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2008年7月 3日 (木)

あべしげさんの書評から

『恋と伯爵と大正デモクラシー』 山本一生 著

    阿部 重夫

歴史は時代の哀しみを語る。それなくして史家を名乗る資格はない。私は生来の怠惰に加え、古人の書牘を読み解く学識と考証が不足している。書物の森に深く分け入って、徒労も辞さず埋もれた固有名詞を追う「訓詁探偵」の無垢の情熱にも乏しいから、そういう史家には脱帽するばかりである。

けれど、いつのまにか、そんな史家が消えて久しい。平成はたった一人の司馬遷、一人の森鴎外も出せずに終わるのか。

今は、否、と言おう。

久留米藩二十一万石の伯爵家を背負った有馬頼寧(一八八四~一九五七)の人生の一隅を照らした史伝がここに出現した。一見、トリヴィアルな秘話発掘とも読めるのは、頼寧の名がすでに忘却の波間に沈みかけているからだろう。

辛うじて記憶にとどめている人でも、中央競馬の年末のフィナーレを飾る「有馬記念」のもとになった中山グランプリの生みの親、そして精々が直木賞作家、有馬頼義の父というくらいの知識だろうか。

しかし、この本は頼寧の波乱万丈の一生を追うものではない。大正八年のたった一年、頼寧が断念した恋に絞って、あとは枝葉と思い切り刈りこんでいる。だから狷介詰屈な『渋江抽斎』のように、素養がなければ歯が立たない鴎外の重苦しい史伝とは趣を異にし、優れた小説のように芳醇で読みやすい。

頼寧の生涯を知りたいなら、巻末の年譜(簡にして要を得た記述は春秋左氏伝の筆法である)で一望すればいい。華族の桎梏に屈したこの哀しい恋を浮かびあがらせ、一斑にして全豹を知らしめんとした工夫がよく分かる。

歴史上の頼寧はA級戦犯容疑で巣鴨プリズンに八カ月半収監された人だ。学習院高等科時代から近衛文麿や木戸幸一、志賀直哉らと親しく、襲爵前は農商務省に入省しており、貧民教育や差別撤廃運動、農民運動や労働運動などに私財を投じた善意の華族政治家である。

産業組合中央金庫(現在の農林中金)理事長から産業組合中央会(のちの全中)会頭を経て、第一次近衛内閣では農林大臣に指名された。その後も近衛の新体制運動に参画、「大政翼賛会」の事務総長を務めながら、国策イデオローグたちに「アカ」と呼ばれて集中砲火を浴び、近衛の切り捨てによって失脚した。

山あり谷あり、人物も魅力的なのに、本格的な伝記が書かれなかったのが不思議である。もっとも「世の中で一番嫌いなものは銅像と伝記」と頼寧本人が峻拒し、戦後に沈痛な自伝の筆を執っただけに、なまなかな史家や伝記作者の手には負えなかったのだろう。

作者はそこに挑戦した。アカデミシャンではない。石油会社で経理を担当し、のちフリーランスとなって競馬の血統研究の翻訳や、秀逸な競馬文化論を書いてきた在野の人である。九〇年代から刊行が始まった有馬頼寧日記全五巻を編纂した伊藤隆東大名誉教授に薦められ、索引づくりを手伝うことになった。

日記には詳細な注が必要で、フルネームでない名称、略称、愛称の正体を突き止めるのは容易なことではない。資料渉猟は頼寧日記のみならず、有馬家を支配した枢密院議長倉富勇三郎の日記や、信愛学院史、民俗学の柳田国男から俳人の松根東洋城など広範囲に及ぶ。その徹底した博捜からこの作品は生まれた。

劈頭、都立中央図書館の検索キーボードを叩く場面に始まるように、これは一種の追跡ミステリーである。読者はいつのまにか「検索の猟犬」となって、ひたすら謎を追っている。日記に点綴された「ミドリ」「M」とはいかなる恋人なのか。親友「八重ちゃん」の業病は何だったのか……。

驚くべき発見があった。意外さは奇遇の域を超えている。やはり、優れたノンフィクションは凡百のミステリーにまさるのだ。私のようなジャーナリストはそこで納得するが、作者は立ちどまらない。頼寧とミドリの別れのクライマックスは虚実の境を越え、ほとんど二人に仮託したモノローグになっていく。

実を言うと、作者と評者は高校以来の友人である。彼は伊藤門下の優駿だったが、大学紛争の余燼で院を受験しなかった。当時は「ボンクラが大学に残るのさ」とうそぶき、在野の意地に生きた。「所詮、学者は史家ではない」というのが僕らの結論である。身びいきでなく言うが、この本はその渇を癒してくれた。

「思い残すことはもうない」

作者はそう言う。でも、この本を読ませたかった友がいる。五月に亡くなった作家、藤原伊織である。大学でみな一緒だった。

二人の作品は同じ哀しみをたたえている。消えた時代の哀しみを。

2007年10月03日 http://facta.co.jp/blog/
書評欄http://facta.co.jp/blog/archives/20071003000529.htmlより無断引用

あべしげさんの文章は、とてもかちっとしているくせに叙情的で、こころ騒ぐ。1991年2月、いちまいの拾った新聞でよんで以来、あたまから離れないなにかがある。引用した文章はそんな彼の特質がよく出ている。
「一斑にして全豹を知らしめんとした工夫」・・・、これ、こんな言葉が自然にくちから「ふっとでる(八女の方言)」、なんだかすごくない。ほれぼれします。

