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2008年11月23日 (日)

端間遠望 兵六万 乙四郎語録3

端間遠望

        久留米市宮の陣、八丁島の信号から

兵六万その2 

        竹橋乙四郎

兵六万。この響きがずっと気になっている。ペルシャ軍に挑んだアレキサンダー王の軍勢は5万人だった。
兵6万。軍を維持するだけでもたいへん。ヤマトが6万もの兵を遠征させなければならなかった理由は、相手の軍勢が相当規模だったからであろう。1万や2万そこらの軍勢を相手に6万もの兵は使わない。
仮に磐井の軍勢が3万とする。さすれば、これだけの兵を擁する都はいかほど大きいものであったものか。ひょっとして、虐殺の舞台となった上妻県周辺は、ヤマトと張り合うほどの都ではなかったか。侵略軍(ヤマト)による徹底的な破壊活動により、繁栄の痕跡が消されてしまったのでは、という思いが浮かぶ。
侵略軍によって破壊された古代都市は世界中いたるところにある。カンボジアの古都、アンコールはアユタヤ軍の侵略で寺院遺跡だけが残った。祇園精舎の繁栄は息の根を断たれた。
乙は日本の歴史については全然詳しくない。しかし、地球上のあちこちの都の盛衰のありようについては、日本の誰よりも勘が働く。だてに復興援助に関わる旅を重ねてはいない。
さて、都というものは、自然に消滅するようなものではない。メソポタミア文明の都、エジプト文明の都は、都の中心が時代とともに移動したとはいえ、それぞれバグダッドやカイロに姿を変えて繁栄を続けている。黄河・長江文明の都も川沿いで繁栄を続けている。
インダス文明の都、モヘンジョダロは消滅した。大洪水が原因とか。消滅する場合には原因がある。天変地異か侵略か。
邪馬台国九州説が不利なのは、なぜ忽然と古代都市が消えたのかの説明がつかないから。邪馬台国が発展を続けて全国制覇を成し、やがて大和朝廷になった、と言うほうが自然。
邪馬台国が九州にあったというのであれば、その都は卑弥呼の死後も1~2世紀は発展を続けたが、ヤマトを脅かす存在になりそうだったのでヤマトに侵略されて都は破壊し尽くされてしまった、としか都が消えた説明がつかない。兵が6万もいれば、都の繁栄を消滅させるくらいのことはできよう。アンコールみたいに。 

追記: 以下、かささぎの旗 姫野11月28日、記す。

たまたまつけた写真は、前日に朝倉の役場へ行った帰りに信号待ちで写したものです。今日、地名検索をしていたら、このサイトに出会いましたので、つけます。とてもわかりやすく、答えてくれていますよ。乙四郎の上記の質問、六万に対して、迎え撃つほうは5万だったとあります。(五万騎塚)この八丁島あたりの景色は、ひろびろとしていて、ほんとうに見渡す限りの平原(水田)、ここに兵十一万を容れた戦闘の図をあたまに描くと、すさまじい虐殺図が浮かんだことです。

http://www.miya-jh.kurume.ed.jp/tiiki/tiiki.htm

 

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コメント

古代都市の痕跡はないものか。手がかりは八女市の公式ホームページにありました。
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●深田遺跡
八女市酒井田・緒玉に所在する4世紀前半頃の豪族居館跡です。八女古墳群の成立を考える上で大変貴重な遺跡です。
●六反田遺跡
八女市新庄に所在する縄文時代から奈良時代にかけての遺跡で、住居跡や甕棺墓、土壙などが発見されています。特に甕棺墓は122基が集中して発見されており、周辺に大集落があることが予想されます。
   ↓

