがちな俳諧を本連歌と同様に価値ある文芸と認められて後世に伝えた事である」とありました。
 太神宮の古文書によると、荒木田姓は成務天皇の時に賜ったとのこと。これ以降、仲哀朝、神功朝、応神朝、仁徳朝・・・と、ず~っと神主姓。

「太神」で、もうひとつ、面白いのがヒットしました。とんでも脱帽。
皇祖皇太神宮(すみおやすみらおおたましいたまや)という茨城県北茨木市にあるわが国最古(自称)の神宮。
http://www.kousokoutaijingu.or.jp/legend01.html
この神宮は天地神一大神(あめつちまひとつのおおかみ)から神武天皇を経て今上天皇までのすべての代の天皇が祭神。別祖大神宮(とこおやおおたましいたまや)という別宮があり、ここは万国の五色人祖祖(いろひとおやかみ)(外国の国王、王妃、民主尊(みっとそん)ら)を祀る神宮だそうです。内宮外宮のはじまりとか。
「天皇が日本国だけの天皇となったのは神武天皇以後のことで、それまでの代代の天皇は一代に一度は必ず万国を巡幸(世界一周)されることを恒例とし天空浮船(あめそらうきふね)に乗って巡幸されながら、万国それぞれの国王、尊者、民主に謁(えつ)を賜り、任命されるなど光明赫灼とした、正に万国の棟梁、世界天皇でした」とのこと。ははあぁ~。
神足別豊(かんたるわけとよすき)天皇の御代にモーゼ、神心伝物部建(かんこころつとうものべたて)天皇の御代に釈迦、神武天皇の御代に老子、安寧天皇の御代に孔子、考安天皇の御代に孟子、垂仁天皇の御代にキリスト、欽明天皇の御代にモハメットとそれぞれ来日、参朝し、修業して帰りました、とのこと。おぉ~。
「このように皇祖皇太神宮は、特定の神だけを祀る神社(かみやしろ)ではなく、すべての神々を祀る神宮(たましいたまや)であり、ユダヤ教、道教、儒教、キリスト教、仏教、イスラム教すべてを包括する万教帰一の神宮であります。神州日本に生きる民族としての誇りを堅持し、世界の五色人もまた皇孫であるとの秘史の教えにしたがい、祖宗を祀り、世界の平和と繁栄のためにつとめることが、神宮を奉斉する私たちの使命です。」
 この神宮、他のサイトでも面白いのを見つけた。これは知ってた。
《昭和の初め、茨城県の皇祖皇太神宮という神社から、キリストはゴルゴダの丘で磔になったのではなく、死んだのは身代わりになった弟のイスキリで、キリストは日本に来て108歳で死んだ、というようなことを書いた古い文書が見つかった。場所は青森県三戸郡新郷村。昭和10年、皇祖皇太神宮の調査隊は新郷村に出発、村の小高い丘の上に塚を見つけ、これこそキリストの墓に違いないと判断を下した》。
《新郷村は昔、戸来(へらい)村と呼ばれていた。ヘライはヘブライが訛ったものではないだろうか》。
《キリストの墓とされたその塚は、代々沢口家が守ってきた。この沢口家の家紋は星型で、古代イスラエルの王ダビデのマークとよく似ている》。
《村では、生まれた赤ん坊を初めて外に出す時、額に墨で十字に書く風習がある》。
《村に古くから伝わる盆踊り唄の「ナニャドヤラー、ナニャドナサレノ」は、古代イスラエル語の「汝の聖名を誉め賛えん。汝の毛人を追い払って」の意味である》。

「天文年間、田尻親種は鷹尾城建築資金を得るために、城下の財宝、七支刀を伊勢宮へ売却した。売却金の一部は大友宗麟から築城許可をもらうための賄賂となり、それを宗麟は配下の戦国大名へ官位を乱発するための朝廷への賄賂に使った。長年の売却交渉に際し、伊勢神宮の和歌文化が筑後に流入した。親種は太神宮の荒木田守武の人となりに感銘し、七支刀のゆかりの地名を太神とした。橋爪鑑実は大友宗麟から美濃守の官位を頂戴し、伊勢の和歌文化にも感化され、今伊勢宮へ百首を奉納する気分になった。」というとんでも仮説を着想したが、皇祖皇太神宮の足元にも及ばないことを恥じ入り、この仮説は却下いたします。

▼戦国時代の俳諧
橋爪鑑実(一萬田鑑実)について、「元亀二年 (1571) 正月に俳諧を興行」というのがある。それ以上詳細な情報はネット上にはないが、年月を記した具体的な記述なので、どこかに何らかの根拠文書があるのであろう。書き間違いだろうと棄却するのは早い。
江戸初期の「俳諧の祖」松永貞徳は1571年生まれ。元亀二年までに鑑実に俳諧の影響を与えたのは、それ以前の「俳諧の始祖」荒木田守武(1473~1549)か山崎宗鑑(不明~1553)であろう。いずれにせよ、このような前衛文芸が、1571年に普遍的であるはずはない。かなり濃密な「俳諧の始祖」との接点があったに違いない。
やはり、伊勢の太神宮の荒木田守武と鑑実との間に、何らかの交流があったという仮説は捨てがたい。

▼石上神社と七支刀


日本最古の神宮は石上神宮。『日本書紀』に記された神宮は、伊勢神宮と石上神宮だけ。決して茨城県の神宮ではない。
天文年間、石上神宮の近くに、大和国最大級の城、竜王山城があった。ここの城主が十市遠忠(1497-1545)。歌人でもあり、太神宮や石上神宮に和歌を奉納している。土地の有力者は伊勢神宮と石上神宮を行ったり来たり。
織田信長の大和侵攻後、十市氏は滅び、信長の命により竜王山城は廃城となり1578年に破却された。その後、石上神宮は1585年に社禄を没収されている。七支刀は?
石上神宮では、御神体布都御魂剣等が拝殿背後に埋められ、禁足地とされている。禁足地には誰も足を踏み入れてはならぬ。
石上神宮にある柿本人麻呂の歌碑に、
未通女等之 袖振山乃 水垣之 久時従 憶寸吾者
(おとめらが そでふるやまの みずがきの ひさしきときゆ おもいきわれは)
『布留山(石上神宮の背後の神山、転じて石上神宮境内)に瑞垣(拝殿背後の禁足地の垣)が出来た昔から あなたのことを思っていました』
とあり、禁足地は柿本人麻呂の時代(660年頃~720年頃)以前から設けられていた。
この禁足地が発掘されて剣、矛、勾玉などが出土したのは1874年。宮司が「七支刀銘文」を発見したのは1876年。さも、この発掘での出土品であるように思えるが、どうもそれ以前から石上神宮にあったらしい。
明治以前、七支刀は「布留神剣」と称され、木枠に柄とともに差し込まれ、その上から「布留社御剣袋」という錦袋で覆われ、鉾のような姿で神庫の中にあり、神事には神体として出されていたと。
ところが、1720年に筆記された『石上布留神宮略抄』によれば、布留神剣は863年以降に神主が夢で見た若宮出雲建雄神(草薙剣)を模して作られた、とある。明治以前の「布留神剣」と「七支刀」とは別物?
そもそも本物なら、1585年に没収されなかったのが不思議。
没収される直前に、禁足地に埋めて難を逃れたのかも。事実、1874年の発掘時には鎌倉・室町期の瓦も出土したとか。室町時代に禁足地に埋められたものがあることは間違いない。

ここで、とんでも仮説。
伊勢神宮も、石上神宮と同じく、社禄没収のおそれがあった。伝統神器であればまだしも、鷹尾城主から買った七支刀は没収対象だろう。そうだ、石上神宮の禁足地に埋めさせてもらおう! 石上神宮には、将来、発掘されるであろう時まで、模造品を祀ってもらうことにしよう。正体がばれにくいよう、普段は錦袋で覆っておこう。宮司だけに伝承される秘密。

*

かささぎ脚注:

俳諧という言葉

十年ほど前、日本青年館での全国連句大会の講演(「芭蕉俳諧の真価」)において、国文学者光田和伸先生はこうおっしゃっていました。歌の種類は大きく分けて○と○と○と・・俳諧歌がある。その俳諧という意味は、もともと変わったとかへんなとかおもしろいとかいうような意味であった。(記憶です。これまた調べたらどこかに資料プリントがあるとおもいます)忘れていました。ごめんなさい。

俳祖荒木田守武没後450年忌連句大会というのが、あったんだった。
平成11年8月8日の日付の作品集と「荒木田守武」資料集が手元にあった。
れぎおん同人にお伊勢さんの外宮のかたと内宮のかたと風の宮のかたとたしか三人いらっしゃった。年忌は50年に一度、一生ものの記念になるからとそのとき巻いた一巻を奉納して、それが伊勢市長賞?に入賞した。おもえば、それはなんと大いなる縁だったことか。メンバーは佛渕健悟、高木咲耶、明坂小箔(あけさかこはく)さんとの四吟でした。この組み合わせはれぎおん前田師プロデュース、歌仙の題は「着ぶくれて」。そうだ、いぜん引用した。

あった!!

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_97c8_1.html

おお、なんとなくつながってきたではないか。

2008年12月13日 (土)

連歌の発生

連歌から俳諧へ

左・隔月刊『文学』2002年9、10月号(岩波書店)
右『荒木田守武』(俳祖守武翁顕彰会編・没後450年記念事業実行委員会刊)

「文学」

特集 連歌の動態

光田和伸先生は連句誌れぎおん巻頭で芭蕉の「冬の日」講釈をなさっていたプロの連歌師、高名な国文学者であります。かささぎは、連歌とはなにをもって連歌というのかがわからなくてうろうろしていたとき、この本が目に留まった次第。以下、ざざっと引用をお許し願います。

連歌の発生

あやにやし えをとこを あやにやし えをとめを 

ご存知、 いざなぎ、いざなみ二神のご唱和。55 55。
女神が先導するかたち。これが原初の連歌である。
ここから旋頭歌とよばれる577・577がうまれてくる。
独詠型と唱和型と並存する。この変化は大和政権に引き継がれる以前に出雲王国において起こっていたのであろうか。それとも継承以後に起こったのだろうか。スサノヲの神詠、

八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに
八重垣作る その八重垣を 57577

これはもう完成された短歌形式で立っている。

万葉集の旋頭歌62首のうち、作者不明歌はじつに51首。このうち、柿本人麻呂作とするものが35首、巻7に23首、巻11に12首とまとまって収録されている。一方人麻呂個人名の作歌はない。旋頭歌という形式は民謡、ひなぶりであったか、民謡に仮託して歌われる一種の牧歌だったろうか?それは作家が勝負をかけるような形式ではなかった。短歌を晴(はれ)の文学、旋頭歌を褻(け)の文学とする意識がもう、この時代にはあった。八世紀には旋頭歌の命脈はつきた。

旋頭歌にかわるあたらしい連歌形式は、現在広く「短連歌」の名で呼ばれている、575・77形式である。その最古の記録は、万葉集巻8の尼と大伴家持の唱和。

佐保川の水をせき上げて植ゑし田を
刈る早稲はひとりなるべし

中略。

古今風に花をうばわれて、短歌の風下にたった連歌に、あたらしい動きがおこる。鎖連歌である。その嚆矢は「いろは連歌」のように各句の頭に決まった文字を配して、つぎつぎに歌をよむ「冠字連歌」であった。

