奥八女山中渓谷その四
もみじ谷で一際真っ赤だったのは、岩の向うに少し見えてる低木の生垣。
なんだろうと思って調べてみたのですが、これかな。
http://www.jugemusha.com/jumoku-zz-doudantutuji.htm
(春の季節にまた訪ねると分かりますね。)
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もみじ谷で一際真っ赤だったのは、岩の向うに少し見えてる低木の生垣。
なんだろうと思って調べてみたのですが、これかな。
http://www.jugemusha.com/jumoku-zz-doudantutuji.htm
(春の季節にまた訪ねると分かりますね。)
土曜日、俳友・東妙寺らんが誘ってくれたご近所スーパーのお料理教室へ出かける。
JA の営むスーパーで、地産地消の旗を掲げて質のよい安全な野菜や果物や魚肉類を販売して三十年以上たつ、市内でもっとも信用あるスーパー。そこの事務所二階にある調理室で十一人の生徒(おばさん十人と小学生一人)が調理師の店員さんに習いました。
献立は、鯛料理三種。
写真は大きな鯛のさばきかたを教えてくれているところ。
鯛飯、たいのお吸い物、鯛と貝柱とサーモンのカルパッチョをつくりました。
誘ってくれたらんちゃん、ありがとう。らんちゃんはいつも籤運がいい。
只に近い料金(参加費100えん)でおいしいお料理をいただけて、うれしかったよ。
ことに、久しぶりに会った店長から、むかしの八女話を聞けたのが思いがけず有意義でした。(以下はなしの再現)
店長さんは中島さんておっしゃるのですね。(名札をつけてらした)
中島といえば・・高塚ですか。(わが父の旧姓、中島)
いいえ大島です。(註・高塚も大島も八女の地名)
へえ。ではあの左巻きのわらじで有名な中島庄屋さんと親戚?
それは吉田でしょう。人柱にたたれたかたですよね。
大島は昔、たんぼにはできないような沼地だったところです。
ええっそうなんですか。はあ、だから島がつくのか。
わたしのこども時代は、豚を飼っていた頃がありました。
そうです、そうです。一時期はやりましたよね。
うちも一年くらい飼ってた。
このような土着の話題を、かささぎは店長さん(一回り下)としました。
らんちゃんがふしぎがっていた。なんで知っとると?と。
へへ。そりゃあんた、かささぎは百姓手伝いしてたから。
数年いちごと産直野菜を親がここに出してた時代があり、この店長さんから色々教わった。ラベルの張り方とか、商品の出し方とかいろいろ。でも、それをやめたので、この二年は買い物にもあまり来ていません。これを機に、またきます。ありがとうございました。エーコープ八女様。
<鑑術>
宇佐鑑術
永禄4年(1561)、 竈門右京亮 宇佐 鑑述(あきのぶ) は 阿南(あなん)荘 松武名 南北代官 角 伯耆守秀清(ほうきのかみひできよ) と共に、由原宮大神宝物を調進した。
<鑑教>
安武鑑教
天文三年大友義鑑公は子供等五人と共に筑後国安武城に居住。時の城主安武鑑教公は菅原家に編入。鑑教を鎮乗と改名。海津城と改む。
<鑑實>
一萬田鑑実 いちまたあきさね
一萬田 鑑実(いちまだ あきざね、天文_(元号) 天文2年(1533年) - 天正16年(1588年))は大友氏の家臣。
大友宗麟に仕え、1550年の菊池義武討伐や1557年の秋月文種討伐に功績があり、武名を挙げた。1578年の耳川の戦いでは、殿軍を務めている。それらの功績により、加判衆となって宗麟の側近として活躍する。1586年からの島津氏との戦いでも軍功を挙げた。しかし1588年、突如として大友義統より自害を命じられて死んだ。一族から謀反人が出て、その連座で巻き込まれたためだという。
智勇兼備の武将で、和歌や連歌にも優れていたという。
<鑑秀>
富来鑑秀
文亀元年(1501)ころ、 大友親治と大内義興の豊前争奪戦の最中、田原二郎親述が大友氏に叛いた。富来鑑秀は度牟礼城に籠城して田原軍に対峙し、大友本隊の来援を待つ功を立てた。のちにその功に対して来浦六十町分その他の地を預け置かれている。鑑秀の妻は大友義鑑の娘で、名乗りは義鑑から一字をもらったものである。
<鎮時>
戸次鎮時
刑部少輔
天正14年12月12日(1586)「戸次川の戦い」戦死
<弘俊>
右田弘俊
大内氏第16代貞成の時その異母弟盛長が右田氏の始祖になり4代目右田弘俊の2男弘賢が陶氏として分家する。
百首の登場人物たち。系図らしいがよくわからん。
追って:
<鑑教>
安武鑑教が海津城に入ったのは1508年なので、天文24年には、おそらく死んでいる。別に利光鑑教という人がおり、この人の没年は1586年。珍しい名前だけど鑑教は二人いるようです。安武のほうは百首の頃は既に改名しているので、利光が正しいでしょう。
利光鑑教
豊後大友氏の一族で名は「かねのり」とも。大分郡鶴賀城(鶴ヶ城・利光城とも)主で武蔵守のち越前入道宗魚と号した。天正十三年には大友宗麟の薦めでキリシタンになったと伝えられる。天正十四年十二月、鶴賀城へ迫った島津家久は降伏勧告をするが宗魚はこれを拒否。壮絶な籠城戦となり、秀吉の援軍仙石・十河・長宗我部勢の到着寸前に敵の矢に射られて戦死した(一説に鉄砲で狙撃とも)。
墓は大分市の成大寺にあるそうです
調べた理由。
兵六万、を契機に磐井の乱の真相に迫りたくなり、その流れで邪馬台国がしばらくマイブームになってしまいましたが、むしろ気になっているのは「君が代」。
「君が代」で始まる戦国百首が16世紀中頃に磐井の霊に捧げられた、ということ。これが面白い。君が代の「君」は磐井の君であるといわんばかり。東のほうの殿様ではない。
古田武彦氏の説がwikipediaに次のように紹介してあります。
=======================
「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおとなりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県の志賀島の志賀海神社の春の祭礼の歌である。
「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』と呼ばれているのは、天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。
この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを 隠し、「題知らず」「読人知らず」の形での掲載した。
=======================
・・・ということで、この戦国百首には、磐井に関する何か重要な鍵が隠されているのではないか、と乙の嗅覚がクンクンいってる。
以上、竹橋乙四郎かく
参照記事(上記乙四郎文中の百首和歌掲載文)
かささぎの旗:暦論(九州俳句誌に三、四年連載)
第一回http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_d751.html
かささぎは、れぎおんの連載随想「虫」に書いた記憶の原稿を引用しようと探しましたが、該当するれぎおんが本の山のむこうにあるようでみつかりません。
ざっと内容をかけば、蟻と蜂、で書いた。
蟻通ふ、遠の朝廷。なぜ、亜利佳代麩でもよかろうに、この字を使ったのかということ。
http://www.janis.or.jp/users/kodairat/mannyou/kaisyaku/0304.htm
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?dtype=2&p=%BD%F7%B2%A6%B5%C2
当時、いちご生産農家だったため、リースの蜂箱を借りてきていた。
女王蜂が死ぬと、はたらかんのですわ。まったく微動だにしない、はたらき蜂。
こまってしまって。そういうこととからめて、書いた。邪馬台国に関係するのかしらんが、。
追伸:
『九州古代史の謎』(海鳥社刊・荒金卓也著)に書かれていたことですが、白村江を歌わない万葉集の不自然さ。これが何を物語っているのか。それは九州に王朝があったからだとする古田武彦説はとても自然な学説だと思います。
検索しますと、この著者の本は二冊でますが、内容に対して、ヒットするものが少ない。もっと書かれていい。かささぎの感想ですが、最初の本(上記)がとても面白く、あとで出た本はちからを失っている。求める人には『九州古代史の謎』のほうをお勧めしたい。
岩戸山古墳の別区で裁判の模様を再現しているといわれる石の人形を見ていますと、これほどの文化をもった民が、なぜ文献史料を何一つ残してくれなかったのか。という強い疑問の思いに駆られます。かささぎは、きっとどこかにあったのだと信じる。それらはしかし、すべて勝者が焚書してしまった、あとかたもなく。あの別区の草の原で感じるのは、その磐井の無念のおもいです。
31文字倉庫にいってきた。
コメントをかきかけ、いや、これはここにきっちり書いたほうがよさそうと思い直しました。
というのが、いま調べると、天文年間に繋がっていたからなんです!
