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2008年11月26日 (水)

多分これが城山

多分これが城山

八女市には山と呼べるほどの山ってありません。
ほとんどの山は郡部にあって、この農道の真正面に見えているとても低い小さなお山(背後の飛形山のこどもみたいな感じの)城山(じょうやま)も八女郡立花町にあります。山下城があったから城山なのですが、地元の者でもそこまでしっかりと把握できている人はあまりいないのではないかと思います。
ただ、漠然とむかしから、「じょうやま」と呼び慣わしてきました。そしてゆっくりとその名前の由来について思うこともなく、あまりの低さ地味さに人々の意識にも上らず、むなしく日を送ってきたのです。(とは、かささぎが城山のきもちになりかわって口上申し上げた次第です。笑)
しかし、戦国の世だった天文二十四年、ここの殿様だったに違いない豊饒美濃守源鑑述(ほうじょうみののかみみなもとのあきのぶ)は部下の侍(ではない農民も混じっていたかもしれない。名前が侍っぽくない者もいるから)23人と、自分の計24人で「夏日侍」(きれいな楷書で題はこう書かれている。読みは、「なつひまち」だと、国文学者で俳諧学者の東明雅先生はかささぎに教えてくださった、亡くなる前の年にです)という百首和歌を巻きました。その作品は99首で終わっています。このかたちは、「いきついてしまえば崩壊が始まる、ゆえに一歩手前で宙ぶらりんのまま、とめる」という文化を意識したもので、ほかには日光東照宮の門などにその思想が見られます。この百首和歌は岩戸山古墳の上にあった神社(今伊勢宮と書かれている)に長い間奉納されたままだったようで、持ち主はいま福岡市内にお住まいであるとお聞きしました。かささぎが持っているのは、役場の学芸員さんから戴いた複写です。とてもきれいでりっぱな書です。この和歌を「九州俳句」誌上で読み解きましたが、いつか本にして世に出したいと思いつつ、もう何年も過ぎてしまいました。読む人が読めば、とても興味深い和歌であろうとかささぎは思うのですが。民俗学的にも歴史的史料としても。原稿、海鳥社に預けっぱなしのまま、もう二年が過ぎました・・・

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