うれしかるらむ 千秋万歳
ゐはこよひ あすは子日と かぞへつつ   小侍従 
                           『古今著聞集』

これはその現存最古文献、1165年、藤原定家はこの3年前に誕生している。
鎖連歌では続けるための動機付けに制約を設けるが、この制約を連歌用語で「ふしもの・賦物」という。「冠字」はそのもっとも早い時期に誕生した形式である。(さいしょの歌いだしのことばを
決めてから、詠む歌形式である。小侍従の上記の歌は、いろはの「うゐ」をあたまに冠している。札幌の故クボタカオル宗匠に、この冠字連句としりとり連句でずいぶん遊ばせてもらいました。ほんとうに有難いことでした。いまおもえば。かささぎ注)

ふしもの、賦物は、とても高度な知的ゲームであった。
藤原定家は賦物連歌に参加することで新しい風、新古今調を獲得したのだろうか。しかし、定家の時代の鎖連歌の実作はきわめてわずかしか残っていない。わたしたちの目にする鎖連歌のほとんどは、新古今和歌集成立以後のものである。

ふしもの連歌は定家死後さらに発展し、上賦下賦連歌は百句をつづけるようになる。
それからいろんなスタイル素材が生まれ、飽きられ、いろいろとくるうちにやがて、去嫌連歌が発生する。さりきらいれんが。誕生した時代、発生場所は正確にはわからない。その
最初のルール、「連歌本式」は1260年のなかば文永のころの誕生と伝えられる。以後、ほぼ十年ごとに「建治新式」「弘安新式」という改訂版が出る。賦物連歌勃興期を代表する作者は、藤原定家であった。去嫌連歌の勃興期を生きた作者は『徒然草』の著者、占部兼好である。兼好は歌人としての誇りを維持し、連歌には冷淡だったといわれるが、徒然草の段落配列には去嫌連歌の展開を踏んでいるところが多くある。

連歌新式。
兼好晩年のころ登場する二條良基によって、連歌は完成をみる。1372年、良基が救済の協力で完成した「連歌新式」がそれである。以後、わずかな改定をみながらほぼそのままのかたちで、こんにちまで去嫌連歌の式目の地位を保っている。

さいごに、その式目の説明にはいるのだが、これは連歌の世界観、哲学の具現である。
引きたいが、肝腎かなめの部分であり、それは読者が本を手にしてよまれんことを願うのみ。

▼光田和伸先生のご本二冊。
「芭蕉、めざめる」http://seisoushobou.com/book/nonfiction/aaiacioaae/
「恋の隠し方」

(けっきょく、百首和歌の位置づけはまだよくわかりません。)

母と父の黒豆

ここ数日、軒の下にほされていた黒豆。

かなりたくさん。

それをきのう、父母がふたりでせっせと小さなビニール袋に定量ずつ計っては詰めていた。

いくつくらいあったろう。かなりな数・・・

金額にしたらたいした額ではない。

だけど、それを生産して、収穫して、人さまの食卓へとどけることが、父母のよろこびなのだ。

かささぎは、この両親から、うけついだ。
ははの気のつよさ。
ちちの気のよわさ。
その両方から、ひゃくしょうのくそまじめさを。

官僚番外編3 乙四郎語録   

円高対策会議の思い出

         竹橋乙四郎

円高が止まらない。1ドル90円を切る勢い。

あの頃もそうだった。1ドル80円台。
急遽、ハワイへ飛んだ。米国エネルギー省の高官との協議のため。
米国エネルギー省は、原子力行政の責任官庁。
放射線の健康影響に関する米国の研究拠点は広島と長崎にあり、そこへ米国予算がエネルギー省から支出されている。
広島と長崎にある(財)放射線影響研究所は、日本政府と米国政府が運営費を折半負担している世にも稀なる組織。
日本にある組織なので運営予算は円建て。
円高だとどうなる?
米国の予算を円に交換すると、やたら目減りしてしまう。
運営費が欠乏すると、研究所職員の給与が払えない。
研究所職員の大半は日本人。クビは切りたくない。
米国予算の増額をお願いするしかない。
かくして日米協議が必要となる。
ハワイは日米協議に最適の場所。
当時、他の案件の日米会議も含め、年に3度もハワイへ飛んだ。
3度とも、太平洋の海水の一滴たりとも触れることなし。
ホテルと会議室との往復の日々。
協議はすべて英語で進行。
これって、絶対、日本人に不利、不公平だよね。
戦争、負けるもんじゃない、と本気で思ったりした。

参照:

(財)放射線影響研究所

http://www.rerf.or.jp/index_j.html

あめりかのはたとひのまるがはためいているなあ・・・。
そこで、

はたはいや。
という人に、城山三郎詩のあるサイト。

http://pub.ne.jp/hiroooui/?navi_id=27426

かささぎはこの城山三郎って人の最晩年の写真をみると、かささぎ族の長老をおもいだすんでさ。

2008年12月12日 (金)

官位美濃守について  乙四郎語録15

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

        竹橋乙四郎

美濃守

美濃守というのは官位。
天文年間に次のような人物あり。

原虎胤
生誕 明応6年(1497年)
死没 永禄7年1月28日(1564年3月11日)
官位 美濃守

美濃守の官位を1527年に斎藤基雄から引継ぎ、死(1564年)後、馬場信春が引き継いだようである。従って、1555年の時点の美濃守は原虎胤。九州に縁のない人。
おかしい。この官位は乱発官位かも。

わかった。自称官位かも。以下、引用。
「戦国~安土桃山時代の武家官位」(Wikipedia)
戦国時代になると幕府の権力が衰え、大名が直接朝廷と交渉して官位を得る直奏のケースが増加することになる。朝廷が資金的に窮迫すると、大名達は献金の見返りとして官位を求め、朝廷もその献金の見返りとし、その武家の家格以上の官位を発給することもあった。たとえば左京大夫は大名中でも四職家にしか許されない官であったが、戦国期には地方の小大名ですら任じられるようになり、時には複数の大名が同時期に任じられることもあった。官位は権威づけだけではなく、領国支配の正当性や戦の大義名分としても利用されるようになる。(中略)
一方この時代には、朝廷からの任命を受けないまま官名を自称(僭称)するケースも増加した。織田信長が初期に名乗った上総介もその一つである。また、官途書出、受領書出といって主君から家臣に恩賞として官職名を授けるといったものまで登場した。豊臣秀吉が織田家重臣時代に使った筑前守もこの一つと考えられる。

かささぎの連句的:

        かささぎの旗管理人

みの。美濃。
から、まずイメージするのは斉藤道三。みの・まむし*。
時代はどうなの。道三はこの
翌年死亡。
そんなころ


さいしょに和歌をもらったとき、それは巻物を二十数枚に写したもの(コピーしたもの)でしたが、題、豊饒美濃守源鑑述奉納百首和歌と打たれている。美濃はみのうとよむんだとおもっていた。でも、ミノです。豊饒まで冠して。(だれが冠したのかな。学芸員?)
系統立てて歴史を学んだことのない素人に美濃はミノ虫やミノタウロスとちっともかわらぬことばでしかなく、みのは語感から、実り美野里稔りを思わせるし、きっとこの役職はお百姓に「はたらけはたらけ」っていう役じゃないか。とかささぎはおもった。ただ、このひとはネイティヴ八女リカンではなく、どこか遠方から来た人。戦国時代ですから戦でてがらをたて、その恩賞にここをもらった人、っていうイメージ。きちんといつか調べようと思ってはいたんですが、それさえ忘れはてていた。
源鑑述なる歌人がいたのか、それとも、乙四郎が先日言ったようにこれ一巻のなかの別人の号なのかはわからない。それはありうると私もおもいます。天文二十四年という年の数にあわせて、連衆を二十四人集めたことだって、本当はどうかわからない。実際は五人だったかもしれませんし。

どっかから乙四郎が引いてきてた説明文のなかの、このころだれかがもよおした俳諧のなんたら・・だけは、この時代にまだ俳諧はありませんので間違い、用語まちがい。百首和歌ってスタイルは、レンガとも違うしなあ。はこだての杉浦教授(ここも学生があつまらないみたいです、日記よんでると)にきけば、専門だから教えてくださるにちがいない。とは思っているけど、これもなかなか聞けない。忙しそうだもの。下心はあるのですが。

参照

* 斎藤道三:「雪の峠・剣の舞」岩明均

ミノ・あたしの雄牛  (高橋睦郎の詩)
http://home.att.ne.jp/omega/ariadne/Ariadne/tourus.htm
ミノタウロス・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8E%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%AD%E3%82%B9
みのちゃん。←むすめのなかよしだった子。
ジュリー。
かんけいもみゃくらくもいっさいないが

にしむたやすしのぶろぐにけさみつけたから。
http://www.doblog.com/weblog/myblog/5973

すげ。六時間もたったひとりで歌いきったって!てか舞台上で読書する?
ジュリー、なにをかんげえてるだ。なにもかんげえてないだ。無心むしんむしん・・・。
無心所着。すげ!これをめざさんばいかんよ。めざしてなれるものではないところにむずかしさがあるんだが。しかし、それが俳諧ってことの本質だし、あらゆる詩的ないとなみの本質である。

あやべのぼたもち

あやべのぼたもち

もらった。ロビイストの宣さんから。このひと、ジュリーと同世代。
あやべのぼたもち。おいしかった!http://www.pref.saga.lg.jp/web/yorimiti.html
きなこのとあずきあんのとありました。どっちもおいしかった。
専務がお茶もいれてくださいました。彼女はお茶(江戸千家)もかな書道もプロです。

西都太宰府サイト:http://www.kyuhaku-db.jp/dazaifu/historic/09.html#1

2008年12月11日 (木)

かまどじんじゃ

かまど神社。ってなんだ?
おくどさん。
正月にさ。くどがみさんをまつる、もちばまるめた。
こうじんさんちもいいよった。
くどのかたち U ←このかたち。
おとうととまるめるのだけど、かどかどのところがしわしわになった。
なつかしいなあ。
あさからこげんしみじみしとる場合じゃないったい。

竈神社:http://www.dazaifutenmangu.or.jp/kamado/index.htm

ばどさんブログで、かまど神社:http://622.7.dtiblog.com/blog-entry-193.html#comment-top

『夏日侍』の時代背景 乙四郎語録14

八女戦国百首和歌『夏日侍』を読む

        竹橋乙四郎

1555年(天文24)前後の社会情勢

田尻親種・鑑種の親子が活躍した時代。鑑実の物語にも鑑種が登場したが、高橋鑑種は謀反で兄の鑑実に討伐されている。田尻鑑種とは別人物と思われる。

1534年(天文3)

大風37回も吹き、米穀類一粒もなく天下大いに飢饉し万民餓死す。
大友義鑑(よしあき)は肥後の菊池氏に実弟を養子に出し、肥後国の支配を目論んだが、弟に反逆され窮地に立つ。筑後の三池、西牟田、蒲池、溝口、河崎氏らが反大友同盟を組織し菊池氏に味方する中、田尻親種(ちかたね)は起請文を送り大友義鑑に忠誠を誓い、終始大友氏を助け、恩賞として山門郡大和町の鷹尾に250町を与えられる。

1536年(天文5)

田尻親種は、大友義鑑に鷹尾に築城申請。

1537年(天文6年)

田尻親種は大友から承諾を得て、築城をはじめる。

1546年(天文15)

