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2008年9月17日 (水)

俳諧研究誌『解纜』第21号より

句詩付合

         徳岡 久生

とんぼうや声なきものゝさはがしく*    大魯

   空に逝き
   地に果て
   海に朽ち
   おお 数知れぬ未祀の神々よ
   八月の真陽にかぎろい
   轟々と無音のうたをうたいたまえ

   この星に禍つ火の絶ゆる時まで 

*とんばうはとんぼうと表記されてます。岩戸山古墳を向井去来が詠んだ一句「稲妻や人形原の魂よばい」もよばひにはなっていなかったことを連想、原本もこうなんだろうとおもいます。
   

小原洋一氏追悼歌仙

   『つばくろは』  

          独吟   佛渕 健悟

つばくろは飛ばず五月の寒さかな     健悟
  青葉の街に毀たるる風
ドラム叩く黒縁眼鏡の男ゐて
  弥次郎兵衛に首を振らせる
有明を約して発ちし複葉機
  朝顔の種入れし封筒

泣き虫を笑はせてから銭湯に
  神田川には錦鯉群れ
紙で指切っていつものお呪ひ
  乾燥注意報に急く人
パソコンの中で育ってゐるティラノ
  雹のつぶつぶ拾はせる月
夏風邪に又わがままがぶり返し
  女優の未来猿が占ふ
葦舟においてけぼりの掛時計
  みどりごの夢水に溶けだす
花の降る虚をみてゐるモヂリアニ
  厨の声の朧おぼろに

名残の折

囀の消ゆる一瞬射合抜
  失くした腕の先の記憶も
巡礼に出る日に残すクレヨン画
  まなうらにある父ちゃんのポー
回らない寿司を食はせて呉れといふ
  みそかの雪のふはりふはりと
この人のために断ち切る血の系譜
  おぶふ男は丸太なりけり
大いなる意志もて進む宇宙船
  兎が消えた月の裏側
付句してゐて閉店のビアホール
  ピースと決めたタバコ変はらず

寝転んでみても霊峰不二の山
  泪穴てふものが背中に
ウォーキングシューズを結ぶ立夏なり
  暦につけた○は何の日
たはむれに隠るる君と花ふぶき
  喇叭を立ててありし弥生野

 

 留書    
           沸渕健悟

小原さんと会っていた三軒茶屋「馬仙坊」ではよく飲み連句した。酒がまずくなるような小うるさいことは言わない。とはいっても端折れぬことは端折らぬ。連句しながら飲むといくらでも入ってしまうのは頭の芯が冴えてしまうからだろうか。お蔭で小原さんは立派な痛風持ちとなり、僕も追随した。

思い出す光景がある。
解纜の例会に向かっていたある夏の日、炎天下杖つきながら泳ぐように踊るように神田川にかかる橋を渡ってくる人影を誰ならんと見れば、小原さん。大汗かいて追い付いて言う。「この絵は一句できるだろう。健悟さん」

三軒茶屋で居酒屋連句をするようになったのは詩人の故安西均氏を紹介されてから。三人の連句は三年程続いた。安西氏の詩集『銃と刃物』(花神社)の口絵に着物姿の安西氏が真剣を構えている写真がある。この大真面目な写真は居合・杖術をやる小原さんの振付である。安西氏の連句は全集には取り上げられてない。しかし三人の見たエルドラドへの道は今なお鮮明だ。

安西氏の一周忌(平成7年)に「馬仙坊」で両吟した時の小原さんの一句。

雪激し胸に月下の寝刃研ぐ   洋一

小原さんが亡くなったことを聞かされた五月十四日、仕事帰りの電車の中で追悼の独吟をした。あの愚かな懐かしい時代の一齣一齣が溢れでた。後は淋しい独り酒である。

小原洋一さん追悼   

       かささぎの旗 管理人

小原さんとの出会いがあった。
十年、いやもっと前。
そのころのかささぎは、今と同じように、いつもきょろきょろとして、ひもじいはらを満たそうとしていた。戸畑の穴井太師の天籟通信に三年ほどいたけれど、風穴は大きく育つばかり。そんなとき、天籟の若手(当時)がごそっと一揆かとおもうばかりの退会をした。十人くらい。あれ。あれれ。あのひとたちがいたから楽しかったのに・・と思ったかささぎは、義理もへったくれもなく追随した。早い話が会をやめたのである。

その中の太田鉄雄さんという俳人にファンレターを送ったところ、太田さんは「俳句ざうるす」(編集発行人は野間幸恵氏)という小さな同人誌を送ってくださった。そこに感想文を寄せるうち、仲間にとりこまれる。ここでかささぎは連句と運命的な出会いをしたのである。同人の若い人たちにまじって、なぜか一人だけロージンだった窪田薫師がいらっしゃったからだ。だけど、その話はここでは省く。