「let it be」が31文字倉庫の題でした。
かささぎは、すぐ達磨忌で出会ったことば、「随縁」を連想しました。
そして、まてよ・・最近ビートルズ関連のことをわが社のロビイストから聴いたなあ。と思い出しました。ロビイストといいますのは、私がつけたあだ名です。だって政治家の知り合いがとても多い人だから。60くらい。
思い出しました。オノ・ヨーコはこちらの出身だ。というのです。
えーそうかなー東京だよ!とかささぎは思って。
で、調べました。そしたら、なななんと、これをご覧ください。
いっそ、まるごとこぴぺしますね。
小野 鎮幸(おの しげゆき、天文15年(1546年)? - 慶長14年6月23日(1609年7月24日))。和泉守。父は小野鑑幸。母は大友義鎮の娘と伝わる。立花道雪、宗茂父子に仕え、関ヶ原後は加藤清正に仕えた。日本七槍・立花四天王の一人に数えられる。
由布惟信に推挙されて立花道雪に仕えた。智勇兼備の猛将で、生涯で二十二度の大戦、多数の小戦に参加して六十七ヶ所の傷を受け、大友・立花両家から合計六十八枚の感状を受けた。
筑後国柳川城の城主となった立花宗茂からは家中で最高の五千石の禄高を賜った。文禄・慶長の役にも参加し、数々の武功を立てている。
関ヶ原では西軍への参加を主張した。西軍敗戦後、東軍に加担した鍋島直茂が三万五千の大軍で柳川に攻め込んできた時は、徳川家康からの沙汰を待つ主君宗茂に代わって総大将としてわずか一千三百の兵力で迎え撃ち、見事に撃退している。
立花家が改易されて宗茂の身が加藤清正預かりになると、家臣たちの多くは立花家臣団の勇猛を知る清正に召抱えられ、鎮幸はそのまとめ役として肥後に残った。宗茂はわずかな家臣とともに各地を放浪する旅に出たが、鎮幸は少しずつ金をためてたびたび宗茂に送っている。
慶長14年6月23日、肥後国にて死去。享年62。数年後、宗茂が柳川城主に返り咲くと、鎮幸の子孫は呼び戻され代々家老職を世襲した。
ジョン・レノンの妻、オノ・ヨーコは鎮幸の子孫である。(ウィキペディア)
オノ・ヨーコ:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%B3
小野鎮幸:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E9%8E%AE%E5%B9%B8
交通誘導の警備士にとって、もっとも忙しい時期を迎えました。
どの隊員をどこの現場へやるかと配置を考える編成係は、毎日とても大変そうです。忙しくなるにつれクレームも増えますから、詫び役もたいへんです。
夏場には半分の仕事量に減る分、いま夜も昼も立たなければ、生活が成り立たないという、厳しい特殊な職場なのです。
先日、社長が一人の若者を拾ってきました。
ホームレスの青年です。
汚れてくさいしまっくろだし、見るからにやせこけています。
まるで野良犬のようです。
「ほら。風呂にいれてあげて!服を用意してあげなさい。」
社長はこういうことをよくなさいます。
これまで数人の若者が、社長に拾われて、りっぱに警備士としてたましいを蘇生させてきました。寮に入れて、みんなで集団生活を送り、まいにち早朝から警備現場へ連れてゆくうち、次第に仕事のできる、責任感ある人になってゆくのです。社長はとてもよくめんどうを見られます。動物にも人にも掛けられる愛情の量がわたしたち凡人とは違っているように感じます。
数日前こうしてやってきたホームレスの児嶋くんは、おふろにはいり、服をきがえると、あらららら。藤井フミヤ似のイケメンおにいちゃんに変身しました!きけば、親から勘当されてこうなったとか。ボスいわく、「目が死んでなかったものね」。四日の研修を受け、元気で現場へ出動するようになりました。
わが裏紙警備保障は、こうしてバイタリティーあふれる仲間を少しずつ獲得しつつ、ばったばったと倒れる建築会社の悲鳴を遠く近くに聞きながら、なんとかしぶとくこの不況の年を越せそうな気配です。
八女市には山と呼べるほどの山ってありません。
ほとんどの山は郡部にあって、この農道の真正面に見えているとても低い小さなお山(背後の飛形山のこどもみたいな感じの)城山(じょうやま)も八女郡立花町にあります。山下城があったから城山なのですが、地元の者でもそこまでしっかりと把握できている人はあまりいないのではないかと思います。
ただ、漠然とむかしから、「じょうやま」と呼び慣わしてきました。そしてゆっくりとその名前の由来について思うこともなく、あまりの低さ地味さに人々の意識にも上らず、むなしく日を送ってきたのです。(とは、かささぎが城山のきもちになりかわって口上申し上げた次第です。笑)
しかし、戦国の世だった天文二十四年、ここの殿様だったに違いない豊饒美濃守源鑑述(ほうじょうみののかみみなもとのあきのぶ)は部下の侍(ではない農民も混じっていたかもしれない。名前が侍っぽくない者もいるから)23人と、自分の計24人で「夏日侍」(きれいな楷書で題はこう書かれている。読みは、「なつひまち」だと、国文学者で俳諧学者の東明雅先生はかささぎに教えてくださった、亡くなる前の年にです)という百首和歌を巻きました。その作品は99首で終わっています。このかたちは、「いきついてしまえば崩壊が始まる、ゆえに一歩手前で宙ぶらりんのまま、とめる」という文化を意識したもので、ほかには日光東照宮の門などにその思想が見られます。この百首和歌は岩戸山古墳の上にあった神社(今伊勢宮と書かれている)に長い間奉納されたままだったようで、持ち主はいま福岡市内にお住まいであるとお聞きしました。かささぎが持っているのは、役場の学芸員さんから戴いた複写です。とてもきれいでりっぱな書です。この和歌を「九州俳句」誌上で読み解きましたが、いつか本にして世に出したいと思いつつ、もう何年も過ぎてしまいました。読む人が読めば、とても興味深い和歌であろうとかささぎは思うのですが。民俗学的にも歴史的史料としても。原稿、海鳥社に預けっぱなしのまま、もう二年が過ぎました・・・
引き揚げて経(へ)し
歳月のいばら路(みち)
絵巻のごとく
顕(た)ち来(く)八月
安本美典氏の母上のおうた
引用出典:http://yamatai.cside.com/yasumoto/sorezore.htm
このところ、拙ブログが妙に邪馬台国に傾いてきました。
「随縁」ということばを連句で知ったばかりのかささぎは、これもまた自然な流れと思って、どうせならとことんやろうとばかり、朝、邪馬台国を検索。すると、この学者さんにヒットしました。ぱらぱらとめくっていますと、このお歌にであったのです。背を正し、じっと黙祷させる力をもったお歌です。
じぶんがなぜ、いま、この歌の前で立ち止まったか。
それは、やまなみ歌人の次のような歌に立ち止まったばかりだったから。
特攻に逝きし若者
顕たしめて
黄のハルシャギク
岸に群れ咲く
松尾 スミ
そして、なぜこの松尾スミさんのお歌に立ち止まったかといえば。
自分の連句での揚句の元句(昭和館より曳きし糸遊)を、さるお方が一直なさってこの「顕つ」に代えられていたからであります。
名残折裏
鬼の子と母御が住まふ奥丹波 前田圭衛子
きのふの豆をけふもまた煮る 大久保風子
落日に絵の具の乾く音を聴き 永渕 丹
一貫張りは丸に十の字 田中安芸
花宿りしてます白湯を吹いてます 丹
昭和館より顕ちし糸遊 姫野恭子
歌仙『四方の春』
平成連句抄『月と花と恋と』(三省堂)
自分の句に限っていえば、曳くだと主体は私、詠み手になります。
しかし、顕現の顕つですと、主体ははっきり目に見えないものになります。
そこまで、考えることができたのは、この松尾さんのお歌に出会えたからです。