田尻親種は脳卒中で中風に。

1547年(天文16)

田尻親種は嫡男宮七郎を9歳で元服させ、家督相続の許しと鑑種の名を義鑑よりもらう。

1548年(天文17)

田尻親種は新しく完成した鷹尾城に移る。

1549年(天文18)

田尻親種は菊池と竹井原で戦う。
肥前龍造寺が筑後侵略する。
肥後菊池が筑後侵略する。

1550年(天文19)

大友義鑑はお家騒動で死亡(二階崩れの変)。
肥後菊池に味方する筑後の三池・溝口・西牟田の各氏に鷹尾城を攻められ、田尻は籠城。
田尻親種の弟の田尻鑑乗は溝口の陣に討って出て勝利。蒲池鑑盛の援軍で西牟田氏は降伏し、菊池義武も殺害される。
竹井原で三池親員と田尻親種勢が合戦。

1552年(天文21)

春から夏にかけイナゴ被害で不作、餓死するもの多し。

1553(天文22)

田尻鑑種14歳で軍功。大友義鎮(よししげ)は田尻鑑種に筑後国内の30町を与える。

1555(天文24)

八女戦国百首。嵐の前の静かな時代。


1559年(永禄2)

蒲池鑑盛、柳川城の改築拡張を行ない、蒲池氏の本城とした。
肥前龍造寺、蒲池を味方にして筑後侵入をはかる。清水寺が焼かれる。
肥後菊池氏、筑後に侵入して各地に合戦おきる(鷹尾城、溝口のとりで、梅尾城、竹飯原、今福城、南関、浜田城、江浦城、堀切城など)。

1564年(永禄4)

大友義鑑の子義鎮(よししげ)(後の宗麟(そうりん))が、田尻親種の活躍で菊池を倒し、肥後・筑後の分国化を完成。筑後国を平定する。

1570年(元亀元年)

大友宗麟は龍造寺を攻める為、大軍を高良山に陣をもつ
田尻親種は肥前勢との戦いで深手を負い、居城鷹尾にて死亡。田尻鑑種が跡目相続。
毛利元就が九州から撤退。大友義鎮は豊後、豊前、筑後、筑前、肥後、肥前、日向、伊予半国を領する最盛期。

なお、田尻鑑種の姉は蒲池鑑盛の妻。蒲池・田尻両家は親類だらけ。

1581年(天正9)

田尻鑑種が蒲池一族を攻める。

追記:鷹尾城の古図が出てきた。乙の根城は鷹尾城の中。
     ↓

http://www.geocities.jp/bicdenki/newpage94.htm

参照:「筑後国府はどこにあったか」

筑後國府
「1394年~応永の頃はみやま市西部と柳川は蒲池氏、みやま市中部は神領(鷹尾神社)、みやま市北部は溝口氏と壇氏、みやま市東南部は田尻氏が支配していた。」とあるので、位置関係では鷹尾神社あたりでは。

2008年12月10日 (水)

美濃守は誰か 乙四郎語録13

八女戦国百首和歌「夏日侍」をよむ

       竹橋乙四郎

宇佐鑑述(あきのぶ)物語

鑑述については情報が極端に少ない。
1555年の八女戦国百首の代表者として、美濃守源鑑述。
家系図らしきものに、豊饒直弘から伸びた線上に、天文頃、美濃、鑑述とある。
「1550年、大友方の豊饒美濃守が筑後の溝口城を攻略」という記述を見つけた。
そこで溝口城を調べてみると、溝口城址と思しき筑後市溝口地区に竈門(かまど)神社がある。そして1561年の由原宮大神宝物の調進者に竈門(かまど)右京亮宇佐鑑述(あきのぶ)とある。繋がった。
ところが、豊饒美濃守が溝口城を攻略した、まさにその頃、一萬田が橋爪に改姓して「橋爪美濃守鑑実」とある。美濃守は鑑述なのか、鑑実なのか。それとも鑑述と鑑実は同一人物なのか。そういえば、大学の文芸誌を編集していた頃、作品が思うように集まらなかったので一人でいくつかのペンネームを使い分けた経験がある。橋爪鑑実が乙のご先祖様でDNAを共通にしているのであれば、あり得る思考。右代表を務めるほどの人物の実像の記録が全くないのも頷ける。そもそも「源鑑述」なんてペンネーム臭い。「鑑」が付く戦国武将をずいぶん検索したが、鑑に源の姓が付く例は、蒲池鑑守が石銘に「蒲池武蔵守源鑑盛」と書いた例のみしか見つからなかった。もし同一人物とすれば、鑑述の歌と鑑実の歌を組み合わせて、いろんな暗号遊びができる。後日発表。
ところで、検索の副産物として、面白いことを発見した。「溝口城」というところで、過去、何度も攻防戦が繰り広げられている。古くは、1351年に懐良親王が溝口城を落としている。
「興国元年(一三四〇)後醍醐天皇の皇子の懐良親王は、九州平定のため西下興年三年に西国から九州へ向かい、薩摩に上陸し谷山城に入って六年間滞在、正平二年(一三四七)肥後の隈府城に入った。同六年、五条・菊池・恵良氏らの勢を督して北上し、筑後国溝口城を破り瀬高庄を経て筑後国府に入った。」
この懐良親王の後継者として九州入りした良成親王の后が産気づいて亡くなった場所が姫御前岳。繋がった。
1525年にも溝口城は、大友謀反勢が籠城して、大友に攻撃されている(筑後動乱)。
溝口城には支城(小田城)もあったそうな。溝口城って何だ?

かささぎの旗管理人言:

しらんけど、かまど神社はさいきんばどさんがいったとこじゃなかった。ブログにあった。のんだくれ博徒。いまは「輪のぼやき」といいます。そばをたべたとかかれていました。いま有縁の友は昔も大昔も有縁の友だろうよ。
私も昔、夫が連れて行ってくれたことがありました。宝満山のふもとにある。チェーン店、ってかチェーン神社。笑

乙四郎語録 官僚番外編2

  法律の文言にこだわった思い出
 

         竹橋乙四郎 

やっぱり書かずにはおれない。
前文への思い。
日本国憲法には前文が置かれている。本来、編集をしてはいけないものだが、原文は誰でも容易に入手して検証できるものなので、要点だけを抜き取って紹介する。

日本国憲法前文(抄)
日本国民は、われらとわれらの子孫のために、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

これは、そもそもの憲法の制定趣旨を記したもの。個々の法律の場合は、法解釈上の誤解を避けるため、通常は、第一条に「目的」の条が置かれる。前文を置く必要はない。例外的に、たくさんの関連法の根っこを定める○○基本法(教育基本法、男女共同参画社会基本法、少子化社会対策基本法など)には前文が置かれることがある。具体的な規範を定める個別法では、極めて稀。
被爆者援護法は、被爆者を援護するための具体的な規範を定めた法であり、基本法ではない。この法は、主に「原子爆弾の投下の結果として生じた放射能に起因する健康被害に対する援護対策」を目的とした法律でしかなく「核兵器廃絶」は目的ではない。法律の所管は厚生省であり、核兵器廃絶は管轄外。通常の法構成だと、そのような文言を入れることはできない。

しかし、真剣に被爆者対策を行っている担当者は誰でも肌で感じていた。この世界から核兵器が廃絶されない限り、被爆者の心を援護したことにはならない。特に死没者は、いまだに死んでも死にきれない思いにあるはず。
幸いだったのは、この法案の取扱いが高度に政治的であったため、通常の政府提出法案の形をとらず、議員提出法案となったこと。縦割りの箍(たが)が外れ、法案審議の段階では「厚生省」という狭い枠組みに必ずしも囚われる必要がなくなった。
日本国憲法で「国際社会において、名誉ある地位を占めたい」「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する」「全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」と唱っているのに、その手順を具体的に定めた法は国際協力関連の法体系くらい。日本の法体系のどこかに「核兵器廃絶」の文言を盛り込むべきでは。
法律は、いかなる法律であれ、将来に渡って国民の行動規範となるもの。「核兵器廃絶」がどこかに唱われてさえおれば、誰かが「核武装」を言い出した時にブレーキとして役立つ。
被爆者援護法の前文から「原子爆弾の投下の結果として生じた放射能に起因する健康被害に対する援護対策」(本法の本来の主目的)に関する記述をあえて引き算して、もう一度、紹介します。法律という無味乾燥な世界にも、人間ドラマがひそんでいることを紹介したくて。
このような文言を盛り込んだ法律の誕生に関われたことを、本当に光栄に思います。

被爆者援護法前文(編集抄)
原子爆弾という比類のない破壊兵器は、幾多の尊い生命を一瞬にして奪ったのみならず、たとい一命をとりとめた被爆者にも、生涯いやすことのできない傷跡と後遺症を残し、不安の中での生活をもたらした。
我らは、再びこのような惨禍が繰り返されることがないようにとの固い決意の下、世界唯一の原子爆弾の被爆国として、核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和の確立を全世界に訴え続けてきた。
我らは、核兵器の究極的廃絶に向けての決意を新たにし、原子爆弾の惨禍が繰り返されることのないよう、恒久の平和を念願するとともに、国として原子爆弾による死没者の尊い犠牲を銘記するため、この法律を制定する。

追記:法制定に尽力された村山総理を尊敬します。若輩ながら、法案作成の過程で何度かその人となりに接し、被爆者団体と村山総理との意見交換の場で司会進行の大役を務めさせていただいたりもしましたが、この前文にせよ、村山談話にせよ、「後世への精神の残し方」に長けた偉大な政治家でした。

かささぎの独り言:

おお。日本国憲法は旧かな表記だったのですね。
はじめて気づきました。

それにしても。
おつしろうは、大きな仕事をしていたのだなあ。
よびすてしてると罰があたる。

この文章をよんで、連句的に思ったこと。

湾岸戦争が勃発したころ、朝日の投書欄へかささぎはこういう声を投書しました。


色褪せる憲法 自然の摂理。(敗戦直後は確かに効果的であった平和憲法だが、五十年もたつうちには色あせてくる。これは自然なことで仕方ない。)
すると、すごい反論の嵐。朝日新聞でしたし。
中でもこういう声が記憶にいまも残っています。

「日本は最終戦争を戦ったのである。憲法は血で贖った大切な宝だ。」

加えて、編集者のかたがいわれた一言を今も忘れない。
乙四郎がこだわった文言とそっくりのことをおっしゃいました。

思えば、あれから日本は戦争をしていません。
それは倭奴としての静かな国民性とともに、平和を死守しようとしてきた人たちの陰なる努力のたまものだったことに気づかされます。
だからこそ、その願いとはうらはらな、「色あせる憲法 自然の摂理」という避けがたい現実を、なんとかしてしのぐ知恵と方法とが、今後の課題だとかささぎは生意気にもおもうのであります。


交渉術

さて、交渉術。苦手な人が多いのが日本人です。

かささぎも例外ではありません。

ところが!

隊員さんで、こんな超ド級の小心者のかたにであいました。

その人は、おなじ世代、ひとりもの。
とても無口で、とても優しい。
人につくす奉仕型。
たとえば、かわいそうな○○さんにかばんを買って上げたりする。
じぶんも安い給料で働いているのに。返さない人にお金を貸す。
この人、自家用車で毎日遠方に仕事に行くのに、まだ一回もガソリン代を会社に請求できないのです。
いいえ、ちゃんとメーター表は提出されています。
けれど、わが社の場合、ガソリンチケットをボスに切ってもらわないと、スタンドで給油できない仕組み。だからどうしても、ボスにそれをお願いしなければ、いつまでもガソリンは給油できないわけ。

それができないのですよねえ、この控えめすぎるお方は。
わかるようなわからないような。毎月二万円も自腹。
彼はガソリン券を下さいとどうしていえないんだろうね?

