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2008年11月11日 (火)

兵六万

兵六万。

戦国時代、久留米市宮の陣の地名の由来に、後醍醐天皇の子、懐良親王を擁して菊池の武将が西方の兵六万と戦った地であるから、宮の陣という。とありました。

兵六万。

六世紀初頭、筑紫の石井に謀反のけを察したヤマトは兵六万を率いて北九州へ乗り込み石井を討つ・・・という歴史。このため石井が生前墓を造営していた八女は戦後になるまで国賊扱いを受けて肩身が狭かった(と書かれている)。

兵六万。

八女の人口はいま四万くらいですから1・5倍。そんな大軍がどうやって。と思ってしまいます。

そこで「兵六万」で検索しましたら、

1ケイタイ天皇といわいの乱:http://homepage1.nifty.com/o-mino/page846.html

2アフガン兵のはなし:http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-10-24/06_01.html

3中国軍のはなし:http://hw001.gate01.com/t52okamura/myfather/fatherpage3.htm

が出てきました。

関連リンクも貼り付けます。:http://www.geocities.jp/pujo106blue/iwai.htm
これは詳しいです。すごいですねえ。かささぎは八女上妻の地に生まれ育ちながら、上妻とかいて「かみつやめのあがた」とよむことも最近まで知りませんでした。このくそいそがしい時になんでや。といいながら、ざーざーとよみました。


なお、1のなかにあります、なぜ岩戸山古墳をいわいの墓と同定したかという疑問にはかささぎも答えることができます。久留米藩出身の考古学者・矢野一貞のあらわした本にきちんと書かれているから。

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コメント

カンボジアでは地雷などで手足を失った者が多く、復興支援活動のうち身体不自由者支援は大きな位置を占めていました。
インターネットで虐殺の系譜を検索すると、いの一番に「上妻県」(かみつやめのあがた)が登場します。以下、該当部分引用。

=====================
 福岡県八女市に筑紫君磐井の墓とされる石人石馬で有名な岩戸山古墳がある。『筑後風土記』逸文にこうある。
「オホド(継体大王)の時、筑紫君磐井が強く、反抗したので官軍が派遣された。磐井は逃れて豊前国の上膳県の南の山のけわしい嶺のくぼみで終わった。磐井はあらかじめ墓をつくっていたが、官軍の兵士たちは石人の手を打ち折り、石馬の頭を壊した。古老が云うには、上妻県には体の不自由の者が多いのは、これによるか」
 六世紀初頭、半独立的存在であった筑紫君磐井(古田武彦氏の説では九州王朝の国王)が、大和との戦いに敗れた時、大和の兵士たちは石人石馬を毀しただけではなく、一般住民にも襲いかかった。
戦場において兵士たちが相互に殺しあう。それが戦争である。しかし戦場となった地域の一般庶民は、つねに犠牲者となってきた。家は焼かれ、田畑は荒され、女たちは犯された。住民が皆殺しにされた例は無数にある。病人や老人は、味方の軍隊から足手まといとされることもあった。
   ↓

どこの国にも内戦があり、多くの同胞をぎゃくさつしてきた歴史がある。

関係ないが、先日、高校時代おなじ組だった丸山消挙のミニクラス会案内通知を読んでいましたら、何何くんは「八女嫌い」だから欠席。というコメントを発見。それがずうっとこころに残った。八女嫌い。なんてさみしいことばだろう。五木寛之もそうだといいますよね。わかるようなわかりたくないような。

 7月号以外では初投稿です。宮の陣神社には「西征大将軍」懐良親王にちなんだ「将軍梅」があり、わが母校の旧制校歌の歌詞にも出てくるのに、その意味を知ったのは恥ずかしながら30代になってからでした。
 八女は、八女市・八女郡内でもお互いの好き嫌いがあるようで、そのため平成の市町村大合併でも結局合併できなかったそうです。いま偶然隣に住んでいる立花町出身の人に聞きました。うちの父は広川町出身だけど、たぶんそういう事情だろうと言ってました。