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コメント

有馬記念とは久留米の殿様の有馬とは知りませんでした。
ほー!ですね。

その子孫の方が巣鴨で戦犯だったとは、そういえば戦犯名簿に有馬と言う名前がかすかに記憶してるような・・・。

話は変わりますが、「大石政則日記」に登場の女性「富江さん」がテレビに登場されました。佐賀テレビで放映されたものを昨日ビデオでもらいました。
出撃前夜合いに行った女性富江さんです。
富江さんに最後の夜頼んだことが「布団で寝かしてほしい」だったそうです。
敷布団を3、4枚重ねて寝かしてあげたのだそうです。
最愛の女性の元で暖かくやわらかい布団にくるまれて最後の一夜をすごしたかったという事でしょうね。
私が想像で書いた特攻絵画の「天女に召されて」のコメントは間違いなかったと思いました。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Screen/3222/ehagaki3.htm

富江さんのお宅には、富江さんに勧められて撮ったという立派な写真が大事にとってありました。
一夜明けて別れの見送りをした事は、はっきり覚えているのだそうです。
うーー、感涙。

そうでしたか。そうだったんですか。

さくらさん
この一文ごと大石政則日記のカテゴリーに入れますからね。コメントがそうせよと命じます。ついでに私のなまえに大石政則日記その21をはりつけました。とみえさんの家にとまったことを書いているぶぶんです。

富恵さんの名前間違えました。

乙四郎さん・展太を通じていただいた渋谷幽哉さんのご本、ニューヨークさんが是非読みたいとの事ですのでお貸ししようと思っています。

サミット厳戒態勢の東京へ2週連続で行ってきました。あちこちで検問やってるし、ゴミ箱はすべて塞がれてるし、洞爺湖って東京だっけ、って感じ。サミットのたび、ずーっと前の東京サミットの悪夢を思い出します。表舞台をご無沙汰してるのも、このトラウマゆえの本能的反応かも。サミット、早く終わってほしい。
遺稿集、ニューヨークさんの分ももらってくればよかったですね。気がまわりませんでした。

おつしろう。
おかえんなさい。
ところでわからんのは、乙四郎が上に書いたトラウマ。これ、なん。読者もわかんないだろうがよ。さしさわりありまくりとしても、なんらかの方法でかけない。

浅草ほうずき市は9,10日だけど、サミットが終わってる10日の方がより安全だなとおもっています。
人ごみに出かけるのもこういうことをチラッと考えるようになりました。
洞爺湖以上に東京の警備に力を入れているらしいですよ。

トラウマ
「いしをなげる」(私の名前に磔)
エピソード:露語 - 山口大学編(2)

にちらと書きました。公権力のストーカーは怖いよ~

はあ。そこへとつながるんですね。
わたしたちの年でそっちへいくひとはすくなかった。身ほとりにはだれもいなかった。二つ以上年上になると、そういうひとは多かったと思うのです。だからめずらしい気がしますが、逆に、昭和初期の○狩りみたいなたいけんができてよかったね、ともおもう。(なんにしろひとができない体験だからです)

わたし達が高校入学した年までは、校門前に看板が立ってたの、おぼえてる?いわゆる「立て看」ってやつ。
二級上の先輩たちにはまだまだ学生運動につきうごかされている先輩も多く、その影響を色濃く受けて、1級上の先輩にも熱心な方がいましたよ。
「思想犯」として警察に眼をつけられている先輩もいたと記憶しています。

名実ともに、のんぽりになったのは、たぶん、わたしたちの学年からでしょう。

時代の哀しみを背負っている、というあべしげさんのことばは、いいえて妙です。
村上龍などはもろに学生運動末期にでてきたひとって印象がありますが、たった一つか二つしかちがわないのですよね。太いボーダーラインがあって、わたしたちの世代は「うっさめっとった」。たのしげにみえたお祭りはもうすべて終わってて、なんにもなかった。
だから、乙四郎にそれがあったというのは、ふしぎな気がします。

山口大学医学部の自治会長ポストに某宗教系セクトの人が座ることとなり(当時、全国的話題となりました)、その自治会長方針への抗議の立て看を乙四郎一派が立てました。しかし、学校管理上の理由で、数日でこの立て看は「自主的に」撤去しました。これが、山口大学史上最後の立て看の顛末。
筑波大学開学以降、大学の学校管理ルールが急に厳しくなり、それが、昭和28年生まれ以前と以後との歴然たる違いの元兇です。立て看は退学覚悟じゃないと立てられない。乙四郎も大学当局に呼び出され、「自主的」撤去に応じない場合は退学を仄めかされた次第。
山口大学は、当時、国立大学二期校。一期校はどこを受験したかというと、その筑波大学。ちょっと興味があった。受験会場は筑波大学の前身の東京教育大学。筑波大学開学反対派と機動隊との衝突で受験会場入り口はもみくちゃ。警察に守られながら、やっとこさ入場しました。乙を警察が守ってくれた時代もあったとさ。

へえ。時がすぎれば、武勇伝になるのね。
先月連句の同志だった貞永まこと(故人)の奥様と話していたら、学生運動のはなしがでまして、なになに派とか○○セクトとかでてくるんですが、こちらはまったく知らなくてさみしかった。生き生きと話されるから、お二人の一番いい時代だったんだなってかんじました。
そうか。昭和28年生まれがひとつの山なわけね。法律で取り締まったからすっきりかたづいたんだね。

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