みてたら、だんだん可哀想を通り越して、腹が立ってきます。
いいかげんにおしよ。いいたいことはちゃんといいいなよ。
必要なものは必要と言えないで、人を恨みに思っちゃいけない。

かささぎは部下の子ができた時点で、社長にいいました。
これからは、この子もわたしも、交通費をください。と。

じぶんがいわなきゃ、この子はかわいそうだとおもった。

それで晴れてようやく、ガソリンチケットを切ってもらえる身分になりました。
二年もかかった。
もっと早くいえばよかったのかな。

2008年12月 9日 (火)

大根の月

大根の月

あおいまないたのうえに
きりそこなった
うすい大根の月

一萬田鑑実の歌  乙四郎語録 12

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

         竹橋乙四郎

一萬田鑑実(いちまだ あきざね)物語

朝夕に霞たなびく小松原 
      きみがちとせの春ぞ久しき  鑑実

はじめ、八女天文百首に多くを残している鑑実について、その哀しい一生を追体験。

一萬田氏の不動産、小牟礼城と鳥屋山城(鳥ヶ鼻城?)の城主。
大友宗麟に仕える。
天文19年(1550年)の菊池義武討伐に功績。
この頃、橋爪に改姓。橋爪美濃守鑑実。
天文22年(1553)弟の一萬田鑑種が高橋に改姓。
弘治3年(1557年)の秋月文種討伐に功績。
永禄11年(1568年)に弟の鑑種が謀反を起こしたが、宗麟に味方し鑑種討伐。
永禄12年(1569年)毛利軍と戦った多々良浜の戦いでは息子の鎮実と共に功績。
天正6年(1578年)の耳川の戦いに功績。加判衆となって宗麟の側近として活躍。この年、大友宗麟はキリスト教の洗礼を受ける。
天正14年(1586年)からの島津氏との戦い(豊薩合戦)で、息子の鎮実が島津氏に寝返ったが、大友氏方に留まり頑張った。
しかし、妻が大友宗麟に寝取られて、宗麟のもとに逃げられた。
天正16年(1588年)自刃。

「鑑実は大友家の重臣を招いて俳諧会を行っている。20年ほど前に彼らの詠んだ歌が記録された巻物が発見されたが、なぜか一度も公表されていない。」(Wikipedia)

これって、八女天文百首のこと?

かささぎの旗管理人の言:

おそらくそうであろうと思われます。
じつは、かささぎは、いちばん最初に原本をいただいたとき(新ミレニアムを祝う記念すべきお能“翁の舞”が岩戸山古墳で上演奉納された日です、そういえば岩戸山古墳上で、その伊勢宮でいただいたんだったよ)、のめりこんで読みに没頭して、すべてが読めたとき、うれしくてうれしくて、十人ほどの人にコピーしたのを送りました。かささぎ読みもつけて。付されていた解説書も人様にさしあげてしまって、あれれ。手元には一個もない!というへまをやらかした。

その後、十年近くもたってから、もう一度それを見たいと思い、役場を訪ねたら、すでにその解説を書かれた方は事故死なさっており、ついにわからぬままです。これが何を意味するかわかりますか。それほど役場は忙しいのだ。人も予算もとれないでいる。それはわかるけど、でも、この調子でスライドして連想すると、あちこちの役場のお蔵には、たくさんのたいへん貴重なふるーい史料が、手付かずのまま、眠っていると思われます。それらはいつかだれかが起こしてくれるのを待っている。これは、すべて、縁だとおもう。
で、白紙にもどったところで、重要なのは、自分のよみをさがすこと。
おつしろうは、おつしろうのよみをすればいい。
だれの見解もすべてがただしいなんてありえない。
正解はわかりようがないけど、進むうちに、いろんな発見があるんだとおもうし、実際すごいことになってきたのを感じている。

乙四郎語録 官僚番外編1

原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(平成六年十二月十六日)

(法律第百十七号)第百三十一回臨時国会
村山内閣
原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律をここに公布する。
<前文>
昭和二十年八月、広島市及び長崎市に投下された原子爆弾という比類のない破壊兵器は、幾多の尊い生命を一瞬にして奪ったのみならず、たとい一命をとりとめた被爆者にも、生涯いやすことのできない傷跡と後遺症を残し、不安の中での生活をもたらした。
このような原子爆弾の放射能に起因する健康被害に苦しむ被爆者の健康の保持及び増進並びに福祉を図るため、原子爆弾被爆者の医療等に関する法律及び原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律を制定し、医療の給付、医療特別手当等の支給をはじめとする各般の施策を講じてきた。また、我らは、再びこのような惨禍が繰り返されることがないようにとの固い決意の下、世界唯一の原子爆弾の被爆国として、核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和の確立を全世界に訴え続けてきた。
ここに、被爆後五十年のときを迎えるに当たり、我らは、核兵器の究極的廃絶に向けての決意を新たにし、原子爆弾の惨禍が繰り返されることのないよう、恒久の平和を念願するとともに、国の責任において、原子爆弾の投下の結果として生じた放射能に起因する健康被害が他の戦争被害とは異なる特殊の被害であることにかんがみ、高齢化の進行している被爆者に対する保健、医療及び福祉にわたる総合的な援護対策を講じ、あわせて、国として原子爆弾による死没者の尊い犠牲を銘記するため、この法律を制定する。
=======================

14年前の今日。何十何回目かの真珠湾の日。真珠湾と原爆との因縁。
平均睡眠時間が3時間を切る日々が数か月続いていた。自民党と社会党の接着剤的役割を果たしていた「被爆者援護法」。法案を煮詰める作業。法案の各条項は与野党調整の産物。
12月2日に衆議院通過。9日に参議院で可決。16日に公布。当時としては珍しく、法律に<前文>を盛り込んだ。条文ではないので法的拘束力はないが、当時の担当者の思いの丈をここにぶつけた。

   官僚時代回顧録 (竹橋乙四郎平成二十年十二月八日記)

かささぎはこれを読んで、昔専業主婦だった子守時代、熱心に読んでいた朝日新聞の投書欄で読んだ、ある官僚の家族の一文を思い出しました。政治家の裏で働く実務家集団について全くそれまで考えたことなどなかったから。この時期、夜も寝ずに毎晩法案を通すために働いている人たちがいることをそのときはじめて知った。

2008年12月 8日 (月)

柳川国道橋付近

柳川国道橋付近

この信号、かささぎただ一人の部下の青年(柳川出身)にみせ、なんという橋か聞いたら教えてくれた。「県道橋」。
あまりにそっけない名じゃござんせんか。

橋の下の川の名は二ツ川。川くだりや川のぼり(婚礼のとき)で有名な川。

この道を右へ五十メートル行くと古文書館。
左へ行くと川くだりの舟の駅。
道をまっすぐいけば左に三柱神社。
数回夫がつれていってくれた。柳川時代。
そういえば夫はおにぎえに出させてもらっていた。
どろつくどん。祭り装束、その藍の匂い。
懐かしい。

車で走っていると柳川には鬼のつく地名が多いことに気づく。
ずばり鬼のつくところ以外にも、御仁橋。これで、おにばし。

現場検証 兵六万 乙四郎語録11

足で解釈。とんでもリアリティ

         竹橋乙四郎

昨日は、朝霜もうちとける、春が立ったような小春日和になったので、山を三つと隆起地を一つ巡った。

第一散策地:清水山

有明海に臨む展望所に北原白秋の詩の石碑があった。
【山門の歌】
「山門はもうまし邪馬台、いにしへの卑弥乎が国、水清く、野の広らを、稲豊に酒を醸して、菜は多に油しぼりて、幸ふや潟の貢と、珍の貝・ま珠・照る鰭。見さくるや童が眉に、霞み引く女山・・清水。朝光よ雲居立ち立ち、夕光よ潮満ち満つ。げにここは邪馬台の国、不知火や筑紫潟、我が郷は善しや。」
邪馬台国論争がホットになる前の時代。白秋は、新井白石の山門郡説を素直に信じている。
ここからは、大学もよく見える。矢部川の下流の「下流大学」。大学の手前に、堤古墳群らしきところも。

第二散策地:堤古墳群

[堤古墳群→]の木製の粗末な案内看板が集落へ通じる小道の入り口にあるのみ。周辺の田圃より少しだけ隆起した一帯だが、一見、普通の民家集落。ところどころに、巨石が顔を覗かせている。民家にとっては邪魔そう。

第三散策地:女山神籠石(ぞやまこうごういし)

1m立方ほどの巨石がず~っと並んでいる。3kmも並んでいるとか。ただ、山の中腹で車を降りて並んでいる場所まで登るのに一汗かいた。切り出されたのは別の山。1個を切り出してここまで運び上げるのに何十人がかり、何か月がかりであったろう。ただ、並べた目的がわからない。この巨大プロジェクトの命令者もわからず。記録なし。
地元みやま市では、ここが女王山と呼ばれていたことから、卑弥呼ゆかりの地であると主張している。しかし、列石から弥生時代の遺物(中広の銅矛)が発見されているので、年代が合わない。順当に考えれば、6世紀以降の遺跡。磐井の乱が528年なので、磐井の乱の頃以降。古田武彦氏はこれを軍事的要塞の残骸とし、『これが「5-6世紀」の成立となる可能性は高い。では、この軍事要塞群の建造者は誰か。当然、その内部の中枢域に当る「筑紫・肥前の中心王者」(太宰府と筑後川流域中心)である。決して近畿の天皇家ではない』と書いている。しかし、高さ1mの石がどれだけ並んでいても防衛効果は疑問。
神籠石の合間に「山内古墳」という名の遺跡があった。ネットで検索したら「6世紀後半に築かれた墓と考えられます。標高158mの見晴らしの良い高所に築城された横穴式石室を内部とする円墳」とあった。

第四散策地:飛形山頂

姫御前岳どころか、遠くの山々が一望でき、壮観!
矢部川が日向神から連なる山あいから出てきたあたりが童男山古墳群のある「山内」。そして、矢部川が有明海デルタへ出る直前の最後の山が、「山内」古墳のある女山。その二点間からずーっと高良山あたりまでに広がる平野に、兵6万による大虐殺を想像してみた。荼毘にふされた後にインダス川に流される死体、広島の川を流れる夥しい数の死体、が脳裏をよぎった。遺体処理はどうしたろう。阪神淡路大震災の時は、広島の火葬場までフル稼働した。死体処理のことは人の話題になりにくいが、人が死ぬ現場ではリアリティ。
ここで、とんでも仮説。
山内地区の高台に埋葬しきれなかった虐殺の犠牲者は、川に流され、下流で回収され、女山に埋葬された。大量の「墓石」による重しで霊を封じた。