今日は久々の休日。邪馬台国の都がどうなったのか、ネット上をあちこち散歩していたら、
「かわかつ」さんという人のディープなホームページに行き着きました。引用します。
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1世紀~卑弥呼の時代の前まで、「倭人の国」は確かに北部九州にあった。そしてその残照は筑紫の君磐井の時代に終焉を迎え、それから百年後、おそらく九州に祖を持つ聖徳太子という大王の出現で日本国として復活したのだ。聖徳太子の諡号は間違いなく「アメノタリシヒコ」であろう。
「和を以て尊しと為す」・・・・なごやかなるをもってとうとしとなす・・・・17条憲法・第一条
これを漢文にし音読みしてみて欲しい。「以和為尊」・・・「いわいのみこと」
冗談ですよ。妄想です。
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さて、日本史に全く疎い乙は、このたび、日本史上のありとあらゆる文書記録が欠落している世紀があることを初めて知った。西暦266年の記録(倭の女王が遣使貢献した)から413年の記録(倭使が東晋の安帝に朝見した)までの150年間が空白となっており「謎の四世紀」といわれているとか。
ところが「かわかつ」さんは、この欠史に迫っています。「高句麗広開土王碑銘(碑文)」(414年)に、海をこえて朝鮮半島を侵略して十数年にわたって百済・新羅を占領した倭を、好太王(広開土王)が水軍を率いて撃退したと記されているそうです。
また、碑文には、謎の四世紀のど真ん中あたり、369年に百済から倭王に「七支刀(し
ちしとう)」なるものが贈られたとあるのだそうな。その「七支刀」は、奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮にあります。天理市がこんなところに登場します。秀野さんの生誕地。
七支刀?
聞き覚えのある響き。そうそう、このブログの管理人に保健医療経営大学を紹介した当初、大学のすぐ近くに「七支刀人形」があると教えてもらったのだ。確かにあります。変な人形。
   ↓

おつしろう。やっと紹介してくれましたね。そこへ私はずっと行きたいんだが。大学の近くなのか七支刀。ぞやまも行ってみたい。こうごせき。高良山に行ったとき(芭蕉を祭る社を探しに数回いった)あちこち歩き回った。あそこにもこうごせきがある。そのときふしぎな体験をした。うめき声みたいなうわっていうような声をたしかに聞いた。だれもいないのに。とてもふるい霊場だなあとおもった。霊気がすごい。ここもたったひとりでゆくべきところだが、こわいぞおー。
縁があると感じていた。藪秀野の出自のいそのかみ氏、(いそのかみじんぐうもまだいってないなあ、)石橋貞吉(山本健吉)の石と八女の石井と、秀野のものがたりのなかにたくさん登場する俳人やえかきさんやがみな、石を冠してるのがふしぎで。
それとキリスト教。昨日そういえば、滝廉太郎を調べていて、ぐうぜん秀野が少女時代に通った大阪のウィルミナ女学院ってミッションスクールにばったりであった。(お正月を作詞した東くめという女性の母校とあった。)
七支刀はユグドラシルのことだから、いっとき夢中で聞いてたバンプオブチキンのアルバム、ユグドラシルも繋がっていたわけで。これがテーマの漫画もあったんだがなあ。やめ句会の益子優が貸してくれてた。こどもと犬がでてくるんだけど。途中で読むのやめてしまった。それと「石神伝説」とりみき。面白かったのに作者が中途で投げ出してしまったね。あれは隔靴掻痒のままだな。
まだまだ私のほうがとんでも本もたくさん読んでるとおもう。んがしかし、この優越感がだんだん覆されそうになってきたのをひしひしとかんじる。
あんたはいやなやつだなあ。

女山とかいて、ぞやま。
これ、なにをいちばんに連想しますか。
かささぎは、なんとなく、あまぞねすを連想した。尼、天、亜麻、海女、甘、ゾネス。名前に貼り付け。
あーあ。こんなことやってるばあいじゃないんだ。

ありゃ。また現在つかわれておりません。
やんなるね。
ところで、中園(筆名は草冠の薗)英助のやせぼとけ、も、こうやぐうのにんぎょうといっしょで、塗り替えられてるため、ちっともこうごうしさとか神秘性がなくなっているような気がしました。これは、寺田のお宮の観音堂に祭ってあるおかんのんさま三体もおなじです。昔はふるくて、枯淡の境地っぽかったのに、けばい塗りで、ドサ回りの旅役者みたいになってる。気の毒に。しかも、過保護でお堂のなかのガラスケースに手厚くお祭りしているんで、色あせることはなくなりました。昔は、吹きさらしだったため、いい味が出ていたのではないでしょうか。古色蒼然という味です。神さびるということば。