この歌を紹介してくれたブログは31文字倉庫、
ここに邪馬台国関連のお歌が載りました。それを紹介したく。
31文字倉庫:まぼろしの邪馬台国
http://tanka-souko.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-9e49.html
みやま市の大学に勤める竹橋乙四郎がふるさと探検隊となって、いろいろと面白い仮説を編み出してくれていますが、ことほどさように、邪馬台国にはロマンがありますよね。
動機と過程がだいじなんだなあと思うのです。
あさ、安本美典氏の動機を読んで、心打たれたかささぎは、歌を引用しました。
ありがとうございました。
おもえば、十五年ほど前、自分を連句に連れ込んだ、札幌の窪田薫師は熱烈な古田武彦ファンで、その会にも入っておられた。八女に住んでいるという理由で(だったとおもいます)私に自分の著書のほとんどを送ってくださいました。窪田師は京大出身の数学者でドイツ語学者でした。窪田師亡き今、こういう縁のひらけかたに、ふしぎな感慨を覚えています。
両さんが浸かる菖蒲湯月低し 恭子
俳諧での夏月の句。
が、連衆に聞かれる。
「だれです両さんて」
えっご存じない!
一瞬絶句。
こりゃまたすつれいいたしました。
はあ~たいへんだ。
ドラ総理が踏襲をふしゅうってよんじまったことと、どっちがはずかしいかな?
チラリとおもってしまうかささぎであった。
(かささぎ的思考では、両さんを知らないほう)
比較級の英作文に仕立てよう。
両さんを知らないのと、踏襲を知らないのでは、どっちがより恥でありますか。
Which do you feel more ashamed for ,
unknowing 両さん or having forgotten how to read 踏襲?
またへんなんだろうな。前置詞かどっかが。笑
まあいいじゃごじゃんせんか。まちがいだらけでもさ。
だって、婦負恥部やめりかん*なんだし。
* ねいちぶやめりかんとは。
純八女産地土人。超いなかもん。
(びくっくりした。漢字変換、ねいが婦負。なんじゃろ)
久留米市宮の陣、八丁島の信号から
兵六万その2
竹橋乙四郎
兵六万。この響きがずっと気になっている。ペルシャ軍に挑んだアレキサンダー王の軍勢は5万人だった。
兵6万。軍を維持するだけでもたいへん。ヤマトが6万もの兵を遠征させなければならなかった理由は、相手の軍勢が相当規模だったからであろう。1万や2万そこらの軍勢を相手に6万もの兵は使わない。
仮に磐井の軍勢が3万とする。さすれば、これだけの兵を擁する都はいかほど大きいものであったものか。ひょっとして、虐殺の舞台となった上妻県周辺は、ヤマトと張り合うほどの都ではなかったか。侵略軍(ヤマト)による徹底的な破壊活動により、繁栄の痕跡が消されてしまったのでは、という思いが浮かぶ。
侵略軍によって破壊された古代都市は世界中いたるところにある。カンボジアの古都、アンコールはアユタヤ軍の侵略で寺院遺跡だけが残った。祇園精舎の繁栄は息の根を断たれた。
乙は日本の歴史については全然詳しくない。しかし、地球上のあちこちの都の盛衰のありようについては、日本の誰よりも勘が働く。だてに復興援助に関わる旅を重ねてはいない。
さて、都というものは、自然に消滅するようなものではない。メソポタミア文明の都、エジプト文明の都は、都の中心が時代とともに移動したとはいえ、それぞれバグダッドやカイロに姿を変えて繁栄を続けている。黄河・長江文明の都も川沿いで繁栄を続けている。
インダス文明の都、モヘンジョダロは消滅した。大洪水が原因とか。消滅する場合には原因がある。天変地異か侵略か。
邪馬台国九州説が不利なのは、なぜ忽然と古代都市が消えたのかの説明がつかないから。邪馬台国が発展を続けて全国制覇を成し、やがて大和朝廷になった、と言うほうが自然。
邪馬台国が九州にあったというのであれば、その都は卑弥呼の死後も1~2世紀は発展を続けたが、ヤマトを脅かす存在になりそうだったのでヤマトに侵略されて都は破壊し尽くされてしまった、としか都が消えた説明がつかない。兵が6万もいれば、都の繁栄を消滅させるくらいのことはできよう。アンコールみたいに。
追記: 以下、かささぎの旗 姫野11月28日、記す。
たまたまつけた写真は、前日に朝倉の役場へ行った帰りに信号待ちで写したものです。今日、地名検索をしていたら、このサイトに出会いましたので、つけます。とてもわかりやすく、答えてくれていますよ。乙四郎の上記の質問、六万に対して、迎え撃つほうは5万だったとあります。(五万騎塚)この八丁島あたりの景色は、ひろびろとしていて、ほんとうに見渡す限りの平原(水田)、ここに兵十一万を容れた戦闘の図をあたまに描くと、すさまじい虐殺図が浮かんだことです。
http://www.miya-jh.kurume.ed.jp/tiiki/tiiki.htm
アストロリコの利華さん。
なぜかかならず、「ふんだりけ」という経典のことばを思い出す。
語感は踏んだり蹴ったりみたいでちっともよろしくない。
でも調べると、ことのほかすばらしいことだまなのである。
以下、引用いたしまする。どこのどなたか、ありがとうございまする。
白い蓮の花をサンスクリット語(梵語)でプンダリーカといい、
分陀利華(ふんだりけ)と音訳されます。
りかさん。はすの花のようなりかさん。うーん。印象はどっちかといえば、
まっかなグラジオラスみたいなんですけど。ここは白い蓮の花のようなとしておきまひょ。
昼から朝倉へ行ってまいりました。例の公共工事労務費調査。
きのうも今日も二日連続で久留米から田んぼのほか、なんにもない筑後平野をひたすら一時間近く走る。初めて知った。朝倉と甘木はおんなじとこやん!はあ~探してもないはずだ。おなじとこだったなんて。
大刀洗とか陣内とかの地名に古戦場の跡を嗅ぎながら。
ふっとりかさんの筑紫哲也に対して書かれたメッセージを思い出しました。
この人は東京の人じゃなかったのですね。
日田の出身。ということは。
りかさんのコメントに、大叔父は滝廉太郎。へえ。
以前天文年間の百首和歌を調べていたとき、いくつかの資料を読みました。
大分と筑後とは関連が深く、というのも大友氏が制圧していたからです。
そのあとを治めたのが、筑紫氏でした。
いま、帰ってきてすぐいろいろ検索したのですが、出ません。
なにがかといえばね。筑紫広門がクリスチャンだったこと。
これは、私も知らなくて、なんで知ったかといえば、小説でです。
八女市忠見出身の小説家が書いた『南蛮仏』に広門の信仰が出てきます。
夢庵と晩年名乗ったことも。
近くの人ですし、とても親近感がわき、その問題のほとけさまも見に行ったよ、かささぎは。いろいろと調べると面白い。この人の小説のおかげで「往還道」という名の馬車道も知った。(ことし堺屋でまいた連句にちゃんといれました、このことば。ちょうど管理人の堺屋舟美さんが話してくださったのもあります)
話が拡散していきますが、
そういうことで、筑紫哲也と古い時代の八女を治めた筑紫一族を重ね、ふんだりけの利華さんから、八女特産の新製品キウイの紹介もしていだだきまして、なんだかとってもすごいシンクロをもらったな。と驚いています。ありがとう。りかさん。
きょうは、ずっと聴いて帰ってきたよ。アストロリコメドレー。田んぼの景色にも合った。
きのう書き損なった、水曜日の英作文。
これが分からなかった。
足りない語を一語加えて、あるものは並べ替え、まっとうな英文にせよ。
「部屋を出る前に必ず電気を消してください。」
{ sure, turn, you, off } the light before you leave the room.