瀬高下庄神社

昨日柳川へ出かけた帰り、瀬高川を渡ってすぐの道路の左側に、なにやらとても古そうな由緒正しげな神社があるのがちらりと見えた。

なぜか気になる。


いつか調べようと思い、夕飯の買い物をサニー(やめ)でして帰った。
いつもがらーんとしてるのだ、最近のサニーは。ところが、ひょいとみたら車がたくさん!きっとバーゲンだ。
たしかに安かった。なんだ安けりゃ人あつまるんだ。みんなちゃんと広告みてるのね。
250円ほどだった洗剤を二つ買った。
八女は田舎でなにもないと皆がいう。
ところが、うちの長男はこういう。
家の五百メートル以内に病院(整形外科、循環器内科、皮膚科、眼科、耳鼻科、産婦人科)がこんだけあって、スーパーだってエーコープ、マルキョウ、サニー、くらし館、ほか色々あり、レンタルビデオ店だって三つ以上ある。しかもごたごたしてなく住みやすい。こんな田舎は滅多にないよ。

朝、奇特なおかたにあげようと百首和歌を探した。
まだみつからない。
だが、古文書館の解読講座でもらった資料発見。
その「中世文書ー鷹尾文書を読む」のこんなくだり。

鷹尾神社は山門郡大和町鷹の尾に鎮座し、応仁天皇・仲哀天皇・神功皇后を祀る。「県社昇格願」には「清和天皇貞観十一(869)年ノ勅建」とあるからかなり古くからある社であるが、それを明確に示す史料は現在、「祭礼関係写」にある保元四年(1159)の「別宮社」についての記載だけである。この別宮社の別とはどこを主体としてかかれているかといえば、久留米の高良宮である。つまり高良別宮としてやまとの鷹尾神社はあった。

後鳥羽院庁下文によれば、瀬高下庄は大治六(1131)年に瀬高庄が上下にわかれできた荘園であり、筑後国山門郡(現みやま市)矢部川流域の柳川、瀬高、三橋、大和町にまたがる。

瀬高下庄は藤原道長の曾孫俊忠から徳大寺家に伝領し、徳大寺実定のとき本家職が待賢門院璋子に寄進され、この本家職はその後円勝寺に付せられた。

http://www.citydo.com/prf/fukuoka/guide/sg/515002292.html

十月でしたか、かささぎは久留米プラザホテルであったさる県議のパーティでハトヤマさんの演説を聴く機会があった。そんとき感じたのは、この東京出身の政治家は、こっちに票田を抱えてるだけあって、筑後のことを全身全霊で知ろうとしているなあ。ということでした。たとえば、県議のその人に、○○という姓はどこそこに多い。とかと聞いているらしかった。政治と政治家を感じ取る縁にめぐまれたなあと思ったかささぎだった。

みやま市の保健医療経営大学長のおつしろうに、目下全面協力体制でのぞんでいるかささぎの旗ですが、なぜこうなったか、どっちが先かわからない。もともと自分の素地のなかにこっち方面への興味があった。そこへ同じようなふるさと探訪家が降って来たってかんじ。考えてもわからない。

2008年12月 7日 (日)

先月の裏表紙

先月の裏表紙

十一月の受託表に誤って落書きメモをしてしまいました。
それを消すため、カレンダーをはんぶん貼り付けた。

春を摘む侍  乙四郎語録10     

八女戦国百首『夏日侍』をよむ

         竹橋乙四郎

 四    鶯
春立は谷のつらゝもうぐひすの
こゑうちとけて軒ぞながるゝ

百首歌たてまつりし時(惟明親王:高倉天皇の皇子)
「うぐひすの涙のつららうちとけてふるすながらや春を知るらむ」(新古今)
(暖かくなって鶯の涙の氷柱が融けているはずだが、古巣にいながら春を感じているのだろうか)
「うちとけて」が解読の鍵で、春になったのに鶯は古巣に打ち解けてばかりで(世の中には打ち解けず、)谷から出て来て鳴かないことを嘆いたものだそうです。

とんでも超訳
(1番歌のように)春が立ち、谷の氷柱は融けていなくても、君の名声は世の中に打ち解けて家々に流れています。

五    若菜
わかなゆへとしとし分てくるす野に
おほくのはるを我もつミけり

大友氏の重臣、富来(とみき)鑑秀の歌。ただ、大友宗麟(義鎮)がザビエルと出会ったのは天文20年(1551年)、キリスト教の洗礼を受けたのは天正6年(1578年)なので、鑑秀はキリシタンではない。そもそもザビエルが日本に初めてキリスト教を伝えたのは1549年。八女天文百首は1555年までの作なので、「くるす野」とキリスト教とは関係なさそう。
若菜
「君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ」(紀貫之:古今)
くるす野
「見渡せば若菜摘むべくなりにけり栗栖の小野の萩の焼原」(権中納言長方:続古今)

訳:なぜ若菜「ゆえ」なのか、「としとし分て」がどういう意味なのか見当つかず。「くるす野」も、どういう寓意があるのかわからず。降参、降参。

かささぎの旗管理人言:
くるす野はクルス(十字架)の立つ野ではない。
そげんこつわかっとる。笑


若菜を摘もうとして、というのが「ゆえ」なんだろう。としとしわけて。は山深いさま。「来るす野」にかかる。年々。どしどしってこともありか。
この歌がすきだ。印象に残る。
上句の俗っぽいひらべったい表現をうけた下句「多くの春をわれもつみけり」が非常に出色で、余情があるからだ。春をつむとは春の若草を摘むという意味のほかに、春を年々積み重ねるという時間性もかけている。かささぎが九州俳句の「暦論」でも書いたように、戦国時代特有のエロスを感受する歌でもある。はるを罪けり。この歌は万葉の雄略天皇の堂々たるナンパ歌の底を流れるものと一脈通うものを秘めている気がするかささぎであった。

籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 
ふくしもよ みふくし持ち 
この丘に 菜摘ます児 
家聞かな 名告(の)らさね 
そらみつ やまとの国は 
おしなべて 吾こそをれ 
しきなべて 吾こそませ 
我こそは告(の)らめ 家をも名をも
                    雄略天皇御製

http://www.urban.ne.jp/home/safuro/bungaku4.htm

倭王=イワイ説 乙四郎語録9

八女戦国百首和歌『夏日侍』

とんでも解釈 part 7

          竹橋乙四郎

音読みには漢音、呉音があるが、漢音は7、8世紀に導入。それ以前は呉音。
【倭】
音読み
呉音 : イ(ヰ)、ワ
漢音 : イ(ヰ)、ワ
【王】
音読み :
呉音 : オウ、ワウ
漢音 : オウ、ワウ

王を[ワイ]と読むようなことはネット辞書には書いてない。倭王=イワイ説は眉唾。
だが、露語を学習した頃、「日本語の母音のウは他の母音より短く発音されがちなので露語のウは意識的に長めに発音するといい」と学んだ。短く読まれたウが他の音に変化することはありがちなことかも。「行こう!」→「行こい!」みたいに。

ところで、巌の宮様も、その従兄弟の仲哀天皇も、その親の日本武尊も、仲哀天皇の配偶者の神功皇后も、実在性が疑われる伝説上の人物。仲哀天皇は(熊襲討伐のために神功皇后とともに筑紫に赴いた際に)筑紫の香椎宮で(神の怒りによって)死に、その子、応神天皇(西暦270~)が即位している。応神天皇は、神功皇后の三韓征伐の帰途に宇瀰(福岡県糟屋郡宇美町)で生まれたとされるが、親の実在性はともかくとして、本人の実在性が濃厚な最古の天皇。なお、応神天皇と次代の仁徳天皇とは同一人物説があるらしい。
不思議なのは、なぜ、末っ子とはいえ、成務天皇の子である「巌の宮様」が正統な女王として後継せず、成務天皇の兄弟の子が即位したのか。しかも、架空の人物くさい。

三    霞
朝夕に霞たなびく小松原
きみがちとせの春ぞ久しき


古事記の応神天皇の条に、春山霞壮夫(はるやまのかすみをとこ)なる神様の話がある。一人の女神をめぐり、兄の秋山之下氷壮夫(あきやまのしたびをとこ)と賭けをした。弟の「霞」が勝って女神に子供も一人できたが、兄は賭けの約束を破った、というお話。

小松原
「産舎岬」という神功皇后が三韓征伐の帰りに応神天皇を産んだ産所に関する続風土記の記述。
「此地、海辺の出崎なり。其中にむかし大松ありしとぞ。近世まで朽のこりて、小松など其上に生せりといえども、今は其朽木さえなく、只小松原となれり。」
ここには「本宮八幡」神社がある。八幡の本宮?
「当社は豊前国宇佐郡八幡を勧請す。故当所を本宮と名つく。すべて宇佐を以って各八幡の本宮とす。一云、本宮八幡は國中神社多き中にも、とりわけ霊験厳重なる神社也、則八幡宮(応神天皇)御誕生の地と申傳ふ。」

ここでまた、大胆とんでも仮説。
成務天皇の後継の天皇は、実はその子「巌の宮様」で、「巌の宮」は事情あって千年川付近の「八苦」の地で卑弥呼として君臨した。その後継天皇は、卑弥呼の実子(すなわち、当然、福岡生まれ)の応神天皇であったが、後世の者が、成務天皇と応神天皇の間を繋ぐ天皇が筑紫の卑弥呼では都合悪い事情があり、日本武尊、仲哀天皇、神功皇后という架空の人物をでっちあげた。

とんでも超訳
(兄に欺かれた春山霞壮夫みたいな経緯があるものの)正統な血統として応神天皇が生まれた所
筑後川域に築いた正統な君主よ永遠に

注記:

とんでも仮説の年齢考証
第13代天皇の成務天皇は西暦84年生まれ、卑弥呼は175年頃の生まれなので、とんでも仮説が正しければ「さざれ石の宮様」は成務91歳の時の子ということになる。38番目の末っ子なので高齢の時の子であるに違いないが、ちょっとね。生年に誤りがあるのでしょう。でなければ、成務天皇の没年は西暦190年なので107歳まで生きたことになる。
いずれにせよ、没年の15年前ころに「さざれ石の宮」が生まれている。御伽草子では、「さざれ石の宮」は14歳の時(成務天皇の没年ころにあたる)に転機が訪れている。
第15代天皇の応神天皇は西暦201年の福岡生まれ。とんでも仮説が正しければ、卑弥呼の26歳の時の子。応神天皇の即位は西暦270年。卑弥呼は248年頃に没しているので、仮説が正しければ、22年の空白期間が生じるが、仲哀天皇の在位も没年の西暦200年までなので、仲哀天皇と応神天皇の間にも70年の空白期間(神功皇后摂政)がある。そもそも仲哀天皇は父日本武尊の没後36年目に生まれている。でっちあげが雑。
なお、応神天皇の後継の仁徳天皇の皇后は「磐之媛命(いわのひめのみこと)」。

2008年12月 6日 (土)

雑餉隈

千代。

と聞いてかささぎが一番に連想したのは、

むすめが学生時代に住んでいた御供所町へいくとき、千代の都市高速インターで乗り降りしていたっけな。ってことです。

梅一分御供所二丁目三番地  恭子

(句を詠んでいたから記憶にとどまってた。笑)

で、千代町をしらべていましたら、雑餉隈。という懐かしい地名の由来にゆきあいました。

さらにざっしょのくまの、ざっしょとは

http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E9%9B%91%E9%A4%89&dtype=0&stype=0&dname=0na&ref=1&index=08246207366700