ちなみに、やせぼとけさんのあるお宮は、大籠の野田製菓(おいしいクロボーやさん)の裏山です。うちの娘が小6から中1時代不登校になったとき、助けてくださった南中の担任が中園先生で、この近くでした。とてもいい先生。退職なさったあと、岩戸山古墳の資料館に勤めておられましたっけ。いま、どうなさっているでしょう。おかげで、どら娘は、とても元気で働いております。あのころ、まいにちのように来てくださって、声かけをしてくださったこと、ありがたいことでした。はれものにさわるようには扱ってもらわなかったことが、よかった。ふつうに接してくださって。ありがたかったなあ。ふとそんなことを思い出しました。師の恩、わするまじ。

七支刀人形は大学の南東2kmくらい。
大学の東北東3kmには「堤古墳群」という不思議スポットが。一辺220m正方の平地より数m高い人工的な盛り上がり。埋もれた巨石の一部があちこち露出。真東に天満神社(堤大国玉神という古代神が祭られている)。春分・秋分には、古墳群と天満神社鳥居と清水寺と八女日向神社と太陽が真一直線に並ぶ。こんな感じ。
←西◇東→鳥居→清水寺→八女日向神社→太陽○
ところが、七支刀人形も堤古墳群も、地元知名度は低い。堤古墳群は、真上に石橋さんちなど五、六十軒ほどの民家がある私有地。従って観光名所にもならない。発掘調査もされていない。なんでも、昔々、遺跡の由来に関する代々伝わる古文書があったらしいが解読されずじまいで、たまたま解読した人がびっくらこいて、こんなのがお上にバレたら自分らの土地が召し上げられてしまう、とすべて焼却処分してしまったらしい。掘ったら金の指輪が出てきたが、家人が病気になり、祟りを恐れて埋め戻したとも。
   ↓

難しいお話についていけず、遠慮しておりましたが、洋服のすそを握らせていただくぐらいの感覚で、付いて行きます。
瀬高に友達がいたので、「ぞやま」の読みは知っていました。この友人は小学生の子を残し、癌で亡くなりました。彼女の家は清水山のふもとでした。生きていれば詳しいお話が聞けたかもしれないのに・・・明るくて美人でしたから・・・大学に通うようになって、思い出す事が多くなりました。

女山は、古来、女王山と呼ばれていたそうです。これが、瀬高の人たちが、ここを「卑弥呼の里」と言っている理由。なんでも3町合併で新市名が検討された際、「ひみこ市」も候補のひとつであったとかなかったとか。候補から落とされた理由は、邪馬台国畿内説が証明されてしまった場合、後世、笑いものになるから。
乙的には、「八女=邪馬」論者ゆえ、ここ旧山門郡は、あくまで「山門=邪馬の入口」。本家が乗っ取られた気分になるので「ひみこ市」でなくてよかった。
観光名所の入口には案内板が設置されるのが常道ゆえ、きっと堤遺跡は邪馬台国の方向を示す案内場。
「卑弥呼さんはどこにおらっしゃっと?」
「ここから、まっすぐお日さんに向こうたとこたい」
「ばってん、まっすぐは進めんばい」
「そん山ば越えてゆけばよかたい」
「何ちゅう山ね」
「女王山たい」

今日はネット上の地図散歩。昨日の自分の投稿に気になる点があって。
八女の日向神社。知らん。地図でやっと探した。蹴洞岩とか日向神ダムあたり。
神社の由来を調べた。祭神はアマテラス大神とニニギノミコト。天孫降臨の地との伝承あり。ニニギノミコトはこの地で三人の皇子(ホアカリ、ホスセリ、ホホデミ)を生み、ホスセリ、ホホデミは日向に下り、ホアカリは現地に留まる。ふ~ん。
さて、堤遺跡と日向神社とを直線で結ぶ。真東ではなかった。春分・秋分に一直線は嘘。伝承に嘘あり。まんまと騙されるとこだった。そして皆さんを騙すところだった。
気になるのは、なぜ、ここに我々に無名の日向神社とやらが登場するか、である。
線上に何がある。
新発見!!
日向神社の手前に姫御前岳のてっぺん。女岳ともいう。その手前に飛形山のてっぺん。
これら(堤遺跡、飛形山、姫御前岳、日向神社)が、まったく等間隔(約8km)で並んでいる!
清水寺は真東なので直線から逸れる。直線上にあるのは女山。山といっても丘みたいな高さで山頂は同定できず。