これがわからなくて、うーん。うーん。
これじゃいかんのかな。と、まず思う。
You be sure turn off the light before you leave the room.
意味と文法。
まず、ゆー、(あんたちょいと)、で呼びかけ、びーしゅあ、忘れんなよと命令形。ざらいとの前にはざっとが省略されている。
んで、正解はこちら。
Make sure you turn off the light before you leave the room.
おわわもうじかんがないぞきょうも朝倉だ!お上とたいけつ。
姫野 様
ご無沙汰しております。
京都の麻場です。
お元気ですか?
今年は、不況だというのに、儲かってはいないくせに
雑用ばかりは増えて、動けば出費が重なるのに、動かなければ
だれにも演奏を聴いて貰えないから・・・という繰り返しです。
姫野さん、今頃、どうなさっているかなぁ~~
なんて、思うことはしばしばなのですが、自分のブログアップ
だけで、それこそ、アップアップしていて、、、、(汗)
バナナダイエットもトライ中ですが、バナナがないときは
キウィでも良いとのことで、キウィを買おうとしたら、
レインボーキウィ*とかいうのが、出ていました。
産地を見たら、八女なんですよ!
酸味が少なく、私にはとても食べやすいし、しかも国産、
しかも八女ときたら、買うしかない!
と愛用しております。
11月には靖国参拝してきました。
もうすぐ、また関東に行きます。
まずは、近況報告とご機嫌伺い? のメールでした。
ほかにいっぱい、報告はあるのですが。。時間がぁ~(+。+):
ではぁm(_ _)m
麻場より
けさ届いていました。ひさしぶり。
ぜんぜんまったくおひさしぶりでござんした。
りかさんあちきはげんきじゃよ!
ほんとはうつかもしれんがな。
ま。にんげんなんてきぶんしだいでうつにもそうにもなりまさ。
にんげんなんてらら~らららららら~ら~よしだたくろー
ときどき、「天使のミロンガ」が心に流れる。
まるで林の中をいっぽんの細いけむりが横切っていくみたいに。
しみます。街の道をひとりとぼとぼとあてもなくさまよいあるいているかんじ。
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_0b60.html
りかさん、病院も営業がやってくる時代です(事務所で働いてますが、時に健診はうちでどうぞと営業にみえるトコがあります)、音楽も俳句も連句も営業が大事よね。笑
ところで。アストロリコといいますと、筑紫哲也さんがなにか関係ありませんでしたか。ロゴの文字!!
レインボーキウイ。まだ知りませんが、地元のくせに情けないので、こんど農協のお店にいって買って見ますね。そういえばキウイは親戚の親戚が作ってなかったかな。
平成連句抄『月と花と恋と』(三省堂)の恋の部にとってもらった、
贓物は盗品のこと君返す 恭子
この難しい漢字は、ぞうぶつと読みます。
臓物であれば、ぞうもつとよみますが、贓物はブツです。
よく刑事ものドラマ見てると「ブツはあがってんだぞ。白状せんか」と詰め寄る場面がありますが、たぶんあれだと思います。
警備業の教本のなかで知った言葉です。
ところで!!
日曜日、法事が終わって、ブログに貼り付けた資料を読んでいたら、この難しい言葉にばったり出会いました。ここでどえす。↓
出遭った場所:筑後の国の風土記に曰はく、上妻の県。県の南二里に筑紫君磐井の墓墳あり。高さ七丈、周り六十丈なり。墓田は、南と北と各六十丈、東と西と各四十丈なり。石人と石盾と各六十枚、交陣なり行を成して四面に周匝れり。東北の角に当りて一つの別区あり。号けて衛頭と曰ふ。衛頭は政所なり。其の中に一の石人あり、縦容に地に立てり。号けて解部と曰ふ。前に一人あり、裸形にして地に伏せり。号けて偸人と曰ふ。生けりしとき、猪を偸みき。仍りて罪を決められむとす。側に石猪四頭あり。臓物と号く。臓物は盗みし物なり。彼の処に亦石馬三疋・石殿三間・石蔵二間あり。・・・生平けりし時、預め此の墓を造りき。
古老傳えて云う「雄大迹天皇の世(継体天皇)に當り、筑紫君磐井、豪強暴虐にして、皇風に偃ず、生平の時、預め此の墓を造る。俄にして官軍動發し、欲襲んと欲する間、勢勝たざるを知り、獨り自から豐前國上膳縣に遁れて、南山峻嶺の曲に終る。
ここに、官軍、追ひ尋ぎて蹤を失ひき、士、怒泄まず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち墜しき・・・(釈日本紀所引筑後國風土記)
引用の出典:http://www.geocities.jp/pujo106blue/iwai.htm
(ありがとうございます。)
原典をあたったことないので、判らないが、臓の字、ほんとは贓ではないのかな。色文字部分、「ぞうぶつとなづく。ぞうぶつはぬすみしものなり。」これ、自分の句とおんなじ。盗作だ!笑
岩戸山古墳の別区、むかしむかしの裁判風景をあらわしたものだといいますが、猪を盗んだために命を差し出さねばならなくなるとは、大変な時代だったのですね。神聖な猪だったのかもしれない。
千五百年も前の古い字が、今も堂々と生きながらえている。
お役所ことばの世界はすごいもんがある。
保健医療経営大学への道。
理念や骨子は乙四郎学長の大学案内にまかせ、かささぎは一生徒のおやとして、もっぱら正直なところを、はらのたしになる次元の話をします。
まず親が考えたこと。
チチは医療関連の仕事従事者でありました。大学の商学部を出てすぐ、医薬品卸の地場大手に入り、営業ひとすじに三十年も勤めた人間です。(その会社、ウイキペディアにのってますが、誰が原稿をかいたのか最も肝腎な最初の前身の膏薬みたいな名前の時代が抜けている。それほど古いときから丁稚奉公していた。朝は七時に家を出て、帰りは連日真夜中だった)。ということは、病院経営の裏の事情もおもての事情も熟知している。「病院」というすばらしく清潔で慈善事業みたいな響きの職場、その実、人のいのちを扱う因果な商売の「企業実態」をきちんと把握している、プロ中のプロでした。最後の単身赴任していた数年は外資系の世界的に大きな医薬品メーカーに出向させられていた。そのチチがここを長男に薦めた。なぜかというに、聖マリアが営むところなら、食いはぐれることはないだろう。というのが大きな理由なんですね。と、これはかささぎが勝手に想像したことで、チチは無口で肚の中を何もいいません。ちょうど依願退職した直後でしたから、運命的なものを感じたのかもしれません。
一方ハハが考えたことは、単純です。
