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2008年8月21日 (木)

九州俳句151号ーその1

きのう帰ると届いていた。

中村重義編集長最後の編集のです。

表紙裏、河野輝暉(大分)選の一五句。

朧夜をペットボトルが遡る  青木貞雄
豆撒きの本音を入れた一升瓶  姉川勝子
風格のこの山国の冷奴     有村王志
冬籠り虹色のくすりばかり呑む  池迫敬子
ものの芽の二寸の力暮れ残る  伊藤久見子
二の腕を出して天下の秋を知る  宇田蓋男
花筵戦後の長さはしたなさ   小倉斑女
電柱にしがみつきたる大試験  木附紀子
梅の花抱き品川のあたりかな  瀧 春樹
蟇 死ぬる日までの辛抱だ   寺尾敏子
米五キロ買い啓蟄の野を帰る  中村重義
朧夜の階段一段殖えており   日高匡子
関節のところどころに遠初音  舛田傜子
あんぱんのへそが恋しい春の風邪 松永俊昭
ペコちゃんの舌に残りし寒さかな  山本悦子

小倉斑女の花筵の一句、すばらしいです。
じっさい、ほんとうにそう感じます。
花を直接は謳わず、花見の筵と間接的にやったところが憎い。
はしたなさ。
この俗語こそが俳句のいのちだと思った。
一句が優れた戦後論すべてに勝る。(つづく)

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コメント

ほーいほい。
やっとやっとやっと。
一息ついてまっせ。ほっ。とね。

ああ、これが俳句なんですなあ。
斬新というか、整いすぎてないというか。
常識っぽくないっていうか。

確かに、戦後の長さはしたなさ の句もようござんすが、わたしは、

ものの芽の二寸の力暮れ残る  伊藤久見子

これに一番惹かれましたね。

おっはよう!
さすがせいこさん。そうだね。何気なく入力して、あとでいろいろなことを考えさせられた句でした。若芽のもどかしさを二寸の力として聞き取り、開放してあげた。すごいね。霜柱といういいかたを定着させた人たちとおなじ感性。
ところで。花茣蓙と花筵はおなじだろうか。ときのう寝るときにぎもんがわきました。カンナをてっきり夏と思い込んでたし。今調べたら、花茣蓙は夏の、花筵は花の季語で、まちがいありませんでした。

それと、ひきがえる。蟇という字、なんと墓と似ていることだろう。とくにパソコンのちさい字は。寺尾敏子さんは好きな俳人の一人で、たしか熊本のおいしゃさん。眼科医だったとおもいます。このひとの、

まだ熱い単車を夕顔に寄せる 敏子

この句のかっこいいことといったらありません。少年の光源氏がそこにいるような。

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