ぼん、おつしろう。いや、大儀であった。笑
いつかいこうね。せたか、みやま、(おなじかい)、やめこふんべると、・・・せいこさんをはっくつたんけんたいちょうにしたて、案内人にして、そんで見て回ったあと、みーんなでお連句会をする。(けっきょくそれかよ!)

追加報告。
日向神社の写真を発見しました。祭神に木花開耶媛命(このはなさくやひめのみこと)も。
八女津媛神社も近くにあるそうな。
   ↓

携帯からブログをひらいて見ますと、どうしても開けないところがある。それが名前に貼り付けた資料。
いまやっと開いてみました。
今日は、子をつれて、山鹿の温泉へ湯治にゆきました。小さい時から温泉好きな子でして。ついでに、あいらかんのんさまにもおまいりしてきた。
ところで、上記サイトの写真は大きくてすばらしいですが、いつか寺田天満宮も写しにおいでください。ポイントは鳥居の文字。広田弘毅書です。ほか観音堂の像は江戸末期のものです。
わたしが八女のことでいまひとつわからないのが、竜頭公園、岡山公園。
ここはどうみても、人工の築山だとおもうのです。
ということは円墳ではないのですか。
どこかにそういう資料はないのでしょうか。
ここで明治天皇は軍事大演習の指揮をとった。みたいなことが説明書には書かれていますよね。
また青木繁の母上はここ岡山に住んでいらしたとか。

地図散策のまとめ。
昨日の大発見、< 堤遺跡、飛形山、姫御前岳、日向神社が等間隔で直線上に並ぶ >ことを単なる偶然で済ますか、何らかの古代の意図があるとするのか。面白いのは後者。また、八女に住む者にとって飛形山の存在感は大きい。飛形山を古代ロマンに重ねるのも楽しい。
いくら古代の意図とはいえ、山を創ったり動かしたりはできないので、飛形山と姫御前岳を古代の都市計画の基本に沿える。この二つの山頂を結ぶ長さを東に伸ばした地点に古代神を祀る神社を創る。これが日向神社。同じ長さを西に伸ばした地点あたりを邪馬の入り口とし、防衛拠点とする。これが山門(堤遺跡の所在地名)の古墳群。
山門と日向神社を底辺とする正三角形の頂点は久留米の御井あたり(ここには九州で最古の方墳、祇園山古墳がある)。この大三角形の内側を邪馬の領域としまひょ。でもって、飛形山と姫御前岳を底辺とする正三角形の頂点、すなわち大三角形の中心点を、邪馬の内、すなわち山内と名付けて何らかの聖地を作りまひょ。これが山内の古墳群(童男山古墳など、古墳の密集地)。
えらい大発見してしもうた!
山内の古墳群付近はまだ未発掘地点も多そう。三角形の頂点を正確に測量して発掘すると、何かが出てくるかも。

川口浩さんに連絡せんでよかね?

仮説の検証を試みてみました。
まず、本当に堤遺跡と飛形山と姫御前岳と日向神社が等間隔で一直線に並ぶのか。
国土地理院の地図で緯度と経度がわかりました。
飛形山(山頂神社の場所):東経130度35分22秒、北緯33度9分37秒
姫御前岳のてっぺん:東経130度40分44秒、北緯33度10分0.5秒
これらの数字から、このふたつのポイントを結ぶ長さをきっかり東へ伸ばした点、西へ伸ばした点が計算できます。どれどれ・・・
わっっ!
堤遺跡も日向神社も誤差200mっ!
200mというのは地図上の鉛筆の芯の太さ。偶然の一致のレベルじゃないのでは。
次に、ややこしいけど飛形山と姫御前岳を底辺にした正三角形の頂点を求める。緯度によって経度1度あたりの距離が変わるので計算誤差も大きくなりますが、だいたいの場所がわかりました。(山の外なのに)山内地区の童男山古墳から東へ1kmほどの現原(うつばる)という地区でした。緑に覆われた円い丘があります。川口隊長の出番かも。
大きな三角形の頂点は、計算では筑後川を越え、甘木線の大木あたりになりました。計算誤差が大きいので、これは信用度低し。