能天気なブログを書いてきて、たまたま竹橋乙四郎という俳人に今年出会ったが、かれは小学校の同級生で同じ上妻の育ちであった。歴史的に「虐殺の民の子孫」の住む呪われた土地であり、「こらー、喧嘩はやめんか!」という強い禁忌のことだまがかけられた土地のぎぎゅたん気質のなか育った。で、長男が迷いのさなかにいることに心痛めていたとき、ふっと目に飛び込んできたのが、乙四郎大学の一期生募集、まだ間に合います。という文字であったのでした。
表面は単純です。
しかし深層はもっと複雑かもしれない。
三人の子たちは幼少のころから全員ぜんそくもちで病院通いの常連でした。ことに末子は聖マリアにひとしおお世話になっており、十年近く通いつめた。その間、よく夜の小児科待合室で順番を待ちましたが、近年患者が増えて、なかなか順番が回ってきません。それはなぜなのか。ー
ことし、たまたまつけたテレビの特集番組で、むすこの主治医を中心に聖マリアの小児科医の一日を追いかけたドキュメンタリーを見たんです。
理由はこうでした。働く母親が増えて、ふだんの午前中に子どもをつれてこれる親が減った。子どもは急患や重病でもないのに、大病院の夜間外来へ連れてこられる。夜もやっているという理由で。(大病院はコンビニか)結果、ほんとうの重病や急患の子が後回しになることもあるようになった。・・・また、医師はとびきり多忙になり、睡眠時間もあまり取れないし昼食の時間も休憩の時間もないときもままあるという。
なぜ、こういう状態になっているのだろうか。という疑問。
若いころ三年勤めた病院は、昭和五十年代当時始まったばかりの医薬分業制(いまはどこもそうですが)を実践していた。福岡で最も活気のある街の大ビルの中のクリニック。時代の先端をいく心療内科で患者さんすべてが新鮮だった。(罰当りですが)。その小さいながら心身の医療のためのすべてのスタッフがそろった医院で、受付兼医療事務のわたしも、薬剤師さんや医師や心理療法士や看護婦やレントゲン技師や検査技師と一体となって日々患者さんを治すためにつとめた。ヒステリー患者の罵詈雑言に泣き、うつの患者さんがなくなるのもみた。かささぎはここでこの時期に弟をなくす。
医師はお医師であると同時に、医院と調剤薬局の経営者である。法的にはそうじゃなくてもどこもたいがいそうです。
わたしたち従業員を路頭に迷わせないために、院長は事務局長とともに経営のコスト削減と、利益増大をはかっていた。具体的には、どこの病院もやっていたことですが、ぞろといわれる薬を使って薬価を浮かせるとか(近年の薬価改正につぐ薬価改正で不可能になった)、患者に胃がんが疑われたりした場合、毎月胃透視レントゲンを撮ったり(心配になるほどに)。毎月必要とも思えぬ血液検査を実施したり。いまにしておもえば、それらは医院経営のための涙ぐましい営業努力だった面も否めないと強く思う。
そんな思い出が「保健医療経営大学」という名前をはじめてみたとき、どっと一どきにかささぎの胸にあふれた。
きわめて個人的で現実的な感慨なのですが、これは意外に奥が深くて大変なことなのだとも思うのです。
だから、どういうことを学ぶ大学なのかは(いまだに)存じ上げぬまま、わたしたちの長男をここに行かせたい!と心が動きました。近年ひどくなる医療事故のこと一つをとっても、こういう学校が地域にあることの意義は大きいのではないか。と思えました。
身ほとりに進学先に迷っている子がいれば、みやま市の保健医療経営大学をすすめてください。性格的にまじめで、粘り強いたちの人、やさしくすなおで温厚な人に、ことにお勧めの学校です。
じっさいに通っている長男に聞いた学校のセールスポイント。
1 生徒数が少なく設備が充実しているので快適である。
2 先生に分からないことはどしどし遠慮なく聞きにゆける。
3 宣伝をしないので、人が押し寄せてこないよさがある。*
4 ちゃらちゃらしていない。落ち着いた先生、生徒が多い。
5 学食は安くておいしい。スポーツも自由にできる。
6 八女と違ってみやま市は橋一つとってもきれいで新しい。
7 政治的な事、世界の話題、ニュースの見方が解る。
8 どっと人がおしよせるものは、ひくのもはやい。
この広大な「なーんもない」ぐるりの土地よ永遠に。
(これで、やめ。)
* この発言は、以前通っていた大学への批評だろうか。
テレビCM放映に年間1,300万円もかけていた。
言論の自由
竹橋乙四郎
田母神氏がしきりに言論の自由をおっしゃってます。
立場がある人に「言論の制約」があるのは社会維持の常識で、公の場で所属組織の見解と異なることを公言したい場合は、乙三郎とか、丙五郎とか、ペンネームで公人と別人格になって発言すべし。匿名も可。実名で発言する場合にあっても、最低限、肩書きをばらさない配慮が必要。さもなくば、世間や所属組織からバッシングを受けるのは必定。過去、役人かたわら小説を書いていた作家は大勢いるが、作者名に肩書きはつけない。それで言論の自由はとりあえず保たれる。堺屋太一は堺屋太一であり、通産省役人とは別人格。
おととい、カンボジアから教育関係者(国を代表する指導者たち。虐殺世代未満なので、20~30歳台)が19名、近くの小学校へ視察研修に来られたので、小学校の上級生、PTA、教員、カンボジア客人を聴衆に、国と国との助け合いの講話をした。カンボジアの真実はアメリカの悪口を抜きには語れないので、言葉選びに腐心。実像としての乙には、いろんな肩書きの経歴がくっついている。さらに、学校教育の場ではアメリカの悪口はタブー。同盟国を悪く言ってはならない。
教育の場においては「言論の制約」が大きい、という事実をまったく知らずにこどもたちを学校へ通わせている日本人に、どこぞの洗脳教育国家を批判する資格などないのかも。
たとえ社会的重大事であっても、与野党が対立するようなことは教えられないし、入試でも出題されない。たとえば、我々の命に直結する、社会保障と安全保障については、常に与野党対立点なので学校教育ではほとんど触れられない。たとえば社会保障は助け合い精神を制度として具現化した「保険」の仕組みから教えるとわかりやすいが、学習指導要領を端から端まで検索しても「保険」の文字はヒットしない。かくして、社会保障と安全保障に関心のない日本人が大量生産されてゆき、関心のない人たちが教師になって次世代を育てている。学校教育の純粋培養エリートが健康保険の仕組みを知らずに医師になれる国、日本。医療が崩壊するのも無理はない。
みやま市の大学は、わが国の社会保障と安全保障を支える人材を養成する特異な大学。世間の関心はどうだろう?