色々と教えて下さりありがとうございます
今日は法事でした
お坊様が 福島のみょうえいじのお坊さまで 大伴べのはかま の話をなさいました んで あ それなら知ってる と思ったけど 女子供は 裏方なので 知らない顔をしていた
法事 家ですると 手伝いが忙しい
みょうえいじ の 経本は 対訳付きなんです だから 私は 読み耽ってしまいました

なまえに貼り付けたのは、宮の陣の国分寺。
むかし母と二回尋ねたのはなぜだったのか、おもいだせなくて、母に聞いたところ、それは「がん三大師」に井戸を埋めたのをお払いしてもらいに行った。とのことでした。かねながしんのうのごしんぴつの写経があるうんぬん。とも書かれていますが、本当でしょうか。そんな古いものがあるのかな。
がん三大師。
うーん・・・このなまえ。どこかでみたんだよね。どこだった。うーん。このブログでなにかを検索してたとき。

おもいだした!!深大寺だ。
なまえにはりつけました。
深大寺。もいっぺん行きたいお寺です。かわいらしいおかおの白鳳佛があります。いすにこしかけたおしゃかさま。

 かかかぎさんが思い出した深大寺って、東京府中のですか?ここは一昨年行って、名物の深大寺ソバも食いました。近くの神代植物園にも行きました。おなじ「じんだい」でも漢字が違うんですね。そして東京の人は「神代」を「くましろ」という読み方は知らないようです。筑後川にかかっている神代橋も、今はなき佐賀出身の映画監督神代辰巳も「くましろ」と読むから、九州独自の読み方なんでしょう。
 私が最初に知った(行った)元三大師は東京昭島市にある拝島大師です。

じんだいじには2006の夏にいきました。
神代とかいてもじんだいとよむのですか。 
文字入力がうまくゆきません。これだけうつのになんども手間がいります。文字変換機能がダメージをうけたみたいです。
わがみの不徳といたす所存でございます。

 間違い訂正、深大寺は府中市ではなく調布市でした、失礼。都立神代(じんだい)高校というのもあります。

兵六万。この響きがずっと気になっている。ペルシャ軍に挑んだアレキサンダー王の軍勢は5万人だった。
兵6万。軍を維持するだけでもたいへん。ヤマトが6万もの兵を遠征させなければならなかった理由は、相手の軍勢が相当規模だったからであろう。1万や2万そこらの軍勢を相手に6万もの兵は使わない。
仮に磐井の軍勢が3万とする。さすれば、これだけの兵を擁する都はいかほど大きいものであったものか。ひょっとして、虐殺の舞台となった上妻県周辺は、ヤマトと張り合うほどの都ではなかったか。侵略軍(ヤマト)による徹底的な破壊活動により、繁栄の痕跡が消されてしまったのでは、という思いが浮かぶ。
侵略軍によって破壊された古代都市は世界中いたるところにある。カンボジアの古都、アンコールはアユタヤ軍の侵略で寺院遺跡だけが残った。祇園精舎の繁栄は息の根を断たれた。
乙は日本の歴史については全然詳しくない。しかし、地球上のあちこちの都の盛衰のありようについては、日本の誰よりも勘が働く。だてに復興援助に関わる旅を重ねてはいない。
さて、都というものは、自然に消滅するようなものではない。メソポタミア文明の都、エジプト文明の都は、都の中心が時代とともに移動したとはいえ、それぞれバグダッドやカイロに姿を変えて繁栄を続けている。黄河・長江文明の都も川沿いで繁栄を続けている。
インダス文明の都、モヘンジョダロは消滅した。大洪水が原因とか。消滅する場合には原因がある。天変地異か侵略か。
邪馬台国九州説が不利なのは、なぜ忽然と古代都市が消えたのかの説明がつかないから。邪馬台国が発展を続けて全国制覇を成し、やがて大和朝廷になった、と言うほうが自然。
邪馬台国が九州にあったというのであれば、その都は卑弥呼の死後も1~2世紀は発展を続けたが、ヤマトを脅かす存在になりそうだったのでヤマトに侵略されて都は破壊し尽くされてしまった、としか都が消えた説明がつかない。兵が6万もいれば、都の繁栄を消滅させるくらいのことはできよう。アンコールみたいに。

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