うわ、ふる!でもなつかしかね。
やい。インディアナ乙。
やまが等間隔にならんでいるってどうしてわかったんだ。地図?目分量?
数日前アップした「柿暖簾」の写真、柿を提げているお家の右肩に見えるなべ底山は、ありゃ正式名称はなんじゃろうか。しっとるならおしえてくれ。とびかたさんのほかは、城山しかしらん。←ここ。なんの城があったっちゃろ。その城の主が、1555年百首和歌のボスだったかもしれない。美濃守源鑑述。謎。
あとで詳しい話を聞きにいこうと思っていたのに、この和歌100首(ほんとは99)の解説を書かれた八女のせんせいは、突然死なさったよ。役場に連絡先を聞きにいき、その話をきいたとき、うっとことばにつまってしまった。なんでも、お酒をのんでのバイク事故かなにかであっけなくなくなったらしく。もう、だれも背後のことはわからないのだなあ。と、がくぜんとなりました。

あれ。一秒差で後になったみたい。ずあんぬえん。
でも、このおつしろうってひとは、ほんとに数字が好きだよね。笑

城山ってこれかいな?
   ↓

九州人なので、邪馬台国九州説に賛成したいところなんだけど、箸墓古墳のことを知ってからは、畿内説支持のわたくし。
確かに、箸墓古墳はその構造年代と卑弥呼没年時期があわないという根本的な問題はあるのですが、あそこは、宮内庁の管轄とやらで、まだ内部の調査がやられていないんでしょ?発掘調査があったら、きっと有力な証拠物件がでるものとひそかな期待をいたしております。

ただ、ちっごやめ地域はほんまに古墳のおおかとこ。広川町だけでもね、30はくだらん。墓跡やら住居跡なども含めてですが。ただ、実存してるのは片手くらい。あとは、調査後、つぶされてしもうた。宅地開発とかの前に事前踏査に行くったい。素人のわたしにですら、わかるんよ、円墳のかたちが。門前の小僧でね、わかるようになった。竹やぶの中を歩いて、あっと思うとあるっちゃん、これが。たいがい、明治時代までに盗掘されてるんだって。埋蔵品をねらってではなく、大きな墓石を利用するために。

いま、完全な形で残っているのは、内田古墳くらいなものでしょうが、個人所有地にあるので、調査はできていないはず。あれ、どうなったのかなあ。

ありがとう。個人所有者のきもちもよくわかるし、しかたないよね。
私が言う城山は黒木のじゃなく、八女郡立花町の山下城のようです。いま、いろいろ検索してみた。写真が出ないのはほんとにただの貧相なちさい山だから。(とおもいます)南中のすぐ近くに見えてた。
筑後十五城というサイトに詳しいが、当時大友氏靡下の筑後で蒲池氏のちからが郡を抜いていて、二つに分かれてもそれでも大友氏ににらまれていた。と書かれているよね。ここらへん、戦国時代の群雄割拠時代って卑弥呼時代の倭国大乱の時代と似てるんじゃなかろうかな。あんまりしらんけど、でも、今朝しったのは、山下城のほうが主で、福島城は出先機関なわけなんす。こらまたふしぎだなと今の感覚では感じますが、そんだけ山の方が天然の洋裁じゃなかった要塞だったんだろね。
なまえも、豊饒美濃守源鑑述とありますが、本名はわからない。もしや、蒲池姓だったかもしれない。そんなら聖子ちゃんと同族だね。
まだしらないことばかりとおもうかささぎであった。