その何号かで、小原洋一氏が登場された。颯爽と。というよか、重かったなあ。智恵保父。じゃなかった。

チエホフよ撃鉄起こせ二月満月(記憶です)
     
確認したくても俳句ざうるすを紛失しました。  

記憶がはっきりでませんすみません。確かこんな字余りのブルースみたいな句でした。私は一読後、なぜかすぐ安西均先生を連想した。

そのころちょうど新聞の投稿詩の担当が安西先生で、私がもっとも熱心に書いてたころだった。どういう縁で俳句ざうるすに投稿なさってたのかなと今、思う。ここに健悟さんが書かれている「銃と刃物」は私も持っている。小原さんの名前が出てくるのでたいそう驚いた。

ほとけぶちさんとはその後れぎおんを通じて、前田先生の組まれたユニットで何度か連句をまかせていただいた。三度のめしより連句が好きという人種のひとりであられた。(と言ったら前田師がそりゃ飯のほうが大事と訂正されたが)。

小原洋一さん。

ごめんなさいまし。いつだったか、お便りの中でとはいえ「おはらしょうすけさんなんでしんしょうつぶした」って歌を歌ってしまって。いつも一言も二言も多い失言かささぎは赤面するほかない。※ そのころ、小原さんの楽譜の会社が倒産してしまったと聞いて。笑い飛ばそうとしたのです。よく知りもしないくせに。。でも、詫びをいれたことに逆にかなしい思いをなさったんじゃないかなとあとでおもいました。一度もお会いしなかったけれど、とてもなつかしい小原洋一さん。どうかあちらの世界でも連句をまかれてくださいね。お酒はほどほどに。

                         合掌

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コメント

別所真紀子氏のあとがきを拝読しますと、小原洋一さんは享年63歳だったそうです。以下、引用文。
 「解纜」の創始者の一人である小原洋一氏が、平成二十年四月二十四日食道癌のため幽明境を異にされた。まだ63歳という若さである。志を一つにして漕ぎ出した小舟の推進力であり、まことに好漢という言葉がぴたりのひとであった。口惜しいという思いでいっぱいである。小原さんは音楽家で楽譜出版社や音楽事務所を経営していられ、それが詩人の故安西均氏のお住居に近かったところから親しくなり、銭湯好き居酒屋好きで一年のうち二百六十日位は共に湯に入り、共に酌み交わして十年以上ということであった。安西氏に「連句覚えてきなさい」と言われて佛渕健悟さんを先達にこの道に入られたのである。(これでよーく事情がのみこめました。)
安西氏は最晩年連句に興味を持たれて試作品もニ、三あり、告別式のあと直会で追悼歌仙を巻き、何とか活字にしようというわけで解纜は始まったのだった。冊子一号にそれらを載せ、二号から六号まで小原さんは安西氏との交流をエッセイに書かれているが、これが間然するところのない達文で、私は舌を巻いたものだった。才能は音楽だけではなかったのにほんとうに残念極まりない。ずいぶん苦心したと言ってらした冊子表一表四のカットは、これからもずっと使わせて頂く。雲の上で父とも慕った安西氏と再会していられると思う。天国にも居酒屋があるといいけれど。(別所真紀子「航海日誌」より)

うーん。
考えたら、とってもとってもふしぎ。
いろんなことがシンクロしてて。
いちいち書くのもめんどくさいから書きませんが。
先日引用したエレノアローズヴェルトの詩が言ってたように、輪になっていて、終わりも始まりもない感じで縁はあるのだろう。だから縁は円なのだな。
最晩年の安西均に出会えてよかった。
連句に出会えたのとおんなじくらいに。

かささぎさんが飛んでいる世界の広さに、いまさらながら驚いています。あまりの広さに時々ご自分でも居場所がわからなくなるみたいですね。ま、いつでも呼んでくだされ。私は暇やけん。東妙寺らんさんとともに、あなたの洲になります。

ぼんさん。ご心配おかけします。産休縁燐寸。

会社の給料計算。今月は休みがあるので忙しい。
五十人分のたての計算とよこの計算があわんちゃ。二時間も費やして何度も何度もおなじとこやった。でもどこが間違っているのかわからない。なきたいきもちで事務に入ったやさしい男子に依頼しようとすると、彼はノビ太顔で毅然としてこういった。

ぼくもガッコでそりゃ苦労しましたから。一円が合わずに居残りさせられて。クラブ活動もできないで必死でなんどもやり直したもんですう。でもそれがあとで生きますからね。

母親の年とおなじらしい私にのび太君は説教した。
けっきょく書かなくていいところに余計な数字を二度もいれていたことに気づく。
気合が肝心だ。と今日ほど思ったことはない。

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