私の仕事に部下が一人できました。
むすめと同じ26歳。弘学館中学高校から久留米大学を出た無口でまじめな青年です。一人っ子らしい育ちのよさを感じるとてもすなおな子。
金銭面ではまったく不遇な職場ですから、その点について折々にまず説明しました。しかし、一番言いたいのは、学ぶことの大きさです。ここにいたら、社会の底辺が見える。そこでどんな人たちがどうがんばって暮らしているかがわかる。支えあって生きる大切さも見えるし、お金の有難さもわかる。取引先のさまざまな状況から世の中全体の景気も見えるし、政治との絡みもうすうすみえる。
色気だけはまったくないところだけど、地図も読めるようになるし、警備のいろいろを学ぶことができる。教官は厳しく優しい。だからしばらく辛抱して社会をまなぶ学習塾に入ったとおもって、がんばってください。ことに今の時期、じゃんじゃか仕事が入ってきて、編成室の電話は鳴りっぱなし、火事場みたいでボスも社長も事務も全員現場に立たねばならないときだってある。そんなとき、事務室に残っていると、隊員さんからも電話が入る。「きつい。だれかかわってくれないか。」あるいは、「ばあさんがたおれた。かわってくれ。」(これはおなじみ、天使のじじい*。18番の手ですから、余裕のないときは一切受け付けません)。こんなときの対処のしかたを学ぶこともとても大切なことで、ひとのきもちとことば、その裏側までをまなぶことになります。きっとほかでは体験できないすごい職場であろうと思います。わたしが入ったとき、四十人ほどだった隊員数が今、倍です。ほとんど独り者ですから、寮の食事の買い物(事務の役目)だってとてつもなくたいへんです。しかし、生活全般を預かり、大きな家庭を営むようなかんじの管理のしごと、やりがいがあります。みんなとても人としてりっぱな人ばかりで、勉強になります。
・・ということを伝えたのですが、さて、どうなりますことか。
*天使のじじい(アイドルと化しつつある?笑)
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_5da1.html
乙四郎の大学のことを書いてみよう。
勝手に乙四郎大学と名づけてしまったかささぎであるが、別名はありあけ国際学園といい、正式な呼称は、「保健医療経営大学」である。経営は雪の聖母会、(つまり聖マリア病院)の経営になるのかな?
ひょんなえにしで、長男がこの大学の一期生になった。
福岡の新宮にある大きな大学へ通学していたのだが、二年生にあがるとき迷いがおこり、一年休学。その間に遠い地で働いてもみた。すると、自分は何も専門知識のない人間であると身にしみてわかり、そこへ保健医療経営大学開学を知る。いつも意見のそろわぬ両親がこのときばかりはそろって賛成してくれた。ふしぎな縁であった。(つづく)
『赤紙』
役所勤めの宿命として数年ごとに勤務場所を転じている。突然の内示を受けた時には不安に胸が潰れそうになる。突然の召集令状に呆然と立ち尽くす戦時下の青年の心境か。
戦時体験もないのに召集令状を手にする者の気持ちなど、軽々しく論じてはいけないことは百も承知。しかし、数ある赴任地のひとつで経験したある事件については、是非、紹介しておきたいと思う。
タイ王国の地方都市へ赴任した当初のことである。任地の言葉を覚え、その地の人になりきるのが私の信条であるのだが、さすがにタイ語は難解であった。ある日のこと、郵便受けに、権威漂う葉書が一葉。隙間なくワラビやゼンマイが踊るこの文字にはお手上げである。翌日、職場でタイ人スタッフに読んでもらったところ、軍へ指定日時までに出頭しなければ罰を科す、と書いてあるとのこと。召集令状である。宛名書きを読んでもらって、数件先の家の者へ宛てた郵便物の誤配であることがわかったが、しばらくの間、召集令状をいただく気持ちを味わうという貴重な経験をさせていただいた。
自分と関係ないとわかって、押し寄せる安堵感。その余韻に浸りつつ、帰路、例の葉書を手に、本来の宛先の家の戸をノックした。現れたのは母親らしき人。初対面だが、タイ人は、合掌を会釈代わりに、特有の微笑みで応対する。こちらも微笑みを返しながら、合掌の手から葉書を手渡し、カタコトのタイ語で、それが間違って配達されてきたので・・・と言いかけたところで微笑みが消えた。
相手は呆然と立ち尽くすのみ。そいつは召集令状だった。微笑みながら渡してはいけない代物だったのだ。戦時、役人たちはどんな思いで赤紙を配達していたのだろうか、それまで考えたこともないことを否応なしに想起してしまうひとときであった。
あれから十年。相変わらず、突然の異動内示に胸を潰しているが、部下に異動の内示を告げる立場にもなってきた。その場は無表情を装うが、内心は複雑である。ようやくわかってきた。そして、わかってほしい。(おつしろう)
おととい、貞永まこと句集が届いた。
ずうっと待っていた句集です。
五分しか時間がない。今日も現場だ。
でも一句ご紹介。
卒業の子を未だ舐めて居たりけり まこと
まこと句の皮膚感覚。それをもっとも感じる慈愛の一句である。
季刊 俳句・連句誌 『八千草』48号より
鵙の声備中鍬を深く打つ 有馬朗人
俳誌『天為』主宰
ペン胼胝
俳句・連句誌『八千草』主宰 山元志津香
青葦や残生にまだ担うもの
赤貧のあの日ぽろぽろ馬唐黍
刺青のばらの腕美し荒御輿
盛り塩をさけゆくうまさ祭足袋
草いきれ恋に不慣れのあの日かな
人恋へば鬼百合ゆらす渓こだま
毛虫焼くはったりの頬ひりひりと
残月の褪せはじめたり草ひばり
半生のペン胼胝ぬくし白露かな
押す風は返す風なり葛の花
平成二十年霜月発行
(山元志津香主宰は川崎市在住)
鵙の声備中鍬を深く打つ 有馬朗人
備中鍬で畑の硬くなった土塊を壊している。振り下ろすと、地に刺さったままなかなか鍬が抜けぬ。力がなくて、思うように鍬が使えなくなってきた。そこへ空気を裂く様なけたたましい鵙の一声が響き渡る。もうそんな季節か。鵙よ、おまえはまるでおれをあざ笑っているみたいだな。天を仰ぐと、空は深くどこまでも澄み切っている。
備中鍬:
http://www.forest.minokamo.gifu.jp/data_box/dougu/4_08.html
赤貧のあの日ぽろぽろ馬唐黍 山元志津香
馬唐黍(うまとうきび):
検索すれど出ず。戦時中十代の少女だった母に尋ねた。
馬の餌用の大きくてまずい唐黍だったという。馬のたてがみのような毛を沢山つけていたろう。戦中戦後の赤貧洗うがごとき時代を経てきた世代は、飢えをからだで知っている。一句にある哀感が、胸にひたひたと迫ってくる。作者は唐黍を食べている。噛り付かずに指で実を落としながら。すると自然に昔のことが思い出される。ぽろぽろと唐黍がこぼれ、ぽろぽろと涙がこぼれる。作者の感傷を噛んで味わいたい。
ちなみに作者は戦中派ではなく、団塊の世代よりは少し前の世代。かささぎは連句作者の句だなと思います。同じ頃に、さつまいもにも「沖縄百号」という名の芋があり、それも又大きくてびちょびちょとしてまずかったとは母の言。そんな母の戦時中の記憶を呼びさます句をついでにここにご紹介する。
兄弟の多かりし世のさつまいも 保坂加津夫