堤古墳群という、地元でも無名の超マイナーな遺跡を、わざわざ訪れて民家の巨石の写真までアップしてくれている人たちがいた。この人たちは、これまた無名の「こうやの宮」まで訪れている。おぬしら、ただ者ではない。
ここにも書いてある通り、ここは古代の天文観測地点。無名の「八女日向神社」について、ここでも言及してある。堤ストーンヘンジstonehenge とはるか25km彼方の日向神社。これら二つの超無名地を直線で結んだのは乙のオリジナルではない。太古からの伝承。
乙の発見は、この線上に、まったく等分に二つの山の頂が位置していること。山は動かせないので、まず山を基点とし、両端に聖地をこさえたのでは、というのがオリジナル仮説。誤差がほとんどないというおまけの新発見まで。高度な測量技術を持つ古代文明の存在の証。
   ↓

おつしろう先生。こうやのみやは有名ですよ。知っている人は知っている。現にかささぎはずいぶん前から知っていた。なんで知ったんかなあ。と振り返ると、『九州古代史の謎』荒金卓也著に写真つきでのってた。この本はとても面白かった。なぜ万葉集には九州人のうたがのっていないのかの考察とか。どっかにあるんだが、例によって探すのめんどう。でも第二弾の「九州古代王朝の謎」ならここにある。これは少し難しい。まだ全部には目を通してない。

昨日、「日向神社」を訪問しました。
なかなかどうして、苔生したいい感じの神社でした。
七支刀人形に良く似た質感の赤顔武者像があった。
古い額絵がいっぱいあったので、どこかに七支刀が描かれてないかくまなく探したが、なかった。

おつしろはん。おごくろおごくろ。
大分まであの軽乗用車で行ったのですか。
大学で軽に乗っているのは、むすこともうひとりの子と、学長だけだというはなし。たらりー鼻からぎゅうにゅう・・・。
こないだヒムロって宮司さんのはなしがでましたね。けさ、八女市老連広報(一年に一回発行される面白い本)をよんでいたら、そのヒムロって宮司さんがどなたかの文章のどこかにでてらした。あ、たぶん同じ人と思った。

nightこんばんわ
調べ物していたらここに出くわしました。
この頃はまだみなさんとはすれ違ってもわからないころよね。。
ご縁とはまっこと不思議なものですclub

うわ、えめさん。調べてたって何をですか。

ひさしぶりに昔の文章をみて、乙四郎がつけてくれたブログをひらいたら、以下の文字がぱっと目にとまりました。
諸富町浮盃(ぶばい)
ぶばい。そのオン!その漢字。どっかでみたぞ。ちょっとまってね、さがしてくるけん。
これ!↓仕事中の写真、クリックで大きくなるから。

ここにあったんだ、堤古墳群と日向神社を結ぶ乙仮説。
七支刀人形、こうやの宮の管理者が”いつでもどうぞ”と言ってくださってるので、いつか見学ツアーに行きませう。

うん、いこう。
七支刀ツアー、ことしこそいくぞ!
きっとなにかがみえる。

sunおはようございます。
ツアー参加したいですsearch

ふいに、「一大卒」ということばがうかぶ。
あれはどういう意味なんだろ。女王国の北に一大卒をおき。
七支刀ツアーをやる日には、せっかくだから周辺もみるとこをみよう。えめさんがいつかいってた、きよみっつぁん(清水寺)の絶景コース、それから檀一雄のいたお寺(ようしらんけどいきたい)、ぞやまのこうごいし。こんだけですかね。連句のときにさっさとあがって、いけたらいいんですが。うーん、むりだ。
川くだりしながら連句を昨夜思いついたけど、とても句を考え付くよな雰囲気じゃないみたいね。気が景色にとられっぱなしで。練り直し。
大阪の天神祭り船での興行とは、わけがちがうもの。船頭船だから。

清水山>>goodはい。 美しい三重塔や五百羅漢、乳母観音、絶景ポイント、檀一雄のお寺・善光寺、300年の古木の桜(もう咲かないみたい)・・これ全部1本道で繋がっています(たぶん)。

検索サイト Google  検索ワード ホアカリ 蹴洞岩

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