ということで、ざっしょのくまは、意味的に八女の納楚と同じです。
前回てきとうにおもいついた、ドンドラ(鈍銅鑼)が鳴りひびき、邪馬台国へ舟荷が着く。それを納所へおさめた・・・として、古代、川をさかのぼるのはどう可能だったのでしょうか。
という疑問がのこった。

竹橋乙四郎と橋爪章のあいだ

早朝、携帯端末でかささぎの旗を開き、おつしろうの書き込みを読んで一気に目が覚める。

すごい展開になってきた。
われわれのすぐそばで、なぞのこたえ虫がぬくぬくとねむっている。
その虫をつまようじでつんつんとつついたのはかささぎだけど、叩き起こしたのは竹箸乙四郎!折々に適切なヒントを出してくれるのはさくらさん。

この竹橋乙四郎について、みなさんとごいっしょに考えてみたい。
なぞだから。
もと官僚。それも厚生官僚。その天下り。
と済ませばそれでおわりのはなしではない気がする。

その人の初登場は、ここでした。

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_c941.html

ここからかささぎの旗との付け合いが始まるのですが、。

おととい、こんなブログをみつけました。

http://cache.yahoofs.jp/search/cache?p=%E3%81%8B%E3%81%95%E3%81%95%E3%81%8E%E3%81%AE%E6%97%97&search_x=1&tid=top_ga1&ei=UTF-8&qrw=0&fr=top_ga1&u=www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/kibo/kinkyo0808.htm&w=%E3%81%8B%E3%81%95%E3%81%95%E3%81%8E+%E3%82%AB%E3%82%B5%E3%82%B5%E3%82%AE+%E3%81%AE+%E6%97%97&d=Ie6Oj0fiR3vz&icp=1&.intl=jp

長い歴史のあるネット歴をお持ちの方に、まだニ年ちょっとのかささぎは圧倒されるのみです。そのお方に取り上げていただけて、光栄でございますが、同時におなじ月の七日付の日記で筆者は「にゅうしひばくしゃ」問題を取り上げ、橋爪章およびその背後のやみを暗に批判している。これは今年のお盆近くに日本国民放送で放映された番組でした。かささぎも再放映でみました。筆者の心配と関心はそのままかささぎの思いでもある。橋爪章に尋ねたいことのひとつでもある。ただ、これまでの付け合いで、あるひとつのイメージがうかんでくるようにもなった。まだ漠然としていますが。

かささぎはのうてんきで、まったく気が行きまわらないため、こんな記事を書いてもいいんだろうか。とハラハラしているおかたもいらっしゃるでしょう。あのような事件もございましたから、・・・ね。

しかし、焚けば塩津四郎いいやちがったこんちくしょうこの変換能無し機械め竹橋乙四郎が、いてくれるので、まあ、なんとかしのげるのではないかな。と天を信じる次第。

乙四郎語録8 君が代の底にあるもの

八女戦国百首和歌

とんでも解釈 part 6

              竹橋乙四郎

二     子日(ねのひ)
さゝれ石の庭に小松を引き植ゑて
苔のむすまで友とこそ見め

水天宮の按察使局伊勢命(あぜちのつぼね いせのみこと)は高倉天皇の女官で、大和国石上布留神社(現石上神宮)の神官の娘。例の七支刀が保存されている神社!
伊勢命、は剃髪して名を千代と改める。千代に八千代にの千代。
千代が逝去すると、その墓に「松を植えて」千代松明神(久留米の水天宮の千代松神社)とした。
戦国百首が捧げられたのは伊勢宮。歌にも伊勢がいくつか登場。島根にも伊勢命神社があり、その例祭で舞われるのは八乙女神楽。

子日
源氏物語「初音」
「今日は子の日なりけり。げに千年の春をかけて祝はむにことわりなる日なり。姫君の御方に渡りたまへれば、童女、下仕へなど、御前の山の小松引き遊ぶ。」

<君が代>の語彙のうち、「千代に八千代に」は、小松引きで代替。1番歌の「君が代」、2番歌の「千代に八千代に」(小松引き)、「さざれ石の」「苔のむすまで」で満尾・・・あれ?「巌となりて」はどこにいった。

さざれ石伝説(御伽草子)
 成務天皇(西暦131~)の末っ子(38人目)の姫君は「さざれ石の宮様」という愛称で寵愛された。成長されてからの人徳は、これを上回る人はいないかったと言われ、名前も「巌の宮様」といわれるようになった。不老長寿の薬を服用して長い年月を過ごしたが、ある日、薬師如来が現れ、「八苦(生・老・病・死等の八つの苦しみ)の世界に留まっている必要があろうか。」と、巌の宮様を東方浄瑠璃世界に導いた。

成務天皇の父は景行天皇、母は八坂入媛命(やさかのいりびめのみこと)。38人の子には嫡男(正室の子)がいなかったので、景行天皇の子(日本武尊)の子、すなわち巌の宮様の従兄弟が仲哀天皇(西暦192~)として即位。

苔のむすまで
糸島半島の「桜谷神社」の祭神が「苔牟須売神(こけむすめのかみ)」。コノハナサクヤ姫の姉、イワナガ姫のことらしい。イワナガ姫は日本書紀で磐長姫と表記。磐井の磐。

友とこそ見め
千載和歌集 入道前關白太政大臣
「千年ふる尾上の小松移し植ゑて萬代までの友とこそ見め」

ここで、大胆とんでも仮説。
卑弥呼=巌の宮!! 年代的にはぴったり。

2番歌のとんでも超訳。(ちと無理あり?)
(さざれ石の宮から巌の宮となられた)卑弥呼様の領地に(卑弥呼様を彷彿とさせる伊勢命を奉る)千代松明神をこさえることにより
磐井の時代までは伊勢命の友(同類の方)がおられたことの証としましょう。

ところで、いろいろ検索していたら、「倭」の大陸読みは「ヰ」、「王」の読みは「ワイ」とか。ほんとかどうかわからんが、ほんとなら「倭王」は「ヰワイ」じゃないか!

2008年12月 5日 (金)

千歳川  乙四郎語録 8

八女戦国百首和歌 『夏日侍』*

とんでも解釈 part 5

      竹橋乙四郎

    

千年川
一 君が代のためしにすめる千年川
かはらぬたねに春や立つらむ

千年川(ちとせがわ)が筑後川の古名であると初めて知った。
「筑後川」が公称とされたのは寛永13年(1636年)とか。
「ためしに」は何だろう。

年の始めのためしとて終なき世のめでたさを

の「ためし」だろうか。意味もわからず半世紀以上も正月を迎えていたことに恥じ入る。
検索したら、ためし=例、規範、模範 とあった。
「すめる」は、澄める

紫式部の歌
「くもりなく千年に澄める水のおもに宿れる月のかげものどけし」

「たね」は、人の心
古今和歌集仮名序の冒頭
「やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける」

君の時代のように筑後川が澄んでいる
変わらない人の心に春が訪れたのかも

ゆっくり暗号解読してゆきます。

* 原本は夏日侍。夏日待(なつひまち)。

かささぎの感想:

竹橋乙四郎、やってくれますね。
きのうは茶化してわるかったな。
おしえられました。正座しなくちゃいけない。
ほんものの古典学者みたいだな。
この世界、本物もにせものもないんだね。
探求心の強さこそがすべての世界。

かささぎは、この和歌をみて、まず矢部川を思いました。
八女の者には筑後川は遠く、身近なのは矢部川だから。
しかし、ちとせがわは久留米を流れる筑後川という。

連衆が八女の武士ではなく、もっと広範囲からやって来た、この一巻のための集団だったならば、第一首目に置くのには矢部川ではなく、やはり筑後川でありましょう。自分だけの狭い小さな視線ではなく、おおきな照り返しの視線をもった武士たちがこれを作成したことだけは確かです。
矢部川には江戸時代、柳川藩と久留米藩の藩境があって、殿様以下、鷹狩をしてはよくその領域でもめ、争っていた。ということを柳川の古文書館講座を聴講に通っていた頃、教えてもらいました。あ。ついでにいま、連句的に思った。鷹狩は、英王室の狩猟みたいな遊びだな。貴族的な「支配欲」をみたすところがあるんだろか。かささぎがイワイをスキタイみたいと感じる理由の一つが狩猟民ということで、狩をするからでしたが、、、これはまったく自分勝手な想像なんですけど。馬が似合うイワイには。はあ。すんまへん。ろまんちっくにかってにもってゆくなといわれそう。


名月は二つこそあれ一夜川  各務支考

美濃獅子門・各務支考がこちらの門人のところへ来た折、筑後川を詠んだものとあります。
いちやがわ。一夜にして川が表情を変えるから・・?
水量が雨が降ってくると見る間に違ってくる。流は龍。

美濃派。ししもん。かがみしこう。
芭蕉亡き後、全国を行脚、ししふんじんのはたらきをした。
http://www.nagaragawagarou.com/minohatoha.htm

水天宮 dedicated 4

さくらさんに教わって、はじめて知りました。

千年川=千歳川。
この筑後川の名をとって、軍艦千歳となった、と。

そうなのだろうか。と帰宅後、調べてみました。
すると、本当にそうだったんです。

これをご覧ください。

http://www.suitengu.net/suitengu/suitengu/inkeidai.htm

おどろきました。

はじめて知ったこと。

こないだ、おつしろうがとんでも解釈につけてくれた資料のなかに、八女市祈祷院の水天宮の写真があり、ここは八女で一番古いお宮であると書かれていたのが妙に印象にのこってたところでした。あとでよく調べようと、いわゆる「捨て目をつかって」いたかささぎでした。

久留米の水天宮が全国の水天宮の始祖になるということ。
そのお祭神のおなまえは、

按察使局伊勢命(あぜちのつぼね いせのみこと)。

はじめて知るかみさまです*。
これで三件目です、九州に本社がある神社。
菅原道真をまつる太宰府と宇佐の八幡宮、それとここ。
(かささぎの管見なんですが。)

保健医療経営大学の英語講座で先日まなんだばかりの、リンカーンの演説の一節がなぜかここで心に蘇ります。じつは、この一節が演説を知ったときから、鳴り響いているのですが・・。まさに宗教の本質をつかんで出てきたに違いない一節だから。水曜習ったのがちょうどこれでした、引きます。(情けない、完全に暗記できていない)

But, in a larger sense, we can not dedicate -- we can not consecrate -- we can not hallow -- this ground. The brave men, living and dead, who struggled here, have consecrated it, far above our poor power to add or detract.