(現代俳句精鋭選集Ⅳ収録)
参考記事
唐黍で検索中、こういう詩を見つけた。
唐 黍 一葉糸枝
ロシア兵のくれた唐黍
一粒ひとつぶが恥辱(ちじょく)
この恥辱が血となり
女として転がっている
そして生きている
凍(い)てつく空に
死にたいと洩らせば
寡黙の間に
他人になった夫の背が震えている
この二つの生ける屍(しかばね)の狭間で
二人の幼児が
眠りの中で笑っている
夢でない夢の隅で
モンペ姿の女が
ロシア兵の体臭を黍粥に炊いている
1http://fieldworks-japan.com/2007/06/18/post_15.html
2http://www002.upp.so-net.ne.jp/ayuta/kotoba/kotolog/tokibi.html
あるいは、また連想する。
石橋秀野の句文集『櫻濃く』の随想に、戦争未亡人のあるものたちは「やとな」と呼ばれる酌婦となって生き延びたと。
昭和二十一年
五条キャバレー
石叩ひるの奏楽瀬にこたへ 石橋秀野
兵六万。
戦国時代、久留米市宮の陣の地名の由来に、後醍醐天皇の子、懐良親王を擁して菊池の武将が西方の兵六万と戦った地であるから、宮の陣という。とありました。
兵六万。
六世紀初頭、筑紫の石井に謀反のけを察したヤマトは兵六万を率いて北九州へ乗り込み石井を討つ・・・という歴史。このため石井が生前墓を造営していた八女は戦後になるまで国賊扱いを受けて肩身が狭かった(と書かれている)。
兵六万。
八女の人口はいま四万くらいですから1・5倍。そんな大軍がどうやって。と思ってしまいます。
そこで「兵六万」で検索しましたら、
1ケイタイ天皇といわいの乱:http://homepage1.nifty.com/o-mino/page846.html
2アフガン兵のはなし:http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-10-24/06_01.html
3中国軍のはなし:http://hw001.gate01.com/t52okamura/myfather/fatherpage3.htm
が出てきました。
関連リンクも貼り付けます。:http://www.geocities.jp/pujo106blue/iwai.htm
これは詳しいです。すごいですねえ。かささぎは八女上妻の地に生まれ育ちながら、上妻とかいて「かみつやめのあがた」とよむことも最近まで知りませんでした。このくそいそがしい時になんでや。といいながら、ざーざーとよみました。
なお、1のなかにあります、なぜ岩戸山古墳をいわいの墓と同定したかという疑問にはかささぎも答えることができます。久留米藩出身の考古学者・矢野一貞のあらわした本にきちんと書かれているから。
Steven King という綴りでなく、ステファン。
映画監督のスピルバーグは上記ですが。
公立病院外科待合室本棚にあった箱入り六冊セット文庫本。
息子の付け替えを待っている間、一巻を少し読みました。
映画は見ましたが、原作は違いますね。雰囲気が。
長い前書きがとてもおもしろいんです。
連載で書くということの利点について、イギリスの小説家ディケンズの例をもとにあれこれ詳しく書いてあります。ディケンズの連載小説が届くのを待ちかねて、海に転落して死んだ人まで出たという話。小説を連載するということは、子どもの頃、母がしてくれるお話を待ちかねる思いに通じ、ひいては読者と書き手であるわたしとの共同作業にもなってゆくのだ。とするくだり。まさにそうですね。
いま、五木寛之の新聞連載小説『親鸞』がそんなかんじです。
今年もはや交通誘導警備のシーズンとなりました。
連日とても多忙で、じゃんじゃか入ってくる警備依頼、新しい所はほぼ断わっている状態。
そんな中、給与計算のため伝票整理をしておりますと、警備報告書の現場名の欄に、恵蘇宿橋という変わった地名を見つけました。
えそのしゅくばし。おお...なんと強い原初のことだまのひびき。
えそ・・くちにだせば壊疽という字をまずはおもいますよね?
みょうに気になり、とうとう家に帰って検索してみました。
http://homepage2.nifty.com/isibasi/hasi/40fukuoka/01fuku/1016_eso.htm
景色としてのきれいな写真はこちら。
http://homepage1.nifty.com/naomii/b/brg51.htm
俯瞰したものはこちら。
http://www.qsr.mlit.go.jp/chikugo/html/hana/chikugo3-2_07.html
古代天皇に因む古い地名を冠した橋のなまえ。
こらたまがりました。
かささぎはほんとうに無知であります。
http://www.geocities.jp/kakitutei_pickup/asakura/konomaru2.html
しゅく、っていうから、宿場町を連想しましたが、やはり。
地名が呼び起こす土地のスピリット。
なんともすげえざんす・・。
すこしずつ断片的な知識が繋がってきます。
参照記事:
斉明天皇(クリックするとき身構えるべし。鳴り物入り)
http://inoues.net/tenno/saimei_tenno.html
運命って信じる。
職場は運命。
そうおもう。
お給料はこれまで勤めたなかで一番安い。時給千五百円もらってたこども英語教師の二十台(何十年前よ)の半分にも満たないし、ガソリン代も出ないんだよ。なのになんで二年も続いてるかといえば、小さな職場がまるで家族のように暖かくて居心地がいいから。社長(還暦すぎ)もマイボス(ひとつ年下独身女性)も、二人とも真っ正直で短気で激しくて、じぶんの性格にふしぎと合う。
事務所のみんながだいすきだ。
隊員さんたちもユニークな人ばかりで毎日楽しい。
こんなひとがいる(らしい)。
寮の人。ねるときに、ふとんもしかないでごろ寝って。
えーっ寒くないの!?
でしょうね。だっていつもなにも着ないから。
おおおお。そんなら戦地でもどこでもやってけるよね。
だから昼夜働いて風邪一つひかず頑張れるんだ。
警備業界は出入りが超激しいのですが、わが社の特徴として、出て行った人がまたなぜか舞い戻ってきます。
先月やめた京大卒の隊員(変わりもの)が、また戻ってくるんだって。別の警備会社に入って、そこ、一人部屋だったらしいのですが、うちのほうがよかったらしく、ごちゃごちゃした五人部屋の寮にもどってくるって。
なんだかわかる。
おかねじゃないんだな。あたまではない。
ひとのけはいひとのやさしさあったかさ。
ひとを支えるものは、これに尽きます。
米国大統領選、史上初のアフリカ系黒人が大統領に選出されたもよう。忙しくて、まだオバマの演説もきいてないかささぎは、とりあえず、先日からのつづきをやっつけます。リンカーンの演説のつづきです。
Now we are engaged in a great civil war, testing whether that nation, or any nation so concieved and so dedicated,can long endure.