翻訳:

しかしより大きな意味ではわれわれはこの地をででけいと(捧げること)などできない。こんすぃくれいと(浄めること)もできないし、はろう(神聖化)もできないのである・・・勇敢な者ら、死せる者も生きている者も-が、ここで戦い、既にここを神聖な地としてしまったからだ。われわれごときの貧弱な力を足したり引いたりすることはまるで必要としないくらいに。

かささぎには単語の意味の違いがまったくわからない。
神聖化もきよめるもおなじだから。また、じっさい調べるとおんなじみたいだし。
リンカーンは深い。上記のことばは、すごく深い。
考えていると、一日費やしてもおわらない。
もちろん、それは日本をひるがえって考えるからであります。
われわれの日力、じゃなかった非力なさけなさをおもうからです。

参照:

天満宮http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE

水天宮http://www.suitengu.net/suitengu/suitengu/inkeidai.htm

dedicated考察
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_d8f8.html
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/in.html
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-c380.html

ということで、リンカーンの演説に出てくる「ででけいと」の四つを全部みてきた。
ここにこのゲティスバーグ演説の核がある。
戦死者のまことに捧げられたものだからだ。

日本はなにをしてきたのだろう。
いまだに、なにひとつまことをささげることなどできていない。

おかねおかねおかねおかねおかね。そればっかりだ。

あぜちのつぼね・いせのみこととは:

しらべました。ここみてください。http://www11.ocn.ne.jp/~interval/kurumejinja.htm
(下関の赤間神宮に一度参拝したことがありますが、お宮の拝殿のぐるりに水が青くはりめぐらされていて、どことなく竜宮風の、海の底を思わせるたたずまいにはっと胸をつかれます。源平の戦でなくなられた幼帝・安徳天皇の母が建礼門院、さらにそのお付の官女がこの、あぜちのつぼね・いせのみことだそうでございます。それを知れば、水天宮が竜宮のイメージへと転換される。)

2008年12月 3日 (水)

医療崩壊 どうなる日本の医療

先日テレビで鳥越俊太郎さん(鳥栖出身)が司会をなさったがん治療のドキュメンタリーを見ました。いまは二人に一人ががんになる時代で、三人にひとりはがんでしぬという。それほど深刻とはおもわなかったかささぎであります。一方、小児科医不足や産科医不足も深刻らしく、また、公立病院経営が行き詰まって倒産するところも多いという。この先日本はどうなっていくのだろうと思うことばかりです。

そこへちょうどタイミングよく、このブログにしようもない、いや、もとい、海のものとも山のものともわからん、だれも取り上げたことない「邪馬台国は八女だった!」説ネタを、目下せっせと書いてくれてる奇特なおかた(竹橋乙四郎)が、本来の姿にもどって、その件について講演をなさるそうですので、ご紹介いたします。お時間のとれますかた、興味をもたれたかた、また、天神の近くに住んでいる、または単なるひやかしのかた。・・は、ぜひご参加くださって、かささぎの旗にその内容をご紹介くださいますれば、ありがたいと存じます。

【平成20年12月4日(木)】・・あしたじゃないか!

場所 西鉄ホール(天神ソラリアステージ6F)
  (ここ、天神で電車おりたら、すぐ左にあるビル)
時間 18:00~20:00
内容 橋爪 章
   演題「医療崩壊を食い止める」
   廣瀬 輝夫
   演題「どうなる?日本の医療」
主催:福岡県療養病床協会
   保健医療経営大学
【平成20年12月5日(金)】
場所 保健医療経営大学 大講義室(福岡県みやま市瀬高町)
時間 16:20~17:50
内容 廣瀬 輝夫
演題「日本の医療の動向と将来展望 欧米から学ぶ」
主催:保健医療経営大学
申込み:事前の連絡等は不要です。ご自由にご参加ください。
-廣瀬輝夫先生のご紹介-
日本医療経営学会理事長、元ニューヨーク医科大学臨床外科教授
・無血開心術のための人工心肺を世界最初に開発、世界最初の冠動脈直接吻合手術など。米国医学会より日本人初の金メダル受賞
・米国外科学会評議員、米国心臓病学会評議員、米国胸部外科学会評議員、国際外科学会評議員ほか要職多数

乙四郎語録 7

八女天文歌人百首和歌

とんでも解釈 part 4

       竹橋乙四郎

「難波」が2首。
七 心ある友としミばや難波津の
花もさかりの香に匂ふころ
五十三 種まきし難波の小田は夢なれや
をどろきあへぬ秋かぜの音
難波津、調べてみました。
「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」(古今和歌集:王仁)
平安時代には「難波津の歌」と言えば「誰でも知っている歌」の代名詞とされていたそうな。競技かるたにおいては競技の開始時に難波津の歌を詠むことが通例とか。
さて、作者の王仁(わに)ですが、百済から日本に渡来し、漢字と儒教を伝えたとされる伝説的な人物だそうです。この歌は、仁徳天皇即位(313年)の際に治世の繁栄を願った歌。日本各地で「奈尓波ツ尓昨久矢己乃波奈」と記された木簡が出土。流行歌だったようです。
7番の歌の本歌は、きっとこれでしょう。前後の歌から、磐井の君の繁栄の様子。
53番の難波の小田。744年に難波行幸に際し鈴鹿王らと共に平城宮留守官に任じられた小田王(おだのおおきみ)という人物がいますが、ようわからん。
ところで、「うらなみ」も2首。
六十 霜さむきよるはすがらのうらなみに
なきたつちどりいづち行くらむ
七十二 今は我見る目も隠す言ふ甲斐も
なく/\袖のうらなみぞたつ
うらなみ、調べてみました。
「もしほ草 かくとも盡きじ 君が代の 數によみ置く 和歌の浦波」(源家長)
(海辺の藻塩草は取っても尽きないように、後鳥羽院の長い御代の内の詠まれる優れた和歌も私がいくら書き留めても尽きることがないでしょう)
これを本歌としたと思われる歌があります。八女戦国百首の少し後です。
「藻しほ草かきあつめたる跡とめて むかしにかへす和歌のうらなみ」
慶長五(1600)年、関ヶ原の戦いの際に、細川幽斎(藤孝)が城を包囲された。朝廷は、万一幽斎が死ねば古今伝授が滅亡するのをおそれ、勅使を派遣し包囲を緩めさせ、幽斎に開城脱出させようとしたが、その際に幽斎が歌書一箱ともに送った歌。
あんまり関係なさそう?次の歌をご覧あれ。
十九 伊勢のうミや波よるもくさかきためて
くらす神代の春はいく春

どこかに古今伝授の古文書が隠されているような気がしませんか?

黒字倒産って知ってる?

わが社の営業、人呼んでロビイストの宣さんから、黒字倒産って言葉を教えてもらいました。いま、建設会社に多いらしい。

黒字なのになんで倒産するんだろうね?
それは、お金が回らなくなるからだそう。

入る予定のお金が入るべきときに入らなかったら、あちこちの支払いに支障をきたし、会社は立ち行かなくなる。それを黒字倒産という。

あたまで考えると、担保があるんだから、なにも倒産にまで追い込まれることはないんじゃないかと思うのですが。世の中はわかりません。

ただ、きびしさだけはわかる。

いろんな人が履歴書もって面接にみえます。
それを見ていて、ため息がでます。
学歴はまったく関係ないこともないのですけど、あまり関係ない。
要はガッツ、辛抱する力、謙虚さ、努力、誠実さ。

これだけあれば、少々不器用でも、なんとか世の中渡っていけます。
たとえ、勤務先が没落しても倒産しても。

2008年12月 2日 (火)

どうだんつつじ 山中渓谷もみじ谷

どうだんつつじ 山中渓谷もみじ谷

乙四郎語録 6

「八女天文歌人の百首和歌」
とんでも解釈 part 2

          竹橋乙四郎

特定の語彙の偏りに何か隠されたメッセージがあるのでは、というのが、とんでも解釈の出発点。「松」の他にも、「袖」「軒」といった語が何度も登場します。「萩」と「露」の組み合わせも。
<軒>
四 春立は谷のつらゝもうぐひすの
こゑうちとけて軒ぞながるゝ
二十八 夢にとふむかしの人の袖の香や
そのまま残る軒のたち花
三十 まバらなる賎が伏屋のかやり火の
軒よりもるヽ夕けぶりかな
三十七 ほのめかす軒端の萩を来てみれば
露うちなびく秋の初風
九十五 古をつみてや誰もしのぶ草
しげる軒端の見しこともなき
・・・と「軒」が99首中5つも。
37番に登場する「軒端の萩」、源氏物語に登場する空蝉の義妹の名前です。愛する人(空蝉)がいなくなって、代わりの人(軒端の萩)と契りを結ぶことになってしまったお話。
磐井の君がいなくなってヤマト朝廷に仕える空しさ。

<萩>
三十七 ほのめかす軒端の萩を来てみれば
露うちなびく秋の初風
四十一 龝の野や千草の色にひきかへて
錦をかざす萩の白露
四十三 さをしかの妻こふ野路の朝な/\
咲ける小萩の露こぼるらん
四十五 をく露は萩の上葉にとヽまらで
つれなく残る秋風のこゑ
・・・と「萩」は4回登場。すべて「露」とペア。萩は軒端の萩のこと。
ヤマト(代わりの人)朝廷では、いくら錦の御旗をかざしても空しいよ

<袖>
二十八 夢にとふむかしの人の袖の香や
そのまま残る軒のたち花
四十四 明更を遠方人のこころとや
雰うちはらふ袖のゆきかひ
五十二 玉鉾の道の山かげふきおちて
をらぬ紅葉を袖に見るかな
六十五 ふる雪に狩場の鷹の一つがひ
花をはらへる袖かとぞ見る
七十二 今は我見る目も隠す言ふ甲斐も
なく/\袖のうらなみぞたつ
九十二 中々にうき旅人にともなひて
わかるヽときの袖のくやしき
九十四 けふは又山路の雪を知りそめて
かはる嘆きの袖のくやしき
・・・と「袖」は99首中7つ。
92番と94番に「袖のくやしき」とありますが、袖がくやしい、というへんちくりんな用法が近接して2回も登場する。「袖」「くやしい」を含む本歌を検索したら、こういうのがありました。
くやしきぞつみをかしけるあふひ草
袖のゆるせるかさにならぬに(源氏物語?)
ところで44番に「明更」とありますが、類似語「朝更」が22番にあります。
二十二 詠(ながめ)よとおもはす露やかヽるらむ
おりにあふひの花の朝更
どうも「あふひ」(葵)がクンクンにおう。「袖」というのは、葵の柄の入った袖のことでは。
「袖」「あふひ草」で検索したら、こんなのも。
我が袖に神はゆるさぬあふひ草
心のほかにかけて見る哉(後京極院)
そういえば瀬高の七支刀人形にも葵の柄の装いの人がいたっけな。

とんでも解釈 part 3

      竹橋乙四郎

           
「軒(端)」という、花鳥風月ではない名詞が何度も登場することに疑問をもって part 2 の解釈を展開したのですが、なじみの百人一首の百番目に「軒端」がありました。
順徳院
「百敷きや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり」(続後撰集)
(古い軒端の忍草を見るにつけ、昔の華やかだった聖代がしのばれてならないなあ)
戦国百首の空席の百番目にぴったりはまりそう。
ところで順徳院には同意のこんな歌もあります。
「かぎりあれば昨日にまさる露もなし軒のしのぶの秋の初風」(続古今集)
これにはびっくり。「秋の(初)風」は、鑑述、鑑教ら7人が競って歌っている題材。35番には「昨日」、37番には「露」、偶然だろうか。

二十五(鑑述)
小山田の早苗むらむら色つきて
秋にまぢかきかぜそよぐ也
三十三(宗房)
をのずからまたこぬ秋の初かぜや
わきていづみのゆふ暮の空
三十五(嵐竹)
昨日までふくとも見えぬ秋風の
簾にさはる初秋の空
三十七(覚元)
ほのめかす軒端の萩を来てみれば
露うちなびく秋の初風
三十九(鑑栄)
花すヽき音信わたる秋風に
あだにやなびくゆふ暮の空
四十五(鑑實)
をく露は萩の上葉にとヽまらで
つれなく残る秋風のこゑ
五十三(鑑教)
種まきし難波の小田は夢なれや
をどろきあへぬ秋かぜの音

かささぎの感想:

おつしろうはえらいな。どんどんいっちまうな。
かささぎの友情として、編集してあげるまでのことはいたします。

じぶんは、なにもわからんのですが、ただ、この百首和歌を読んだとき、これらの歌を詠んだ武士たちは、どこの生れの人たちだったのだろうか。と思ったことを忘れない。かささぎには難波ということばがやけに目につく。それはつまり難波宮だろうから、そうか。そんなに古い時代なのかと感じたんだ。当時の感覚だとどうなんだろ。歌人の作歌法の常道として、古歌に学ぶというんだろうけど、なにしろかささぎは古典を系統立てて習ったことがありませんから、うかつなことはいえない。この時代のよその地に残る百首和歌がどんくらいあるのか、それを調べてみるとおもしろいことがわかるかもしれない。とは思っているけどね。

ま、うかつなことでもなんでも堂々といっちゃっていいよ。
だって、天下のどしろうとだし。これが非常にたいせつ。
地元に住んでいることは他のなにより有利と思うから。

捕虜六万

1「兵六万」http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-e2f8.html

2「端間遠望 兵六万 乙四郎語録3」
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-1dae.html

これにつけた資料を読んでいたら、大正生まれのかたの戦記に、「捕虜六万なら」というはなしが出てきました。加えて難民五万というのですから、併せて十一万!この数。これは内戦ではなく、南京でのはなしです。引いておきたい。暗い話ですが、かささぎの良心として。

東京裁判で南京大虐殺が表面化した。これは事実であったろう。

我々部隊の将校でも兵隊でも、自分の周辺のほんのわずかなことしか知らないものである。それ故に日本軍全体が何をしたのか無知なのである。

捕虜虐殺など、九十九パーセントの人がそれが良いことだ、それが当たり前だと思ってなどいなかったはずで、たとえ大勢の中にはそれが当たり前だという奴がいたかも知れぬが、それは米の中の石粒程度の割合で、そんな狂気を持った奴は日本人だけではないだろう。

將介石にしてみれば、上海から南京までの戦いは、せっかく築き上げた国民政府の首都攻防故に、全軍を挙げての死闘であったに違いない。国土を侵略された中国民にとって抗日感情は、日本人の戦いに抱いていた感情とは比べものにならなかったのは当然で、兵器に勝る日本軍が有利だっただけで、精神面で勝っていたとはどうしても思えない。我々兵士が語る手柄話は、大方自己偽りの武勇伝で、日本軍が勇猛である根拠になどなりはしない。ただ攻防が激しければ激しいほどに憎悪の念は、両者共に燃え上がってゆくものなのだ。

当時の日本軍は兵力、火器その他全の装備が完備され、なおかつ損傷の少ない五個師団が南京城攻撃に当たった。

上海、南京攻略に何個師団を投入したかは知らぬが、これらの部隊が上陸した時、「日本軍百万、抗州に上陸す」なるアドバルーンを上げ、中国軍を威嚇した事実がある。

將介石総統にすれば、国民政府の名誉にかけてこの南京城を死守したかったに違いない。従って自軍の撤退が遅れたのだろうと思う。その上日本軍の進撃が予想以上に早く、揚子江は海軍が押さえ、陸軍は浦口及び揚子江までの陸地に到達してしまっていた。よって、中国軍は包囲され、六万近い捕虜と、難民五万が城内に取り残されたといわれている。

こうした混乱の中でこの数字がどこまで本当なのか分からぬが、言葉で六万とか五万人というが、避難民は別としても兵六万という捕虜をどう取り扱ったらよいか、これが事実なら途方にくれたであろう。二人か三人の捕虜ですら、生かしておくには飯を与えなければならないし、糞もさせねばならない。これほど世話の焼ける代物はないのである。

日本にそれなりの力があり、富士山のすそ野にでも収容所を作って養ってくれるのなら別だが、現地ではそれどころではない。戦死者や負傷者の始末をしなければならないのだ。

相手は殺し合いをした人間達である。それを面倒だからと逃がしたのでは、再び殺し合う相手に変わるような不安があり、結局面倒だから処分してしまえとなる。六万どころか一万人ですら大変な処分業務である。殺気だっている内はまだよいが、平常心に戻れば亡霊に取り付かれる。人を殺して平気でいられる奴など千人に一人か万人に一人なのだ。

戦友の一人がその頃の話をしてくれた。

「二百人からの捕虜を後ろ手に縛り上げ城外の草原に連れだし重機関銃で射殺したが、運のいい奴は弾が当たらず、なかなか死んでくれない。死体の下でうごめいている。その悲鳴がいつまでも残り、その情景にうなされ眠れない夜が続いた」と彼は恐る恐る語って、このことはどこまでも君の胸にしまって口外してくれるなとつけ加えた。

また別の兵の話であるが、「後ろ手にした捕虜を船に積み、揚子江に突き落としていた部隊を目撃したことがあり、あれは本当に良い方法だった。あれなら死体を片づける必要もなく、揚子江が海の彼方まで押し流してくれるものね。嫌だね、あんなことは。もう二度と戦争には行きたくないよ。どうなるんだい日本は? 支那はそれほど悪いことをしているのかい、俺にはさっぱり分からん」

引用は・・・http://hw001.gate01.com/t52okamura/myfather/fatherpage1.htm

かささぎは「廣田弘毅」(伝記刊行会の)を読んで、東京裁判で南京虐殺がどう裁かれたか、こちらの側の記述を読んでいた。だから史実だと知っていたが、今ひとつその理由がわからなかった。が、上記を読んで腑に落ちた。
これが戦争なんだ。

生きて帰ってきた兵たちは、貝になるしかなかったろう。

2008年12月 1日 (月)

My Fair Lady

じつはわたしはあんまり映画をみていない。
さくらさんがオードリーの映画は全部見たと書かれているのを読んで、こりゃあいかん。とおもった。ぼちぼち全部をクリアーせんば。

『ローマの休日』 をテレビで見たっきり。
それと、失敗作といわれる超大作『戦争と平和』を小学校で見に行って、たいくつで死にそうだったことを覚えているくらいです。(中学校だったかも。長くて長くて映画館のいすが苦痛でたまらなかった。なんであんな映画を先生たちはみせたかな。文部省の方針?全国一律?)

そこで、マイフェアレディ。有名すぎる。

はじめてみましたが、いやあ、おもしろかったですう。

お話が童話的なのにリアリティがあって、感動しました。
いくつかの歌も耳に残る。
運がよけりゃ。とか、君住む街角。とか。
「君住む街角」は、去年竹内まりやが出したアルバムのトップで歌われていました。映画ではイライザに思いを寄せる貧乏貴族の青年が歌います。

http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=B22551

主人公イライザ(オードリー)の父の、分をわきまえたユスリタカリが感動的で魅力的だった。
こういう人は強い。あそんでいても、ながされない。
自分と世間をよく知っていて、甘えがないからです。

それと時々挟まれるストップモーションが、とても面白かった。
すべてがあたらしくおもえて。衣装もきれい。オードリー優雅!

乙四郎語録 5

とんでも解釈「夏日待」

      竹橋乙四郎

磐井の君が栄えた日々を「春」とすれば、その後の日々は「夏」。
臺(台)国の面影は「松」(まつ)に偲ばれる。夏日松。
一 君が代のためしにすめる千年川
かはらぬたねに春や立つらむ
(磐井の君の代は千年も変わらず繁栄が続く春の始まりのようだった。)
二 さゝれ石の庭に小松を引き植ゑて
苔のむすまで友とこそ見め
(さざれ石が巌となって苔むすまで生えておいてほしいと祈りを込めて松の苗を植えた。)
三 朝夕に霞たなびく小松原
きみがちとせの春ぞ久しき
(植えた松の苗が広がる。磐井の君の春よ千年続け)
十七 岩に生ふる松にかゝれる藤なみも
をのれくだけて春ぞ暮けり
(しかし、春は終わってしまった。松は巌に生えているものの。)
十九 伊勢のうミや波よるもくさかきためて
くらす神代の春はいく春
(ご神体が遠く伊勢の海あたりまで奪い去られて、もう何年たったことか)
三十二 春秋をわけぬはかりか松がさき
氷室も夏をほかにこそもれ
(春だろうが夏だろうがお構いなしに松は生えている。)
四十八 あまてらす月を清水にうつしきて
猶かけまつる伊勢の神垣
(遠く伊勢にある御神体は、日向神社の天照大神だというのに。)
五十一 作りなす砌の菊のした水は
くむともつきじ万代のかげ
(万代の面影は尽きることはない。)
五十二 玉鉾の道の山かげふきおちて
をらぬ紅葉を袖に見るかな
(万代のかげ=山かげ=邪馬かげ)
五十五 山姫や手染の色を白妙の
雲の衣にかへてたつらむ
(邪馬の姫、卑弥呼は天女みたいなもの。)
五十九 かきくもる雪に出で立つ朝あけや
枩に花さく岡の辺の山*
(松が生えている岡に邪馬台国の証があるよ。)
八十一 得てうへし松にならへる君が宿を
猶すみよしの神や守らぬ
(祈りを込めて植えた松だから、磐井の君の居場所は神が守っているはずだ。)
八十二 きみが代を久しかれとて植へをきし
たけの臺のかげ越しぞ思
(「臺」の字が目に入らぬか! しかし、なぜ松ではなくて竹なんだ!!)
八十三 千代をかね松の下蔭苔むして
雨にいづれも色ぞまされる
(やっぱり松だよね。それにしても苔と台は似ている。)
八十五 ますらをが山分衣うちきつヽ
渡るや寒き岨の架け橋
八十八 せきもりの厳しく見ゆる陰ながら
行き過ぎ難き山さくらかな
八十九 これも又憂世をわたる心かは
賤が深田を越ゆる柴橋
九十三 すみなれて結ぶもいざや流れては
世にいづるてふ山川の水
九十四 けふは又山路の雪を知りそめて
かはる嘆きの袖のくやしき
(八十五~九十四 山=邪馬 大虐殺!)
九十八 岩つたふよ川の水のつふ/\と
とくをまことの御のりとぞしれ
(磐井の徳を誠の御宣と知るべし)
九十九 なべて世に神の恵みのはやくして
よろこぶ事をかさねつたへん
(はっぴぃえんど)

かささぎの感想:

一番問題なのは、この時代の武士はそういうことを知っていたのかということなのですが、おそらく伝説としてあったと思われる。そういうはなしが残っているのを読んだ記憶がある。こまかいことをたくさんつっこみいれたくなるんですが、けっとけっとばし、とんでもとんでもいいじゃないか!とうたいながらおどりながら(そこまでせん)ここに引きました。
とにかく世に知ってもらいたい一心。アカデミックな学者さんたちの倉庫にいれたまんまがいちばんいかんちおもうけんね。どんどんとんでも説をだそうよ。新しく見えてくるとこもあるにちがいない。現に上記をよんで、出てくる植物に偏りがあるのがわかった。(小松を引き植えるというのは、民俗学的根拠があるみたい。陰陽五行のおまじない)

「兵六万」があまりにもリアリティをもたらしたから。
ちょうど朝倉方面へ行ったことも連句的だった。
あのものすごく広いのっぱらに、兵六万と兵五万をいれて想像してみた。
リアリティはたいせつだ。
季節はいつだったろうとか。
かりいれはおわっていたろうか。とか。

篭城戦の外は稲刈り。だったり。

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