いま我らは偉大な内戦を戦いぬくことを運命づけられています。これはかように(自由思想のもとで)はぐくまれ、また(万民は平等であるという命題に)かように捧げられた、アメリカあるいはいかなる国が、ながく生きながらえることができるのかを試すための戦いです。
上記、engage の意味がいまひとつぴんときません。
日本人はエンゲージいうたら婚約しか思い浮かばないもの。
そこで単語を調べます。ネットで拾ってきたのを貼り付ける。
*en・gage[ in![]() id ] |
| 「engage」を新グローバル英和辞典でも検索する |
engage for ...
en・g g・er
|
| [ プログレッシブ英和中辞典 提供:JapanKnowledge ] |
長いですが、まあ一応ざざっと目を通してください。
このうちの他動詞、3の意味だと思います。
be engaged in ~に従事する。
しかしそういう辞書的知識がないまま読んだ場合でも、なんとかこじつけて暗闇鍋に手をつっこむかんじで翻訳しますと、やはり婚約っていう概念にいきつく。いっしょになるべく運命づけられた。とでもいうような意味をさがしてくる、あたまは自然と。ですから、
Now we are engaged in a great civil war,
いま我々はおおきな内戦のもとに定めつけられ引き寄せられ戦わされている。
というのが、最初によんだときよぎった文章の意味で、そんなふうに思えば、これは受動態でありましょうか。稲津紀三師の書かれていたことをふとおもいだします。天為という概念を言語はどうはらんできたかってことですが。
おととい佐藤先生から習ったbe完了文、
We are met on a great battle-field of that war.
われらはこの戦争の偉大なる戦場に会している。
We have come to dedicated a portion of that field, as a final resting place for those who here gave their lives(so) that that nation might live.
so that may構文。
(なになにのためになになにする。)
かの国(アメリカ)が生きながらえるため命を捧げた(gave)人たちのために、最後の安息の地(墓地)としてこの戦場の一部を提供(ででけいと)しようとわれらはここにやってきた。
この文章は、前回からの続きです。おなじ単語をどう違う日本語でいいまわすかのテストです。笑
dedicated その1
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/in.html
参照
犬死:http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_a20a.html 連句的参照映画 今週のかささぎおすすめ映画 「リトルミスサンシャイン」(従軍経験をもつじいさんが、孫娘のミスコン応募の旅路で客死、そのじいさんのしこみ、っていうのは孫娘への愛情なんだが、やはりかなりぶっこわれていて、でもとてもすなおな孫娘はすなおに表現しておかたい審査委員の顰蹙を買う。でも、この一件のおかげで、最低の家族が最高の家族に変化してゆくっていう、転んでもただではおきない映画)
「キューティブロンド」(ばからしくもあり、たのしくもあり。金髪ボインはあたまがわるいという偏見とたたかう女の子をリース・ウイザースプーンが好演。途中背景に流れる演説は映画「Emile Zora」(オーソンウエールズ)、確認したら第二巻の方です。英語の授業でクラスメートが貸してくれた『感動する英語!』ってのに入ってる。)
星永文夫句集『肥後飢餓講』
- いたむから、撃ちに行く -
前川 弘明
このB五版箱入り一巻は、たとえば黒い紋章を彫り刻んだ一個の壮麗な棺である。あるいは、とめどがたき血潮で満たされた月夜の暗い甕である。
星永文夫が叩く棺の音が聴こえるようだ。
渾身で揺さぶる甕の中のどよめきが聴こえるような気がする。
それらの作品は、濃い霧に覆われた土着の因習の哀しさを引き連れ、生死の蒼い灯をゆらめかせて、うごめくようにぼくの内耳を這いまわる。
本集は、初期句集「狼祭」(昭48)「肥後飢餓講」(昭50)に、戯曲「聴耳荒神黨(一幕一場)」を加えたものである。
星永は「あとがき」に「私の原点は〈飢餓〉であった。国敗れて〈神国〉が滅んだとき、信ずべき何ものをも亡って、その種子が播かれたのだ」と書き、別の付文でも「私は知っているのだ。私の飢えの盆地に、冷たくたぎる火のあることを。それは決して連帯しないことを。」と告げている。
悪魔(ばけもん)が舟漕ぐ おしろいばなとなる白昼(ひるま)
情死めらめら 水甕みそしる三日月村
昼は鏡に 胎児ながーいローソク持つ
突堤に傘さし 七人子を産む悪い女
鷺は田に 狂った母が紙切るよ
この抜き差しならぬようなせつなさは、生き抜くことの怨念を思わせ、あおい狐火がそこらあたりに漂っているような気配である。
死はつねに生の裏側にあって、その絡み合いこそが生きることの証であると言うのであろうか。句の半ばを一字分脱落させることによって、句に一個分の飢えを与え、審問の息継ぎを期待するのであろう。
土着の精霊は土着の方言によって、呼び起こされる。
方言の言霊が親しく地霊を呼び起こさせるのである。
誰(だる)か新地に精霊つれてほおずきの欲しか
蛇ぬれて 白塗り村ン衆(し)が消えていくで
蟹(がね)食うてよごとよごるるおなごの家
土地に育った素っ気ない言葉が、まるで地霊を呼ぶようにざわざわと葉ずれの音をたてる。
かぞえ唄の句がある。
「ひふみよいむなやと」のそれぞれの一字を冠にした句である。
ふ・えの音の今夜おそろし銀のめし
む・ぎの針折れておんなのはじめの日
な・のはなに襲われる日は女郎買いに
かぞえ唄は、おおよそ悲しみと恨みの唄であって、子守唄や労働の唄にまぎれて低く人から人へと繋がれていく。
水の村から万歳が来る 犬盗(と)るため
倒れるから 爺よ 猪(しし)撃て 唄うように
三時に遠い蓑虫ゆれる 厠の父よ
乞食(キリスト)が火を焚く みごとな村民(なかま)の死
この谷の飢えの何処かの彼岸花
くれないに人はながれて橋づくし
若き日々の星永の心は飢えて、飢えの血潮のエネルギーを愛していたのであろう。
ひたすらひかるざらざらかなしい日のしっぽ
この飢えの痛みよ。その親しき痛みよ。
いたむから雪へ廃馬を撃ちに行く
『九州俳句』 151号(中村重義編集発行)より引用
平成二十年八月十五日発行
空幕長のなまえを朝まだきふとおもった。
田母神。
それから、かささぎは子の盲腸手術を執刀してくださったお医師の先生のなまえをふっとおもった。
さいごになぜか怪我という字が浮かび、むかでに刺されて少し色がかわったじぶんの肢のことをおもいだした。
脈絡なく連句的に思う。
カンボジアでは十二支の竜のかわりにコブラだと乙四郎は書いていたが、その意味するものはなんなのだろう。龍のあとは巳。少なくともコブラはへびと同等ではないのだろう。
冬物スタジャンの左胸と上腕に警備のワッペンを縫い付けにゆきます。50着ほど残ってるそうで。これはびみょうにむずかしい。にがてなのだ。ボスはとても早くてうまいけどね。
月末〆の請求書書きもまだ終わってないし。では。
林家木久扇のなまえを調べてたら、経歴のなかで、若き日、漫画家清水昆の弟子だった。とあるのを見つける。
えっ、清水崑。
石橋秀野の妹(歌人)が嫁いだ人だ・・・。
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/shimizu/index.html
ナガサキ。山本健吉のふるさとだ・・
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